2010 年 6 月 のアーカイブ

テーマ展紹介-7

6月 30日 水曜日

西四国の旧石器文化

  当地域の旧石器時代の遺跡は、木村2001によると約20箇所で確認されています。ここでは、展示の中心である愛南町和口遺跡について、紹介します。

和口遺跡採集資料の展示状況

和口遺跡 (南宇和郡愛南町御荘和口)

■発見の経緯

1987年に考古学研究者によって発見された遺跡です。木村氏は10数年間、休日を利用して表面採集を行なわれました。採集された石器は約1000点を数えます。著書(1995年)で約150点、著書(2003年)で約450点、追悼論集(2009年)で約300点が報告されています。

■立地

豊後水道に面した御荘湾の背後に形成された低丘陵上に位置し、標高は80m~90mを測ります。

 和口遺跡位置図(『考古学の源流』2009年より)

採集された場所は南に舌状に延びる丘陵部の5地点で確認され、以下の点が指摘されています。 

1)第1・3地点では製品が認められない。

2)第2地点のA区に小型ナイフ形石器が多い。

3)第2地点のB区に横長剥片素材のナイフ形石器が多い。

4)第4地点で最も多く遺物が採集されている。

5)角錐状石器は第4・5地点で採集される。

 

 和口遺跡における遺物採集地点(木村2003より)

■特徴

 本遺跡では、近畿地方から備讃瀬戸地域にかけて発達した2万年前の石器製作技術である、「瀬戸内技法」と呼ばれる技術が存在したことがわかっています。これは採集された石器の分析から判断されたことであり、四国における旧石器時代研究史の上では非常に重要な指摘となりました。「瀬戸内技法」関連遺物には、国府型ナイフ形石器、翼状剥片、翼状剥片石核があります。石材は地元で産出する頁岩ですが、形態は備讃瀬戸地域のものに酷似しており、備讃瀬戸地域からの直接的伝播が考えられ、後期旧石器時代における集団の移動・植民が示唆されます。

国府型ナイフ形石器文化ルート推定図(木村2003より)

参考文献

木村剛朗 2001「南四国における旧石器・縄文期の文化様相」『くろしお』No.11

高知大学黒潮圏研究所

木村剛朗 1995『四国西南沿海部の先史文化 旧石器・縄文時代』幡多埋文研

木村剛朗 2003『南四国の後期旧石器文化研究』幡多埋文研

木村剛朗さん追悼論集刊行会 2009『考古学の源流』

  この他にも、宇和島市池ノ岡遺跡、鬼北町興野々遺跡、愛南町広見遺跡採集資料について紹介しています。

テーマ展紹介-6

6月 27日 日曜日

木村コレクションとその学問 (多田仁氏)

 今回は、寄贈資料の整理でご協力いただきました多田仁氏(愛媛県埋蔵文化財センター)に展示パネル掲載のために、寄稿いただきました原稿を掲載させていただき、木村氏収集資料の整理に積極的に関わられた経緯とその思いをご紹介させていただきます。

木村コレクションとその学問 (多田仁氏)  

 木村さんと私は1993年頃からのお付き合いで、当時の私は四国に住み始めたばかりで何も解らず、まずは木村さんに多くの情報を得ることがスタートであった。そして、木村さんが亡くなる直前まで数々の教えをいただき、共に考古学的研究に勤しんだことは、生涯忘れることのない想い出として私の心の中に生き続けることになろう。   

 こうした木村さんとのお付き合いもあって、生前に頂いたお言葉を実行するべく、彼が収集していた考古資料をそれぞれの地元に里帰りさせる作業を開始したのである。その作業は2007年冬から2008年の初夏にかけて行っているが、まずは遺物の圧倒的な多さには驚かされた。これこそ木村さんの考古学人生を感じ取ることのできる遺品であり、氏の学問姿勢の表れでもある。遺物の収納にはダンボール箱や菓子類の空き箱などが使用されていたが、採集された遺跡名や採集日時などが記されたものもあった。これをみても単に古物趣味的に土器や石器を収集していたのではなく、考古学的研究の資料として丁寧に遺物を取り扱っていた木村さんの学問スタイルを垣間見ることができるだろう。

