2017 年 11 月 のアーカイブ

テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」及び関連講座・講演会のお知らせ

11月 17日 金曜日

当館では、現在、テーマ展「大型器台とその時代-西部瀬戸内の弥生文化圏を探る-」を開催中です。本展は、本年3月に愛媛県指定有形文化財(考古資料)に指定された「大型器台」と呼ばれる弥生土器に着目するものです。
この「大型器台」という土器は、近年の研究により、西部瀬戸内の弥生時代後期から終
末期に盛行した儀礼やその文化圏を知るための典型的な考古資料であることがわかっています。本展では、松山平野における器台の変遷をたどるとともに、「大型器台」が当地域及び西部瀬戸内地域でどのように展開したのかを紹介しています。
また、関連事業として、11月23日(木・祝)、12月16日(土)・2月3日(土)に考古講座・講演会(愛媛・大分交流講座)を下記のとおり、開催いたします。多くの皆様にご参加いただければ幸いです。
■考古講座
平成29年11月23日(木・祝)13:30~15:00
「松山平野の弥生土器を用いた儀礼」
講師:梅木謙一氏((公財)松山市文化・スポーツ振興財団松山市考古館)

平成30年2月3日(土)13:30~15:00
「大型器台の美と文化財としての価値」
講師:谷若倫郎氏(愛媛県教育委員会文化財保護課)

■講演会(愛媛・大分交流講座)
平成29年12月16日(土)13:20~16:05 多目的ホール
「鼎談!大型器台から探る弥生時代の豊予交流」
基調報告①問題提起 四国・本州の大型器台について
講師: 松村さを里氏((公財)愛媛県埋蔵文化財センター)
基調報告②問題提起 九州の大型器台について
講師: 坪根伸也氏(大分市教育委員会)
基調報告③問題提起 大型器台のその後について
講師:下條信行氏(愛媛大学名誉教授)
鼎談! 大型器台から探る弥生時代の地域間交流
講師:下條信行氏・坪根伸也氏・松村さを里氏

講座・講演会に参加ご希望の方は博物館までお申込みください。

「高虎と嘉明」紀行15 -大坂城-

11月 16日 木曜日

大阪市の中央にあって、常に多くの観光客で賑わう大阪城、誰もが知る豊臣秀吉の城です。天正11(1583)年に、大坂本願寺跡に築城を始めました。
秀吉に仕えた高虎と嘉明も当然登城したでしょうし、そこで対面した秀吉との間ではどのような会話が交わされたのでしょう。

よく知られていることですが、現在の大阪城の地面は徳川時代のものであり、豊臣時代の地面や遺構は地下深くに眠っています。したがって、高虎や嘉明が秀吉と対面した大坂城は、今では地面の下にあるということになります。

現在の大阪城天守閣

こうなるきっかけとなったのが、これも誰もが知る大坂冬・夏の陣です。
慶長19(1614)年の冬の陣では、真田信繁の真田丸が有名ですが、高虎も参陣し、大坂城正面に陣を張って家康の豊臣攻めに参加しました。一方、嘉明は江戸留守居を命じられ、代わりに嫡子の明成が出陣しています。
慶長20(1615)年の夏の陣では、高虎・嘉明ともに参陣し、この時藤堂家は名を馳せることになります。家名再興を図る長宗我部盛親や秀頼家臣の木村重成の軍勢と、高虎や井伊直孝の軍勢が、大坂城南東の八尾・若江で激闘を展開した、八尾・若江の戦いです。両軍ともに多数の戦死者を出し、藤堂勢では藤堂良勝・藤堂良重・藤堂高刑・桑名吉成ら一族・重臣が相次いで討死、木村勢も重成自身が討死していまします。
特別展では、大坂冬・夏の陣の「陣立図」,、冬の陣での加藤明成の「陣立書」、冬の陣で高虎が着用したとされる「紅糸胸白威二枚胴具足」、夏の陣で高虎家臣・藤堂元則が着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。
最終的に大坂城は落城し、秀頼の死により豊臣家は滅亡を迎えました。

