安政3(1856)年7月9日から16日にかけては、佳姫(よしひめ)の婚礼と宇和島藩への引越御用を勤める担当者が決められています。そして、7月20日、秋田藩家老、中安内蔵が御縁談御用人の石井宮作と御縁談御膳番金大之進に対して、今回の婚礼に当たっての秋田藩の基本方針を指示しています。この部分を口語訳してみると、次のように記されています。
御姫様がお嫁入り際に、お持ち込みになる御道具、御召服をはじめとする諸費用は十分に手厚く準備すべきところ、海防や蝦夷地警備の費用がかさんだ上、当春には江戸の上屋敷が類焼してしまったが、これもまた猶予できない。これまでに例がない大変な出費ばかりが重なったことで難渋が迫ってきており、国家(藩)の維持にも関わるような容易ならざる事態である。
これにより、持参金3000両に別紙の悉皆金5000両を合わせて8000両の費用で済ませることになったので、時節柄を考え一同心を合わせ、倹約をもって佳姫様の御引越御用を行うことが大事である。
幕府の御達の次第もあり、諸家様とも倹約に取り組んでいる折り、しかも向方様(宇和島藩)から格段に質素の御家風をいってこられている以上、この時節なので質素を心がけるように清心院にも袖岡にも相談した。ご持参の御道具は質素に対して不都合なため、以前に仰せのあったものをお持ち込みすることにした。
このように秋田藩では財政的にかなり窮乏していたようで、外圧の影響でで蝦夷地の警備を引き受けるようになったこと、春に浅草の下谷(したや)七軒町にあった上屋敷が火事で焼けてそれを再建しなければならないことが、財政をさらに圧迫するようになったことが記されています。そのため、秋田藩では佳姫の婚礼の費用として、持参金3000両に悉皆金5000両の8000両で済ますという方針が打ち出されています。1両5万円として現在のお金になおすと、持参金が1億5千万、婚礼の支度のための費用が2億5千万円になります。
一般的には幕末は藩の財政窮乏から、大名家においても婚礼の費用を削減するようになったといわれています。その中で2億5千万円の支度金というわけですから、江戸の初期や中期に如何に大名家が結婚にお金をかけていたかということが偲ばれます。口語訳した後には、さらに5000両の支度金の使途が記されていて、婚礼道具、佳姫が着る服・夜具、御付の男女手当、引越儀礼費用、婚礼御用を勤めた人々への手当・祝儀を5000両で賄う計画だったことがわかります。いずれもお金がかかりそうなことばかりなので、婚礼御用担当は、お金の遣り繰りにさぞかし苦慮したことと思われます。