南予の闘牛を知る2―闘牛の起源(世界の闘牛)―

5月 12日 土曜日


※写真は当館所蔵の闘牛大会取組表(昭和初期・宇和島和霊土俵)

闘牛には「牛対人」と「牛対牛」の2種類の形式があるが、南予地方をはじめ日本で「闘牛」という場合、すべて「牛対牛」形式の闘牛をいう。日本各地に様々な闘牛起源説が流布されているが、闘牛(という文化)は、結局、人間が勝手に日時と場所、さらには闘う相手を決めて行う牛の順位闘争であり、種内闘争のルールに則って行われる催し物と定義することができる。

それゆえに、闘牛の起源は、どこかで誰かが始めて広まったのではなく、自然発生説をとるのが最も無理がないとされる。しかし、牛を家畜とする飼育が行われていたのは、当然、現在闘牛が行われている地域ばかりではない。したがって、白然発生説は最も有力な説には違いないが、これだけでは説明しきれない部分が残る。

「牛対牛」形式の闘牛は古代のエジプトにも知られていたが、現在の分布状況を見ると、むしろ、インド、東南アジア、東アジアにまとまった分布を持つという特徴がある。こうした分布から、闘牛の2つの形式(「牛対人」、「牛対牛」)の違いは、より基本的には、アジア・ヨーロッパにおける生業(稲作・麦作)文化に関係があるのではないかという考え方がある。

つまり、「牛対人」の形式は、スペインなどヨーロッパ・地中海の麦作文化において発達し、そして「牛対牛」の形式は、日本をはじめ、アジアの水稲耕作文化において発達したというのである。

このように、「牛対牛」形式の闘牛文化の起源については、「牛の飼育」・「稲作」というキーワードも考えるヒントになりうる。南予の闘牛の習俗を追及することは、アジアの稲作文化の中での日本、そして愛媛・南予の位置付けにもつながるといえる。

参考文献:『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』(愛媛県教育委員会発行・当館友の会販売)

南予の闘牛を知る1―闘牛は文化財―

5月 11日 金曜日

 南予地方には、牛と牛を闘わせる闘牛文化が広く定着し、地元では闘牛のことを「突きあい」と称しています。この「南予地方の牛の突きあい習俗」は、平成7年に文化庁より「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択され、平成11~12年度にかけて、県教育委員会が調査を実施し、成果報告書が12年度末に刊行されました。(その報告書『南予地方の牛の突きあい習俗調査報告書』は、愛媛県歴史文化博物館友の会で販売しています。)

 当博物館では、南予の闘牛習俗に関する民俗資料を収集していますが、平成14年度には「南予地方の闘牛」展を開催し、全国でも数カ所しか現存していない闘牛について、南予地方の「突きあい(闘牛)」の歴史、変遷、現状に関する資料、および県外の闘牛に関する資料を展示し、県民に南予の民俗文化の特徴を理解してもらうことを意図し、企画・開催しました。

 これまで、闘牛といえば、観光資源として注目されてきた側面が強く、民俗文化財としての視点では見られてはきませんでした。闘牛は、南予地方の牛飼育の歴史・民俗が基礎となって花開いた文化であり、今後、文化財としての視点でも闘牛が注目されるようになり、博物館としても、展示や資料収集を通して、後世へと伝承させる機会を設けることが重要と考えています。

※写真は昭和40年、大森土俵(現愛南町)の様子。

勾玉づくりしました

5月 9日 水曜日

 本日、今治市立伯方中学校、同西伯方中学校1年生の皆さんと勾玉づくりをしました。

 勾玉とは、おもに縄文時代から古墳時代にかけてつくられた装身具の一つで、単なるアクセサリーではなく、邪悪なものから身を守るためや、権力者の印だったのではと考えられています。また、その形はもともと動物の牙だったものが発展したという説や、母親の胎内にいる胎児を表現したものとする説などがあります。

 ここ西予市宇和町では気温28度を記録した今年一番の暑さの中、滑石(かっせき)とよばれる軟らかい石を砥石やヤスリなどを使って削り製作していきました。ただ、時間が40分ほどしかなかったため、完全にできた人はほとんどいませんでしたが、終わってみれば、それぞれが満足しているようでした。
勾玉づくり実施風景…無我夢中に石を削っています。

完成した勾玉。

石川勉強堂さんよりの聞き取り2(きせかえ)