 遺物の整理期間中、まずは遺跡ごとの仕分けを行い、その内容を把握することに努めた。その結果、高知県の遺跡は約100遺跡約15,100点、収納ケース48箱、愛媛県の遺跡では約20遺跡約4,100点、収納ケース16箱という数に達した。さらには高知・愛媛県以外の資料もあるほか、木村さんが生前に製作した石斧等の実験製作品も含まれており、整理作業をしながらも、木村さんとともに貴重な石器を探した時のことや、一つの石器について夜遅くまで話したことなど、たくさんの想い出が甦ってきた。土器の一片、一かけらの石器には木村さんからいただいた数々の教えが詰まっているのである。

  しかし、ここまで整理作業を行ったとはいえ、私自身、これらすべての詳細を把握しているわけではない。さらなる評価については、近い将来、若き研究者達によって少しずつ解明されていくことであろう。その時を木村さんも待ち望んでいるに違いない。

  なお、木村資料の整理作業について、愛媛県歴史文化博物館のご理解とご協力が大きな支えとなったことは改めて述べるまでもないだろう。博物館が一体となって木村氏の業績を後世まで伝えることを目標とし、市民参加で実施された一連の整理作業は、まさに木村さんが望んだ文化財行政の姿である。博物館のご尽力があったことは勿論であるが、木村さんの熱き思いが、残された人々を動かしたのである。我々は木村さんの考古学的人生を学び、受け継ぎ、その成果を後世へ残していく努力を怠ってはならない。未来の考古学者たちのため、掘り起こした郷土の歴史を消してしまわないため、私たちは木村さんの遺志と学問を語り継ぐことになるだろう。

和口遺跡現地学習会での様子(2009年12月)

テーマ展紹介-5

6月 26日 土曜日

木村資料整理プロジェクト

 今回の寄贈資料の整理あたっては、資料の寄贈前の段階で分類作業・台帳作成作業を多田仁氏(愛媛県埋蔵文化財センター)にお願いしました。多田氏には、資料整理期間としては短い約3ヶ月の間、休日を利用して、博物館に通っていただき、整理いただきました。

 当館受贈後は、2009年度より、整理作業を開始しましたが、約4,000点もの資料があり、学芸員だけでは、手に負えないと考え、多くの方のご協力を得た整理方法の検討を行ないました。そして、友の会土器ドキクラブ会員の方・歴博ボランティアの方・博物館実習生の方・宇和高校就業体験(インターンシップ)生徒の方の多くの方に協力いただく、「木村資料整理プロジェクト」を立ち上げました。

 ここでは、資料整理にご協力いただいた方の感想を紹介し、普段触ることのない石器や土器の整理にあたられたみなさんの声を感じていただければと思います。

 ■ボランティア Iさんの感想

 「毎月1回あるボランティア活動の資料整理に参加して、はやくも3年になります。この活動は、他の博物館等が発行する刊行物の整理を中心に、館内展示物の小物作り、鎧や駕籠の清掃、古文書の整理等で最近では、木村剛朗氏採集石器の資料整理を行いました。

いずれも手間と時間の掛かる根気のいる作業でしたが、歴史好きの私には、その時代の物に触れたり、関係することに携われることが、嬉しく、その都度楽しい時間を過ごすことができました。

石器の資料整理においては、私の歴史知識に旧石器・縄文時代が加わることになり、楽しみが増してきました。

私の歴史好きは、中世・近世の現存する建造物等に興味を持ち、それらを通じて、その時代を想像し、その中にある先人の知恵を知ることに感激があり、大変嬉しい気持ちになれることです。

