平城貝塚と展示室のリニューアル

5月 23日 水曜日

愛南町御荘平城(ひらじょう)に所在する平城貝塚(県指定史跡)は、明治24(1891)年に高知県の地域史研究者・寺石正路氏によって発見された、県内でも早くから知られた縄文時代後期(約3500年前)の貝塚です。その後、昭和初年にかけては愛媛県内の研究者や中央の考古学者が平城貝塚を訪れ、発掘を行っています。本格的な調査は、昭和29(1954)年以降、平成8(1996)年まで5回に亘り、行われています。

出土遺物の多くは現地の平城公民館にて展示されていましたが、平城交流センターの新築に伴い、新たに展示室が設けられました。今回は、愛南町教育委員会の依頼で、この展示室の展示資料や展示方法についてアドバイスをするため、新しい展示室を訪ねました。

新設された平城交流センター

従来は公民館の廊下に設置されていた展示ケースにひっそりと展示されていた資料ですが、この展示室では、貴重な資料がゆっくり見学できます。当面は、これまで展示されていた資料を展示されるようですが、今年の夏頃には、よりわかり易い展示に変更することを予定されているようです。

展示準備中の展示室

この貝塚は、縄文時代後期の磨消(すりけし)縄文という手法で製作された平城式土器の標識遺跡として著名です。この土器は対岸の東九州の小池原(こいけばる)式土器と類似しており、豊後水道を介した人々の交流がうかがえます。また、貝製の笛や貝製の腕輪、獣骨で作られた漁具、当時の人々が食べた貝殻など、約3500年前にこの地域に暮らした人々が目の前に広がる海と深く関わっていたことがわかる資料がたくさんあります。
展示室は5月末にオープンする予定とのことですが、今後は、当館が保管する写真資料などをパネル展示することで、考古学の専門家でない一般の見学者も貴重な資料を理解できる展示室にしたいという担当者の意向をうかがいました。微力ですが、貴重な地域の宝を地域の方に理解していただけるよう協力したいと考えています。

村上節太郎写真14 頭上運搬する女性1 昭和20年代

5月 22日 火曜日

村上節太郎写真7-507
 村上節太郎が撮影した写真のなかには、たくさんの働く女性の姿がある。なかでも興味深いのは、かつて行われていた女性の頭上運搬を撮影していることである。頭上運搬が有名なのは、魚の行商を行う松前のおたたであるが、芸予諸島でも広く行われていた。

 写真は魚島の女性をとらえた一枚。魚島では頭上運搬することをカベルと言ったが、急な山に畑が開かれていたため、下肥を入れた肥桶も、収穫した作物もすべてカベッテ運んでいた。驚くことに、魚島の女性は、20貫(約75キロ)ぐらいはカベルことができたという。この頭上運搬の習俗は昭和40年頃を境に行われなくなるが、何げない女性の労働を記録した村上の写真はそれだけに貴重である。
 
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月27日掲載分)

南予の闘牛を知る5―観光闘牛への発展―

5月 21日 月曜日


※写真は、昭和24年、宇和島和霊土俵、村上節太郎撮影(当館蔵)

愛媛県では昭和4年には、闘牛は解禁され、宇和島周辺の牛主を中心に「南予牛角力協会」が設立された。「闘牛」ではスペインの闘牛のように殺伐なイメージを与えかねないとして「牛角力」と称した。

昭和23年にはGHQに禁止され、一時途絶えたが、昭和20年代後半には各地で闘牛が復活するものの、娯楽の多様化や農耕の機械化によって農作業に使役する牛が減少し、闘牛は自然衰微しかかった。

そこで、宇和島地方では、昭和34年に「南予闘牛振興会」を、南宇和地方では昭和36年に「南宇和郡闘牛組合」が相次いで結成され、定期的な闘牛大会が開催されるようになった。

