「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」④

3月 19日 日曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「中予の古墳探訪」から。





特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」19 地震による道後温泉不出4

3月 18日 土曜日

宝永南海地震と道後温泉については、松山市立子規記念博物館編『伊予の湯』に『玉の石』が紹介されており、参考となります(『第三〇回特別企画展図録 伊予の湯』1994年、32頁)。これは道後温泉の案内記で僧曇海により元禄15(1702)年に成立したものです。温泉の由来や元禄15年当時の温泉が描かれており、道後温泉の詳細が把握できる史料として古いものといえます。この18世紀初頭成立の『玉の石』(別名『道後温泉由来記細書』)には宝永南海地震後に加筆された「大地震事」が含まれており(『道後温泉』281~283頁)、より具体的な被害の様子がわかります。「宝永四丁亥年十月四日未の刻に諸国大地震 爰に与州道後の温泉に数千浴し侍りけるに 一の湯釜の鳴うごく事をびたゞし 山も崩るゝ計にて 忽温泉止や否 数々の湯坪 一瞬の間に涸(かれ)にけり 湯中にある者ハたゞ池の魚の樋をぬかるゝに相同し 気をうしなひて宛転(ふしまろぶ) 適(たまたま)人心地有ものは自他の衣類をわきまへず 前後忘してさはぎあへり」とあり、湯は一瞬にして枯れ、湯に入っていた者は転倒したり、自分や他人の衣服もわからないほど騒いだりするなど、地震の際の入浴者の混乱状況がわかるのです。そして「湯守村長城下にはしり 急をつぐる事櫛の歯を挽くがごとし 又湯の町近辺の池井 木の葉をくゞる谷水まで一滴もなく同時に乾きぬ 往昔も度々此湯涸し事有といへ共 今更眼下に見る事驚にたえたり」とあり、すぐに湯守や村役人が城下に報告しましたが、道後では温泉だけではなく、池、井戸、谷水まで涸渇してしまい、しかも、それは初めての体験ではなく、以前にも不出を経験していたものの、目の当たりにして驚いたというのです。この以前の経験は貞享2(1686)年地震のことと思われます。そして「故に大守有司に命して 八幡宮湯の神社 其外所々の祈願所へ時日をうつさず(中略)社家に命して俄に玉の御石に仮の御殿をしつらひ注連をひき不浄をいましめ 社司爰に宮籠り 幣帛をさゝげ 十二番御(ばんかくらを)奏し(中略)又一の湯を精進屋とし 数輩の宮人殿籠(中略)明れば同五つのとし(中略)去年のかんな月四日より 昼夜の震動やむ事なく いかなる時か来りけんと精神をけづる計なり」とあり、涌出回復までの祈祷の様子がわかります。これについては『温泉祈祷・湯神社再興日記』(別名「太守様并郡方御祈祷覚帳并湯神社再興諸日記」〔宝永四年亥十月五日 烏谷備前控、湯神社蔵〕『道後温泉』306~311頁所収)にも詳しく載っています。

さて、地震発生で湯の湧出が止まりましたが、その後に回復する様子も『玉の石』に記されています。「しかる所に 閏正月廿八日にいづくともなく老翁一人来り 明廿九日より御湯はかならず湧出べし 神託疑ふ事なかれと 告け知しめて去にけり 湯守明るを遅しと暁天に玉の御石に神拝 籠ゐの社人相かたらひ 一の湯釜の蓋をとれば 不側(ふしぎ)や釜中頻に鳴動して湯気 熱々と立ちのぼる(中略)夫より日毎に湧倍て 弥生半には湯釜の瀧口になかれいて 二三養性諸のゆづほまて悉く元のことく湛(たたへ)つゝ 細々浪たつて落来る瀧の音 かふり山にひゞきて(中略)四月朔日より諸人浴すべきとの御ゆるされあり」とあり、『諸事頭書之控』や『松山叢談』よりもその回復過程が具体的にわかります。宝永5(1708)年閏正月28日にどこからともなく老人がやってきて湯が出ることを予言し、翌日湯気が立ち上って、日ごとに湧出量も多くなり、3月中旬には湯釜にも元のように流れはじめ、4月1日から人々が入浴できるようになりました。道後温泉では将来の南海地震でも同様の事態が発生するかもしれず、過去を知ることが大切だといえるでしょう。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」③

