2017 年 3 月 のアーカイブ

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」図録好評販売中!

3月 31日 金曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、今回製作した図録も当館ミュージアムショップおよび当館友の会で好評販売中です。
この図録はハンドブックとして古墳探訪できるようにA5サイズ・87頁です。また、見学できる古墳は地図などの交通案内を掲載しています。

この機会に是非ご購入ください。

販売価格 1250円(友の会会員価格1000円)

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」25 「文化財」となった砂防堰堤―土砂災害を防ぐ―

3月 30日 木曜日

愛媛県は県土の約70%を森林が占めていますが、特に平野部の都市である四国中央市、新居浜市、西条市、今治市、松山市、宇和島市等、ともに背後には急峻な山地、森林がそびえており、大雨が降ると、平野部の河川に急に大水が流れ込み、山が崩れて土砂災害が起きやすい地形となっています。こうした土砂災害から住民の命や財産を守るための対策の一つとして「砂防」の事業が行われています。

その中でも「砂防堰堤」(さぼうえんてい)は、土砂災害による被害を防ぐために作られる施設であり、県内各地の河川や渓流に数多く見られます。「砂防ダム」とも言われ、一般のダムとは異なり、その機能は土砂災害防止に特化しているものです。砂防堰堤は、山中にあることが多いため、人目に触れることが少なく、一般に注目されにくいものです。ところが、重信川には、国登録文化財となっている全国的にも著名な砂防堰堤があります。

それが東温市山之内大畑乙にある「除ケの堰堤(よけのえんてい)」で、重信川上流域にある石及びコンクリート造の砂防堰堤です。一級河川の重信川は、東三方ケ森(標高1232m)を水源として、東温市から松山市西垣生の河口まで、多くの支流を合わせながら道後平野を流れています。典型的な伏流水河川であるため、普段、表面上は水流が少ないように見えますが、ひとたび大雨となると地下から水があふれ出て流れる「暴れ川」となります。しかも、河川の流量規模の割に、源流から河口までの距離が短いため、勾配が非常にきつく、危険度の高い「急流河川」でもあります。河水の流れが急であるだけではなく、山地から、水と共に土砂も削られながら川に流入しやすく、河川が荒廃しやすい環境といえるのです。
こういった状況の中で作られた「除ケの堰堤」の近くに、砂防堰堤築造記念碑(昭和10年5月25日建立)が建立され、以下のような内容が刻まれています。

「重信川は水源地が荒廃しており、出水の度に被害が大きく、降雨のたびに流れる土砂で河床が高くなり、地元ではこの対策に悩んでいたが、昭和7年、国庫助成を得て山之内字除に砂防堰堤を築造することになった。工事にあたったのは延約15万人で、就労者は北吉井、南吉井、川上、拝志、三内の5ヶ村から一日千人に及んだこともあった。これが完成し、重信川上流の被害を防ぎ、重信川治水工事の根本計画を樹立することができた。」

このように、重信川は上流の荒廃地から土砂が流出し、下流では河床が上昇して、可能な流水量が減少してしまい、昔から氾濫を繰り返してきました。そのため江戸時代以降、河床を掘り下げる「瀬掘り」が行われていたものの、重信川上流、中流も含めた全流域では、面積が広すぎて人的、経済的な理由で実施は困難でした。度重なる洪水、水害、土砂災害のため、流域の住民にとっては砂防事業の着手は悲願だったのです。

そして重信川上流域に「除ケの堰堤」が昭和10年に完成し、堤長115mの主堰堤の下流側に堤長92mの副堰堤が築かれました。瀬戸内海の島石(花崗岩)を1万7千個余り、伝統的な石積工法で施工し、歴史的な土木構造物として高く評価されるとともに、現在の保存状況も良好であることから、将来に引き継ぐべき土木遺産として、平成13年に国文化財に登録されています。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」⑦

3月 28日 火曜日

ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。最後は「エピローグ 古墳から何がわかるの?-人骨から見た被葬者像-」。