宇和島では市や県からの助成金も交付され、農村の娯楽の「突きあい」から「観光闘牛」へと性格は変容していった。

昭和47年に南宇和郡でもサンパール土俵が完成し、観光闘牛が始まり、宇和島では昭和50年には宇和島市営闘牛場が落成し、現在にいたるまで闘牛大会が定期的に行われている。

南予の闘牛を知る4―突きあいの歴史―

5月 20日 日曜日


※写真は、南宇和郡城辺町(現愛南町)の「突きあい牛」

 日本における闘牛に関する初見は、平安時代末期から鎌倉時代初期に成立したとされる『鳥獣戯画』ともいわれている。しかしこれは、牛同士を人間が故意に突きあせしているのではなく、不意に牛が角突きを始めた場面の描写であり、現在の日本各地の闘牛とは直接関係しない。(牛は自然に角を突きあわせる行動をとるので、この自然行為をもって「闘牛」文化ということはできない。)

 日本各地の闘牛は主に江戸時代中期以降の史料に散見できるのみである。南予地方の「突きあい」は安政3(1856)年に野村組の庄屋文書に見えるのが初見であり、明治時代に入ると愛媛県の行政文書に数多く闘牛関係史料が現れる。これらは闘牛を禁止する旨を伝えたものが多い。

 民衆側は闘牛解禁の嘆願を行政側に度々申し入れ、明治23年頃には愛媛県当局から解禁され、「突きあい」は祭礼の余興として、また農閑期の娯楽として人々の生活に密着するようになった。

 ただし、大正~昭和初期にかけては、「突きあい」で賭博や喧嘩が問題化し、再び禁止されたが、その功罪をめぐる論争は県政界をも揺るがし、結局は闘牛興行が正式許可された。
 
参考文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県教育委員会発行、当館友の会販売)

村上節太郎写真13 小網のヒヤマ 昭和12年

5月 19日 土曜日

村上節太郎写真3-226
 村上節太郎は、古くから小網(伊予市双海町上灘)の共同経営によるイワシの巾着網に興味をもっていた。その証拠に村上は昭和12年、14年、26年と少なくとも三回にわたり小網を訪れ、何枚もの写真にその姿を記録していった。強い西風と波から船を守る茅葺きの船小屋。イワシの群れが湾内に入ると遠見が合図を送る明神山の魚見櫓。これらはいずれも、現在は目にすることができない漁業施設の姿を私たちに教えてくれる貴重な写真といえる。

 このヒヤマの写真もそうした一枚。山の傾斜面に階段状にたつ小網の各家では、屋根などを利用してヒヤマと呼ばれる棚をつくり、イワシやエビを天日乾燥した。瀬戸内式の気候に加え、谷風が一層の乾燥を促すことから、ヒヤマは民家の屋根と屋根との隙間を埋めつくし、特徴的な漁村景観にもなった。それは、かつては国鉄予讃線の車窓から見える日常風景でもあった。しかし、漁獲物の荷揚げから乾燥まで行う共同加工場ができた現在、その独特なヒヤマの風景も姿を消してしまった。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」3―百鬼夜行絵巻1―

5月 18日 金曜日

 これは当博物館で所蔵している「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやぎょうえまき)」という江戸時代に描かれた絵巻物で、さまざまな妖怪が登場します。

 妖怪たちが列をなして夜中に歩きまわる様子のことを「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)」といいますが、この絵巻物の最初の場面では、「青鬼(おに)」と「赤鬼(あかおに)」が走っています。

 つぎに、その鬼に追いかけられるように、さまざまな妖怪が描かれています。これらの妖怪の多くは、鍋(なべ)や釜(かま)といった昔の生活で使っていた道具をもとにして、ふしぎな姿に表現されています。そして妖怪たちがユーモラスに行進し、絵巻の最後の場面は、赤くかがやく物体が描かれていますが、これは夜明けの太陽とも、仏の力で発せられた火炎ともいわれ、それに妖怪たちが追い立てられて逃げ惑う姿で終わっています。

