南予の中世城跡探訪21 宇和海の水軍法華津氏の城 ―法華津城跡―

2008年9月12日

 宇和盆地から宇和島に向かう際、JR予讃線・国道56号線ともに法花津(ほけづ)トンネルを抜けます。すると眼下にリアス式の宇和海の眺望が開けますが、そこは法花津湾と呼ばれる湾で、中世には法華津氏という領主の本拠地でした。
 湾の最も奥に位置する法花津・白浦(宇和島市吉田町)には、沿岸部に中世の城跡が多数確認されています。その一つに、法華津本城があります。海岸線を走る国道378号線沿いの小高い丘で、まさに海に面した城であったことが分かります。


  法華津本城跡

 そこから海岸線に沿って500m程度西北に行くと、背後の山から迫り出した尾根上に法華津新城があります。


  法華津新城跡

 また、反対に500m程度東南に行くと、やはり国道に面した一面みかん園の小高い丘、それが法華津今城です。ここもやはり海に面した城であったことがよく分かります。


  法華津今城跡

 法華津氏は、その所在地からも分かるように海に活躍の舞台を見出したようで、宇和海沿岸に影響力を持っていました。そうした法華津氏の機動力は大名権力からも期待されたのでしょう、様々な大名たちと関わりを持った様子がうかがえます。土佐一条氏からは土佐に所領を与えられ、同じく土佐の長宗我部氏が西園寺氏とよしみを結ぶ際にはその取次役となり、一方で豊後大友氏の配下に加わる者もあり、また四国平定後に伊予を領した小早川隆景からは九州出兵にともに出陣するよう命じられ、次いで南予を領した戸田勝隆からは宇和郡内に200石の所領を与えられています。
 宇和海を舞台に活躍した法華津氏が本拠とし、多くの城砦を築いた法花津湾沿岸、今は愛媛でも有数のみかんの産地として、季節には鮮やかな南国の風景を見せています。

愛南町の戦跡をたずねる

2008年9月10日

 友の会では、今年度、最初の現地学習会を9月3日(水)に愛南町で実施しました。
今回は、特別展「愛媛と戦争」(会期7月9日~9月7日)にちなみ、南レク馬瀬山公園にある紫電改展示館と、麦ケ浦にある回天壕跡を48名の参加者で訪れ、当館の平井学芸員による説明をうけました。
紫電改展示館
 ここにある紫電改は昭和20年7月24日に久良湾の沖約200mに不時着し、昭和53年に水深41mの海底で発見され、翌年に引きあげられたものです。
紫電改は、太平洋戦争末期に零戦に代わる新鋭機として、およそ400機が生産されました。全長9.34m、主翼11.99m、高さ3.9m、重量4.86t、時速620km、20mm機関銃4基を備えていました。また、特徴的なのは、離着陸等で用いられるフラップを、空中戦でも使用するために自動空戦フラップ(フラップ角を自動調整するシステム)を装備していることでした。これにより、軽快な運動性をもち、ベテランパイロットと若年パイロットの操縦技術の差がうめられたそうです。
紫電改展示館を見学した後、何人かで宇和海展望タワーに乗りました。天候にも恵まれ、360度宇和海のパノラマを堪能しました。その後、麦ケ浦地区に向け移動しました。
麦ケ浦には、戦時中「回天」が格納されていました。『引渡目録』(防衛研究所図書館蔵)によると、壕は13個、回天は8隻、架台が10基あったようですが、今では2つの壕しか確認できません。「回天」は昭和19年秋から使用された特攻兵器で、潜水艦で敵近くまで輸送して発進、目標近くで突撃します。初めは、搭乗員の脱出装置がありましたが、のちに廃止されました。終戦時までにおよそ400基が作られたそうです。
奥に見えるのが回天壕跡
 参加者からは、「こんなところに戦跡があったとは知らなかった」という声が多く聞かれ、「珍しいところに連れてきてくれてありがとう」という企画した側がとてもうれしくなるようなことを言ってくださる方もいました。
 友の会では、このように史跡を訪れる旅行も年に3回ほど計画しております。興味のある方は、是非ご入会ください。

日本の文様―文様になった生きもの達―(30)兎(うさぎ)

