八幡浜市立双岩小学校へ出前授業(平和学習)に行ってきました!

2025年9月11日

 先生との事前の打ち合わせで、戦争の経緯、戦時下の苦しい生活、愛媛の空襲と原爆の関係、身近に残る戦争遺跡についてご要望があったため、その点に重点をおいたスライドと実物資料を用意しました。米穀の配給制度に関しては、愛媛県の平均配給量(1日約240g)を持参し、全国平均(1日約350g)よりも下回っていたこと、現在の給食と比較して栄養不足だったことを伝えました。衣料の切符制度に関しては、昭和19年の衣料切符(30歳未満50点)を例に、上着(15点)、ズボン・スカート(各7点)、靴下(3点)を買ってみる体験を行いました。

 続いて、八幡浜市に県下で初めて爆弾が投下されて以降、松山・今治・宇和島では焼夷弾による大規模な空襲で多くの死者や被害がでたことを写真パネルで説明しました。持参した焼夷弾の殻を持ってもらい、重さ、形、臭いなど五感を通して空襲を想像してもらいました。次に、長崎型の模擬原爆である「パンプキン」が、新居浜・西条・宇和島に合計4発投下されたことを紹介しました。特に宇和島への投下は長崎の前日である8月8日だったことを伝えました。

 また、戦争末期には宇和盆地に陸軍の飛行場が作られ、戦後の航空写真からも水田の区画からそれが分かることを示しながら、身近なところに軍事施設があったこと、現在も残っている場合があることを伝えました。児童の中には太平洋戦争前に作られた「八幡浜第一防空壕」を知っている児童もいて、今後の調べ学習につながればと思いました。最後に防空頭巾やモンペなどの着付け体験を行い、物資不足の中でこれらにも様々な形態のものがあることを紹介しました。

 今回の出前授業が戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となり、戦争体験者と同じ時間を過ごす最後の世代として、戦争体験者から直接当時のことを聞き取り、次世代につなげる役割を担ってもらえれば幸いです。6年生の皆さん、修学旅行では大いに学びを深めてください!当館ではご要望に応じた出前授業(平和学習)を行っています。ぜひお気軽にお問い合わせください。

ヘイタイ人形を動かす児童
衣料切符を使う児童
休み時間に持参した資料に興味をもつ児童
愛媛とパンプキンの関係に関心を示す児童
鉄兜や防空頭巾をかぶる児童

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情96―岩屋寺と逼割禅定―

2025年9月1日

 四国八十八箇所霊場第45番海岸山岩屋寺(愛媛県久万高原町)は、古くから山岳霊場として知られています。伊予国出身で時宗の開祖となった一遍上人(1239~1289年)が鎌倉時代中期に当寺に参籠、修行したことは『一遍聖絵』に描かれています。

 岩屋寺はその名が示すように、境内には聳え立つ巌峰や岩洞が多くあり、四国霊場の札所の中でも唯一無二の独特な景観を誇っています。

 岩屋寺の見どころとして特に有名なのが「逼割禅定」(せりわりぜんじょう)です(写真①)。逼割禅定とは岩の狭間抜けをする行場を意味します。筆者もかつて岩屋寺参拝の折、逼割禅定を体験したことがありますが、四国遍路の中で忘れがたい思い出となっています(過去ブログ「岩屋寺―せりわり禅定―」参照)。 

写真① 逼割禅定の入口周辺(当館撮影)

 岩屋寺の逼割禅定について、四国遍路の案内記類にどのように紹介されているのか、次に見てみましょう。

 逼割禅定について記した最古の文献と見られる、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」には、「坂ノ中程ニ仙人ノセリ破リ石トテ在、昔大師此山ヲ開キ玉フ時仙人出テ、我ハ此山ノ主也、ソツジニハ難開ト云。大師聞召テ、主ナラバ奇特ヲアラワシ玉ヘト。仙人サラバトテ廿余丈ノ大磐石左右ノ手ニテカキ分テ通リ玉フ跡ナリ。其磐石ノ二ツニ分レタル所ヲ岩角ニ取付テ上ル也。扨、石ノ頂ヨリ又六七丈モ在ン所ニ廿一ノ桟子ヲカケタリ。此桟子ヲ上テ見バ鉄ニテ鋳タル厨子在。爰ニ札ヲ納ム。此頂ヨリ深山ヲ見下セバイカ程ヤランモ底不見。夫ヨリ二町斗下リテ二王門在リ。」と記されています。

