実習生のみなさん、お疲れ様でした!

2025年8月24日

 今月19日(火)から始まった博物館実習もいよいよ後半戦に入り、22日(金)の午前中は四国中央市の中学校から寄贈された考古資料の整理を行い、全国各地の遺跡で収集された多種多様な遺物を採寸して記録しました。午後からは豪雨などにより歴史資料が被災を受けることが多いなかで、水損資料のレスキューを学びました。

 23日(土)の午前中は民俗展示室で展示替えに挑戦し、「弁当箱」や「わっぱ」などを資料の特徴に応じて工夫しながら展示しました。午後からは特別展「渡辺おさむスイーツアート」のワークショップ「ビスケットデコレーションをつくろう」の補助を行いました。最終日の24日(日)は午前中に考古資料の整理を行い、土器や貝殻などを洗浄して土やほこりを取り除きました。午後からは昨日に続きワークショップの補助を行いました。参加者目線での対応や声掛けもできるようになりました。

 実習生の3名の皆さん、6日間にわたる博物館実習お疲れさまでした。歴史・民俗・考古資料の整理、学校との連携、ワークショップなど様々な実習を経験してもらいました。学芸員の採用は決して多いとは言えませんが、今回の実習を通じて博物館の応援団となってもらえれば幸いです。それぞれの夢に向かって頑張って下さい!

水損資料レスキューの実習
民俗展示室の展示替え
考古資料の実習
ワークショップの補助

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情94―智証大師と乃木将軍ゆかりの金倉寺

2025年8月22日

 香川県善通寺市にある四国八十八ヶ所箇所霊場の第76番鶏足山金倉寺(けいそくざん・こんぞうじ)は、平安時代の僧で空海の甥にあたる智証大師(ちしょうだいし)の御誕生所として名高く、また、明治期の軍人・乃木希典(のぎ・まれすけ)が寓居した寺院として知られています。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で金倉寺を確認すると、四国の上陸港である丸亀、多度津の両港、弘法大師の誕生所とされる第75番善通寺、金毘羅参詣の金刀比羅宮などの著名寺社の近郊に位置します。最寄り駅は省線「金倉寺」駅(JR四国の土讃線「金蔵寺」駅)で、寺名が駅名となっています(写真①)。本図には記載されていませんが、琴平参宮電鉄丸亀線にも金蔵寺駅が設置され(昭和38年廃止)、交通の便が良い札所といえます。

写真① 金倉寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 智証大師(円珍。814~891年)は比叡山延暦寺第5代座主(ざす)で、長等山園城寺(三井寺、滋賀県大津市)を総本山とする天台寺門宗(てんだいじもんしゅう。寺門派)の宗祖です。そのため金倉寺は四国八十八箇所霊場の中では数少ない天台寺門宗の札所寺院です。縁起によると、宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、一堂を建立したことに始まり、当時は「道善寺」と号しました。唐より帰国した智証大師は道善寺に滞在して、唐の青龍寺(せいりゅうじ)を模範に伽藍を造営、本尊の薬師如来を彫像して安置、また、訶利帝母(かりていも)神像を刻んで訶利帝堂を建立しました。延長6年(928)、醍醐天皇の勅により、地名の「金倉郷」から「金倉寺」に改めたと伝えられます。訶梨帝母神像は「鬼子母神」(きしもじん)とも呼ばれ、安産や子育ての守護神として古くから信仰されています。 

 こうした金倉寺の歴史に近代以降、新たな見どころが加わります。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「乃木将軍善通寺第十一師団長在任の時は当寺にいられましたので、将軍の銅像や、将軍妻返しの松等があります」と記されているように、乃木将軍ゆかりの札所として案内記類に紹介されるようになります。同年の『四国霊蹟写真大観』には境内の名所として「将軍妻返しの松」が写真で掲載されています(写真②)。

写真② 第76番金倉寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 乃木希典は日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順を攻略、日露戦争における旅順攻囲戦を第3軍司令官として指揮したことで知られ、人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛されます。日露戦争後、学習院院長となり、昭和天皇(当時は皇太子)の教育係を務めました。明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日に妻・静子と共に殉死したことは日本中に衝撃を与えました(写真③)。

写真③ 殉死した乃木将軍夫妻(絵葉書「故乃木将軍記念(甲種)」個人蔵)

