2011 年 3 月 16 日 のアーカイブ

佳姫の婚礼1-政治行為としての婚姻-

3月 16日 水曜日

 現在、企画展「おひなさま」開催中ですが、常設展示の文書展示室ではテーマ展「宇和島藩の姫君と奥女中」を同時開催しています。

 このテーマ展では、宇和島藩7代藩主伊達宗紀(むねただ)の正室観姫(みよひめ)、9代藩主宗徳の正室佳姫(よしひめ)、また明治になって宗陳のもとに嫁いだ孝子(たかこ)と3人の女性について紹介しています。そのうち、佳姫の婚礼については、以前に他館の講座で話したことがあり、探してみると報告時の原稿も残っていたので、ここにその一部を掲載します。

 その前にまず、宇和島藩伊達家がどのような家から正室を迎えているのかということを大まかに紹介します。伊達家では初代秀宗(ひでむね)に始まり、9代宗徳まで9人の藩主がいますが、正室としては10人のお姫様が迎えられています。最初のうちは4代村年の正室の富子と6代村壽(むらなが)の正室順子のように、仙台藩伊達家が2回でてくることが注目されます。初代藩主伊達秀宗は仙台藩主伊達政宗の子どもですから、江戸前期ぐらいまではまだ本家に当たる仙台藩の力が宇和島藩に強く作用しており、宇和島藩も仙台藩に依存するところが大きく、仙台藩から正室を迎えていることが見て取れます。

 寛延2(1749)年になると、仙台藩と宇和島藩の間で、「本家末家論争」が起こり、それが宇和島藩が仙台藩から自立していく契機になります。幕末になると、多くの分家大名が本家の動きで追随せざるをなくなっているのに対して、宇和島藩の場合、仙台藩とは同族としての付き合いは残しつつも、仙台藩から正室を迎える動きは止みます。

 そして、仙台藩の代わりに注目される動きが近世後期から幕末にかけて現れます。5代村候(むらとき)、7代宗紀、8代宗城(むねなり)の正室が佐賀藩から迎えられるのです。このうち、7代藩主宗紀、8代藩主宗城の時代は、宇和島藩が中央政局で、幕閣や諸大名と盛んな交流や意見交換を行い、有志大名として重要な役割を果たした時代といわれています。特に幕末の四賢侯として名前があがる伊達宗城は、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)、越前福井藩の松平慶永(よしなが)とのつながりが深く、頻繁に手紙を交換しています。また、この時期国持大名の江戸の外交官ともいえる江戸留守居たちが、留守居組合の場で幕府への対応を協議し、集団的な意思形成を行い、幕府に働きかけるなど、幕府に対して十分に対抗できるだけの政治勢力が形成されていきます。そうして幕府の政治に対する国持大名の政治勢力は薩摩藩・長州藩・佐賀藩・土佐藩などの西南雄藩が中心になりますが、宇和島藩も婚姻関係で佐賀藩と結びつくことで、分家大名でありながらもその政治勢力の一画を担うようになっていきます。

 また、佐賀藩は海外情報が集まる長崎警備をしており、世界情勢に関わる情報、西洋の知識、軍事科学に関する情報をもっていますので、宇和島藩には幕末にかけてのこうした重要な西洋の情報、軍事科学の情報などが佐賀藩を通じて手に入れています。このように、大名家の場合、結婚は極めて政治的な行為だったことがうかがえます。そして、9代藩主宗徳の正室として迎えられた孝(たか)は、長州藩主毛利斉元の娘ということで、国持大名との連携強化の路線にそっていますし、孝の死後に正室として迎えられた今回取り上げる佳姫も、秋田20万石の国持大名佐竹家から嫁入りという、国持大名との婚姻という基本的なラインは変わっていません。少し先回りしていうと、明治維新に際して東北諸藩のほとんどが奥羽越列藩同盟に加わるのに対して、この秋田藩だけが明治新政府側につくことになります。

参考文献
倉持隆「宇和島藩主と仙台藩-寛延二年本家・末家論争を中心に-」(『地方史研究』289号、2001年)