松山市のOさんのご自宅には、1300枚を超える街頭紙芝居が残されています。
これは同市内で紙芝居屋の取りまとめ役をしながら、自身も紙芝居屋として活動されていた御父堂様から受け継がれたもの。
6年前の平成22年に県にお問い合わせいただいたことが契機で、歴史文化博物館の担当がOさんのお宅に何度も通い、全体の目録を作成し、平成23年には特別展「昭和こども図鑑」でその一部を展示させていただきました。
このときは博物館ボランティア等による実演も実施。
大人も子どもも夢中になってお聞きいただきました。
Oさん宅に残された街頭紙芝居は、血沸き肉踊る時代物からおどろおどろしい怪奇物、薄幸のヒロインが健気な悲哀物や、物語の合間に繰り出すクイズ紙芝居まで、多くのバラエティーに富んでいます。
その多くは昭和30年代、大阪・さだむ社が製作したものです。
裏面には名古屋、大阪、岡山でも上演されたことや、自主規制機関の審査を受けていたことを示す記載もあります。
「父は右足が不自由だったが、左足で自転車をこいで市内を回り、母と二人三脚で自分を育ててくれた」とOさんは紙芝居をみながら懐かしそうにお話くださいました。
街頭紙芝居は、保育や教育用の印刷紙芝居とは違い、東京や大阪の「絵元」と呼ばれる業者が製作する肉筆(一点もの)の紙芝居で、プロの紙芝居屋により、街頭(屋外)で有料で演じられるものです。昭和初期から10年代、および戦後に全国で盛行しましたが、昭和30年代後半の高度成長期にテレビが出現すると次第に衰退していきました。
街頭紙芝居が上演される基本的なプロセスは、以下のようになります。
まず、「絵元」が作家・画家に紙芝居の製作を発注します。
完成した紙芝居は、絵元から全国各地の「支部」(取りまとめ役)に貸与され、支部から地域の紙芝居屋にさらに貸与され上演されます。
上演が終わると紙芝居屋は支部を通じて絵元に紙芝居を返却するとともに、絵元は新たな紙芝居を支部に貸与する、というシステムになります。
このため、紙芝居は地方の紙芝居屋の手元に残ることが少なく、これほど多くの街頭紙芝居が松山市内に残っていることは、愛媛県内はもとより四国を見渡しても管見の限り例がありません。
愛媛の昭和生活史の一コマを物語る上で大変貴重な資料群といえます。
(伊予市双海町での街頭紙芝居の様子。井上敬一郎氏所蔵)
ところで、実はOさんの手元には、紙芝居の舞台箱も残されていました。
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