2008年9月9日

(30)兎(うさぎ) -月で餅つき- 

 長らくご紹介してきました、「日本の文様―文様になった生きもの達―」も今回が最終回となります。最後に少し珍しい型紙をご紹介します。

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

染型紙 兎に菊 個人蔵(砥部町)・当館保管

 今までの型紙と比べて形が違うことにお気づきでしょうか。
 この型紙は、布を染める型紙ではなく、やきものに絵付けするための型紙です。この型紙を、お椀やお皿などやきものの上にあてて、顔料を刷毛などで塗って色づけます。やきものは立体的なものが多いため、湾曲している型紙もあります。同じ柄のやきものを大量生産するために、型紙などを用いて絵付けしたものを「印判手」(いんばんて)と呼びます。白地に青い色が美しいやきものです。
 月に兎が住んでいるという伝説は中国が発祥の地です。不老不死の霊薬を臼でついている兎が、日本に伝わって餅をつく姿となりました。
 菊などの秋の草花と取り合わせた文様は、月からの連想によるものです。

日本の文様―文様になった生きもの達―(29)牡丹(ぼたん)

2008年9月7日

(29)牡丹 -百花の王-

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

染型紙 唐獅子牡丹 大西金七染物店蔵(四国中央市川之江町)

 牡丹は中国を原産とし、その花弁が豪華なことから「百花の王」と称されます。日本では、花の栽培が進んだ江戸時代から人気の文様となり、愛されました。「百獣の王」である獅子と組み合わされ、富貴の象徴とされることも多く見られます。

 この型紙では、豪奢な花びらを誇る牡丹に対して、円形にデフォルメされた獅子の姿は勇壮というよりも、愛らしさを感じさせます。

 唐獅子牡丹の背景は、「紗綾」といいます。卍文様を崩したこの文様は、地文様としてよく使われています。

日本の文様―文様になった生きもの達―(28)獅子(しし)

2008年9月6日

(28)獅子-百獣の王-

染型紙 獅子 個人蔵 (西宇和郡伊方町)

染型紙 獅子 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 ライオンは、その勇壮さから世界各地で聖獣とされ、太陽の象徴ともされます。中国を経て日本へ伝えられたライオンの姿は、次第に空想化され極端にデザイン化を経ます。ライオンを知らない日本人は、架空の聖獣「獅子」として文様に取り入れました。

 百獣の王である獅子は、百花の王である牡丹が好物であるとも言われ、力と美の豪華な組み合わせとして大変好まれています。

南予の中世城跡探訪20 四万十川水系国境地域の要衝 ―河後森城跡―

2008年8月30日

 河後森(かごもり)城、その名前を耳にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか。松野町の中心部松丸の町並みの背後に見える小高い丘、それが河後森城跡で、平成9年には国の史跡指定を受けました。


  河後森城跡

 河後森城の周辺地域は、戦国時代には河原淵(かわらぶち)氏という領主が支配していました。なかでもよく知られた河原淵教忠は、伝わるところでは土佐一条氏一門の東小路教忠が養子に入ったといわれ、そのためか一条氏寄りの立場を見せます。予土を結ぶ四万十川水系の国境地域という政治・軍事的要衝にあって、一条氏勢力の前線拠点の役割を期待されたのかもしれません。その後、やはり伝承では、一条氏滅亡の後、配下であった芝氏が台頭して教忠の地位を奪ったといいます。
 四国平定後、南予の支配も中央から送り込まれた大名が執り行うようになりますが、各大名は予土国境に位置する城として重視したようです。なかでも、藤堂高虎は、板島(宇和島)・大津(大洲)・河後森を南予支配の3大拠点としていました。伊達家でも入部当初には当地に重臣桑折氏が配されていたようです。近世初頭に廃城になったようですが、おそらく一国一城令などの影響があったものと推察されます。
 尾根が馬蹄形に丸まった独立丘陵の、最も高い部分に主郭、そこから尾根上に曲輪が連なります。現在発掘調査が継続的に進められており、かつての姿が次第に明らかになろうとしています。主郭部では石垣や大型の瓦・鯱瓦なども出土しており、中世城郭から近世城郭への過渡期の城郭遺跡として貴重な城跡です。発掘成果を基に、一部に建物の復元もされて公園としての整備も進みます。