 乃木将軍「妻返しの松」について、昭和39年(1964)の西端さかえ著『四国八十八札所遍路記』によると、「本堂に進む途中に『乃木将軍妻返しの松』と立札のある松がある。明治三十一年善通寺に第十一師団が創設され、最初の師団長として着任したのが乃木将軍であった。この寺の客殿に仮寓していたが、その年の大晦日の夕暮れ、静子夫人が東京から突然たずねてきた。別当が取次ぐと将軍は許しもえないで来たことに立腹し『帰れ』といってあわない。夫人は思案にくれて、いつまでも身をもたせていた松がこの松であった。(中略)住職はふたたび会われることをすすめ、翌元旦に副官が夫人を迎えにいって将軍にお会わせした。夫人は、二人の子息の家庭教師の人選について相談に来られたのであった。将軍は客殿の四室をつかい、別に馬四頭も飼っていた。善通寺に四年間いられたが、朝夕の食事代は二十銭であった。(中略)大師堂の南側に、大正十年に建立した乃木将軍の和服姿の銅像もある。その前の左右に戦前の教科書にあった一太郎親子が植えた松が、美しい緑を伸していた。」と紹介されています。

 一太郎親子とは、国定教科書「尋常小学国語読本」に掲載された「一太郎やあい」の主人公です。明治37年(1904)、日露戦争で多度津港から出征する息子の岡田梶太郎(通称一太郎)を見送りに来た母カメが、船がすでに岸から離れていたので大声で「一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ、天子様ニ克ク御奉公スルダヨ」と叫んで激励したという愛国美談は、国民に知れ渡りました。

 金倉寺には乃木将軍の部屋(客殿)や遺品が残されています。香川県善通寺町(善通寺市)に大日本帝国陸軍の第11師団が創設されたことから、乃木将軍の宿舎となった金倉寺は四国霊場の札所の中でも日露戦争と関係の深い札所寺院として注目されます。

博物館実習、頑張ってます!

2025年8月21日

 現在、博物館では3名の大学生が博物館実習を行っています。19日(火)は施設の概要説明が中心でしたが、20日(水)から本格的な資料整理実習が始まりました。午前中は歴史資料の取り扱い方について学びました。教科書にも掲載されている「蒙古襲来絵詞」(複製)などを使い、巻物や軸物について史料の開き方、掛け方、閉じ方に挑戦しました。大学の講義では学んだものの実際に資料を扱った経験はない学生もいて、学芸員らしい経験ができたと感想を述べてくれました。午後からは博物館ボランティアの方たちと民俗資料の整理を行いました。着物などの古着を採寸して記録したり、焼き物の破片に注記して撮影したり、資料の性格に沿った整理を学びました。

 21日(木)は「教員のための博物館の日」が開催されました。午前は配布資料をまとめたり、学校への貸し出しキットである「れきハコ」を会場に並べたりしました。午後からは受付係や記録係を担当するとともに、一緒に博物館と学校の連携について学びました。博物館法においても、学習指導要領においても相互の連携がうたわれており、博物館の教育普及活動は今後益々重要になるものと思われます。学校が博物館に何を期待しているのか、博物館は学校に何ができるのか、先生方との交流を通じて職員も実習生もあらためて考える機会になりました。博物館実習もいよいよ明日から後半戦です。実習生の皆さん、頑張って下さい!

歴史資料実習
民俗資料実習
「教員のための博物館の日」準備

博物館実習が始まりました!

2025年8月19日

 8月19日(火)~24日(日)の日程で今年度の博物館実習が始まりました。今年は3名の大学生から申し込みがありました。19日から6日間にわたり、歴史・民俗・考古の資料整理実習、博物館と学校の連携、ワークショップなど、博物館の現場で実習や体験を行います。

 学芸員資格を取得するためには、文化庁が行う認定試験もありますが、大学で博物館法施行規則が定める博物館に関する科目の単位を取得するのが一般的です。具体的には、生涯学習概論、博物館概論、博物館経営論、博物館資料論、博物館資料保存論、博物館展示論、博物館教育論、博物館情報・メディア論を各2単位、博物館実習を3単位、合計19単位です。博物館にとって将来の学芸員を養成することも大切な使命であり、当館では例年この時期に博物館実習を実施しています。

