空襲体験の聞き取り~昭和20年5月の宇和島初空襲~

8月 12日 月曜日

74年前長崎に原爆が投下された今月の9日、金田八重子さん(昭和9年生、87才、元市立宇和島病院総婦長、宇和島市在住)に昭和20年5月10日の宇和島初空襲についてお聞きする機会を得たので紹介します。

金田さんは当時住吉国民小学校の6年生。父親は出征しており、母親、3年生の弟、3才の妹の4人で朝日町三丁目(現在の二丁目)に暮らしていた。昭和20年5月10日、警戒警報に続いて空襲警報がでていたが、防空壕には入らず戸外で母親とB29を見ていた。B29はそれまでも宇和島上空を通過していたが、まだ戦災にあったことがなかったためのんびりとしていた。その日は快晴。3機のB29が青空に銀翼を輝かせながら、鬼ヶ城に向けて飛んでいった。そして、母親と家に入るや否や「ドカン!」とものすごく大きな音がした。
鬼ヶ城に向けて飛んだ3機の内、1機が引き返して爆弾を投下したのだ。爆弾は金田さんの隣、鈴木マオラン工場(繊維植物のマオランから紐を作る)を直撃した。そこには金田さんが本来避難すべき防空壕があった。何が起こったのか?恐怖を感じながら窓をのぞくと、防空壕に入っていた人たちが外に吹き飛ばされ亡くなっていた。すぐに家族の安否を気遣う人たちが、爆風で膨れあがった遺体を探していた。仰向けの遺体は顔を見て、うつ向けの遺体は起こしながら確認していたが、そのとき流れた鼻血の赤色が今も脳裏に焼き付いている。
金田さんは2階にいた弟と妹の無事を確認した。幸いにもその防空壕に入っていなかったために、家族4人が助かった。一息して口の中に砂っぽさを感じたため唾を吐くと、黒くすすけたものが混じっていた。金田さん宅は倒壊を免れたものの、大きな石が屋根を突き破って押入れに落ちていたり、壁土などは崩壊していたりしており、住むことができる状態ではなかった。金田さん宅がある一区画の左端の家々は倒壊していた。その中には、友達の家に遊びに行っていて助かった3年生の男の子もいて、「家族と一緒に死にたかった」と泣いていた。
金田さん一家は須賀川に架かる芝橋を渡り、藤江の防空壕に避難した。夕方、空襲を聞きつけたのか、大浦に住む母方の実家がリヤカーを引いて来てくれた。この日の空襲は焼夷弾ではなく、爆弾であったため、火災はおこらず大事なものは取り出すことができた。以後、金田さんは大浦から住吉小学校へ通学したが、当初は空襲で亡くなっていた事になっていた。

この空襲の死者は119人。その後の空襲と比較しても一番多い死者数です。金田さんは宇和島空襲を記録する会の一員として、現在もお元気に講演されています。重いテーマにもかかわらず、温和なお人柄が聞く者を優しく包み込みます。戦争の悲惨さと平和の大切さを考える1日となりました。


              図1 昭和20年5月10日の空襲範囲(赤)(黒枠は図2)
                 (『宇和島の空襲』第4集所収の地図に筆者が加工)


              図2 金田さん宅付近と避難経路
                 (聞き取り調査から筆者作成)


              金田八重子さん