2017 年 4 月 のアーカイブ

中国四国名所旧跡図27 阿州地蔵寺并奧院

4月 26日 水曜日

大鳴門の渦潮の雄大な景色を楽しんだ西丈は、阿波の札所を1番から順に廻り始めたものと思われる。このあたりは「阿波十里十ケ所」といわれる近距離に札所が集中している地域であるが、その中で西丈は5番札所の地蔵寺を描いている。

縁起によると、地蔵寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願で当地において勝軍地蔵を刻み、堂宇を建立したことに始まるとされている。また、「四国徧礼霊場記」(元禄2年刊)には、後宇多天皇の時代に、住持の定宥が熊野権現の霊託により地蔵尊を造立、その中に弘法大師作の小仏を奉納し、あわせて造立した阿弥陀と薬師を脇侍としたことが記されている。地蔵寺は古くから武将たちの信仰を集め、室町期に寺運が興隆、境内に多くの塔頭をもつ大寺院に成長したが、天正10(1582)年に長宗我部元親の兵火により焼失。江戸時代に入り、徳島藩主蜂須賀氏により再建されている。

西丈は地蔵寺を描いてはいるものの、むしろその目は、地蔵寺の北側の高台に位置する奧之院に注がれている。『阿波名所図会』(文化11年刊)には、このあたりに羅漢原という土地があり、宝暦の頃から願主が浄財を集めて、羅漢堂の広大な精舎を創建したとある。この羅漢堂が西丈の描く奧之院である。

2階建ての堂の両脇から回廊が伸びて、2棟の別棟へとつながっている。羅漢堂はこの3つの堂がセットで、ここを巡ることによって500体の羅漢像を参詣する仕掛けになっていた。「四国遍礼名所図会」(寛政12年)は、奧之院について「中尊釈迦如来、左弥勒菩薩、右大師、各大仏」と記し、西丈よりもさらに精密に羅漢堂を描写している。

羅漢堂については、先に記した『阿波名所図会』に描かれた挿絵も興味深い。中央の二階建て部分に大仏が鎮座し、右の建物には弘法大師坐像と思われるものが描かれている。回廊に部分は2段に五百羅漢が並んでいるが、『阿波名所図会』の挿絵は、建物の内部がわかるように透視して描く趣向になっている。

元禄8(1695)年、江戸の本所に羅漢寺が創建、その後享保11(1726)年までに本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍が完成している。そのうち、東西羅漢堂には、松雲元慶の造立した五百羅漢像が安置されているが、この羅漢堂は参詣者が定められた順路より堂内を歩き回ることで、羅漢像を拝観する仕掛けになっていたという。その後、『江戸名所図会』(天保年間)に羅漢寺は大きく取り上げられており、評判を呼んだ様子がうかがえる。地蔵寺奧之院の羅漢堂はそうした江戸での人気を知り、参詣者のために新たに付け加えられた要素なのかもしれない。そのインパクトは西丈にとっても大きかったようで、竜宮城にも見える不思議なこの建物を、札所よりも大きく描いてしまっている。

常設展 愛媛の祭礼図

4月 23日 日曜日

常設展示室の「祭りと芸能」の展示替えで、当博物館所蔵の祭礼図を列品しました。昭和初期の宇和島八ツ鹿踊りの古写真、吉田秋祭りを描いた「吉田祭礼絵巻」(中野本、栗田本、松末本、青木本の4点)、西条市氷見の石岡神社祭礼渡御行列之図(昭和初期)などです。期間は7月中旬までとなっています。

写真は上から、
 石岡神社祭礼渡御行列之図(右部分)
 石岡神社祭礼渡御行列之図(左部分)
 吉田祭礼絵巻(栗田本)の鹿踊と牛鬼
の順となっています。

特別展「迷路絵本」ベビーカー内覧会

4月 22日 土曜日

4月22日(土)の特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」開幕に先立ち、21日(金)に未就学児連れの親子対象の「ベビーカー内覧会」が行われました。

