昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情105―札所の名称「圓明寺」と「延命寺」―

2025年11月7日

 昭和時代の「四国遍路道中図」に掲載する四国八十八箇所霊場の札所の名称は、ほとんど現在と変わりませんが、第54番札所の延命寺(えんめいじ、愛媛県今治市阿方)は、かつては「圓明寺」と記され、第53番札所圓明寺(えんみょうじ、愛媛県松山市和気町)の寺号と同じでした。

 四国八十八ヶ所霊場会編『先達経典』(2006年)や同会ホームページの「延命寺」の紹介には、「この『圓明寺』の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた『延命寺』に改めている。」とあります。

 延命寺が江戸時代に「圓明寺」と記されていたことは、同寺所蔵の宝永元年(1704)鋳造の梵鐘(近見次郎)の銘文や、江戸時代の四国遍路の納経帳など、残された資料からわかります。

 例えば、寛政10年(1798)の納経帳(当館蔵、写真①)には「奉納五十四番/本尊不動明王/伊豫松山近見山/月 日 圓明寺」とあり、54番札所自らが「伊豫松山近見山圓明寺」と署名しています。「松山」とあるのは延命寺が所在する阿方村は江戸時代中期から幕末まで松山藩領であったことを示し、山号の「近見山」は延命寺背後の山(標高243.5m)に由来し、縁起によると、往古の延命寺は近見山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えたと伝えられています。

写真① 第54番圓明寺(寛政10年の納経帳、当館蔵)

 第53番圓明寺の場合は、納経帳に「第五十三番(朱印)/奉納経/本尊阿弥陀如来/伊豫松山須賀山/圓明寺」と記載されています(写真②)。

写真② 第53番圓明寺(寛政10年の納経帳、当館蔵)

 第53番圓明寺の近く建てられた、文久3年(1863)の遍路道標石(松山市馬木町)には、「(手印)(手印)へんろミち 馬木/文久三亥年 是ヨリあかた圓明寺九里六丁 世話人 白形屋房五郎 矢野作助/矢野市右ヱ門(他14名)/野本甚六(他14名)」と刻まれ、第54番札所を「あかた圓明寺」と称しています(写真③)。第53番圓明寺と区別するために、第54番は地名「あかた」あるいは山号「近見山」を圓明寺に併記していることがわかります。

写真③ 文久3年の遍路道標石(松山市馬木町、当館撮影)

 次に、江戸時代の四国遍路の案内記類から、第54番札所の名称を確認してみましょう。

 貞享4年(1687)の真念『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』では「五十四番延命寺」、元禄2年(1689)の寂本『四国徧礼(へんろ)霊場記』では「近見山不動院延命寺」、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』では「五捨四番近見山不動院延命寺」とあります。これらの代表的な案内記類では、第54番札所は「圓明寺」でなく「延命寺」と記載され、また、寺名が第53番と同じであることについては言及されていません。

 このことは先行する案内記で普及した真念『四国辺路道指南』の影響から、後続の案内記類が第54番札所の寺名を「延命寺」と記載したものと推察されます。『四国辺路道指南』では、第24番最御崎寺(高知県室戸市)を「東寺」、第25番金剛頂寺(同市)を「西寺」という俗称で記載しているように、第54番も分かり易いように「延命寺」と記載したものと思われます。

 実際、延命寺道における江戸時代の遍路道標石を探ってみると、寛政~文化年間にかけて建てられた武田徳右衛門による遍路道標石(今治市大西町宮脇)には、「(梵字)(大師像)是より 延命寺エ一里/施主 越智郡上朝倉村御料弥蔵/願主 同所徳右ヱ門」と刻まれ、「延命寺」と表記されています(写真④)。また、延命寺に近い海の上陸地であった波止浜には、文政13年(1830)の遍路道標石(今治市波止浜本町)があり、「右 遍路道/阿方村 延命寺へ一里/文政十三寅二月 世話人 古川弥茂兵ヱ柏屋助五郎」と刻まれ、こちらも「延命寺」とあります(写真⑤)。

写真④ 武田徳右衛門の遍路道標石
(今治市大西町宮脇、当館撮影)
写真⑤ 文政13年の遍路道標石
(今治市波止浜本町、当館撮影)

 これらのことから、第54番の札所の名称として「延命寺」はすでに江戸時代から定着していたことがわかります。

 ところで、東大寺戒壇院(かいだんいん)の学僧・凝然(ぎょうねん)は、鎌倉時代の文永5年(1268)、故郷の伊予国圓明寺の西谷の坊に籠り、仏教入門書である『八宗綱要(はっしゅうこうよう)』を著したことが知られています。

 『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(1984年)によると、「文永五年(一二六八)一月二九日、折から帰郷中の凝然は、近見山円明寺の塔頭西谷房で『八宗綱要』二巻の撰述を終わった。奈良六宗と平安二宗のあわせて八宗に鎌倉新仏教中の浄土と禅を付加し、それぞれの成立と教義の大要を述べている。二九歳になったばかりの青年僧の著作であり、その序文には謙虚な言葉が見えるけれども、この書は、わが国における仏教教学に関する体系的な書物の先駆であり、日本仏教の概論書・入門書として古来尊重され、広く普及した名著である。」と記載されているように、この伊予国の近見山圓明寺は延命寺であると考えられています。

 圓明寺と延命寺の事例をもとに札所の名称について見てきましたが、四国霊場の中には、第52番太山寺(愛媛県松山市)と第56番泰山寺(愛媛県今治市)の関係においても同じようなことがいえます。江戸時代の泰山寺の記録や納経帳などには第56番は「太山寺」と記されている事例も確認されます。

 延命寺の寺名がどのような経緯でいつから用いられたのか詳しくはわかりませんが、四国遍路の普及の中で、真念の案内記などの影響を受けて、札所の名称が次第に定着したものと推察されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情104―延命寺の梵鐘―

2025年10月31日

 愛媛県今治地方にある四国八十八箇所霊場の最初の札所は第54番近見山(ちかみざん)延命寺(えんめいじ、今治市阿方)です(写真①)。延命寺への巡拝は順打ちの場合、1つ前の札所第53番圓明寺(えんみょうじ、松山市和気)からは約34㎞の長丁場となります。そのため、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵、写真②)に示されているように、圓明寺最寄りの和気駅から鉄道を利用して今治駅に向かう遍路も多かったようです。また、中国地方から今治港に上陸する場合、「五十五番ノ南光坊ヨリ始ムルガヨシ」とあるように、今治地方の四国霊場巡拝は第55番の南光坊(なんこうぼう。今治市別宮町)を起点に行われました。

写真① 延命寺本堂(当館撮影)
写真② 圓明寺から延命寺へ(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 漫画家の宮尾しげをが昭和18年(1943)に刊行した『画と文 四國遍路』には、「今治の附近には五十四番から五十九番まで七ケ所が散在している。私は足どりの都合上五十五番から五十四番、それから五十六番へ廻る事にした。五十五番は相済み、五十五番からは旧道を行かず国道づたひに行くと案外楽で、一里程の道、五十三番から来ると、圓明寺から五里半で、菊間町の番外の遍照院へ行き、それから三里二十六丁で延命寺となる。」と記しています。

