2017 年 3 月 7 日 のアーカイブ

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」13 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―1

3月 7日 火曜日

『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、1974年発行)を参考にすると、愛媛県内で訶遇突智神(カグツチ)、火結神(ホノムスビ)などといった火にまつわる祭神を祀るのは80社(境内社含む)を確認することができます。そのうち愛宕神社は14社、秋葉神社は7社となっています。愛媛県は東・中・南予の三地域に分けられますが愛宕神社の分布を見ると東予2社、中予3社、南予9社と南予に多いという傾向が見られます。これは江戸時代から同じ傾向だったようで、東予の西条藩の詳細な地誌『西条誌稿本』では愛宕は1社のみが確認でき、土居村に愛宕、秋葉両権現を合祀した小祠があるという記述があります。愛宕と秋葉を合祀するのは当然、火除け、火伏せの願意からでしょうが、この合祀に抵抗がないことは愛宕信仰と秋葉信仰が競合しているわけではなく、共存していることを示しているといえます。愛媛県内では管見の限り、愛宕と秋葉が喧嘩した等の伝承は確認できず、京都の愛宕山や遠州の秋葉山と宗教者を介在させた直接的繋がりではなく、各在地の宗教者が火除け、火伏せの御利益を説いて祀られるようになったと推察できます。東予には小松藩もありましたが、その地誌『小松邑志』を見ても愛宕社は全く確認できません。中予の大部分は江戸時代は松山藩であり、その藩内の『伊予郡・和気郡・久米郡手鑑』の中に各村浦の神社が書き上げられています。しかし愛宕は1社も確認できません。ただし現在、神社庁管轄ではない小規模な愛宕社や愛宕山という地名は東予、中予にも少ないものの散見はできます。

それではなぜ、南予に愛宕社が多いのでしょうか。これは宇和島藩主伊達家による愛宕信仰が影響しているのが要因といえます。慶長20(1615)年に初代藩主伊達秀宗が東北仙台から宇和島に入部しますが、秀宗は伊達政宗の長子です。伊達家やその家臣が戦国時代より戦勝祈願として愛宕権現を尊崇していたことはよく知られています。宇和島藩の公的な編纂記録である『宇和島藩庁伊達家資料七 記録書抜・伊達家御歴代事記』によると「御入部後、秀宗様、御祈願被為在、毛山村之内御城より東之方一山に愛宕権現御造営二相成、御参詣道相作、数年相懸る」とあり、政宗の長子秀宗は宇和島に入った年に早くも愛宕権現の造営を開始し、そして元和9(1623)年にほぼ完成させています。

天和元(1681年)年成立の宇和島藩内の地誌『宇和旧記』には愛宕権現造営の詳細な記録があり、建物等には「愛宕山大権現堂」、「拝殿」、「愛宕山太郎坊堂」、「石鳥居」がありました。そして「愛宕山麓」に「地蔵院延命寺」という祈願所を設け、勝軍地蔵を祀っていることがわかります。この『宇和旧記』には棟札の写しも記載されており、愛宕大権現堂の開山法印は武蔵国秩父郡生まれの権大僧都清意で、奉行人は伊勢国生まれの川原吉右衛門家久、大工は山城国「宇多木郡水井住人」の藤原上松但馬守宗次、小工は「都六條住人」の辰巳右衛門尉定次であり、京都の人物名も確認できます。拝殿については奉行が奥州の武田監物成長らで、大工、小工は奥州や地元住人となっています。建立の大願主は伊達秀宗であり、願意は「御武運長久、国家安全」と棟札にあり、この時点で火除け、火伏せの願意は見られません。なお地蔵院延命寺は「愛宕山延命寺」とも記されていますが、延命寺に修験者がいたためこの町は江戸時代に「山伏町」と呼ばれ、現在でも「愛宕町」という地名となっています。延命寺は現在の愛宕町には存在せず、明治時代以降どのような経緯をたどったか不明ですが、現在は愛宕権現の流れをくむ「愛宕護神社」が愛宕町に近い宇和津彦神社に境内神社として合わせ奉祀されています。江戸時代には頻繁に火災が発生していた宇和島地域の愛宕信仰は、武運長久から火除けへと願意が移り変わる歴史が見て取れる事例として興味深いといえます。