 初日は博物館の概要説明、展示室・収蔵庫ゾーンの施設見学、指定管理者による事業説明、土・日に行うワークショップの事前研修を行いました。午前中は実習生も緊張気味でしたが、午後からは少しずつ馴染んできたようです。施設の概要説明では質問が出るなど、積極性も感じられました。明日からは資料を使った本格的な実習が始まります。残暑の厳しい折柄、体調に気を付けて、学芸員としての基礎を学んでいただければと思います。

考古収蔵庫で学芸員から説明をうける実習生
保存処理室で学芸員から説明をうける実習生

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情93―戦争と四国遍路③ 戦争がもたらす悲劇

2025年8月16日

 政治思想家の橋本徹馬(はしもと・てつま)が昭和25年(1950)に発行した『四国遍路記』は、戦時中の昭和16年(1941)に行った四国遍路の日記です。そのはしがきに「無理な戦争の為めに、祖国が地獄道を驀進して行く惨状を眺めながら、最早施す手段も尽きて、悲痛な気持に浸りながら遂行した遍路の日記であるから、その心して読まれたい。(中略)誤れる戦争に伴ふ悲劇の深刻なるを知るべしである。」とあるように、本書は普通の案内記類とは性格が異なり、誤った戦争によって日本が悪い状況に突き進むなかで、悲痛な気持ちで四国遍路を行った時の記録であり、戦争によって生じた悲劇の深刻さについて言及されています。

 一例として、四国八十八箇所霊場第45番岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に向かう道中の記事「戦死者の墓前にて」を紹介します。

 「岩屋橋を渡つて行くと、幾丁もの間一軒の人家もない野中の道である。ふと見れば右手の小高い岡に戦死者の墓がある。僕は其岡の上に昇り、墓の前にひざまづいて稍暫らく黙祷した。『…君は今度の支那事変で戦死されたか…多くの人々は軍人の出征に出逢ふ毎に、万歳々々と叫んで送るが、僕はいつも静かに黙祷して、諸君のうちの只一人も戦死をせぬうちに、僕が最善の努力をして、平和を来たしますよと心に誓つた…然るに其誓ひが空しく、今は日米戦争の危機さへ迫り、其上僕自ら憲兵隊の憎む所となつて、郷里に隠退を命ぜられ、最早時局収拾の途もなくなつて終ふた。そうして君のような壮丁が、あとからあとから続々と戦死をして行く…君には親もあつたであらう。最愛の妻もあつたであらう。或は一人か二人の子供もあつたか。それらの者達が君の無事帰郷を祈つた甲斐もなく、君は戦死をし、遺骨となつて帰つて来た。君の不幸は云ふまでもないが、更に君の親は、君の妻は、君の子は、君の死によつて生涯の不幸を味はねばならぬのである…君よ許せ…君を戦死せしめた僕の微力を許せ…』 涙がとめどもなく頬をつとふた。犬の子一匹通らぬ淋しい道に再びもどつて、人家のある所にたどりつき、そこから余り遠からぬ岩屋寺に達した。」

 この記事からは、四国山脈の山深い場所に位置する岩屋寺の麓の小さな村においても、戦争の影響で出征兵士の尊い命と家族の日常生活が奪われ、地域社会に深い傷跡を残していること、英霊に哀悼をもって黙祷を捧げたこと、なおも戦争を止めることができない自身の非力さを懺悔していることなどが読み取れ、戦争がもたらす悲劇が語られています。

 舞台となった岩屋寺麓の岩屋橋周辺の景観は、岩屋寺参拝記念絵葉書の中に収録されています(写真①②)。橋本が渡った直瀬川に架けられた岩屋橋は、欄干が竹で作られていました。当時、久万から岩屋橋近くの竹谷までは乗合自動車が運行されていました(約1時間、90銭)。