 このように第54番延命寺の巡拝にあたり、移動時間の短縮と巡り易さの都合上、今治駅や今治港に近い第55番南光坊を先に巡拝して延命寺に向かう変則的な巡拝を行った遍路がいたことがわかります。

 延命寺の由緒や見どころについて、戦前の四国遍路の案内記には次のように紹介されています。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「御本尊不動明王 行基の御作。当寺は嵯峨天皇の勅願によって大師の開基。初めは寺の背後二十町に聳ゆる近見山の頂にあって七堂伽藍の隆盛を見たのですが、天正の兵火に遭い、その時梵鐘を掠奪して軍用金に資せんと海上運搬の途中、梵鐘自づと海中に沈んだと言伝えています。」、昭和11年(1936)の三好廣太『四國遍路 同行二人』には「本尊不動明王、行基の御作、永代過去帖を備へて、一般の供養を修行せらる。当地は宿に乏しく、寺に清潔なる通夜堂を設備し、接待通夜を得させ、毎年二月二十一日より一百日間、毎夜護摩の修行あり、住職はありがたき法話を勤めらる。」とあります。

 延命寺の山号「近見山」は背後の近見山(標高244m)に由来し、往古は山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねていたと伝えています。また、参拝者の永代供養や期間限定で護摩修行を行っていること、付近に宿が少ないため遍路が無料で宿泊できる清潔な通夜堂を備え、接待や法話を行うなど、修行道場としての延命寺の特色がうかがわれます。

 延命寺の見どころとしては、梵鐘にまつわる伝説をとりあげています。昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』にも、「この寺の院号『宝鐘院(ほうしょういん)』というのは梵鐘に由来する。宝永元年(1704)、時の住職が私財を傾けて作ったもので、小さいが音がよい。供出もまぬがれた。むかし、九州の大伴の軍勢が攻めてきたときに、合図の鐘に持ち帰ったが、夜中に叩かないのに鳴るので、その奇異におそれて返してきたが、近見山の近くにきて海中に沈んでしまった。いまあるのは二代目だが、松山城に持っていったら『いぬる、いぬる』(愛媛地方の方言で「帰る、帰る」の意)と鳴るので、返してきたという話も残っている。」と詳しく紹介されています。

 現在の延命寺の境内には2つの鐘楼があります。初代の梵鐘(近見太郎)は海中に沈んだと伝えられ現存しませんが、2代目の宝永元年鋳造の梵鐘(近見次郎)が仁王門近くの鐘楼に吊り下げられています(写真③)。大きさは口径62㎝、高さ122㎝で四面に延命寺の歴史が刻まれ、今治市の文化財に指定されています。もう1つは茶堂近くの鐘楼です。こちらは現役の梵鐘(近見三郎)が吊り下げられ、遍路が参拝時に鐘を打ち鳴らしています。 

写真③ 延命寺の梵鐘「近見次郎」(当館撮影)

 ちなみに、四国八十八箇所霊場にある梵鐘のうち古いものは、奈良時代の鋳造と考えられている第80番國分寺(香川県高松市)、延喜11年(911)の第39番延光寺(高知県宿毛市)、貞応2年(1223)の第84番屋島寺(香川県高松市)、建長3年(1251)の第51番石手寺(愛媛県松山市)、弘安7年(1284)の第31番竹林寺、徳治3年(1308)の第32番禅師峰寺、永徳3年(1383)の第52番太山寺(愛媛県松山市)などに遺されています。

 梵鐘をはじめ遍路が持つ鈴の音、唱える御詠歌などは札所に響く音の風景として四国遍路の魅力の1つとされています(真鍋俊照『四国遍路を考える』NHK出版、2010年)。

 延命寺の見どころは梵鐘の他にも、境内に江戸時代前期に建てられた真念の道標、明治期に今治城取り壊しの際に移築された山門などもあります。真念の道標については別の機会で紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情103―遍路の足となった、小さな汽船「大和丸」―

2025年10月24日

 大正7年(1918)の高群逸枝『娘巡礼記』、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四國遍路』など、近代の四国遍路日記を読むと、四国八十八箇所霊場第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)までの区間は、陸路の場合、高知・愛媛県境の険しい松尾坂(松尾峠)があるため、海路で片島・宿毛港(宿毛市)と深浦港(愛南町)を結ぶ定期航路を利用する遍路が多くいたことがわかります。

 「四国遍路道中図」にはその航路は記載されていませんが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」には点線で地図上に記載されています(写真①②)。

写真① 第39番延光寺~第40番観自在寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
写真② 宇和海の航路(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」昭和9年、個人蔵)

 宿毛―深浦間の定期航路で遍路がよく利用したのが、小さな汽船「大和丸」です。

 高群逸枝は『娘巡礼記』で「室内のムサ苦しい事、ほとほと耐まらない。それに小さな蒸気であるから部屋は上と下との二段しかない。しかも乗客ははみ出す位、つまっている」と苦言を呈していますが、船内が大混雑した盛況の様子が読み取れます。

 大正3年(1914)頃、福山磯太郎は深浦港を始発に各港を結ぶ航路を開設し、大和丸が就航しました。その後、福山は新造船をあいついで就航させ、寄港回数を増加するなど優位に立っていましたが、昭和8年(1933)に第三大和丸による由良半島沖の遭難事故や経営者の交代などがあり、第二次大戦中に関西汽船に併合されました(本ブログ59「遍路が利用した宇和海の航路」参照)。

 宇和海の深浦港を起点に運航していた大和丸ですが、その姿や船史についてはよく分からず、戦前の四国遍路の案内記類に大和丸が紹介されている記事があり、以下に紹介します。

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』には、「片島、深浦間巡航路大和丸(三十噸)で一時間、船賃五十銭(中略)宿毛、深浦間は大阪商船、宇和島運輸両会社共同経営の大阪四國線の航路によるもよい。船賃三等五〇銭、二等一圓。但し宇和島運輸の船は巡拜者に限り三等三割引」とあります。

 本書によると、大和丸は30トン、片島―深浦を1時間で結び、船賃は50銭であったことがわかります。ちなみに30トンの船は、主に小型の漁船や沿岸の作業船で、現在の基準でいうと非常に小型の船で、漁業、沿岸での物資運搬、港湾作業などに使用されています。

 宿毛―深浦間は大和丸の他に大阪商船と宇和島運輸両会社共同経営の大資本による大阪四國線も運航しており、船賃は大和丸と同額の50銭(3等)、巡拝者(遍路)は3割引(3等)とあるので、遍路に対するお接待として船賃の割引が行われていたことがわかります。

 昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃』(一名『四国順拜案内記』大澤自昶著作兼発行、松山向陽社)には、大和丸の出港時刻表が掲載されています(写真③)。

写真③ 大和丸の出港時刻表(武藤休山編『四国霊場禮讃』、昭和10年、個人蔵) 

