中国四国名所旧跡図29 阿州右衛門三郎菴(杖杉庵)

5月 16日 火曜日

11番札所藤井寺を出ると、焼山寺越えという難所に差し掛かる。標高700メートルの12番札所焼山寺にまで登る3里(約12キロメートル)の山道である。このルートについて、松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」には、「緑樹森々として甚物すごき處なり」とし、最後の「十八丁登るに如何ニも遍路中第一番と思われる」と記されている。また、焼山寺から13番札所一宮寺までは、5里(約20キロメートル)。この道も「山路渓間河あまた」の難所で、京都の商人升屋徳兵衛の文化6(1809)年の旅日記には、「道の側に遍路人の高山ゆへ遂ず死ゆへ墳墓数多あり」と記されている。

西丈は焼山寺から18丁(約2キロメートル)下った所にあった杖杉庵(徳島県神山町)を描いている。絵には「阿州右衛門三郎菴」と添書されているが、この庵は、遍路の元祖とされる衛門三郎が弘法大師とやっとめぐり会い、病死したとされる所に建っている。行き倒れた衛門三郎の杖を弘法大師が墓標として立てたものが育って、杉の大木になったというが、西丈の絵にも大きな杉とともにそれを拝む人物が描き込まれている。

『四国遍路道指南』(貞享4年)には、右衛門三郎の塚に加えて、しるしの杉と地蔵堂があると記されているが、時代が下った天保4年の「四国遍路道中雑誌」には、本尊が弘法大師像で、その傍らに石に腰掛けて、杖を突いた右衛門三郎像が安置されていることが記されている。江戸時代後期の『四国八十八ケ所永代笠講定宿附』(当館蔵)には、「右衛門杉 あん」とあり、燈明銭銅と記されていることから、遍路が訪れる番外札所として定着していることがうかがえる。

西丈は右衛門三郎伝説に因んで、ここでも二首書き付けている。

形見からミちを右衛門の三郎か野地のしるしに杉の一本
枝折して廻る邊路を導ん右衛門が杖の杉の一もと

中国四国名所旧跡図28 阿州切幡寺

5月 10日 水曜日

讃岐の88番札所の大窪寺から1番札所の霊山寺までは約40キロメートル。10番の切幡寺まではその半分の約20キロメートルなので、遍路の中には先に切幡寺に出て、それから1番に向けて逆に札を納めていくものも多かった。しかし、西丈は大窪寺の後に鳴門に寄っているので、1番の霊山寺に出て順に札を納めて行ったものと考えられる。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では、88番から10番ヘの道を「到而山道のミにして眺望もなければおもしろからず」と記すのに対して、1番への道を浜辺道として「嶮路なる處もあれども眺望よし」としている。四国を描きながら旅をする西丈にとっては、浜辺道を通って正解といったところであろうか。

麓の切幡村から「九折嶮路」を登り切った山の中腹、標高155メートルの所に、切幡寺の境内がある。坂道を登ったところに二王門があり、その奥に本尊の千手観音を安置した本堂が見える。その右手前の茅葺きの建物が大師堂であろうか。松浦武四郎は、「前ニは北方幷吉野川を眺、淡州、紀州は手ニとる如く見、其風景筆紙ニつくしがたし」と記しているが、残念ながら西丈は切幡寺からの眺望を描き残していない。

寺の縁起によると、弘法大師がここに来た際に、天から幡1流が吹き流れてきたので、山に登ってみると、南海数千里を眺望して、補陀落世界のようだったので、救世菩薩の像を彫って寺を建てて安置したと記されている。また、言い伝えでは、修行中の弘法大師が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、少女が織りかけの布の中ほどを切って差し出した。大師が少女の願いを聞くと、千手観音を刻み、得度灌頂を授けた。すると、少女は即身成仏して千手観音の姿になったので、堂宇を一夜で建立し、切幡寺と名付けたと伝えられる。

