2019 年 8 月 のアーカイブ

令和元年度の博物館実習始まる

8月 20日 火曜日

令和元年度の博物館実習が始まりました。当館では7名の実習生を受け入れ、8月20日(火)から8月25日(日)までの6日間行われます。
博物館学芸員の資格を取得するには、大学などで様々な単位を取得する必要があります。そのひとつに「博物館実習」があります。
初日は午前中に博物館の概要説明・施設見学を行い、博物館施設の全体像を把握しました。また、実際に最近収集した資料を見ながら、博物館の資料収集の実態について紹介しました。
午後からは、歴史資料(ハガキ、切手類)の整理実習を行いました。また、文書箱を作成しました。



初日ということで実習生はまだ緊張はとれないようですが、普段見られない博物館の裏側や、学芸員の専門業務の実際、収蔵する様々な実物資料などを見て、いろんな経験をして多くのことを学んでもらえたらと思います。暑さが続きますが、体調にも気を付けながら、皆さん頑張ってください。
  

空襲体験の聞き取り~昭和20年5月の宇和島初空襲~

8月 12日 月曜日

74年前長崎に原爆が投下された今月の9日、金田八重子さん(昭和9年生、87才、元市立宇和島病院総婦長、宇和島市在住)に昭和20年5月10日の宇和島初空襲についてお聞きする機会を得たので紹介します。

金田さんは当時住吉国民小学校の6年生。父親は出征しており、母親、3年生の弟、3才の妹の4人で朝日町三丁目(現在の二丁目)に暮らしていた。昭和20年5月10日、警戒警報に続いて空襲警報がでていたが、防空壕には入らず戸外で母親とB29を見ていた。B29はそれまでも宇和島上空を通過していたが、まだ戦災にあったことがなかったためのんびりとしていた。その日は快晴。3機のB29が青空に銀翼を輝かせながら、鬼ヶ城に向けて飛んでいった。そして、母親と家に入るや否や「ドカン!」とものすごく大きな音がした。
鬼ヶ城に向けて飛んだ3機の内、1機が引き返して爆弾を投下したのだ。爆弾は金田さんの隣、鈴木マオラン工場(繊維植物のマオランから紐を作る)を直撃した。そこには金田さんが本来避難すべき防空壕があった。何が起こったのか?恐怖を感じながら窓をのぞくと、防空壕に入っていた人たちが外に吹き飛ばされ亡くなっていた。すぐに家族の安否を気遣う人たちが、爆風で膨れあがった遺体を探していた。仰向けの遺体は顔を見て、うつ向けの遺体は起こしながら確認していたが、そのとき流れた鼻血の赤色が今も脳裏に焼き付いている。
金田さんは2階にいた弟と妹の無事を確認した。幸いにもその防空壕に入っていなかったために、家族4人が助かった。一息して口の中に砂っぽさを感じたため唾を吐くと、黒くすすけたものが混じっていた。金田さん宅は倒壊を免れたものの、大きな石が屋根を突き破って押入れに落ちていたり、壁土などは崩壊していたりしており、住むことができる状態ではなかった。金田さん宅がある一区画の左端の家々は倒壊していた。その中には、友達の家に遊びに行っていて助かった3年生の男の子もいて、「家族と一緒に死にたかった」と泣いていた。
金田さん一家は須賀川に架かる芝橋を渡り、藤江の防空壕に避難した。夕方、空襲を聞きつけたのか、大浦に住む母方の実家がリヤカーを引いて来てくれた。この日の空襲は焼夷弾ではなく、爆弾であったため、火災はおこらず大事なものは取り出すことができた。以後、金田さんは大浦から住吉小学校へ通学したが、当初は空襲で亡くなっていた事になっていた。

この空襲の死者は119人。その後の空襲と比較しても一番多い死者数です。金田さんは宇和島空襲を記録する会の一員として、現在もお元気に講演されています。重いテーマにもかかわらず、温和なお人柄が聞く者を優しく包み込みます。戦争の悲惨さと平和の大切さを考える1日となりました。