古墳とは、特定個人のお墓に、多くの労働力を費やした時代(古墳時代)の産物です。国内では、出土人骨による親族関係の復元などの試みも行われています。県内では、人骨の出土事例が少なく、まだ親族関係の復元には至っていませんが、今後の資料の増加・分析により、当時の社会の様子を明らかにできる日も来ることでしょう。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」24 旧松山藩士族と福島県開拓移住地(2)

3月 27日 月曜日

郡山市教育委員会の文化財担当者から郡山市指定文化財となっている旧小山家住宅や県指定文化財の開成館の被災状況と今後の復旧の予定等をうかがうことができました。旧小山家住宅は、愛媛県松山市から郡山市牛庭地区への移住者が明治時代に建てた住宅であり、移住開拓のシンボルとして郡山市中心地の開成館(現在、郡役所の前身である区会所や安積開拓官舎など郡山開拓に関する歴史的建造物を保存公開する施設となっている)の敷地内に移築、保存されている建造物です。この旧小山家住宅については犬伏武彦氏『民家と人間の物語—愛媛・古建築の魅力—』(愛媛新聞社、2003年刊)に詳細に紹介されています。現在、開成館はやはり地震被害のため閉館した状態でした。ただ、旧小山家住宅を含め建築士による診断を行い修繕の計画を既に立てており、平成24年度内には再オープンする予定で修繕費を予算化しているとのことでした。

この開拓移住者の住居であった旧小山家住宅は犬伏氏が言うには「日本一貧しい住宅」であり、実見すると梁が細く構造的に弱い建築のようにも思えましたが、震災の震度6弱の揺れでは倒壊することはありませんでした。

土壁に多くのヒビが入ったり、濡れ縁の土台と柱がずれたり、障子紙が揺れによって破れたりという被害がありましたが、他の建築物に比べると修繕で対応できる小規模被害であったとのことです。旧小山家住宅については平成24年夏に修繕を完了しています。

教育委員会にうかがった後、松山の方々が実際に移住した郡山市南部の牛庭地区に足を運びました。そこでは牛庭区長、副区長に出迎えていただき、いろいろなお話を聞く事ができました。今でも松山からの開拓移住者のご子孫も多く、それには驚かされました。実は災前の平成22年10月27日には全国の中核市サミットが郡山市で行われ、そこに副市長をはじめ松山市職員5名が出席したこともあり、安積公民館牛庭分館において「松山副市長を囲む会」が行われていました。この主催は「牛庭区松山藩入植者子孫」であり、地元に住む入植者家族18名が出席したということです。現在でも松山市との交流が行われていることを現地にうかがって知った次第です。

そして牛庭には松山からの移住者による開拓記念碑なども建てられており、松山との交流の深さを実感しました。明治時代の安積開拓は明治政府による安積疏水事業によって始まりますが、その安積疏水(現在は4月26日から9月10日に水が流れるようになっている)のちょうど真上に松山関係の記念碑が建てられていました(写真参照。奥に向かっているのが安積疏水)。水路の上に記念碑というちょっと珍しい建て方には少し驚かされましたが、それだけ象徴的な記念碑として扱われているのです。そして地元の氏神である三島神社を訪問しました。伊予大三島の大山祇神社と繋がりがあるとのことで、社号の扁額は現在の愛媛大山祇神社の宮司が書いたものでした。この三島神社は、社殿自体の被害はなかったのですが、鳥居がもろくも倒壊していました。倒れたというよりも固定していた基礎を残して折れた状態です。これについては災後十ヶ月を経過しても全く復旧できていませんでした。修理、新調の計画も立っていないということです。そして旧小山家住宅がもともと建っていた場所も教えてもらい、いろいろ牛庭を散策してみました。地区内は被災した住宅、建て直している住宅、いろいろ地震の爪痕が見受けられ、各個々人の生活復旧が進んでいるものの地域共有の神社等の復旧は今後の予定だという状況でした。このように地元の教育委員会、公民館、区長、副区長、そしてゼミの友人にいろいろお世話になりながらの現地確認となりました。

以上、松山と繋がりのある福島県郡山市の史跡の現況はこれまで愛媛県内でも充分に知られていないこともあり、旧小山家住宅、牛庭地区、三島神社等を紹介した次第です。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」23 旧松山藩士族と福島県開拓移住地(1)

