2017 年 10 月 21 日 のアーカイブ

「高虎と嘉明」紀行2 -賤ヶ岳-

10月 21日 土曜日

琵琶湖の北端、余呉湖との間を遮る細い尾根上に、賤ヶ岳砦跡があります。現在では途中までリフトで登ることができます。山頂は公園として整備されていますが、遺構も比較的残っており、土塁・切岸・縦堀・帯曲輪などを多用して複雑に組み合わせ、要衝の砦らしく厳重な造りであったことが分かります。

賤ヶ岳砦跡


高虎と嘉明の出世は、秀吉と出会うことで開かれたといってもいいでしょう。その秀吉の天下人への道は、主君織田信長の本能寺での討死に始まります。織田家臣の主導権争いを勝ち抜き、これに決着をつけたのが、天正11(1583)に羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳合戦です。

柴田方の猛将佐久間盛政の猛攻により、大岩山の中川清秀が討死、岩崎山の高山右近も抗しきれず退却。賤ヶ岳を守る桑山重晴も諦めて退却しかけたその時、丹羽長秀が来援、さらには美濃大返しにより秀吉も到着、前田利家の柴田離反もあいまって、秀吉の勝利に終わります。
この時、一番槍の功名を立て、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として後世に語り継がれる武将に、若き日の加藤嘉明がいます。
特別展では、この時秀吉から3千石に加増された知行宛行状を展示しています。
先懸衆としてともに一番槍の功名を立てた仲間には、福島正則や脇坂安治といった、後に伊予の大名となる若武者もいました。また、この時まだ秀吉の弟秀長に仕えていた高虎も、同じく参陣していました。

この合戦を描いたものとして、「賤ヶ岳合戦図屏風」があります。現在、当館特別展でも勝山城博物館(福井県勝山市)所蔵本を展示しています。構図は、大阪城天守閣所蔵の水野家旧蔵本とほぼ同じですが、江戸時代後期成立で独自の要素も描き込まれています。
北面から余呉湖越しに賤ヶ岳の合戦シーンを描き、賤ヶ岳砦から攻め下る秀吉勢や、最前線で柴田方と槍合わせする「七本槍」たちが目に止まります。この構図は、現在のJR北陸本線余呉駅付近からの眺めに似ており、あたかも屏風の描写と現実の風景とが重なるかのようです。

賤ヶ岳と余呉湖


秀吉が天下人へ踏み出す第一歩となり、嘉明にとっても秀吉に認められ躍進する第一歩となった場所、それがこの湖北の要衝・賤ヶ岳だったのです。

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