秀頼・淀殿ら自刃の地

徳川幕府は、元和6(1620)年から大坂城の再築を始めます。豊臣の大坂城を封印するかのように厚く土を盛り、その上にあらためて築城しました。これが現在の地面に残る遺構になります。
大坂城再築は高虎が取り仕切ったといわれ、各地の諸大名が天下普請として動員される中、嘉明も参加しました。
特別展では、石垣建造の担当場所(丁場)を示した「丁場割図」や、担当した大名を示す石垣刻印の「拓本屏風」も写真パネルで展示するとともに、築城当初の江戸時代前期の「大坂城絵図」や築城にまつわる「高虎書状」も紹介しています。

かつての主人秀吉が築いた大坂城、家康に従い攻め落とし、徳川幕府のもとで豊臣の痕跡を覆い隠すような再築に携わることとなった2人の胸中には、いかなる思いが去来したのでしょう。

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「高虎と嘉明」紀行14 -伊賀上野城-

11月 14日 火曜日

伊賀といえば忍者、伊賀上野といえば忍者屋敷(伊賀流忍者博物館)を連想する方も多いかもしれません。
忍者屋敷は、伊賀鉄道上野市駅を降りた北側の小高い山を登ると見えてきますが、実はこの小山が伊賀上野城で、江戸時代に藤堂家が伊賀10万石支配の拠点とした城です。

高虎は、慶長13(1608)年に伊賀・伊勢へ国替になると、津城の改修に入りますが、これと同時に伊賀上野城の改修にも着手します。
当時、関ヶ原合戦で政治の主導権を握った徳川家康ですが、大坂には若き当主秀頼を擁する豊臣家がいまだ健在で、西日本には豊臣恩顧の大名も多く存在していました。この豊臣勢力に目を光らせ不測の事態に備えておく必要があった家康は、東海道の要地である伊勢・伊賀を高虎に任せ、高虎はこの豊臣の勢力が根強く残る近畿地方への最前線である伊賀に上野城を構え、戦略拠点としたと考えられています。
伊賀上野城は、本丸西側に約30mに及ぶ高石垣を備えていることで知られますが、これも西方の豊臣勢力を意識したことに由来するともいわれています。

伊賀上野城

当初高虎は、天守の建設にも着手しますが、慶長17(1612)年に暴風で倒壊します。そして、以降は江戸時代を通じて石垣の天守台のみを残し、天守が再建されることはありませんでした。現在では、昭和10(1935)年に模擬天守が建てられています。また、本丸西側に見るような高石垣も、本丸の東側には存在しません。
つまり、未完成の城といえるわけですが、これは慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家が滅び、警戒が解かれたためといわれています。

こうした経緯もあってか、要地伊賀上野城には藤堂家の一族や重臣も数多く配置されました。高虎の従弟で、伊予支配でも貢献した藤堂新七郎良勝も上野に居住し、子孫は藤堂新七郎家として伊賀上野の要職にありました。
現在、上野市駅から上野城へ向かう途中、まさに城山の南麓には、「藤堂新七郎屋敷跡」の石柱が建てられています。

藤堂新七郎屋敷跡

また、関ヶ原合戦後に召抱えられ、藤堂姓を許された藤堂(保田)采女元則も上野に住し、子孫は代々藤堂采女家として上野城代をつとめました。
特別展では、藤堂元則が大坂夏の陣で着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。

家康の信頼も厚く、関ヶ原合戦後には徳川権力の基盤形成に貢献していこうとする、高虎の姿勢をうかがうことができる、伊賀上野城です。

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「高虎と嘉明」紀行13 -津城-

11月 12日 日曜日

高虎は、関ヶ原合戦の後に20万石の大名になりましたが、その8年後の慶長13(1608)年、13年間の伊予統治を終え、伊賀・伊勢へと国替になります。
本城に定めたのは、伊勢の津城でした。それまでの津城主は富田信高で、板島城に入ることとなった富田と入れ替わるように高虎は津へ入りました。

