昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉟―讃岐案内―

2024年6月21日

 讃岐国(香川県)は四国八十八箇所霊場を開創したとされる弘法大師空海の生誕の地で、八十八箇所霊場のうち23箇所の札所(徳島県三好市の第68番雲辺寺を含む)があり、その中には第75番善通寺(善通寺市)などの空海ゆかりの重要な寺院や結願の札所となる第88番大窪寺(さぬき市)があります。また、「讃岐のこんぴらさん」として海上交通の守り神として信仰されている金刀比羅宮、屋島・檀ノ浦の源平古戦場跡、栗林公園など、全国的に有名な神社仏閣や名所旧跡が多くあります。

 そうした歴史的な特色をもつ讃岐は四国遍路道中図でどのように紹介されているのか見てみましょう。

 昭和5年(1930)の光栄堂版、昭和6年(1931)の駸々堂版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版など、様々な種類がある四国遍路道中図ですが(本ブログ10「四国遍路道中図の種類」参照)、これらに共通して言えることは、四国の形は全体的にデフォルメされ、讃岐は四国四県の中でも面積が最も小さいことから、阿波(徳島県)、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)と比べても小さく描かれています。そのため、視覚的には讃岐の23箇所の札所がところ狭ましと記載されているように感じます。上陸港は山陽・山陰からは丸亀港と多度津港、岡山地方からは高松港の3つの港が紹介されています。

 四国遍路道中図に見る讃岐の案内で意外な点は、讃岐には弘法大師空海ゆかりの番外霊場・伝説地や名所旧跡などが数多くありますが、それらはあまり紹介されていないことです(本ブログ4「番外霊場」参照)。こうした理由は編集方針や発行・広告主の意向によるものと推察されます。現時点では伊予を主体に作成された渡部高太郎版のように、讃岐を主体とした四国遍路道中図を確認できていません。  

 ちなみに四国遍路道中図と同時代資料となる昭和11年(1936)に大阪商船が発行したパンフレット「讃岐あんない」には、讃岐の遊覧地として高松市、栗林公園、鬼ケ島、屋島、五剣山、坂出町、白峯陵、多度津、善通寺、琴平町、金刀比羅宮、観音寺町が紹介されています。四国遍路道中図に記載する讃岐案内とあまり変わらない内容となっています。パンフレットの表紙には、四国霊場を巡拝する遍路の後ろ姿のイラストが掲載されています(写真①、個人蔵)、手に金剛杖を持ち、菅笠をかぶり、荷台を背負い、腰部に尻敷(シリスケ)、足に脚絆を付けています。当時の遍路装束のイメージが見て取れます。パンフレットからは、大阪・神戸から讃岐(高松・坂出・多度津)上陸による四国遍路に大阪商船を利用することを推奨していることがうかがえます。

写真① 大阪商船のパンフレット「讃岐あんない」(昭和11年、個人蔵)

 四国遍路道中図の讃岐の案内情報で特に注目したいのは、結願の札所大窪寺の案内と琴平(金刀比羅宮)への鉄道路線の変遷です。

 昭和5年の光栄堂版(個人蔵、写真②)では、大窪寺には「結願」「打ち止め」などの記載はありませんが、阿波の第3番金泉寺から大窪寺へと逆打ちするコースとなる「大阪越」の文字が記載されています。多度津港から鉄道で善通寺や金刀比羅宮を参拝するための讃岐線(後の土讃線)が紹介されています。

写真② 四国遍路道中図(光栄堂版、昭和5年)の讃岐部分

 翌6年の駸々堂版(個人蔵、写真③)では、大窪寺は大きな文字で「打留(うちどめ)」と記され、「みほとけのおたすけで達者で巡礼を終りましためでたしめでたし」と和歌が添えられています。さらに、大阪越により金泉寺と大窪寺間が点線で結ばれ、「逆打 逆打ハ第三番ヨリ大阪越ヲナシ讃岐ニ入リ八十八ノ大窪寺ヘ行ク、里程九里四丁アリ」と説明が追加されています。また、琴平駅へのアクセスは予讃線の他に、丸亀を起点とした琴平参宮電鉄(昭和38年廃止)、坂出を起点とした琴平急行電鉄(戦時中休止、昭和23年に琴平参宮電鉄に吸収合併)、高松を起点とした琴平電鉄(後の高松琴平電気鉄道)の路線が地図上に記載され、善通寺や金毘羅参詣を背景とした鉄道網の発展や4社による路線競争の激化が見て取れます。

写真③ 四国遍路道中図(駸々堂版、昭和6年)の讃岐部分

 昭和13年の渡部高太郎版(当館蔵、写真④)では、大窪寺で「打留」と大阪越の「逆打」の案内に加えて、「八十八番ヨリ十番を経テ一番ヘ十リ半」という記載が加わっています。第88番大窪寺から第1番霊山寺に巡拝して円環のように四国遍路を行う遍路の存在が読み取れます。なお、善通寺や琴平への鉄道アクセスは省線土讃線のみ記載されています。

写真④ 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)の讃岐部分

 こうしてみてみると、四国遍路道中図における讃岐案内は、八十八箇所霊場の札所と結願の大窪寺から阿波の霊場を結ぶ遍路道、上陸港・港町を起点とした航路や鉄道の路線情報の紹介が中心となっていることがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉞―四国遍路と鳴門の渦潮―

2024年6月14日

 前回のブログ33「撫養(むや)港と遍路支度」で紹介したように、大正~昭和(戦前)までの四国遍路道中図では、徳島県鳴門市の撫養港(岡崎)上陸後、遍路に対して鳴門の渦潮見物が推奨されています。