これからも仲間と一緒に楽しい作業を続けていきたいと思います。」

 ■ボランティアHさんの感想

「普段には使用しない難しい言葉、「読んで字の如し」と言うけれど、なかなかどうして・・・・・解せない。

先人達が旧石器時代に石を加工された現地に行き、「石器拾い」に参加。先人達はどんな気持ちで製作されたのだろう。私は何も考えずこの地に立った。

道具も無い、型もないところから、刃物を造り、試行錯誤し、たくさんの破片等を残した。先人達が後世にそれを収集され、何万年前の世界や社会を理解しようと研究している子孫達。

ただの「石ころ」からいろんな世界が広がり、ボーッと生きて来た自分のこの「石器拾い」に少しだけ「土器・ドキ」の心が湧いて来た。

超過去-と現代との空間をいろいろ夢みて、ものを考えるという心の豊かさを養い私の携わった「石ころ」を今は少しだけ見直している。

旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・etc 戦国時代を経て江戸・明治・大正・昭和・平成に至り今日の21世紀が続く。

この内の一点の何かを勉強させて貰ってありがたく思う。

本当にありがとうございました。

未来思考の時代にこの様な過去の研究をされている方達を尊敬しています。

今、ゲームなどに、歴史的人物の出現するものが流行しているようですが、若者や、子供たちにも私が「土器・ドキ」した様に、考古学に興味を持たせる事は出来ないのでしょうか。」

  しかし、この整理プロジェクトは、本展の開催で終了するものではなく、今後も多くの未整理資料の整理を進めて行く予定です。資料整理に関心のある方は、歴博ボランティアに参加してみませんか?

ボランティアの方による資料整理(2009年)

テーマ展紹介-4

6月 25日 金曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(3)実験考古学」

  木村氏の考古学研究の成果の一つとして「実験考古学」の先駆的業績があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「私は縄文人-石器を作って試す」として、次のように記されています。

  「子供のころより、あちこちの遺跡を訪れ、随分と土器や石器を拾い集めた。(中略)採集した石器は、丁寧に水洗し、全体を入念に観察するのである。(中略)打ち欠きによって作られた打製石斧は、荒々しい大きな剥離痕を全面にとどめ力強く迫力を持っている。土掘り具として作られたこの打製石斧は、さすがに土を掘りやすくするために刃部は幅広く薄身に加工されていた。と石で研いで作られた磨製石斧は、樹木の伐採や木工具として使用されたもので、特に刃先は鋭利に作られている。槌として用いられたたたき石には、ちゃんと使った跡がアバタ状となって残され、長い間使い込まれたものは石の面が擦り減って変形していた。

 拾い集めた遺物を観察しているうち、縄文人がどのように使っていたのか、そして本当にこれで役立っただろうかと疑問がわいてきた。よし、自分で石器を作って使ってみたら分かるだろうと、それを実行してみた。(中略)まず打製石斧を作ることから始めた。四万十川から黒色の質の硬い石を拾ってきて石の槌で打ち割り形を整えた。これは意外と簡単にできたし、完成品は実物とほとんど見分けがつかないほどの出来栄えだった。早速、木の柄に付けて土を掘ってみた。土はおもしろいほど、幾らでも掘れた。(中略)

 次は、磨製石斧で木を切ってみた。実験用として作った石斧の石質は、蛇紋岩と頁岩である。森に入って立木を探し、大人の太ももくらいのカシの木を見つけ、その木に力を込めて斧を振り下ろした。(中略)粘りのある蛇紋岩の石斧は、いくら力を入れて振り下ろしても折れることはなかった。(中略)

実験考古学を試みたことで、私は石器を見る目が一段と変わった。石器に残された加工痕や、全体の形、滑らかに擦り減った使用痕など見詰めていると、縄文人の気持ちと心が何となく分かるようになってきた。私は、もう平成の縄文人になったようだ。」

