展示予告「異界・妖怪大博覧会」13―百鬼夜行絵巻9―

6月 21日 木曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第8回目。

7月10日開幕の企画展「異界・妖怪大博覧会」にあわせて、この「百鬼夜行絵巻」を素材とした特製妖怪シールを現在作成中です。このシールは、展示会期中に行われるイベントの一つ、クイズラリー「めざせ妖怪博士!」(中学生以下対象)の参加者への記念品として配布する予定です。

クイズラリー「めざせ妖怪博士!」は、8月4日(土)、5日(日)、11日(土)、12日(日)のいずれも13:00~16:00に行います。(申し込みは不要です。)


19 お歯黒女性の妖怪
女性がお歯黒(既婚者だということを示す証)をする様子。よく見れば、口元は耳まで裂けているし、足は人間の足ではない。妖怪も結婚するということか?


20 鰐口の妖怪
鰐口(わにぐち)は、お寺の正面の軒につるされた円形で扁平の仏具。参詣者がこれをたたいて鳴らす。「鰐口」だけに、体も実際の鰐のようだ。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」12―百鬼夜行絵巻8―

6月 17日 日曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第7回目。

この「百鬼夜行絵巻」は、縦37センチ、幅(全長)11メートルの寸法です。7月10日からの企画展「異界・妖怪大博覧会」では、何とかガラスケースで11メートル幅のスペースを確保して、全場面を展示します。(なお、今回、紹介する妖怪は、絵巻の終盤部分に描かれているものです。)


17 馬具の妖怪
顔の形は、馬具の一種である鐙(あぶみ)。乗馬の際に足を踏み掛けるための道具である。馬の背に固定する鞍(くら)も見える。よく見ると足は馬の足だ。


18 謎の赤い妖怪 
異様な形の赤い妖怪。前足だけしかない。小さい尻尾のようなものも見える。赤い布を全身に覆っているのか、それとも本来の姿なのか不明。

中国四国名所旧跡図1

6月 16日 土曜日

中国四国名所旧跡図1
 「中国四国名所旧跡図」は、その名のとおり大和国田原本(奈良県田原本町)の仏絵師西丈が中国・四国地方の名所旧跡を描いたものである。縦29.5センチ、横44.5センチの画帖で、題の記された表紙と76枚の彩色された絵が綴じられている。絵は和泉国の堺に始まり、山陽道沿いに摂津・播磨・備前に進み、それから海を渡って讃岐・阿波・土佐・伊予を廻り、最後は66番札所雲辺寺で終わっている。そこから考えるに、この画帖は西丈が自ら行った四国遍路と金毘羅参詣の旅を、記録として描き遺したものと考えられる。

 教行寺を中心とする寺内町として発展した田原本において、西丈は仏画を描く仕事をしていたと考えられるが、絵を生業としているだけあって、描き慣れている感がある。描く対象は港町、寺院、名勝、旧跡、そして時には得体の知れない生物にまで及ぶが、意外にもその絵はあまり写実的ではない。描くものの本質をとらえるためか、極端にデフォルメされており、そのことでかえって、西丈が旅で眼にしたものが生き生きと伝わってくるような、何とも不思議な味わいの絵である。

 このシリーズでは、西丈と一緒に四国遍路をした気分になって、「中国四国名所旧跡図」に描かれた世界を紹介する。

30年式銃剣

6月 15日 金曜日

30年式銃剣

 本資料は、三十年式小銃用として開発された銃剣です。三八式や九九式歩兵銃など、日本軍のほとんどの銃器に装着でき、終戦まで使用されました。いわば日本軍の基幹銃剣でした。本資料の大きさは、全長52.センチ、刀身49.2センチ、重量は610グラムです。戦場で刃を研いたでしょうから、もとの大きさや重量よりは目減りしていると思われます。

 本資料の特徴は、ツバの部分がフック状になっており、木製の柄の部分がねじ止めで、鞘の先端が丸みを帯びていることです。これらは、初期型にみられる特徴です。また、刻印から兵廠東京工廠か造兵廠小倉工廠で制作されたことがわかりました。

 三十年式銃剣は、それ以前の村田式両刃型から、ストレ-トではありますが、片刃型となり、日本刀に近いものとなりました。日露戦争では三十年式小銃に取り付けられ、白兵戦が行われました。ちなみに、有名な三八式歩兵銃は三十年式小銃を改良して、日露戦争後に制定されたものです。日露戦争における勝利によって、日本陸軍は白兵突撃主義を、海軍は大鑑巨砲主義に偏重していきますが、本資料はまさに白兵突撃主義を象徴する資料と言えるでしょう。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」11―百鬼夜行絵巻7―

6月 14日 木曜日

当館所蔵の「百鬼夜行絵巻」に描かれた「妖怪」シリーズの第6回目。

7月10日開幕の「異界・妖怪大博覧会」では、展示室内だけでなく、博物館館内のいたるところに「百鬼夜行絵巻」に描かれた妖怪を題材として、等身大?(1m20cm程度。ただし、妖怪の実際の大きさは不明・・・。)の妖怪人形パネル(人ではないので単に「妖怪パネル」?)を配置します。今回、紹介する妖怪たちもパネル化される予定です。博物館内で、妖怪パネルを探したり、見つけたりするだけでも楽しむことができるように工夫したいと考えています。


15 農具の妖怪
左の妖怪は、頭に農具の箕を戴く。右の妖怪は、顔が竪杵の形をしていて、木臼を搗いている。穀物を脱穀する様子であり、妖怪も農作業をするというのか?


