Archive for 3月, 2017

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」21 宝永南海地震−松山市堀江町の記録−

2017年3月22日

 『松山市史料集』に「元禄・宝永・正徳・享保年代堀江村記録」という史料が所収されおり、宝永4(1707)年の南海地震による松山付近の被害などが記されているので紹介します。
 「十月四日未刻ゟ大地震ゆり出し同申刻迄大地震」とあり、10月4日の未刻(午後2時頃)から申刻(午後4時頃)まで大きな揺れがあったことがわかります。「大地震」が約2時間続いたというのは本震の前後に大きな余震が集中していたことを物語ります。そして史料には発生当日の10月4日から7日までは、一日に8、9回の余震が続き、人々は屋外の仮小屋で過ごし、発生三日後の10月7日から14日までは、一日に3、4回の余震が続き、その後は翌年正月(本震から約2ヶ月後)まで、二、三日に1度は余震があったと書かれています。この史料から、本震発生から数ヶ月間は頻繁に余震を感じていたことになります。これは伝聞情報ではなく、当時の堀江村(現松山市)で感じた揺れであり、当然、伊予国(愛媛県)全体でも同様の状況であったと推察できます。

また、堀江村周辺はじめ松山地方の被害状況についても書かれています。まず安城寺村では瓦葺の長屋が倒壊したものの、それ以外は大きな被害はなかったとあり、堀江周辺では建物の倒壊は少なかったようです。しかし、10月4日の本震によって、「道後之湯之泉留リ申候」とあるように道後温泉の湧出が止まったと記され、松山藩主は地震からの復旧を祈願して、藩領内の七つの寺社、つまり道後八幡宮(伊佐爾波神社)、石手寺、薬師寺、味酒明神(阿沼美神社)、祝谷天神(松山神社)、太山寺、大三嶋明神(大山祇神社)にて祈祷を行わせています。

さて、この史料には津波被害の記述も見られます。ただし松山に襲来した津波ではなく、堀江村から九州方面に出漁していた漁民が経験し、伝聞した情報です。「大地震之時、豊後国佐伯鰯網之日用働ニ堀江村ゟ三拾人余参候処ニ、佐伯ニ而地震止、半刻程過申と常々ゟ汐干申候而其まゝ四海波汐之高サ四拾間余茂みち上リ其引汐ニ佐伯浦之家々沖ヘ不残引取申候、老女子共餘多死申候由、同十四日ニ漸命からがら仕合ニ而当村帰帆仕候」とあり、地震の際、堀江村の漁民30人余が豊後国佐伯領(現在の大分県佐伯市)のイワシ網の日傭稼ぎに出稼中で、佐伯湾外で操業していましたが、地震直後に湾を襲った津波で、佐伯の家々が沖に流され、数多くの死者が出ました。そして堀江村の漁民は地震発生の10日後の14日に、命からがら逃げ帰ったことがわかります。また大坂(現大阪府)では船の被害は815艘に及び、死者は1万2500人余であったと伝わっているとも記され、瀬戸内海各地でも被害が見られ、甘崎城(現今治市上浦町)などが被害を受けたほか、家屋倒壊による死者もいました。史料には、今後は家屋の被害があっても速やかに高所に避難することが教訓として書かれています。

以上、この「堀江村記録」は、宝永南海地震当日の様子のみならず、余震の状況、道後温泉の湧出が止まったこと、大坂、瀬戸内海各地、豊後水道特に佐伯地方での津波被害を伝える貴重な地震史料といえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」20 地震による道後温泉不出5

2017年3月20日

宝永南海地震から約150年後の嘉永7/安政元(1854)年に安政南海地震が発生しました。このときに道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止しています(『松山市史』第1巻、39頁)。このように歴代南海地震では高い確率で湧出が止まっており、それは後に紹介する昭和南海地震でも同様でした。この安政南海地震は、嘉永7年11月5日に発生していますが、地震後すぐに不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されています。地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道二里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願したのです。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれています。この湯神社所蔵の額は、愛媛県内の地震災害に関する貴重な歴史資料といえますが、湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されています(『伊予の湯』82頁)。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかるのです。また次の南海地震、つまり昭和21(1946)年12月の昭和南海地震でも約70日間、湧出が停止しています。将来、南海トラフ地震が発生した場合、道後温泉の湯に何らかの異常が出る可能性は高く、現在、愛媛県を代表する観光地となっていることもあり、その経済的ダメージは大きくなるものと想定されます。

