松尾峠と純友城址

2010年2月5日

 先日、愛媛県最南端の峠である松尾峠を訪れ、歩いて県境を越えてきました。南宇和郡愛南町小山と高知県宿毛市大深浦の間にあるこの峠道は、昭和4年に宿毛トンネルが貫通するまでは、伊予と土佐を結ぶ主要な街道として多くの人々に利用されていました。享和元(1801)年の記録には、普通の日に200人、多い日には300人が通ったと記されているそうです。

 また、ここには、貞享4(1687)年と翌年に建立された2基の石柱が存在し、それぞれ「従是西伊豫國宇和島藩支配地」、「従是東土佐國」の文字が刻まれています。

 この石柱から南西へ200メートルほど行くと「純友城址」と書かれた看板があります。それによると、天慶4(941)年、追捕使小野好古率いる朝廷軍に敗れた藤原純友は、伊予から九州へ逃れるとき、妻とその父をこの純友城に隠した。やがて純友と息子重太丸が討たれたことを聞いた妻は、悲しみのあまり気が狂い、その年の8月16日にこの地で亡くなった、とされています。

この記事の出典と思われる『前太平記』には、

「爰に栗山将監入道定阿と云ふ者あり。是は、伊予掾純友が末子重太丸が母方の祖父なり。去んぬる承平の比、純友隠謀露顕して伊予国を出奔せし時、定阿入道も重太丸が母を具して当国を立ち退き、土佐国松尾坂と云ふ所に忍びて居たりけるに、一類残らず討たれ、重太丸も縲紲の辱めに逢ふて、京都に誅せられぬと聞きしより、彼母恩愛の悲嘆に堪へず、慟哭の余りにや物狂わしく成つて、巫医の功を尽くすと云へども更に験もなく、今年八月十六日に思ひ死にゝぞ失せにけり。」

と、「土佐国松尾坂」の記述が見えます。

現在、純友城址には展望台が設けられており、宿毛湾を一望できるようになっています。

 ここから、高知県側に下っていき、宿毛市大深浦に入ると松尾坂口番所跡がありました。往時は不法越境者を厳しく取り締まっていたと思われます。

 3月には、友の会会員でここを歩き、春の心地よい風とともに予土国境を行きかった人々の歴史にふれていきたいと思います。