2017 年 3 月 10 日 のアーカイブ

「古墳探訪」してきました

3月 10日 金曜日

歴博では、現在、特別展「はに坊と行く! えひめの古墳探訪」を開催中ですが、昨日、特別展関連企画「ヘルシー歴史ウォーク笠置峠を歩こう」に参加してきました。

まず、我々が向かったのは、JR伊予石城駅の北東にある「岩木赤坂古墳」。古墳時代中期、5世紀後半の古墳で、道路拡幅工事にあわせて20年前に一部だけ発掘調査が行われたということだそうですが、前方後円墳の可能性もあるということです。ここで採集された鉄製の甲冑の破片(写真)が、現在、歴博で展示されていますが、なんと畿内で製作されたのと同じものだということで、当時からモノも人も、かなり広範囲に動いていたようです。

次に、白壁の土蔵のある立派な古民家の多い集落内を通って、山に入ったところにある「河内奥ナルタキ古墳群」へ。ここは、古墳時代後期、6世紀後半から7世紀の古墳で、まるい形をした円墳が2つ残っており、手前の円墳の横穴式石室の中には入ることができます。中は、大きな石をきちんと積んで壁にし、結構広い空間となっていました。

続いて、奈良~平安の時期の寺院跡と考えられている「西ノ前遺跡」の横を通って、笠置街道登り口へ。この岩木地区は、古代南予の中心で、「宇和郡」の役所も置かれていたのではないかということです。
笠置街道は、八幡浜と宇和平野を結ぶ道で、シーボルトの娘イネも、この道を通って宇和に来たと言われています。また、九州方面などから来るお遍路さんも、この道を通ったようで、道の傍らには遍路墓も残っています。また、草花の隣には、地元のボランティアの方の手作りの解説板があり、案内標識も随所にあって迷うことなく、約50分で標高400mの峠の茶屋に到着。
峠には、お地蔵さまがあり、台座には、あげし(明石寺)二里十丁、いずし(出石寺)五里、やわたはま(八幡浜)二里という文字が見えます。

さあ目指す「笠置峠古墳」は、もう少し。この古墳は、四国の西南部では一番古いもので、4世紀の初め頃につくられたということです。古墳の上からの見晴らしは抜群で、宇和平野が眼下に見下ろされ、佐田岬半島もはっきり望めます。墳丘には、遺体が納められていた「石槨」が復元され、その周りには、地元の住民の方も手伝って「葺石」が積まれています。

この日は、風が強かったので、古墳の下の風の当たらないベンチの周辺で昼食をとり、再び笠置街道を釜倉(八幡浜市)まで下りました。かなり急な下り坂でしたが、落ち葉がうまくクッションとなり、20分ほどで全員無事、完歩することができました。

今回の特別展は、県民の皆様に、県内の古墳を訪れて楽しんでもらうためのきっかけとなればという趣旨ですので、ぜひご覧になっていただき、今回の特別展にあわせて制作した図録を片手に、気候もよくなっていますので、近くの古墳を探訪していただければ幸いです。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」15 8・9世紀に発生した南海地震

先に天武天皇13(684)年の白鳳南海地震について紹介しましたが、その次の南海地震は203年後の仁和3(887)年7月30日に発生しています。仁和南海地震と呼ばれ、国の歴史書『日本三代実録』には、午後4時頃に発生して数時間、揺れが止むことがなかったとあり、また約6時間後の午後10時頃に3回の地震が発生するなど、直後の余震、誘発地震が多く発生していたことがわかります。そして京都において、天皇は仁寿殿を出て、紫宸殿の南庭に「幄」(テントのような仮小屋)を建てて御在所とし、平安京では諸役所、庶民の家々が数多く倒壊し、圧死する者も出たり、失神して亡くなる者もいたりしました。京都だけではなく、五畿七道諸国つまり日本列島の広い範囲で大きな地震を感じ、地方の役所の建物も被害が多く、そして「海潮」が陸上に漲(みなぎ)ったとあります。これは大きな津波が襲来したことを示しています。溺死した者は数えることができないほどで、その中でも摂津国(現大阪府北部から兵庫県南東部)の被害が甚大であったと記されています。

この地震に関しては、愛媛県はじめ四国に関する文献史料(一次史料)は確認されていません。『愛媛県編年史』第一を確認しても仁和3年の伊予国関連の史料は載っていないのです。しかし五畿七道諸国でも被害があったとされ、伊予国でも被害を生じるほどの揺れを感じた可能性は高いといえます。

この仁和南海地震が最近注目されているのは、地震発生の仁和3年の18年前、貞観11(869)年5月26日に「陸奧国地大震動」、つまり現在の東北地方太平洋沖で発生した大地震との関連です。この貞観地震は2001年3月11日の東日本大震災が「千年に一度の大地震」といわれていますが、その千年前の地震にあたるのです。東北地方での貞観地震が発生した18年後に西日本において仁和地震が発生しており、貞観地震が仁和地震を誘発したと短絡的に断定できませんが、平安時代の9世紀後半に東北地方、そして西日本で大きな地震による被害の記録が残っているのは事実なのです。

もう一つ、注目すべきは白鳳地震から仁和地震まで203年の間隔が空いていることです。江戸時代以降の宝永、安政、昭和南海地震は100~150年周期で発生していますが、白鳳と仁和では200年と間隔が広いのです。この間に未知の南海地震があった可能性も否定はできないとする説もあります。それが白鳳南海地震と仁和南海地震のほぼ中間時期にあたる延暦13(794)年の地震だとする説があり、『日本紀略』延暦13年7月10日条に「震于宮中并京畿官舎及人家。或有震死者」との記述があります。延暦年間は地震の多発した時期でした。直後の延暦15年に四国を一周していた南海道のうち、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)の海岸部を通っていた道路が廃止をされ、新道が使われるようになっており、これが延暦13年の南海地震による海岸線被害と関連する可能性も指摘されています。この説のとおり実際に未知の南海地震であったのか、現在、『日本紀略』や『類聚国史』などの古代の基礎史料を中心に、その検証が行われています。