 「大和丸出港時間表 深浦港福山廻漕店/三十九番ヨリ宿毛ニ出テ四十番ニ至ル深浦港ニ着陸/宿毛発 午前六時 八時 十二時 午後四時 五時 六時/宇和島行 午前七時 午後十一時」。続いて「本船に御投乗の方えは本店に於て食費宿料其他種々御優待申上げます船賃二割引」とあり、深浦港の福山廻漕店の案内広告などが紹介されています。

 大和丸の出港時刻表からは、宿毛発深浦行きは1日6便、深浦発宇和島行は1日2便で、大和丸は数隻で運行していたと推察されます。深浦港の福山廻漕店は、大和丸を就航した福山磯太郎の縁者が経営する集荷・輸送等を取り扱う廻船業者と推察されます。乗船客は福山廻漕店において食事や宿泊などの様々な優待サービスを受けられ、船賃は2割引となっています。

 本書には大和丸のライバル的な存在であった宇和島運輸株式会社の広告(写真④)と「宇和島運輸汽船出帆時間運賃」なども掲載されています。

写真④ 宇和島運輸株式会社の広告(武藤休山編『四国霊場禮讃』、昭和10年、個人蔵)

 広告には「宇和島市新堅町/宇和島運輸株式会社/同社宿毛汽船扱店/同社深浦汽船扱店/同社平城汽船扱店/四国霊場御順拝の御方に対しては大師へ報恩の為め、精々御便利を供します」とあり、宇和島、宿毛、深浦、平城(ひらじょう)に宇和島運輸株式会社の営業所が設けられ、弘法大師への報恩のためサービスを提供することを宣言しています。

 また、「海路お巡りの方は約一里宿毛港より宇和島運輸汽船にて深浦に上陸四十番に参拝後、平城(貝塚港)より宇和島同社汽船に乗船せば夜の間に四十番奥の院に着運賃の低廉と時間の短縮とて便利です(中略)海上一時間毎年三月ヨリ六月マデ巡拜者運賃半額大割引」と記され、各港の時刻が掲載されています。宇和島運輸汽船は四国遍路のシーズンとなる3月~6月までは期間限定で遍路に対して船賃が半額となる大割引キャンペーンを行っています。

 宿毛―宇和島間の航路の歴史を概観すると、明治29年(1896)に南予運輸株式会社が設立されて第一御荘丸、第二御荘丸が就航、同39年(1906)に大阪商船株式会社の義州丸、同40年(1907)に宇和島運輸株式会社の宇和島丸が深浦に入港、大正3年に福山磯太郎経営による大和丸が就航するなど多くの船が運航して激烈な競争を繰り広げていましたが、大正13年(1924)頃に御荘丸が廃業、大阪商船も航路を打ち切りとなり、戦前は大和丸と宇和島丸の時代が続きました(宿毛市史編纂委員会編『宿毛市史』宿毛市教育委員会、1977年)。

 明治以降、南予の沿岸航路で乗客の獲得競争が繰り広げられてきた中で、「大和丸」は大正から戦前にかけて、深浦を拠点とした個人経営の小さな汽船でしたが、遍路をはじめ宇和海沿岸地域の人々の生活の足としてとても大きな貢献をしました。

コーナー展示「フェリー・パイロット 清水千波」のお知らせ

2025年10月23日

令和7年10月23日(木)~令和8年1月22日(木)、常設展示室4において、戦後から昭和後期にかけて、フェリー・パイロット(航空機空輸業操縦士)の先駆けとして航空業界で活躍した清水千波(せんぱ)について紹介します。フェリー・パイロットとは、飛行機を操縦して取引先まで運ぶ仕事です。
 資料の内容は、清水千波の活動に関する写真10点(内パネル1点)と清水千波が描いた色鉛筆画(陸軍戦闘機「疾風(はやて)」他)4点、ホノルルビーチプレス記事(パネル)1点、飛行経路図(内パネル1点)2点、合計17点です。
 清水千波は明治41(1908)年に宇和町卯之町(現西予市)で酒造業を営む清水伴三郎の長男として生まれました。同志社大学経済学部を卒業後、いったん大阪鉄道局に勤務しましたが、昭和12(1937)年に陸軍飛行兵に志願し、岐阜県各務原(かがみはら)の飛行第2戦隊に入隊します。翌年、陸軍飛行第98戦隊に転属し、爆撃機の操縦士として中国から東南アジアにかけて転戦しました。大戦末期にはインド独立運動家チャンドラ・ボーズ等のVIPの輸送や特操(大学生を中心に短期間で操縦士を養成する特別操縦士見習官)の教官を務めた後、東南アジアで終戦を迎えます。
 終戦後、軽飛行機の国内外の空輸に携わり、昭和36年には、同僚の小野貞三郎と2人で米国ウィチタから東京までの空輸を行って日本人初の北大西洋横断飛行を成功させました。また、千波の所属する大和(だいわ)航空株式会社(後に、伊藤忠航空輸送株式会社と改称)が全日本空輸株式会社から委託を受けて操縦士の教育を行った際には、訓練部長を勤めています。
 そして、昭和46年、63歳でフェリー・パイロットとして独立し、太平洋や大西洋間で軽飛行機の空輸を引退までに約40回行いました。昭和49年には、現役最年長のパイロットとして日本航空機操縦士協会から表彰されましたが、それ以降も75歳まで世界中を飛び続けます。その様子は、テレビや新聞、小説等に紹介され、昭和62年、79歳で病没しました。飛行機をこよなく愛し、大空を飛び続けた清水千波の情熱を感じ取っていただけたら幸いです。


写真① 九七式重爆撃機を操縦する清水千波(昭和16年 当館蔵)

写真➁ 教育隊長として学生を指導する清水千波(昭和19年 当館蔵)

写真③ 清水千波画「疾風」(昭和21年 当館蔵)

写真④ 北大西洋横断飛行へ向けて準備をする清水千波と小野貞三郎(昭和36年 当館蔵)

写真⑥ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)

写真⑦ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情102―屋島と屋島寺―

2025年10月10日

 香川県高松市にある屋島(標高293m)は、大きな屋根のようなテーブル状の台地からなる半島です(写真①)。瀬戸内海国立公園に指定され、山上からは瀬戸内海の多島美を一望できる絶景が楽しめます。また、屋島は『平家物語』に描かれた源平の古戦場「屋島の戦い」の舞台であり(写真②)、「檀ノ浦」(讃岐檀ノ浦)における「那須与一の扇の的」や「義経の弓流し」など、有名な逸話が知られています。四国八十八箇所霊場第84番札所の南面山(なんめんざん)屋島寺(やしまじ)はこうした自然と歴史に育まれた屋島(南嶺)の山上にあります(写真③)。

写真① 絵葉書「屋島山全景」個人蔵
写真② 絵葉書「屋島檀の浦源平古戦場を望む」個人蔵
写真③ 絵葉書「屋島寺本堂」個人蔵

 四国を代表する観光地として人気があった屋島は、大正6年(1917)の「四国遍路道中図」(駸々堂版)では、地図上に屋島寺の記載と「屋島」の半島が描かれて、源平合戦の史跡「檀の浦」が目立つように記載され、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)では「檀ノ浦」とあります(当館蔵、写真④)。檀ノ浦は四国のランドマークとなっています。

