展示予告「異界・妖怪大博覧会」11―百鬼夜行絵巻7―

6月 14日 木曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第6回目。

7月10日開幕の「異界・妖怪大博覧会」では、展示室内だけでなく、博物館館内のいたるところに「百鬼夜行絵巻」に描かれた妖怪を題材として、等身大?(1m20cm程度。ただし、妖怪の実際の大きさは不明・・・。)の妖怪人形パネル(人ではないので単に「妖怪パネル」?)を配置します。今回、紹介する妖怪たちもパネル化される予定です。博物館内で、妖怪パネルを探したり、見つけたりするだけでも楽しむことができるように工夫したいと考えています。


15 農具の妖怪
左の妖怪は、頭に農具の箕を戴く。右の妖怪は、顔が竪杵の形をしていて、木臼を搗いている。穀物を脱穀する様子であり、妖怪も農作業をするというのか?


16 分銅と天秤ばかりの妖怪 
顔の形は重さを計るための道具である「分銅」。肩には「天秤ばかり」を荷っている。何かに追われて逃げているような表情にも見える。

学校PTA活動

6月 13日 水曜日

 博物館には、単なる見学だけではなく、学校ではできにくい何らかの体験活動やワークショップを求める要望が多々寄せられます。
 4月末、三間小学校PTAの皆さんが、6月10日に行う体験活動について相談に訪れました。

 相談の結果、人数が保護者の方も含めると約90名と多く、またそのほとんどが小学校低学年だったことから、子どもたちに博物館の展示物に興味を持ってもらうという趣旨で、クイズラリーを実施することにしました。各展示室1問~2問で展示室内に計10問のクイズを設置しました。
 子どもたちは、クイズを解くのが面白かったのか、1時間余りの時間を残して解き終えた子もいました。

 クイズラリーの後は、かぶれる大きさの紙でかぶと折りを実施しました。全員が作り終えたところで、記念撮影をしました。

 当博物館では、今回に限らず学校団体等にむけて、このような学習支援活動をいろいろ行っています。ご希望等ございましたらお気軽にお問い合わせください。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」10―牛鬼―

6月 12日 火曜日


※「吉田祭礼絵巻」(当館所蔵)に描かれた牛鬼(うしおに)

「異界・妖怪大博覧会」では、「鬼のすがた」というコーナーを設け、各種の鬼を紹介します。愛媛の「鬼」で忘れてはいけないのが、南予地方の「牛鬼(うしおに)」です。

牛鬼は全国でも比類の無い練物(ねりもの)で、今回の展示では、全長6メートルの大きな牛鬼(八幡浜市川名津地区・内子町中田渡地区)も展示します。


※現存最古の牛鬼(大洲市立肱川風の博物館・歌麿館所蔵)


※内子町小田の牛鬼(当館撮影)

牛鬼は、青竹を割って牛の胴体のように編み、赤布や棕櫚(しゅろ)の毛で全身を覆い、長い首の先には張子(はりこ)製の頭を付けています。その表情は牛とも鬼ともつかないもので、二本の角と額には月輪の前立物(まえだてもの)があり、口は大きく開き、舌をむき出しにして恐ろしい表情を強調しています。

また、ケン、オバチと呼ばれる尻尾(しっぽ)は鋭く尖っており剣を象徴しているといわれ、それに白い御幣を垂らしています。祭りでは牛鬼を10~20人が担ぎ上げ、神輿(みこし)行列の先導役として、家々に首を突っ込みながら悪魔祓(あくまばら)いをしてまわります。

牛鬼がいつの時代から祭りに登場するようになったかは不明ですが、少なくとも江戸時代、1700年代後半には、南予地方(旧宇和島・吉田藩領内)にて各地の祭りに登場していることが確認できます。

なお、史実とは異なりますが、牛鬼の起源伝承として、加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために用いたのが始まりであるとか、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治したとか、宇和島藩主の許しを得て、オオカミ退治のために牛鬼を作ったのが始まりであるなどと、様々な起源伝承が各地にあります。

