2010 年 10 月 のアーカイブ

大洲城を歩く-城下町探訪-

10月 28日 木曜日

 10月24日、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」の関連講座として、大洲市教育委員会の白石尚寛先生を講師に、「大洲城を歩く-城下町探訪-」が実施されました。当日はあいにくの雨でしたが、30人以上の方にご参加いただきました。

 大洲城の二の丸の敷地内である市民会館を出発して、内堀に沿って歩いていきます。現在、内堀は埋め立てられていますが、しばらく歩くと1カ所だけ内堀の地形をそのままとどめている場所が内堀菖蒲園として整備されています。

 公園から西に少し歩くと、外堀があった場所に行き当たります。三之丸の北西に当たるこの場所にはかつて二重櫓の北西隅櫓があり、現在でも石垣がしっかりと残っています。
 三之丸のエリアから外れ、次に外堀沿いに南下していきます。外堀の場所も現在は埋め立てられ、完全に宅地化しています。 三之丸は上層の藩士が住む武家屋敷であるのに対して、その外側のエリアは、それより低い階層の藩士が住む武家屋敷が続いていました。明治に入り武家屋敷にも地租が設定されると、屋敷として維持することが困難になり、桑畑へと変化していきます。

 実際に昭和10年代の地図を見ても、左側に鉄砲通りと記されたこのエリアには畑の記号が入っており、桑畑になっていたことが推測できます。

  このエリアを抜けて、再び三の丸エリアに入り、大洲高校方面に向けてさらに南下します。そして、お殿様公園として整備された国登録有形文化財の旧加藤家住宅を見学しました。旧加藤家住宅は、旧大洲藩主の加藤家が大正14年に建築した木造2階建ての和風建築。2階の3面が当時「ガラス障子」と呼ばれたガラス窓て、旧大名家の住宅にふさわしい開放的なつくりになっています。昭和52年公開の映画『男はつらいよ-寅次郎と殿様-』にも、殿様の屋敷として登場したそうです。
 今回は歴史学習の講座ということで、普段立ち入ることができない住宅内部も見学を許可していただきました。やはり見どころは2階の3方向にまわるガラス障子。よく見ると、作られた当時のものと思われるガラスも所々に残っていて、外を覗くと風景が少しゆがんで見えます。

 北側のガラス障子からは、大洲城の天守を正面に見ることができます。眺望という点でまさに贅沢な住宅といえます。

 南側の窓からはすぐ近くに三の丸の南隅櫓が見えます。南隅櫓は享保7(1722)年に焼失しているので、現存するのは明和3(1766)年に再建されたもの。厳しい藩財政の問題から再建するまでに40年以上かかり、さらに木材についても重要な部分だけに杉を使い、それ以外は栂(つが)にするなど、経費をおさえる工夫がされているそうです。

 お殿様公園を出て、しばらく歩き外堀を挟んで三の丸の南隅櫓が見える場所まで移動。このポイントは明治末~大正時代と思われる絵葉書になっているので、絵葉書と現在の景色を対比してみました。

 南隅櫓付近は松並木があったそうですが、絵葉書には確かに数本松の姿が見えます。外堀は埋め立てられて大洲高校のグラウンドとなっていますが、現在でも堀の形がしっかり残っていることが分かります。

 この後さらに町人が住んでいた城下町部分も巡見するつもりでしたが、残念ながら降り続く雨のため、ここで中止せざるを得ませんでした。なお、大洲城の見どころを詳しく解説いただいた白石先生には、特別展図録に「大洲城下町における町割の変遷について-中町一丁目を中心に-」を執筆いただいています。大洲の城下町についてはぜひ論考を御覧ください。

村上節太郎写真31 念斎堀

10月 21日 木曜日

 10月17日(日)に実施された特別展関連講座「松山城を歩く-砂土手探訪-」の際に、村上節太郎が撮影した念斎堀の写真について、柚山俊夫先生から撮影地点の紹介がありました。これらは現在、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」で写真パネルになって展示されていますが、このブログでは、村上の写真に講座の際に撮影した現況写真を添えながら、念斎堀について概説します。

