2014 年 3 月 のアーカイブ

中国四国名所旧跡図26 阿波ナル戸(鳴門)図

3月 30日 日曜日

鳴門市土佐泊浦の大毛山付近から、奇観として知られる大鳴門の渦潮を描いている。手前の島を西丈は「ハタカ嶋」と記しているが、これは裸島のことで、現在は大鳴門橋の橋脚が立っている。裸島の右上(南東)の島は「登ヒ嶋」と記されているが、これは飛島のこと。標高25mの小さな孤島で、ウバメガシなどの暖性植物やハマナデシコなどの海浜性植物が自生している。裸島の左上(北東)には、波間から岩が顔を出している「中瀬」と呼ばれる浅瀬が描かれている。そして、画面の上部に広がるのが淡路島である。

四国と淡路島との間にあり、大鳴門ともいわれた鳴門海峡は、海峡幅が1340メートルと狭く、手を伸ばすと届かんばかりである。その海峡の主水道は中瀬と裸島の間にあり、海底の断面がV字形になっており、最深部は約91メートルに及ぶ。一方で中瀬付近は浅くなっており、深さは約10メートルにも満たない。瀬戸内海と太平洋の狭間で、海底の複雑な地形も加わり、最大30メートルともいう大きな渦が生み出される。西丈も大鳴門に二つの大きな渦を描いている。

大鳴門は江戸時代から既に全国に知られた名勝として多くの見物客を集め、渦潮は歌川広重をはじめとする多くの画家の格好の題材となっていた。陸から鳴門の渦潮を見物するには、大毛山に眺望台があったほか、亀大明神(瓶浦神社)からも眺望が開けていた。また、裕福な遍路は船に乗って鳴門まで移動したようで、京都の商人升屋徳兵衛の文化6(1809)年の旅日記には引田浦(東かがわ市)で船をチャーターしたことが記されているほか、駿河大御神村の天野文左衞門の旅日記でも明神村(鳴門市瀬戸町明神)から船に乗り、船賃として83文支払っている。旅日記には「鳴門見物」とあるので、あるいは船から遠巻きに渦潮を観ることもあったのであろうか。

鳴門の渦潮を描いたものとしては、歌川広重の3枚続きの「阿波鳴門真景図」や「六十余州名所図絵」の名作の一つといわれる「阿波 鳴門の風波」が有名であるが、掲載したのはその初代に養子に入った二代目の歌川広重が描いた「諸国名所百景」の中の「阿波鳴門真景」。キレイにまとめあげているが、初代広重の迫力ある渦潮の姿から後退して、おとなしい表現になっている。

西丈の絵は横長の画面をうまく使って、二代目広重よりももっと上空から引いた形で渦潮を捉えている。それは諸国を歩いて地理への優れた感覚を身につけていた松浦武四郎が、天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」に描いた「鳴門眺望之景」にかなり近い。松浦の絵は研究材料として写実的に描いたものといえるだろう。西丈の絵も写実を重視したものだが、手前の小さな旅人二人と、大きな二つの渦潮の対比が効いている。その工夫により渦潮という自然の雄大さが引き立てられている。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図25 阿州五(碁)ノ浦柳掛

3月 25日 火曜日

西丈は「五ノ浦」と記しているが、正確には「碁浦」である。この碁浦という名前は、海浜で天然の黒色の碁石を産出したことに由来する。讃岐山脈の天ケ円(あまがつぶ)山の西北部に位置し、西丈の絵にあるように周囲を山に取り囲まれたなか、わずかばかりの平地が開けていた。讃岐との国境にある村で、阿波と讃岐との間の国境争論の結果、徳島藩により国境警備と検問の役割を果たす碁浦番所が設けられていた。番所だけがある、まさに国境の村であった。

なお、讃岐から阿波に入る遍路には、八十八番の大窪寺を打ち終えた後、そのまま長野(東かがわ市五名)、大影(阿波市市場町)と山の中を進み、阿波側の大坂口番所で切手が改められ、十番札所の切幡寺に赴くというルートを採る者も多かった。一番霊山寺から廻るには、引田から碁浦番所を経て阿波に入り、撫養を経て霊山寺に至るルートを採らなければならなかった。その他、鳴門の渦潮見物に足を伸ばす遍路も、この碁浦番所を抜けるルートを進んだ。西丈は碁浦番所を描いているので、このルートを進んだことになる。

