2017 年 3 月 のアーカイブ

テーマ展「久万高原町発掘50年の足跡」の開幕!

3月 25日 土曜日

前回のテーマ展(考古)では、“南予地域”に関連した考古資料を展示いたしましたが、今回の展示は「久万高原町発掘 50年の足跡」と題し、“久万高原町”にスポットを当てた展示を行います。
上浮穴郡久万高原町は、県の中南部に位置し、いにしえより、豊かな自然の恵みを生活の基盤としてきた高原地帯の町です。同町には、全国的にも著名な“国史跡・上黒岩岩陰遺跡”が存在し、現在もその調査・研究が進められています。近年では、それ以外の遺跡でも学術調査が行われ、多くの成果が得られています。
そこで本展では、上黒岩岩陰遺跡の発見から50余年、これまで久万高原町で発見されてきた埋蔵文化財を、関連写真や文献資料等とともに展示することで、その足跡を振り返りたいと思います。また、当館が、平成28年度に県内外の研究者や研究機関と共同で行った、上黒岩岩陰遺跡出土遺物の資料整理の成果についても合わせて紹介いたします。こうした観点から、久万高原町の埋蔵文化財にご理解いただき、その魅力についても再発見していただければと思います。
本展は、考古展示室を会場にして、3月25日(土)から9月3日(日)まで開催しております。常設展示室の一部ですので、常設展示観覧料が必要(小中学生は無料)となりますが、ぜひ見にいらして下さい。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」⑥

ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「トピック展示」から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」22 時代とともに変わる火災の原因

3月 24日 金曜日

人間の生活には「火」は不可欠ですが、動物の中でも「火」を扱う技術を習得しているのは人間だけです。サルは「火」を意図的につけたり消したりすることはできません。ヒトは「火」への怖れを抱きつつ、それを制御し、使用する技を身につけたことで、サルから進化を遂げたといえるかもしれません。それでも人間は完全には「火」を制御できてはいません。人類史上、変わることなく火災は発生し、「火の恐怖」を感じ、接してきました。

日本の場合、古くから家屋は木造建築が主であったため、火災リスクとは常に隣り合わせでした。平安時代中期の平安京を始めとする都市部では、貴族や庶民の間で穢(けがれ)意識が高まりますが、死の穢、血の穢などの他に「失火穢」というものもありました。日本の文化の中で社会秩序を乱し、破壊させるものとして「失火」は忌み嫌われていたのです。

「火」は怖れられるだけの存在ではありません。人間は「火」から光と熱という大きな恩恵を得てきました。行灯、提灯、ランプなど灯下具や、火鉢、こたつなどの暖房具を使い、明るさと暖かさを得る事ができたのです。しかし、これらの道具が火災の原因になってきたのも事実です。

愛媛県における火災の原因を見てみると、明治時代には、かまどの火の不始末がトップで、たき火や灰類、灯火、タバコの不始末の順となっています。失火については大正時代には火災原因の88%(年300件程度)を占めていましたが、昭和に入ると年100件程度と減少します。これは電灯の普及、かまどの改良、茅葺き屋根の減少などとともに、国民教育での防火思想や、近代的な防火設備の充実なども要因として挙げられます。

戦後の愛媛では、昭和20年代、火災発生件数は年2〜400件だったのですが、昭和30年代には年5〜600件、40年代、50年代には年7〜800件と増加傾向にありました。昭和53年をピークに徐々に減少し、平成に入ると年4〜500件程度となっています。

火災の原因も昭和20年代まではかまど、漏電が多かったのですが、これらは30年代には姿を消し、たばこと火遊びを原因とする火災が増えました。昭和40年以降でもたばこ、たき火、火遊びが常にワーストスリーとなっています。平成に入っても、こんろ、たばこ、たき火が原因の上位となっています。

このように「火」を扱う技術は人類史上、継承されてきたといいつつも、タバコ、火遊びが主原因になる時代も経て、現在では、例えばオール電化住宅など、そもそも身近な生活では「火」を使う必要のない生活スタイルにも浸透しつつあります。大げさな表現になりますが、火を使わない、火を扱うことができないということは、「サルからヒトへの進化」と逆の現象が起こっているといえなくもありません。人間が人間たりうるには「火」を制御する技術を身体化しておく。これは火災予防の観点からも重要なことだと思われます。

