2017 年 3 月 9 日 のアーカイブ

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」14 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―2

3月 9日 木曜日

明暦3(1657)年に宇和島藩主・伊達秀宗によって五男宗純を吉田藩主として宇和島藩から三万石が分知されますが、この吉田においても伊達家は愛宕の崇敬が篤かったようで、貞享5(1688)年に吉田の町並みの南の立間尻浦に宇和島から愛宕宮が勧請されています。明治末期頃編纂の『立間尻村誌』によると、明治時代になり愛宕宮から「峰住神社」と改称されて現在に至っていますが、祭神は火の神である火産霊神と伊邪那美神となっています。

江戸時代、吉田の町はたびたび大火に見舞われましたが、愛宕宮を氏神同様に崇敬していた裡町三丁目だけは被害を免れたため、その後、火防の神としての祭祀が強調されていきます。これは宇和島でも同様であり、宇和島、吉田といった城下や町方で初期には藩主による武運長久祈願、国家安全(藩主の病気平癒等も含む)の性格が強かったものが江戸時代の町方での火災の頻発とともに火防の性格が強くなってくるようです。これが宇和島、吉田藩領内の村浦に伝播していったことにより、他地域よりも南予において火防神としての愛宕社が数多く見られることになったと推定できます。

また、城川町教育委員会編『ふるさとの祭と神々』(1982年発行)によれば、東宇和郡城川町(現西予市)内の神社総数は明治時代の神社合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっています。現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において愛宕社の占める割合が非常に高かったことがわかります。この愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではありません。このことからも愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言えます。
なお、西予市城川町高川の高野子菊之谷では現在でも毎年12月24日に「愛宕精進」と呼ばれる行事があり、地区の男性が川の淵の中に入って水垢離をしています。これは昔、この地区で大火があったため「愛宕大明神」を祀ったとされ、かつては冬至から3日間断食をして朝昼晩と一日3回の行水を行って火災除難を祈願していたといいます。また、火防祈願行事としては西予市野村町野村の「乙亥相撲」も有名です。嘉永5(1852)年に当時の野村、阿下両集落が大火に見舞われ、当時の庄屋緒方氏が氏神の境内社であった愛宕社を再建し、それから百年間、毎年旧10月乙亥の日に、火難除災を祈願して相撲を奉納しました。百年目に当たる昭和27年に願相撲は終りましたが、現在でも毎年、愛宕神社から御霊を遷して、引き続き乙亥大相撲が盛大に行われています。

また、愛媛に残る愛宕曼荼羅について紹介しておきたいと思います。『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業―伊予市―』(愛媛県教育委員会、2012年発行)によると明治時代後半から大正時代に陶磁器生産の窯業で栄えた伊予市三島町では愛宕講(地元で「愛宕さん」と呼ばれる)が見られ、正月、5月、9月の23日に愛宕曼荼羅の掛軸を家々で回し、床の間に飾り小豆飯や菓子、かつてはあられを炒ったものを供えていました。窯業に伴う火を祀るとも言われています。この愛宕曼荼羅には勝軍地蔵を中心に天狗、太郎坊、地蔵、不動、毘沙門、前鬼、後鬼、役行者、狛犬が彩色で描かれており、絵具の種類から見ても江戸時代のものと推定できます。このように村社レベルや小祠としての祭祀ではなく講組織としての愛宕信仰の例も見られますが、火を扱う窯業地域でもあり、防火への祈りに関する事例といえます。

このように、人々の抱く火災に対する怖れが、様々な地域の伝統行事を継続する上で大きな要素となっており、これらは地域に伝承された防災民俗ともいえるでしょう。