津城

津は、古くから安濃津と呼ばれる伊勢湾の主要港湾で、津城は平野部の海岸近くに築かれた平城です。高虎は、伊勢に入ると津城に大改修を加え、城下町を整備しました。
四角形の本丸の東西に東之丸・西之丸を付け、これを内堀が囲み、その周囲にやはり四角形に近い形で二之丸が設けられ、さらに外堀が取り巻くという、直角・直線を基調に海岸部の平野に作られた平城という意味で、今治城を連想させます。

また、城を中心に西側方面に武家屋敷地を設けるとともに、伊勢街道が通る東側には町屋を作りました。
この伊勢街道を南へ向かい岩田川にかかる岩田橋を渡った現在の岩田地区には、かつて「伊予町」「久留島」といった伊予ゆかりの町名がありました。高虎が国替の際、伊予から同行した人々が住んだことに由来するといわれます。

現在、津城は本丸付近を残して公園として整備され、入ると唐冠形兜をかぶる高虎の騎馬像が出迎えてくれます。特別展では、この「唐冠形兜」の実物を展示しています。
城跡には、江戸時代からの城郭建築物は残りませんが、本丸付近の石垣と堀の一部によって往時を偲ぶことができます。

高虎像

この津城を本城に、高虎の子孫たちは津藩主藤堂家として明治維新までこの地を治めました。

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「高虎と嘉明」紀行12 -灘城-

11月 10日 金曜日

松山から国道378号線(夕やけこやけライン)を通って大洲市長浜町方面へ向かい、途中の伊予市双海町にある道の駅ふたみを過ぎた左手の段丘上に、こんもりとした茂みがあります。ここに海辺城と呼ばれる城がありました。

高虎は、関ヶ原合戦後に嘉明と伊予を二分すると、翌慶長6(1601)年から嘉明領への警戒のため「灘城」を築き始めます。伊予灘沿岸の「灘」の地に築く城は、高虎の南予領の北端で嘉明領との境目に位置し、また当時の嘉明の本城松前城にも近く、対嘉明領最前線として境目警備の要でした。
この灘城が、海岸段丘の突端にある海辺城に当たると考えられています。海辺城跡からは、伊予灘越しに松前が遠望でき、道後平野の北西部までも視野に入ります。

灘城(海辺城)

高虎は、この重要地点に従弟の藤堂良勝を入れ、松前の嘉明の動向を探らせ、領民の出入りを統制するなど、領地境の管理に当たらせました。特に、慶長7(1602)年から嘉明が松山城を築き始めると、嘉明の本拠「松前の様子」や新城「勝山の普請」の情報を収集して報告するよう繰り返し命じています。
特別展では、これを命じた「良勝宛高虎自筆書状」を写真パネルにより紹介しています。

実は、高虎から良勝への書状の中に、越智郡での拝志騒動に触れながら灘方面の境目も油断なく警戒すること命じるとともに、先年加藤家家臣・佃次郎兵衛の手勢が灘へ踏み込んだ時にこれを捕らえた様子や年月を書き付けて提出することも命じているものがあります。東予の領地境で拝志騒動が起きたように、南予方面の領地境の灘でも藤堂・加藤の武力抗争が現実に発生していたのです。

ただし、高虎は設備については必要最小限の機能を備えれば十分と考えており、たとえ破損しても少々であれば後回しにしていました。多くの城は不要と考え、灘城も将来的には破却を念頭に置いており、見栄えなどよりも役割を満たす機能を最優先に支城を整理していく方針を持っていたようです。
やがて、嘉明が松山、高虎も今治へと本拠機能を移すようになると、慶長13(1608)年に灘城は破却され、部材は重要度の高まった芸予諸島方面の統制のための小湊城に転用されました。

こうした経緯を反映するのか、海辺城はすでに後世の改変が加えられているとはいえ、重厚な城郭遺構の痕跡はほとんど見られません。
地形的に、北西から南西にかけては段丘崖が取り巻き、崖下はそのまま海から引地川河口という天然の要害地形ですが、北東から南東にかけては背後に段丘面が広がり防御性が劣ります。現在、この段丘面のつながりを遮断するように、旧道が切り通し状に抜けており、本来ここに堀切が設けられていた名残と想定され、城跡であることをイメージさせるわずかな痕跡といえます。