民俗展示室3「四国遍路」展示替えのお知らせ

3月 23日 木曜日

民俗展示室3「四国遍路」は、3月17日に一部資料の展示替えを行いました。
今回の展示替えでは、弘法大師空海の誕生から高野山入定、その後の高野臨幸に至るまでの様々の奇瑞・霊験などを絵入りの版本で紹介した『弘法大師御伝記』(寛文2・1662年)、弘法大師空海の弟子たちの事蹟を紹介した道猷著『弘法大師弟子譜』(天保13・1842年以降)、明治前期の四国霊場(阿波の札所)の霊験を伝える繁田空山著『八十八箇所四國霊験記圖會』(明治19・1886年)など、博物館が収集した弘法大師空海と四国遍路に関する新資料の一部を公開します。
博物館ご来館の際にはぜひとも、常設展示・民俗展示室3「四国遍路」の新資料もご覧ください。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」⑤

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「東予の古墳探訪」。



特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」21 宝永南海地震−松山市堀江町の記録−

3月 22日 水曜日

 『松山市史料集』に「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」という史料が所収されおり、宝永4(1707)年の南海地震による松山付近の被害などが記されているので紹介します。
 「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかります。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震が集中していたことを物語ります。そして史料には発生当日の10月4日から7日までは、一日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生三日後の10月7日から14日までは、一日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、二、三日に1度は余震があったと書かれています。この史料から、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになります。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れであり、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できます。

また、堀江村周辺はじめ松山地方の被害状況についても書かれています。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかったようです。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせています。

さて、この史料には津波被害の記述も見られます。ただし松山に襲来した津波ではなく、堀江村から九州方面に出漁していた漁民が経験し、伝聞した情報です。「大地震之時、豊後国佐伯鰯網之日用働ニ堀江村ゟ三拾人余参候処ニ、佐伯ニ而地震止、半刻程過申と常々ゟ汐干申候而其まゝ四海波汐之高サ四拾間余茂みち上リ其引汐ニ佐伯浦之家々沖ヘ不残引取申候、老女子共餘多死申候由、同十四日ニ漸命からがら仕合ニ而当村帰帆仕候」とあり、地震の際、堀江村の漁民30人余が豊後国佐伯領(現在の大分県佐伯市)のイワシ網の日傭稼ぎに出稼中で、佐伯湾外で操業していましたが、地震直後に湾を襲った津波で、佐伯の家々が沖に流され、数多くの死者が出ました。そして堀江村の漁民は地震発生の10日後の14日に、命からがら逃げ帰ったことがわかります。また大坂(現大阪府)では船の被害は815艘に及び、死者は1万2500人余であったと伝わっているとも記され、瀬戸内海各地でも被害が見られ、甘崎城(現今治市上浦町)などが被害を受けたほか、家屋倒壊による死者もいました。史料には、今後は家屋の被害があっても速やかに高所に避難することが教訓として書かれています。

以上、この「堀江村記録」は、宝永南海地震当日の様子のみならず、余震の状況、道後温泉の湧出が止まったこと、大坂、瀬戸内海各地、豊後水道特に佐伯地方での津波被害を伝える貴重な地震史料といえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」20 地震による道後温泉不出5

3月 20日 月曜日

宝永南海地震から約150年後の嘉永7/安政元(1854)年に安政南海地震が発生しました。このときに道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止しています(『松山市史』第1巻、39頁)。このように歴代南海地震では高い確率で湧出が止まっており、それは後に紹介する昭和南海地震でも同様でした。この安政南海地震は、嘉永7年11月5日に発生していますが、地震後すぐに不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されています。地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道二里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願したのです。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれています。この湯神社所蔵の額は、愛媛県内の地震災害に関する貴重な歴史資料といえますが、湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されています(『伊予の湯』82頁)。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかるのです。また次の南海地震、つまり昭和21(1946)年12月の昭和南海地震でも約70日間、湧出が停止しています。将来、南海トラフ地震が発生した場合、道後温泉の湯に何らかの異常が出る可能性は高く、現在、愛媛県を代表する観光地となっていることもあり、その経済的ダメージは大きくなるものと想定されます。

この、直近に発生した南海地震、昭和21年の昭和南海地震は、安政南海地震の92年後のことでした。平成28年は昭和南海地震からちょうど70年であり、やはり近い将来に南海トラフ巨大地震が発生してもおかしくはない状況と言えます。