西丈はその言い伝えを耳にしたのか、それに因んだ和歌を書き付けている。

乞へはとておる真中を切機寺五障の罪をあろふ手ぬくい
御仏の国へ騎込女武者機を切たる腕の強さよ

香川元太郎さん講演会「迷路はこんなにおもしろい」

5月 3日 水曜日

ゴールデン・ウィークも後半の5連休の初日。朝の高速道路下り線は、伊予インター手前2キロで渋滞が発生していました。最初は事故かと思ったのですが、明神山トンネルを出ると、あらフシギ! 普通に流れ出して、さっきの渋滞は何だったの? といった感じでした。
さて、歴博の特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」も、今日は香川元太郎さんご本人に来ていただいて講演会。講演会と言っても、子どもたちと一緒に「かくし絵」を見つけたり、迷路を解いてみたりといった形で進むのですが、頭が固くなってしまった大人と違って、子どもは難なく迷路をクリアしていき、本当にすごいなと感心しました。

松山市出身の香川さんの迷路の原点は、小さい頃、入りくんだ路地を通り抜けた体験。その後、松山城を皮切りにお城に興味を持つようになり、大学で美術を学んだ後、歴史考証イラストの世界へ。そして、息子さんにせがまれて描いた迷路が好評だったのにヒントを得て、「迷路絵本」の企画を思いつかれたそうです。
7月には、迷路絵本シリーズ最新作「おもちゃの迷路」がPHP研究所から出版予定で、ただ今、制作の真っ最中とか。
香川さんの講演会・サイン会は、明日5月4日(木)10:30からもあります。朝9:00からエントランスホール総合案内横で整理券を配布予定。原作者と一緒に迷路の楽しみ方を味わう、またとない機会ですので、ぜひご来館いただければ幸いです。

中国四国名所旧跡図27 阿州地蔵寺并奧院

4月 26日 水曜日

大鳴門の渦潮の雄大な景色を楽しんだ西丈は、阿波の札所を1番から順に廻り始めたものと思われる。このあたりは「阿波十里十ケ所」といわれる近距離に札所が集中している地域であるが、その中で西丈は5番札所の地蔵寺を描いている。

縁起によると、地蔵寺は弘法大師が嵯峨天皇の勅願で当地において勝軍地蔵を刻み、堂宇を建立したことに始まるとされている。また、「四国徧礼霊場記」(元禄2年刊)には、後宇多天皇の時代に、住持の定宥が熊野権現の霊託により地蔵尊を造立、その中に弘法大師作の小仏を奉納し、あわせて造立した阿弥陀と薬師を脇侍としたことが記されている。地蔵寺は古くから武将たちの信仰を集め、室町期に寺運が興隆、境内に多くの塔頭をもつ大寺院に成長したが、天正10(1582)年に長宗我部元親の兵火により焼失。江戸時代に入り、徳島藩主蜂須賀氏により再建されている。

西丈は地蔵寺を描いてはいるものの、むしろその目は、地蔵寺の北側の高台に位置する奧之院に注がれている。『阿波名所図会』(文化11年刊)には、このあたりに羅漢原という土地があり、宝暦の頃から願主が浄財を集めて、羅漢堂の広大な精舎を創建したとある。この羅漢堂が西丈の描く奧之院である。

2階建ての堂の両脇から回廊が伸びて、2棟の別棟へとつながっている。羅漢堂はこの3つの堂がセットで、ここを巡ることによって500体の羅漢像を参詣する仕掛けになっていた。「四国遍礼名所図会」(寛政12年)は、奧之院について「中尊釈迦如来、左弥勒菩薩、右大師、各大仏」と記し、西丈よりもさらに精密に羅漢堂を描写している。

羅漢堂については、先に記した『阿波名所図会』に描かれた挿絵も興味深い。中央の二階建て部分に大仏が鎮座し、右の建物には弘法大師坐像と思われるものが描かれている。回廊に部分は2段に五百羅漢が並んでいるが、『阿波名所図会』の挿絵は、建物の内部がわかるように透視して描く趣向になっている。

元禄8(1695)年、江戸の本所に羅漢寺が創建、その後享保11(1726)年までに本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍が完成している。そのうち、東西羅漢堂には、松雲元慶の造立した五百羅漢像が安置されているが、この羅漢堂は参詣者が定められた順路より堂内を歩き回ることで、羅漢像を拝観する仕掛けになっていたという。その後、『江戸名所図会』(天保年間)に羅漢寺は大きく取り上げられており、評判を呼んだ様子がうかがえる。地蔵寺奧之院の羅漢堂はそうした江戸での人気を知り、参詣者のために新たに付け加えられた要素なのかもしれない。そのインパクトは西丈にとっても大きかったようで、竜宮城にも見える不思議なこの建物を、札所よりも大きく描いてしまっている。