天保4(1833)年に四国遍路の旅をした松浦武四郎も同じルートを辿ったようで、碁浦について、「此處山の厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。断崖続きの地形に、海岸に打ち寄せる浪。そんな寂しい風景の中にぽつんとある関所。武四郎の文章を、西丈が絵として見事に表現してくれている。

碁浦番所では、名主や所定の役人が記した旅行許可書ともいえる往来手形、海を渡って四国に入った遍路については着船した港の担当役人が発行した船揚手形が調べられた。それらを所持している遍路には、番所役人から人数・住所・名前を記した入切手が渡され、その入切手は土佐への出口に当たる宍喰口番所に提出しなければならなかった。捕物道具や袖がらみなどを備えた厳めしい番所での改めは、江戸時代の遍路にとって緊張を強いられる時間であった。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図24 讃岐より阿波を見る図 引田浦

3月 24日 月曜日

讃岐の札所を打ち終えた西丈は、讃岐と阿波の国境に近い引田浦まで進み、その景色を描いている。引田も前回の志度と同様に古くから海運業が盛んな土地柄。幕末から明治初めにかけての「讃岐国名勝図会」には、「当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」と、その繁栄の様子を記している。西丈の絵を見ると、左下に少なめであるが、密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船を描いており、沖合を進む廻船と合わせて海運と結びついた引田浦の姿を端的に表現している。

しかし、西丈の主眼は引田浦そのものにはなく、そこから広がる眺望にあったのだろう。その眺望のすばらしさは、「讃岐国名勝図会」にも「海上の絶景一眸百里を観望なす能き湊なり」と触れられている。西丈は引田浦から南方向、つまりは阿波方面を描いている。目の前には青々とした播磨灘。その真ん中にぽっかりと浮かぶ島が毛無島と通念島で、大海原のなか、近景に小さな島があることがアクセントになっている。そして、遠景には淡路島、小鳴門がかすんで見え、これから歩く讃岐と阿波の国境番所のあった五ノ浦(碁の浦)までの海岸線はくっきりと見えている。細かく描き込んでいないのに、その土地の空気感を伝える西丈の技量が光る一枚。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

中国四国名所旧跡図23 讃州志度浦図

3月 22日 土曜日

85番札所、八栗寺を後にした西丈は、86番の志度寺へと向かい、志度村に辿り着く。志度は中世以来の伝統をひく海運業が盛んな土地で、松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」には、家が千軒余りもあり、日々船の出入りが絶えることがなく、農業・商業も盛んと記している。そんな繁華な志度に来て、西丈が描いたものがかなり変。

穴が開いたブリッジ状の岩をはじめとした奇岩。その奇岩よりもさらに奇妙な生物が3頭。茶色の毛に覆われた体だが、人間でいう髪の毛がなぜか赤いロングヘアー。四ツ足のようだが、人間のように直立している姿も描かれている。これは実在する生物? それとも妖怪? 西丈が実際見たものか、あるいは頭の中でつくりだしたものなのか。

昔話か伝説に関係するのかもしれないと調べてみると、志度というと、「海士の玉取り伝説」が有名。天智天皇の時代、藤原不比等が契りを交わした志度の海女が、その子ども房前のために海中の龍神から玉を取り返して死んでしまうというストーリーであるが、この絵との関係はわからない。絵の右には和歌も書き付けられているが、難解で一部しか読むことはできなった。

謎は深まるばかり。それにしても西丈はおもしろい絵を描き遺したものである。その感性に脱帽。みなさんならこの絵、どう読み解きます?

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

テーマ展「悼みのかたち-縄文・弥生時代のお墓-」の開幕

3月 21日 金曜日

今年度、考古展示室においては「常設展示室における復元住居の遺跡-半田山遺跡と片山内福間遺跡-」、「発掘された伊予の井戸」といった2つのテーマ展を行ってきました。それぞれ生活を営む上で重要となる「住居」と「井戸」をテーマに企画したものですが、今回は「悼みのかたち-縄文・弥生時代のお墓-」と題した「お墓」の展示を行います。

古来より、墓には、単純に地面に穴を掘っただけの土坑墓や、土を盛って築いた墳丘墓、土器棺や木棺を使って埋葬した墓など様々な形態があり、こうした特徴の違いは、時代や地域など、人々の死生観や社会構造の変化が大きく反映しているようです。また、そこから出土する人骨や副葬品は、人類学や考古学にとって大変貴重な資料も多く、当時の社会を知る上で重要な手掛かりとなっています。

そこで本展では、北井門遺跡2・3次調査(松山市)・持田町3丁目遺跡(松山市)・水満田(みつまた)遺跡(砥部町)といった縄文時代後期末~弥生時代後期の遺跡を中心に取り上げ、縄文人・弥生人の埋葬に対する意識や習俗、社会構造の変化について紹介したいと思います。