  照源寺

 河後森城から南へ少し行くと、河原淵氏の菩提寺照源寺があります。境内の開山堂跡地には現在墓碑群があり、後世に河原淵教忠の子孫を名乗る人々により建てられた教忠の墓碑が立ちます。その他には、歴代住職の墓碑をはじめ中世のものと思われる五輪塔も多く並んでいます。


  河原淵教忠墓碑


  照源寺開山堂跡墓碑群

「森のめぐみ 木のものがたり展」が巡回します。

2008年8月29日

 昨日は、愛媛県立博物館で8月30日(土)から始まる『森のめぐみ 木のものがたり展』の展示設営に行ってきました。この展示は、第32回全国育樹祭記念行事の一つで、愛媛県立博物館・愛媛県歴史文化博物館・愛媛県総合科学博物館の3館の協同展になっています。
3館の学芸員が県立博物館の特別展示室に資料を持って集合。担当コーナーに分かれて作業を行いました。
展示の準備風景

歴博の担当コーナーは、「森と人とのつながり」の部分。愛媛大学の教授であった村上節太郎さんが撮影した写真から、焼き畑でトウモロコシや三椏(みつまた)を育てる山村の人々、ロクロをまわして器を作り出す木地師(きじし)、身近な竹を使って日用雑貨を生み出す職人など、戦前戦後の山間部の景観や林業に生きた人々の暮らしを紹介し、森の恵みを何一つムダにしなかった昔の人の暮らしを紹介しています。
写真パネルを設置中

 県立博物館、総合科学博物館は、木の年輪標本や植物標本など、森に関する動植物の展示を担当しています。
植物標本の展示作業

 その他、木のおもちゃで自由に遊べるスペースもあるので、ぜひこの機会に、親子であそびながら木に親しんでみよう!

第32回全国育樹祭記念行事
『森のめぐみ 木のものがたり展』
愛媛県立博物館     平成20年8月30日(土)~9月23日(火・祝)
愛媛県歴史文化博物館  平成20年10月4日(土)~12月7日(日)
愛媛県総合科学博物館  平成20年12月20日(土)~平成21年1月30日(金)

日本の文様―文様になった生きもの達―(27)雀

2008年8月28日

(27)雀(すずめ) -豊作の願い- 

染型紙 雀 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 雀 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 雀は群れる様子から一族繁栄、その繁殖力から穀物の豊作の意味を表わします。また中国では「雀」と「爵」が同じ発音であるところから、多くの雀が群生する様子を爵位のある人(高級官吏)が集う様子を連想させ好まれました。
 型紙では、竹の輪をくぐり抜けるかのように、飛び回る雀が愛らしい文様となっています。

日本の文様―文様になった生きもの達―(26)鯉

2008年8月27日

(26)鯉(こい) -滝をのぼって龍へ-

鯉

 中国において、鯉は急流を昇りやがて龍になるという伝説があり、日本でも「鯉の滝昇り」は吉祥文様とされています。

染型紙 鯉 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 鯉 個人蔵(西宇和郡伊方町)

 この型紙では、流れに逆らって泳ぐ勇壮な出世魚を、ダイナミックな水の流れと共にデザイン化した、躍動感あふれる文様となっています。

 こちらの型紙には糸入れの技法が見られます。

日本の文様―文様になった生きもの達―(25)馬

2008年8月26日

(25)馬 -成長への願い-

与那国島の馬

 古来、馬は神様の乗り物として考えられてきました。
 その姿は絵画や絵馬に描かれ、玩具としても形づくられています。
 きものでは、男の子の衣装に馬の文様が見られます。元気よく跳ね回る馬の姿に、成長の願いを託したのでしょうか。

染型紙 馬 個人蔵(西宇和郡伊方町)

染型紙 馬 個人蔵(西宇和郡伊方町)
 型紙では、尾をなびかせた馬がはつらつと野を駆け回る様子がデザインされています。

 この型紙は、今までご紹介した型紙と少し異なり、縦型となっています。型紙の
中には少数ですがこのような縦型のものが見られます。