中国四国名所旧跡図28 阿州切幡寺

5月 10日 水曜日

讃岐の88番札所の大窪寺から1番札所の霊山寺までは約40キロメートル。10番の切幡寺まではその半分の約20キロメートルなので、遍路の中には先に切幡寺に出て、それから1番に向けて逆に札を納めていくものも多かった。しかし、西丈は大窪寺の後に鳴門に寄っているので、1番の霊山寺に出て順に札を納めて行ったものと考えられる。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では、88番から10番ヘの道を「到而山道のミにして眺望もなければおもしろからず」と記すのに対して、1番への道を浜辺道として「嶮路なる處もあれども眺望よし」としている。四国を描きながら旅をする西丈にとっては、浜辺道を通って正解といったところであろうか。

麓の切幡村から「九折嶮路」を登り切った山の中腹、標高155メートルの所に、切幡寺の境内がある。坂道を登ったところに二王門があり、その奥に本尊の千手観音を安置した本堂が見える。その右手前の茅葺きの建物が大師堂であろうか。松浦武四郎は、「前ニは北方幷吉野川を眺、淡州、紀州は手ニとる如く見、其風景筆紙ニつくしがたし」と記しているが、残念ながら西丈は切幡寺からの眺望を描き残していない。

寺の縁起によると、弘法大師がここに来た際に、天から幡1流が吹き流れてきたので、山に登ってみると、南海数千里を眺望して、補陀落世界のようだったので、救世菩薩の像を彫って寺を建てて安置したと記されている。また、言い伝えでは、修行中の弘法大師が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、少女が織りかけの布の中ほどを切って差し出した。大師が少女の願いを聞くと、千手観音を刻み、得度灌頂を授けた。すると、少女は即身成仏して千手観音の姿になったので、堂宇を一夜で建立し、切幡寺と名付けたと伝えられる。

西丈はその言い伝えを耳にしたのか、それに因んだ和歌を書き付けている。

乞へはとておる真中を切機寺五障の罪をあろふ手ぬくい
御仏の国へ騎込女武者機を切たる腕の強さよ