「八幡浜市若山の俵札」 愛媛大学日本史研究室との合同調査2

2月 25日 木曜日

2月23・24日の二日間、愛媛大学法文学部日本史研究室と共同で当館所蔵の四国遍路関係資料(八幡浜市若山の俵札)の資料調査を行いました。

この調査は昨年度から実施しているもので、今年度は胡光先生、中川未来先生とそのゼミ生の皆さん(計14名)が参加されました。

俵札とは、お接待の返礼に受け取った納札を俵に詰めて、天井などに吊り下げ、厄災を除くお守りに用いられたものです。

俵の中身には、お遍路さんが札所巡拝とお接待の返礼などで用いた納め札、護符、仏絵などがたくさん収納されています。

調査作業は、愛大生は3つの調査班に分かれ、胡先生、中川先生、当館学芸員の指導・助言のもと、一枚ずつシートに入れた俵札に整理番号を付け、俵札の大きさを計測し、そこに記されている情報(巡礼名称、願意、願主、年月などの)を解読して、調査票に記入するものです。

二日間にわたる資料調査でしたが、俵札には江戸時代後期から明治時代後期のものが確認され、全国各地のお遍路が用いた納め札のほか、諸国を巡った六十六部回国聖のものなど、様々な種類の札や護符などが確認されました。まだ俵札の全部を調査できていないため、詳細やその全体像は不明ですが、四国霊場43番明石寺と九州と四国を結ぶ玄関口である八幡浜港の中間地点である八幡浜市若山にのこされた俵札は、巡礼者の貴重な生の記録であり、地域にのこる巡礼研究資料として注目されます。

【予告】特別展「愛媛・お祭り博覧会2016」を開催します!

2月 23日 火曜日

愛媛県内では東予、中予、南予の地域ごとに特徴のある祭り文化が見られます。東予地方の太鼓台(四国中央市、新居浜市)、だんじり(西条市)、継ぎ獅子(今治市)、中予地方の神輿(松山市ほか)、南予地方の牛鬼、鹿踊、人形屋台(宇和島市、八幡浜市ほか)など全国的に見ても豪華絢爛であり、迫力満点で、勇壮優美な祭りが伝承されています。

今回の展示は「えひめいやしの南予博2016」地域企画イベントとして、南予地方の祭礼を中心に据え、南予の「新たな地域資源の掘り起こし」を目的とし、平成12年度企画展「愛媛まつり紀行」以降に当館での調査研究で進展した最新の成果を公開することを主眼としています。

当然、南予地方だけではなく、中予地方、東予地方の祭礼資料も展示します。この特別展では、近年確認された「銅山略式志」(平成26年新発見・新居浜〔旧別子〕のだんじりが描かれた祭礼図)や、「氷見石岡神社祭礼渡御行列之図」(初公開・西条まつりのだんじり行列図)など、新発見、初公開の資料を数多く展示する予定です。

展示会名 特別展「愛媛・お祭り博覧会2016」
開催日  平成28年4月23日(土)~6月12日(日)
会場   愛媛県歴史文化博物館 企画展示室

展示内容、観覧料などの詳細は、今後、随時アップしていきます!