              図1 昭和20年5月10日の空襲範囲(赤)(黒枠は図2)
                 (『宇和島の空襲』第4集所収の地図に筆者が加工)


              図2 金田さん宅付近と避難経路
                 (聞き取り調査から筆者作成)


              金田八重子さん

模擬原爆パンプキンと愛媛県

8月 9日 金曜日

昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。6日の広島に続く2度目の投下でした。広島型原子爆弾はウランを原料とし、「リトルボーイ」(長さ3m、直径0.7m、重さ4t)と称されましたが、長崎型原子爆弾はプルトニウムを原料とし、「ファットマン」(長さ3.25m、直径1.52m、重さ4.5t)と称されました。
実は、アメリカは広島・長崎に原爆を投下する以前に、訓練として長崎型原爆と同形・同重量の模擬原爆(通称パンプキン)を投下していました。原爆を投下した際、投下したB29も150度急旋回をして危険空域から離脱する必要があったからです。7月20日~8月14日にかけて30都市にパンプキン49発が投下され、1,600人以上の死傷者が出ました。  
その中には愛媛の3都市が含まれています。7月20日に投下された新居浜市(2発)・西条市(1発)と8月8日に投下された宇和島市(1発)です。新居浜市の住友化学工場・同軽金属工場、西条市のクラレ西条(資料上は住友軽金属工場)、宇和島市の海軍航空隊(資料上は宇和島組立工場)に投下されました。
原子爆弾は広島・長崎だけの問題ではありません。愛媛県ともパンプキンを通じて深い関係があるのです。核兵器のことを身近な問題として考えてみましょう。

焦土と化した宇和島と海軍航空隊(昭和20年8月8日撮影) 加工データ当館蔵(黄字は加筆)/原資料アメリカ公文書館所蔵

「我今より突撃に転ず」~特攻隊員の兄を想う~

8月 3日 土曜日

戦後75年を前にして、当館では戦時資料の収集だけでなく、戦争体験者や遺族からの聞き取り調査を重視しています。今回は当館のボランティア真島和男さん(昭和16年生)からお聞きしたお話を紹介します。
和男さんの兄、真島豊さん(昭和20年没、享年20歳)は予科練を卒業して各地を転戦後、国分基地(鹿児島県霧島市)に配属されました。国分基地は陸軍の知覧基地(同県南九州市)や海軍の鹿屋基地(同県鹿屋市)などと並ぶ特攻基地でした。昭和20年4月17日午前7時、豊さんは艦上爆撃機「彗星」に乗り、他の5機とともに敵機動艦隊に向け国分基地を飛び立ちました。そして、午前9時38分、奄美大島の東、喜界島の南南東約130㎞で「我今より突撃に転ず」と発信、二度と基地に戻ることはありませんでした。豊さんが特攻隊を選んだ理由については、台湾から日本へ向かう船に乗っていたとき、敵の攻撃を受けて多くの仲間が亡くなったにもかかわらず、豊さんは生き残ったことが関係しているのではないか、と伝えられているそうです。
国分基地では427名の特攻隊員が戦死しました。現在、霧島市では国分基地特攻隊員戦没者慰霊祭が行われていますが、豊さんの面影を知らない和男さんは、これまで慰霊祭に参加せず、別の兄が参加していたそうです。しかし、その兄も高齢となったため、一昨年から和男さんも一緒に参加するようになりました。和男さんは、「地元の人々に感謝している。慰霊祭に小中学生も参加して、平和の誓いの場となっていることがうれしい」と述べられます。
豊さんはどのような思いで「我今より突撃に転ず」と発信し、操縦桿を敵艦隊に向けたのでしょうか。また、遺族はどのような思いでこれまで過ごしてきたのでしょうか。いろいろなことを考えさせられました。今回お話いただいた和男さんに感謝するとともに、戦争体験者や遺族がご健在な今のうちにこそ、いろいろなお話を聞いておかなければならないと再認識しました。

真島豊さん


江田島での豊さん(左)と同僚


慰霊祭での和男さん(右)


※ 写真は真島和男さん提供