写真① 岩屋橋(絵葉書「四国霊場第四十五番 伊予岩屋寺麓 岩屋橋」)個人蔵
写真② 岩屋寺麓の村(絵葉書「四国霊場伊予岩屋寺」)個人蔵

 橋本徹馬は本書の「著者略歴」等によると、明治23年(1890)に愛媛県西条市生まれ。明治40年(1907)に早稲田大学政治経済科に入学、中退後に大隈重信らの後援を得て立憲青年党を結成し、雑誌「世界之日本」を発行。大正13年(1924)に思想団体「紫雲荘」を設立。昭和7年(1932)に軍部が強行する電力国営に反対。昭和12年(1937)に発生した支那事変(日中戦争)の速やかな解決に努力します。昭和15年(1940)に日独伊三国同盟の締結後に、急速に硬化していく米英との関係改善に努めますが、翌16年(1941)年、東京憲兵隊に拘束されます。その後、米英大使館への出入り禁止、「紫雲荘」の解散、郷里の愛媛県に隠退すること等の条件で釈放された橋本は、郷里に戻って四国遍路を行って本書を著します。戦後、紫雲荘を再建して政治機関紙「紫雲」を発表、その一方で僧侶となり、昭和46年(1971)には埼玉県秩父市に紫雲山地蔵寺を創建して、「水子供養」運動を提唱し全国に運動を広めました。平成2年(1990)没。

 戦前の橋本の経歴を見ると、政治思想家として日中戦争の早期解決や対米開戦の回避などを目標に活動を行っていたことが垣間見えます。そうした観点から前述の記事「戦死者の墓前にて」を振り返ると、戦争の悲劇さについて心情を吐露したものと推察されます。 

 ジャーナリスト、政治家、教育者で後に第55代の内閣総理大臣となった石橋湛山(いしばしたんざん。1884~1973年)は昭和25年に「四国遍路記推薦の辞」と題して、次のように本書を推薦しています。

 「この遍路記が、単なる旅行家の旅行記でないことである。著者橋本君は太平洋戦争中、祖国に献身せんとして、行動の自由を奪われた。著者の憂国の至誠はここに遍路の形をとり、国家生民の幸福のため、熱き祈願の旅を続けしめた」。

 戦前の四国遍路では戦争の影響によって、出征兵士の武運長久や英霊の冥福を願う遍路の姿が見られる中で、橋本徹馬のように行動の自由が制限され、郷里で遍路の身となり、戦争がもたらす悲劇を痛感しながら、国家と国民の幸福を願って四国霊場巡拝を行なったという事例は注目に値します。今後も戦争が四国遍路に及ぼした影響について調べてみたいと思います。

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介④

2025年8月15日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、アメリカ軍が撮影した宇和島市の空襲前後の写真を紹介します。昭和19(1944)年7~8月にサイパン・グアム・テニアン島が陥落すると、B29の基地としてサイパン島に73航空団、テニアン島に58・314航空団、グアム島に313・314航空団が置かれ、日本を空襲しました。宇和島市も翌年5月10日、7月12日、7月29日に大きな空襲を受けました。

 宇和島市における最初の空襲は昭和20年5月10日でした。岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布(岩国)製油所を第1目標とした314航空団の132機の1機が、午前9時に臨機目標とした宇和島市に250㎏爆弾を5t投下しました。これによって朝日町などが被害をうけ、119名が亡くなりました。写真①は7月2日にアメリカ軍が撮影した写真です。5月10日の被害が一直線上に確認できます。しかし、まだ宇和島城を中心とする市街地の多くは被害をうけずに残っていることがわかります。

 7月12日、宇和島を第1目標とした314航空団の124機が、午後11時13分~午前1時26分にかけて50㎏焼夷弾を393t、250㎏収束焼夷弾を479t投下しました。この空襲で36名が亡くなりました。続いて、7月29日、またも宇和島を第1目標とした314航空団の29機が、午前0時16分~同1時25分にかけて50㎏焼夷弾を90t、250㎏収束焼夷弾を115t投下しました。この空襲で86名が亡くなりました。

 写真②は8月8日にアメリカ軍が撮影した写真です。7月12、29日の空襲によって市街地の南部を除く多くが焼失したことが分かります。アメリカ軍は6月17~18日にかけて鹿児島・大牟田・浜松・四日市の4都市を空襲し、以後8月15日まで20回にわたり57の中小都市を空襲しましたが、宇和島のように2回も空襲をうけたのは大牟田、一ノ宮、宇和島の3都市に過ぎません。写真①と②は僅か1ケ月の間に空襲によって宇和島の街が焦土と化した状況を表しています。