四国初の特急列車「しおかぜ」と時刻表

2月 6日 土曜日

当館では今年夏の特別展「TRAIN WORLD!」(7/16~8/31)を開催するため現在調査を進めています。「鉄道の高速化と電化」・「観光列車と四国新幹線構想」をテーマとしています。今回は四国初の特急列車「しおかぜ」について紹介します。
「しおかぜ」が予讃線に登場したのは、昭和47年3月のことです。ちょうど山陽新幹線の岡山延長に合わせて設けられました。車両はキハ181系。「キ」は「気動車」の「キ」、「ハ」は「イ・ロ・ハ」の「ハ」で「普通車」を意味します。髙松~宇和島2往復、髙松~松山1往復でした。当時のダイヤを調査すると、「しおかぜ1号」は、宇和島6:51~八幡浜7:32~松山8:42~今治9:29~新居浜10:08~髙松11:32、髙松までに停車するのは僅か4駅。ちなみに、「しおかぜ3号」は、髙松18:30~多度津18:57~伊予三島19:37~新居浜~19:59~今治20:35~松山21:20~伊予大洲22:19~八幡浜22:35~卯之町22:52~宇和島23:15、宇和島までに停車するのは8駅です。
鉄道ダイヤの調査は、いかに高速化が進んだか、いかに乗り継ぎが便利になったかなど、さまざまな視点がありますが、特急がどことどこを結び、途中どこに停車したのかという観点からも興味深いものがあります。
髙松駅と宇和島駅は、予讃線の始発駅と終着駅ですから、予讃線を一体的に捉えていたことが分かりますし、松山も県庁所在地ですから当然でしょう。では、なぜ川之江、西条、壬生川、伊予市などには停車しなかったのでしょうか。様々な理由があると思われますが、一つは人口です。『第24回愛媛県統計年鑑』によると、昭和45年の人口は、松山市約32.3万人、新居浜市約12.6万人、今治市約11.1万人、宇和島市6.4万人、西条市5.1万人や八幡浜市4.7万人、伊予三島市3.8万人、大洲市3.7万人という状況でした。
また、経済状況を昭和48年度の国鉄貨物発送トン数でみると、松山駅約146千トン、新居浜駅約211千トン、伊予三島駅約185千トン、八幡浜駅58千トン、到着トン数は、松山駅約147千トン、宇和島駅約85千トン、新居浜駅約69千トン、伊予三島駅約59千トンとなっています。
もちろん人口と貨物の指標だけで論じることはできませんが、時刻表はその時代の社会・経済・文化が反映されていることは間違いないでしょう。まずは一度昔の時刻表を手にしてみてください。今日は特急の紹介をしましたが、その前には準急や急行がありました。どれくらいのスピードだったのでしょうか?そのとき四国は他にどのような鉄道が走っていたのでしょうか?日本はどのような歴史の中にあったのでしょうか?興味を発展させていくと、単なる時刻表好きから鉄道史や交通史へ関心が発展するかもしれません。
夏の特別展では、まず鉄道に興味をもっていただく機会になればと思います。
これから展示のオープンまで、時々ですが調査結果を皆さんにお伝えします。お楽しみに。

特急しおかぜ1号とDF5012の並び 昭和55年 小松駅
越智登志正氏提供

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(5)

2月 4日 木曜日

紙芝居舞台箱の豆電球とブザーを作動させる電池は、舞台を格納していた木箱上部の隙間にありました。
これが紙芝居舞台内部の電池の原状です。
電池にコードが直付けされ、電池が腐食して錆が内部周囲に飛散していました。
電池原状
電池原状拡大
開館当初から当館の展示室保守点検業務に携わり、当館の電気設備の生き字引きのようなYさんにも指導助言いただき、コードやブザーのコイル内部での断線はないことが分かりました。
また、スイッチ部分は裏から板で釘打ちされており、取り外すと大きく原状を損なう恐れもありました。
以上の状況から、コードやスイッチの交換は行わず原状のままとし、ひとまず電池部分のみ簡易修繕しました。
電池交換後
舞台内部を清掃後、新たに用意した電池ボックスに原状のコードを取り付けたことで、手軽に電池を交換できるようになりました。
また、押ボタンはいったん分解し、可能な範囲でボタン部の青錆を落とすとともに、豆電球を入手し、ソケットに取り付けました。
こうして、紙芝居を下側から照らす豆電球およびお客さんを呼び込むブザーが復元できました。
Oさんの街頭紙芝居を上演するための舞台が、ほぼ当初の姿によみがえったのです。
街頭紙芝居の舞台復元
とてもいい雰囲気です!
今回は展示借用のための必要最小限の修繕で、恐らくはスイッチ等の内部接触が不安定なため、微妙な拍子で通電しないことがありますが、これ以上の修繕は原状を大きく損なうことになります。

「ひょうたんから駒」ならぬ、木箱から舞台が飛び出た今回の資料調査。
この紙芝居の舞台箱、9月には多くの素敵な街頭紙芝居とともに、当博物館の特別展「自転車物語-自転車が語る明治・大正・昭和-」(仮称)で皆様のもとにお目見えする予定です。
少し先になりますが、ぜひお楽しみに!

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(4)

2月 3日 水曜日

さて、木箱から新たに姿を現した、折りたたみ式の紙芝居の舞台。
実はこの木箱と舞台には、類を見ない仕掛けが他にもありました。
豆電球とブザーです。
新たに現れた舞台の下には、豆電球のソケットが二つ仕込まれています。
豆電球ソケット
また、木箱の側面には、押ボタンとトグルスイッチが一つずつあり、別の側面には、コイルを巻いたブザーの部品がねじ留めされています。本来あったはずのカバーは失われています。
ブザー

恐らくは、ブザーを鳴らして子どもを集めたり上演開始の合図としたり、夕暮れ時には豆電球を点灯させて上演したものでしょう。
ここまできたら、何としても豆電球とブザーを復活させたいものだ・・とOさんと話し合い、復元を試みることにしました。
((5)へ続きます)