ベビーカー内覧会には、10組、約30名の参加者があり、親子で迷路などに挑戦していただきました。

巨大な床迷路を、歩きながら解いて楽しんだり、

香川元太郎さんの迷路絵本をパネル化して、迷路、かくし絵、クイズにチャレンジ。

高さ240センチにひきのばした壁迷路で、かくし絵をさがしてみたり、

展示室全体が立体迷路風になっており、クイズに挑戦しながら、正解すれば次に進むことができる。

今回の展示は、かくし絵・迷路絵本作者で歴史考証イラスト画家の香川元太郎さん(松山市ご出身)の作品を体感できる内容になっています。

会期は4月22日(土)から6月25日(日)までとなっています。ぜひご来場下さい。

特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギ世界」の内容はコチラ
http://www.i-rekihaku.jp/exhibition/index.html#ehon

テーマ展「よろいかぶと」、まもなく開幕です!!

4月 20日 木曜日

文書展示室では、4月22日(土)からテーマ展「よろいかぶと」を開催します。展示では、古代のよろいから江戸時代の大名家のものまで、「よろいかぶと」の移り変わりを紹介します。

現在は、開幕に向けて列品作業中。

大名家の「よろいかぶと」を慎重に展示していきます。博物館が収蔵する「よろいかぶと」を一堂に展示する機会はこれまでありませんでしたが、大きなケースの中にずらっと並んだ様子は壮観です。

展示室内には、「かぶと」を自由にかぶって、記念写真を撮ることができるコーナーもあります。

5月5日から7日は、この場所でよろい武者に変身するイベントも行います。ふるってご参加ください。

よろい武者に変身★
5月5日~7日
10:00~12:00(受付は9:00~)
13:00~15:00(受付は12:30~)
参加費:当日の常設展示観覧券か共通観覧券が必要です。
定員:各日60人(定員になり次第、終了いたします)

「愛媛のくらし」展示室の鯉のぼり♪

4月 18日 火曜日

4月も半ば。もうすぐ端午の節句です。「愛媛のくらし」展示室に、鯉のぼりが登場しました。
鯉のぼりは、男の子の立身出世を祈って、江戸時代中期頃から作り始めたとされます。明治末年までは紙製が多く、昭和に入ってからは布製が多くなりました。
展示しているのは、昭和25(1950)年、八幡浜市の若松旗店で作られた鯉のぼりです。
展示室には青い空もそよぐ風もありませんが、真鯉(黒い鯉)と緋鯉は悠然と泳いでおります。

【設営中】特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」

4月 16日 日曜日

4月22日(土)開幕の特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」。

現在、展示室内の設営中です。

立体迷路風となる展示室内に、壁パネルを建てる作業がひと段落。

その壁面は、香川元太郎さんの迷路作品を大きく引き伸ばしています。

『物語の迷路』にでてくるガリバー旅行記。

展示担当者よりも、大きいガリバーのできあがりです。

これからクイズパネルや、原画作品を列品する予定です。

なお、開幕前日のベビーカー内覧会は現在、参加者募集中です。

日時:4月21日(金)10:30~17:00
定員:30組
観覧料:無料
※要事前予約〈お申し込み先〉愛媛県歴史文化博物館 TEL:0894-62-6222

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」30 「災害」・「わざわい」の語源

4月 13日 木曜日

現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。

日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。

なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。

さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。

ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」29 宝永南海地震・津波と宇和島②―被害の状況―

4月 10日 月曜日

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震では、前項で紹介したように現在の宇和島市街地、特に枡形町、新町、佐伯町、元結掛などが2m以上の津波に襲われています。津波の到達地点については、宇和島藩伊達家史料『記録書抜』に「汐、数馬屋敷前迄道ヘハ上ル、堀之内御材木蔵前迄上ル」とあり、志後野迫希世氏によると、数馬とは藩の家老職を務めた桜田数馬のことであり、その屋敷は現在の市立宇和島病院付近とのことで、御材木蔵は宇和島城の南西側にあり、現在の宇和島東高校の向かい側付近にありました。つまり宝永南海地震では、市立宇和島病院、宇和島東高校付近まで津波が到達していたのです。逆に、市街地でも城の南東側にあたる掘端町、広小路、本町追手、愛宕町、宇和津町など、市街地でも標高の比較的高い場所には津波は来ていません。