写真④ 屋島寺周辺「四国遍路道中図」当館蔵

 昭和13年(1938)の高群逸枝『お遍路』(厚生閣)には、「屋島には源平合戦の趾が多く、寺そのものも一時安徳天皇の行宮であつたといひ、寺宝には土佐光信の屋島合戦図、土佐光起の佐藤継信の戦図等があり、寺前の茶店では源平餅を売るなど、寿永の昔の夢物語が、ここでは未だ生々しい現実として把握されている。」とあり、屋島寺については「鑑真(がんじん)来朝の際屋島に上つて念誦、後、その弟子恵雲(けいうん)来つて寺を創めたといふ。弘仁元年空海は嵯峨天皇の勅をもつて、それまで北嶺にあつた寺を現在の南嶺に移した。本尊千手観音。重盛寄進の鉄燈籠などがあり、雪の庭、血の池などの名所もある。」と簡潔に紹介しています。 

 四国霊場の札所の中でも屋島寺は、奈良時代に唐からやってきた僧鑑真ゆかりの霊場で、古代の源平合戦の栄枯盛衰の歴史を今に伝える歴史的な寺院として位置付けられます。

 次に屋島寺の境内図を見てみましょう。明治以降に地元高松市で作製された屋島寺の境内絵図「四国第八拾四番之霊場香川県讃岐国山田郡潟元村 南面山屋島寺境内全図」があり(写真⑤。「愛媛県歴史文化博物館 絵図・絵巻デジタルアーカイブ」 参照)、瀬戸内海を見渡す屋島の山上に建立された屋島寺の境内伽藍が詳細に描かれています。

写真⑤ 「四国第八拾四番之霊場香川県讃岐国山田郡潟元村 南面山屋島寺境内全図」当館蔵

 絵図中には、仁王門から四天門(中門)を通り本堂へと一直線に並ぶ伽藍配置、本堂隣の大師堂、貞応2年(1223)銘の古鐘をつるす鐘楼堂、白い凝灰岩が露出し「雪の庭」と呼ばれた本坊の庭園、弘法大師が経典と宝珠を納めた瑠璃宝の池に源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったと伝えられる「血の池」(写真⑥)などが確認できます。境外では、空海が農夫に梨を所望したが断られて食べられない梨になったという「不食の梨」(くわずのなし、写真➆)、屋島寺の前札所とされている「さくら庵」(番外霊場・遍照院の前身か)も描き込まれています。また、現在の屋島寺の人気スポットとなっている、本堂と大師堂との間に祀られている蓑山大明神、蓑笠をつけた老人の姿で現れて弘法大師を案内したとされる「屋島太三郎狸」の大きな夫婦狸の石像が設置される以前の境内の様子が見て取れます(写真⑧)。

写真⑥ 血の池(当館撮影)
写真➆ 不食の梨(当館撮影)
写真⑧ 蓑山大明神と夫婦狸の石像(当館撮影)

 ところで、昭和4年(1929)、屋島の歴史にとって大きな出来事がありました。屋島登山鉄道屋島ケーブルの開通です(写真⑨)。それ以前は徒歩で山上までは約1時間を要しましたが、ケーブル・カーを利用すると、屋島登山口駅から屋島山上駅まで約5分で到着します。そのため屋島観光の交通手段として定着し、遍路にも利用されました。稼働した車両は2両あって、「義経号」と「辨慶号」の愛称が付けられました。

写真⑨ 絵葉書「屋島」(個人蔵)

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)の『札所と名所 四国遍路』(寳文館)によると、「二、三日前にケーブル・カーが開通したので、坐らにして山上に達する事が出来る。(中略)ケーブルが南嶺の端つこに持つて来られたについて私が喜んだのは、それがために屋島全体のかたちがぶちこわしにならなかつた事だ。東海道線の車窓から仰ぐ神戸の摩耶山、坂本口から仰ぐ比叡山、さては伊勢の朝熊にも幅広にが1つと一線、山は膚を引きめくられて痛ましい生々しい赤い肉を露している。私は実は高松からの電車から屋島を眺めて、もしや顔の真中に焼火箸をあてたやうな無残な傷痕でもありはせぬかと虞(おそ)れたのであつた。が、それは無駄な心づかひであつた。(中略)ケーブル・カーは至極謙虚な物腰で松の密林の中を隠れるよやうに這ひ上つて行つた。」と記されています。

 ケーブル・カー開通にともなう各地の痛ましい自然破壊の事例があるように、屋島の自然破壊を危惧した島でしたが、それが取り越し苦労となり、安堵している様子が読み取れます。

 屋島ケーブル・カーの開通の情報は四国遍路の案内記にも紹介されています。昭和10年(1935)の武藤休山『四国霊場禮讃』に「麓より頂上迄十八丁、ケイブルあり、徒歩なれば西行の畳石、不喰梨等あり」、昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(第32版、此村欽英堂)には「高松築港前乗車屋島下車、屋島へ登山なれば、登山口駅下車ケーブルあり」と追記されています。

 屋島ケーブルは昭和18年(1943)、戦争の激化によって一時期閉鎖されますが、昭和36年(1961)に屋島ドライブウェイが開通するまでは唯一の動力による登山手段として利用されました。しかし、屋島観光の衰退に伴う利用客の減少等の理由から、平成17年(2005)に屋島ケーブルは廃止されました。現在、四国八十八箇所霊場でケーブル・カーが運行しているのは五剣山(標高375m)の中腹にある第85番八栗寺(やくりじ)への参拝客輸送を目的として昭和39年(1964)に開業した八栗寺ケーブルのみです。

  屋島寺は古代の源平合戦の栄枯盛衰の歴史を今に伝え、四国を代表する観光地「屋島」にある四国霊場の札所寺院です。屋島の歴史とともに近代化や観光地化の過程の中で屋島寺や周辺の遍路道等がどのような影響を受けてきたのか、また、四国遍路の観光化について考える事例として注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情101―バス利用の遍路道と後藤信教の活動―

2025年10月3日

 愛媛県松山市と上浮穴郡久万高原町の境に位置する三坂峠(標高約720m)から国道33号を下っていくと、「塩ヶ森」というJRのバス停があります。その近くには遍路道標石が建てられています(写真①)。

写真① 後藤信教が昭和31年に塩ヶ森に建てた遍路道標石と浄瑠璃寺道の入口(当館撮影)

 道標石(花崗岩製)は中央部で折損していますが現在は修復され、その正面には「塩ヶ森 右浄瑠璃寺へ 十八町」、右側面に「南無大師第三版記念」、左側面に「昭和三一年三月 和歌山市大本山圓蔵院 南無大師著者後藤信教 七十三歳」と刻まれています。刻字内容からこの遍路道標石は、昭和31年(1956)に塩ヶ森から四国八十八箇所霊場第46番浄瑠璃寺へ至る遍路道の入口に建てたもので、設置者は和歌山市圓蔵院の後藤信教であることがわかります。

