生きた木に直接仏像を彫刻したものを「立木仏(たちきぶつ)」といいます。全国的に有名な江戸時代前期の修験僧・円空(えんくう)や木喰(もくじき)僧による作例が知られています。木喰とは米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいいます。
白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、立木仏とは「自然崇拝に起因して、地に根付いたままの木に直接、観音・地蔵・不動などの仏像を刻んだもので、『生木仏』(いききぶつ)ともいう。生きた木に彫ることによって、諸仏が地から生じる姿を表し、また霊像の効果を増す役割をも担っている。」とあります。
四国霊場の中で立木仏を本尊とする札所で知られているのが「生木(いきき)地蔵」と呼ばれている、生木山(いききざん)正善寺(愛媛県西条市丹原町)です。
四国別格二十霊場の第11番札所である生木地蔵は、福岡八幡宮が鎮座する四尾山(おしぶやま)と呼ばれる小山の麓にあります(写真①)。

昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(当館蔵、写真②)では、番外霊場を示す薄く赤い印に「生木地蔵」、注記に「番外 生木山正善寺 大師一夜御作」とあります。生木地蔵は赤い実線で記した巡拝ルート上にあり、四国遍路で巡拝する札所とされています。

昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「番外 生木山正善寺 周桑郡丹原町 御本尊生木の地蔵尊 大師の御作。延暦年間大師御巡錫の砌今井四尾山の麓に仮宿せられた時、南方に光明輝き殊勝童子示現して暁には光明此の楠樹に留ったので、霊木に一夜の内に地蔵菩薩の尊像を彫られたのであります。其時天邪鬼が鶏の鳴声をして邪魔をし暁を告げたので大師は片方の耳を彫残されたと伝へられ、最近まで近在では鶏を飼わなかったそうです。往昔は平城天皇の勅願寺として、又天慶年間には越智好方公を始め大小名の祈願密寺として栄えたのであります。爾来千年の樹齢を保つて鬱蒼として枝を張り祠に慈愛の尊像を匂わせています。御堂には脳耳の病に特に御利益があるとて沢山の土器が上がっています。」と詳しく由来が紹介されています。弘法大師がクスノキ(楠の木)の霊木に一夜で彫り上げたと伝えられる尊像の地蔵菩薩は、頭と耳の病に特に御利益があると信仰され、病人や遍路など多くの参拝者があったことが読み取れます。
同年の『四国霊蹟写真大観』に収録する古写真「番外納経所生木地蔵」には、大きな楠の木の前に祠や玉垣が建てられ、戦前の生木地蔵の拝所の姿が見て取れます(当館蔵、写真③)。

では、生木地蔵はいつ頃から遍路が巡拝する霊場として知られていたのでしょうか、次に江戸時代の四国遍路の案内記と納経帳から探ってみましょう。
現存最古とされる四国遍路のガイドブックである、貞享4年(1687)の真念の『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』には、第59番国分寺から第60番横峰寺に至る遍路道沿いに、医王山(世田薬師)や井水(臼井御来迎)などの番外霊場とともに、「〇たんばら町、西にあたり紫尾山八幡、ふもとに大師御作生木の地蔵霊異あげて計がたし。」と記載されています。また、寛政12年(1800)の「四国遍礼(へんろ)名所図会」には、「生木地蔵尊 楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある、庵まへにあり、八幡宮山下にあり、下に門有り」と記され、収録する図版「生木地蔵」には、楠の大木に生木地蔵尊の姿、生木地蔵尊にひざまずいて参拝する人、庵の縁台で休息する人などの姿が描かれています。
天保12年(1841)の納経帳には「奉納 生木地蔵大士 いよ生木山 正善寺」と記されて御朱印が押印されています(当館蔵、写真④)。

このように江戸時代には弘法大師作の生木地蔵としてその霊験は広く知れ渡り、多くの遍路が巡拝したものと考えられます。
明治期の資料も探ってみましょう。明治23年(1890)に豫州生木山大徳院の岡澤大城が作成した「弘法大師霊場処」と記された四国霊場の本尊御影軸があります(写真⑤)。明治期に生木地蔵の参拝記念等に授与されたものと推察されますが、特徴的なのは、四国八十八箇所霊場の本尊御影の中、第59番国分寺と第60番横峰寺の間に番外霊場の「弘法大師御加持水臼井御来迎」と「生木地蔵菩薩」が目立つように描かれて配置されています。番外霊場で発行された四国霊場の本尊御影として注目されます。

明治40年(1907)の納経帳には、生木地蔵の納経印と本尊の御影が貼付されています(当館蔵、写真⑥)。御影には「弘法大師一夜御作 生木地蔵大菩薩 豫州生木山正善寺」と記され、楠の木の中に地蔵菩薩像の姿が現されています。

生木地蔵は昭和29年(1954)9月26日洞爺丸台風の烈風によって、楠の霊木が根元より倒れましたが、生木地蔵は無事で現在は本堂に安置され、倒木は本堂向かって左側に祀られています(写真⑦)。

最後に、江戸時代に生木地蔵を参拝した遍路の興味深い出来事を紹介します。
香川県の観音寺市観光協会のホームページに、「長寿の地蔵尊 天保7年(1836)中姫村に住む森安利左衛門豊秀が、病弱な一人娘「ナヲ」のために四国八十八ケ所巡礼の旅にでました。その道中、伊予国で「生きた地蔵尊」と出会い感銘を受けた豊秀は旅から帰った後、一人で祖先の眠る墓地にあるクスノキに約150cmもの大きさの地蔵尊を彫り上げたそうです。そのおかげか豊秀は86歳、娘のナヲは96歳まで生きたと言われています。それ以来「生き地蔵さん」にお願いをすれば長生きができると言い伝えられ、今日では県外の参拝者もいるほどになりました。」とあります。伊予の生木地蔵と遍路との出会いによって、新たに生まれた生木地蔵のエピソードは、立木仏と生木地蔵信仰の広がりを示しています。
四国霊場には第42番佛木寺の本尊大日如来のように、弘法大師が楠の木で自ら刻んだものと伝えられるなど、霊木から刻まれたと伝えられる仏像が数多く残されています。それらは四国の大地、自然を舞台に仏教や修験、弘法大師信仰をはじめとする様々な信仰に育まれた四国遍路の歴史を物語っています。






