3月 17日 金曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「南予の古墳探訪」。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」②

3月 16日 木曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。今回は「プロローグ 古墳探訪の世界へ」から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」18 地震による道後温泉不出3

江戸時代中期以降になると残された史料も多く、必然的に地震記録も多く見られるようになります。まず『松山叢談』には、貞享2(1686)年12月4日に大地震があって「道後湯没す」とあり、『予陽郡郷俚諺集』には、これを同年12月10日のことと記し、不出となったのではなく「大地震泥湯湧出、後青湯となる」とあります(『松山叢談』334頁、『予陽郡郷俚諺集』21頁)。つまり湯は止まらなかったけれども泥湯(濁った湯)が出てしまい、その後、元の「青湯」に戻ったというのです。大正15年発行『道後温泉誌』に編年体で温泉の歴史が記されていますが、その中でも「貞享三年十二月十日、地又震ひ清泉変して黄濁す、暫時にして旧に復せり」とあります(『道後温泉誌』道後温泉事務所発行、1926年、10〜13頁)。これも温泉における地震被害を知る上で貴重な記述であり、将来の地震による被害予測でも、温泉不出とならなくても泥湯が出てしまって温泉機能が停止する可能性があるといえるでしょう。この貞享2年12月の地震は安芸国、伊予国での被害記録が見られるため、平成13年に発生した芸予地震に類するタイプの地震だと思われます。

次に大きな被害の出た宝永南海地震についてです。現在、道後の湯神社では毎年3月19日に湯祈祷が行われています。湯祈祷は宝永南海地震によって温泉が不出となったものの再び湧出したことから、それに感謝して神楽を奉納されたのが起源であり、その宝永南海地震の際の道後温泉の様子を紹介したいと思います。

宝永4(1707)年10月4日に発生した宝永南海地震による被害は、『松山市史』にも紹介されていますが、145日間も温泉の湧出が停止し、松山藩主松平定直が湯神社に祈祷を仰せ付けています。『垂憲録拾遺』には「十月四日八ツ時ヨリ同六日迄関西大地震、勢州、紀州、土州別テ高汐上ル、道後温泉没、依之於湯神社御祈祷アリ、翌年四月朔日ヨリ湯出ル」とあり(『垂憲録・垂憲録拾遺』伊予史談会、1986年発行、130頁、『松山市史』第1巻、松山市、1992年、38頁)、被害の概要がわかります。この『垂憲録拾遺』は文政8(1825)年に成立した松山藩主歴代の事績をまとめた『垂憲録』の拾遺として藩士竹内信英が天保6(1835)年頃に編纂した史料であり、信憑性は高いものです。また、『諸事頭書之控』に地震での温泉不出後の様子が書かれています。「一、道後湯之儀、去亥十月四日大地震以後湯出不申候処、漸閏正月中旬ゟ少宛泉、最早只今前躰之通リ湯出申由、道後入湯之儀、来ル四月朔日ゟ御赦免被成候間、此旨町中江相触申様ニ御町奉行所ゟ被仰下、三月廿三日拾壱与へ相触ル」とあり(『諸事頭書之控』伊予史談会、1988年発行、87頁)、地震翌年の正月中旬から湯の湧出が少し出始め、3月にはほぼ回復し、4月1日から入湯が出来るようになったことがわかります。また同様の史料として『松山叢談』に「十月四日未上剋大地震、道後温泉不出、於道後湯神社御祈祷被仰付御自身様にも神代より出る湯、此方代に至り不出は不徳故の事なりと御勤心厚く御祈念被遊、尤御断食にて有しと云、然るに其中日比より湯少々づゝ泉み出候旨注進あり、夫より一寸二寸と出で元の如く出しとなり」とあります(『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』1935年発行、391〜392頁)。このように急に湧出が回復したのではなく、地震発生から約4ヶ月後から少しづつ回復しはじめ、半年後の4月1日に入湯できるようになった経過がわかっています。