背後の旧道の切通

灘城については、展示図録に関連する論考も掲載しています。

嘉明の拝志城と同様、南予領の境目を警戒する高虎の灘城、20万石へと大きく成長した2人の、領地境の緊張と互いの警戒を物語る城の一つです。

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「高虎と嘉明」紀行11 -拝志城-

11月 8日 水曜日

今治城鉄御門前の産業道路を南へ向かい、蒼社川を渡ってさらに頓田川に差し掛かろうとする手前左側、現在ではショッピングセンターで賑わう場所、かつて、この周辺に高虎と嘉明が武力衝突寸前にまでいたった騒動の舞台、拝志城がありました。

拝志城跡付近(西方寺)

関ヶ原合戦の恩賞として伊予を二分した高虎と嘉明でしたが、その領域は西軍大名からの没収地を分割する形で加増されたため、特に東予では2人の領地が複雑に入り組むことになりました。
そうした中で、高虎は越智郡の領地に今治城を築き始めますが、実は嘉明との領地境界を間近に控える立地でした。城から南へわずか約3㎞しかない拝志城ですが、もうここは嘉明の領地でした。

関ヶ原合戦から4年後の慶長9(1604)年、当時今治を預かる藤堂高吉(高虎養子)が駿河の高虎のもとへ立てた使者が殺害されます。犯人は加藤領の拝志へ逃亡、今治からは探索の検使が派遣されますが、検使が拝志領内で犯人関係者(犯人自身もしくは逃亡幇助者、諸説あり)を成敗してしまいます。しかし、これを見た拝志の町衆は、今治(藤堂家)の者が拝志(加藤家)の者を切り捨てたと取り違え騒ぎになってしまいました。そのため、事情説明の使者が拝志へ立てられますが、加藤家家臣が拝志城門前にて使者の口上を聞くことなく問答無用で突き殺してしまいました。これに憤慨した今治藤堂家が派兵、あわや武力衝突かと思われましたが、間一髪のところで「公儀」を重んじて幕府の裁定に委ねる方向へ方針転換が図られ、藤堂勢は撤退していきました。

さて、皆さんならどちらをどう評価しますか?

結局、幕府は加藤家側に非があると決しました。拝志城を預かった加藤忠明(嘉明弟)は出家することになりましたが、お咎めのなかった藤堂家側でも、高虎は幕府沙汰になったことをはばかって高吉を蟄居としました。

騒動の顛末は、当事者高吉の子孫である名張藤堂家の記録にも詳しく記されています。特別展では、高吉の生涯をまとめた伝記「藤堂宮内少輔高吉一代之記」や、江戸時代前期の今治城下を描く中で「拝志古城之跡」も描き込まれた「今治城下絵図」を展示しています。

領地が錯綜する中で、境目の緊張が表面化した場所、それが拝志城だったのです。

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「高虎と嘉明」紀行10 -甘崎城・小湊城-

11月 6日 月曜日

しまなみ海道の伯方島と大三島をつなぐ大三島橋、その下には細くL字に曲がった海峡を激しく海水が流れる鼻栗瀬戸があります。この少し北、大三島東岸の甘崎海岸の目前に、小島を城砦化した甘崎城があります。
海岸から浅瀬を挟んで目と鼻の先にあるため、大潮の日には歩いて渡ることができます。

甘崎城

戦国時代から芸予諸島の要衝として重視され、海賊衆来島村上氏の支配下に置かれていました。関ヶ原合戦後に今治を領有することになった藤堂高虎も、この甘崎城の重要性を認識していました。瀬戸内海交通の監視はもちろんながら、芸予国境を目前に一望できる甘崎城は、豊臣恩顧大名福島正則の領国となった安芸・備後(広島県)の監視や国境警備には最適でした。

高虎時代に、島の周囲を石垣で囲み、瓦葺きの建物を設け、近世城郭へと改修されました。現在でも干潮時には残存する石垣を目にできることで有名です。島からは、瓦も出土しています。