 これによると、「逼割」とは仙人の「セリ破リ石」のことで、この地の山主であった仙人が巨岩を左右の手でかき分けて通行して通力(つうりき)を弘法大師に示現した痕跡と伝えています。つまり、逼割禅定は岩屋寺が弘法大師によって四国八十八箇所霊場として成立していくための重要な聖地であったと考えられます。

 岩屋寺の略縁起によると、「弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年(815)とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧(ほっけざんまい)成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。」とあります(『先達経典』四国霊場会、平成18年)。

 「四国辺路日記」にいう仙人とは土佐の法華仙人(女性)と推察されます。法華三昧とは法華経を通して悟りを開き真理に達することや法華経などを音読することを意味します。澄禅自身は2つに割れた巨岩の岩角を持って逼割を登り、さらに梯子を登り、巌峰に安置する厨子(鉄製)を参拝して納札を奉納しています。そして、巌峰から深山の眺めを楽しんだ後に岩屋寺の仁王門に到着しています。「四国辺路日記」では、逼割で岩角をつかみながら登り、鎖禅定や厨子に祀っている神仏名などは記載されていませんが、納札が奉納されている点は巡礼者が参拝する霊場として認識されていたことがわかります。

 「四国遍路道中図」が発行された昭和時代(戦前)、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「小楼門を出て右へ暫し上ると洞窟に大きな不動明王が安置せられ、その上が俗に迫割禅定と言って白山権現(はくさんごんげん)を祀る巌峰であります。鎖を攀(よ)ぢ更に二十一の梯子を昇って達します。巌頭からは長谷川の谷を臨み、眼下の無朝霧恰(あたか)も海を見るようでありましたので、大師は『山高き谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとへむ』と詠ぜられ、此れによって海岸山の名を生じたのであります。」と紹介されています。

 本書では岩の狭間抜けのみならず、鎖や梯子を用いて白山権現を祀る巌峰に到達することを「迫割禅定」と称しています。また、山号「海岸山」の由来となった、巌峰からの風景を見て弘法大師空海が詠んだとされる和歌が紹介されています。 

 岩屋寺の参拝記念土産として作成された戦前の絵葉書に「迫割禅定」の当時の様子を見ることができます。逼割禅定の入口には巨岩の割れ目に小さな屋根付きの門があり、左側の岩壁には不動明王立像が安置されています(写真②)。逼割の上には急傾斜の岩壁があり、よじ登るための鎖が2条掛けられ、さらにその上の白山権現社に至る二十一の梯子が掛けられています(写真③)。笠を被り赤子を背負って二十一の梯子を登る者や白山権現を祀る厨子の姿などが写されています(写真④⑤)。岩屋寺関係の絵葉書については別稿にまとめました(今村賢司「四国霊場第四十五番伊豫国浮穴郡海岸山岩屋寺勝景太略図をめぐって」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書第45番札所 岩屋寺 岩屋寺道』愛媛県教育委員会、令和4年)。

写真② 絵葉書「四国八十八ヶ所第四十五番霊場伊豫岩屋山」個人蔵
写真③ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺鎖禅定」個人蔵
写真④ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺/セリワリ絶頂之権現堂ト二十一ノ梯子(矢内正札屋発行)」個人蔵
写真⑤ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺白山権現二十一梯子」個人蔵

 ところで、逼割禅定の上に聳える巌峰に祀られている白山権現(白山妙理権現。本地仏は十一面観音菩薩)は、北陸地方の白山(富士山、立山とともに日本三霊山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神とされます。四国霊場と白山権現の関係は詳しく分かっていませんが、四国霊場では第23番薬王寺、第36番青龍寺、第38番金剛福寺、第44番大宝寺、第45番岩屋寺、第51番石手寺の6箇寺で白山権現が祀られ、それらは天台宗によってもたらされた可能性があり、四国における補陀落(ふだらく)信仰は白山信仰の要素が含まれていることが指摘されています(村上由実子「四国遍路と白山信仰―菅生寺の分析を中心として」『四国遍路と世界の巡礼』 7、愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和4年)。明治の神仏分離後は「権現」の神号廃止等によって、白山権現の多くは白山神社となりますが、廃仏毀釈を免れたものなのか、岩屋寺の白山権現の事例は注目されます。

