2017 年 11 月 のアーカイブ

中国四国名所旧跡図35 阿州灌頂寺(慈眼寺)穴禅定

11月 30日 木曜日

20番札所鶴林寺の奧の院、慈眼寺の本堂からさらに600メートルほど奥山に入って行くと、観音堂と3間四方ばかりの浅い池中に弁天社の小さな祠があった。その背後には、所々に穴が開いた石灰岩質の岩山。西丈は『四国遍路道指南』が「ふしぎの峰」と記すこの奇怪な景観をダイナミックに表現している。

岩山を少し登った所には、細長い亀裂型の鍾乳洞が口を開けている。その開口部に行くには、そのままでは滑って登れないので、梯子がかけてあり、21段あがると辿り着くことができた。そして、そこからさらにもう一つの梯子を16段上が上がった所に小さな岩穴があり、蔵王権現を祀っていた。このあたりの岩は「皆石鍾乳に而白し」と記す旅日記もあるが、西丈の絵はそうした岩の質感もとらえている。

この鍾乳洞に入るのも修行の一つであった。貞享4(1687)年刊行の『四国遍路道指南』では「俗胎内くゞりといふ」とあるが、江戸時代中期の旅日記からは、修験道で高い山に登って行う修行である「禅定」の文字が使われるようになる。西丈も絵の脇に、現在も使われている「穴禅定」の文字を記している。

穴禅定に入る時には、慈眼寺から案内人が付き、寺で借りた白い帷子を着て入った。中は暗闇なので松明を灯したが、天保頃の松明代は1人前55文であった。地理学者として知られる古川古松軒の宝暦14(1764)年の「四国道之記」には、「岩穴の中へ数百歩入る事有り、必ず入るべからず」と記されている。実際に中に入った古松軒は、「中途より穴数も多く殊の外狭き難所ありて、大ひにこまることなり」と後悔したようで、その恐怖からかこの穴の中で亡くなった者もいたと記している。しかし、好奇心旺盛の西丈はもちろん岩穴に入ったようで、内部の様子をもう一枚のスケッチに遺している。

洞窟は、龍がのたうつように奥へ奥ヘと続いていく。その長さは、記録により21間、30間余り、34,5間と様々に記されているが、40~60メートルほどであろうか。松明を灯した案内の先達に随い、狭い所では身を左に右にしながらくぐり抜けていく。

西丈は洞窟内に様々な形状のものを描いているが、記録と一致しそうなのは、法螺貝、大師袈裟掛の石(仏旙に似たるもの数條垂下するもの)、両界曼荼羅、錫杖、三尊の阿弥陀如来、普賢菩薩、不動明王あたりであろうか。一番奧に「灌頂座」とあるが、これは弘法大師が護摩の秘法を修行したと伝えられる護摩檀のことであろう。行き詰まった所の8畳ぐらいの広さの空間に、自然石でできた護摩檀があり、戸帳石、花立、花皿、三重塔などがあったという。その手前に蛇が見えるのは、弘法大師が護摩により得度させたという大蛇と思われる。松明のわずかな明かりの中で見出した自然の奇蹟を、西丈はそのイメージのまま一気呵成に描き出している。

松浦武四郎は、鶴林寺奧の院を「海内無双の霊場」と記しているが、西丈も同じような感慨を持ったのか、この一帯だけで4枚のスケッチを描き残している。

「高虎と嘉明」紀行20 -水口城・藤栄神社-

11月 22日 水曜日

嘉明が寛永8(1631)年に没すると、子の明成が会津40万石を引き継ぎますが、寛永16(1639)年、家臣堀主水の出奔を発端として、寛永20(1643)年に領地を失うことになります。嘉明が一代で築いた40万石を有する全国有数の大名加藤家は危機に陥ります。

しかし、明成の子・明友(嘉明孫)に石見国(島根県)吉永1万石が与えられ、かろうじて大名加藤家の命脈を保ちます。天和2(1682)年、明友は1万石の加増を受け近江国(滋賀県)水口2万石を拝領し、水口城に入ることとなりました。明友の子・明英(嘉明曾孫)が元禄8(1695)年に下野国(栃木県)壬生2万5千石へと国替になりますが、正徳2(1712)年には明英の養子・嘉矩(嘉明玄孫)が再び水口2万5千石の藩主として水口城に戻ってきます。そして、そのまま明治維新まで水口藩主加藤家として存続します。
一度は存亡の危機を迎えつつ、加増も重ねながら、大名の地位を守り通したのです。