 三坂峠から浄瑠璃寺に至る遍路道(浄瑠璃寺道)は、峠から旧土佐街道を桜集落(松山市久谷)に下るルートが江戸時代からの遍路道でしたが(本ブログ100「三坂峠からの絶景」参照)、昭和9年(1934)に松山~久万間に鉄道省の省営バスが開通すると、久万町や三坂峠からバスに乗り、塩ヶ森で下車し、尾根道を下って浄瑠璃寺に向かう、バスを利用した新しい遍路道のルートが誕生します。バス利用による塩ヶ森経由の新しい浄瑠璃寺道は、「四国遍路道中図」には紹介されていませんが、歩き遍路にとって急峻な三坂峠を回避でき、浄瑠璃寺までの距離も短いことから、戦前から戦後にかけての案内記類に紹介されています。 

 昭和16年(1941)の遍路記である橋本徹馬『四国遍路記』(昭和25年刊)には、「久万の町を通つて相当歩いた後、松山行きの省営バスに乗り、わざわざ遍路者の為めに鉄道省で新設したと云ふ其塩ヶ森駅で降り、第四十六番の浄瑠璃寺へ向つた。」とあり、バス停「塩ヶ森」は遍路者のために鉄道省が新設したものと紹介されています。

 戦後、昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』には、「早朝、久万から国鉄バスにのって四十六番にむかった。三坂峠の塩の森で下車、道標のあるところから下り道になる。」とあり、文中の道標は後藤信教が建てたものと考えられます。昭和63年(1988)の平端良雄『四国八十八ヵ所(下)』には、「近ごろはこの旧道(土佐街道)を通る遍路は春先でもないかぎり見られず、峠より新道(国道三十三号線)をやや下った塩ガ森から久谷への道を通るようになった。バス停塩ガ森から浄瑠璃寺へは二・七キロ、四十分の道程である。」とあり、国鉄バスを利用した塩ヶ森経由の浄瑠璃寺道が多くの遍路に通行されていたことがわかります。ちなみに現在は、歩き遍路ブームの影響によって、三坂峠から旧土佐街道を下る遍路の姿が多く見受けられます。

 次に、昭和31年に塩ヶ森に遍路道標石を建てた後藤信教について紹介します。昭和26年(1951)に後藤が四国遍路の代参者のために作成したと見られる納経帳「奉拜四国西国霊場」(写真②)に記された「誓願(相互礼拝)・御挨拶」から、後藤の人物像や略歴をうかがい知ることができます。

写真② 納経帳「奉拜四国西国霊場」(昭和26年、個人蔵)

 「広島県三原町に生れ(明治十七年)父母の慈悲に恵まれ可なり幸福な生育を致しました。二十二歳の春親より譲り受けました、財宝を資本としてささやかな洋服店を開きました。幸あれかしとお祈り致した甲斐も無く、又親の慈悲も私の運命をどうする事も出来ず、夢と消へて不運に続くに不幸を以てし、或は病み、或は殪(たお)れ、十年の間に長男を亡ひ、続いて妻を亡ひ、残つた一男一女の世話をする私は彼を思ひ之を案じ途方に暮れました。乳に泣く子を抱へて冷たき褥(しとね。敷物)の上に夜を明した事も有つて実に人生の惨悲さを味ました。併しながら私は此の生れ難い人間の一生を夢に過ごし度くはありませぬ、私は私の一生を任せ生命をも任す丈の大きな道を求めねばなりません。考へますに真実の幸福は金や権勢に宿るもので無くて、誠の心を以て仏様の前に忠実に其の職分を盡す人のみ受くべき特権だと思います。茲に於て私は物質的に生きるよりも精神的に活き度く。」

 家族の度重なる不幸にも屈せず、真実の幸福を求めて仏道に入り、物質的に生きるよりも精神的に生きようとした後藤信教の信条が読み取れます。また、後藤の略歴(昭和26年迄)をまとめると、次のようになります。

 明治17年(1884)に広島県三原町(三原市)に生れる。同38年(1905)に洋服店経営。大正3年(1914)に広島県深安郡加法村(福山市)の宝憧寺に入る。同4年(1915)に京都市の醍醐寺三宝院に入り、翌年から高野山で6年間修行、同14年(1925)から奉仕生活に入る。昭和13年(1938)に大阪市の心鏡寺住職を拝命、『真言宗在家勤行経典』『西国三十三所御詠歌僧侶用』などの経典を刊行、同14年(1939)に金胎両部大曼荼羅を謹製して満州国皇帝陛下に献上、同16年(1941)に和歌山市の圓蔵院住職を拝命、戦災で伽藍は灰燼に帰す。同23年(1948)に本堂再建。同26年に高野山奥之院で四国八十八箇所順拜を誓願(68歳)。

 略歴からは、真言宗の僧侶の傍ら、経典の刊行、満州国皇帝陛下に金胎両部大曼荼羅を謹製するなど、後藤の学識の高さが伺われます。塩ヶ森の遍路道標石は、後藤が戦災で焼失した自坊の圓蔵院本堂を再建し、四国遍路を行うことを誓願した約5年後(73歳)に設置したものであることがわかります。

 さらに注目したいのは道標石に「南無大師第三版記念」とある点です。『南無大師』とは後藤が編集人となって昭和28年(1953)に四国霊場参拝奉讃会によって発行された四国遍路の案内記で『四国順禮 南無大師』のことです(写真➂)。本書には「次(浄瑠璃寺)へ六里二町。バス久万で松山行に乗り換へ塩ヶ森で下車右へ斜めに下り七町で浄瑠璃寺です。」と紹介しています。本書は約3年間で第三版が刊行されていることから、好評であったと推察されます。

写真③ 後藤信教『四国順禮 南無大師』(昭和28年、個人蔵)

 以上、後藤信教は代参による四国遍路の奨励、四国遍路の案内記の作成、道標石設置などを手掛け、戦後の四国遍路の普及に貢献した篤志家であることがわかります。

内子町立内子小学校で平和学習!

2025年10月2日

 8月21日(木)に「教員の日の博物館の日」を実施しましたが、参加いただいた内子小学校から出前授業(平和学習)の依頼をいただき、10月2日(木)にお伺いしました。同校には昨年に続いて2回目の訪問になります。事前の打ち合わせで、戦時下の生活、県内の空襲とパンプキン、テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」で展示した傷痍軍人資料を中心にとの依頼だったため、それに合わせたスライドや資料を持参しました。

 6年生は58名。大きな声であいさつを受けて授業がスタートしました。まずは配給制度、切符制度、金属回収について、米の配給量を紹介したり、衣料切符で上着、ズボン・スカート、靴下を買う体験をしたり、金属不足を補うために出回った陶器製や紙製の代用品(陶器製おろし・ボタン、紙製洗面器など)に触れてもらい、戦時下の苦しい生活を伝えました。