 岩屋寺には白山権現のみならず、高祖権現、大那智などさまざまな神仏が祀られてきました。岩屋寺の御詠歌「大聖のいのる力のげに岩屋 石のなかにも極楽ぞある」にあるように、岩屋寺の信仰をめぐって、四国霊場の成立背景、山岳修験道や自然崇拝による磐座(いわくら)信仰との関係など、今後の研究の進展が期待されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情95―吉祥寺の成就石―

2025年8月29日

 愛媛県西条市にある四国八十八箇所霊場第63番密教山吉祥寺(みっきょうざん・きちじょうじ)は、四国八十八箇所霊場の中で唯一「毘沙門天」(同寺では「毘沙聞天」と記載)を本尊とする札所寺院です。毘沙門天は仏教における天部の仏神で、四天王の一尊で北方を守護する武神です。また、七福神の一人としても知られ、福徳を授ける神としても信仰されています。

 四国遍路道中図の特徴の一つはイラスト風に描かれた八十八箇所霊場の札所の本尊が掲載されている点です。吉祥寺の本尊毘沙門天について、四国遍路道中図の大正6年(1917)の駸々堂版と昭和13年(1938)の渡部高太郎版で確認すると、毘沙門天の特徴である火焔光背(かえんこうはい)が象徴的に描かれています(写真①②、当館蔵)。

写真① 吉祥寺と本尊毘沙門天(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)
写真② 吉祥寺と本尊毘沙門天(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 今回注目したいのは吉祥寺の見どころの一つである、境内にある成就石です(写真③)。

写真③ 成就石(当館撮影)

 成就石について、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「境内の成就石は、元黒瀬山の川にあって瀧津瀬の水に穿たれた穴石で、宝亀年中搬出されたものであります」と紹介されています。同年の『四国霊蹟写真大観』には「成就石 此穴石は幾千年の間瀧津瀬の落る水に穿たれたものにて、元黒瀬山の川にありしを宝亀年中当山に納めたもので今尚境内にあり。信者は信心を永く相続すれば必ず此穴の如く諸願成就する事を教へたもので、成就石と名づく。」と記載され、成就石の写真が掲載されています(写真④)。

写真④ 吉祥寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四國遍路』には、「境内に穴のあいた石があつて、成就石と名づけられてある。建札の説明に曰く、此穴石は幾千年の間、瀧津瀬の落る水に穿たれしものにて、元黒瀬山の川にありしを宝亀年中当山に納め、信者は信心を永く相続すれば必ず此の穴の如く諸願成就するものなり。『この穴から向ふ覗いて、向ふがよう見えんと寿命長い事おまへん、と云ひ伝へてます』『ほんまか』『ほんまや』『わテ見える、寿命なかいぞ、あんた見えるか』『ハテ見えんが』『見えん筈やが、わてが、蓋してまんが』『あほうせんでおくれ、わテびつくりしたがナ、アヽよかたつ』」と記されています。

 これらの戦前の案内記類によると、境内の説明書きに、成就石は黒瀬山の川にあったものが宝亀年中(770~781年)に当山に納められたと記されていたことがわかります。黒瀬山の川は石鎚山に源を発する加茂川(西条市)と推察されます。縁起によると吉祥寺の開基は弘仁年間(810~824年)と伝えられるため、それ以前の由来をもつ古い石と見なされます。

 四字熟語に「点滴穿石」(てんてきせんせき。訓読みで「点滴石をも穿(うが)つ」があります。一滴一滴の小さな水滴でも、同じ位置に落ち続ければ、長い年月を経ていくうちには、固い石にも穴をあけるという意味から、小さい力でも積み重なれば強大な力になることの例えとして知られています。

 吉祥寺の穴石は「点滴穿石」のように「信者は信心を永く相続すれば必ず此の穴の如く諸願成就するものなり」といわれ、いつしか「成就石」と呼ばれるようになったと推察されます。