水口は、東海道の50番目の宿場でもあり、街道が城の北を通ります。
水口城の築城は、実は大名の本城としてではなく、水口の持つ宿場としての性格に由来します。寛永11(1634)年、将軍徳川家光が上洛した際、宿所として築かれた水口御茶屋が水口城の始まりです。しかし、将軍宿所としての使用はこの1回のみでした。
その後、加藤明友の入部によって水口藩が成立し藩庁となりますが、将軍の宿所という考え方が守り続けられ、水口藩では本丸御殿を使うことはなく、御殿解体後になっても本丸が使われることはなく、藩行政は二之丸で行われました。

現在でも、部分的に石垣や堀などの遺構が残っており、往時の姿を偲ぶことができます。

水口城


城から北東へ少し行くと、藤栄神社があります。文政12(1829)年、嘉明を祀るため水口城内に創建され、藩政期には嘉明(かめい)大明神と呼ばれていました。嘉明もまた年月を経て崇敬の対象となって、神として祀られたのです。

藤栄神社


現在では、城は本丸を除いて宅地化されているため、住宅地に囲まれるように鎮座しています。
特別展では、藤栄神社に伝わる資料から、「加藤嘉明肖像画」(レプリカ)、加藤家ゆかりの武具(「白鳥毛鎧蓑」「黒羅紗槍鞘」「ビロード地薙刀覆」)、嘉明が秀吉から拝領したと伝わる「十字形洋剣」(写真パネル)を展示しています。

秀吉との出会いから徳川への貢献まで、転換期の時流を捉え、明治維新まで続く大名としての加藤家の地位を確立するとともに、伊予や会津の太平の礎を築いた嘉明、その業績は今も各地で生き続けています。

特別展の詳細はこちら

「高虎と嘉明」紀行19 -津 寒松院・上行寺・高山神社-

11月 21日 火曜日

 高虎は、激動の時代を生き抜いた末、寛永7(1630)年にその生涯を終えます。
 墓所は上野寛永寺の子院の寒松院。後に寒松院が移転したため、墓所は旧敷地にできた上野動物園内の一角に今も静かに残されています。

 しかし、津藩藩祖の高虎クラスになると、墓碑は複数存在します。
 領地とした伊勢と伊賀にも存在し、まず本拠とした伊勢の津では、江戸上野の菩提寺と同じ名前を持ち、やはり藤堂家菩提寺であった寒松院です。
 津城の東、岩田川河口近くにある同院は、2代藩主藤堂高次(高虎嫡子)の創建で、当初は昌泉院と称しましたが、後に藩祖高虎を祀り藤堂家菩提寺となってからは寒松院と称するようになりました。
 歴代藩主や家族、また久居藩藤堂家歴代の墓碑が建ち並ぶ中に、高虎の墓碑もあります。五輪塔の墓碑はかなりの大きさで、基壇自体の高さもあり見上げる程です。両脇には、継室松寿院、嫡子高次の墓碑も並んでいます。

津 寒松院 高虎墓碑

 伊賀では、伊賀上野城の南に広がる城下町の東寄り、現在では風情ある小路に整備されている寺町の北端に位置する、伊賀での藤堂家菩提寺上行寺です。高虎が羽柴秀長の家臣として拝領した領地紀伊国(和歌山県)粉河で創建し、伊予から伊賀へと国替の都度これに従い移転してきたという、高虎とゆかりの深い寺院です。
 やはり、歴代藩主の墓碑が建ち並びます。

上行寺 高虎墓碑

 高虎は、没後年月を経て藩祖として崇敬の対象となり、神として祀られることになります。津城跡の公園の南隣に鎮座する高山神社、ここは高虎を祀るために明治9(1876)年に創建された神社です。当初は別の場所にあり、一時本丸跡にあった時期もありますが、戦災に遭った後に内堀跡である現在地に移転しました。
 高山神社の社名は、高虎の法名「寒松院殿道賢高山権大僧都」に由来します。