 鳴門の渦潮は、鳴門と淡路島の間にある鳴門海峡に位置し、そこは瀬戸内海と紀伊水道という2つの海域の間にあるため、それぞれ潮の干満のタイミングが異なり、激しい潮流が起きて渦潮が発生する自然現象のことをいいます。徳島県観光協会のホームページ「渦の道」によると、渦潮が見られる確率が高いのは1日4回、干潮時と満潮時の前後1~2時間。春と秋の満月あるいは新月の大潮時には干満差がさらに激しくなり、直径20mもの世界最大級の渦潮が現れることもあるそうです。

 今回は世にも珍しい鳴門の渦潮と四国遍路について紹介します。

 庶民の旅が盛んに行われるようになった江戸時代、鳴門の渦潮は阿波国や四国を代表する一大名所となり、文化11年(1814)の『阿波名所図会』(当館蔵、写真①)、広重の浮世絵「阿波鳴門之風景」などにも紹介され、全国各地からその奇観を一目見ようと、文人墨客や旅人が集まりました。

写真① 「鳴門真景」(『阿波名所図会』文化11年、当館蔵)

 大和国田原本(奈良県磯城郡田原本町)の仏絵師西丈もその一人です。彼は金毘羅参詣や四国遍路などをしながら「中国四国名所旧跡図」(江戸時代後期、当館蔵)という道中で見聞した景観を描いた画集を作成します。その中の「阿波の鳴門図」(写真②)には大きな2つの渦潮を見物する旅人が描かれ、鳴門海峡の雄大な自然の姿が大胆な筆致で表現されています。実際に遍路が見て描いた鳴門の渦潮の景観を示す絵画史料としてとても貴重です。

写真②「阿波の鳴門図」(「中国四国名所旧跡図」、江戸時代後期、当館蔵)

 次に、鳴門の渦潮について近代の四国遍路ガイドブックの記載を確認します。

 明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』によると、「阿波の撫養岡崎に上陸すれば、有名なる鳴戸を見物して、一番より札を始むるが順です、先づ撫養に上陸するとせば鳴戸の潮時を聞合せこれを見物し、ここより一番までは平かな県道筋を三里(馬車あり拾六銭です)です(後略)」と記されています。また、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「撫養から一路県道三里で一番霊山寺へ達しますが、天下の奇観鳴門の観潮はほど近く、潮時を聞合せて物凄い狂奔の渦巻を御覧になることを御勧めいたします」とあります。

 このように四国遍路道中図と同様に近代のガイドブックにおいても、撫養上陸と鳴門の渦潮見物はセットで紹介され、関西方面や東日本から撫養港に上陸した遍路の定番コースとなっていることがわかります。その意味において、撫養上陸による四国遍路は、一番札所の霊山寺巡拝前、最初に鳴門の渦潮を見学する遍路も多かったと推察され、四国遍路の観光化を考える上で注目されます。

 ところで、江戸時代の四国遍路絵図を見ると、大坂で刊行された細田周英の「四国徧禮(へんろ)絵図」(当館蔵、写真③)は、宝暦4年(1754)の刊記があり、現存最古で最も詳細な四国遍路絵図として知られています。四国を本州から見た構図でとらえた絵図中に鳴門の渦潮が描かれています。その後各地で作成された1枚刷りで内容が簡略化された四国遍路絵図においても、鳴門の渦潮は四国のランドマークとして描かれ、四国遍路絵図の特徴的な表現であったことがわかります。

写真③ 現存最古の四国遍路絵図(細田周英「四国徧禮絵図」宝暦4年、当館蔵)に描かれた鳴門の渦潮

 一方、近代に発行された四国遍路道中図(写真④、当館蔵)には、鳴門の渦潮の案内表記はありますが絵画的表現はありません。四国遍路道中図は四国の形がデフォルメされ、江戸時代の四国遍路絵図の伝統を受け継ぎながらも、方位記号が採用されているなど、絵図から地図へと転換する過渡期に位置するものと考えられます。

写真④ 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)に記載された鳴門の渦潮

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉝―撫養港と遍路支度―

2024年6月7日

 徳島県の北東部、鳴門市に位置する撫養(むや)港(岡崎港。写真①)は、かつて関西地方や東日本からの四国の玄関口として栄え、第1番札所霊山寺にも近いことから、四国遍路を行う巡拝者(遍路)にも大いに利用されました。撫養港については、本ブログ②「四国の上陸港」、⑬「四国に渡る汽船と巡拝方法」で少し紹介しましたが、今回は撫養港と遍路支度について見てみましょう。

写真① 撫養港(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 西田素康「撫養港のみなと文化」(みなと総合研究財団、2010年)によると、撫養港は淡路島を介した近畿との交通が至便なことから、遠く奈良・平安時代から開かれ、蜂須賀氏が阿波に封じられて以後は、撫養の塩田で生産される塩、吉野川の上流域で産出される木材、中下流域で栽培される藍、煙草等を主として、大坂、遠くは北陸、東北地方に積み出し、近世まで撫養港は阿波第一の商港として栄えてきました。四国の代表港といわれた撫養の港には多くの水主・船頭や、天下の景観「鳴門の渦潮」を一目見ようと文人墨客が集まり、港を介して蓄積された経済力に基づき、遊里、料亭、商店で賑わいを見せました。しかし、撫養港は港口付近に暗礁が多く、大型船の航行に支障があり、立地条件に恵まれた小松島港や徳島港に主導権が移り、明石海峡大橋開通にともない、平成9年(1997)に航路が廃止されたことが紹介されています。