 成就石については、江戸時代の記録を確認すると、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』に収録する吉祥寺の境内図に、真ん中に穴が開いた自然石と見られるものが描かれていることが確認できますが、本文には記載されていません。成就石が彩色で描かれた史料として確認できるものとして、天保13年(1842)に日野和煦(にこてる)が編纂した伊予西條藩の地誌「西條誌」があります(当館蔵、写真⑤)。それによると、「穴石(庭上にあり、竪三尺三寸、横四尺、もと瀧壺にありて水に打れ、自然と穴あきたる也と云)」と記載され、当初は滝壺にあったもので、江戸時代後期には「穴石」と呼ばれていました。滝壺にあった珍しい「穴石」は、四国霊場の境内に安置されて、諸願成就の「成就石」へと変容したことがわかります。

写真⑤ 穴石と鉦鼓石(「西條誌」、天保13年、当館蔵)

 さらに注目したいのは、遍路と成就石との関係です。前述の宮尾しげを『画と文 四國遍路』からは、穴を覗いて寿命を占う遍路の姿が読み取れ、新たに迷信的な要素も加わています。

 昭和63年(1988)の平幡良雄『四国八十八ヵ所(下)』には、「ご本尊に参拝すると、遍路はかならず目をつぶり、願いごとを念じながら、金剛杖を下段にかまえて本堂前にある『成就石』に向かって歩き出す。そして石の穴に金剛杖が通れば願いごとが成就するのである。この大石は石鎚山系の滝つぼにあった緑泥片岩で穴は直径四十㌢あまり、いつのころか境内におかれ、毘沙聞天の信仰と合わせて、数かぎりない金剛杖のお相手をしてきたのである。」と紹介されています。筆者もかつて四国遍路で吉祥寺に立ち寄った際に、目をつぶって金剛杖を成就石の穴の中に通そうとしましたが難しかったことを記憶しています。

 現在、四国霊場会の公式ホームページや『先達経典』(四国八十八ヶ所箇所霊場会、平成18年)によると、吉祥寺の見どころ紹介で「成就石=本堂の手前にある高さ一メートルほどの石で、中央下に径三〇~四〇センチの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという」と記載されています。金剛杖は巡礼において手に持つ杖で、四国遍路では弘法大師そのものと信仰されています。

 四国霊場の札所には本堂と大師堂以外にも様々な信仰と結びついた多くの見どころがあります。吉祥寺の成就石のように、時代と共にいろんな要素が加わり、遍路に受容されてきた見どころも、特色ある札所の歴史の一端を示したものといえます。

実習生のみなさん、お疲れ様でした!

2025年8月24日

 今月19日(火)から始まった博物館実習もいよいよ後半戦に入り、22日(金)の午前中は四国中央市の中学校から寄贈された考古資料の整理を行い、全国各地の遺跡で収集された多種多様な遺物を採寸して記録しました。午後からは豪雨などにより歴史資料が被災を受けることが多いなかで、水損資料のレスキューを学びました。

 23日(土)の午前中は民俗展示室で展示替えに挑戦し、「弁当箱」や「わっぱ」などを資料の特徴に応じて工夫しながら展示しました。午後からは特別展「渡辺おさむスイーツアート」のワークショップ「ビスケットデコレーションをつくろう」の補助を行いました。最終日の24日(日)は午前中に考古資料の整理を行い、土器や貝殻などを洗浄して土やほこりを取り除きました。午後からは昨日に続きワークショップの補助を行いました。参加者目線での対応や声掛けもできるようになりました。

 実習生の3名の皆さん、6日間にわたる博物館実習お疲れさまでした。歴史・民俗・考古資料の整理、学校との連携、ワークショップなど様々な実習を経験してもらいました。学芸員の採用は決して多いとは言えませんが、今回の実習を通じて博物館の応援団となってもらえれば幸いです。それぞれの夢に向かって頑張って下さい!

水損資料レスキューの実習
民俗展示室の展示替え
考古資料の実習
ワークショップの補助

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情94―智証大師と乃木将軍ゆかりの金倉寺

2025年8月22日

 香川県善通寺市にある四国八十八ヶ所箇所霊場の第76番鶏足山金倉寺(けいそくざん・こんぞうじ)は、平安時代の僧で空海の甥にあたる智証大師(ちしょうだいし)の御誕生所として名高く、また、明治期の軍人・乃木希典(のぎ・まれすけ)が寓居した寺院として知られています。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で金倉寺を確認すると、四国の上陸港である丸亀、多度津の両港、弘法大師の誕生所とされる第75番善通寺、金毘羅参詣の金刀比羅宮などの著名寺社の近郊に位置します。最寄り駅は省線「金倉寺」駅(JR四国の土讃線「金蔵寺」駅)で、寺名が駅名となっています(写真①)。本図には記載されていませんが、琴平参宮電鉄丸亀線にも金蔵寺駅が設置され(昭和38年廃止)、交通の便が良い札所といえます。