甘崎城南隅石垣

特別展では、甘崎城から出土した瓦や、歴史復元イラストなどを手がける香川元太郎氏による復元イラスト「伊予甘崎城」を展示しています。

高虎は、新たな拠点今治城を築き、甘崎城で要衝管理を始めるようになると、両城を取り結ぶ「つなぎの城」として小湊城を整備します。
小湊城は、今治平野の北辺の山際にあって文字どおり来島海峡に面する海岸に立地し、また浅川の河口に近く戦国時代から小湊浦として港湾機能を備え、小早川隆景時代にも重視されていました。

小湊城

東予に領地を得て、芸予諸島管理のための支城ネットワークを整備しようとする、高虎の構想がうかがえる2つの城です。

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「高虎と嘉明」紀行9 -松山城-

11月 4日 土曜日

松山市街の中央、道後平野を一望できる標高142mの城山に築かれた城、嘉明が築城に着手した松山城です。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で徳川方に味方した嘉明は、恩賞として伊予半国20万石を拝領し、藤堂高虎と伊予を二分します。領地が倍増した嘉明は、道後平野の北寄りに位置する独立丘陵・勝山に、高虎の今治城と時を同じくして慶長7(1602)年から松山城の築城を開始します。

松山城

松山城は、山頂に本丸、山麓に二之丸・三之丸・東郭・北郭と、山の全方位に施設を設けた大規模な平山城です。本丸と二之丸・三之丸の間に朝鮮出兵時の倭城で用いられた登り石垣が採用され、防御機能を高めていることが特徴の一つです。また、現在は失われていますが、城山の東には城下町を囲むように堀や土塁(砂土手)が設けられ、総構の様相を呈しており、20万石の大名の居城に相応しい大規模な城だったといえます。

この松山城築城は、伊予を二分した高虎も注視していたようで、伊予灘の領地境の灘城を守る藤堂良勝へ、嘉明の本拠「松前の様子」や新城「勝山の普請」の情報を収集して報告するよう繰り返し命じています。
特別展では、これを命じた「良勝宛高虎自筆書状」を写真パネルにより紹介しています。

現在の松山城は、その後藩主となる久松松平家の改修が随所に施されていますが、嘉明時代の痕跡も残ります。本丸北西に残る嘉明築城時のものと考えられている江戸初期の野原櫓・乾櫓(国重要文化財)は代表的ですが、城山東麓の東雲公園から六角堂付近にかけては砂土手や念斎堀の在りし日の様子を色濃く残し、ロープウェイ街を歩くと東雲学園が所在する東郭跡の石垣に加藤築城時のものとみられる古い石垣も見ることができます。

松山城東郭石垣

ところで、松山城で今注目されている話題といえば、嘉明の時代の本壇(天守曲輪)の構造についてです。
加藤家が代々藩主をつとめた近江水口(甲賀市水口町)で発見された「与州松山本丸図」、嘉明の後任の蒲生忠知時代の松山城を描いた「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」、江戸前期頃成立と考えられている浅野文庫「諸国当城之図」所収の「伊予松山図」に描かれた本壇の形状は、いずれも現在の直角・直線を基調とするものとは異なり、あたかも城山山頂部の自然地形に従ったかのような多角形で曲線的な形で一致しています。
また、「与州松山本丸図」と「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」では、本壇中央に天守ではなく「いけ」「水」の表記がされています。寛永4(1627)年に公儀隠密が作成した「松山城図」にも、本壇を取り囲む櫓は描かれるものの天守らしき建物は描かれていません。
近年の発掘調査からも、嘉明時代の本壇石垣の痕跡の可能性がある遺構も検出されています。
特別展では、話題の絵図「与州松山本丸図」「松山城図」「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」を3枚並べて展示するとともに、近年の松山城発掘の成果である嘉明時代の出土遺物(滴水瓦、丸瓦、陶磁器)なども紹介しています。

こうした相次ぐ発見や研究の蓄積から、嘉明時代の松山城の真の姿が、今まさに浮き彫りにされようとしています。

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250万人目の入館者!