「はに坊」が解説する「えひめの古墳探訪」①

3月 15日 水曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、ナビゲーターの当館のマスコットキャラクター「はに坊」が本展の一部をご紹介します。まずは基礎知識から。

特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

特別展関連講座のご報告

3月 14日 火曜日

特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪」は好評開催中ですが、関連講座の結果についてご報告します。

3月12(日)には体験学習講座「東予の古墳探訪」を行いました。参加者約30名。今回写真展示をしている今治市妙見山1号墳、同野々瀬古墳群を現地で見学いただくとともに、出土品を展示している同相の谷1号墳を見学していただきました。また、車窓からの見学になりますが、西条市天神古墳群の近くを通るルートで実施しました。参加者には5歳から80代の方までおられ、展示室では体験することができない古墳探訪の魅力を感じていただいたことと思います。

3月4日(土)には考古講座「えひめの埴輪を探る!」(講師:山内英樹氏)を開催しました。参加者約30名。これまでの研究成果をわかりやすく解説していただきました。受講者には小学生の姿もありました。

2月18日(土)には考古講座「特別展「はに坊と行く!えひめの古墳探訪のみどころ」」を開催しました。参加者約50名。今回の展示の趣旨・開催経緯・みどころを簡単に紹介しました。講座終了後には展示解説も実施しました。

講座にご参加いただいたみなさんにお礼申し上げます。
3月26日(日)13:30から展示解説も実施します。是非ご参加ください。特別展は4月9日(日)までです。皆様のご来館をお待ちしております。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」17 地震による道後温泉不出2

3月 13日 月曜日

先に挙げたとおり天武天皇13(684)年の白鳳南海地震で道後温泉が不出となりました。これは『道後明王院旧記』にも見えますが、国史である『日本書紀』に明記され、しかもその年代が律令制期に入って地方からの情報も正確に収集できる時期の史料なので、これは史実といえるでしょう。その次に、温泉不出となった記録は、一気に中世まで新しくなりますが、享禄年中(1528~31年)に賊徒と戦い、太刀の血を洗うと、温泉が枯れ、湯神社に祈れば湧出したということが『予陽郡郷俚諺集』に記され、『道後温泉』では地震史料として扱われています。しかしこれは史料の記述内容や、同時期の地震被害の記録が県内や全国の他地域でも確認できないことから、地震による不出かどうか判断はできません。

江戸時代に入ると、『道後明王院旧記』に慶長19(1614)年10月25日に「大地震、温泉を埋む」とあります。『松山叢談』にも「慶長十九年十月廿五日、寛永二年乙丑三月十八日共に地震して湯出ず、其の後月を越て又出で初の如し」と記されています(曽我鍛編『予陽叢書第四巻 松山叢談第一』予陽叢書刊行会、1935年、113頁)。この慶長19年10月25日の地震は関東地方、北陸地方から四国地方に到るまでの広い範囲で史料が残っているものの、その実態はよくわかっていません。震源域が日本海なのかそれとも東海や南海なのか諸説があります。『松山叢談』は明治初期に秋山久敬らが旧藩主、旧藩士に伝わる記録等をもとに編纂された松山藩の歴史を知る上で基本となる史料であり、それらに記載されていることから信憑性は高いといえます。高橋治郎氏は『道後明王院旧記』の記述から、これは温泉不出とはいえず、斜面崩壊により道後温泉が埋まったと解説しています。ただし『松山叢談』に「湯出でず」そして翌月以降に再湧出したことが記されているので、地震による温泉不出の事例として扱ってもいいのではないでしょうか。

