2017 年 3 月 16 日 のアーカイブ

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」②

3月 16日 木曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「プロローグ 古墳探訪の世界へ」から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」18 地震による道後温泉不出3

江戸時代中期以降になると残された史料も多く、必然的に地震記録も多く見られるようになります。まず『松山叢談』には、貞享2(1686)年12月4日に大地震があって「道後湯没す」とあり、『予陽郡郷俚諺集』には、これを同年12月10日のことと記し、不出となったのではなく「大地震泥湯湧出、後青湯となる」とあります(『松山叢談』334頁、『予陽郡郷俚諺集』21頁)。つまり湯は止まらなかったけれども泥湯(濁った湯)が出てしまい、その後、元の「青湯」に戻ったというのです。大正15年発行『道後温泉誌』に編年体で温泉の歴史が記されていますが、その中でも「貞享三年十二月十日、地又震ひ清泉変して黄濁す、暫時にして旧に復せり」とあります(『道後温泉誌』道後温泉事務所発行、1926年、10〜13頁)。これも温泉における地震被害を知る上で貴重な記述であり、将来の地震による被害予測でも、温泉不出とならなくても泥湯が出てしまって温泉機能が停止する可能性があるといえるでしょう。この貞享2年12月の地震は安芸国、伊予国での被害記録が見られるため、平成13年に発生した芸予地震に類するタイプの地震だと思われます。

次に大きな被害の出た宝永南海地震についてです。現在、道後の湯神社では毎年3月19日に湯祈祷が行われています。湯祈祷は宝永南海地震によって温泉が不出となったものの再び湧出したことから、それに感謝して神楽を奉納されたのが起源であり、その宝永南海地震の際の道後温泉の様子を紹介したいと思います。

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震による被害は、『松山市史』にも紹介されていますが、145日間も温泉の湧出が停止し、松山藩主松平定直が湯神社に祈祷を仰せ付けています。『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり(『垂憲録・垂憲録拾遺』伊予史談会、1986年発行、130頁、『松山市史』第1巻、松山市、1992年、38頁)、被害の概要がわかります。この『垂憲録拾遺』は文政8(1825)年に成立した松山藩主歴代の事績をまとめた『垂憲録』の拾遺として藩士竹内信英が天保6(1835)年頃に編纂した史料であり、信憑性は高いものです。また、『諸事頭書之控』に地震での温泉不出後の様子が書かれています。「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり(『諸事頭書之控』伊予史談会、1988年発行、87頁)、地震翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになったことがわかります。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあります(『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』1935年発行、391〜392頁)。このように急に湧出が回復したのではなく、地震発生から約4ヶ月後から少しづつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかっています。