Archive for 12月, 2010

お正月準備

2010年12月26日

 みなさんのお家のお正月準備は進んでいますか。今日は博物館の今年最後の開館日。お正月の準備に取り掛かりました。

 どうです?すごい御馳走でしょう。民俗展示室2の海山里の暮らしのコーナーでは、季節ごとに料理を取り替えています。お節料理も海、山、里のそれぞれでかなり違いがあります。

 その献立は?それはお正月の博物館でご覧ください。当館は2011年は1月2日(日)から開館しています。企画展示室では、昭和11年からの年賀切手シートがずらりと並んだテーマ展「故榊原幸雄氏収集切手コレクション展」が開幕します。こちらもお見逃しなく。

考古展示室展示替え                        「えひめ考古学の名品 PART2」

 

 特別展「伊予の城めぐり」の閉幕に伴い、12月25日から考古展示室では展示更新を行いました。

 今回のテーマは、「学芸員が選ぶ えひめ考古学の名品 PART2」です。(前回は『愛媛歴史民俗100モノ語り』の刊行に合わせ、2008年3月に開催しました。)今回の展示替えでは、これまでに考古学担当学芸員が調査研究テーマとした資料を中心に19件の資料・テーマを設定しました。19のテーマは次のとおりです。

四国最古の石器群/愛南町で採集された旧石器(◎)/約二万年使われた赤い石/愛媛県最古の土器/縄文時代の漆技術/国内でも数少ない木製のよろい/弥生木製農工具の世界(◎)/弥生時代の家を描いた絵画土器(◎) (※1/13まで展示予定、その後 国内最古の舶載鉄器を展示予定)/弥生人はどんな顔?/破片になった卑弥呼の鏡/県内最大の前方後円墳/鶏形埴輪見いつけた!(◎)/古墳時代の飾り馬/1300年前の役所の文房具/古代の銅印(◎)/古代の高級なやきもの/大量に埋められた中世の銭貨/江戸時代のミニチュア製品/型紙で絵付けされたやきもの(◎は今回新たに展示する資料です。) 

 

 また、展示室中央には県内最古の土器をモデルにした「土器パズル」と、展示している鶏形埴輪をモデルにした「ハニワパズル」があり、子どもから大人までが見て、楽しめる展示となっています。この機会に是非ご覧ください。展示は4月下旬までの予定です。

 

 なお、主要な資料が掲載されている当館監修の『愛媛歴史民俗100モノ語り』もミュージアムショップで好評発売中です。

岩屋寺 ―せりわり禅定―

2010年12月6日

 

   岩屋寺は、四国山地の山深く、久万高原町七鳥(ななとり)に所在する四国霊場第45番札所として知られる古刹(こさつ)で、日々多くのお遍路さんが訪れます。あたりは侵食された凝灰岩(ぎょうかいがん)が特異な景観を作り出していることから国の名勝にも指定され、また秋には美しい紅葉の名所としても知られています。岩屋寺を訪れた際、ぜひ立ち寄りたいのが「せりわり禅定」と呼ばれる行場。ここは、時宗の開祖一遍上人も訪れ、「一遍聖絵」にも登場する歴史的には非常に著名な場所。でも、「岩屋寺には行ったがそこは行ってない」という人が結構多いのではないでしょうか。では、実体験をほんの少しだけ報告します。

 本堂・大師堂から少し谷間を登ったところが入口ですが、まずは納経所で鍵を受け取ってから登らないと二度手間になるのでご注意。また、神聖な修行の場であることにも配慮しましょう。

 「せりわり」の名のごとく岩山が真っ二つに裂け、ひと一人がやっと通れるような裂け目を、綱を伝いながらしばらく登ります。これが第一段階。次に第二段階、再び綱か鎖を伝いながらさらに上の岩場へ登ります。足場はほとんどありません。

  

 最終段階として梯子(はしご)を登ると、狭い山頂に白山社の祠(ほこら)が祀られています。足場はないに等しく、気を付けないとお参りも命がけになります。

  

 祠の建物自体は近年の建立ですが、まさに「一遍聖絵」に描かれた、一遍が長い梯子を登って参詣した社がここにあたります。「一遍聖絵」では、この他に2峰、全3峰の独立峰と各峰上の祠が描かれていますが、近年の研究では、実際は同じ峰を登る3段階の節目ごとに祀られた祠だったと考えられています。江戸時代の絵図を見ると、確かに段階ごとに高祖社・別山社・白山社と3つの祠を見ることができます。 

 

  「岩屋寺勝景大略図」(当館蔵)

 絵図には、第一段階の「せりわり禅定」に次いで「鎖禅定」とあり、第二段階の鎖が相当します。峰全体が修行場とみなされていたのでしょう。絵図の別の部分を見ると、本堂の横の峰にも梯子で行く仙人堂、さらに上方には洞中弥陀・洞中塔婆が示されています。現在も本堂脇には梯子で上がる仙人堂跡がありますが、さらに上方にも穴が二つ、これが洞中弥陀・洞中塔婆の場所でしょう。どうやって上がったのでしょうか。

