中国四国名所旧跡図2 泉州堺濱図

2007年6月22日

中国四国名所旧跡図2
 画帖を開くと最初に「泉州堺濱図」が登場する。田原本を出発した西丈は、竹内街道か長尾街道か、どちらかを辿って堺に出たものと思われる。西丈は「堺濱」と記しているが、これは堺港があった大浜地区を指すものと考えられる。

 画面右側には、二つの波止と右側の波止の付け根に燈台が見える。堺市立図書館のデジタル郷土資料展の解説によると、堺港の燈台は、元禄2年に初めて市中の商人の寄金で建築されて以降、明治10年の洋式燈台まで7期にわたり、位置を変えながら建て替え続けたとあるが、この燈台がその第何期にあたるのかは不明である。

 画面左側にはたくさんの船が着けられ、浜辺で盛んに魚の売買が行われている。赤い魚が見えるのは、当時堺名物であった桜鯛であろうか。大浜海岸では江戸時代このような魚市が立ったようで、それは住吉大社の夏越祓神事に際して、神輿がそのお旅所である堺の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)に渡御(とぎょ)するのに合わせて、魚市が立ちようになったことに由来する。この魚市は、現在でも堺の夏の風物詩として行われる観光イベント「堺大魚夜市」になり、姿を遺している。

 そして、画面の上側には遠くはるかに須磨、明石の陸地と、その手前の瀬戸内海には白い帆を上げたたくさんの廻船が見える。西丈を須磨、明石を望んで、その地名を織り込んだ和歌を一首詠んでいる。
 「須磨明石おがめハげにも一の谷そふしやさかひ(堺)の浦乃きかせハ」

 石垣で築かれていたと思われる燈台の土台を白く描くなど、部分的な誤りはあるものの、西丈は単純な構図の中に江戸後期の堺の特徴を描き出している。