昭和南海地震の発生翌日の昭和21年12月22日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載されています。「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」とあり、愛媛県内の死者26名を数え、地震直後に道後温泉が止まって、大きなニュースとなっていました。

愛媛新聞記事によると地震当日に湧出が止まり、3日後の12月24日には湯神社、伊佐爾波神社の神職が出湯祈願を行っています。道後温泉は宝永4(1707)年の宝永南海地震では約5ヶ月間、嘉永7(1854)年の安政南海地震では約3ヶ月間、湯の湧出が止まっており、昭和を含め、過去3回の南海地震で連続して不出被害が出ていることになります。ただし、昭和南海地震でも発生から1ヶ月後から徐々に地下水位が回復しはじめ、昭和22年3月には湧出が復活し、3月21日には復活を祝う温泉祭が開催され、市民による盛大な仮装行列も行われています(註:愛媛新聞 昭和22年3月22日記事)。

このように、道後温泉は南海地震で不出となりながらも、涸渇することはなく、結局は数ヶ月後には復活することが各種史料からわかっています。巨大地震を恐れ、無闇に将来を不安視するのではなく、過去の南海地震での不出・復活の歴史に学びながら、災害特性を把握して将来に備えるという態度が大切なのかもしれません。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」④

3月 19日 日曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「中予の古墳探訪」から。





特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」19 地震による道後温泉不出4

3月 18日 土曜日

宝永南海地震と道後温泉については、松山市立子規記念博物館編『伊予の湯』に『玉の石』が紹介されており、参考となります(『第三〇回特別企画展図録 伊予の湯』1994年、32頁)。これは道後温泉の案内記で僧曇海により元禄15(1702)年に成立したものです。温泉の由来や元禄15年当時の温泉が描かれており、道後温泉の詳細が把握できる史料として古いものといえます。この18世紀初頭成立の『玉の石』(別名『道後温泉由来記細書』)には宝永南海地震後に加筆された「大地震事」が含まれており(『道後温泉』281~283頁)、より具体的な被害の様子がわかります。「宝永四丁亥年十月四日未の刻に諸国大地震 爰に与州道後の温泉に数千浴し侍りけるに 一の湯釜の鳴うごく事をびたゞし 山も崩るゝ計にて 忽温泉止や否 数々の湯坪 一瞬の間に涸(かれ)にけり 湯中にある者ハたゞ池の魚の樋をぬかるゝに相同し 気をうしなひて宛転(ふしまろぶ) 適(たまたま)人心地有ものは自他の衣類をわきまへず 前後忘してさはぎあへり」とあり、湯は一瞬にして枯れ、湯に入っていた者は転倒したり、自分や他人の衣服もわからないほど騒いだりするなど、地震の際の入浴者の混乱状況がわかるのです。そして「湯守村長城下にはしり 急をつぐる事櫛の歯を挽くがごとし 又湯の町近辺の池井 木の葉をくゞる谷水まで一滴もなく同時に乾きぬ 往昔も度々此湯涸し事有といへ共 今更眼下に見る事驚にたえたり」とあり、すぐに湯守や村役人が城下に報告しましたが、道後では温泉だけではなく、池、井戸、谷水まで涸渇してしまい、しかも、それは初めての体験ではなく、以前にも不出を経験していたものの、目の当たりにして驚いたというのです。この以前の経験は貞享2(1686)年地震のことと思われます。そして「故に大守有司に命して 八幡宮湯の神社 其外所々の祈願所へ時日をうつさず(中略)社家に命して俄に玉の御石に仮の御殿をしつらひ注連をひき不浄をいましめ 社司爰に宮籠り 幣帛をさゝげ 十二番御(ばんかくらを)奏し(中略)又一の湯を精進屋とし 数輩の宮人殿籠(中略)明れば同五つのとし(中略)去年のかんな月四日より 昼夜の震動やむ事なく いかなる時か来りけんと精神をけづる計なり」とあり、涌出回復までの祈祷の様子がわかります。これについては『温泉祈祷・湯神社再興日記』(別名「太守様并郡方御祈祷覚帳并湯神社再興諸日記」〔宝永四年亥十月五日 烏谷備前控、湯神社蔵〕『道後温泉』306~311頁所収)にも詳しく載っています。

さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」③

3月 17日 金曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「南予の古墳探訪」。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

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