きせかえの展示

 きせかえの展示コーナーをみながら。「「フジオ」とあるのが、石川勉強堂でつくっていたきせかえです。それにしてもよくこんなに残っていましたね。」「今回展示している分で18枚ほど展示しています。」「実は私のところでは印刷用の版は30年以上も使わずに保存していたのですが、一昨年倉庫改築の時に全部処分しました。実物もないんですよ。こういう催しがあると解ればとっておいたのですが…。きせかえは大概ははさみで切りぬいて使ってしまうから、もともとの状態ではなかなか残らないし。うちのがこんなに揃っているのを見たのははじめてですよ。」

後姿がついたきせかえ

「きせかえの表と裏があるでしょう。昭和30年代ぐらいのものまでは裏(後姿)まで付いていたんです。」

わたしの部屋

 きせかえのうち、女の子の部屋の分を指さしながら。「これなんか懐かしいね。よく覚えています。ありとあらゆる設定できせかえつくって、最後にはネタがなくなって、お相撲の土俵までつくっちゃいました。」「えっ、きせかえで、お相撲の土俵ですか。何か、女の子には人気なさそうですが…。」

さかなやさん

 おさかなやさんのきせかえを指さし、「これもありました。いろいろなお店屋さんをつくりましたよ。ついているお金で買い物遊びしたりするやつで、よくつくられてました。」

 ホームのきせかえを見ながら。「これは石川勉強堂でつくったものじゃないです。これも名古屋あたりでつくられていたものじゃないでしょうか。唇にのせる紅の色がずれちゃっているでしょう。うちでは特に顔の赤い唇がずれてしまうと、売り物になりませんでしたが…。このホームというネームの入った短冊を小鳥がくわえているサインなんか、きいちの最も出回っているサインにそっくりだね。やはり、きせかえでもきいち先生に似せたものもかなりつくられてたんじゃないかな。」

 児島明子さんのミスユニバースのきせかえを指さして尋ねてみる。「これは昭和34年に児島明子さんがミスユニバースで優勝した時につくられたものと思いますが、こういった当時のニュースを取り入れてつくったものもあるんですか?」「きせかえもたくさんつくっていたから、最新の流行も取り入れてつくっていました。なかには美智子妃のきせかえというのもありました。きせかえの中で一番売れ行きのよかったのは、『お母さん』『お父さん』『和装、洋装のお嫁さん』でした。お嫁さんは女の子のあこがれの的でしたから、きせかえでもぬりえでもよく売れました。所帯道具も画き込みましたが、テレビや洗濯機の最新のものを載せ、玩具問屋に注文取りに行くと、へぇー、こんなに凄い家財道具!君のうちにもあるのかい?とひやかされました。」

 きせかえの製作手法について。「あらかじめ作家が紙に描いた下絵をもとに、描き版屋がそれぞれの色ごとに、構図や描線を描きとっていきました。こうして出来た版下をもとに製版がされ、色ごとに重ねていくように印刷がされました。描き版のものは五色刷りでしたので、版のズレなんかがでたりして苦労しました。そっちにある相撲メンコで写真製版のものがあるでしょ。あれは四色刷りでしたが、写真製版がではじめた頃は、描き版のものよりも大分値段が高かったです。」

 きせかえの値段について。「1枚が2円で売っていました。値段が安かったんで、なんとかならないかと思って。そっちの方にきせかえ2枚分が1枚になっているやつがあるでしょ。そんな倍の大きさのものもつくったりして、それを5円で売ったりもしました。」

 石川勉強堂の石川富也さんからぬりえやきせかえについて、いろいろと教えていただきました。ぬりえときせかえは今も昔も少女の遊びの定番です。今回展示をご覧になっていた方にも、紙箱にお部屋が描かれたきせかえを貼って、その前でお父さん、お母さん、兄弟姉妹などの家族のきせかえを集めて、ままごと遊びした思い出をお聞きしました。長い年月、たくさんの女の子が楽しんだぬりえやきせかえの裏側に、石川さんのような版元の様々な努力があったことを改めて知りました。いろいろなことを教えていただいた石川さんに深く感謝申し上げます。
 なお、ぬりえについては、『少女趣味』創刊號の「ぬりえの魅力 第一回」に、石川さんへの聞き取りが既に掲載されており、参考にさせていただきました。

石川勉強堂さんよりの聞き取り1(ぬりえ)

5月 7日 月曜日

 5月4日の朝、ぬりえやきせかえの版元で、今も東京都台東区にお店がある石川勉強堂の石川富也さんがご来館されました。今回のテーマ展「紙モノ大図鑑」のポスター、ちらしには「フジオ」のきせかえを掲載していますが、この「フジオ」のきせかえをつくっていたのが石川勉強堂さんだったのです。先日、ポスター・ちらしへのきせかえの掲載を電話でお願いしたところ、ご快諾いただきました。そして、送付したちらしをご覧になり、遠路はるばる東京からご来館いただいたそうです。