 空襲については松山空襲、宇和島空襲の惨状を写真で紹介しました。また、松山に投下された焼夷弾の殻にも触れ、形、重さ、仕組み、臭いなど、五感を通じて空襲の怖さを感じ取ってもらいました。さらに、模擬原爆パンプキンが新居浜・西条・宇和島に4発投下されたこと、宇和島への投下は8月8日(長崎の前日)だったことなど、原爆と愛媛の関係も伝えました。

 戦場で負傷して復員した傷痍軍人の資料として、日中戦争で腕を失った方が皇后陛下から与えられた「御賜の義肢」を紹介しました。関節の1つ1つがスムーズに曲がり精巧に作られていますが、装着に不具合を感じて入院願を出したことなど資料にまつわる話をしました。昭和20年8月15日で戦闘は終わっても遺族の悲しみや傷痍軍人の苦しみは戦後も続いたことを伝えました。

 児童の皆さんは日頃から平和学習に取り組んでいるとのことで熱心にメモを取っていました。「ひいおばあちゃんから竹やりで飛行機を落とす訓練をしたと聞いたが本当に落とせるのか?」、「原爆症にはどのようなものがあるのか?」などの質問も受けました。聞き取り調査や調べ学習にしっかり取り組んでいることが感じられました。来月には平和学習についての発表会もあるとのこと。これまでの学習成果を活かしてもらいたいと思います。

 当館では学校にニーズに応じた様々な出前授業を実施しています。詳しくは当館のホームページをご覧いただき、お気軽にお問合せ下さい。

戦時下のおもちゃや学校生活について解説
切符制度を体験する児童
模擬原爆パンプキンについて解説
焼夷弾の殻をのぞく児童
休み時間も資料に興味をもつ児童
戦時下の教科書を読む児童
義肢に触れる児童
もんぺなどの着付けも体験

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情100―三坂峠からの絶景―

2025年9月29日

 四国八十八箇所霊場第45番岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)から第46番浄瑠璃寺(同県松山市)へ至る遍路道(浄瑠璃寺道)には「遍路ころがし」(歩くのが困難で転倒しそうな坂道)の難所として知られた「三坂(みさか)峠」があります。

 三坂峠(標高約720m)は松山市と久万高原町の境に位置し、明治25年(1892)に松山-高知間を結ぶ四国新道(国道33号の原型)が開通するまで、松山と土佐を結ぶ土佐街道の重要な往還として賑わいました。

 現在の国道33号の三坂峠と遍路道との分岐点には、明治23年(1890)に建てられた遍路道標石があり、「(手印)右へんろミち 左松山道/浄るり寺へ二里」と刻まれています(写真①)。

写真① 三坂峠における国道33号と遍路道との分岐点に建つ遍路道標石(当館撮影)

 三坂峠は比較的勾配の緩やかな久万側に対し、松山側は標高差が600m以上もある急峻な峠道のため、行き倒れた遍路を葬ったと見られる遍路墓がいくつもあります。また、峠を通行した行商人の金物屋が石畳道(いしだたみみち)で商売用の鍋を落として割ったことから「鍋割坂(なべわりざか)」とも呼ばれました(写真②)。

写真② 三坂峠の鍋割坂と石畳道(当館撮影)

 四国遍路において、とりわけ三坂峠が有名であった理由は、峠からの景色の素晴らしさにあります。伊予(愛媛)の遍路道では宇和島城下から岩屋寺までは長らく山中を歩きますが、三坂峠はようやく視界が大きく開け、眼下に松山平野を臨み、松山城や瀬戸内海に浮かぶ伊予の小富士(興居島)などを眺望できます(写真③)。 

写真③ 三坂峠から松山平野を望む(当館撮影)

 三坂峠からの絶景は江戸時代以来の四国遍路の案内記類で評判でした。江戸時代前期の貞享4年(1687)の真念『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』には、「此峠より眺望すれバ、ちとせことぶく松山の城堂々とし、ねがひハ三津の浜浩々乎たり。碧浪渺洋、中にによっと伊与の小富士駿河の山のごとし。ごゝ島、しま山、山島、かずかずの出船つり船、やれやれ扨先たばこ一ぷく。」とあります。本書の赤木文庫本には、たばこを一服しながら、三坂峠からの絶景を楽しんでいる遍路の姿が挿絵として掲載されています。

 『四国辺路道指南』収録の挿絵は諸版によって異なりますが、弘法大師御影、巡礼する遍路、札所本尊の御影、阿波国では鯖大師伝説、母川の慈悲水伝説、土佐国では横浪三里を船で渡る遍路、伊予国では三坂峠の景観を楽しむ遍路、讃岐国では第81番白峯寺の児ヶ岳伝説などが掲載されています。長い道中の四国遍路で数多の優れた景観がある中で三坂峠が選定されていることは、真念が「ちとせことぶく(千歳寿く)」と称えているように、泰平の世を象徴する美しい景観として捉えられものと推察され、四国遍路を代表する道中の景観ともいえます。

 寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』の本文には、「見坂(みさか)、茶屋 爰にて支度。見坂峠 登り無ふして下る事壱里斗り、此所より見渡ス景色よし、松山の城、道後の町、伊予の高根(石鎚山)、みたらへ(御手洗)、雄戸(おんど、音戸)の瀬戸、下の関、三ツケ浜、絶景いわんかたなし。」と記されています。本書収録の図版「見坂(三坂)峠」には、松山平野、瀬戸内海の島々、遥に芸州(広島)、周防、長門(山口)の山容を眺望したパノラマ景観と、峠の茶屋で休息する旅人や行商人などの姿が描かれ、江戸時代後期の三坂峠の賑わいぶりが見て取れます(今村賢司「大寶寺、岩屋寺から三坂峠へ」愛媛県歴史文化博物館編著『古地図で楽しむ伊予』風媒社、2018年)。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「峠からは道後の平野を俯瞰することが出来、松山の城や、遥の海原には伊予の小富士も見え、久しく山を歩いた眼には明るく映じます。」とあります。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)では、名所古跡を示す白い丸印で三坂峠が記載され、風光明媚な峠として紹介されています(当館蔵、写真④)。

写真④ 三坂峠(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 ところで、三坂峠の茶屋は、『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅳ-久万高原町-』(愛媛県生涯学習センター、2013年)に紹介されています。それによると、戦前まで三坂峠には「鈴木の茶店」という人気の茶店があり、その歴史は江戸時代にさかのぼり、松山藩の郷筒(ごうづつ)(村々を警備する役人)を務め、茶店をしながら三坂峠を行き来する人や物の監視をしていたこと、茶店には牛や荷馬車がつながれて、博労(ばくろう。主に牛馬の売買やその仲介を職業とする人)や荷馬車曳(ひ)きの人たちで賑わっていたとのことです。

 改めて、遍路にとって三坂峠が印象深かった理由を考えてみると、泰平で穏やかな松山と瀬戸内海の風景がとても素晴らしいことに加えて、これまでの遍路道が閉ざされた山中の景観から、遥か遠くまで一望に出来る海の景観に変わることによる心理的な解放感、第1番札所から順打ちした場合、八十八箇所のうち半分以上の札所を打ち終えることができた安堵感や達成感、この先の松山で四国最大の保養地である道後温泉があることから、道中の休息や娯楽への期待感などが要因としてあげられます。 