 次に、四国遍路道中図の撫養港の記載を確認します。大正6年(1917)の駸々堂版に「岡崎 近畿以東ハ撫養ノ岡崎ニ上陸シ壱番ヨリ札ヲ始ルガ順デ先鳴戸ノ汐時ヲ見物スベシ」(当館蔵)、昭和6年(1931)の駸々堂版に「上陸地 岡崎 近畿以東ハ撫養ノ岡崎ニ上陸シ壹番ヨリ札ヲ始ルガ順デ此ニ上陸スルトセバ鳴門潮時ヲ見物スベシ」(個人蔵)、同13年(1938)の渡部高太郎版に「岡崎 近畿以東ハムヤ岡崎に上陸シ一番ヨリ札ヲ始メルガ順デ此ニ上陸スレバ鳴門ノ潮時ヲ見ルベシ」(当館蔵)とあり、記載内容は概ね同じです(写真②)。

写真② 四国遍路道中図の撫養港(部分)

 戦前の漫画家・宮尾しげを(1902~1982年)が昭和18年(1943)に刊行した遍路記『画と文 四国遍路』(鶴書房)には、大阪から撫養に向かう船中と上陸後の撫養港の様子が紹介され、当時の四国遍路の状況が髣髴されます。以下に紹介します。

 「よる八時近くに徳島の撫養に向ふ。この汽船は大阪の天保山を解纜(かいらん。船出のこと)する。船が出ると間もなく、部屋の電気が消えてしまふ。『コリヤ停電や』『停電でも船うごきまつか』『あほうやナ、船やで電車ぢやありやへん』『アさよか』船は兵庫へはいる。船が着くと物売が船内を我物顔に歩いて『サア、バナナ、みかん、いらんかな、ゆで玉子はどうです、サイダーもありまつせ、玉子、キヤラメルサイダー、サイダーみかん、サイダー』すると、隣のおつさんが『キャラメルサイダーて、どんな味や』『そんなものありませんぜ、こりやキャラメルにサイダーだつせ』『さよか、そんなら、つまらへん、やめときまひょ』ひやかしだか、本気だか、関西の人も仲々天邪鬼だ。船は夜中の午前三時に鳴門海峡をつつ切つて、撫養の岡崎へはいる。暗の中に薄にぶい電気のついた家が店をあけている。曰く宿屋、食物屋、雑貨店、『ご巡拝ですか、お道具はお揃ひですか、そちらに無い物あります』と、雑貨店の婆さんが叫んでいる。その外ゴタゴタ云つてる声は、いづれも年とつた男と女の声だ。夜中とて若い者は遠慮と見える。半ちくな時間なので宿へ入って、一眠りする(後略)。」

 宮尾が利用した航路は、大阪港(天保山)を夜に出港して午前3時から4時頃に撫養に到着する、いわゆる大阪商船の「夜出る汽船」と考えられます。その船内では食料品などの物売りがあったこと、まだ夜が明けていない撫養港では、宿屋、食物屋、雑貨店などが開店して、上陸する乗客に様々な呼び掛けをしている早朝の港の光景が読み取れます。雑貨店のお婆さんは、これから四国霊場を巡拝する遍路に対して、巡拝用品の売り込みを行っています。

 撫養港で巡拝用品を取り扱う雑貨店の一つに江口商店があります。同店は四国遍路道中図(写真③、刊年不明)を発行しています。その表紙部分には「四国順拜道具一式(屋号)徳島県撫養港 江口商店」と記され(写真④)、四国遍路に必要な巡拝用具一式取り揃えている商店であることを宣伝しています。宮尾が遍路記で紹介する雑貨店とは、江口商店であった可能性があります。

写真③ 四国遍路道中図  (江口商店版、当館蔵)
写真④ 江口商店版の表紙部分  

 興味深いのは、四国遍路道中図の江口商店版の地図上には「近畿以東ノ人ハ小松島港及ビ徳島港ヘ上陸シテ汽車ニテ高徳線阪東駅ニテ下車スル 一番札所ヘ五丁巡拝道具店アリ」と記され(写真⑤)、説明文中に撫養港の巡拝道具店の宣伝が入っています。つまり本図を発行した江口商店のことを示しているものと考えられます。

写真⑤ 江口商店版の撫養港(部分) 

 また、昭和10年(1935)の四国遍路のガイドブック・武藤休山編『四国霊場礼讃』には、「撫養岡崎町 遍路道具一式販売 江口商店」の広告が掲載され、「右にて必要な品々を買求め、旅装を整へ宿にて弁当の用意し順拜の途に上る」と紹介され、江口商店は撫養港において遍路を対象にした代表的な専門店であったことがうかがえます。 

 基本的に、四国外から初めて四国巡拝を開始する遍路は、上陸港もしくは打ち始めとなる札所近くで、四国遍路に必要な巡拝用具を買い揃えました。特に大都市圏からの上陸が多かった撫養港は、大多数の遍路に利用され、そこで四国遍路の巡拝用具を専門的に扱っていた江口商店は、遍路の旅支度に利用されたことが容易に想像されます。今日、四国遍路道中図の江口商店版が比較的多く残っている理由は、こうした背景によるものと考えられます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉜―都市と観光―

2024年5月31日

 江戸時代に入ると、お伊勢参りや西国三十三所観音めぐりなど、庶民による巡礼の旅が盛んに行われました。巡礼の本質には、信仰を目的とした霊場の巡拝と、道中における都市見物や名所旧跡等を遊覧する物見遊山(観光)の要素があり、それらは表裏一体の関係にありました。四国遍路においても、近代以降の交通や宿泊業の発展などを背景に、四国霊場を巡拝しながら四国の観光を行う遍路が多かったと考えられます。