 木村氏が実験用に製作した石斧(打製石斧・磨製石斧)2点が現存しています。実験考古学に関する論文は、1970年から72年にかけて、5本の論文を執筆されています。

 木村氏が復元した打製石斧と磨製石斧(手前)(高知県立歴史民俗資料館蔵)

テーマ展紹介-3

6月 24日 木曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(2)姫島産黒曜石の交易研究」

  木村氏の最初の研究対象に、大分県姫島産黒曜石の交易に関する研究があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「海上の道(上)―黒曜石の故郷探る」「同(下)―松の舟で渡航実証」の2項目で姫島への探訪について記されています。

  「大分県国東半島の突端、周防灘に浮かぶ7k㎡の小さな島、東国東郡姫島に産出する黒曜石が交易によって幡多へ大量に運び込まれた。その時期は縄文早期(約8,000年前)から晩期(約2,500年前)にかけてであり、約5,500年間続いた。そして、幡多の縄文人は、手に入れた黒曜石で狩猟用の石鏃をたくさん作った。

 作業場には石くずがいっぱい散乱し、石鉄の作り損ないや未完成品、時には完成品をも置き去りにした。石くずや石鏃が集中する個所を遺跡でよく見るが、そこはこのような場所だった。作業場からは、時たま大きな原石が出土することがある。愛媛県南宇和郡の御荘湾奥部の海辺に、舌状に突き出た海岸段丘上の先端部にある深泥遺跡からは大人の頭ほどの巨大な原石が発見されている。今のところ、これが四国で最大である。(中略)

  当時運ばれてきた黒曜石が、すべてこのような大きなものであったわけではなく、そのほとんどが握りこぶし大であったと思われる。(中略)それを求めて姫島に探検を試みた。(中略)昭和43年12月31日に中村を後にした。宇和島から別府行きの船に乗り、その船上で山口君に言った。「この広い海を縄文人は黒曜石を積み丸木舟で渡ってきたがぜ。縄文人は偉かったねえ」。私は海を眺めながら、荒い波間に4、5人の縄文人が手こぎする丸木舟が見え隠れする光景を思い浮かべた。(中略)

 鉛色にうねる荒波のなかを、期待と不安を抱く私たちを乗せた船は姫島へと向かった。黒曜石を運び出した場所はどんなだったか、球状になった黒曜石は見つかるだろうか、とかいろいろ思いをはせて乗り込んだものの、姫島に着くまでは寿命が縮む思いをしたのであった。(中略)翌正月2日は、前日とうって変わり快晴であった。早速地元の役場に出向き、黒曜石のある所へ案内していただいた。(中略)黒曜石は波打ち際に地上40m、延長120mのそびえ立った巨大な岩盤となり、むき出しとなっていた。(中略)浜辺には、波にもまれて丸くなった石がゴロゴロしていた。それを手に取って見ると、表面にキラッと光る部分が目に留まり、打ち割ってみた。なんと、これがガラス状に輝く黒曜石であった。探し求めていた球状の黒曜石は確かに姫島にあった。

 九州地方の縄文人は、この浜辺に転がる黒曜石をかき集めて、幡多地方へとせっせと運んでいたのであろう。それにしても、球状の黒曜石は浜に無尽蔵にあって驚いた。(後略)」

  木村氏は、1969年から70年にかけて、姫島産黒曜石に関する論文を5本執筆されています。

愛南町深泥遺跡採集黒曜石石核(個人寄贈・当館蔵)

テーマ展紹介-2

6月 20日 日曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(1)遺跡踏査」

  木村氏の考古学研究の大きな成果の一つとして、西南四国地域を隈なく歩き(踏査)、多くの遺物を表面採集し、新たな遺跡を発見したことがあげられます。著書『幡多のあけぼの』(1992年)「遺跡探しのコツ 地図でまず下調べ」には次のように記されています。

