2010 年 6 月 24 日 のアーカイブ

テーマ展紹介-3

6月 24日 木曜日

木村剛朗氏と考古学「木村氏の考古学研究(2)姫島産黒曜石の交易研究」

  木村氏の最初の研究対象に、大分県姫島産黒曜石の交易に関する研究があります。著書『幡多のあけぼの』(1992年)では「海上の道(上)―黒曜石の故郷探る」「同(下)―松の舟で渡航実証」の2項目で姫島への探訪について記されています。

  「大分県国東半島の突端、周防灘に浮かぶ7k㎡の小さな島、東国東郡姫島に産出する黒曜石が交易によって幡多へ大量に運び込まれた。その時期は縄文早期(約8,000年前)から晩期(約2,500年前)にかけてであり、約5,500年間続いた。そして、幡多の縄文人は、手に入れた黒曜石で狩猟用の石鏃をたくさん作った。

 作業場には石くずがいっぱい散乱し、石鉄の作り損ないや未完成品、時には完成品をも置き去りにした。石くずや石鏃が集中する個所を遺跡でよく見るが、そこはこのような場所だった。作業場からは、時たま大きな原石が出土することがある。愛媛県南宇和郡の御荘湾奥部の海辺に、舌状に突き出た海岸段丘上の先端部にある深泥遺跡からは大人の頭ほどの巨大な原石が発見されている。今のところ、これが四国で最大である。(中略)

  当時運ばれてきた黒曜石が、すべてこのような大きなものであったわけではなく、そのほとんどが握りこぶし大であったと思われる。(中略)それを求めて姫島に探検を試みた。(中略)昭和43年12月31日に中村を後にした。宇和島から別府行きの船に乗り、その船上で山口君に言った。「この広い海を縄文人は黒曜石を積み丸木舟で渡ってきたがぜ。縄文人は偉かったねえ」。私は海を眺めながら、荒い波間に4、5人の縄文人が手こぎする丸木舟が見え隠れする光景を思い浮かべた。(中略)

 鉛色にうねる荒波のなかを、期待と不安を抱く私たちを乗せた船は姫島へと向かった。黒曜石を運び出した場所はどんなだったか、球状になった黒曜石は見つかるだろうか、とかいろいろ思いをはせて乗り込んだものの、姫島に着くまでは寿命が縮む思いをしたのであった。(中略)翌正月2日は、前日とうって変わり快晴であった。早速地元の役場に出向き、黒曜石のある所へ案内していただいた。(中略)黒曜石は波打ち際に地上40m、延長120mのそびえ立った巨大な岩盤となり、むき出しとなっていた。(中略)浜辺には、波にもまれて丸くなった石がゴロゴロしていた。それを手に取って見ると、表面にキラッと光る部分が目に留まり、打ち割ってみた。なんと、これがガラス状に輝く黒曜石であった。探し求めていた球状の黒曜石は確かに姫島にあった。

 九州地方の縄文人は、この浜辺に転がる黒曜石をかき集めて、幡多地方へとせっせと運んでいたのであろう。それにしても、球状の黒曜石は浜に無尽蔵にあって驚いた。(後略)」

  木村氏は、1969年から70年にかけて、姫島産黒曜石に関する論文を5本執筆されています。

愛南町深泥遺跡採集黒曜石石核(個人寄贈・当館蔵)