 この絵巻物に描かれた妖怪には、天狗(てんぐ)や河童(かっぱ)といった、よく知られた妖怪はでてきません。そのほとんどは、古い道具が変化した妖怪です。道具も、大切に使わないと妖怪となるという考え方があったのです。

 愛媛でも「ノガマ」という妖怪の言い伝えがあります。草を刈る鎌(かま)を大切に使わず、野原に置きっぱなしにすると「野鎌(ノガマ)」という妖怪になって、そこを通る人を斬りつけてしまうという言い伝えです。これも、もともとは道具を大切にしようという一種の教訓といえます。

 この絵巻物からは、昔の人々が、道具は大事に扱うべきであり、道具にもたましいが宿ると考えていたことがわかります。

 7月10日からの企画展「異界・妖怪大博覧会」では、この絵巻を全場面展示公開する予定ですが、予告も兼ねて、この絵巻に描かれている妖怪の画像を今後、数回にわたって紹介していきたいと思います。

※企画展『異界・妖怪大博覧会―「おばけ」と「あの世」の世界―』は、愛媛県歴史文化博物館で7月10日(火)~9月2日(日)まで開催します。

バケツ稲づくり&消防訓練

5月 17日 木曜日

 5月3日に新しい体験学習室がオープンしましたが、その外側テラスのスペースにバケツ稲を置きました。バケツ稲とは、文字どおり、バケツで育てる稲のことで、JAグループがお米のよさを見直してもらうために考えた稲の栽培方法です。バケツが田んぼのかわりになるので、気軽に米づくりが体験できます。
 昨日、その指導書に書いてあるとおり、土をいれたバケツに種もみを植えました。

 昨晩は、ものすごい強風がふいていたので、とばされていないか、今朝確認しにいきましたが無事でした。このまま元気に育てば、秋には体験講座で作る予定の石庖丁を使って収穫ができそうです。

 今日は、消防訓練でした。館内放送、入館者の避難誘導等を行った後、消火器の使い方を西予消防署の方に教わりながら消火訓練を行いました。

 館長以下、職員一同真剣に取り組みました。
 

南予の闘牛を知る3―日本の闘牛―

5月 16日 水曜日


※写真は、闘牛取組表(宇和島丸穂土俵、当館蔵)

 日本の闘牛は、スペインのような「人対牛」の形式ではなく、牛と牛が闘う格闘技である。現在、日本では沖縄県・鹿児島県徳之島・愛媛県宇和島・島根県隠岐島・そして新潟県小千谷市および長岡市の旧山古志村などで行われている。

 日本の闘牛の特徴は、相撲文化の影響を強く受けていることである。横綱・大関などの番付や、闘牛場を「土俵」と呼ぶことなど、日本の闘牛は相撲に見立てることが一般的である。韓国の闘牛の場合、トーナメント方式で行っているように、世界的に見ても、相撲の模擬形式で行うのは日本闘牛の特徴と言える。

 また、闘牛の盛んな地域は、実際に相撲の盛んな場所であることも指摘することができる。南予地方は大相撲の出身者は他地域に比べ多く、また、祭礼の際に相撲練りが登場するのも南予地方だけである。

 写真の取組表を見ても、横綱・大関などの番付がなされている。しかも「闘牛大会」ではなく、「牛角力(うしずもう)」と表記しているところが興味深い。「闘牛」といえばどうしても「人対牛」形式をイメージするので、動物虐待と見なされかねないということもあり、宇和島では「牛角力」と呼んでいた時期もあったのである。

撮影快調? -企画展資料調査風景-

5月 15日 火曜日

 継続的に秋の企画展「戦国南予風雲録」に向けて資料調査や写真撮影を進めています。
先日も、砥部町の個人宅にお邪魔して古文書の調査を行いました。

 一口に調査といってもいろんな方法がありますが、今回行った古文書の調査では、企画展での展示や図録等への掲載を前提とする作業をおこないました。
 まずは状態確認。展示が可能な状態かどうか、どういった展示方法が可能かなどの確認をします。そして欠かせないのが、採寸です。展示スペースの確保や資料情報としても必要になります。