  「縄文の遺跡を見付けるのは、一般に難しいと思われがちであるが、ポイントさえつかめば簡単である。ただ、それにはある程度の訓練と勘が必要である。まず遺跡のありそうな所を地図の中から探すことから始める。(中略)その中から河川流域と海岸に発達する舌状または扇状に開けた段丘地をマークすればよい。できるだけ南向きで日当たりのよい地形を選び、中でも大規模な段丘地であれば遺跡発見の確率がより高い。(中略)もちろん、これらのことは縄文人が生活するうえで求めたところである。(中略)遺跡探しも、地図上で想像していたことが現地に行ってみれば大きく異なることも時々あり、地図に表現されてない所で、現地で素晴らしい地形をしている所も見られる。こういう所は、大体に小規模の段丘となっている(後略)。」

  木村氏が踏査で確認した遺跡数を正確に数えることはできませんが、著書に紹介された遺跡数では、『高知県梼原の縄文遺跡と遺物』(1978年)4ヶ所、『姫島産黒曜石の交易』(1978年)15ヶ所、『四国西南旧石器・縄文期の新発見遺跡と遺物』(1979年)6ヶ所、『四万十川流域の縄文文化研究』(1987年)49ヶ所、『四国西南沿海部の先史文化』(1995年)63ヶ所、『南四国の後期旧石器文化研究』(2003年)38ヶ所を数えます。

遺跡踏査の様子(四万十市平野にて 多田仁氏撮影)

テーマ展紹介-1

6月 19日 土曜日

木村剛朗氏と考古学「考古学との出会い」

  著書『幡多のあけぼの』(1992年)「上岡正五郎先生 目を開かせた恩人」では、考古学との出会いについて、次のように記されています。

  「私の考古学の恩師の一人は上岡正五郎先生である。(中略)小学六年の時、上岡先生に中村小の講堂で「宿毛貝塚と原始の暮らし」の話を聞かせていただくことがなかったなら今日の私の考古学はないし、この道での喜びも味わえなかっただろう。(中略)ある日、先生が「これを見てみよ」と標本箱の一つを重そうに抱えて私の目の前に置いた。ふたを開けてびっくり、中には完全な形の石斧がいっぱい入っていた。一瞬、頭がカッと熱くなったことを覚えている。どれも、表面には打ち欠いた加工痕が荒々しく残り、迫力満点であった。私は「先生、これはどこから出たのですか」と尋ねた。先生は「四万十川鉄橋から少し上流の所にある入田遺跡から出土したものじゃ」と教えてくれた。(中略)これを見ていて、自分でも拾ってみようと気持ちが募った。入田遺跡通いを始めたのは、その時からである。(後略)」 

  小学校時代に上岡正五郎氏に考古学の魅力を教わったことが考古学との出会いだったようです。そして、入田遺跡(現四万十市)の調査時の写真が残されています。

(高知県立歴史民俗資料館蔵)

テーマ展開催中!!

6月 18日 金曜日

 

    4月24日(土)より考古展示室にて「木村剛朗氏と西四国の先史文化」を開催しております。この展示は、平成19年度に木村紀子様から寄贈を受けました故木村剛朗(たけお)氏〔1938年~2007年〕(日本考古学協会会員/中村市文化財保護審議委員など歴任)収集考古資料を中心に公開するものです。

   これらの資料は、木村氏が長年にわたる考古学研究の過程で、遺跡を地道に踏査し収集された県内南部の旧石器・縄文時代の貴重な考古資料です。

   本展では、これらの資料に加え、木村氏使用のカメラや原稿など(高知県立歴史民俗資料館に寄贈)を展示・公開しています。博物館施設でこれらの資料を一同に公開するのは初めてです。

   本展を通して、西四国(愛媛・高知両県)の先史文化の解明に尽力した氏の功績を顕彰するとともに、当地域の先史文化の理解の一助となれば幸いです。

展示構成は次の通りです。

①プロローグ:木村剛朗氏と考古学

②資料の整理 :木村資料整理プロジェクト

③西四国の旧石器文化

④西四国の縄文文化

⑤エピローグ:木村氏の足跡をたどる 発掘された遺跡

   この展示の目玉資料は、愛南町和口遺跡にて木村氏が採集された後期旧石器時代のナイフ形石器・翼状剥片・石核など数百点を一同に展示していることです。これらの資料は木村氏が休日を利用して10数年間遺跡に通われて採集された資料です。