さて、宝永南海地震での宇和島藩領内(南予地方)の被害についても伊達家の史料からわかっています。『記録書抜』には「一、地震ニ付、御城内所々御破損、夫々委記。田五百三町二反一畝歩高ニ〆七千二百七十三石ノ損、家其外数々破損流出、死人八人、半死人廿四人、沖ノ島死人二人、御城下家々破損、死人二人」とあります。死者は城下以外の領内で8名、沖の島(現高知県宿毛市)で2名、宇和島城下で2名の合計12名が犠牲となっています。宇和島藩が『記録書抜』を編纂する際に用いた公用記『大控』(『新収日本地震史料』掲載)にはさらに詳細が記されています。犠牲者は「潰ニ打れ或は高汐ニ溺死」とあり、家屋の倒壊や津波で流されたことが死因となっています。城下での2名の犠牲者は、一人が樺崎の男性、もう一人が町方の女性で、ともに津波に流されて亡くなっています。

『記録書抜』に合計で田503町2反1畝歩、高7,273石の損害とあり、大まかには5平方キロメートル以上の田んぼが被害を受け、宇和島藩10万石のうち、約7%の石高が被害を受けたことになります。

『大控』にはさらに細かく被害が記録されています。津波によって流出したのは、米が約102石、籾(モミ)約262石、大豆約20石、小豆1斗、胡麻3石、粟(アワ)20石、大麦約150石、黍(キビ)約66石、稈(ワラ)約111石、塩1480俵、干鰯500俵などとなっており、また津波で濡れて水損したのが、米約251石、籾76石、大豆約5石、小豆6斗となっています。1石とは容積約180リットルに相当するとして7,273石は約1300立方メートルとなります。これだけの農産物、海産物被害が特に南予海岸部で出ていたのです。
また、建物被害では、『大控』には宇和島藩内で「高汐ニ流」とされる家屋は257軒、小屋が50軒あり、合計で300軒以上が津波で流出しています。また、地震の揺れによる倒壊は家屋が71軒、半壊が506軒、火災による焼失が2軒、小屋が全壊8軒、半壊60軒とあり、合計で650軒近くが全半壊しています。その他にも、「震崩」つまり地震の揺れで崩壊した川の土手や石垣は4,596間(約8km)あり、津波によって破損した新田の土手、石垣は3,219間(約6km)などと記され、南予地方各地の河川や海岸部に開発された新田に大きな被害があったことがわかります。

このように宇和島藩には宝永南海地震に関する史料が充実しています。他の藩では被害が小さかったのではなく、現在に残る史料が少ないため実証できていないのです。宇和島藩の被災記録は、愛媛県内のみならず、豊後水道対岸の大分県、宮崎県においても災害の規模を考える上で一つの指標となるといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」28 宝永南海地震・津波と宇和島―集中する文教施設―

4月 7日 金曜日

宇和島市における江戸時代の宝永南海地震の歴史については志後野迫希世氏「近世における宇和島の大地震発生後の様子について―宇和島伊達家の宝永と安政の記録から―」(『よど』15号、2014年)で既に詳細が明らかにされています。ここでは志後野迫論文を参考にしながら、宇和島での具体的な被害を紹介します。

宇和島藩伊達家史料である『記録書抜』によると、宝永4(1707)年10月4日に「未之刻大地震、両殿様、早速御立退、鈴木仲右衛門宅江被為入、御隠居様ハ帯刀宅ニ御一宿、地震度々小地震有之」と書かれています。つまり、当時の藩主・伊達宗贇はすぐに城の南東側(海岸とは反対側で、城下でも標高が比較的高い場所)にある家老職の鈴木仲右衛門宅に避難し、御隠居の伊達宗利は同じく家老職の神尾帯刀宅(城の南東側、現在の丸の内和霊神社付近)に避難していたことがわかります。