写真① 金倉寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 智証大師(円珍。814~891年)は比叡山延暦寺第5代座主(ざす)で、長等山園城寺(三井寺、滋賀県大津市)を総本山とする天台寺門宗(てんだいじもんしゅう。寺門派)の宗祖です。そのため金倉寺は四国八十八箇所霊場の中では数少ない天台寺門宗の札所寺院です。縁起によると、宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、一堂を建立したことに始まり、当時は「道善寺」と号しました。唐より帰国した智証大師は道善寺に滞在して、唐の青龍寺(せいりゅうじ)を模範に伽藍を造営、本尊の薬師如来を彫像して安置、また、訶利帝母(かりていも)神像を刻んで訶利帝堂を建立しました。延長6年(928)、醍醐天皇の勅により、地名の「金倉郷」から「金倉寺」に改めたと伝えられます。訶梨帝母神像は「鬼子母神」(きしもじん)とも呼ばれ、安産や子育ての守護神として古くから信仰されています。 

 こうした金倉寺の歴史に近代以降、新たな見どころが加わります。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「乃木将軍善通寺第十一師団長在任の時は当寺にいられましたので、将軍の銅像や、将軍妻返しの松等があります」と記されているように、乃木将軍ゆかりの札所として案内記類に紹介されるようになります。同年の『四国霊蹟写真大観』には境内の名所として「将軍妻返しの松」が写真で掲載されています(写真②)。

写真② 第76番金倉寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 乃木希典は日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順を攻略、日露戦争における旅順攻囲戦を第3軍司令官として指揮したことで知られ、人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛されます。日露戦争後、学習院院長となり、昭和天皇(当時は皇太子)の教育係を務めました。明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日に妻・静子と共に殉死したことは日本中に衝撃を与えました(写真③)。

写真③ 殉死した乃木将軍夫妻(絵葉書「故乃木将軍記念(甲種)」個人蔵)

 乃木将軍「妻返しの松」について、昭和39年(1964)の西端さかえ著『四国八十八札所遍路記』によると、「本堂に進む途中に『乃木将軍妻返しの松』と立札のある松がある。明治三十一年善通寺に第十一師団が創設され、最初の師団長として着任したのが乃木将軍であった。この寺の客殿に仮寓していたが、その年の大晦日の夕暮れ、静子夫人が東京から突然たずねてきた。別当が取次ぐと将軍は許しもえないで来たことに立腹し『帰れ』といってあわない。夫人は思案にくれて、いつまでも身をもたせていた松がこの松であった。(中略)住職はふたたび会われることをすすめ、翌元旦に副官が夫人を迎えにいって将軍にお会わせした。夫人は、二人の子息の家庭教師の人選について相談に来られたのであった。将軍は客殿の四室をつかい、別に馬四頭も飼っていた。善通寺に四年間いられたが、朝夕の食事代は二十銭であった。(中略)大師堂の南側に、大正十年に建立した乃木将軍の和服姿の銅像もある。その前の左右に戦前の教科書にあった一太郎親子が植えた松が、美しい緑を伸していた。」と紹介されています。

 一太郎親子とは、国定教科書「尋常小学国語読本」に掲載された「一太郎やあい」の主人公です。明治37年(1904)、日露戦争で多度津港から出征する息子の岡田梶太郎(通称一太郎)を見送りに来た母カメが、船がすでに岸から離れていたので大声で「一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ、天子様ニ克ク御奉公スルダヨ」と叫んで激励したという愛国美談は、国民に知れ渡りました。

 金倉寺には乃木将軍の部屋(客殿)や遺品が残されています。香川県善通寺町(善通寺市)に大日本帝国陸軍の第11師団が創設されたことから、乃木将軍の宿舎となった金倉寺は四国霊場の札所の中でも日露戦争と関係の深い札所寺院として注目されます。

博物館実習、頑張ってます!