展示では、各地の牛鬼の頭(かしら)も紹介します。南予でも地域によって異なる「牛鬼のすがた」を、ぜひご覧になってください。

※企画展「異界・妖怪大博覧会―『おばけ』と『あの世』の世界―」は、7月10日(火)~9月2日(日)に開催します。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」9―幽霊図―

6月 9日 土曜日


飴買い幽霊図(今治城所蔵)


子育て幽霊図(八幡浜市・個人蔵)

この2つの幽霊(ゆうれい)の絵をよく見てください。幽霊が赤ん坊をダッコしているのがわかるでしょうか?じつは、このような絵に関するものとして、次のような言い伝えがあります。

むかし、ある寒い夜、飴屋(あめや)に、白い着物を着た女が音もなく入ってきた。女は一枚の銭(ぜに)を出して飴(あめ)を買うとすっと消えるように帰っていった。女は次の日も、次の日も同じように飴を買っていった。

7日目の夜、女の手には一枚も銭(ぜに)がなかった。だまっていた女を飴屋はかわいそうに思って、いつもより多く飴をわたした。女はうれしそうにほほえむと、しきみ(仏さまに供える葉)を一枚置いて帰っていった。

いつもと様子が違うので、飴屋は気になって女のあとをつけた。すると、寺の近くでふっと消えた。すると新しいお墓(はか)の下から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。墓を掘り起こすと、一週間前に身ごもったまま死んだ若い母親のそばで、飴を持った赤ん坊が泣いていた。

母親の首にかけられていた六枚の銭<六文銭(ろくもんせん)といって、あの世へ通じる三途の川(さんずのかわ)の渡し賃のこと>がなくなっていて、母親の幽霊(ゆうれい)が毎晩、赤ん坊に食べさせるために飴を買いに来ていたのであった。人々は母親の愛情の深さに心をうたれた。

赤ん坊は、そのお寺のおしょうさんによって育てられ、有名なお坊さんとなった。(このような伝説は、愛媛県内でも数ヶ所確認することができます。)

この子育て幽霊の話をもとに描かれた幽霊図は、単に「恐ろしい幽霊」というより、母親の愛情を表現した資料として見ることができます。

南予の中世城跡探訪1 ―曽根城周辺―

6月 8日 金曜日

 曽根城は、内子町の町並みの北、「城廻」(しろまわり)という場所にあります。地名がまさしく城の存在を示していておもしろいですよね。国道56号線、大洲方面からだと田中橋の信号を過ぎ、両側の建物がちょうどなくなった辺りで道は左へカーブし、すぐに「岡町口」のバス停が見えてきます。右に中山川、左に山の斜面という景色に変わりますが、まさに左側の山の尾根に曽根城はあります。といっても高い石垣や天守閣を備えた城ではなく、土塁や堀切を主体とする中世の山城です。

 大きく分けて3段の曲輪(くるわ)を備え、なかでも最も南(尾根の先端)に位置する曲輪は南北約140m、東西約90mの広さを誇ります。それらの周りにもいくつもの帯曲輪が配され、守りを固めています。また、それら曲輪部分の弱点は、背後に延びる尾根ですが、そこにも堀切を設けて、尾根のつながりを遮断しており、様々な防御遺構を見ることができます。

 この城の城主は、曽祢氏という領主でした。「祢」?と思われるかもしれませんが、当時の資料にはちゃんと「曽祢」と記されています。伝えるところでは、曽祢高昌なる武将がこの地に住み着き、内子曽祢氏の祖となったといわれます。戦国時代の喜多郡では紛争が絶えず、特に河野氏、毛利氏、一条氏、長宗我部氏、大友氏などといった周辺の諸大名からの干渉を受けながら、まさに境目地帯として混乱が続きました。曽祢氏も渦中にありながら、巧みに乱世を生き延びていきました。しかし、秀吉の権力が伊予へも及ぶようになると、曽根城は小早川隆景によって廃城とされ、曽祢氏も伊予を離れ毛利氏を頼り、近世には萩藩の家臣へと変貌することとなります。