注目すべきは『記録書抜』のそのあとの記述です。「大震之後高汐ニ而浜御屋敷汐込ニ相成、升形辺、新町、元結木(ママ)ゟ(より)持筒町佐伯町辺夥敷汐床之上ヘ四五尺、所ニより其余も汐上り」と書かれており、地震の後に「高汐」つまり津波が襲来したことが記録されているのです。「浜御屋敷」(いわゆる浜御殿。城の南側、佐伯町との間に造成された藩主の居館。現在の天赦園、伊達博物館付近)は津波で海水が入り込み、升形辺(枡形町、現在の宇和島東高校北側)あたりや、新町(城の北東側。現在の新町1、2丁目の商店街区域)や、佐伯町、持筒町(城の南側、現在の佐伯町1、2丁目)から元結掛(城下町の南側。神田川の左岸)にかけては、津波による浸水が「夥(おびただしく)」と酷かったようで、具体的に、津波は床の上から4~5尺(約120~150cm)と記され、津波高は約2mと推定することができ、場所によってはそれ以上であったことがこの記録からわかります。

この枡形町、佐伯町、元結掛は古くからの町ですが、それよりも海側は、後の時代に新田開発により土地が造成されるなどして、現在は文教地区となっており、鶴島小学校、明倫小学校、城南中学校、城東中学校、宇和島南中等教育学校、宇和島水産高校、宇和島東高校(7校で児童・生徒計3415名、教職員387名。平成28年度時点)が建っています。これらの学校の位置する場所では、宝永南海地震(南海トラフを震源とするマグニチュード8.6)規模の地震による津波が到達する場合は、2m以上の津波に襲われる可能性は高いといえます(宇和島市発行の防災マップによれば、想定津波高は4m以上となっています)。学校における防災の観点で、この地域が歴史上、津波襲来地だという災害の特徴(災害特性)を充分に理解し、児童、生徒の避難計画の策定や避難訓練を平時から行っておく必要があるといえるでしょう。

『記録書抜』には「尤椛崎辺大破、橋も落、町家中所々山際ニ野宿仕候事」ともあり、参勤交代の際の港のあった樺崎(現在の住吉公園、歴史民俗資料館あたり)は破壊され、地震の揺れもしくは津波の遡上によって川の橋が落ちたと書かれています。そこに近く、海岸や河川に面している住吉小学校、城北中学校についても津波被害の可能性が高いと言えます。このように宇和島市街地では海辺部に学校が集中し、旧市内では九島、三浦、結出、遊子、蒋淵、戸島、日振島小も同様に、南海トラフ巨大地震の際には、一般住民はもちろんのこと、いかに学校の児童、生徒を安全に避難させるのか、大きな課題になってくると言えます。

『久万高原町上黒岩岩陰遺跡出土遺物』販売中!

4月 4日 火曜日

現在、考古展示室では、テーマ展「久万高原町発掘50年の足跡」を開催中です。本展では、平成28年度に県内外の研究者・研究機関と共同で行った、上黒岩岩陰遺跡出土遺物の資料整理の成果等を紹介しています。
そして、この成果は、資料目録第25集『久万高原町上黒岩岩陰遺跡出土遺物』としてまとめ、現在、当館ミュージアムショップで販売しています(平成29年3月24日発行/A4版133頁)。
本書は、当館が保管する上黒岩岩陰遺跡及び上黒岩第2岩陰遺跡の出土遺物613点について、可能な限りの実測図や写真を提示し、遺物解説や科学分析の結果を報告しています。また、付編として、下記の報告や文献目録も収録していますので、興味のある方は、是非、一度手に取ってみて下さい。

[付編]
綿貫俊一「上黒岩遺跡出土石器4-慶應義塾大学民族学考古学研究室所蔵資料の報告-」
兵頭勲(編集)「上黒岩岩陰遺跡4次の調査日誌」
遠部慎・兵頭勲「上黒岩岩陰遺跡・上黒岩第2岩陰遺跡関連文献目録(1)」

また、平成26年度特別展図録『続・上黒岩岩陰遺跡とその時代‐縄文時代早期の世界‐』(A4版・171頁)も、現時点で残り46冊となっておりますので、興味のある方はお買い求めいただければと思います。

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