南予の闘牛を知る4―突きあいの歴史―

2007年5月20日


※写真は、南宇和郡城辺町(現愛南町)の「突きあい牛」

 日本における闘牛に関する初見は、平安時代末期から鎌倉時代初期に成立したとされる『鳥獣戯画』ともいわれている。しかしこれは、牛同士を人間が故意に突きあせしているのではなく、不意に牛が角突きを始めた場面の描写であり、現在の日本各地の闘牛とは直接関係しない。(牛は自然に角を突きあわせる行動をとるので、この自然行為をもって「闘牛」文化ということはできない。)

 日本各地の闘牛は主に江戸時代中期以降の史料に散見できるのみである。南予地方の「突きあい」は安政3(1856)年に野村組の庄屋文書に見えるのが初見であり、明治時代に入ると愛媛県の行政文書に数多く闘牛関係史料が現れる。これらは闘牛を禁止する旨を伝えたものが多い。

 民衆側は闘牛解禁の嘆願を行政側に度々申し入れ、明治23年頃には愛媛県当局から解禁され、「突きあい」は祭礼の余興として、また農閑期の娯楽として人々の生活に密着するようになった。

 ただし、大正~昭和初期にかけては、「突きあい」で賭博や喧嘩が問題化し、再び禁止されたが、その功罪をめぐる論争は県政界をも揺るがし、結局は闘牛興行が正式許可された。
 
参考文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県教育委員会発行、当館友の会販売)