 展示をご案内していると、まず黄金バットの双六の前でまず一言。「懐かしいね。」お聞きすると、石川富也さんは石川勉強堂の二代目で、創業者の先代は石川三郎といって、台東区浅草の田原小学校の前で文房具店を開いていたと聞いて、何故勉強堂とつけたか納得。「今から76年前というから古い古い話しです。とにかく狭い店(住居部分と店で7坪)で、文房具兼駄菓子を置いている様な店で、三郎氏は何とか子ども達を呼び集めようと考えたのが、当時子ども達に人気のあった黄金バットをぬりえにしたらどうかというのがそもそもでした。この試みは当たり、子ども達ばかりでなく、露天商、紙芝居屋まで来てぬりえを仕入れて行きました。宣伝には羽子板市に出店を出す知人に頼んで、羽子板の露店の中央に黄金バットの大形羽子板を置き、『黄金バットのぬりえは石川勉強堂』と書いてあちこちに出店してもらいました。」とのこと。お店に残っていた大きな黄金バットの羽子板を先般、下町風俗資料館に寄贈したところ、大変喜ばれたそうです。

ぬりえの展示

 展示室のぬりえのコーナーにさしかかると、「これは二年前にお亡くなりになったきいち(蔦谷喜一)のぬりえですね。きいちのぬりえは最初はうちが版元をしていまして、その頃きいち先生は「フジヲ」を名乗っておられました。その後きいち先生が個人でやられていた時期もありましたが、その後川村山海堂と石川松聲堂と二社が版元となりました。」

 「袋に10円とありますが…」「そう、最初は色刷りの袋に5枚くらいの仙花紙というザラ紙のぬりえが入っていて、5円で売っていました。昭和25年頃から40年頃です。5円では安いので、ぬりえの版元の協定で10円に決まったんですが、やはり5円で売る版元が出たりして、元に戻ってしまったのです。だから大体の値段は5~10円ぐらいということになります。」

 それからきいちのぬりえと一緒に展示している「東京ぬりゑ」と「メリーぬりえ」について。「ひげる画(「東京ぬりゑ」)と書いてありますが、この絵描きさんは聞きませんね。「東京ぬりゑ」というネーミングからして、おそらく名古屋あたりの版元でつくられていたものだと思います。名古屋にもきせかえやぬりえを扱っている版元がありました。ぱっちりした目で、顔が大きく、足が太く描かれているでしょ。このあたりはきいちのぬりえを意識して、似せてつくっていると思いますよ。それだけきいちのぬりえの人気があったということです。」

 今回再現した雑貨屋さんをのぞいて。「あそこにきいちのぬりえが帯封つきで並べてありますね。帯封まであるのは珍しいですよ。昔は10袋をセットとして帯封をして、駄菓子屋さんにおろしていましたから、個人のコレクターからの品ではないと思いますよ。」

帯封のついたぬりえ

 次回はきせかえについて、お尋ねします。

予告編「異界・妖怪大博覧会」2 相撲をとる河童

5月 6日 日曜日

 資料名は「和漢百物語・白藤源太」。香川大学附属図書館神原文庫所蔵。月岡芳年が慶応元(1865)年に描いた錦絵である。白藤源太は上総国(千葉県)出身で、江戸で活躍した力士。河童と相撲をとって取り押さえたという。この錦絵は、そのような源太の逸話を表現したものである。

 河童が相撲を好むという話は、愛媛県内の伝承でも確認できる。例えば、内海村(現愛南町)では、河童(エンコ)が子どもをつかまえて相撲をとっているうちに、頭の皿の水がこぼれてしまい、河童は急に力が出なくなったので、子どもは逃げることができた、という話がある。

 これを描いた月岡芳年(つきおか よしとし)は、天保10(1839)年生、明治25(1892)年没。幕末から明治前期にかけて活躍した浮世絵師である。

※企画展「異界・妖怪大博覧会」は、7月10日(火)から9月2日(日)まで開催!

