2017 年 11 月 16 日 のアーカイブ

「高虎と嘉明」紀行15 -大坂城-

11月 16日 木曜日

大阪市の中央にあって、常に多くの観光客で賑わう大阪城、誰もが知る豊臣秀吉の城です。天正11(1583)年に、大坂本願寺跡に築城を始めました。
秀吉に仕えた高虎と嘉明も当然登城したでしょうし、そこで対面した秀吉との間ではどのような会話が交わされたのでしょう。

よく知られていることですが、現在の大阪城の地面は徳川時代のものであり、豊臣時代の地面や遺構は地下深くに眠っています。したがって、高虎や嘉明が秀吉と対面した大坂城は、今では地面の下にあるということになります。

現在の大阪城天守閣

こうなるきっかけとなったのが、これも誰もが知る大坂冬・夏の陣です。
慶長19(1614)年の冬の陣では、真田信繁の真田丸が有名ですが、高虎も参陣し、大坂城正面に陣を張って家康の豊臣攻めに参加しました。一方、嘉明は江戸留守居を命じられ、代わりに嫡子の明成が出陣しています。
慶長20(1615)年の夏の陣では、高虎・嘉明ともに参陣し、この時藤堂家は名を馳せることになります。家名再興を図る長宗我部盛親や秀頼家臣の木村重成の軍勢と、高虎や井伊直孝の軍勢が、大坂城南東の八尾・若江で激闘を展開した、八尾・若江の戦いです。両軍ともに多数の戦死者を出し、藤堂勢では藤堂良勝・藤堂良重・藤堂高刑・桑名吉成ら一族・重臣が相次いで討死、木村勢も重成自身が討死していまします。
特別展では、大坂冬・夏の陣の「陣立図」,、冬の陣での加藤明成の「陣立書」、冬の陣で高虎が着用したとされる「紅糸胸白威二枚胴具足」、夏の陣で高虎家臣・藤堂元則が着用したとされる「碁石頭素懸威二枚胴朱具足」を展示しています。
最終的に大坂城は落城し、秀頼の死により豊臣家は滅亡を迎えました。

秀頼・淀殿ら自刃の地

徳川幕府は、元和6(1620)年から大坂城の再築を始めます。豊臣の大坂城を封印するかのように厚く土を盛り、その上にあらためて築城しました。これが現在の地面に残る遺構になります。
大坂城再築は高虎が取り仕切ったといわれ、各地の諸大名が天下普請として動員される中、嘉明も参加しました。
特別展では、石垣建造の担当場所(丁場)を示した「丁場割図」や、担当した大名を示す石垣刻印の「拓本屏風」も写真パネルで展示するとともに、築城当初の江戸時代前期の「大坂城絵図」や築城にまつわる「高虎書状」も紹介しています。

かつての主人秀吉が築いた大坂城、家康に従い攻め落とし、徳川幕府のもとで豊臣の痕跡を覆い隠すような再築に携わることとなった2人の胸中には、いかなる思いが去来したのでしょう。

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