 今回は「四国遍路道中図」に見る四国の都市と観光について紹介します。

 昭和13年(1938)に愛媛県松山市の關印刷所(現在のセキ印刷)が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版、写真①)には四国八十八箇所霊場と主な番外霊場、巡拝ルートなどが分かりやすく記載されていますが、地図中には四国四県の主要な都市が大きく表示(都市の凡例記号は赤丸黒字に白い縁入りのマーク印、写真②)されています。

写真① 四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)
写真② 四国遍路道中図の凡例(渡部高太郎版)

 四国遍路を順打ち(札所番号順・時計回り)に行った場合、渡部高太郎版に掲載する都市とその位置関係について確認すると、以下のようになります。

 【徳島県・阿波】2都市

 ・撫養(撫養港から第1番霊山寺の区間)※撫養は徳島県鳴門市。

 ・徳島(第17番妙照寺から第18番恩山寺の区間)。※妙照寺は現在の井戸寺。

 【高知県・土佐】1都市

 ・高知(第30番安楽寺から第31番竹林寺の区間)。※現在の第30番は善楽寺。

 【愛媛県・伊予】5都市

 ・宇和島(第40番観自在寺から第41番龍光寺の区間)

 ・八幡浜(八幡浜港から第44番大宝寺の区間)

 ・松山(第51番石手寺から第52番太山寺の区間)

 ・今治(第55番南光坊から第56番泰山寺の区間)

 ・新居浜(第64番前神寺から第65番三角寺の区間)

 【香川県・讃岐】2都市

 ・丸亀(第77番道隆寺から第78番郷照寺の区間)

 ・高松(第82番根香寺から第83番一宮寺の区間)

 ちなみに、四国遍路道中図の諸版における地方都市の記載を確認すると、大正6年(1917)の駸々堂版(写真③)と昭和4年(1929)の浅野本店版では、徳島県、高知県、香川県の都市は同じですが、愛媛県ではわずか1都市(松山市)のみが表記されています。これらの事例から、愛媛で発行された渡部高太郎版は、地図上に愛媛の地方都市が多く表記され、地元重視の編集方針がうかがえます。ただし、撫養港にあった江口商店版(刊年不明、写真④)においても、上記の愛媛の5都市が記載されており、渡部高太郎版と江口商店版との編集上の関係性が注目されます。

写真③ 四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)
写真④ 四国遍路道中図(江口商店版、当館蔵)

 実際、昭和時代(戦前)の遍路が四国巡拝中に立ち寄ったと見られる地方都市周辺の観光地とはどんなところであったのでしょうか。

 表裏一枚物の絵地図である四国遍路道中図には、鳴門の渦潮(徳島)、道後温泉(愛媛)、壇ノ浦(香川)など、四国の有名な観光地は地図上に記載されていますが、その他については細かく掲載されていません。

 そのため、戦前の詳細な四国遍路案内記として定評のある、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 へんろたより』で上記の主要都市におけるおすすめの観光地について確認すると、以下のようなスポットが紹介されています。

 【徳 島】徳島城址、大瀧山、夕霧塚、金刀比羅神社、忌部神社、峯の薬師、十郎兵衛屋敷跡、小松島

 【高 知】高知市と城址、川上不動、三谷観音、野中兼山の墓、長尾鶏、紀貫之船出の地、白太夫神社、源希義墓、円行寺鐮泉

 【宇和島】宇和島城、天赦園、和霊神社、宇和津彦神社

 【松 山】道後温泉、県社湯神社、県社伊佐爾波神社、宝厳寺、道後公園、円満寺、常信寺、松山城、俳人子規の墓、龍穏寺(十六夜桜)、軽神社、大宝寺(姥桜)、三津浜、高浜

 【今 治】吹揚城址、国幣大社大山祇神社、来島海峡

 【丸 亀】亀山公園(蓬莱城旧址)、塩原太助の金燈籠、田宮坊太郎墓、法音寺、妙法寺

 【高 松】玉藻城、栗林公園、石清尾八幡宮、鬼ヶ島と槌の戸、小豆島

 これらの観光地の中には今日あまり知られていないものも含まれていますが、こうした各地を観光しながら四国霊場を巡拝した遍路の存在は、四国遍路の観光化やツーリズムを考える上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉛―巡拝用品店―

2024年5月24日

 今回は四国遍路の巡拝用品店について紹介します。

 昭和37年(1962)、四国霊場会後援による四国遍路のガイドブック『四国八十八ケ所霊場 巡拝案内 遍路の杖』が刊行されました。編著者は明王寺(徳島県名西郡神山町下分東寺)住職・荒木戒空、発行所は浅野総本店(徳島県阿波郡市場町切幡寺観音一七三)です。荒木は本書の刊行に当たって「霊場各寺院より貴重な資料を提供して頂き、特に霊場会各支部長諸講師には多大の御援助を頂きましたことを大謝いたします」と記しています。四国霊場会の本部は善通寺(香川県善通寺市)に置かれていました。

 巡拝用品店の浅野総本店は、本ブログ29・30で紹介した四国霊場第10番切幡寺参道で四国遍路道中図を発行しています。四国遍路の案内地図のみならず案内本も手掛けていることがわかります。

 本書は四国霊場会後援の「参拝者必携」をうたった四国遍路ガイドブックとして売れ行きが好調だったと推察され、同39年には第三版(当館蔵)が増刷されています。そこには四国霊場巡拝のバスやタクシー、巡拝用品店などの広告が掲載されています。それらの記事から、団体バスやタクシーを利用して巡拝することが普及している当時の四国遍路の状況や、遍路の巡拝用品の種類などをうかがい知ることができます。