 

 険しい行場を持つ岩屋寺ですが、せりわりに見たような白山信仰や、熊野信仰との関わりも指摘されており、一遍の時代から山岳修験の行場の性格を持っていたのではないかと考えられるようにもなっています。

 45番岩屋寺、今は札所として参拝者が絶えませんが、実は一遍上人や山岳修験ともゆかりの深いお寺なんですね。

参考文献:山内譲「一遍聖絵と伊予国岩屋寺」(上横手雅敬編『中世の寺社と信仰』吉川弘文館・2001年)

東大寺戒壇堂 ―凝然(ぎょうねん)ゆかりの地―

2010年12月5日

 東大寺は、大仏で知られた奈良の代表的寺院です。ちょうど平城遷都1300年ということで、観光客も普段以上に訪れています。でも、一口に東大寺といっても境内は非常に広く、大仏殿や南大門だけが東大寺ではありません。実は、鎌倉時代の伊予の人物と非常に関わりの深い場所があります。

 

 大仏殿から少し西へ行った台地上に戒壇堂(かいだんどう)がありますが、古くはその付近一帯に戒壇院と呼ばれる伽藍(がらん)が広がっていました。天平の時代、唐招提寺の創建で知られる鑑真が受戒制度の整備のため日本へ招かれた翌年の天平勝宝6(754)年、正式な受戒の場として建立されました。

 それから約500年後、鎌倉時代後期にこの戒壇院の院主となったのが、凝然という伊予出身の学僧です。様々な宗派の教学に通じ、仏教の教科書ともいうべき『八宗綱要』を著すなど博学で知られ、国師号を授かっています。東予に拠点を置いた新居氏の一族で、その系譜を記した「与州新居系図」は重要文化財に指定されています。

 戒壇院は幾度もの火災で往時の姿をとどめませんが、復興された戒壇堂・千手院が現存します。戒壇堂を訪れると、天平塑像の傑作とも言われる国宝の四天王像が迎えてくれます。観光客で賑わう大仏殿周辺とはまた違い、落ち着いた雰囲気を味わうことができます。この場所で凝然をはじめ歴史上の名僧たち、そして数えきれないほどの僧侶たちが受戒したことを思い返すと、荘厳な気持ちに包まれます。

 

 奈良東大寺を訪れた際には、伊予とも関わりのある戒壇堂へも足を運んでみてはいかがでしょう。

宇和島城追手門跡

2010年12月4日

  特別展「伊予の城めぐり-近世城郭の誕生-」も会期、残りわずかになりました。今回は特別展に関連して、南予の史跡として宇和島城の追手門跡を紹介します。

 追手門は宇和島城に残る数少ない建物として、昭和9年に当時の国宝に指定されていましたが、昭和20年7月20日の宇和島空襲により焼失します。現在は、石垣に使われていたと思われる石が記念碑として加工されて立っています。それでは宇和島城の追手門はどんな姿だったのでしょうか。明治期の写真(愛媛県立図書館蔵)で見てみます。

 右側に宇和島城の正門に当たる追手門が見えます。門の上に櫓を渡した大型の櫓門で、その規模の大きさから「十万石に過ぎた門」といわれました。左手前には外堀が埋め立てられず遺っていて、堀からそびえ立つ石垣の上に多聞櫓の長櫓が築かれた堅固な構えになっています。

 宇和島城下図屏風(宇和島市立伊達博物館蔵)により上空から追手門を眺めてみます。「大手」の貼り紙の下、土橋を渡ると枡形虎口になっていて、引き付けた敵を追手門の渡櫓から射撃や石落で攻撃できたことを読み取ることができます。追手門は、『宇和島吉田両藩誌』(愛媛教育協会北宇和部会、1917年)に、「寛文六年十一月廿一日、大手御門成就葛石此時出来」とあることから、寛文6(1664)年に伊達家により再建された可能性がいわれてきました。しかし、近年の宇和島市教育委員会の発掘調査により、発見された根石の加工方法が藤堂高虎の城に共通して見られること、櫓の外観が柱を見せる古式なものであることから、慶長期までさかのぼる可能性が指摘されています。
 宇和島藩の「万治元年以来御普請記録」には、「御多門御兵具方/一門矢倉/二重之分四間梁ニ桁行拾貳間」とあり、1間を6尺5寸(約2m)で換算すると、梁間約8m、桁行24mの渡櫓がのっかった巨大な門であったことが分かります。高虎時代の建築とすると、「十万石に過ぎた門」といわれる規模も理解できそうです。

 追手門があった位置の現況を撮影してみました。写真奥右手の細く高いビルから左手の広告看板が付いたビル辺りまでが追手門の範囲になります。この位置に巨大な櫓門を想像してみると、江戸時代の宇和島城下が少し感じられそうです。