この、直近に発生した南海地震、昭和21年の昭和南海地震は、安政南海地震の92年後のことでした。平成28年は昭和南海地震からちょうど70年であり、やはり近い将来に南海トラフ巨大地震が発生してもおかしくはない状況と言えます。

昭和南海地震の発生翌日の昭和21年12月22日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載されています。「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」とあり、愛媛県内の死者26名を数え、地震直後に道後温泉が止まって、大きなニュースとなっていました。

愛媛新聞記事によると地震当日に湧出が止まり、3日後の12月24日には湯神社、伊佐爾波神社の神職が出湯祈願を行っています。道後温泉は宝永4(1707)年の宝永南海地震では約5ヶ月間、嘉永7(1854)年の安政南海地震では約3ヶ月間、湯の湧出が止まっており、昭和を含め、過去3回の南海地震で連続して不出被害が出ていることになります。ただし、昭和南海地震でも発生から1ヶ月後から徐々に地下水位が回復しはじめ、昭和22年3月には湧出が復活し、3月21日には復活を祝う温泉祭が開催され、市民による盛大な仮装行列も行われています(註:愛媛新聞 昭和22年3月22日記事)。

このように、道後温泉は南海地震で不出となりながらも、涸渇することはなく、結局は数ヶ月後には復活することが各種史料からわかっています。巨大地震を恐れ、無闇に将来を不安視するのではなく、過去の南海地震での不出・復活の歴史に学びながら、災害特性を把握して将来に備えるという態度が大切なのかもしれません。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」④

2017年3月19日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「中予の古墳探訪」から。





特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」19 地震による道後温泉不出4

2017年3月18日

宝永南海地震と道後温泉については、松山市立子規記念博物館編『伊予の湯』に『玉の石』が紹介されており、参考となります(『第三〇回特別企画展図録 伊予の湯』1994年、32頁)。これは道後温泉の案内記で僧曇海により元禄15(1702)年に成立したものです。温泉の由来や元禄15年当時の温泉が描かれており、道後温泉の詳細が把握できる史料として古いものといえます。この18世紀初頭成立の『玉の石』(別名『道後温泉由来記細書』)には宝永南海地震後に加筆された「大地震事」が含まれており(『道後温泉』281~283頁)、より具体的な被害の様子がわかります。「宝永四丁亥年十月四日未の刻に諸国大地震 爰に与州道後の温泉に数千浴し侍りけるに 一の湯釜の鳴うごく事をびたゞし 山も崩るゝ計にて 忽温泉止や否 数々の湯坪 一瞬の間に涸(かれ)にけり 湯中にある者ハたゞ池の魚の樋をぬかるゝに相同し 気をうしなひて宛転(ふしまろぶ) 適(たまたま)人心地有ものは自他の衣類をわきまへず 前後忘してさはぎあへり」とあり、湯は一瞬にして枯れ、湯に入っていた者は転倒したり、自分や他人の衣服もわからないほど騒いだりするなど、地震の際の入浴者の混乱状況がわかるのです。そして「湯守村長城下にはしり 急をつぐる事櫛の歯を挽くがごとし 又湯の町近辺の池井 木の葉をくゞる谷水まで一滴もなく同時に乾きぬ 往昔も度々此湯涸し事有といへ共 今更眼下に見る事驚にたえたり」とあり、すぐに湯守や村役人が城下に報告しましたが、道後では温泉だけではなく、池、井戸、谷水まで涸渇してしまい、しかも、それは初めての体験ではなく、以前にも不出を経験していたものの、目の当たりにして驚いたというのです。この以前の経験は貞享2(1686)年地震のことと思われます。そして「故に大守有司に命して 八幡宮湯の神社 其外所々の祈願所へ時日をうつさず(中略)社家に命して俄に玉の御石に仮の御殿をしつらひ注連をひき不浄をいましめ 社司爰に宮籠り 幣帛をさゝげ 十二番御(ばんかくらを)奏し(中略)又一の湯を精進屋とし 数輩の宮人殿籠(中略)明れば同五つのとし(中略)去年のかんな月四日より 昼夜の震動やむ事なく いかなる時か来りけんと精神をけづる計なり」とあり、涌出回復までの祈祷の様子がわかります。これについては『温泉祈祷・湯神社再興日記』(別名「太守様并郡方御祈祷覚帳并湯神社再興諸日記」〔宝永四年亥十月五日 烏谷備前控、湯神社蔵〕『道後温泉』306~311頁所収)にも詳しく載っています。

さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」③

2017年3月17日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「南予の古墳探訪」。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」②

2017年3月16日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「プロローグ 古墳探訪の世界へ」から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」18 地震による道後温泉不出3

江戸時代中期以降になると残された史料も多く、必然的に地震記録も多く見られるようになります。まず『松山叢談』には、貞享2(1686)年12月4日に大地震があって「道後湯没す」とあり、『予陽郡郷俚諺集』には、これを同年12月10日のことと記し、不出となったのではなく「大地震泥湯湧出、後青湯となる」とあります(『松山叢談』334頁、『予陽郡郷俚諺集』21頁)。つまり湯は止まらなかったけれども泥湯(濁った湯)が出てしまい、その後、元の「青湯」に戻ったというのです。大正15年発行『道後温泉誌』に編年体で温泉の歴史が記されていますが、その中でも「貞享三年十二月十日、地又震ひ清泉変して黄濁す、暫時にして旧に復せり」とあります(『道後温泉誌』道後温泉事務所発行、1926年、10〜13頁)。これも温泉における地震被害を知る上で貴重な記述であり、将来の地震による被害予測でも、温泉不出とならなくても泥湯が出てしまって温泉機能が停止する可能性があるといえるでしょう。この貞享2年12月の地震は安芸国、伊予国での被害記録が見られるため、平成13年に発生した芸予地震に類するタイプの地震だと思われます。

次に大きな被害の出た宝永南海地震についてです。現在、道後の湯神社では毎年3月19日に湯祈祷が行われています。湯祈祷は宝永南海地震によって温泉が不出となったものの再び湧出したことから、それに感謝して神楽を奉納されたのが起源であり、その宝永南海地震の際の道後温泉の様子を紹介したいと思います。

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震による被害は、『松山市史』にも紹介されていますが、145日間も温泉の湧出が停止し、松山藩主松平定直が湯神社に祈祷を仰せ付けています。『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり(『垂憲録・垂憲録拾遺』伊予史談会、1986年発行、130頁、『松山市史』第1巻、松山市、1992年、38頁)、被害の概要がわかります。この『垂憲録拾遺』は文政8(1825)年に成立した松山藩主歴代の事績をまとめた『垂憲録』の拾遺として藩士竹内信英が天保6(1835)年頃に編纂した史料であり、信憑性は高いものです。また、『諸事頭書之控』に地震での温泉不出後の様子が書かれています。「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり(『諸事頭書之控』伊予史談会、1988年発行、87頁)、地震翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになったことがわかります。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあります(『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』1935年発行、391〜392頁)。このように急に湧出が回復したのではなく、地震発生から約4ヶ月後から少しづつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかっています。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」①

2017年3月15日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。まずは基礎知識から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

特別展関連講座のご報告

2017年3月14日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、関連講座の結果についてご報告します。

3月12(日)には体験学習講座「東予の古墳探訪」を行いました。参加者約30名。今回写真展示をしている今治市妙見山1号墳、同野々瀬古墳群を現地で見学いただくとともに、出土品を展示している同相の谷1号墳を見学していただきました。また、車窓からの見学になりますが、西条市天神古墳群の近くを通るルートで実施しました。参加者には5歳から80代の方までおられ、展示室では体験することができない古墳探訪の魅力を感じていただいたことと思います。