3月 26日 日曜日

平成23年3月11日に発生した東日本大震災。被災した東北地方には愛媛県と歴史的、文化的に繋がりのある地域が多くあります。例えば岩手県北上市の聖塚。伊予出身の一遍上人の祖父河野通信の墓所とされている史跡です。そして宮城県仙台市をはじめ東北各地に見られる郷土芸能の鹿踊り。江戸時代初期に仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島藩に入部した縁により南予地方各地に東北由来の鹿踊が伝播しています。また、同じく伊達家入部の関係で仙台領の名取郷(現在の名取市付近)の軍夫が宇和海の海上警護のために伊方町名取地区に移住したという伝承があります。

そのような歴史的繋がりのある地域の一つに福島県郡山市があります。筆者は東日本大震災後の状況を確認するため、平成24年1月27日に福島県郡山市に足を運んでみました。明治時代に愛媛県松山から安積原野の開拓のため移住、定住した旧松山藩士族の旧跡を見てまわるためでした。福島県安積原野の開拓は明治時代の士族授産事業として行われ、現在の郡山地方の発展の基礎を築いたといわれています。江戸時代には水利の便に乏しかったのですが、明治政府の直営事業として明治15年に安積疏水が完成し、この地の開拓事業に禄を失った士族が全国から入植したのです。鳥取、高知、久留米など西日本からの移住が多く、旧松山藩士族は15戸49名が明治15から17年にかけて移住しています。この経緯については高須賀康生氏「松山藩士族の安積開拓移住について(上)(下)」(『伊予史談』246、247号、1982年)に詳しく紹介されています。

郡山市に隣接する須賀川市には筆者の大学時代のゼミの同級生で日本史教員をしている友人がいるので、彼と久方ぶりに対面しました。車を出してもらって、郡山各地を見学しました。友人からは地震当日のこと、直後の断水やガソリン等の物資不足、自宅の被災状況や県外への避難、そして福島第一原子力発電所事故による放射線の影響や現状などいろいろ話を聞きながら、郡山市内を巡りました。

まずうかがったのが郡山市役所です。本庁舎は地震で甚大な被害のため使用不可となっていました。各課が分庁舎や市内の別の建物に移っての業務を行わなければいけません。人口33万の大都市の本庁舎が使えないという現実を目の当たりにしました。教育委員会の文化財担当者に挨拶するため、教育委員会が移転している音楽文化交流館に行ったのですが、狭い部屋にすし詰め状態で並べられた仮設長机での業務環境でした。職員の皆さんが慌ただしく執務する様子。その部屋の雰囲気に震災から十ヶ月経ってもいまだ深刻な状況である事を改めて実感させられました。また、音楽文化交流館内では市民向けに、放射線の空間線量を計測するサーベイメータ、積算線量計の貸し出しの窓口が設置されていて、幼い子どもをもつ保護者たちが数多く並んでいるのも印象的でした。(続く)

テーマ展「久万高原町発掘50年の足跡」の開幕!

3月 25日 土曜日

前回のテーマ展(考古)では、“南予地域”に関連した考古資料を展示いたしましたが、今回の展示は「久万高原町発掘 50年の足跡」と題し、“久万高原町”にスポットを当てた展示を行います。
上浮穴郡久万高原町は、県の中南部に位置し、いにしえより、豊かな自然の恵みを生活の基盤としてきた高原地帯の町です。同町には、全国的にも著名な“国史跡・上黒岩岩陰遺跡”が存在し、現在もその調査・研究が進められています。近年では、それ以外の遺跡でも学術調査が行われ、多くの成果が得られています。
そこで本展では、上黒岩岩陰遺跡の発見から50余年、これまで久万高原町で発見されてきた埋蔵文化財を、関連写真や文献資料等とともに展示することで、その足跡を振り返りたいと思います。また、当館が、平成28年度に県内外の研究者や研究機関と共同で行った、上黒岩岩陰遺跡出土遺物の資料整理の成果についても合わせて紹介いたします。こうした観点から、久万高原町の埋蔵文化財にご理解いただき、その魅力についても再発見していただければと思います。
本展は、考古展示室を会場にして、3月25日(土)から9月3日(日)まで開催しております。常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要(小中学生は無料)となりますが、ぜひ見にいらして下さい。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」⑥

ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「トピック展示」から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」22 時代とともに変わる火災の原因

3月 24日 金曜日

人間の生活には「火」は不可欠ですが、動物の中でも「火」を扱う技術を習得しているのは人間だけです。サルは「火」を意図的につけたり消したりすることはできません。ヒトは「火」への怖れを抱きつつ、それを制御し、使用する技を身につけたことで、サルから進化を遂げたといえるかもしれません。それでも人間は完全には「火」を制御できてはいません。人類史上、変わることなく火災は発生し、「火の恐怖」を感じ、接してきました。

日本の場合、古くから家屋は木造建築が主であったため、火災リスクとは常に隣り合わせでした。平安時代中期の平安京を始めとする都市部では、貴族や庶民の間で穢(けがれ)意識が高まりますが、死の穢、血の穢などの他に「失火穢」というものもありました。日本の文化の中で社会秩序を乱し、破壊させるものとして「失火」は忌み嫌われていたのです。

「火」は怖れられるだけの存在ではありません。人間は「火」から光と熱という大きな恩恵を得てきました。行灯、提灯、ランプなど灯下具や、火鉢、こたつなどの暖房具を使い、明るさと暖かさを得る事ができたのです。しかし、これらの道具が火災の原因になってきたのも事実です。

愛媛県における火災の原因を見てみると、明治時代には、かまどの火の不始末がトップで、たき火や灰類、灯火、タバコの不始末の順となっています。失火については大正時代には火災原因の88%(年300件程度)を占めていましたが、昭和に入ると年100件程度と減少します。これは電灯の普及、かまどの改良、茅葺き屋根の減少などとともに、国民教育での防火思想や、近代的な防火設備の充実なども要因として挙げられます。

戦後の愛媛では、昭和20年代、火災発生件数は年2〜400件だったのですが、昭和30年代には年5〜600件、40年代、50年代には年7〜800件と増加傾向にありました。昭和53年をピークに徐々に減少し、平成に入ると年4〜500件程度となっています。

火災の原因も昭和20年代まではかまど、漏電が多かったのですが、これらは30年代には姿を消し、たばこと火遊びを原因とする火災が増えました。昭和40年以降でもたばこ、たき火、火遊びが常にワーストスリーとなっています。平成に入っても、こんろ、たばこ、たき火が原因の上位となっています。

このように「火」を扱う技術は人類史上、継承されてきたといいつつも、タバコ、火遊びが主原因になる時代も経て、現在では、例えばオール電化住宅など、そもそも身近な生活では「火」を使う必要のない生活スタイルにも浸透しつつあります。大げさな表現になりますが、火を使わない、火を扱うことができないということは、「サルからヒトへの進化」と逆の現象が起こっているといえなくもありません。人間が人間たりうるには「火」を制御する技術を身体化しておく。これは火災予防の観点からも重要なことだと思われます。

民俗展示室3「四国遍路」展示替えのお知らせ

3月 23日 木曜日

民俗展示室3「四国遍路」は、3月17日に一部資料の展示替えを行いました。
今回の展示替えでは、弘法大師空海の誕生から高野山入定、その後の高野臨幸に至るまでの様々の奇瑞・霊験などを絵入りの版本で紹介した『弘法大師御伝記』(寛文2・1662年)、弘法大師空海の弟子たちの事蹟を紹介した道猷著『弘法大師弟子譜』(天保13・1842年以降)、明治前期の四国霊場(阿波の札所)の霊験を伝える繁田空山著『八十八箇所四國霊験記圖會』(明治19・1886年)など、博物館が収集した弘法大師空海と四国遍路に関する新資料の一部を公開します。
博物館ご来館の際にはぜひとも、常設展示・民俗展示室3「四国遍路」の新資料もご覧ください。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」⑤

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「東予の古墳探訪」。



特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

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