愛南町和口遺跡採集翼状剥片(後期旧石器時代/約2万年前)

  展示は9月5日(日)までです。この機会に是非ご覧ください。展示資料については、数回に亘り紹介したいと考えています。

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 3終

6月 11日 金曜日

 (3)歯長峠から明石寺を経て歴史文化博物館へ

 歯長峠の頂にある「送迎庵見送大師」を発ち、ここからは峠の下り道です。仏木寺周辺からはるか遠くに見えていた四国電力送電鉄塔が今は眼前にあります。空にそびえています。付近には倒れた2基の遍路道標がありました。ひたすら山道を下ります。途中、車が入れるほどの林道と交わります。歩き遍路道をさらに下っていくと、雨水による路面浸食による流失で、とても足場の悪い山道が続きます。山中の立ち枯れた松の巨木のもとに寛政7(1795)年に皆田村(現西予市宇和町)の有志が建てた立派な遍路道標がありました。

倒れた遍路道標

江戸時代(寛政7年)の遍路道標

 ずっと急坂を下っていきます。やがて工事中の四国横断自動車道のトンネルが間近に見えてきました。麓まで下りたようです。石橋で小川を渡ると県道に合流し、バス停がある歯長峠口に到着。そこには地蔵堂がありました。堂内には弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などの石仏が祀られており、隣には文化・文政年間の遍路墓がありました。

 休憩所で少し休んだ後、宇和川を渡り、43番明石寺に向かいます。ここからは基本的に舗装道を歩くことになります。これまで、軟らかい土の道を歩くことに慣れてきた両足が、疲れもあってか、時おり足裏が少し痛みを感じてきました。小雨も降って来ました。下川(ひとうがわ)の集落は、歯長峠から下って来たお遍路さんが休息をとる場所とされ、お接待が行われ、遍路宿もあって往時は賑やかだったそうです。そのなごりを示すように、「道引大師」と呼ばれるお堂があります。小さな堂内には中央に道引大師像、左に弘法大師像、右に不動明王像が祀られています。驚いたのは、一人用の布団が常備され、ここで寝泊まりができるようになっていました。これは現代のお接待(善根宿)といえます。堂前には、中務茂兵衛が明治39年に209度目供養として建てた道標がありました。

歯長峠口の地蔵堂と遍路墓

中務茂兵衛の遍路道標と道引大師

 県道宇和野村線を歩き、旧道に入り、皆田小学校の前を進みます。新しく祀られた道中安全見守大師を過ぎ、歴史文化博物館が近くに見えてきます。歩き遍路さん用の矢印に従って進むと、明石寺奥之院に着きます。結界がはられた敷地には祠が安置されていました。付近に明治期の小さな道標があります。明石寺の参道の鳥居付近には、中務茂兵衛が大正3年に256度目供養として建てた道標がありました。この道標の上には、小石が積み上げられていました。歯長峠道で確認した石積みとの関係が気になりました。やがて明石寺へ到着。境内には、次の札所の菅生山(44番大宝寺)まで21里(約84㎞)と記された道標がありました。最後は、宇和文化の里へ通じる遍路道を歩きます。途中、宇和新四国の道に入り、遊歩道を通って愛媛県歴史文化博物館へ無事帰館することができました。

 今回のコースの経過時間は以下のとおり。龍光寺発10時半、仏木寺着11時45分着、歯長峠の送迎庵見送大師着13時50分、歯長峠口着14時40分、道引大師着15時、明石寺着16時15分、歴史文化博物館帰着17時。距離にして約13.6㎞。徒歩所要時間6時間半、万歩計で23,210歩でした(思ったより歩数が少なかった…)。