16 分銅と天秤ばかりの妖怪 
顔の形は重さを計るための道具である「分銅」。肩には「天秤ばかり」を荷っている。何かに追われて逃げているような表情にも見える。

学校PTA活動

6月 13日 水曜日

 博物館には、単なる見学だけではなく、学校ではできにくい何らかの体験活動やワークショップを求める要望が多々寄せられます。
 4月末、三間小学校PTAの皆さんが、6月10日に行う体験活動について相談に訪れました。

 相談の結果、人数が保護者の方も含めると約90名と多く、またそのほとんどが小学校低学年だったことから、子どもたちに博物館の展示物に興味を持ってもらうという趣旨で、クイズラリーを実施することにしました。各展示室1問~2問で展示室内に計10問のクイズを設置しました。
 子どもたちは、クイズを解くのが面白かったのか、1時間余りの時間を残して解き終えた子もいました。

 クイズラリーの後は、かぶれる大きさの紙でかぶと折りを実施しました。全員が作り終えたところで、記念撮影をしました。

 当博物館では、今回に限らず学校団体等にむけて、このような学習支援活動をいろいろ行っています。ご希望等ございましたらお気軽にお問い合わせください。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」10―牛鬼―

6月 12日 火曜日


※「吉田祭礼絵巻」(当館所蔵)に描かれた牛鬼(うしおに)

「異界・妖怪大博覧会」では、「鬼のすがた」というコーナーを設け、各種の鬼を紹介します。愛媛の「鬼」で忘れてはいけないのが、南予地方の「牛鬼(うしおに)」です。

牛鬼は全国でも比類の無い練物(ねりもの)で、今回の展示では、全長6メートルの大きな牛鬼(八幡浜市川名津地区・内子町中田渡地区)も展示します。


※現存最古の牛鬼(大洲市立肱川風の博物館・歌麿館所蔵)


※内子町小田の牛鬼(当館撮影)

牛鬼は、青竹を割って牛の胴体のように編み、赤布や棕櫚(しゅろ)の毛で全身を覆い、長い首の先には張子(はりこ)製の頭を付けています。その表情は牛とも鬼ともつかないもので、二本の角と額には月輪の前立物(まえだてもの)があり、口は大きく開き、舌をむき出しにして恐ろしい表情を強調しています。

また、ケン、オバチと呼ばれる尻尾(しっぽ)は鋭く尖っており剣を象徴しているといわれ、それに白い御幣を垂らしています。祭りでは牛鬼を10~20人が担ぎ上げ、神輿(みこし)行列の先導役として、家々に首を突っ込みながら悪魔祓(あくまばら)いをしてまわります。

牛鬼がいつの時代から祭りに登場するようになったかは不明ですが、少なくとも江戸時代、1700年代後半には、南予地方(旧宇和島・吉田藩領内)にて各地の祭りに登場していることが確認できます。

なお、史実とは異なりますが、牛鬼の起源伝承として、加藤清正が朝鮮出兵の際に敵を威圧するために用いたのが始まりであるとか、大洲太郎が赤布で牛鬼を作って敵を退治したとか、宇和島藩主の許しを得て、オオカミ退治のために牛鬼を作ったのが始まりであるなどと、様々な起源伝承が各地にあります。

展示では、各地の牛鬼の頭(かしら)も紹介します。南予でも地域によって異なる「牛鬼のすがた」を、ぜひご覧になってください。

※企画展「異界・妖怪大博覧会―『おばけ』と『あの世』の世界―」は、7月10日(火)~9月2日(日)に開催します。

展示予告「異界・妖怪大博覧会」9―幽霊図―

6月 9日 土曜日


飴買い幽霊図(今治城所蔵)


子育て幽霊図(八幡浜市・個人蔵)

この2つの幽霊(ゆうれい)の絵をよく見てください。幽霊が赤ん坊をダッコしているのがわかるでしょうか?じつは、このような絵に関するものとして、次のような言い伝えがあります。

むかし、ある寒い夜、飴屋(あめや)に、白い着物を着た女が音もなく入ってきた。女は一枚の銭(ぜに)を出して飴(あめ)を買うとすっと消えるように帰っていった。女は次の日も、次の日も同じように飴を買っていった。

