消防白書では、建物の焼損面積が33,000㎡(1万坪)以上の火災を「大火」と定義づけられています。戦後の日本では昭和41年青森県三沢市大火(焼損282棟、53,537㎡)、43年秋田県大館市大火(281棟、37,790㎡)、51年山形県酒田市大火(1,774棟、152,105㎡)などが知られ、平成に入ってから都市型大火は無くなったかと思われていましたが、平成28年12月には新潟県糸魚川市で147棟、約40,000㎡を焼損するという大火が発生しており、街や建物の耐火、防火対策が進んだ現在でも大規模火災が充分に起こりうることが再認識されたところです(註:災害情報学会編『災害情報学事典』2016年、342〜343頁)。また、平成29年2月には西予市野村町予子林でも強風に煽られて11棟が全焼するという火災も発生し、愛媛県内でも防火、防災に対する意識が高まっています。
明治時代以降の愛媛県内における「大火」は、戦時中の松山、今治、宇和島などの空襲被害を除くと、実は都市部では少なく、漁村、山村といった郡部で頻繁に発生しています。明治初期から昭和20年までの間で最も被害が大きかったのは、明治34(1901)年11月28日に発生した佐田岬半島西部の名取地区(当時は神松名村、現在の伊方町)の大火です。午前10時頃に名取地区の農家の納屋から出火し、強い西風にあおられて大火災となり、集落のほぼ全体にあたる204棟が全焼し、午後3時ごろようやく鎮火しました。888人が罹災する惨状となったのですが、急遽、八幡浜警察署、松山警察署、県警察部から職員を派遣し、57戸の仮小屋建設や救護に当たりました。同年12月2日、天皇・皇后両陛下から被災者に対し、救恤金250円の下賜もあり、全国的にも注目された火災でした。これが近代(明治から昭和20年)愛媛の最大の火災被害です。なお、名取地区には江戸時代の文化13(1816)年建立の鎮火地蔵も祀られており、明治34年以前にも火災による大きな被害があったことが推測できます。
そして、戦後最大の火災は昭和23(1948)年9月17日の長浜町(現大洲市)の大火です。午後0時半ごろに、長浜町港町の木工製作所の煙突から出た火の粉が、隣接した煮干製造、保管倉庫の屋根に着火し、北西の強風にあおられて町の四方に燃え広がりました。現場は家屋の密集地帯で、連日の旱天で乾燥していた屋根の杉皮に燃え移り大火となりました。長浜町の消防団、警察署だけではなく、喜多地区、大洲町警察署にも応援を求め、消防団約1,300名、警察官322名の協力で午後4時ごろ鎮火しました。被害家屋は全焼185棟、負傷者は重傷2人、軽傷60人、罹災者は788人、損害額は約1億円に達しました。
明治時代以降、50棟以上が被災した火災は他にもあり、明治13(1880)年11月16日の現松山市内の魚町付近の103棟、明治25(1892)年3月15日の現松山市の南八坂町の約50棟、明治29(1896)年8月13日、現愛南町の西外海村船越の約50棟、大正8(1919)年10月21日、現愛南町の東外海村字岩水の59棟、大正10(1921)年12月24日、現伊方町の伊方村大浜の65棟、昭和10(1935)年6月27日、現鬼北町の下鍵山地区の67棟などの火災の歴史が残り、大規模火災が、季節や地域を問わず発生していることがわかります。