2017 年 3 月 13 日 のアーカイブ

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」17 地震による道後温泉不出2

3月 13日 月曜日

先に挙げたとおり天武天皇13(684)年の白鳳南海地震で道後温泉が不出となりました。これは『道後明王院旧記』にも見えますが、国史である『日本書紀』に明記され、しかもその年代が律令制期に入って地方からの情報も正確に収集できる時期の史料なので、これは史実といえるでしょう。その次に、温泉不出となった記録は、一気に中世まで新しくなりますが、享禄年中(1528~31年)に賊徒と戦い、太刀の血を洗うと、温泉が枯れ、湯神社に祈れば湧出したということが『予陽郡郷俚諺集』に記され、『道後温泉』では地震史料として扱われています。しかしこれは史料の記述内容や、同時期の地震被害の記録が県内や全国の他地域でも確認できないことから、地震による不出かどうか判断はできません。

江戸時代に入ると、『道後明王院旧記』に慶長19(1614)年10月25日に「大地震、温泉を埋む」とあります。『松山叢談』にも「慶長十九年十月廿五日、寛永二年乙丑三月十八日共に地震して湯出ず、其の後月を越て又出で初の如し」と記されています(曽我鍛編『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』予陽叢書刊行会、1935年、113頁)。この慶長19年10月25日の地震は関東地方、北陸地方から四国地方に到るまでの広い範囲で史料が残っているものの、その実態はよくわかっていません。震源域が日本海なのかそれとも東海や南海なのか諸説があります。『松山叢談』は明治初期に秋山久敬らが旧藩主、旧藩士に伝わる記録等をもとに編纂された松山藩の歴史を知る上で基本となる史料であり、それらに記載されていることから信憑性は高いといえます。高橋治郎氏は『道後明王院旧記』の記述から、これは温泉不出とはいえず、斜面崩壊により道後温泉が埋まったと解説しています。ただし『松山叢談』に「湯出でず」そして翌月以降に再湧出したことが記されているので、地震による温泉不出の事例として扱ってもいいのではないでしょうか。

次に『松山叢談』に記されている寛永2(1625)年の地震があります。『久米八幡宮記記録抜書』に「一、寛永二年御先代様之時分、大地震之時、道後温泉不出、湯之岡ニ仮社ヲ建」と記され(『道後温泉』102頁)、この地震は3月18日に発生したものの詳細な記録がなく、どのような地震だったのかは不明な点が多いのです。しかしその3ヶ月前には安芸国(広島県)にて、3ヶ月後に熊本で地震被害の記録が残り、西日本で連続して地震被害が出ています。この約30年前には文禄5(1596)年7月に中央構造線断層帯を震源と推定される、いわゆる慶長伊予地震、豊後地震、伏見地震が連続して発生していますが、この寛永2年の地震も中央構造線断層帯に沿って広島、松山、熊本と連続して発生している可能性もあります。文禄5年(慶長地震)から約30年しか経過していないことから、余震もしくは誘発地震に該当するかどうかも検討対象となってくると思われます。平成28年4月の熊本地震以来、中央構造線断層帯を震源とする地震の歴史が注目され、特に慶長地震は取り上げられる機会が増えましたが、寛永2年の地震についても愛媛県、道後温泉と中央構造線断層帯関連で無視することはできないと言えます。同様記事は『予陽郡郷俚諺集』、『道後明王院旧記』、『小松邑志』にも記載があるなど史料が比較的豊富なので、今後、検証が必要となる地震だと思われます。