高山神社

 
 時代の転換期を智恵と能力で生き抜き、藤堂家を全国有数の大名に伸し上げるとともに、伊予や伊勢・伊賀の太平の礎を築いた高虎、今も多くの人々の崇敬を集めています。

 特別展の詳細はこちら

「高虎と嘉明」紀行18 -会津若松城-

11月 20日 月曜日

 会津若松城といえば、幕末戊辰戦争で新政府軍の集中砲火に遭い、傷ついた天守の古写真をイメージする人も多いでしょう。何より、城周辺の火災を落城と取り違えた白虎隊の悲劇はあまりにも有名です。

 戊辰戦争で猛攻を受けた会津若松城ですが、実は嘉明と深い縁があります。
 寛永4(1627)年、嘉明は32年に及ぶ伊予の大名時代を終え、会津若松へ石高倍増の40万石で国替になります。ここは、かつて伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝ら名立たる武将も居城とした奥羽の要衝です。秀吉に送り込まれた蒲生氏郷の時代に、城は近世城郭として改築され、城下町も整備されました。

 嘉明は、入部翌年の寛永5(1628)年から早速城の修築を開始します。また、城下町や街道など、領内の整備にも取り組みます。
 しかし、その矢先の寛永8(1631)年、嘉明は波乱の生涯を閉じました。

 跡を継いだ子の明成は領内整備を引き継ぐとともに、寛永16(1639)年には城に北出丸・西出丸を設けるなどの改修を施すほか、慶長16(1611)年の地震で被害を蒙ったままの天守を再築して白亜五層の天守とするなど、現在の姿を整えました。

会津若松城

 そう、会津戦争を戦った会津若松城は、嘉明・明成父子が完成させた城だったのです。
 会津戦争では、約1か月にわたり籠城戦が展開されますが、最後まで落城することはありませんでした。もしかすると、嘉明・明成時代の改修が功を奏した部分があったかもしれません。

 徳川家光の異母弟保科正之を祖とする会津松平家の治世で知られる会津藩ですが、その礎として嘉明・明成父子の業績が貢献していることは間違いないでしょう。

 特別展の詳細はこちら 

「高虎と嘉明」紀行17 -上野公園-

11月 19日 日曜日

 東京・上野公園の広い園内には、パンダで有名な動物園をはじめ、博物館施設、神社・仏閣など多くの施設が建ち並びます。
 実は、この公園内、もっと言えば上野動物園内に、高虎をはじめとする藤堂家の墓所が、動物園の賑わいとは別世界のようにひっそり残されています。
 不思議ですね、なぜでしょう。

 東京国立博物館の裏手には、寛永寺の子院の一つとして藤堂家の菩提寺寒松院があり、実はこれに由来します。上野動物園の敷地には、かつて寒松院があったのです。
 この動物園敷地に隣接して、現在も徳川家康を祀る上野東照宮が鎮座しますが、東照宮造営と同時に別当寺として創建されたのが寒松院です。

 徳川家にゆかりの深い寛永寺や東照宮と寒松院が密接な関係にあるのは、高虎に由来します。
 実は、上野公園がある場所の一画に、かつて藤堂家の下屋敷がありました。寛永2(1625)年に江戸の鬼門の抑えとして寛永寺を建立する際、屋敷を持っていた高虎たち大名は敷地を献上、現東京国立博物館所在地に本坊、博物館施設が建ち並ぶ中央の広場に根本中堂を構えるなど、現在の上野公園一帯をほぼ敷地としていたといいます。

寛永寺

 2年後の同4(1627)年には、藤堂家下屋敷のあった場所に東照宮が建立され、同時に寒松院も建てられました。

上野東照宮

 しかし、約240年後の幕末慶応4(1868)年、彰義隊で知られる上野戦争で多くの建物を焼失します。敷地は公園化され、寒松院も離れた場所に移転、さらに太平洋戦争の戦禍に遭って再度移転。その結果、墓地だけが現在の場所に取り残された状態になっているのです。

