帰ってきた遺留品

5月 13日 日曜日

 これは、西予市出身で昭和14年12月31日に戦死した梶原保軍曹の遺留品です。木箱2つに納められています。木箱の1つは、縦113センチ、横11.5センチ、高さ14.5センチで、「第四十師団歩兵二百三十四連隊梶原保遺留品 留守第十一師団歩兵二十二連隊行 内容責任者 陸軍歩兵中尉 三木衛」と墨書され、軍刀が納められていました。もう1つは、縦60.0センチ、横30.0センチ、高さ34.5センチで、上記に加え、「愛媛県 松山駅 西島部隊行」と墨書され、中には軍帽やアルバムなどが納められていました。

 第40師団は、昭和14年に第11師団管区(四国)で編成され、その内歩兵第234連隊は松山で編成されました。師団の編成目的は、昭和12年に始まった日中戦争において、中支方面の占領地警備にありました。同年10月揚子江をさかのぼり、武昌及びその付近に上陸しました。そして、咸寧南方通山付近に駐留しました。その頃、蒋介石は中国軍を再編し、冬季反攻を計画していました。同年12月10日、約7万の大軍が襲来、11師団は夜襲や敵前渡河を行い撃退しました。続いて、隣接する第6師団が中国軍に包囲され、苦戦していたため、234連隊を含む石本支隊を通城付近に派遣し危急を救いました。

 残念ながら、梶原軍曹がどのような状況で戦死したのか、木箱の遺留品からはわかりません。しかし、中支派遣後早期の戦死だったようです。子息の武保氏によると、遺骨も帰っているとのことでした。日本が優位な中国戦線で、しかも比較的戦争早期であったため、遺骨や遺留品を送る余裕があったのでしょう。

 この遺留品と木箱は、先日武保氏より、当館に寄贈いただきました。この資料は、戦死者の遺留品がどのように取り扱われたのかを知る貴重な資料です。しかし、それだけではありません。父親の顔を知らない武保氏にとっては、父親の形見であり、言葉に言い表せない想いがあります。また、戦死された保氏の想いも私たちはくみ取り、平和を願いたいと思います。