2025年8月21日

 現在、博物館では3名の大学生が博物館実習を行っています。19日(火)は施設の概要説明が中心でしたが、20日(水)から本格的な資料整理実習が始まりました。午前中は歴史資料の取り扱い方について学びました。教科書にも掲載されている「蒙古襲来絵詞」(複製)などを使い、巻物や軸物について史料の開き方、掛け方、閉じ方に挑戦しました。大学の講義では学んだものの実際に資料を扱った経験はない学生もいて、学芸員らしい経験ができたと感想を述べてくれました。午後からは博物館ボランティアの方たちと民俗資料の整理を行いました。着物などの古着を採寸して記録したり、焼き物の破片に注記して撮影したり、資料の性格に沿った整理を学びました。

 21日(木)は「教員のための博物館の日」が開催されました。午前は配布資料をまとめたり、学校への貸し出しキットである「れきハコ」を会場に並べたりしました。午後からは受付係や記録係を担当するとともに、一緒に博物館と学校の連携について学びました。博物館法においても、学習指導要領においても相互の連携がうたわれており、博物館の教育普及活動は今後益々重要になるものと思われます。学校が博物館に何を期待しているのか、博物館は学校に何ができるのか、先生方との交流を通じて職員も実習生もあらためて考える機会になりました。博物館実習もいよいよ明日から後半戦です。実習生の皆さん、頑張って下さい!

歴史資料実習
民俗資料実習
「教員のための博物館の日」準備

博物館実習が始まりました!

2025年8月19日

 8月19日(火)~24日(日)の日程で今年度の博物館実習が始まりました。今年は3名の大学生から申し込みがありました。19日から6日間にわたり、歴史・民俗・考古の資料整理実習、博物館と学校の連携、ワークショップなど、博物館の現場で実習や体験を行います。

 学芸員資格を取得するためには、文化庁が行う認定試験もありますが、大学で博物館法施行規則が定める博物館に関する科目の単位を取得するのが一般的です。具体的には、生涯学習概論、博物館概論、博物館経営論、博物館資料論、博物館資料保存論、博物館展示論、博物館教育論、博物館情報・メディア論を各2単位、博物館実習を3単位、合計19単位です。博物館にとって将来の学芸員を養成することも大切な使命であり、当館では例年この時期に博物館実習を実施しています。

 初日は博物館の概要説明、展示室・収蔵庫ゾーンの施設見学、指定管理者による事業説明、土・日に行うワークショップの事前研修を行いました。午前中は実習生も緊張気味でしたが、午後からは少しずつ馴染んできたようです。施設の概要説明では質問が出るなど、積極性も感じられました。明日からは資料を使った本格的な実習が始まります。残暑の厳しい折柄、体調に気を付けて、学芸員としての基礎を学んでいただければと思います。

考古収蔵庫で学芸員から説明をうける実習生
保存処理室で学芸員から説明をうける実習生

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情93―戦争と四国遍路③ 戦争がもたらす悲劇

2025年8月16日

 政治思想家の橋本徹馬(はしもと・てつま)が昭和25年(1950)に発行した『四国遍路記』は、戦時中の昭和16年(1941)に行った四国遍路の日記です。そのはしがきに「無理な戦争の為めに、祖国が地獄道を驀進して行く惨状を眺めながら、最早施す手段も尽きて、悲痛な気持に浸りながら遂行した遍路の日記であるから、その心して読まれたい。(中略)誤れる戦争に伴ふ悲劇の深刻なるを知るべしである。」とあるように、本書は普通の案内記類とは性格が異なり、誤った戦争によって日本が悪い状況に突き進むなかで、悲痛な気持ちで四国遍路を行った時の記録であり、戦争によって生じた悲劇の深刻さについて言及されています。

 一例として、四国八十八箇所霊場第45番岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に向かう道中の記事「戦死者の墓前にて」を紹介します。