 今では多くの人々で賑わう上野公園、実は高虎とゆかりの深い場所だったのです。

 特別展の詳細はこちら

「高虎と嘉明」紀行16 -八尾・若江-

11月 18日 土曜日

関ヶ原合戦の勝利で主導権を握った徳川家康は、慶長8(1603)年に征夷大将軍となり、幕府政権を樹立します。しかし、一方で大坂には若き当主秀頼を擁する豊臣家がいまだ健在で、忠義を抱く大名も多数存在していました。
この二重公儀体制を清算し、権力を徳川に一元化することになった最終決戦が、有名な大坂夏の陣です。

慶長19(1614)年の冬の陣で一旦和睦するも、翌20(1615)年に再び戦いの火蓋は切られます。この夏の陣で、高虎は厳しい戦いを強いられました。

5月6日、河内方面から大坂城へと向かう先鋒をつとめた高虎らの軍勢と、家名再興を図る長宗我部盛親や秀頼家臣の木村重成の軍勢が、大坂城南東の八尾・若江で激闘を展開します。八尾・若江の戦いと呼ばれる合戦です。
冬の陣の講和で大坂城の堀を埋められた豊臣方は、夏の陣では野戦に討って出ます。
八尾では、藤堂高刑や桑名吉成らが長宗我部勢と交戦、奮戦するも彼らは討死してしまいます。桑名吉成は、もとは長宗我部氏に仕えた武将で、関ヶ原合戦で主家改易後に高虎に召し抱えられましたが、まさか旧主の軍勢と直接戦闘を交えるとは思ってもみなかったかもしれません。
若江では、藤堂良勝や藤堂良重が木村勢と交戦、激闘の末、彼らも討死することになります。この時良重は、かつて高虎が秀吉から拝領したという唐冠形兜を高虎から譲り受けて出陣していたといいます。そのため、良重の子孫たちは、唐冠形兜を先祖の武勇を物語る宝として長く受け継ぎ、現在まで伝わります。特別展では、この「唐冠形兜」や、大坂夏の陣の「陣立図」、夏の陣で藤堂元則が着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。しかし、勢いのある木村勢でしたが、来援した井伊直孝勢との交戦の末、木村重成自身が討死してしまいます。

藤堂家のみならず、多くの戦死者を出した戦いでした。
この時藤堂家から出た戦死者は、八尾の常光寺に墓や位牌が作られ、供養されています。常光寺は、徳川幕府のブレーン以心崇伝が住持をつとめていた寺院で、高虎も崇伝とは懇意にしており、藤堂家に縁のある寺院といえます。

常光寺 藤堂家家臣墓地

また、常光寺門前を通る道を北へ向かい、第二寝屋川に差し掛かると、川の畔の小さな公園の中に、木村重成の墓が建てられ供養されています。

木村重成墓碑

この戦いの翌7日、真田信繁らが奮戦を見せるも遂に大坂城は落城、8日の秀頼自刃により豊臣家は滅亡にいたります。

多くの犠牲を払った藤堂家が、先鋒としての働きを家康へ強く印象付けることになった反面、大切な多くの家臣を失うという甚大な被害を蒙ることとなった激戦地、八尾・若江です。

特別展の詳細はこちら

テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」及び関連講座・講演会のお知らせ

11月 17日 金曜日

当館では、現在、テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」を開催中です。本展は、本年3月に愛媛県指定有形文化財(考古資料)に指定された「大型器台」と呼ばれる弥生土器に着目するものです。
この「大型器台」という土器は、近年の研究により、西部瀬戸内の弥生時代後期から終
末期に盛行した儀礼やその文化圏を知るための典型的な考古資料であることがわかっています。本展では、松山平野における器台の変遷をたどるとともに、「大型器台」が当地域及び西部瀬戸内地域でどのように展開したのかを紹介しています。
また、関連事業として、11月23日(木・祝)、12月16日(土)・2月3日(土)に考古講座・講演会(愛媛・大分交流講座)を下記のとおり、開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。
■考古講座
平成29年11月23日(木・祝)13:30~15:00
「松山平野の弥生土器を用いた儀礼」
講師:梅木謙一氏((公財)松山市文化・スポーツ振興財団松山市考古館)