 今回4回にわたってテーマ展の資料を紹介しましたが、戦後80年にあたり戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となれば幸いです。テーマ展は今月末まで開催しています。ぜひ、ご来館ください。

写真① 昭和20年7月2日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)
写真② 昭和20年8月8日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介③

2025年8月14日

 1枚目の写真は出征する兵士の家の前の様子を写したものです。軒近くには多くの日章旗が飾られ、多くの幟が立っています。幟には日章旗や旭日旗のデザインに「祝 出征 (個人名)君」と書かれています。拡大して見ると、旭日旗の中央に桜花や金鵄勲章(武功をたてた者に与えられる勲章)をデザインした幟もあったようです。「入営」(陸軍として軍隊に入ること)、「入団」(海軍として軍隊に入ること)、「出征」(召集されて戦地におもむくこと)は「祝い事」であり、地域をあげて兵士を送り出しました。

 2枚目の写真は三津浜駅(松山市)で汽車に乗り込んだ兵士を写したものです。よく見ると兵士の軍服には下士官の肩章が付いています。昭和12年に日中戦争が起こったため、予備役にも臨時召集令状が届いたのでしょう。11師団の善通寺へ向けて出発する際の写真ですが、見送る人々の表情に笑顔は見らません。「バンザイ」を唱えて見送る写真はよく残されていますが、この写真は出発間際に別れを惜しむ人々の様子をとらえたものとして貴重です。

 3枚目の写真は兵士を乗せた汽車が三津浜駅を出発後も、日章旗や幟をもって見送り続ける人々の様子を写したものです。汽車は写真右下の隅に見えます。出発した汽車は勢いよく煙をはきながら駅から遠ざかっていきますが、ホームには見送りの人々がまだ残っています。恐らく汽車が見えなくなるまで見送ったのでしょう。これらの3枚の写真からは、出征風景を知るだけでなく、見送る側と見送られる側の気持ちが伝わってきます。このような光景が二度と繰り返されないように、歴史の教訓を学ぶ80年となれば幸いです。

1枚目 出征兵士の家
2枚目 三津浜駅での惜別
3枚目 見送り続ける人々

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情92―戦争と四国遍路② 「出征軍人武運長久祈願納経帳」

2025年8月8日

 前回に続き、「四国遍路道中図」が発行されていた戦前における、戦争の影響による四国遍路の状況について見て行きます。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』には、軍装姿の男性写真に礼拝する母子遍路や戦闘帽に国民服を着た青年遍路の姿が描かれています。戦争の影響によって、四国霊場では従来の一般遍路とは異なる、出征兵士の武運長久や戦没者の供養を祈願する親族等の姿が多く見られたと推察されます(本ブログ91「戦争と四国遍路①」参照)。

 今回はそうした事例として、当館に寄贈された「出征軍人武運長久祈願納経帳」を紹介します。

 本資料は戦前の四国霊場で一般に使用された納経帳の体裁とは異なり、市販の子ども用の学習帳に納経印を押印して納経帳に見立てたもので、表紙は錦の布地で飾られています。

 最初の頁には墨書で「出征軍人/武運長久祈願/願主 楠寅市」と記され、背景には愛媛県内の四国霊場7箇寺(第40番奥院龍光院、第41番龍光寺、第48番西林寺、第50番繁多寺、第51番石手寺など)の御朱印(宝印)が確認できます(写真①)。

写真① 「出征軍人武運長久祈願納経帳」表紙(当館蔵)

 見返し部分には、「武運長久」を祈願した吉祥山西岸寺(愛媛県西予市野村町)、和霊神社(同県宇和島市)、三嶋神社(同県西予市野村町)、熊野神社(同左)などの御朱印が押印されています(写真②)。

写真② 「出征軍人武運長久祈願納経帳」近隣神社の御朱印(当館蔵)

 本資料の前半部の冒頭には「支那事変武運長久祈願/北支/香月軍司令官以下将兵勇士/寺内軍司令官以下将兵勇士/上海/松井軍司令官以下将兵勇士」と記され、第43番明石寺の納経印が押印されています(写真③)。

写真③ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変武運長久祈願(当館蔵)

