南予の中世城跡探訪24 ―祖母井城跡―

2月 13日 金曜日

 肱川は、大洲盆地から長浜まで狭い谷間をほぼ直進して河口へいたります。そのほぼ中ほど、ちょうど大洲市八多喜(はたき)町を少し入った尾根上に、祖母井(うばがい)城はあります。戦国時代の史料に祖母井氏の名が見られるので、ここを本拠とした領主と思われます。珍しい名前ですが、栃木県の宇都宮市の東隣の芳賀町には「祖母井」の地名があり、大津(大洲市)宇都宮氏の本家で有力御家人であった下野宇都宮氏の所在地の至近です。鎌倉時代に宇都宮氏が伊予守護職を獲得し、喜多郡地頭職をも獲得して支配が始まるに伴い移住してきたと見てよいでしょう。


  祖母井城跡(下流側)
   麓に八多喜の集落、前面に低地帯が広がる

 この城の尾根は、肱川下流で唯一流路に張り出しており、上流・下流ともに眺望が効きます。上流は、麓に春賀の低地(水田地帯)が広がり、先には大洲盆地が見えます。下流は、麓に八多喜の町並みとやはり低地が開けています。八多喜町側に階段状の郭が配され、春賀側が最も高い本郭になっており、そこから両方を見渡すことができます。


  祖母井城跡(上流側)
   前面に春賀の低地帯が開ける

 大津盆地から河口まではほとんど標高差がなく、そのため肱川は現在でもよく川の氾濫が起こり、低地が水没します。また、ちょうどこの地域の手前の米津付近まで潮位の影響を受ける汽水域となっていて、江戸時代の大洲藩では、加屋村須合田に浜番所を置き、河口の長浜に継ぐ港町となっていたそうです。麓の八多喜町も、河岸の在郷町として発達し、現在もその面影を残しています。おそらく中世のこの付近では、低湿地や淀みなどが広がり、河口のV字谷とは違って船溜りなどを造りやすい景観だったと推測できます。


  八多喜町に残る旧家

 米津には瀧之城があり、そこは宇都宮氏の重臣津々喜谷(つづきや)氏が本拠としましたが、栃木県芳賀町の東隣の市貝町には「続谷」の地名があり、やはり宇都宮氏の喜多郡支配に伴って土着した下野(栃木県)の領主の一族と思われます。こうした下野以来の領主が土着していることからも、宇都宮氏の支配にとってこの地域が重視されていた様子が垣間見えます。

 四国平定後に豊臣政権下で行われた城郭整理では、伊予を拝領した小早川隆景が、「祖母谷、瀧之城、下須戒、これも一所にまとめたい」と言っています。河口にある下須戒と合わせ、この3城がすべて肱川下流の城として、水上交通を押さえる拠点となっていたと推察でき、統一政権下ではその役割を1つの城に担わせようとしたようです。