 「岩屋橋を渡つて行くと、幾丁もの間一軒の人家もない野中の道である。ふと見れば右手の小高い岡に戦死者の墓がある。僕は其岡の上に昇り、墓の前にひざまづいて稍暫らく黙祷した。『…君は今度の支那事変で戦死されたか…多くの人々は軍人の出征に出逢ふ毎に、万歳々々と叫んで送るが、僕はいつも静かに黙祷して、諸君のうちの只一人も戦死をせぬうちに、僕が最善の努力をして、平和を来たしますよと心に誓つた…然るに其誓ひが空しく、今は日米戦争の危機さへ迫り、其上僕自ら憲兵隊の憎む所となつて、郷里に隠退を命ぜられ、最早時局収拾の途もなくなつて終ふた。そうして君のような壮丁が、あとからあとから続々と戦死をして行く…君には親もあつたであらう。最愛の妻もあつたであらう。或は一人か二人の子供もあつたか。それらの者達が君の無事帰郷を祈つた甲斐もなく、君は戦死をし、遺骨となつて帰つて来た。君の不幸は云ふまでもないが、更に君の親は、君の妻は、君の子は、君の死によつて生涯の不幸を味はねばならぬのである…君よ許せ…君を戦死せしめた僕の微力を許せ…』 涙がとめどもなく頬をつとふた。犬の子一匹通らぬ淋しい道に再びもどつて、人家のある所にたどりつき、そこから余り遠からぬ岩屋寺に達した。」

 この記事からは、四国山脈の山深い場所に位置する岩屋寺の麓の小さな村においても、戦争の影響で出征兵士の尊い命と家族の日常生活が奪われ、地域社会に深い傷跡を残していること、英霊に哀悼をもって黙祷を捧げたこと、なおも戦争を止めることができない自身の非力さを懺悔していることなどが読み取れ、戦争がもたらす悲劇が語られています。

 舞台となった岩屋寺麓の岩屋橋周辺の景観は、岩屋寺参拝記念絵葉書の中に収録されています(写真①②)。橋本が渡った直瀬川に架けられた岩屋橋は、欄干が竹で作られていました。当時、久万から岩屋橋近くの竹谷までは乗合自動車が運行されていました(約1時間、90銭)。

写真① 岩屋橋(絵葉書「四国霊場第四十五番 伊予岩屋寺麓 岩屋橋」)個人蔵
写真② 岩屋寺麓の村(絵葉書「四国霊場伊予岩屋寺」)個人蔵

 橋本徹馬は本書の「著者略歴」等によると、明治23年(1890)に愛媛県西条市生まれ。明治40年(1907)に早稲田大学政治経済科に入学、中退後に大隈重信らの後援を得て立憲青年党を結成し、雑誌「世界之日本」を発行。大正13年(1924)に思想団体「紫雲荘」を設立。昭和7年(1932)に軍部が強行する電力国営に反対。昭和12年(1937)に発生した支那事変(日中戦争)の速やかな解決に努力します。昭和15年(1940)に日独伊三国同盟の締結後に、急速に硬化していく米英との関係改善に努めますが、翌16年(1941)年、東京憲兵隊に拘束されます。その後、米英大使館への出入り禁止、「紫雲荘」の解散、郷里の愛媛県に隠退すること等の条件で釈放された橋本は、郷里に戻って四国遍路を行って本書を著します。戦後、紫雲荘を再建して政治機関紙「紫雲」を発表、その一方で僧侶となり、昭和46年(1971)には埼玉県秩父市に紫雲山地蔵寺を創建して、「水子供養」運動を提唱し全国に運動を広めました。平成2年(1990)没。

 戦前の橋本の経歴を見ると、政治思想家として日中戦争の早期解決や対米開戦の回避などを目標に活動を行っていたことが垣間見えます。そうした観点から前述の記事「戦死者の墓前にて」を振り返ると、戦争の悲劇さについて心情を吐露したものと推察されます。 

 ジャーナリスト、政治家、教育者で後に第55代の内閣総理大臣となった石橋湛山(いしばしたんざん。1884~1973年)は昭和25年に「四国遍路記推薦の辞」と題して、次のように本書を推薦しています。

 「この遍路記が、単なる旅行家の旅行記でないことである。著者橋本君は太平洋戦争中、祖国に献身せんとして、行動の自由を奪われた。著者の憂国の至誠はここに遍路の形をとり、国家生民の幸福のため、熱き祈願の旅を続けしめた」。

 戦前の四国遍路では戦争の影響によって、出征兵士の武運長久や英霊の冥福を願う遍路の姿が見られる中で、橋本徹馬のように行動の自由が制限され、郷里で遍路の身となり、戦争がもたらす悲劇を痛感しながら、国家と国民の幸福を願って四国霊場巡拝を行なったという事例は注目に値します。今後も戦争が四国遍路に及ぼした影響について調べてみたいと思います。