平成30年2月3日(土)13:30~15:00
「大型器台の美と文化財としての価値」
講師:谷若倫郎氏(愛媛県教育委員会文化財保護課)

■講演会(愛媛・大分交流講座)
平成29年12月16日(土)13:20~16:05 多目的ホール
「鼎談!大型器台から探る弥生時代の豊予交流」
基調報告①問題提起 四国・本州の大型器台について
講師: 松村さを里氏((公財)愛媛県埋蔵文化財センター)
基調報告②問題提起 九州の大型器台について
講師: 坪根伸也氏(大分市教育委員会)
基調報告③問題提起 大型器台のその後について
講師:下條信行氏(愛媛大学名誉教授)
鼎談! 大型器台から探る弥生時代の地域間交流
講師:下條信行氏・坪根伸也氏・松村さを里氏

講座・講演会に参加ご希望の方は博物館までお申込みください。

「高虎と嘉明」紀行15 -大坂城-

11月 16日 木曜日

大阪市の中央にあって、常に多くの観光客で賑わう大阪城、誰もが知る豊臣秀吉の城です。天正11(1583)年に、大坂本願寺跡に築城を始めました。
秀吉に仕えた高虎と嘉明も当然登城したでしょうし、そこで対面した秀吉との間ではどのような会話が交わされたのでしょう。

よく知られていることですが、現在の大阪城の地面は徳川時代のものであり、豊臣時代の地面や遺構は地下深くに眠っています。したがって、高虎や嘉明が秀吉と対面した大坂城は、今では地面の下にあるということになります。

現在の大阪城天守閣

こうなるきっかけとなったのが、これも誰もが知る大坂冬・夏の陣です。
慶長19(1614)年の冬の陣では、真田信繁の真田丸が有名ですが、高虎も参陣し、大坂城正面に陣を張って家康の豊臣攻めに参加しました。一方、嘉明は江戸留守居を命じられ、代わりに嫡子の明成が出陣しています。
慶長20(1615)年の夏の陣では、高虎・嘉明ともに参陣し、この時藤堂家は名を馳せることになります。家名再興を図る長宗我部盛親や秀頼家臣の木村重成の軍勢と、高虎や井伊直孝の軍勢が、大坂城南東の八尾・若江で激闘を展開した、八尾・若江の戦いです。両軍ともに多数の戦死者を出し、藤堂勢では藤堂良勝・藤堂良重・藤堂高刑・桑名吉成ら一族・重臣が相次いで討死、木村勢も重成自身が討死していまします。
特別展では、大坂冬・夏の陣の「陣立図」,、冬の陣での加藤明成の「陣立書」、冬の陣で高虎が着用したとされる「紅糸胸白威二枚胴具足」、夏の陣で高虎家臣・藤堂元則が着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。
最終的に大坂城は落城し、秀頼の死により豊臣家は滅亡を迎えました。

秀頼・淀殿ら自刃の地

徳川幕府は、元和6(1620)年から大坂城の再築を始めます。豊臣の大坂城を封印するかのように厚く土を盛り、その上にあらためて築城しました。これが現在の地面に残る遺構になります。
大坂城再築は高虎が取り仕切ったといわれ、各地の諸大名が天下普請として動員される中、嘉明も参加しました。
特別展では、石垣建造の担当場所(丁場)を示した「丁場割図」や、担当した大名を示す石垣刻印の「拓本屏風」も写真パネルで展示するとともに、築城当初の江戸時代前期の「大坂城絵図」や築城にまつわる「高虎書状」も紹介しています。

かつての主人秀吉が築いた大坂城、家康に従い攻め落とし、徳川幕府のもとで豊臣の痕跡を覆い隠すような再築に携わることとなった2人の胸中には、いかなる思いが去来したのでしょう。

特別展の詳細はこちら

「高虎と嘉明」紀行14 -伊賀上野城-

11月 14日 火曜日

伊賀といえば忍者、伊賀上野といえば忍者屋敷(伊賀流忍者博物館)を連想する方も多いかもしれません。
忍者屋敷は、伊賀鉄道上野市駅を降りた北側の小高い山を登ると見えてきますが、実はこの小山が伊賀上野城で、江戸時代に藤堂家が伊賀10万石支配の拠点とした城です。