 加藤嘉明は、堀や土塁により松山城の外郭に防御ラインを築く惣構の工事を進めたが、元和元(1615)年におきた大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡したことで中断したと伝えられる。東雲神社東側の堀はその一部で、町人の府中屋念斎が工事に当たったことから念斎堀、掘った土を積み上げてできた土塁は砂土手と呼ばれている。
 村上は早い段階で念斎堀と砂土手に興味をもち、4枚の写真を撮影している。そのうちの2枚については、当館発行の図録『村上節太郎がとらえた昭和愛媛』(2004年)で紹介したが、写真に年代の注記がなかったため、図録には推定年代として昭和20年代の撮影と記した。しかし、その後写真の整理が進み、新しく発見された念斎堀の写真に戦災前と注記されていることから、4枚の写真は一連のもので、いずれも戦災前、すなわち昭和10年代に撮影されたものであることが分かった。戦後しばらくして、村上は『伊予史談』に、古地図から松山城下町の変容を読み解く論文を書き、念斎堀と砂土手について解説を加えている。

 1枚目の写真は堀の形状が食い違いになっていること、右端の家屋の後景にわずかに城山が見えていることから、現在の東雲公園に当たる堀を北東側から撮影したものと考えられる。

 2枚目の写真は1枚目とほぼ同じ撮影地点から、奥の木立に囲まれた六角堂(常楽寺)の建物を写している。つまり、現在の東雲公園に当たる堀を北側から撮影していることになる。六角堂が堀に比べるとかなり高い位置に感じられるが、そのことは六角堂が砂土手上にあることを物語っている。

 参考に、六角堂から東雲公園を見下ろした写真も掲載するが、その高低差がはっきりと分かる。

 3枚目は東雲公園から勝山通りを越えて、北持田付近の堀を北側から撮影している。 堀は正面で突き当たり、左に折れ曲がっているように見えるが、堀・砂土手ともに南方向へ曲がっている地点を撮影したものと思われる。写真奥の住宅部分に当たると思われるポイントを現況写真として撮影してみたが、村上の写真はもっと手前の引いた位置から写しているようである。

 4枚目も堀の形状と城山との距離から、3枚目と同じく北持田町にあった堀を撮影したものと考えられる。写真左側に、3枚目の正面に写っていた住宅が見える。折れ曲がりを見せている堀と土塁はこの地点から南下を始め、松山東高校の西側を通り、松山商業高校東側付近まで続く。周囲は既に宅地化が進み、現況写真を写すことはできなかった。

 松山城の天守はこれまでにも多くの写真が遺されているが、念斎堀のような失われゆく松山城の痕跡を自覚して記録していることに、いつもながら地理学者としての村上の鋭いまなざしが感じられる。戦災は松山の街を焼き、都市化がさらにその変貌に拍車をかけた。念斎堀も昭和30年に埋め立てられ東雲公園になるなど、戦後間もなくして姿を消していった。念斎堀を松山城の重要な遺構と気づき、村上が戦前という早い段階で撮影してくれたおかげで、その姿は辛うじて記録として遺った。

松山城を歩く-砂土手探訪-

10月 20日 水曜日

 10月17日(日)は、特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」の関連講座として、愛媛県生涯学習センターの柚山俊夫先生を講師に、「松山城を歩く-砂土手探訪-」が実施されました。

  まず最初に、県立図書館の視聴覚室をお借りして、松山城の東にあり、これまであまり注目されてこなかった砂土手と念斎堀について先生の講義を受けます。砂土手と念斎堀は加藤嘉明が築いた軍事目的の施設で、大坂の陣(1615年)が終わると、その工事は中断します。この未完の砂土手、念斎堀について、江戸時代の松山城下絵図や明治の土地台帳、米軍が撮影した航空写真を駆使して、詳しく解説いただきました。また、明治の土地台帳に出現する「大手口」という小字地名、絵図に描かれた砂土手の形状などを論拠に、「加藤時代の松山城大手口は北部砂土手にあったのではないか」という仮設も提起されました。
 その後、昼食をはさんで、ロープウェイ乗り場を起点にいよいよ砂土手と念斎堀の痕跡を求めて歩き始めます。

 最初に東雲公園を歩きます。ここはかつての念斎堀だった場所で、昭和30年に埋め立てられて公園となっています。したがって、公園の土地は低く、その南側の宅地化している部分が砂土手で、少し高くなっていることが画像からも分かります。

 さらに勝山通りを越えて、東側の砂土手、堀の痕跡を探して歩きます。さらに松山東高校の西側付近まで行くと、明治の絵図にも登場する「砂溜北堀」と「砂溜南堀」と思われる水路を確認することができました。明治の絵図によると、ここから少し南に行くと、念西(斎)本堀が描かれています。
 かつて松山藩主の別荘であった石手花畑があった此花町の青少年センターまで歩き、ここから引き返します。ちなみに、石手花畑の池は、花畑廃止後は水練稽古場となっており、司馬遼太郎の『坂の上の雲』には、秋山真之が帰省中にこのお囲池で遊んだり、陸軍の兵隊とケンカしたりする場面が記されています。