3月4日(土)には考古講座「えひめの埴輪を探る!」(講師:山内英樹氏)を開催しました。参加者約30名。これまでの研究成果をわかりやすく解説していただきました。受講者には小学生の姿もありました。

2月18日(土)には考古講座「特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪のみどころ」」を開催しました。参加者約50名。今回の展示の趣旨・開催経緯・みどころを簡単に紹介しました。講座終了後には展示解説も実施しました。

講座にご参加いただいたみなさんにお礼申し上げます。
3月26日(日)13:30から展示解説も実施します。是非ご参加ください。特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」17 地震による道後温泉不出2

2017年3月13日

先に挙げたとおり天武天皇13(684)年の白鳳南海地震で道後温泉が不出となりました。これは『道後明王院旧記』にも見えますが、国史である『日本書紀』に明記され、しかもその年代が律令制期に入って地方からの情報も正確に収集できる時期の史料なので、これは史実といえるでしょう。その次に、温泉不出となった記録は、一気に中世まで新しくなりますが、享禄年中(1528~31年)に賊徒と戦い、太刀の血を洗うと、温泉が枯れ、湯神社に祈れば湧出したということが『予陽郡郷俚諺集』に記され、『道後温泉』では地震史料として扱われています。しかしこれは史料の記述内容や、同時期の地震被害の記録が県内や全国の他地域でも確認できないことから、地震による不出かどうか判断はできません。

江戸時代に入ると、『道後明王院旧記』に慶長19(1614)年10月25日に「大地震、温泉を埋む」とあります。『松山叢談』にも「慶長十九年十月廿五日、寛永二年乙丑三月十八日共に地震して湯出ず、其の後月を越て又出で初の如し」と記されています(曽我鍛編『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』予陽叢書刊行会、1935年、113頁)。この慶長19年10月25日の地震は関東地方、北陸地方から四国地方に到るまでの広い範囲で史料が残っているものの、その実態はよくわかっていません。震源域が日本海なのかそれとも東海や南海なのか諸説があります。『松山叢談』は明治初期に秋山久敬らが旧藩主、旧藩士に伝わる記録等をもとに編纂された松山藩の歴史を知る上で基本となる史料であり、それらに記載されていることから信憑性は高いといえます。高橋治郎氏は『道後明王院旧記』の記述から、これは温泉不出とはいえず、斜面崩壊により道後温泉が埋まったと解説しています。ただし『松山叢談』に「湯出でず」そして翌月以降に再湧出したことが記されているので、地震による温泉不出の事例として扱ってもいいのではないでしょうか。

次に『松山叢談』に記されている寛永2(1625)年の地震があります。『久米八幡宮記記録抜書』に「一、寛永二年御先代様之時分、大地震之時、道後温泉不出、湯之岡ニ仮社ヲ建」と記され(『道後温泉』102頁)、この地震は3月18日に発生したものの詳細な記録がなく、どのような地震だったのかは不明な点が多いのです。しかしその3ヶ月前には安芸国(広島県)にて、3ヶ月後に熊本で地震被害の記録が残り、西日本で連続して地震被害が出ています。この約30年前には文禄5(1596)年7月に中央構造線断層帯を震源と推定される、いわゆる慶長伊予地震、豊後地震、伏見地震が連続して発生していますが、この寛永2年の地震も中央構造線断層帯に沿って広島、松山、熊本と連続して発生している可能性もあります。文禄5年(慶長地震)から約30年しか経過していないことから、余震もしくは誘発地震に該当するかどうかも検討対象となってくると思われます。平成28年4月の熊本地震以来、中央構造線断層帯を震源とする地震の歴史が注目され、特に慶長地震は取り上げられる機会が増えましたが、寛永2年の地震についても愛媛県、道後温泉と中央構造線断層帯関連で無視することはできないと言えます。同様記事は『予陽郡郷俚諺集』、『道後明王院旧記』、『小松邑志』にも記載があるなど史料が比較的豊富なので、今後、検証が必要となる地震だと思われます。