 次頁以降は「支那事変出征兵士」として、「野村町」の121名の名前が列挙されています。見開きで「奉納/十一面観世音/大宝寺」と記され、第44番大寶寺の納経印が7回も重ね印されています(写真④)。他頁にも、第45番岩屋寺、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第49番浄土寺、第48番西林寺などの納経印があります。

写真④ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・野村町(当館蔵)

 次に「中筋村出征兵士」として46名が記されています(写真⑤)。第49番浄土寺、第50番繁多寺、第43番明石寺の納経印が押されています。そして「中筋村在郷軍人」として86名の名前があります。在郷軍人は平時には民間にあって生業につき、戦時に際しては必要に応じて召集され、国防に任ずる予備役などの軍人のことです。第51番石手寺、第42番仏木寺、番外霊場の出石寺や龍光院などの納経印が確認できます。

写真⑤ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・中筋村(当館蔵)

 次に「貝吹村出征兵士」として23名の名前が列記されています。出石寺、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺などの納経印が押されています(写真⑥)。そして野村町、中筋村、貝吹村、横林村(以上、愛媛県西予市野村町)の代表者の名前が記され、四国八十八箇所霊場の愛媛の札所寺院、松山の還熊八幡神社、第66番雲辺寺から第75番善通寺までの納経印が各頁に押印されています。

写真⑥ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・貝吹村(当館蔵)

 本資料の後半部には「野村町中筋村貝吹村/修験道者」として、6名の修験者(山伏)と「信行者」(在家の修験者)の名前、御詠歌連中が列記され、信行者の中には本資料を作成した願主・楠寅市の名前も確認できます。そして第75番善通寺の納経印が押印され、「支那事変ニ関シ昭和拾参年八月九日、出征軍人武運長久祈願ノ為、右連中ハ野村町進藤大師堂ニ於テ大般若経六百巻及般若心経一千巻ノ初回祈願ヲ行フ」とあります。昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋事件を発端に支那事変が発生しますが、翌13年(1938)8月9日に出征軍人の武運長久祈願のために、野村町進藤大師堂(西予市野村町。現存せず)で大般若経600巻と般若心経1000巻を転読したことがわかります。

 次頁以降は第1回目の祈願後に行われた開催場所等が記録され、大泉寺(西予市野村町。第3・4・6回)、願主楠寅市氏宅(第5回)、三柱神社(同市城川町、第23・24・33・53・54回)など、全54回も継続されたことがわかります。

 本資料の最後には、戦没者の遺影を掲げた親族等の集合写真、祈願を行う修験者や御詠歌組の集合写真(写真⑦)、昭和18年(1943)の第10回目の大般若転読を個人宅で開催している様子の写真(写真⑧)が添付されています。集合写真には女性や古老が多く、出征兵士の親族・関係者の首に掛ける輪袈裟には「大窪寺」(第88番)、「子安講本部」(第61番香園寺)、「阿波国立江寺授与」(第19番)など、四国八十八箇所霊場の札所寺院のものが確認でき、四国遍路の体験者と見られます。 

写真⑦ 出征軍人武運長久祈願の参加者による記念写真(当館蔵)
写真⑧ 出征軍人武運長久祈願(大般若転読)の様子(当館蔵)

 また、新聞記事の切り抜き(掲載紙、年不明)が貼られています。それには「野村町を中心に/大般若経で武運長久祈願/天台宗修験者の集り」と見出しがあり、天台系の修験者が主催して、在家の行者(楠寅市ほか)も協力して、地元では大師堂や個人宅で定期的に大般若祈祷が行われ、四国霊場等への巡拝を行っていたことがわかります。また、楠寅市ら諸氏が郷土出身兵士に故郷のニュースや写真を撮影して年賀状として戦線勇士に発送したことなども記載されています。

 以上、「出征軍人武運長久祈願納経帳」の概要を紹介しました。戦時中、郷土の出征軍人の武運長久祈願のため、在家の行者が願主となって、修験者によって大般若経等の転読が行われていること、出征兵士の名前を町村ごとに列記し、納経帳に見立てた帳面が作成され、近隣の神社仏閣や四国霊場の札所で納経が行われていることが確認できます。「四国遍路道中図」が発行・使用された戦前の四国遍路における、戦争の影響と札所寺院の役割について垣間見えてきます。