 周辺にはゆかりの史跡が点在します。そのひとつ、西方へ麓川を越えた所には高昌神社が静かな佇まいを見せています。狭い境内の奥には、祖とされる曽祢高昌の墓碑が立ち、その手前には高昌妻女と、次代宣高夫妻の墓碑が並びます。といっても全て後世に建てられたもののようです。ただ、高昌墓碑の左にひっそりと立つ被葬者の分からない小さな五輪塔が2つ。案外古そうです。小さな方が傾いているのが、おそらく自然のいたずらでしょうが、なんとも睦まじい愛らしさを醸し出しています。

 足を町並みの方角へ戻すと、町並み駐車場に隣接して高昌寺があります。名前のとおり高昌を弔う寺であり、曽祢氏の菩提寺でもあります。駐車場からは、八日市・護国の町並みへ歩くよりも近いお寺です。町並み散策の際は足を運んでみてもよいでしょう。

村上節太郎写真18 オイコで荷物を運ぶ女性 昭和31年

6月 7日 木曜日

村上節太郎写真4-447
 村上節太郎の写真から頭上運搬を撮影したものをしばらく紹介してきたが、所変われば品かわるで、地域により運搬方法は様々である。宇和海沿岸に目を転じると、オイコ(背負梯子)やカルイカゴ(背負籠)で荷物を運んでいる写真が圧倒的に増えてくる。

 この写真もそうした一枚で、「石垣の里」として知られる外泊(愛南町)で撮影されたものである。女性の右側には台風や冬の強い季節風を防ぐために積まれた石垣がそそり立ち、石垣を縫って走る道もすべて石張りでつくられている。その細い山道を女性がオイコで荷物を背負い運んでいく。オイコをよく見ると、荷物がすべり落ちないようにカギが付いたものが使われている。女性は日々の暮らしの中で重い荷物を背負い、何度この山道を上り下りしたことであろうか。

鬼北町延川 天満宮とその棟札

6月 6日 水曜日

 鬼北町の三島校区といえば、小松の善光寺薬師堂が国の重要文化財指定を受けており有名ですが、今回はそこから広見川を渡って南へ約500メートル、延川の小高い丘の上の白王神社に合祀されている天満宮のお話です。

 ここには、永禄13(1570)年に天満宮を再興した際の棟札の実物が今に伝わっています。縦約108センチ×上部幅約16センチのもので、大檀那は河原淵教忠、本願主は小川定吉・西川政輔・小松新次郎たちです。河原淵教忠は、松野町の河後森城を本拠としたことでよく知られています。また、小川らはその教忠の家臣とみられます。文面からは、永禄11年に喜多・宇和郡堺の高島に、一条氏に従う土佐衆・三間衆らが在番していた時、教忠が再興を発願したところ、その願力により敵対勢力(河野・毛利勢力)を撃退することができたことが読み取れます。つまり、一条氏と河野・毛利氏が激突した高島合戦・鳥坂合戦に関わる重要な記載が残されている貴重な史料です。また、数少ない河原淵氏関係の史料としても貴重です。(*秋季企画展「戦国南予風雲録」で展示する予定です。)

 現在、天満宮は白王神社に合祀されていますが、元は単独で社を有する神社でした。現在白王神社の宮司を兼帯する三島神社の宮司さんからの聞き取りによると、場所は白王神社から西へ丘を下りた辺りということです。圃場整備がされた現状では、往時の地形をうかがうことはできませんが、谷間を南から広見川に向けて流れ下る川も今とは流路が違っており、その川沿いに天満宮は鎮座していたそうで、ある時大洪水が発生した際に社殿が倒壊したそうです。(*写真中央の田圃あたりにあったらしい)

 その後、天満宮は高台の白王神社に合祀され、棟札も移されることになりました。
 現在社殿がないことを教忠が知ったら、世の無常を感じるのでしょうか。

 白王神社は延川村の氏神様として今も地域の人々により信仰されています。神社正面の参道には藤棚も設けられ、花の季節には訪れた人の心を和ますことでしょう。鳥居脇からは愛嬌たっぷりの狛犬も出迎えてくれますよ。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」8―百鬼夜行絵巻6―