 以下、第三版に掲載する巡拝用品店の広告を見てみましょう。

 【浅野仏具店】 ※文字による広告

 「霊場巡拝用品 納経(掛軸と帳)、金剛杖、納札札箱、念珠、笠〈天台笠、尼笠、菅笠〉、鈴、手甲脚絆、白衣、サンヤ袋、負台、経本、納経行李、荷行李、雨具、ベン行李、白地下足袋、シリスケ、袈裟、風呂敷、地図案内書、其の他、製造卸小売り 徳島県大麻町坂東 四国第一番札所前 浅野仏具店(後略)」

 【浅野総本店】 ※文字、地図、写真入りの広告

 「神仏山水花鳥外掛軸、経本、御守護、美術印刷・表具調進、念珠、金仏、仏具、各寺院神社御用達 スモトリ屋 徳島県市場町切幡 浅野総本店(後略)」

 これらの広告は、四国遍路の巡拝を開始する遍路が最も多い徳島の四国八十八箇所霊場第1番札所霊山寺前の浅野仏具店と、弘法大師と機織り娘の伝説で有名な第10番切幡寺参道にある浅野総本店のものです。

 浅野総本店は本書の発行者であるため、自社の宣伝広告を大きく掲載したものと見られます。霊山寺前の浅野仏具店は、昭和12年(1937)に浅野伊勢吉(徳島県阿波郡八幡町切幡)が発行した四国遍路道中図に「四国第一番門前 浅野支店」(浅野支店版、写真①)、発行年不明のものに「四国第一番札所前 浅野商店」(浅野商店版、写真②)とあることから、浅野総本店の支店的存在であったと考えられます。

写真① 昭和12年(1937) 四国遍路道中図(浅野支店版、個人蔵)
写真② 四国遍路道中図(浅野商店版、個人蔵)

 両店とも巡拝用品を取り扱っていますが、本業は仏具や表具などを専門としています。浅野仏具店の広告によると、遍路が被る笠にも天台笠、尼笠、菅笠などの種類があったこと、今日ではほとんど使用することはなくなった手甲、脚絆、負台(遍路が荷物を背負うときに用いる台)、各種行李(納経、荷物用、弁当用)、シリスケ(道中で座る際に着物が汚れないために着用)など、徒歩遍路の必需品として古くから利用されてきた巡拝用品が昭和39年頃にも販売され、製造・卸売・小売業に携わるなど手広く経営を行っていたことがわかります。

 浅野総本店の広告によると、「神仏山水花鳥外」「各寺院神社御用達」とあるように、様々な種類の掛軸を取り揃え、巡拝記念の土産品なども充実していたと推察されます。無料駐車場の場所が地図上に記載され、早くから自動車遍路の利用に対応していることもわかります。

 四国霊場を巡拝する遍路にとって巡拝用品店は、四国遍路の最新の情報収集、スムーズな遍路支度や巡拝記念の土産品を入手するなどに必要不可欠な存在であり、遍路と四国霊場巡拝をつなげる重要な役目として機能してきました。巡拝用品店の中でも老舗である浅野総本店の初代店主・浅野伊勢吉は「四国遍路道中図」を発行し、ガイドブック『四国八十八ケ所霊場 巡拝案内 遍路の杖』を手掛けるなど、四国霊場巡拝を総合的にサポートする担い手として、四国遍路文化の発展に貢献してきたことがわかります。今後、巡拝用品店から見た四国遍路の動向や、その創業者の四国遍路との関わりや弘法大師信仰などについても探ることができればと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉚―続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図―

2024年5月17日

 前回に続き、四国八十八箇所霊場第10番切幡寺(徳島県阿波市市場町切幡)周辺で発行された四国遍路道中図を取り上げます。

 漫画家で随筆家の宮尾しげを(1902~1982年)は、昭和18年(1943)に遍路記『画と文 四国遍路』(鶴書房)を刊行しています。そこには、切幡寺周辺の巡拝用品・土産物店の実態と四国遍路道中図との関係性をうかがい知る上でとても興味深い記載があります。

 以下、切幡寺に向かう宮尾の道中における出来事を三段階(ア切幡寺道、イ切幡寺手前、ウ切幡寺下)に分けて紹介します。「 」内は同書からの引用です。

 ア 宮尾は切幡寺に向かう途中、ある女性の巡礼者から一枚の紙を渡されます。その紙には三割半引きと記した広告入りで、様々な品名が記されていました。女性は弘法大師の御影が入った掛軸を販売しているお奨めの掛地屋(掛軸などを取り扱う店)を紹介します。

 「切幡寺下の掛地屋といふのは、宿屋も兼業でしてネ、掛地を売り附けるのですよ、まア通るとき見てごらんなさい」

 切幡寺周辺の掛地屋は遍路宿も営み、その営業活動として、切幡寺に向かう遍路道で直接、遍路に対して店の宣伝広告入りのチラシを渡していたことがわかります。

 イ 切幡寺へ近づくと、次のような出来事が起きます。

 「段々寺へ近づいてゆくと、後から『お遍路さんョ接待ぢや』と云ひながら、一老婆が走つて来て、遍路地図を一枚くれた。『有難う』と云はうとするより、早く『あんた方、もうお泊りなら大きな口では云へぬが、十番の下の三十間ま口の掛地屋〇〇が一番よいぞエ』と小さい声で教へてくれる。地図には宿の広告が付いている、広告の接待は恐れ入る(後略)」

 ここにいう遍路地図とはすなわち四国遍路道中図を指していると考えられます。店舗名などの広告入りの遍路地図を手渡した年老いた女性がその販売店の者かは定かではありませんが、接待と称して、土産物店や宿屋などの宣伝広告が入った四国遍路道中図を無料で遍路などに配り、誘客のために活用していたことが読み取れます。これに対し宮尾は、接待と称しながら、接待する側の利益を見込んでいることにやや興ざめしています。 