 遍路道を歩き終えての感想は、モータリゼーションが普及する以前の四国遍路の一端に触れたような心地がしました。自ら歩く視線で遍路道をたどると、そこには江戸時代から現在に至るまで、時代とともに変容されながらも四国遍路の盛行を支えた一要因である、札所と札所を結ぶ遍路道の役割の大きさを認識しました。道中で出合った数多くの遍路道標、それを発願、浄財、寄進、施工した人々のたくさんの名前。弘法大師信仰の地域拠点とされる大師堂、行き倒れて亡くなったお遍路さんを葬った遍路墓などを、目の当たりにすると、お遍路を支えてきた沿道の地域の村々や人々のこころ、接待という善根を積む行為などを通して四国遍路が育まれてきたことを感じました。余談ですが、現代のアスファルト道と違って、自然の中で土の道を歩くことの心地よさを知ったことは大きな収穫でした。

 最後に、今回の遍路道の踏破で一度も迷子にならなかったのは、「へんろみち保存協力会」による遍路道の整備のおかげであり、長時間一緒に同行してくれた同僚のJBOY氏に感謝いたします。

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 2

6月 10日 木曜日

 (2)仏木寺から歯長峠へ

 牛馬の守り本尊として知られる四国八十八ケ所霊場第42番札所の仏木寺。その山門近くには、中務茂兵衛が明治21(1888)年に、100度目の遍路記念に建てた道標があります。この道標は別の場所から移転されたもので手印が削られています。ただし、現在は道標に看板等をくくりつけているため文字が読みづらい。長年、門前で美味しい手作りアイスクリーン作りをされているおじさんに、これまで印象にのこったお遍路についての思い出を聞かせていただきました。実際に「リヤカーで自分の棺桶を運びながら四国遍路をしているお遍路さん」や、「馬に乗って札所を廻っているお遍路さん」もいたそうです。歯長峠道への順路も丁寧に教えていただきました。

 仏木寺を出て、これから越える歯長峠の山なみを見ながら、県道宇和三間線を北進します。へんろみち保存協力会作成による赤い矢印にそって左折、西谷吉田線に入ります。道端には「お遍路道につき徐行ご協力お願いします」と書かれた大きな真新しい看板がありました。近年の歩き遍路ブームを反映しているようにも思いました。しばし道なりに進むと歯長峠の山道入り口に到着。明治36(1903)年に兵庫磯の町(現神戸市)の人が建てた道標がたっています。

仏木寺前から歯長峠を臨む

歯長峠の登り口(三間町側)

 ここからどんどん山道を登っていきます。途中、石畳の山道となります。木立の間からは遠くに宇和海が見えます。やがて県道に合流。ここからはしばし車道を歩くと、右手に標識「四国の道休憩所・歯長峠遍路道 きついのは最初だけ 峠まで20分」があります。階段をのぼると四国の道休憩所があります。ここで昼食をとりました。適度に腹ごしらえして、いよいよ歯長峠を目指して出発。「これより200メートル急登坂」の標識があり、その先はまさしく鎖が張られた急坂の連続。掛け声を入れながら頑張って登りきりました。

 その後は緩やかな尾根道が続きます。付近は岩石が露出し、小石がたくさん散乱しています。道中には、お遍路さん?などの通行人が積み上げたものなのか、謎の石積み塔が数箇所ありました。緑の樹木に覆われたうす暗い山中の道をずっと歩いて行くと、やがて急に視界が開け、広場に出ます。ここが歯長峠の頂です。コンクリート壁のお堂「送迎庵見送大師」がありました。堂内には「文化五(1808年)戊辰 三月廿一日 四国八十八ケ所納経塚 立間村」と刻まれた弘法大師石仏像など石仏群が安置されています。

鎖がはられた歯長峠の急登坂

歯長峠の頂にある送迎庵見送大師

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