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(3)

2月 2日 火曜日

「ゴトリ」という音を立てて動いた上板。
その下の隙間から、何か木組みのようなものが見えました。
上板部分
ドキドキしながらOさんと二人で慎重に板を動かしてみると、上板がゆっくりとスライドしていきます。
上板は実はふたになっていて、ふたを取ると中には何かが折りたたまれて格納されていました。
上板をはずした様子
慎重に立てて広げてみると、なんと紙芝居の舞台が姿を現しました!
立ち上がった紙芝居の舞台
紙芝居が見える面にはガラスがはめ込まれ、ちょっとテレビのような雰囲気です。

こうして、当館の調査により、Oさんのお宅には、当時の紙芝居と、その上演道具がセットで現存していることが判明したのです。
周囲の木枠も大変丁寧な細工で、Oさんは、「手先の器用な父が自作したものだと思う」と感無量のご様子でした。
この折りたたみ式舞台の発見は、平成27年11月22日付愛媛新聞9面でも紹介され、記事の中で、紙芝居の歴史を研究されている京都学院大学の堀田譲教授は「初めてみる工夫。舞台の窓にガラスがはめ込まれているのも珍しく、モダンな印象」と評されました。

というのは、この舞台には、はめ込まれたガラス以外にも、色々な工夫が施されていたのです。
((4)へ続きます)

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(2)

2月 1日 月曜日

松山市のOさんの手元に残されていたこの木箱、御父堂様が紙芝居を上演する際、自転車の荷台に固定して使っていたものでした。
側面には引き出しがついており、中には駄菓子を入れて上演のとき子どもたちに販売していたそうです。
木箱
この木箱の上に舞台を載せ、中に紙芝居を入れて上演するわけですが、残念ながら舞台は処分されて残されていない・・とOさんを含め誰しも思われていました。
そのため、平成23年特別展での公開時、木箱の上には、たまたま博物館で保管していた別の紙芝居舞台を載せて展示しました。
木箱展示風景
そんな中、歴史文化博物館では「自転車の歴史と文化」をテーマとした特別展を28年秋に開催することになりました。
自転車の歴史といえば、紙芝居を載せた自転車でやってきた紙芝居屋さんのことを取り上げないわけにはいきません。
ちょうど所蔵者のOさんからご連絡をいただいていたこともあり、昨年27年の10月末、改めてご自宅にお伺いしました。
貴重な街頭紙芝居の数々を改めて拝見した後、Oさんとともに「木箱の上にどのように舞台を載せて固定していたのだろう」と疑問に思いながら、木箱の状態を確認していた時のことです。
木箱の底板や側面と比べ、上板の一辺だけ木組みの様子が違うことを不思議に感じ、上板に指をかけてみました。

すると、上板が「ゴトリ」という音を立てて動いたのです。
((3)へ続きます)

よみがえる街頭紙芝居とその舞台(1)

1月 31日 日曜日

松山市のOさんのご自宅には、1300枚を超える街頭紙芝居が残されています。
これは同市内で紙芝居屋の取りまとめ役をしながら、自身も紙芝居屋として活動されていた御父堂様から受け継がれたもの。
6年前の平成22年に県にお問い合わせいただいたことが契機で、歴史文化博物館の担当がOさんのお宅に何度も通い、全体の目録を作成し、平成23年には特別展「昭和こども図鑑」でその一部を展示させていただきました。
昭和子ども図鑑チラシ
昭和子ども図鑑展示風景
このときは博物館ボランティア等による実演も実施。
大人も子どもも夢中になってお聞きいただきました。
ボランティアによる実演
Oさん宅に残された街頭紙芝居は、血沸き肉踊る時代物からおどろおどろしい怪奇物、薄幸のヒロインが健気な悲哀物や、物語の合間に繰り出すクイズ紙芝居まで、多くのバラエティーに富んでいます。
その多くは昭和30年代、大阪・さだむ社が製作したものです。
裏面には名古屋、大阪、岡山でも上演されたことや、自主規制機関の審査を受けていたことを示す記載もあります。
「父は右足が不自由だったが、左足で自転車をこいで市内を回り、母と二人三脚で自分を育ててくれた」とOさんは紙芝居をみながら懐かしそうにお話くださいました。
紙芝居1
紙芝居2
紙芝居3
街頭紙芝居は、保育や教育用の印刷紙芝居とは違い、東京や大阪の「絵元」と呼ばれる業者が製作する肉筆(一点もの)の紙芝居で、プロの紙芝居屋により、街頭(屋外)で有料で演じられるものです。昭和初期から10年代、および戦後に全国で盛行しましたが、昭和30年代後半の高度成長期にテレビが出現すると次第に衰退していきました。