常設展 愛媛の祭礼図

4月 23日 日曜日

常設展示室の「祭りと芸能」の展示替えで、当博物館所蔵の祭礼図を列品しました。昭和初期の宇和島八ツ鹿踊りの古写真、吉田秋祭りを描いた「吉田祭礼絵巻」(中野本、栗田本、松末本、青木本の4点)、西条市氷見の石岡神社祭礼渡御行列之図(昭和初期)などです。期間は7月中旬までとなっています。

写真は上から、
 石岡神社祭礼渡御行列之図(右部分)
 石岡神社祭礼渡御行列之図(左部分)
 吉田祭礼絵巻(栗田本)の鹿踊と牛鬼
の順となっています。

特別展「迷路絵本」ベビーカー内覧会

4月 22日 土曜日

4月22日(土)の特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」開幕に先立ち、21日(金)に未就学児連れの親子対象の「ベビーカー内覧会」が行われました。

ベビーカー内覧会には、10組、約30名の参加者があり、親子で迷路などに挑戦していただきました。

巨大な床迷路を、歩きながら解いて楽しんだり、

香川元太郎さんの迷路絵本をパネル化して、迷路、かくし絵、クイズにチャレンジ。

高さ240センチにひきのばした壁迷路で、かくし絵をさがしてみたり、

展示室全体が立体迷路風になっており、クイズに挑戦しながら、正解すれば次に進むことができる。

今回の展示は、かくし絵・迷路絵本作者で歴史考証イラスト画家の香川元太郎さん(松山市ご出身)の作品を体感できる内容になっています。

会期は4月22日(土)から6月25日(日)までとなっています。ぜひご来場下さい。

特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギ世界」の内容はコチラ
http://www.i-rekihaku.jp/exhibition/index.html#ehon

テーマ展「よろいかぶと」、まもなく開幕です!!

4月 20日 木曜日

文書展示室では、4月22日(土)からテーマ展「よろいかぶと」を開催します。展示では、古代のよろいから江戸時代の大名家のものまで、「よろいかぶと」の移り変わりを紹介します。

現在は、開幕に向けて列品作業中。

大名家の「よろいかぶと」を慎重に展示していきます。博物館が収蔵する「よろいかぶと」を一堂に展示する機会はこれまでありませんでしたが、大きなケースの中にずらっと並んだ様子は壮観です。

展示室内には、「かぶと」を自由にかぶって、記念写真を撮ることができるコーナーもあります。

5月5日から7日は、この場所でよろい武者に変身するイベントも行います。ふるってご参加ください。

よろい武者に変身★
5月5日~7日
10:00~12:00(受付は9:00~)
13:00~15:00(受付は12:30~)
参加費:当日の常設展示観覧券か共通観覧券が必要です。
定員:各日60人(定員になり次第、終了いたします)

「愛媛のくらし」展示室の鯉のぼり♪

4月 18日 火曜日

4月も半ば。もうすぐ端午の節句です。「愛媛のくらし」展示室に、鯉のぼりが登場しました。
鯉のぼりは、男の子の立身出世を祈って、江戸時代中期頃から作り始めたとされます。明治末年までは紙製が多く、昭和に入ってからは布製が多くなりました。
展示しているのは、昭和25(1950)年、八幡浜市の若松旗店で作られた鯉のぼりです。
展示室には青い空もそよぐ風もありませんが、真鯉(黒い鯉)と緋鯉は悠然と泳いでおります。

【設営中】特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」

4月 16日 日曜日

4月22日(土)開幕の特別展「迷路絵本 香川元太郎のフシギな世界」。

現在、展示室内の設営中です。

立体迷路風となる展示室内に、壁パネルを建てる作業がひと段落。

その壁面は、香川元太郎さんの迷路作品を大きく引き伸ばしています。

『物語の迷路』にでてくるガリバー旅行記。

展示担当者よりも、大きいガリバーのできあがりです。

これからクイズパネルや、原画作品を列品する予定です。

なお、開幕前日のベビーカー内覧会は現在、参加者募集中です。

日時:4月21日(金)10:30~17:00
定員:30組
観覧料:無料
※要事前予約〈お申し込み先〉愛媛県歴史文化博物館 TEL:0894-62-6222

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」30 「災害」・「わざわい」の語源

4月 13日 木曜日

現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。

日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。

なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。

さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。

ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)

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