 帰りにも、北持田町の松山地方気象台の前あたりで、砂土手と平地との高低差を確認しました。現在は砂土手部分はコンクリートで固められていますが、重い鎧を着けた武者が、土塁であった砂土手を乗り越えるのは困難だったことなど、補足説明を受けました。
 松山城というと、天守や整備が進む二の丸や堀之内に目が向きがちですが、市街地に残る城郭遺構に目を向けた今回の講座は、受講者にとっても目新しいものだったようです。なお、現地の城を歩く関連講座は、大洲城、能島城、宇和島城とさらに続きます。その中で私たちが知らない新しい城の姿が見えてくるかもしれません。
 最後に、今回柚山先生がお話しになった内容は、特別展示図録に「加藤嘉明時代の松山城砂土手と「大手口」」のタイトルの論考として掲載されています。

特別展図録に収録されている絵図

10月 13日 水曜日

 特別展図録「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」には、今回たくさんの絵図の図版が収録されています。伊予の4つの近世城郭について、どのような絵図が収録されているのか参考のために一覧を作成しました。

宇和島城(8点)
 幕府隠密宇和島城見取図〔寛永4年〕(伊予史談会蔵)
 宇和島城下絵図〔承応3年頃〕(伊予史談会蔵)
 宇和島城下絵図屏風〔元禄6~8年頃〕(宇和島市立伊達博物館蔵) 
 宇和島城郭之図〔元禄12年〕(愛媛県立図書館蔵)
 宇和島城下屋敷割絵図〔元禄16年〕(伊予史談会蔵)
 宇和島城下絵図〔安永5年〕(愛媛県立図書館蔵)
 桜田監物屋敷図〔文政9年〕(宇和島伊達文化保存会蔵)
 宇和島御城下地図〔安政2年〕(当館蔵)

今治城(4点)
 幕府隠密今治城見取図〔寛永4年〕(伊予史談会蔵)
 伊予今治城之図〔貞享2年〕(今治城蔵)
 今治城絵図〔安永8年〕(今治城蔵)
 今治城郭之図〔明治4年〕(愛媛県立図書館蔵)

大洲城(7点)
 幕府隠密大津城見取図〔寛永4年〕(伊予史談会蔵)
 大洲城絵図〔元禄5年〕(大洲市立博物館蔵)
 御城中御屋形並地割図〔元禄5年〕(個人蔵・大洲市立博物館保管)
 大洲城下絵図〔寛政11年〕(大洲市立博物館蔵)
 大洲城石垣普請図〔文化8年〕(個人蔵・大洲市立博物館保管)
 大洲城及附近侍屋敷地図〔文化10年〕(個人蔵・大洲市立博物館保管)
 予州大洲町内全図〔万延元年〕(個人蔵)

松山城(12点)
 公儀隠密松山城見取図〔寛永4年〕(伊予史談会蔵)
 与州松山本丸図〔江戸初期〕(甲賀市水口図書館蔵)
 蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図〔寛永4~9年〕(当館蔵)
 松山城下細図〔寛永12年〕(伊予史談会蔵)
 水野秘蔵松山城下図〔寛文~天和年間〕(伊予史談会蔵)
 松山御城下絵図〔文政11年〕(伊予史談会蔵)
 亀郭城秘図〔文久4年〕(伊予史談会蔵)
 二之御丸全図〔文化14年〕(愛媛県立図書館蔵)
 御三丸図〔天明3年以前〕(伊予史談会蔵)
 松山城下古新町地図〔延宝5年〕(愛媛県立図書館蔵)
 石手御花畑之絵図面(伊予史談会蔵)
 松山市地図〔明治19年頃〕(伊予史談会蔵)

 今回の図録には近世城郭だけでも31点の絵図を掲載し、各城郭について近世初頭から幕末、明治時代にいたるまで、時代的な変遷も分かるように編集しています。ミュージアムショップで販売中ですので、ぜひ御覧ください。
 なお、郵送によるお取り寄せもできます。詳しくは下記のページでご確認ください。
 http://www.i-rekihaku.jp/friend/sale.html

歴史展示室1 展示替えしました!

