2017 年 11 月 10 日 のアーカイブ

「高虎と嘉明」紀行12 -灘城-

11月 10日 金曜日

松山から国道378号線(夕やけこやけライン)を通って大洲市長浜町方面へ向かい、途中の伊予市双海町にある道の駅ふたみを過ぎた左手の段丘上に、こんもりとした茂みがあります。ここに海辺城と呼ばれる城がありました。

高虎は、関ヶ原合戦後に嘉明と伊予を二分すると、翌慶長6(1601)年から嘉明領への警戒のため「灘城」を築き始めます。伊予灘沿岸の「灘」の地に築く城は、高虎の南予領の北端で嘉明領との境目に位置し、また当時の嘉明の本城松前城にも近く、対嘉明領最前線として境目警備の要でした。
この灘城が、海岸段丘の突端にある海辺城に当たると考えられています。海辺城跡からは、伊予灘越しに松前が遠望でき、道後平野の北西部までも視野に入ります。

灘城(海辺城)

高虎は、この重要地点に従弟の藤堂良勝を入れ、松前の嘉明の動向を探らせ、領民の出入りを統制するなど、領地境の管理に当たらせました。特に、慶長7(1602)年から嘉明が松山城を築き始めると、嘉明の本拠「松前の様子」や新城「勝山の普請」の情報を収集して報告するよう繰り返し命じています。
特別展では、これを命じた「良勝宛高虎自筆書状」を写真パネルにより紹介しています。

実は、高虎から良勝への書状の中に、越智郡での拝志騒動に触れながら灘方面の境目も油断なく警戒すること命じるとともに、先年加藤家家臣・佃次郎兵衛の手勢が灘へ踏み込んだ時にこれを捕らえた様子や年月を書き付けて提出することも命じているものがあります。東予の領地境で拝志騒動が起きたように、南予方面の領地境の灘でも藤堂・加藤の武力抗争が現実に発生していたのです。

ただし、高虎は設備については必要最小限の機能を備えれば十分と考えており、たとえ破損しても少々であれば後回しにしていました。多くの城は不要と考え、灘城も将来的には破却を念頭に置いており、見栄えなどよりも役割を満たす機能を最優先に支城を整理していく方針を持っていたようです。
やがて、嘉明が松山、高虎も今治へと本拠機能を移すようになると、慶長13(1608)年に灘城は破却され、部材は重要度の高まった芸予諸島方面の統制のための小湊城に転用されました。

こうした経緯を反映するのか、海辺城はすでに後世の改変が加えられているとはいえ、重厚な城郭遺構の痕跡はほとんど見られません。
地形的に、北西から南西にかけては段丘崖が取り巻き、崖下はそのまま海から引地川河口という天然の要害地形ですが、北東から南東にかけては背後に段丘面が広がり防御性が劣ります。現在、この段丘面のつながりを遮断するように、旧道が切り通し状に抜けており、本来ここに堀切が設けられていた名残と想定され、城跡であることをイメージさせるわずかな痕跡といえます。

背後の旧道の切通

灘城については、展示図録に関連する論考も掲載しています。

嘉明の拝志城と同様、南予領の境目を警戒する高虎の灘城、20万石へと大きく成長した2人の、領地境の緊張と互いの警戒を物語る城の一つです。

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