本テーマ展は、6月8日(日)まで開催しております。常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要(小中学生は無料)となりますが、ぜひ見にいらしてください。

特別展「弘法大師空海展」を開催します。

3月 19日 水曜日

愛媛県歴史文化博物館 弘法大師空海展 四国霊場開創1200年

本年、平成26(2014)年は、弘法大師空海が弘仁6(815)年に四国霊場を開創してから1200年目とされる年であり、その記念展示として、空海の生涯に関する絵巻や唐から請来したとされる仏具(国指定文化財)、空海の著作(三教指帰、性霊集等)、空海の生きた時代の伊予国の様子等を紹介するとともに、四国各地に伝わる弘法大師の信仰や伝承に関する資料を展示する特別展「弘法大師空海展」を4月26日(土)から6月8日(日)まで開催します。

空海は奈良時代・宝亀5(774)年に四国・讃岐国で生まれました。僧侶としてだけではなく書家、詩人そして教育者としての名声も高く、その生涯は「四国遍路」や「仏教」といったキーワードだけでは語りつくせない面があります。本年の「1200年」を契機として、平安時代初期、空海が生きた時代を顧みるために、本展示では空海の生涯から見た当時の日本列島、そして伊予国の歴史を、文献史料や出土遺物から俯瞰する視点で内容を構成しています。

今回の展示では、空海と同時代の宝亀10(779)年に伊予国風早郡(現在の松山市北部)に生まれた光定の足跡についても紹介します。光定は「別当大師」と称され、日本天台宗の祖・最澄の弟子となり、嵯峨天皇の寵も受け、最澄の死後も天台宗の基礎を築くことに尽力しています。同時代の二人の僧・空海と光定に注目することで、平安時代初期の仏教界の諸相を「四国」の視点から展示紹介します。

また、1200年前の空海の時代を紹介すると同時に、空海の入定後、延喜21(921)年に醍醐天皇から「弘法大師」の号を賜り、中世、近世、そして近代、現代に到るまで「弘法大師」、「お大師さま」としてその信仰が定着し、様々な伝承が生まれてきましたが、四国遍路関係の案内記、絵図等に描かれた弘法大師を展示することで大師信仰の歴史を紹介します。

四国霊場開創1200年にあたって、今回の展示において1200年前の空海の時代の様子や、その後の弘法大師信仰の変遷について取り上げることで、四国の歴史性・地域性を改めて考える機会となればと考えています。

また、当館では空海の生涯を和紙彫塑で表現した新常設展「密●空と海―内海清美展―」を開催していますので、そちらもあわせてご観覧いただければと思います。

【展示概要】
1 開催期間
 平成26年4月26日(土)~6月8日(日)
 休館日 4月28日、5月7、12、19、26日、6月3日
 開館時間 9時~17時30分(入館は17時まで)

2 会場
 愛媛県歴史文化博物館 企画展示室

3 観覧料
 観覧料  大人(高校生以上)500円(400円)
 小中学生・65歳以上250円(200円)
 *( )内は20名以上の団体料金。
 *他にお得な常設・特別展共通券もあります。

4 主催・後援
 主催 愛媛県歴史文化博物館
 後援 愛媛県市町教育委員会連合会・愛媛新聞社・NHK松山放送局・
    南海放送・テレビ愛媛・あいテレビ・愛媛朝日テレビ・
    愛媛CATV・FM愛媛

5 関連講演会
 講演会「弘法大師空海の時代―平安初期・伊予の光定と空海―」
 6月1日(日)13:30~15:00 愛媛県歴史文化博物館多目的ホール
 講師:大本敬久(当館学芸員)
 定員300名
 【申込み方法】
 電話(0894-62-6222)またはFAX(0894-62-6161)のいずれかでお申込みください。※FAXでお申込みの方は下記の事項を明記して、当博物館までお申込みください。1.希望する講座名 2.代表者のご住所・お名前・年齢 3.一緒に受講する方のお名前・年齢 4.電話番号・携帯番号及びFAX番号。講座は先着順で定員まで受け付けます。