こどもの日イベントはじまりました

5月 4日 金曜日

 昨日、5月3日から、れきはくこどもの日イベントがはじまりました。小中学生を対象としたよろい・かぶとの全身着用体験、展示をみながらクイズに答える「れきはくクイズラリー」、その他、実際にかぶれる大きさのかぶとを折る折り紙教室や、紙切り遊びでおもしろい模様のコースターを作るワークショップを実施しました。

ワークショップ実施風景…家族連れが多く参加していました。

よろい兜着用体験…ちなみに手前に写っているのは某TV局の記者さん。昨日取材にきてくれました。

 ゴールデンウィークは、年間で最も入館者が多い時期の一つです。職員もイベントの運営、数多くのお客様の対応等で少々疲れてきておりますが、あと2日間頑張ってれきはくの活動をPRしていきたいと思います。

予告編「異界・妖怪大博覧会」1 河童狛犬 

5月 2日 水曜日

 当博物館では、この夏(平成19年7月10日~9月2日)に、企画展「異界・妖怪大博覧会―『おばけ』と『あの世』の世界―」を開催します。

 「百鬼夜行絵巻」や「稲生物怪録」、「今昔続百鬼」、「夜窓鬼談」等の妖怪関係資料に加え、愛媛県内のお祭りに登場する「鬼」・「ダイバ」や、怪異伝説(河童・天狗など)を紹介するとともに、「地獄図」や「幽霊図」など、日本人が抱いてきた伝統的な異界・他界観にまつわる資料を展示する予定です。

 このホームページでも、展示のお知らせを兼ねて、複数回にわたり、展示予定資料の紹介をしていきたいと思います。

 さて、第1回目の紹介資料は、河童の狛犬(複製・原資料は西予市明浜町高山若宮神社蔵)。この狛犬は、河童が鯛(たい)を抱えた形をしています。河童の狛犬は全国的にも珍しく、岩手県遠野市の常堅寺・長崎市の諏訪神社と愛媛県西予市明浜町の若宮神社の3例のみといわれています。

 若宮神社の御祭神である宇都宮修理太夫正綱が、いたずらをしようとした河童(地元ではエンコと呼んでいます。)を助けると、そのお礼にと、河童が毎日、鯛を持ってきたという伝説があり、それに由来して、この若宮神社の狛犬は河童の形をしています。

 河童の狛犬は、明治14年に製造・寄進されたもので、原資料は西予市有形民俗文化財に指定されています。愛媛県内を代表する伝説関係資料として貴重な民俗文化財です。

収蔵資料紹介 窯道具パズル

4月 30日 月曜日

パーツ

 これはやきものを焼成するための窯道具です。ツクやトチンといわれる棒のような土台にタコ足のようなタコハマという道具を組み立てます。その上に碗と皿を積み上げます。碗と皿の間には、ハマという道具が挟まれています。これは、製品同士がくっつかないようにするためのものです。よくみると、皿や碗の中央に5つの点の傷がありますが、これがハマの痕跡です。
 この焼き方は、登り窯の狭い空間で、たくさんの製品を効率よく焼くために江戸時代後期に肥前で考案された方法で、近代にかけて砥部焼(砥部町)や三島焼(伊予市)、則之内(すのうち)焼(東温市)、御荘(みしょう)焼(愛南町)、三間(みま)焼(宇和島市)など、たくさんの窯で使われていました。
 この模型は、三間焼の窯道具をもとに復元した、当館のオリジナルです。三間焼は、明治24~34年頃に現在の宇和島市三間町土居中に所在した窯のやきもので、砥部焼の窯業技術の影響をうけて磁器の日常雑器を中心に焼成していました。
 近日、新体験学習室に登場いたします。それぞれ磁石でくっつくようになっていますので、ぜひ手にとって組み立ててみてください。この機会に、やきものを焼くために重要な役割を果たしていた、縁の下の力持ちの窯道具ついても興味をもっていただければ幸いです。

村上節太郎写真12 韓国済州島の海女 昭和21年

4月 29日 日曜日

村上節太郎写真1-36
 三崎(伊方町)の海士(あま)の歴史は古く、天保4(1833)年の記録には、三崎浦全体で30人程の海士がおり、年間6000程のアワビが献上されていたことが記されている。明治時代に入ると、海士は毎年80隻、200名前後が韓国に出漁するようになる。韓国への出漁は昭和15年で終わり、戦後再び三崎近海に戻り、あわびやさざえを獲っている。

 写真は松(伊方町)の海岸で撮影されたものであるが、実は三崎の海士を撮影したものではない。三崎地域の海士は普通「海士」と書くように、男性がほどんどである。この写真が貴重なのは、韓国済州島の海女、チャムスを撮っていることである。チャムスは昭和10年から20年代半ばまで三崎の沿岸まで出稼ぎに来て、てんぐさやあわびなどを獲っていた。写真を見ると、女性は中央に肩紐が付いたワンピース型の木綿の水着を着ている。これはチャムス独特の仕事着で、「ソジュンギ」といわれるもの。足元にはタンポと呼ばれる木製の浮樽も見える。村上節太郎はほとんど写真が残っていない三崎におけるチャムスの姿を見事にカメラで記録している。