11月 3日 金曜日

歴博は、平成6年11月にオープンして今年で23年目。本日11月3日(金)文化の日に、開館以来250万人目のお客様をお迎えすることができました。
ちょうど250万人目となったのは、伊予市からお母さんと弟と一緒に来られた小学生の男の子。今日は、学校で配られたチラシを見て、ペンダントをつくりに来たそうです。歴博には、何度も来てくれており、展示室を巡るスタンプラリーもやったよと言ってました。
当館のマスコット「はに坊」が、たいへん気に入ったみたいで、かわいいと言いながら、握手したりしていました。

歴博は、小さなお子さんから大人まで、いろいろな年代の方に楽しんでいただく施設にしたいと考えています。小さい時に親に連れられ、まずはワークショップなどで楽しんでもらいながら、えひめの歴史や文化にふれてもらう。そして、小学校や中学校では、遠足や校外学習などで来ていただき、歴史や文化についてもう少し深く知ってもらう。さらに、大人になって、またお子さんやお孫さんを連れて来ていただくというふうになればと願っているところです。

ところで、11月12日(日) は、開館23周年の記念イベントを開催します。当日は、展示観覧がすべて無料。全国から資料を集めた特別展「高虎と嘉明」やテーマ展「相撲の歴史と民俗」「大型器台とその時代」などを楽しんでいただけます。また、エントランスには手作り雑貨などのお店が、玄関前には食べ物のお店が並ぶ「どんぐりマルシェ」も開催されます。さらに先着で、お餅やお菓子も配ります。
ぜひ、秋の一日、西予市の歴博へ、ご家族、お友達お誘いあわせのうえ、遊びにいらっしゃってください。スタッフ一同お待ちしております。

「高虎と嘉明」紀行8 -今治城-

11月 2日 木曜日

今治港から南へすぐの所に、広い水堀と高い石垣に囲まれたお城が見えてきます。高虎が築いた今治城です。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で徳川方に味方した高虎は、恩賞として伊予半国20万石を拝領し、加藤嘉明と伊予を二分します。それまで南予に領地を持っていた高虎でしたが、東予にも領地を獲得し、古くからの伊予府中の地である越智郡今治平野に、慶長7(1602)年から新たに今治城の築城を開始します。
伊予での新しい支配の本拠という意味だけではなく、瀬戸内海の要衝来島海峡や芸予諸島を監視する役割も担っていたとも考えられています。

今治城

今治城は、直線・直角を基調とする曲輪構造や層塔型天守の採用など、その後の近世城郭で多用される築城技術を導入した先駆的城郭と評価されています。
浅川と蒼社川に挟まれた海岸部の砂地に新たに築かれた平城で、中堀の北隅には海岸の砂洲を利用する形で大きく船入が設けられました。この船入が、現在の今治港へと発展します。
海の機能を取り込む独特の構造のため、今治城の堀は海とつながり、今も内堀北隅の取水口から海水が出入りします。潮の干満の影響を受け、海の魚が泳ぐ姿も見られます。

今治城内堀取水口

特別展では、江戸時代前期の今治城や城下の初期の姿を描いた城絵図や城下絵図を4点(実物3点、写真パネル1点)展示しています。
今回の特別展を機会にこれら絵図を比較検討すると、今治城の縄張は高虎時代にできていたものの建物は未完成のところもあり、完成した姿になったのは後に藩主となった徳川一門久松松平家の改修を経た後であることが見えてきました。詳しくは、展示図録に論考を掲載しています。

今治城では、平成19年に城跡の玄関の鉄御門が復元されており、城跡を訪ねる雰囲気を一層演出してくれます。
特別展では、この鉄御門の復元に先立つ発掘調査で出土した瓦や裏込石(転用石)も展示しています。高虎が支配拠点とした宇和島城や大洲城で出土した瓦と同じ文様の瓦もあり、興味深いところです。

高虎の今治築城は、慶長13(1608)年には使用可能な状態にまで仕上がったようですが、同年に伊賀・伊勢へと国替になって伊予を離れることとなり、今治城と領地支配は養子の高吉に引き継がれました。

築城名人と評される高虎が、新たな手法を導入しながら手掛けた新支配の象徴、それが今治城だったのです。

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