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介④

2025年8月15日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、アメリカ軍が撮影した宇和島市の空襲前後の写真を紹介します。昭和19(1944)年7~8月にサイパン・グアム・テニアン島が陥落すると、B29の基地としてサイパン島に73航空団、テニアン島に58・314航空団、グアム島に313・314航空団が置かれ、日本を空襲しました。宇和島市も翌年5月10日、7月12日、7月29日に大きな空襲を受けました。

 宇和島市における最初の空襲は昭和20年5月10日でした。岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布(岩国)製油所を第1目標とした314航空団の132機の1機が、午前9時に臨機目標とした宇和島市に250㎏爆弾を5t投下しました。これによって朝日町などが被害をうけ、119名が亡くなりました。写真①は7月2日にアメリカ軍が撮影した写真です。5月10日の被害が一直線上に確認できます。しかし、まだ宇和島城を中心とする市街地の多くは被害をうけずに残っていることがわかります。

 7月12日、宇和島を第1目標とした314航空団の124機が、午後11時13分~午前1時26分にかけて50㎏焼夷弾を393t、250㎏収束焼夷弾を479t投下しました。この空襲で36名が亡くなりました。続いて、7月29日、またも宇和島を第1目標とした314航空団の29機が、午前0時16分~同1時25分にかけて50㎏焼夷弾を90t、250㎏収束焼夷弾を115t投下しました。この空襲で86名が亡くなりました。

 写真②は8月8日にアメリカ軍が撮影した写真です。7月12、29日の空襲によって市街地の南部を除く多くが焼失したことが分かります。アメリカ軍は6月17~18日にかけて鹿児島・大牟田・浜松・四日市の4都市を空襲し、以後8月15日まで20回にわたり57の中小都市を空襲しましたが、宇和島のように2回も空襲をうけたのは大牟田、一ノ宮、宇和島の3都市に過ぎません。写真①と②は僅か1ケ月の間に空襲によって宇和島の街が焦土と化した状況を表しています。

 今回4回にわたってテーマ展の資料を紹介しましたが、戦後80年にあたり戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となれば幸いです。テーマ展は今月末まで開催しています。ぜひ、ご来館ください。

写真① 昭和20年7月2日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)
写真② 昭和20年8月8日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介③

2025年8月14日

 1枚目の写真は出征する兵士の家の前の様子を写したものです。軒近くには多くの日章旗が飾られ、多くの幟が立っています。幟には日章旗や旭日旗のデザインに「祝 出征 (個人名)君」と書かれています。拡大して見ると、旭日旗の中央に桜花や金鵄勲章(武功をたてた者に与えられる勲章)をデザインした幟もあったようです。「入営」(陸軍として軍隊に入ること)、「入団」(海軍として軍隊に入ること)、「出征」(召集されて戦地におもむくこと)は「祝い事」であり、地域をあげて兵士を送り出しました。

 2枚目の写真は三津浜駅(松山市)で汽車に乗り込んだ兵士を写したものです。よく見ると兵士の軍服には下士官の肩章が付いています。昭和12年に日中戦争が起こったため、予備役にも臨時召集令状が届いたのでしょう。11師団の善通寺へ向けて出発する際の写真ですが、見送る人々の表情に笑顔は見らません。「バンザイ」を唱えて見送る写真はよく残されていますが、この写真は出発間際に別れを惜しむ人々の様子をとらえたものとして貴重です。

 3枚目の写真は兵士を乗せた汽車が三津浜駅を出発後も、日章旗や幟をもって見送り続ける人々の様子を写したものです。汽車は写真右下の隅に見えます。出発した汽車は勢いよく煙をはきながら駅から遠ざかっていきますが、ホームには見送りの人々がまだ残っています。恐らく汽車が見えなくなるまで見送ったのでしょう。これらの3枚の写真からは、出征風景を知るだけでなく、見送る側と見送られる側の気持ちが伝わってきます。このような光景が二度と繰り返されないように、歴史の教訓を学ぶ80年となれば幸いです。

1枚目 出征兵士の家
2枚目 三津浜駅での惜別
3枚目 見送り続ける人々