今後30年以内に70%程度の確率で発生が予想されている南海トラフ巨大地震(東海地震・東南海地震・南海地震の三連動地震)ですが、南海トラフを震源とする巨大地震は過去にも100年から150年の周期で発生していることが各種史料から明らかとなっています。南海トラフ地震に関する文献史料として最古の記録が『日本書紀』天武天皇13年(684)年10月14日条の白鳳南海地震です。この条には「壬辰、人定に逮りて、大きに地震る。国挙りて男女叫び唱ひて、不知東西ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出でず。土佐国の田苑五十万頃、没れて海と為る」とあり、まず「伊予温泉」つまり松山市の道後温泉の湯が止まり、土佐国で地盤が沈降して海水が浸入したこと等が記されています。つまり南海地震に関する最古の文字記録の中で、最初に登場する地名が「伊予」であり、道後温泉の被害が中央(朝廷)でも注目されていたことがわかります。
そして道後温泉はこの白鳳南海地震だけではなく、100年から150年周期の歴代の南海地震等によってたびたび湧出が止まっています。このことは松山市発行の『道後温泉』(「道後温泉」編集委員会編『道後温泉』松山市、1982年、101~106頁)や高橋治郎氏「地震と道後温泉」(『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、2014年)にて紹介されていますが、ここでは歴代南海地震での不出や復旧の様子をより具体的に紹介してみたいと思います。
まず『道後明王院旧記』という史料があります。これは道後温泉の管理にあたっていた明王院の記録で、成立は江戸時代であり、一次史料としては扱えませんが、参考までに紹介しておきます。明王院については、江戸時代初期に町奉行が道後温泉の支配を行っていましたが、その後、藩主の別荘であった道後御茶屋の御茶屋番が温泉の管理を行い、元禄年間頃に御茶屋番が廃止され、修験の明王院が温泉の鍵を預かり、温泉を司るようになっています。それが明治時代初期の修験道廃止まで続いたという経緯がありました。この明王院の記録の中に、まず推古天皇13(605)年に「温泉陥没す」とあり(『道後温泉』102頁)、次に推古36(628)年に地震にて温泉が不出となり、三年を経て、舒明2年9月に出たといいます(『道後温泉』102頁)。684年の白鳳南海地震よりも古い記録で、『予陽郡郷俚諺集』にも「人王三十四代推古天皇三十六年、地震して温泉没して不出、三年を経て舒明天皇三年九月、温泉再出て元の如し」と見えます(伊予史談会編『伊予史談会双書第15集 予陽郡郷俚諺集 伊予古蹟志』1987年、20頁)。これも史料の成立年代が江戸時代であり、同時代の一次史料ではない点と、他にこの7世紀前半に同様の地震記録が確認できないことから、史実かどうか信憑性は高くはないと判断できます。ただし『予陽郡郷俚諺集』は宝永7(1710)年の完成であり、宝永南海地震の直後にあたります。編者の松山藩家老奥平氏は宝永南海地震の際の道後温泉不出を目の当たりにしていると思われ、本文中に温泉不出の歴史を詳述した契機になったとも推察できるのです。(つづく)