 四国の遍路道には三坂峠のような険しい峠は数多く存在します。峠は「遍路ころがし」の難所として恐れられて回避される一方で、苦労の末、登り切ると、広大なパノラマ景観や雄大な自然を独り占めできる瞬間があり、遍路の醍醐味の1つといえます。

 鉄道や道路の開通、トンネルの普及などにより、交通における峠の重要性は相対的に低下しています。しかし、江戸時代からの古い遍路道が四国4県の各所で国史跡に指定されているように、四国遍路の歴史的な景観や文化遺産としての価値が見直されています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情99―元三大師おみくじ―

2025年9月26日

 今日、有名な神社仏閣では参拝者の運勢を占うための「おみくじ」を授与しているところが多く見られます。おみくじの語源は国の政(まつりごと)や後継者の選定の際に神仏の意志を伺うために用いられた道具である「籤(くじ)」に、尊敬を表す「御(お・み)」が付けて、「おみくじ」と呼ぶようになったとされています。漢字では「御御籤・御神籤」と表記します。

 四国八十八箇所霊場のすべての札所寺院でおみくじを扱っているわけではありませんが、例えば、第7番十楽寺の「傘みくじ」、第19番立江寺の「福おみくじ」、第23番薬王寺の「開運厄除みくじ」、第24番最御崎寺の「幸運おみくじ」、竹林寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第40番観自在寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第66番雲辺寺の「雲のおみくじ」、第74番甲山寺の「うさぎみくじ」、第83番一宮寺の「傘みくじ」、第84番屋島寺の「元三大師(がんさんだいし)御籤」、第85番八栗寺の「歓喜天(かんぎてん)御籤」など、様々な種類が確認できます。第75番善通寺は四国霊場でも最大規模の札所寺院で、豊富な種類のおみくじがあります。傾向として、観光地化の進んだ札所寺院では、複数の種類やユニークなおみくじが見受けられます。

 「四国遍路道中図」が発行されていた戦前、昭和16年(1941)に四国遍路を行った橋本徹馬(てつま)は、その時の体験記『四国遍路記』を刊行しています。それによると、第51番石手寺(愛媛県松山市)の大師堂でおみくじを引いたことが記されています。

 「さて此日は興亜奉公日であつたので、此寺の参拝者は甚だ多く、中に国防婦人会の丸髭、七三、引きつめ、ハイカラなどの幾十人の人々等、各御堂を拝して後大師堂でおみくじを引いて居た。僕も旅のつれづれに、一つ自分もおみくじを引いて見ようと思ひ、婦人連の終るのを待つて引いて見た。『凶でも吉でも、どちらでも一向差支ない男ですが、まあ適当なおみくじを御與へ下さい』と思ひながら、引いて見ると、第八十九大吉と出た。其の文句は、『一片瑕なき玉、今より琢磨するによし。高人の識に遭ふことを得て、方に喜気の多きに逢うはん。』とある、大層善いおみくじであつた。若し大凶などが出たならば、恐らくはここに公表まではしないであらうから。」とあります。

 興亜奉公日とは、昭和14年(1939)9月から同17年(1942)年1月まで毎月1日に実施された国民運動で、「戦場の兵士の労苦を偲び、簡素な生活を送る日」とされ、国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕、日の丸弁当、貯蓄などが推奨されました。国防婦人会は日本の軍国主義的な婦人団体で、白い割烹着姿で出征兵士の見送りや慰問袋の作成などの「銃後活動」を行い、日本が戦争へと突入した時代に国民生活の統制機関として機能しました。

 この記事からは、石手寺は毎月1日の興亜奉公日に、国防婦人会等の参拝者がとても多かったこと、諸堂を参拝後に大師堂でおみくじを引いていた光景が読み取れます。また、橋本が石手寺で引き当てた「第八十九大吉」の文句から、石手寺のおみくじは「元三大師おみくじ」、正式名称は「元三大師百籤(ひやくせん)」であることがわかります(写真①)。

写真① 江戸時代の「元三大師百籤」の解説書とおみくじ(個人蔵)

 「元三大師百籤」は古代中国から伝わった「天竺霊籤(てんじくれいせん)」を参考にして、平安時代に元三大師が観音菩薩に祈って授かったという百の漢詩をもとに考案され、おみくじの原型とされています。小さな穴のあいた箱に納められた百本の籤から1本を取り出し、引いた番号に対応する漢詩によって、吉凶を占います。

 日本のおみくじの創始者とされている元三大師は、平安時代の僧で第18代天台座主(てんだいざす。天台宗の最高位)となった慈恵大師・良源上人(912~985年)のことです。命日が正月3日であることから「元三大師」と称されました。元三大師を象った魔除けの護符として「角(つの)大師」「豆大師」など様々な様式があります。ちなみに、香川県丸亀市にある妙法寺(天台宗、別名「蕪村寺」)は丸亀藩主京極家の祈願寺で、厄難災除・魔除守護の元三大師降魔尊像を安置し、「元三大師おみくじ祈願所」として知られています。

 ところで、石手寺の納経所近くには明治期の俳人・正岡子規(1867~1902年)の句碑「身の上や御鬮を引けば秋の風」(写真②)が建てられています。

写真② 石手寺にある正岡子規の句碑「身の上や御鬮を引けば秋の風」(当館撮影)

 明治28年(1895)9月20日、病気療養中の子規は俳人・柳原極堂とともに石手寺を散策したことが『散策集』に記されています。「大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけば其側に落ち散りし白紙何ぞと聞くに当寺の御鬮二四番凶とあり中に『病気は長引也命にさはりなし』など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり」とあり、偶然、自身の境遇を予言するかのようなおみくじを拾ったことから、この句を詠んだことがわかります。実際、子規はこの年の秋に帰京して闘病生活が始まります。

 子規が大師堂で拾ったおみくじは「元三大師おみくじ」です。その内容は、大正5年(1916)の『元三大師御籤諸鈔 乾』によると、「【第二十四番凶】 凶御籤にあふ人は物事に障有て思ふ事の通じ難き意なり去とも慎ふかく誠を盡し心長せば終には本望を遂べし是は第二句の未通の義後通ずる意なり神々を信じてよし〇病人長引とも命に障なし祟物女の障の意あり〇悦事半吉〇訴訟事叶ふべし急に埒明難し〇待人来らず〇争事勝て後心の儘ならず〇失物苦労して尋えるべし〇売買悪し〇家作わたまし元服嫁取婿取旅立よろしからず〇生死は十に八九は生べし〇道具は衣類太刀かたな大事の道具なり」と示されています。この中に確かに「病人長引とも命に障なし」と記されています。元三大師おみくじには様々な項目について指針が示され、今日のおみくじの原型とされていることが理解できます。

 石手寺には江戸時代の「元三大師御神籤」の版木が残され、松山城下の町人らが施主となって作成されたものと考えられ、四国霊場の札所寺院におけるおみくじの実態を示す資料として注目されます(今村賢司「石手寺の版木について」『2016年度 四国遍路と霊場研究3 四国霊場第五十一番札所石手寺総合調査報告書』愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター、2017年)。  