 ウ 宮尾は切幡寺の麓下に到着します。そこには実際に遍路宿を兼ねていた掛地屋が多くあり、巡拝中の遍路に競って呼び掛けを行っています。

 「寺の下へ来た、両側は成程、掛地屋が軒を並べている。『泊つておくれやす』『泊りぢやございませんか』『お風呂も沸いてます、まだ一人も休みがないのや』『エゝ大師さまの御一代記の掛地が、タツタ六銭ヤ』『ナー、もう此処らで足を延ばしてお泊り、あすは焼山寺があるぞエ』(後略)」

 この場面は挿絵にも掲載されています(本書11頁)。掛地屋の軒下には多くの掛軸があり、それらを広げて遍路に見せて売り込み中の店主や、遍路宿に呼び込もうとする女性などがコミカルに描かれています。宮尾にとって切幡寺周辺の掛地屋の賑わいぶりは、四国遍路で強く印象に残った情景だったと推察されます。

 このように、宮尾しげをの遍路記『画と文 四国遍路』からは、切幡寺周辺の巡拝用品・土産物店の様子や、そこで発行された四国遍路道中図を接待品として配布するなど、巡拝中の遍路への周到な営業活動などがよくわかります。そこには四国遍路の巡拝者を主に対象とした商人たちの商魂の逞しさ、同業者の営業合戦ともいえる遍路獲得への競争心が読み取れます。

 ちなみに、宮尾が巡拝した頃の戦前の切幡寺の境内の様子は、昭和9年(1934)刊行の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)に近郊の観光名所であった土柱とともに写真で紹介されています。また、弘法大師信仰の広がりを背景に、遍路を対象に土産物店などで販売されていた掛軸類は、弘法大師の御影(写真②)、大師の事績を描いた弘法大師行状曼荼羅(写真③)、四国八十八箇所霊場の本尊御影(切幡寺発行、写真④)などであったと考えられます。

写真① 切幡寺(『四国霊蹟写真大観』、当館蔵)
写真② 弘法大師の御影(個人蔵)
写真③ 弘法大師行状曼荼羅(個人蔵)
写真④ 切幡寺発行の四国八十八箇所霊場の本尊御影(個人蔵)

戦後79年 宇和島で有志が戦没者追悼式

2024年5月14日

 2024年5月10日、宇和島市の和霊公園において「宇和島空襲を記録する会」の有志など約10名によって追悼式が行われました。同会が中心になって公園内に建立された「1945年宇和島空襲死没者追悼平和祈念碑」と272名の犠牲者を刻銘した「平和の礎」を清掃した後、献花と黙祷が行われました。参加者は死没者を追悼するとともに、恒久平和をあらためて誓っていました。

 79年前の5月10日は宇和島に初めて爆弾が落とされた日です。米軍の作戦任務報告書No.165によると、グアムを基地とする第314航空団のB29 132機が山口県の大竹製油所に向けて飛び立ち、その内の1機が午前9時に宇和島の上空15,500フィート(約4,700m)から爆弾を投下したのです。この日の空襲で115名が犠牲となりました。

 戦争体験者の高齢化により、戦争の記憶をどのように受け継いでいくかが課題となっています。これから8月15日の終戦記念日にかけて、追悼式に関するニュースや新聞記事を見聞きすることが多くなります。戦争体験者と同じ時間を過ごすことができるのは限られています。限られた時間をどのように過ごすか、今一度真剣に考えたいと思います。

和霊公園の平和祈念碑
坂下津の予科練跡の碑

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉙―切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図―

2024年5月10日

 四国遍路道中図は撫養港(徳島県鳴門市)などの四国への上陸港、第1番札所霊山寺(同市)などの札所寺院の周辺、各遍路道沿いなどの巡拝用品・土産品店などで販売されました。なかでも四国八十八箇所霊場第10番切幡寺(きりはたじ。徳島県阿波市市場町切幡)の周辺で発行されたものが比較的多く残っています。

 切幡寺の正式名称は得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)切幡寺といいます。宗派は高野山真言宗、本尊は千手観世音菩薩、弘仁年間(810~824年)の創建とされ、弘法大師を開基とする四国霊場の阿波(徳島)の札所です。明治42年(1909)の『四国霊場名勝記』(当館寄託)には、当時の境内の様子を撮影した古写真が掲載され、遍路の姿も確認できます(写真①)。

写真① 切幡寺(『四国霊場名勝記』明治42年、当館寄託)

 実際に切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図をいくつか見てみましょう。地図を折り畳むと表紙となる部分には、発行者による宣伝広告が記載されています(写真②)。( )内は地図面の下部に記された印刷者、発行者の住所と氏名です。


写真② 切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図の表紙部分(個人蔵)

 ア 浅野本店版

 昭和4年(1929)「四国八十八ケ所 遍路道中図 発行所 浅野本店」(徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 浅野伊勢吉)

 イ 光栄堂版 

 昭和5年(1930)「四国八十八ケ所 遍路道中図 四国第十番切幡寺麓辻一丁登ル 製本店 光栄堂」(徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 須見栄五郎) 

 ウ 金山商会版

 昭和15年(1940)「四国八十八ケ所 遍路道中図 四国第十番切幡寺麓四辻 かけじ仏具卸 金山商会」(徳島県阿波郡八幡町切幡 印刷兼発行人 森万平)

 エ イナリ総本店版

 昭和16年(1941)「四国八十八ケ所 遍路道中図 四国第十番切幡寺石門内 イナリ総本店」(徳島県阿波郡八幡町切幡字観音一八四ノ四 発行者 森隆□ 徳島県板野郡撫養町小□西八五番地 印刷者 黒田進一)

