安政3(1856)年6月18日にこの御縁組が正式に決定すると、秋田藩側の御縁組御用懸が決まります。これ以降、宇和島藩と秋田藩との間で、縁組をめぐる交渉がつづきます。結婚の準備から結婚式まで、瑣末なことも含めて間違いがないように、交渉に交渉を重ねます。結婚はたくさんの儀礼の積み重ねであり、それをすべて記録していくと、分厚い冊子で数冊にも及ぶこともあります。
例えば、宇和島藩方からの問い合わせに対して、7月5日に秋田藩から返答した資料をみると、まず最初に宇和島藩側から持参金の問い合わせに対して、持参金については相談の上で書面で答えると秋田藩側は例のごとく付札で返答を記しています。次に「御付人御断之事」とありますが、佳姫(よしひめ)に奥女中以外に人を付けないで欲しいという宇和島藩側の要望が記されています。それに対して秋田藩側は付札で、頭役の者一人、書役を一人3,4カ月間置かせて欲しいということ、また医者を一人付けたいと記しています。そして、三つ目に、宇和島藩側は御輿入れの日を11月で想定しているの対して、秋田藩側は12月中旬を主張しています。このように婚礼に向けてお互いの考えが書面で交わされて、それらのすべてが記録として残されていくわけです。