 江戸時代に庶民の社寺参詣が盛んとなり、おみくじも一般に広く親しまれるようになりましたが、四国霊場の札所寺院で授与されるおみくじも、参拝者や遍路にとって、神仏の意志やメッセージを受け取るための信仰的行為であるとともに手軽な娯楽の一つとして人気となりました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情98―四国霊場の松―

2025年9月15日

 四国八十八箇所霊場には、第75番善通寺(香川県善通寺市)の樹齢千数百年といわれる大楠、第2番極楽寺(徳島県鳴門市)の樹齢千二百年余りとされる長命杉、第5番地蔵寺(徳島県板野町)の樹齢八百年と伝える大銀杏など、いにしえの名木が存在し、それらは霊木として崇められ、札所寺院のシンボルになっています。

 四国霊場の境内に多く見られるのが松です。松は神仏がこの世に現れた姿を意味する「影向(ようごう)の松」や、神が降臨する際の依り代(よりしろ)とされた「羽衣(はごろも)の松」などのように、古来より「神聖な木」とされています。また、厳寒に緑色を保つ松は「不老長寿の象徴」とされ、「松竹梅」に表現されるように「おめでたい樹木」として私たちの生活に根付いています。

 四国霊場の松は「大師松」「弘法大師手植えの松」「三鈷(さんこ)の松」などの名称が示すように、弘法大師伝承をもつものが多いのが特徴と言えます。樹齢の長いものや枝振りや樹形の優れた名松が存在しました。

 第72番曼荼羅寺(香川県善通寺市)には、弘法大師が手植したと伝えられる、遍路が被る菅笠(すげがさ)を2つ重ねたような珍しい樹形の「不老松」(通称「笠松」)が生育していました(写真①)。縁起によると、曼荼羅寺の創建は四国霊場で最も古い推古4年(596)と伝えられます。

写真① 第72番曼荼羅寺の「不老松」、当館撮影

 江戸時代後期、寛政12年(1800)の『四国遍礼(へんろ)名所図会』に「松の大樹 方丈の庭にあり」と本文に記載されているのが不老松と推察されます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「境内に大師御手植不老松と言う周囲三十間、高さ二間の菅笠を二つ伏せたような恰好の良い松があり」と記され、昭和63年(1988)の平幡良雄『四国八十八カ所(下)伊予・讃岐編』には「樹の高さ四㍍、枝葉は東西へ十七m、南北十八m、円形のカサ形をした美しい老松である」と紹介されています。不老松は平成14年(2002)春、松くい虫(「マツノマダラカミキリ」の通称)の被害によって枯死(こし)しましたが、その幹を用いて、弘法大師像が刻まれて「笠松大師」として生まれ変わっています(写真②)。

写真② 第72番曼荼羅寺の「笠松大師」、当館撮影

 また、第51番石手寺(愛媛県松山市)には「門前の松」と呼ばれた独特な樹形をした名松がありました。

 『四国遍礼名所図会』収録の石手寺図版に描かれた門前の松がそれにあたるものと推察されます。昭和25年(1950)の橋本徹馬『四国遍路記』に「此寺は境内の入口に蟠踞(ばんきょ。「根を張る」の意味)せる松の巨木及び、同所にある源頼義の供養塔が、既に参拝者をして尋常の寺にあらざる事を思はしめる」とあり、石手寺の名所として絵葉書にも紹介されています(写真③)。

写真③ 第51番石手寺の「門前の松」、個人蔵

 昭和37年(1962)の北川淳一郎『熊野山石手寺』(石手寺発行)には、「種類は黒松で、根廻り四米、地上三米で二大樹幹に分岐するとともに、極めて面白く迂回錯綜している。東西に延びる二大枝は周囲各々一米半もある。樹高は低くて十米を出でない。枝張りは、西方に五米、北西に十米、北東方に九米。全体の容姿が誠に美事だ。樹齢は専門家にきくと、先年枯れた今治国分寺の天皇松は年輪を数えると九百年、これの半分と見て、高々五百年から六百年ぐらいのものだろうと云う」と紹介しています。門前の松は昭和30年(1955)11月4日に愛媛県の天然記念物に指定されましたが、松くい虫の被害によって枯死し、昭和55年(1980)3月21日に指定解除されました。

 今治国分寺の「天皇松」とは、第59番国分寺(愛媛県今治市)に生育していた聖武天皇ゆかりの松のことです(写真④)。天平勝宝3年(751)、聖武天皇の病気平癒のために新薬師寺(奈良市)で衆生の救済と延命を祈願した大法会が行われた際、国分寺でも法会が行われ、その際に植えられた松と伝えられています。昭和24年(1949)9月17日に愛媛県の天然記念物に指定されましたが、台風による倒木被害によって、昭和30年(1955)11月4日に指定解除されました。

写真④ 第59番国分寺の「天皇松」(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 その他、四国霊場の有名な松として、第40番観自在寺(愛媛県愛南町)の「平城天皇御手植えの松」(昭和19年の台風で倒木。本ブログ47「第40番観自在寺と平城天皇」参照)、番外霊場の延命寺(愛媛県四国中央市)の弘法大師手植えと伝える「誓い松」(昭和43年枯死。写真⑤)などがあげられます。

写真⑤ 番外霊場・延命寺の「誓い松」、個人蔵

 これらの事例を見ると、一般に松の寿命は杉や檜などに比べると短く、台風や害虫等の被害を受け易いため、現在の四国霊場では松の老木・古木が少ない傾向にあります。

 ところで、弘法大師ゆかりの松で最も有名なのは高野山(和歌山県高野町)にある「三鈷(さんこ)の松」です(写真⑥)。次のような弘法大師伝説が残されています。

写真⑥ 高野山の「三鈷の松」、当館撮影

 大同元年(806)、弘法大師が唐から帰国する時、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、出航する港から東の空に向けて、密教法具の「三鈷杵(さんこしょ)」を投げたところ、金色の光を放ちながら、紫雲の中に消えていきました(写真⑦)。帰国後、高野山の松の木に唐より投げた三鈷杵がかかっているのを発見し、大師は密教を広めるにふさわしい場所であると決心し、高野山に真言密教の道場を開山しました。

写真⑦ 三鈷投所(山口小五郎『弘法大師一代記』明治14年、当館蔵)

 「霊場高野山一千百年御遠忌記念葉書」のタトウ(収納袋)には高野山開創の象徴とされる「飛行三鈷」がデザインされています(写真⑧)。ちなみに普通の松の葉は2葉か5葉ですが、三鈷の松は三鈷杵のように3葉であり、参拝者は縁起物として落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。

写真⑧ 「霊場高野山一千百年御遠忌記念葉書」のタトウ、個人蔵

 以上、四国霊場と松について見てきました。八十八ヶ所霊場の札所の縁起類に記載する創建年より、境内に生育する老木の樹齢の方が古いと推察される事例も確認されます。松をはじめとする四国各地の神聖な古木の存在は、霊場の誕生や札所の成立背景を探る上でとても注目されます。