 これらの種類はごく一部です。同じ発行者が複数年にわたって改訂版を刊行しています。表紙の広告や印刷者・発行者の住所などを見ると、切幡寺周辺で印刷・発行されていることがわかります。また、四国遍路道中図などの巡拝用品の販売は、製本、かけじ仏具卸(かけじとは床の間などにかける掛物)を営む商店などでも取り扱われています。

 それではなぜ、切幡寺周辺でいろんな四国遍路道中図が発行されたのでしょうか、この点について次に考えてみます。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「十番から八十八番大窪寺まで五里、道も良く山越しの要もありませんから大窪寺から此処に出てくる人も多う御座います」と記され、香川県にある第88番大窪寺にも地理的に近いことから、大窪寺から切幡寺へと向かう遍路も多かったことがわかります。この道は1番霊山寺から巡拝した遍路が八十八箇所を巡拝後に再び一番札所に戻り、巡礼道を一周する遍路にも利用されました。また、同書によると、切幡寺から奇勝として地理学上世界的に有名な土柱や、大塩平八郎の生誕地とも伝えられる脇町などへ向かう乗合自動車の路線もありました。つまり切幡寺は四国遍路の巡礼道の分岐点に位置し、遍路をはじめ観光客などが合流する交通の要所でした。こうした背景から、切幡寺周辺には巡拝用品、土産品などを扱う販売店が多く営まれたと推察されます。

 こうした状況に対応するかのように、四国遍路道中図の地図上に、大窪寺と切幡寺を結ぶ遍路道のルートが次第に描かれてく様子が確認できます。具体的に見てみましょう。

 昭和4年の浅野本店版では、大窪寺と切幡寺を結ぶルートは地図上に記載されていませんが、切幡寺近郊に位置する名所の土柱が大きく表示されています(写真③)。ところが、翌5年の光栄堂版ではその間を結ぶルートが点線で表記され、(写真④)。さらに昭和10年の光栄堂版では赤い実線で結ばれ、その間の距離が「二五〇丁」と記載され、遍路道(巡拝指道)として記載されています(写真⑤)。このように、切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図には、発行者や発行時期などによって記載内容が異なっており、巡拝者の使用する遍路道の状況や、遍路道のルートの変遷を考える上で注目されます。

写真③ 昭和4年の浅野本店版では、大窪寺~切幡寺のルート表記なし。
写真④ 翌5年の光栄堂版では、大窪寺~切幡寺のルートが点線表記となる。
写真⑤ 昭和10年の光栄堂版では、大窪寺~切幡寺のルートが赤い実線で結ばれ遍路道(巡拝指道)として記載。

 もう一つ、切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図でとても興味深いことは、発行・販売店による商売競争です。昭和10年の光栄堂版には同5年版にはなかった「土産物一切他店ノ半額ニ売リマス」(写真⑥)、同16年のイナリ総本店版には「(印)シルシマチガワヌヨウ 土産物一切一切他店ノ半額ニ売リマス」(写真⑦)とあり、遍路道中図のみならず土産物すべて他店の半額で販売するという広告が記載されています。遍路や参拝者をめぐって切幡寺周辺の販売店の活発な営業活動が見て取れます。前回ブログ28に紹介した四国遍路道中図の広告性を考える上でも注目されます。

写真⑥ 昭和10年の光栄堂版の宣伝広告 個人蔵
写真⑦ 同16年のイナリ総本店版の宣伝広告 個人蔵

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情㉘―心臓薬本舗渡部高太郎版と広告性―

2024年5月3日

 「四国遍路道中図」は、発行者・広告主となった札所近くの土産・巡拝用品店等の販売店の名前が掲載され、様々な種類があります。なかでも、昭和13年(1938)に松山市萱町の関印刷所(セキ株式会社の前身)が発行・印刷した「心臓薬本舗渡部高太郎版」(当館蔵、写真①)は、広告主の渡部高太郎(わたなべ・たかたろう)が経営する心臓薬本舗の心臓薬の宣伝広告が大きく掲載されています(昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情①参照)。 

写真① 昭和13年(1938) 四国遍路道中図(渡部高太郎版)。赤枠部分は心臓薬の宣伝広告。 

 今回は四国遍路道中図の広告性について考えてみましょう。

 渡部高太郎版には、心臓薬本舗の場所が地図上に目立つように記載されています(写真②)。その場所は周桑郡徳田村(愛媛県西条市丹原町)で、四国八十八箇所霊場第59番国分寺から第60番横峰寺に至る遍路道(横峰寺道)沿いに位置します。付近には番外霊場の生木地蔵や西山興隆寺があります。地図の下部には「謹告」と題して「古より霊場四国の地に伝わる家伝秘方の心臓薬は薬効霊験甚大にして古より幾十万かの難病患者を救ひ(後略)」と記され、渡部家の心臓薬が霊地四国に伝わる妙薬であることが宣伝されています。

写真② 四国遍路道中図(渡部高太郎版)に記載された心臓薬本舗(部分拡大)

 また、裏面の大半を割いて、「生命の鍵」「家伝心臓薬の由来と効能」「家伝秘方心臓薬」「安産の薬」「同病相憐」などについて詳細に記載されています(写真③)。

写真③ 四国遍路道中図(渡部高太郎版)の裏面。赤枠部分は心臓薬の宣伝広告。

 実際、四国霊場を巡拝する遍路が札所で奉納する「納め札」に記された願意には、自身や家族の健康や病気快癒を願ったものが多く見られます。遍路に限らず人間にとって病気を予防、治癒するのに効果がある薬は、最大の関心事であったことは容易に想像されます。「謹告」の後半には、「此の霊場を巡拜されるお方にて未だ此の貴重な名薬を知らず治療に悩まれている不幸な患者に御巡会の節は何卒此の薬のあることを御知らせして下さい」とあります。四国を巡拝する遍路が道中に携える必需品といえる四国遍路道中図に、自家の心臓薬の宣伝広告を掲載した効果は、広報普及や販売促進につながったものと推察されます。

