
花ざかりの三椏 久万高原町明神 昭和33年
和紙の原料には楮(こうぞ)と三椏(みつまた)がありますが、楮が集落付近の常畑の畦などで栽培されたのに対して、三椏は集落から遠く離れた日照に恵まれた土地で栽培されました。三椏には独特の臭気があるため獣害から強く、地形急峻な山岳地が最適地だったので、焼畑に導入されていきました。
昭和に入っての焼畑の主力は現金収入となる三椏で、それまで人が入ったこともないような奥深い山まで切り開かれ、「宝の山」として三椏が栽培されました。村上節太郎が写真を撮影した昭和33年には愛媛県は全国の栽培面積の27パーセントを占めていました。

三椏の皮をはぐ女性 久万高原町笠方 昭和33年
三椏の収穫期は、11月下旬から翌年の4月までの長期にわたりました。1メートル20センチから50センチくらいに伸びた三椏の枝を刈り取り、人間の背丈以上の大きな蒸し桶に入れて蒸すと、皮はぎの作業に移りました。一本一本はぎとられた皮が黒皮、これをさらに水にさらして柔らかくして荒皮をけずりとったものが白皮といいます。この黒皮をけずって白皮にするのは女性の仕事で、三椏の収穫が続く冬の間はほとんどそれにかかりきりになりました。また、子どもたちも小学3年生ぐらいになると、細い枝が割り当てられるなど、皮はぎは一家総出の作業でもありました。
三椏の皮はぎは水が冷たくつらい作業でしたが、平坦地の米作農家よりも現金収入になりました。しかし、価格が停滞したことや、木材ブームもあって労力が植林にシフトしたこともあって、三椏は昭和38年頃から急速に衰退していきました。