高虎は、慶長13(1608)年に伊賀・伊勢へ国替になると、津城の改修に入りますが、これと同時に伊賀上野城の改修にも着手します。
当時、関ヶ原合戦で政治の主導権を握った徳川家康ですが、大坂には若き当主秀頼を擁する豊臣家がいまだ健在で、西日本には豊臣恩顧の大名も多く存在していました。この豊臣勢力に目を光らせ不測の事態に備えておく必要があった家康は、東海道の要地である伊勢・伊賀を高虎に任せ、高虎はこの豊臣の勢力が根強く残る近畿地方への最前線である伊賀に上野城を構え、戦略拠点としたと考えられています。
伊賀上野城は、本丸西側に約30mに及ぶ高石垣を備えていることで知られますが、これも西方の豊臣勢力を意識したことに由来するともいわれています。

伊賀上野城

当初高虎は、天守の建設にも着手しますが、慶長17(1612)年に暴風で倒壊します。そして、以降は江戸時代を通じて石垣の天守台のみを残し、天守が再建されることはありませんでした。現在では、昭和10(1935)年に模擬天守が建てられています。また、本丸西側に見るような高石垣も、本丸の東側には存在しません。
つまり、未完成の城といえるわけですが、これは慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅び、警戒が解かれたためといわれています。

こうした経緯もあってか、要地伊賀上野城には藤堂家の一族や重臣も数多く配置されました。高虎の従弟で、伊予支配でも貢献した藤堂新七郎良勝も上野に居住し、子孫は藤堂新七郎家として伊賀上野の要職にありました。
現在、上野市駅から上野城へ向かう途中、まさに城山の南麓には、「藤堂新七郎屋敷跡」の石柱が建てられています。

藤堂新七郎屋敷跡

また、関ヶ原合戦後に召抱えられ、藤堂姓を許された藤堂(保田)采女元則も上野に住し、子孫は代々藤堂采女家として上野城代をつとめました。
特別展では、藤堂元則が大坂夏の陣で着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。

家康の信頼も厚く、関ヶ原合戦後には徳川権力の基盤形成に貢献していこうとする、高虎の姿勢をうかがうことができる、伊賀上野城です。

特別展の詳細はこちら

「高虎と嘉明」紀行13 -津城-

11月 12日 日曜日

高虎は、関ヶ原合戦の後に20万石の大名になりましたが、その8年後の慶長13(1608)年、13年間の伊予統治を終え、伊賀・伊勢へと国替になります。
本城に定めたのは、伊勢の津城でした。それまでの津城主は富田信高で、板島城に入ることとなった富田と入れ替わるように高虎は津へ入りました。

津城

津は、古くから安濃津と呼ばれる伊勢湾の主要港湾で、津城は平野部の海岸近くに築かれた平城です。高虎は、伊勢に入ると津城に大改修を加え、城下町を整備しました。
四角形の本丸の東西に東之丸・西之丸を付け、これを内堀が囲み、その周囲にやはり四角形に近い形で二之丸が設けられ、さらに外堀が取り巻くという、直角・直線を基調に海岸部の平野に作られた平城という意味で、今治城を連想させます。

また、城を中心に西側方面に武家屋敷地を設けるとともに、伊勢街道が通る東側には町屋を作りました。
この伊勢街道を南へ向かい岩田川にかかる岩田橋を渡った現在の岩田地区には、かつて「伊予町」「久留島」といった伊予ゆかりの町名がありました。高虎が国替の際、伊予から同行した人々が住んだことに由来するといわれます。

現在、津城は本丸付近を残して公園として整備され、入ると唐冠形兜をかぶる高虎の騎馬像が出迎えてくれます。特別展では、この「唐冠形兜」の実物を展示しています。
城跡には、江戸時代からの城郭建築物は残りませんが、本丸付近の石垣と堀の一部によって往時を偲ぶことができます。

高虎像

この津城を本城に、高虎の子孫たちは津藩主藤堂家として明治維新までこの地を治めました。

特別展の詳細はこちら

Page 1 ⁄ 212