次に『松山叢談』に記されている寛永2(1625)年の地震があります。『久米八幡宮記記録抜書』に「一、寛永二年御先代様之時分、大地震之時、道後温泉不出、湯之岡ニ仮社ヲ建」と記され(『道後温泉』102頁)、この地震は3月18日に発生したものの詳細な記録がなく、どのような地震だったのかは不明な点が多いのです。しかしその3ヶ月前には安芸国(広島県)にて、3ヶ月後に熊本で地震被害の記録が残り、西日本で連続して地震被害が出ています。この約30年前には文禄5(1596)年7月に中央構造線断層帯を震源と推定される、いわゆる慶長伊予地震、豊後地震、伏見地震が連続して発生していますが、この寛永2年の地震も中央構造線断層帯に沿って広島、松山、熊本と連続して発生している可能性もあります。文禄5年(慶長地震)から約30年しか経過していないことから、余震もしくは誘発地震に該当するかどうかも検討対象となってくると思われます。平成28年4月の熊本地震以来、中央構造線断層帯を震源とする地震の歴史が注目され、特に慶長地震は取り上げられる機会が増えましたが、寛永2年の地震についても愛媛県、道後温泉と中央構造線断層帯関連で無視することはできないと言えます。同様記事は『予陽郡郷俚諺集』、『道後明王院旧記』、『小松邑志』にも記載があるなど史料が比較的豊富なので、今後、検証が必要となる地震だと思われます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」16 地震による道後温泉不出1

3月 11日 土曜日

今後30年以内に70%程度の確率で発生が予想されている南海トラフ巨大地震(東海地震・東南海地震・南海地震の三連動地震)ですが、南海トラフを震源とする巨大地震は過去にも100年から150年の周期で発生していることが各種史料から明らかとなっています。南海トラフ地震に関する文献史料として最古の記録が『日本書紀』天武天皇13年(684)年10月14日条の白鳳南海地震です。この条には「壬辰、人定に逮りて、大きに地震る。国挙りて男女叫び唱ひて、不知東西ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出でず。土佐国の田苑五十万頃、没れて海と為る」とあり、まず「伊予温泉」つまり松山市の道後温泉の湯が止まり、土佐国で地盤が沈降して海水が浸入したこと等が記されています。つまり南海地震に関する最古の文字記録の中で、最初に登場する地名が「伊予」であり、道後温泉の被害が中央(朝廷)でも注目されていたことがわかります。

そして道後温泉はこの白鳳南海地震だけではなく、100年から150年周期の歴代の南海地震等によってたびたび湧出が止まっています。このことは松山市発行の『道後温泉』(「道後温泉」編集委員会編『道後温泉』松山市、1982年、101~106頁)や高橋治郎氏「地震と道後温泉」(『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、2014年)にて紹介されていますが、ここでは歴代南海地震での不出や復旧の様子をより具体的に紹介してみたいと思います。