10月 10日 日曜日

10月上旬に、常設展示室「愛媛のあけぼの」(歴史展示室1)の展示替えを行いましたのでお知らせします。

 今回、展示替えしたコーナーは「瀬戸内海の形成と愛媛県最古の人々(旧石器時代)」と「大和朝廷と伊予(古墳時代)」です。各コーナーでは、下記の当館保管資料を新たに展示しました。特に、伊予市上三谷出土三角縁神獣鏡は資料整理・報告のため、ながらく展示していなかった資料です。

また、先月までテーマ展「木村剛朗氏と西四国の先史文化」にて初公開しました愛南町和口遺跡採集旧石器についても、常設展示にてご覧いただけるようにしました。多くの方にご覧いただければ幸いです。

 ■展示替え資料

 <瀬戸内海の形成と愛媛県最古の人々(旧石器時代)>

  ・愛南町和口遺跡採集旧石器

<大和朝廷と伊予(古墳時代)>

  ・今治市高橋仏師4号墳出土遺物 

    ・伊予市上三谷出土三角縁獣文帯四神四獣鏡 

なお、常設展示していました下記の資料は、徳島市立考古資料館にて開催中の特別企画展「副葬品が語る古墳文化」(10/9~12/5)にて見学することができます。

 ・今治市相の谷1号墳出土鏡

・同別名一本松古墳出土鏡

・同高橋仏師1号墳出土遺物の一部

・伊予市猿ヶ谷2号墳出土遺物の一部

・四国中央市四ッ手山古墳出土遺物の一部

特別展図録の刊行

10月 7日 木曜日

 特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」、いよいよ開幕しましたが、展示内容を詳しく解説した特別展図録も完成しました。伊予の中世城郭を皮切りに、天下人である豊臣秀吉が築城した大坂城、さらには宇和島城、今治城、大洲城、松山城などの近世城郭の貴重な史料が図版として多数収録されています。
 また、中世末から明治初頭にかけての伊予の城郭について、それぞれの視点で掘り下げた5本の論考も合わせて掲載されています。A4版138ページ、1500円でミュージアムショップで販売されていますので、ぜひ御覧ください。

伊予の城めぐり―近世城郭の誕生― 2010年10月6日発行A4版138頁
図版
 伊予の中世城郭/天下人の城と伊予の城主/伊予の近世城郭
論考・資料
 山内治朋「四国平定直後の伊予の城郭整理―遂行過程における地域性を中心に―」
 柚山俊夫「加藤嘉明時代の松山城砂土手と「大手口」」
 井上淳「宇和島城下絵図を読み解く―浜御殿の建設年代を中心に―」
 白石尚寛「大洲城下町における町割の変遷について―中町一丁目を中心に―」
 平井誠「明治維新と城郭・陣屋―吉田陣屋を例に―」
項目解説・図版解説
主要参考文献

特別展「伊予の城めぐり」開幕!!

10月 6日 水曜日

 

特別展「伊予の城めぐり -近代城郭の誕生-」は、本日開幕しました。
観覧料は以下のとおりです。
■特別展
大人  500円(400円)
65歳以上 250円 (200円)
小・中学生  250円(200円)
■常設・特別展共通
大人  700円(560円)
65歳以上 350円(280円)
※(  )内は20名以上の団体料金になります。
※小・中学生は常設展は無料です。

職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

船手具足が栃木県へ

10月 1日 金曜日

秋は展覧会シーズン。
当館も特別展「伊予の城めぐり」の準備が着々と進んでいる中、
先日行った資料の貸出作業の一コマ。

貸出にあたり、資料のキズなどを栃木県立博物館のF学芸員さんと確認します。

美術梱包作業中。

この資料は、大洲藩加藤家伝来の「船手具足」で、兜を含めて素材のすべてが革でできているちょっと変わった鎧です。風変わりなこの鎧は制作した人物も変わっていて、下野国(栃木県)黒羽藩主大関増業、つまりお殿様のハンドメイド鎧なのです。大関増業は、大洲藩加藤家から黒羽藩大関家へ養子に入った人物で、生家である加藤家にこの鎧を贈ったことが分かっています。

栃木県立博物館では、大関増業を取り上げた企画展「改革と学問に生きた殿様―黒羽藩主 大関増業―」が10月9日(土)から開催されます。
お近くの方はぜひこの機会に栃木県立博物館で、当館所蔵の「船手具足」をご覧いただければ幸いです。