 今年、令和7年(2025)は被爆・戦後80年の節目を迎えます。年々、戦争体験者の高齢化と減少、戦争非体験者が増加するなかで、戦争の記憶を風化させないため、そして平和の尊さを再認識するため、各地で平和祈念イベントや展示会、講演会などが開催され、戦争体験の継承や平和教育の推進が図られています。現在開催中の当館テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」(8月31日迄)もぜひご覧ください。詳しくは当館HPをご確認ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情91―戦争と四国遍路①  御詠歌から軍歌へ

2025年8月6日

 まもなく8月15日の終戦の日を迎えます。今年、令和7年(2025)は被爆・戦後80年の節目にあたります。

 昭和時代の代表的な四国遍路案内地図といえる「四国遍路道中図」には、筆者が確認できた発行年が記載されているものとして、大阪の駸々堂版≪大正5年(1916)、大正6年(1917)、昭和6年(1931)≫、浅野本店版≪昭和4年(1929)、昭和9年(1934)≫、光栄堂版≪昭和5年(1930)、昭和10年(1935)≫、渡部商店版≪昭和8年(1933)≫、渡部高太郎版≪昭和13年(1938)≫、金山商会版≪昭和15年(1940)≫、小林商店版≪昭和15年(1940)≫、イナリヤ総本店版≪昭和16年(1941)≫、その他に発行年無記載版≪江口商店版、藤井商店版≫などがあります(写真①、本ブログ38「四国遍路道中図の系統」参照)。

写真① 大正時代~昭和時代にかけて発行された四国遍路道中図(左:各種版・個人蔵。右:渡部高太郎版・当館蔵)

 「四国遍路道中図」が発行された大正時代から昭和時代(戦前)は、日本が大正3~同7年 (1914~1918)の第一次世界大戦を経て、昭和12年(1937)の日中戦争、昭和16年(1941)の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争へ突入し、第二次世界大戦へ迎えた時期にあたります。四国遍路道中図は近代日本が二度の世界大戦を経験した戦争時代の四国遍路の案内地図ともいえます。

 その時代背景を概観すると、大正時代末期から昭和時代にかけて、旅行ブームが到来しましたが、昭和12年の日中戦争勃発後、国民生活は統制経済となり、同15年に奢侈品等製造販売制限規則(7月7日に施行されたことから通称「七・七禁令」と呼ばれた)が制定され、国民精神総動員運動が推進されます。七・七禁令と連動して「不要不急の旅行は遠慮して国策旅行にご協力下さい」というスローガンを書いたポスターが、鉄道省各駅に貼られました。国策旅行とは「皇祖」ゆかりの地、皇国史上の「遺跡」への旅を指します。同16年には生活必需品が不足したため、六大都市で米穀配給通帳制、木炭配給通帳制、酒切符制、外食券制が始められ、翌年に塩、みそ、醤油、衣料などにも切符制が導入されました(星野英紀『四国遍路の宗教学的研究―その構造と近現代の展開―』法蔵館、2001年)。

 こうした時代背景から、自ずと四国遍路の総数も減少していったことは、宿帳の記録からもうかがい知れます(本ブログ89「社会と人生の縮図の遍路宿」参照)。

 「四国遍路道中図」には具体的に戦争に関係する記述は見当たりませんが、当時の案内記や遍路記などの記述からは、戦前の四国遍路における戦争の影響が垣間見えます。

 昭和17年(1942)の漫画家・荒井とみ三『遍路図会』には、戦時体制下の四国遍路の様子が文章と挿絵によって紹介されています。挿絵には札所で軍装姿の男性写真に礼拝する母子遍路の姿、戦闘帽に国民服を着た青年遍路などが描かれています。「御詠歌の代りに唄っているのは軍歌であった。つぎつぎに、唇を衝いて出る「戦友」や「露営の歌」を聞かれては、大師さまも破顔一笑されるであらう。朗々たる遍路新風景」と記されています。

 本書からは戦争の影響よって、四国霊場には従来の一般遍路とは異なり、出征兵士の無事あるいは戦没者の冥福を祈願していると推察される親族の姿、青年遍路の姿などを見出すことができます。中でも大きな変化として「朗々たる遍路新風景」と評しているように、御詠歌の代わりに軍歌が四国霊場で唄われていることは注目されます。

 御詠歌は札所本尊の功徳・霊験や札所の風景などを詠んだ和歌で、西国巡礼や四国遍路などにおいて、札所参拝時に巡礼者が唱えるお勤めの一つでした(本ブログ12「御詠歌」参照)。それに対して、軍歌は軍隊の士気の鼓舞、戦意の高揚、愛国精神の発揚などを目的としてつくられた歌です。

 四国霊場で唄われた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞、三善和気作曲)は、明治38年(1905)、日露戦争を舞台に戦友の友情や絆をテーマにした哀愁に満ちた楽曲ですが、「厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられたというエピソードがあります。一方、「露営の歌」(籔内喜一郎作詞、古関裕而作曲)は日中戦争(支那事変)勃発後の昭和12年に発表された戦意高揚を目的とした軍歌で、戦場での生活や出征する兵士の心情が描写されています。両曲ともに多くの人々に歌われ、当時の世相を反映しています。

 戦後、愛媛県西条市出身の政治家・思想家の橋本徹馬が昭和25年(1950)に刊行した『四国遍路記』(写真②)は、橋本が昭和16年(1941)に四国遍路を行った時の遍路記です。

写真② 橋本徹馬『四国遍路記』昭和25年、個人蔵

 はしがきに「無理な戦争の為めに、祖国が地獄道を驀進して行く惨状を眺めながら、最早施す手段も尽きて、悲痛な気持に浸りながら遂行した遍路の日記であるから、その心して読まれたい。(中略)就中満州事変以来、支那事変、太平洋戦争等の長期に亘る戦時中に、可愛い我子を戦死せしめた多くの親達、大事な大事な良人を失ふた若き婦人達、尊い我が父兄を失ふた子弟等の中には、未だに涙のかわかぬ人々が多いであらう。殊にそれが名誉の戦死者として取扱はれでもすることか、事情が分れば分る程、無理な戦争の犠牲となつたのである事が知られては、遺族の人々の心に泣いても泣き切れぬ悲しみが沸き上つて来ることであらう。誤れる戦争に伴ふ悲劇の深刻なるを知るべしである。それらの人々は、若し事情が許すならば、ゆつくりと霊場遍路の旅にでも出て、死者の冥福を祈りたい心の切なるものがあらう」と記されています。

 橋本は誤った戦争によって犠牲となった戦没者の冥福を祈るため、四国霊場を巡拝することを薦めています。終戦後まもない四国遍路の状況がうかがわれます(今村賢司「案内記類から見た近代の四国遍路観」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第28号、2023年)。

 次回は、出征軍人武運長久祈願納経帳について紹介します。

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介②

2025年8月4日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、陶器製のおろし・ボタン・剣山を紹介します。

 16年度には戦時物資活用協会が、17年度には金属回収統制株式会社が中心となり、一般家庭からの金属回収が実施されました。一般家庭に比較して企業からの回収実績は少なく、翌18年4月16日に東条英機内閣は「昭和18年度金属類非常回収実施要綱」を閣議決定し、8月12日に「金属類回収令」を改正して82業種から40設備を、23施設から鉄62品目、銅72品目、鉛14品目を供出可能としました。これには企業の「未動遊休設備」、「不要不急設備」、「仕掛品」を回収しようとするねらいがありました。

 このように一般回収から特別回収へ、特別回収から非常回収へと、回収の種類や品目が拡大するなかで、世の中には代用品が多く出回るようになりました。金属に代えて陶器や紙といった別材料を用いた代替物です。今回の陶器製のおろし・ボタン・剣山もその一例です。このような陶器製の代用品には、多くの場合統制価格で販売されることを示す生産者別標示記号が記されています。本資料の剣山にも三重県四日市市を中心とする万古焼であることを示す「万025」の刻印があります。

 陶器製のおろしを見ていると、このようなものまでも……と当時の苦しい生活が想起されます。その一方で陶器の地肌を細かく跳ね返して、おろしの刃が精緻に作られており、伝統技術が皮肉な形で活かされていることにも驚かされます。科学技術が使いようによっては平和にも戦争にも利用されるように、伝統技術も平和と戦争に無関係でないことが分かります。本資料は統制陶器が単なる代用品ではないことを伝えています。

         上段左が剣山、右がおろし、下段がボタン(個人藏)