まず『道後明王院旧記』という史料があります。これは道後温泉の管理にあたっていた明王院の記録で、成立は江戸時代であり、一次史料としては扱えませんが、参考までに紹介しておきます。明王院については、江戸時代初期に町奉行が道後温泉の支配を行っていましたが、その後、藩主の別荘であった道後御茶屋の御茶屋番が温泉の管理を行い、元禄年間頃に御茶屋番が廃止され、修験の明王院が温泉の鍵を預かり、温泉を司るようになっています。それが明治時代初期の修験道廃止まで続いたという経緯がありました。この明王院の記録の中に、まず推古天皇13(605)年に「温泉陥没す」とあり(『道後温泉』102頁)、次に推古36(628)年に地震にて温泉が不出となり、三年を経て、舒明2年9月に出たといいます(『道後温泉』102頁)。684年の白鳳南海地震よりも古い記録で、『予陽郡郷俚諺集』にも「人王三十四代推古天皇三十六年、地震して温泉没して不出、三年を経て舒明天皇三年九月、温泉再出て元の如し」と見えます(伊予史談会編『伊予史談会双書第15集 予陽郡郷俚諺集 伊予古蹟志』1987年、20頁)。これも史料の成立年代が江戸時代であり、同時代の一次史料ではない点と、他にこの7世紀前半に同様の地震記録が確認できないことから、史実かどうか信憑性は高くはないと判断できます。ただし『予陽郡郷俚諺集』は宝永7(1710)年の完成であり、宝永南海地震の直後にあたります。編者の松山藩家老奥平氏は宝永南海地震の際の道後温泉不出を目の当たりにしていると思われ、本文中に温泉不出の歴史を詳述した契機になったとも推察できるのです。(つづく)

「古墳探訪」してきました

3月 10日 金曜日

歴博では、現在、特別展「はに坊と行く! えひめの古墳探訪」を開催中ですが、昨日、特別展関連企画「ヘルシー歴史ウォーク笠置峠を歩こう」に参加してきました。

まず、我々が向かったのは、JR伊予石城駅の北東にある「岩木赤坂古墳」。古墳時代中期、5世紀後半の古墳で、道路拡幅工事にあわせて20年前に一部だけ発掘調査が行われたということだそうですが、前方後円墳の可能性もあるということです。ここで採集された鉄製の甲冑の破片(写真)が、現在、歴博で展示されていますが、なんと畿内で製作されたのと同じものだということで、当時からモノも人も、かなり広範囲に動いていたようです。

次に、白壁の土蔵のある立派な古民家の多い集落内を通って、山に入ったところにある「河内奥ナルタキ古墳群」へ。ここは、古墳時代後期、6世紀後半から7世紀の古墳で、まるい形をした円墳が2つ残っており、手前の円墳の横穴式石室の中には入ることができます。中は、大きな石をきちんと積んで壁にし、結構広い空間となっていました。

続いて、奈良~平安の時期の寺院跡と考えられている「西ノ前遺跡」の横を通って、笠置街道登り口へ。この岩木地区は、古代南予の中心で、「宇和郡」の役所も置かれていたのではないかということです。
笠置街道は、八幡浜と宇和平野を結ぶ道で、シーボルトの娘イネも、この道を通って宇和に来たと言われています。また、九州方面などから来るお遍路さんも、この道を通ったようで、道の傍らには遍路墓も残っています。また、草花の隣には、地元のボランティアの方の手作りの解説板があり、案内標識も随所にあって迷うことなく、約50分で標高400mの峠の茶屋に到着。
峠には、お地蔵さまがあり、台座には、あげし(明石寺)二里十丁、いずし(出石寺)五里、やわたはま(八幡浜)二里という文字が見えます。

さあ目指す「笠置峠古墳」は、もう少し。この古墳は、四国の西南部では一番古いもので、4世紀の初め頃につくられたということです。古墳の上からの見晴らしは抜群で、宇和平野が眼下に見下ろされ、佐田岬半島もはっきり望めます。墳丘には、遺体が納められていた「石槨」が復元され、その周りには、地元の住民の方も手伝って「葺石」が積まれています。

この日は、風が強かったので、古墳の下の風の当たらないベンチの周辺で昼食をとり、再び笠置街道を釜倉(八幡浜市)まで下りました。かなり急な下り坂でしたが、落ち葉がうまくクッションとなり、20分ほどで全員無事、完歩することができました。

今回の特別展は、県民の皆様に、県内の古墳を訪れて楽しんでもらうためのきっかけとなればという趣旨ですので、ぜひご覧になっていただき、今回の特別展にあわせて制作した図録を片手に、気候もよくなっていますので、近くの古墳を探訪していただければ幸いです。

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