2010 年 6 月 11 日 のアーカイブ

へんろ道を歩く~龍光寺から明石寺へ 3終

6月 11日 金曜日

 (3)歯長峠から明石寺を経て歴史文化博物館へ

 歯長峠の頂にある「送迎庵見送大師」を発ち、ここからは峠の下り道です。仏木寺周辺からはるか遠くに見えていた四国電力送電鉄塔が今は眼前にあります。空にそびえています。付近には倒れた2基の遍路道標がありました。ひたすら山道を下ります。途中、車が入れるほどの林道と交わります。歩き遍路道をさらに下っていくと、雨水による路面浸食による流失で、とても足場の悪い山道が続きます。山中の立ち枯れた松の巨木のもとに寛政7(1795)年に皆田村(現西予市宇和町)の有志が建てた立派な遍路道標がありました。

倒れた遍路道標

江戸時代(寛政7年)の遍路道標

 ずっと急坂を下っていきます。やがて工事中の四国横断自動車道のトンネルが間近に見えてきました。麓まで下りたようです。石橋で小川を渡ると県道に合流し、バス停がある歯長峠口に到着。そこには地蔵堂がありました。堂内には弘法大師像、不動明王像、地蔵菩薩像などの石仏が祀られており、隣には文化・文政年間の遍路墓がありました。

 休憩所で少し休んだ後、宇和川を渡り、43番明石寺に向かいます。ここからは基本的に舗装道を歩くことになります。これまで、軟らかい土の道を歩くことに慣れてきた両足が、疲れもあってか、時おり足裏が少し痛みを感じてきました。小雨も降って来ました。下川(ひとうがわ)の集落は、歯長峠から下って来たお遍路さんが休息をとる場所とされ、お接待が行われ、遍路宿もあって往時は賑やかだったそうです。そのなごりを示すように、「道引大師」と呼ばれるお堂があります。小さな堂内には中央に道引大師像、左に弘法大師像、右に不動明王像が祀られています。驚いたのは、一人用の布団が常備され、ここで寝泊まりができるようになっていました。これは現代のお接待(善根宿)といえます。堂前には、中務茂兵衛が明治39年に209度目供養として建てた道標がありました。

歯長峠口の地蔵堂と遍路墓

中務茂兵衛の遍路道標と道引大師

 県道宇和野村線を歩き、旧道に入り、皆田小学校の前を進みます。新しく祀られた道中安全見守大師を過ぎ、歴史文化博物館が近くに見えてきます。歩き遍路さん用の矢印に従って進むと、明石寺奥之院に着きます。結界がはられた敷地には祠が安置されていました。付近に明治期の小さな道標があります。明石寺の参道の鳥居付近には、中務茂兵衛が大正3年に256度目供養として建てた道標がありました。この道標の上には、小石が積み上げられていました。歯長峠道で確認した石積みとの関係が気になりました。やがて明石寺へ到着。境内には、次の札所の菅生山(44番大宝寺)まで21里(約84㎞)と記された道標がありました。最後は、宇和文化の里へ通じる遍路道を歩きます。途中、宇和新四国の道に入り、遊歩道を通って愛媛県歴史文化博物館へ無事帰館することができました。

 今回のコースの経過時間は以下のとおり。龍光寺発10時半、仏木寺着11時45分着、歯長峠の送迎庵見送大師着13時50分、歯長峠口着14時40分、道引大師着15時、明石寺着16時15分、歴史文化博物館帰着17時。距離にして約13.6㎞。徒歩所要時間6時間半、万歩計で23,210歩でした(思ったより歩数が少なかった…)。

 遍路道を歩き終えての感想は、モータリゼーションが普及する以前の四国遍路の一端に触れたような心地がしました。自ら歩く視線で遍路道をたどると、そこには江戸時代から現在に至るまで、時代とともに変容されながらも四国遍路の盛行を支えた一要因である、札所と札所を結ぶ遍路道の役割の大きさを認識しました。道中で出合った数多くの遍路道標、それを発願、浄財、寄進、施工した人々のたくさんの名前。弘法大師信仰の地域拠点とされる大師堂、行き倒れて亡くなったお遍路さんを葬った遍路墓などを、目の当たりにすると、お遍路を支えてきた沿道の地域の村々や人々のこころ、接待という善根を積む行為などを通して四国遍路が育まれてきたことを感じました。余談ですが、現代のアスファルト道と違って、自然の中で土の道を歩くことの心地よさを知ったことは大きな収穫でした。

 最後に、今回の遍路道の踏破で一度も迷子にならなかったのは、「へんろみち保存協力会」による遍路道の整備のおかげであり、長時間一緒に同行してくれた同僚のJBOY氏に感謝いたします。