6 関連講座(いずれも13:30~15:00)
 ①5月11日(日)講師:大本敬久(当館学芸員)
 「空海の史料を読む(詩文編)―性霊集―」

 ②5月17日(土)講師:亀井英希(当館学芸員)
 「古代伊予の文字と文房具」

 ③5月25日(日)講師:今村賢司(当館学芸員)
 「四国遍路と弘法大師空海」

 ④6月7日(土)講師:岸見泰宏氏(松山市教育委員会)
 「瓦から見た古代の伊予」

7 関連イベント
 5月3日(土・祝)13:30~
 三島高校書道部による書道パフォーマンス「空海の言葉」
 会場:エントランスホール

中国四国名所旧跡図22 讃州五軒山八栗寺

3月 16日 日曜日

84番札所屋島寺から1里(約4キロメートル)と少し歩くと、85番札所五剣山千手院八栗寺(高松市牟礼町)に辿り着く。標高375メートルの五剣山の中腹にあり、眼下には志度湾から遠くは播磨灘を望む。

寺伝によると、宝亀年間、まだ幼かった空海がこの山に登り、泥土で三千仏・十王像をつくったことに始まる。その後延暦年間になり、空海が入唐に先だち仏殿を造営して自作の千手観音を安置、栗八つを埋めて入唐を祈願した。帰国後やってくると、埋めた栗が大木に生長していたため、八国寺を改め八栗寺としたという。

江戸時代の八栗寺を描いた絵画史料を見ると、いずれもいくつかの剣が天にそびえるような独特の形をした五剣山に抱かれるように寺が描かれているが、西丈もまさしくそのスタイルを踏襲している。五剣山なので元々は5本の頂きがあったが、そのうち1本は宝永地震により崩れ、西丈が目にした時には4本になっていたはずである。五剣山のごつごつとした岩の表現は、いつもながらダイナミックで見ていて楽しくなる。

西丈の絵により境内の配置を見ると、石段を上がると二王門、そこを入って左脇に大師堂、その奧に空海自作と伝える観喜天が祀られる聖天堂、正面奧に本堂、その右脇に鐘楼がある。その配置は写実的な表現で知られる寛政12(1800)年の「四国遍礼名所図会」の挿絵とほぼ一致しており、建物の精度はさておき、配置などは西丈が正確に描き出していることがわかる。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。

休館日の博物館

3月 13日 木曜日

博物館では、月曜日を原則に毎週1日程度の休館日を設けています。その日は単なる休みではなく、設備の点検を行ったり、切れているライトを交換したりとメンテナンスの時間にもなっています。先般の休館日には、展示室の保守点検を実施しました。

展示ケースの外側は普段から清掃していますが、内側の清掃は休館日でなければできません。展示ケースをチェックして、汚れがあるものを中心に、史料をケースから外して清掃していきます。清掃したケースに入れると、史料も輝いて見えます。

また、休館日を利用して、史料の展示替えもおこなっています。画像は絵巻の展示替えをしているところ。一見、不変なように見える常設展示も常に移り変わっています。

現在、当館では企画展示室で「四国遍路ぐるり今昔」が開催中ですが、キレイなケースに新しい史料が収まった常設展示もあわせてぜひご覧ください。

中国四国名所旧跡図21 讃州屋島山から見る図 高松城

3月 8日 土曜日

この図も前図と同じく、屋島から高松方面を見下ろして描いている。カメラでいうと前図が広角レンズで捉えた引きの構図であったのに対して、本図は望遠レンズで高松城へとズームした一枚といえる。

白い塀が取り巻くなか、城郭がそびえている。本丸には三重四階地下一階の天守を置き、その周囲には現存する月見櫓、艮櫓以外に、烏櫓・太鼓櫓・龍櫓といった5棟の三重櫓が設けられていた。現在ではビルも建ち並び、お城も目立たなくなってしまったが、そうしたものが一切ない江戸時代にはランドマークとして目を引いたことであろう。高松城の白漆喰総塗籠の建物は、瀬戸内海に蒼い海によく映えたものと思われる。

西丈は屋島を三枚描いているので、一枚に割ける時間はそれほどなかった。その限られた条件の中で、それぞれの見たもののイメージを的確に表現していることがわかる。

参考までに大正から昭和初期の高松城を紹介した絵葉書を掲載した。手前に艮櫓、奧に月見櫓が並ぶ。石垣の下まで波が寄せており、海城としての高松城の姿がよくわかる。

「中国四国名所旧跡図18 讃州国分寺関ノ池図」に新しく調査した現況写真を加え、若干の加筆をしました。あわせてご覧ください。

当館では、企画展「四国遍路ぐるり今昔」が、2月18日~4月6日の会期で開催しています。本史料は展示されていませんが、四国八十八ヶ所霊場の今と昔の姿を多彩な資料で紹介しています。ぜひご覧下さい。