街頭紙芝居が上演される基本的なプロセスは、以下のようになります。
まず、「絵元」が作家・画家に紙芝居の製作を発注します。
完成した紙芝居は、絵元から全国各地の「支部」(取りまとめ役)に貸与され、支部から地域の紙芝居屋にさらに貸与され上演されます。
上演が終わると紙芝居屋は支部を通じて絵元に紙芝居を返却するとともに、絵元は新たな紙芝居を支部に貸与する、というシステムになります。
このため、紙芝居は地方の紙芝居屋の手元に残ることが少なく、これほど多くの街頭紙芝居が松山市内に残っていることは、愛媛県内はもとより四国を見渡しても管見の限り例がありません。
愛媛の昭和生活史の一コマを物語る上で大変貴重な資料群といえます。
紙芝居屋さん
(伊予市双海町での街頭紙芝居の様子。井上敬一郎氏所蔵)

ところで、実はOさんの手元には、紙芝居の舞台箱も残されていました。
((2)へ続きます)

歴史文化体験「室町時代の衣装を着てみよう」を開催しました。

1月 24日 日曜日

歴史文化博物館では、「歴史文化体験」として、月1回、「綿から糸づくり」や「歴史衣装の着付け体験」をエントランスホールで実施しています。
今回用意したのは、男の子用には直垂(ひたたれ)、女の子用には打掛(うちかけ)の衣装。

博物館ボランティアの皆さんと職員とが、ご来館いただいたお子さんに着付けしていきます。
打掛・直垂着付けの様子(1)
打掛・直垂着付けの様子(2)
鎌倉時代、貴族の日常着である水干を着やすくした直垂(ひたたれ)は、武士の日常着となりました。室町時代になると、袖が広くなり、胸元や袖などに飾り紐や家紋をつけるなど装飾性を高めた直垂が、武士の礼服として着られるようになりました。

また、室町時代、武家の女性の礼服は、小袖と呼ばれる袖口が小さくなった着物に、もう1枚豪華な織物の小袖をかけました。これを打掛(うちかけ)と呼びます。安土桃山時代には、この打掛を腰に巻きつけた腰巻(こしまき)という服装が流行しました。

こちらのお兄さんと妹さんも、凜々しく変身です。
打掛と直垂
来月2月は、開催予定のテーマ展「おひなさま」関連イベントの一環として、平安装束の着付け体験を行います。
平安時代に着用された「袿袴(けいこ)」の着用体験は当日先着順ですが、十二単の着用体験は申込の中から抽選で実施となり、着用には事前応募が必要です。
詳しくはこちらを御覧ください。

四国遍路展示室 展示替えしました!

1月 21日 木曜日

常設展示室「四国遍路」(民俗展示室3)の展示替えを実施しましたのでお知らせします。

今回、展示替えしたコーナーは「四国遍路の盛行」、「近現代の四国遍路」、「ミニ霊場」、「巡礼の歴史」。各コーナーでは、下記の館蔵資料を新たに展示しました。

■常設展示に加わった資料

<四国遍路の盛行>

・四国徧禮(へんろ)絵図(江戸時代)

・江戸時代のお遍路の所持品(納経帳、札挟み、四国中御宿入用控、四国順拝日付帳、文政11〈1828〉年)

<近現代の四国遍路>

・写真パネル「四国霊場第15番恩山寺」、「四国霊場第40番観自在寺」(『四国霊場名勝記』より、明治42〈1909〉年)

・戦前のお遍路の所持品(納経帳、納札、札箱、手甲、脚絆、さんや袋、記念写真、郵便葉書、昭和11〈1936〉年)

・講中札「永代大師講」(明治時代)

・講中札「千人講」

<ミニ霊場>

・『御府内八十八ヶ所道知るべ』

(慶応2〈1866〉年)

<巡礼の歴史>

・西国順礼道中絵図(江戸時代)

江戸時代に伊予国篠山道周辺で刷られた四国遍路絵図、明治後期の四国霊場の様子を記録した写真集『四国霊場名勝記』、江戸時代と昭和(戦前)のお遍路の所持品、四国八十八ヶ所霊場の巡拝を目的として結成された代参講の資料(講中札)、江戸時代の御府内 (江戸)に設けられた四国霊場の案内記、四国遍路に大きな影響を与えた西国三十三所巡礼の道中絵図など、貴重な資料を展示しました。この機会に多くの方にご覧いただければ幸いです。