 そして、今回は写真撮影も同時に行いました。といっても、調査用の写真ではなく掲載用の撮影です。学芸員が機材を持ち込んでの自前撮影です。一眼レフカメラ(ポジフィルム装填)を三脚にセットし、水準器で水平を確保し、それからカメラの諸々の設定を済ませます。ちなみに、より安定感のある接写台も持参しましたが、高さがあまり確保できないため、やむをえず三脚撮影になりました。また、ライトの持込はしなかったので、他の光の影響を受けにくいよう、廊下で自然光の元での撮影をしました。カメラセットが済むと、資料を乗せる板をカメラ下に置き、古文書をセットします。ところが、ここで問題発生。古文書は折り目がついているため、中には両端が浮き上がってきれいに撮影できないものもあります。しかしそこは想定済み、ガラス棒も持参していましたが、それではガラスの反射で格好が悪いと考え、四隅を細い棒で押さえる方法を取りました。もちろん、そのアイテムも持参済み。

 で、あとはアングルを調整し、ピントを合わせてシャッター。もちろんカメラ設定を変えて何枚か撮ります。さらに、用心深くデジタルカメラでも撮りました。また、一部接写したい部分があれば、せっかく持参した接写台を活用し、カメラを付け替え接写もしました。

 こうして調査・撮影すること25通。カット数は・・・まだ数えていません。所要時間約3時間半。2名で行いましたが、思いのほか重労働でした。目が痛かったです。
 こうした地道な調査を少しずつ積み重ねている状況です。 資料調査の一端でした。

帰ってきた遺留品

5月 13日 日曜日

 これは、西予市出身で昭和14年12月31日に戦死した梶原保軍曹の遺留品です。木箱2つに納められています。木箱の1つは、縦113センチ、横11.5センチ、高さ14.5センチで、「第四十師団歩兵二百三十四連隊梶原保遺留品 留守第十一師団歩兵二十二連隊行 内容責任者 陸軍歩兵中尉 三木衛」と墨書され、軍刀が納められていました。もう1つは、縦60.0センチ、横30.0センチ、高さ34.5センチで、上記に加え、「愛媛県 松山駅 西島部隊行」と墨書され、中には軍帽やアルバムなどが納められていました。

 第40師団は、昭和14年に第11師団管区(四国)で編成され、その内歩兵第234連隊は松山で編成されました。師団の編成目的は、昭和12年に始まった日中戦争において、中支方面の占領地警備にありました。同年10月揚子江をさかのぼり、武昌及びその付近に上陸しました。そして、咸寧南方通山付近に駐留しました。その頃、蒋介石は中国軍を再編し、冬季反攻を計画していました。同年12月10日、約7万の大軍が襲来、11師団は夜襲や敵前渡河を行い撃退しました。続いて、隣接する第6師団が中国軍に包囲され、苦戦していたため、234連隊を含む石本支隊を通城付近に派遣し危急を救いました。

 残念ながら、梶原軍曹がどのような状況で戦死したのか、木箱の遺留品からはわかりません。しかし、中支派遣後早期の戦死だったようです。子息の武保氏によると、遺骨も帰っているとのことでした。日本が優位な中国戦線で、しかも比較的戦争早期であったため、遺骨や遺留品を送る余裕があったのでしょう。

 この遺留品と木箱は、先日武保氏より、当館に寄贈いただきました。この資料は、戦死者の遺留品がどのように取り扱われたのかを知る貴重な資料です。しかし、それだけではありません。父親の顔を知らない武保氏にとっては、父親の形見であり、言葉に言い表せない想いがあります。また、戦死された保氏の想いも私たちはくみ取り、平和を願いたいと思います。