7日目の夜、女の手には一枚も銭(ぜに)がなかった。だまっていた女を飴屋はかわいそうに思って、いつもより多く飴をわたした。女はうれしそうにほほえむと、しきみ(仏さまに供える葉)を一枚置いて帰っていった。

いつもと様子が違うので、飴屋は気になって女のあとをつけた。すると、寺の近くでふっと消えた。すると新しいお墓(はか)の下から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。墓を掘り起こすと、一週間前に身ごもったまま死んだ若い母親のそばで、飴を持った赤ん坊が泣いていた。

母親の首にかけられていた六枚の銭<六文銭(ろくもんせん)といって、あの世へ通じる三途の川(さんずのかわ)の渡し賃のこと>がなくなっていて、母親の幽霊(ゆうれい)が毎晩、赤ん坊に食べさせるために飴を買いに来ていたのであった。人々は母親の愛情の深さに心をうたれた。

赤ん坊は、そのお寺のおしょうさんによって育てられ、有名なお坊さんとなった。(このような伝説は、愛媛県内でも数ヶ所確認することができます。)

この子育て幽霊の話をもとに描かれた幽霊図は、単に「恐ろしい幽霊」というより、母親の愛情を表現した資料として見ることができます。

南予の中世城跡探訪1 ―曽根城周辺―

6月 8日 金曜日

 曽根城は、内子町の町並みの北、「城廻」(しろまわり)という場所にあります。地名がまさしく城の存在を示していておもしろいですよね。国道56号線、大洲方面からだと田中橋の信号を過ぎ、両側の建物がちょうどなくなった辺りで道は左へカーブし、すぐに「岡町口」のバス停が見えてきます。右に中山川、左に山の斜面という景色に変わりますが、まさに左側の山の尾根に曽根城はあります。といっても高い石垣や天守閣を備えた城ではなく、土塁や堀切を主体とする中世の山城です。

 大きく分けて3段の曲輪(くるわ)を備え、なかでも最も南(尾根の先端)に位置する曲輪は南北約140m、東西約90mの広さを誇ります。それらの周りにもいくつもの帯曲輪が配され、守りを固めています。また、それら曲輪部分の弱点は、背後に延びる尾根ですが、そこにも堀切を設けて、尾根のつながりを遮断しており、様々な防御遺構を見ることができます。

 この城の城主は、曽祢氏という領主でした。「祢」?と思われるかもしれませんが、当時の資料にはちゃんと「曽祢」と記されています。伝えるところでは、曽祢高昌なる武将がこの地に住み着き、内子曽祢氏の祖となったといわれます。戦国時代の喜多郡では紛争が絶えず、特に河野氏、毛利氏、一条氏、長宗我部氏、大友氏などといった周辺の諸大名からの干渉を受けながら、まさに境目地帯として混乱が続きました。曽祢氏も渦中にありながら、巧みに乱世を生き延びていきました。しかし、秀吉の権力が伊予へも及ぶようになると、曽根城は小早川隆景によって廃城とされ、曽祢氏も伊予を離れ毛利氏を頼り、近世には萩藩の家臣へと変貌することとなります。

 周辺にはゆかりの史跡が点在します。そのひとつ、西方へ麓川を越えた所には高昌神社が静かな佇まいを見せています。狭い境内の奥には、祖とされる曽祢高昌の墓碑が立ち、その手前には高昌妻女と、次代宣高夫妻の墓碑が並びます。といっても全て後世に建てられたもののようです。ただ、高昌墓碑の左にひっそりと立つ被葬者の分からない小さな五輪塔が2つ。案外古そうです。小さな方が傾いているのが、おそらく自然のいたずらでしょうが、なんとも睦まじい愛らしさを醸し出しています。

 足を町並みの方角へ戻すと、町並み駐車場に隣接して高昌寺があります。名前のとおり高昌を弔う寺であり、曽祢氏の菩提寺でもあります。駐車場からは、八日市・護国の町並みへ歩くよりも近いお寺です。町並み散策の際は足を運んでみてもよいでしょう。

村上節太郎写真18 オイコで荷物を運ぶ女性 昭和31年

6月 7日 木曜日

村上節太郎写真4-447
 村上節太郎の写真から頭上運搬を撮影したものをしばらく紹介してきたが、所変われば品かわるで、地域により運搬方法は様々である。宇和海沿岸に目を転じると、オイコ(背負梯子)やカルイカゴ(背負籠)で荷物を運んでいる写真が圧倒的に増えてくる。

 この写真もそうした一枚で、「石垣の里」として知られる外泊(愛南町)で撮影されたものである。女性の右側には台風や冬の強い季節風を防ぐために積まれた石垣がそそり立ち、石垣を縫って走る道もすべて石張りでつくられている。その細い山道を女性がオイコで荷物を背負い運んでいく。オイコをよく見ると、荷物がすべり落ちないようにカギが付いたものが使われている。女性は日々の暮らしの中で重い荷物を背負い、何度この山道を上り下りしたことであろうか。