6月 4日 月曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第5回目。

「百鬼夜行絵巻」も展示する企画展「異界・妖怪大博覧会」は7月10日からです。開幕まであと1ヶ月にせまってきました。

今回の妖怪も少々風変わり。「百鬼夜行絵巻」というよりも「百器」つまり、まさに器物の妖怪です。


12 花瓶の妖怪
器物は百年経つと魂を持つといわれており、この花瓶も例外ではない。三本足、三本の指、そして三つの目という異形。しかし生けられた花は案外、鮮やかだ。


13 楽器の妖怪 
この妖怪は鞨鼓(かっこ)という楽器を頭に戴いている。細長い撥(ばち)で打って音を鳴らすが、妖怪自ら演奏し、舞っているようにも見える。


14 洗濯をする妖怪 
頭には角のようなものが二本あるためか、表情は般若のように険しい。歯は黒いので、お歯黒をした既婚の妖怪か。盥で洗濯をしているようにも見える。

※ちなみに、今回の企画展で「百鬼夜行」関連で展示する主な資料には、次のようなものがあります。お楽しみに。
 妖怪絵巻(国立歴史民俗博物館蔵)
 今昔画図続百鬼(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 百鬼夜行拾遺(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 画図百器徒然袋(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 怪物画本(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)
 暁斎百鬼画談(香川大学附属図書館蔵・神原文庫)

展示予告「異界・妖怪大博覧会」7―百鬼夜行絵巻5―

6月 3日 日曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第4回目。

番号9と番号10の妖怪は京都大徳寺の塔頭である真珠庵に伝えられた「百鬼夜行絵巻」(室町時代、伝土佐光信画)にも登場しますが、番号11は真珠庵本には出てこないものです。百鬼夜行図が時代とともにどのように書写され、変容、展開していったかを知る上で興味深い材料といえます。(本資料は、7月10日~9月2日の企画展「異界・妖怪大博覧会」にて展示予定です。)


9 黒布の妖怪
黒い布をかぶっているので、正体はよくわからない。ただ、足には鋭い爪があり、獣の毛のようなものも見える。少なくともおとなしい妖怪ではなさそうだ。


10 狐女の妖怪 
紫色の着物を振り乱しながら疾走する妖怪。顔は見えないが、尻尾の形や色から狐と思われる。一体、何を急いでいるのだろう。


11 盥(たらい)の妖怪
水やお湯を入れて顔や手を洗うための盥。顔を洗う道具自体が顔になっているという不思議な妖怪。表情や体は人間の女性なのに、手足はなぜか獣のようだ。

村上節太郎写真17 浅海のおたた 昭和20年代

6月 2日 土曜日

村上節太郎写真6-364
 村上節太郎は松前のおたただけでなく、浅海(松山市浅海原)のおたたについても写真に記録している。この浅海地区で頭上運搬による魚の行商が行われていたことは、民俗学者、瀬川清子の『販女(ひさぎめ) 女性と商業』にも全く言及がなく、それだけに村上の写真は貴重である。

 村上は「瀬戸内海国立公園候補地域としての忽那諸島の地理的景観」(昭和27年)に、浅海のおたたについて書き記している。それによると、当時は毎朝40~50人の婦人が頭上に桶をのせて付近に行商に行っていたという。汽車を利用する者もあったが、大半の行動範囲は10キロ余りで、昼頃には帰ってきたらしい。

 頭上運搬の桶から、手や肩に提げるブリキの「カンカン」へという運搬方法の変化は、松前と同様に浅海でも見ることができる。しかし、浅海の写真では、かなり年輩の婦人でも「カンカン」を提げているので、この変化は世代差もさることながら、魚の鮮度を保つために「カンカン」の方が適していたことによるものとも考えられる。

※下の写真は浅海のおたた。未だ頭上運搬も残るが、「カンカン」を手にする人の方が増えている。昭和27年。
村上節太郎写真3-386