 ところで、四国遍路道中図の発行にあたり、印刷・出版社間の版権の手続きや広告掲載の規定などがどうであったのか、詳細はわかっていませんが、掲載されている宣伝広告は、基本的には四国霊場や弘法大師空海に由来するものであったと考えられます。

 渡部高太郎版では、直接、弘法大師空海については言及されていませんが、その宣伝広告から、自家製の心臓薬が霊地四国に伝わる妙薬であることが強く説かれ、四国霊場に由来するものであることがわかります。

 次に、広告主の渡部高太郎はどのような人物であったのか。

 『愛媛県史 人物』(平成元年)によると、「明治44年~昭和58年(1911~1983)。県議会議員・議長、農政指導者。明治44年9月8日、周桑郡徳田村徳能(現丹原町)で生まれた。昭和4年西条中学校を卒業、家業の製薬業を継ぎ、心臓薬などを製造した。徳田村会議員になり、戦時中には周桑郡在郷軍人会連合会長などにあげられた。戦後,徳田村教育委員長を経て昭和30年4月県議会議員に当選、以来58年1月死去するまで迪続7期在職、民主党一県政クラブー自由党に所属し、39年3月~40年3月議長に就任した。自民党県連幹部の1人で、昭和55年12月~57年3月再度議長の重責を担った。32年以来、東予養蚕連合会長、道前平野土地改良区理事長・県農業協同組合中央会副会長などを歴任、43年6月~55年5月県農業協同組合中央会会長として、専門・総合農協紛争の調整,県農業基本構想の発表、日米農産物交渉の対応などで活躍した。48年藍綬褒章、56年勲三等瑞宝章を受けた。文人としても書画をたしなんだ。昭和58年1月4日、71歳で県議会議員現職のまま没した。」とあります。

 家業の製薬業を継いで心臓薬を製造した渡部高太郎は、その後、地方の政界へ進み、愛媛県の村会議員、県議会議員、県議会議長などの要職を歴任されるなど、愛媛の発展のために多大な貢献をされました。

 このように渡部高太郎版は、四国遍路道中図の広告性を考え、広告主の人物像がわかる事例として注目されます。

常設展「四国遍路」展示替えのお知らせ!

2024年4月27日

 常設展示室「四国遍路」(民俗展示室3)の展示替えを実施しましたのでお知らせします。

 今回、以下の愛媛ゆかりの四国遍路資料を展示しました。

 ・四国徧禮(へんろ)絵図 江戸時代 当館蔵

 ・四国霊場豫州太山寺全図 明治30年(1897) 当館蔵

 ・太山寺参道の遍路宿(井筒屋)関係資料 江戸~昭和時代 当館蔵

 各資料について簡単に紹介します。

 「四国徧禮(へんろ)絵図」(写真①)は、江戸時代に作成された四国遍路絵図です。遍路道は色付けされ、四国遍路のルートが示されています。発行者は伊予宇和島領颪部(おろしべ)村(愛媛県宇和島市津島町)の虎屋喜代助、彫刻は備前和気郡香登(かがと)本村(岡山県備前市)の立蔵直貫であることが、刊記からわかります。四国遍路絵図の中でも絵図の版面を作成した彫り師の名前が記載された珍しい絵図です。

写真① 四国徧禮(へんろ)絵図 江戸時代 当館蔵

 伊予国(愛媛県)の最初の札所である四国八十八箇所霊場第40番観自在寺を参詣後、遍路道は3つのルート(中道、篠山道、灘道)に分かれます。颪部村は篠山道に所在します。本図では海岸沿いの灘道が太く描かれ、中道、篠山道は細道となっています。色付けされている灘道と篠山道が推奨する道筋として示されています。

 「四国霊場豫州太山寺全図」(写真②)は、明治30年(1897)に作成された四国霊場第52番札所の太山寺(松山市太山寺町)の絵図で、広い境内とその周辺が鳥瞰図の手法で細密に描かれています。鎌倉時代に建立された本堂(国宝)や仁王門(重文)などの伽藍、長い参道、瀬戸内海に浮かぶ伊予の小富士(興居島)、近代以降に松山の海の玄関となった高浜港、伊予鉄道の「坊っちゃん列車」が走る姿などが確認できます。

写真② 四国霊場豫州太山寺全図 明治30年(1897) 当館蔵

 「太山寺参道の遍路宿(井筒屋)関係資料」は、四国霊場第52番太山寺の参道にあった遍路宿・井筒屋(写真③)に残されていた四国遍路関係資料です。

写真③ 太山寺参道にあった遍路宿(井筒屋) 当館撮影

 聞き取りでは、春になると、近隣の村や松山市沖の忽那(くつな)諸島の人が茶屋の軒先を借りて、小豆ご飯・うどん・餅・菓子・ちり紙・お賽銭などを遍路に接待したそうです。井筒屋は太山寺の檀家であり、遍路宿としても利用されました。嘉永3年(1850)に観音講で使用された漆器(膳・椀)、あんころ餅の接待で使用された菓子皿(写真④)、宿帳、客室平面略図などが残っています。井筒屋の建物は、平成27年(2015)に老朽化のため解体されました。

写真④ あんころ餅の接待で使用された菓子皿 当館蔵

 今回展示替えして加わったこれらの資料は、いずれも愛媛の四国遍路について考える上で貴重な資料です。この機会に是非、博物館でご覧ください。