昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情115―太山寺の真野長者伝説―

2026年1月16日

 四国八十八箇所霊場の札所寺院の開基は、『先達経典』(四国八十八ヶ所霊場会、平成18年)によると、弘法大師が37箇所(阿波14、土佐8、伊予7、讃岐8)、行基菩薩が30箇所(阿波7、土佐8、伊予9、讃岐6)、役行者が4箇所(阿波1、伊予3)、弘法大師・智証大師が2箇所(讃岐2)、以下、日証上人が2箇所(讃岐2)、残りの13箇所は円手院正澄(第43番明石寺)、真野長者(第52番太山寺)、鑑真和上(第84番屋島寺)など、札所ごとに開基者は異なります。全体で見ると、弘法大師と行基菩薩で占める割合は約76%、弘法大師単独だと約42%に相当します。確かに弘法大師を開基とする札所寺院が最も多いのですが、実際には弘法大師以前の行基菩薩など、様々な開基者によって四国八十八箇所霊場は形成されていることがわかります。そのことは札所ごとに歴史的な背景が異なり、弘法大師信仰を核としながらも多様な信仰を内包しているのが四国霊場の特色といえます。

 今回は第52番太山寺(愛媛県松山市)の開基真野長者について紹介します。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(写真①、当館蔵)を見ると、太山寺は松山の海の玄関である三津浜港、高浜港の近くに位置し、「五十二・瀧雲山・太山寺」とあります。

写真① 太山寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版)昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』の太山寺の案内文には、「御本尊十一面観世音菩薩 昔から閻浮檀金(えんぶだごん。極楽浄土の宝物)の秘仏と伝えられ、本堂は人皇三十一代用明天皇の二年豊後国真野長者の一夜建立でありまして、長者は俗に炭焼小五郎と歌われ、都の大納言の独り娘玉屋(津)姫と明神の御告げによって添い、宝の山を発見分限者となった人でありますが、其長者が津の国難波へ渡航の際高浜沖で俄かに海が荒れたので一心に観世音菩薩を祈っていると、瀧雲山の頂から御光が射し間もなく海も凪いだので、長者は不思議に思って山に登ってみると草堂に大悲十一面観世音の尊像がましましたので、驚いて此に本堂建立の大願を起し直に国に帰って工匠を集め、本堂の木取をして舟に積み、豊後臼杵から一日にして到着一夜の中に建立したのであります。十間四面貫(ぬき)と楔(くさび)の無い建築として学界にも貴重な建築で特別保護建造物であります。」と紹介しています。

 用明2年(587)に豊後国(大分県)臼杵の真野長者が、高浜沖で大嵐に遭遇し、観音の霊験によって海難を逃れ、その報恩のために一夜にして太山寺の本堂を建てたという「真野長者伝説」は、太山寺所蔵の享保17年(1732)の「真野長者由来記」以降の江戸時代後期の縁起に登場します(胡光編『四国遍路と霊場研究 四国霊場第五十二番札所太山寺総合調査報告書(1)(2)』愛媛大学法文学部日本史研究室 平成27・28年)。

 真野長者伝説は太山寺以外にも各地に伝わっています。

 臼杵の深田の里真名原という地に住んでいた炭焼小五郎は、その地名より真名野長者や真野長者と呼ばれました。炭焼小五郎は信心深く、百済の僧・蓮城法師を開基に蓮城寺(大分県豊後大野市。通称「内山観音」)を創建します。長者夫婦には般若姫という美しい娘が生まれ、般若姫は後に用明天皇となる豊日太子と結婚して玉絵姫を出産し、豊日太子の後を追いますが周防国(山口県)辺りで嵐に遭い、命を落とします。般若姫が葬られた山頂に菩提寺として般若寺(同県熊毛郡平生町)が建立されました。姫を失った長者夫婦は、臼杵の深田の里に満月寺(大分県臼杵市)を創建し、岩壁に仏像を刻みます。これが有名な「臼杵石仏群」と言われています。般若姫亡後、商いのため船を出した真野長者は、伊予国(愛媛県)高浜沖で嵐に遭いますが、観音の霊験により救われ、長者はそのお礼として、一夜にして太山寺の御堂を建立したと伝えられています(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、平成30年)。

 真野長者が一夜で建立したと伝えられる太山寺の本堂(写真②)は、桁行七間、梁間九間、入母屋造、本瓦葺で、蟇股の墨書銘から嘉元3年(1305)の建立と考えられています。内陣を二重の外陣・脇陣・後陣で囲んだ雄大な規模を持ち、和様で統一した意匠が優秀であることから、明治37年(1904)に重要文化財、昭和31年(1956)に国宝に指定されました。本堂の地盤には二度火災を受けた痕跡があり、前身の建造物の存在が指摘されています。ちなみに四国霊場の札所寺院の本堂で国宝に指定されているのは太山寺と第70番の本山寺(香川県三豊市)になります。

写真➁ 太山寺の本堂(国宝)、当館撮影

 太山寺の本堂横の上段敷地にある大師堂の隣には真野長者堂(写真③)が位置します。真野長者堂の以前の場所は境内下の参道近くにありました(今村賢司「四国霊場第五十二番札所・太山寺の近代整備への軌跡―古紙写真・境内図・太山寺文書を素材として―」『研究紀要』第25号、愛媛県歴史文化博物館、令和2年)。真野長者堂には絵葉書「四国第五十二番伊予国太山寺開基真野長者像」(個人蔵、写真④)のように、中央に真野長者像、右に玉津姫像(長者夫人)、左に般若姫像(娘)の三体が安置されていました。玉津姫像と般若姫の2軀の一木造の女神像は近年の研究で平安時代中~後期の制作とされています(『四国霊場開創1200年記念 空海の足音』愛媛県美術館、平成26年)。

写真③ 真野長者堂、当館撮影
写真④ 絵葉書「四国第五十二番伊予国太山寺開基真野長者像」個人蔵

 太山寺の真野長者伝説からは、太山寺を中心に大分の臼杵石仏群と蓮城寺、山口の般若寺など、瀬戸内海と豊後水道にかけての海運のつながりや観音信仰を中心とする信仰圏の広がりが想定されます。かつて太山寺では春になると臼杵市周辺から接待船が三津浜港に上陸し、太山寺参道の茶屋に宿泊しながら、うどんの接待が行われました。境内には大正14年(1925)の「饂飩(うどん)接待講寄附石」(写真⑤)などが残されています。

写真⑤ 大正14年の饂飩接待講寄附石、当館撮影

 太山寺の真野長者伝説は四国霊場の札所縁起の形成過程や地域の信仰圏、弘法大師以前の開基とされる札所が弘法大師信仰の広がりの中でどのように展開して八十八箇所に選定されるのか等について考える上で興味深い事例といえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情114―四国を巡った西行法師―

2026年1月9日

 新年あけましておめでとうございます!

 お正月の定番の遊びといえば「百人一首」。百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ和歌集で、100人の歌人の和歌を、1人につき1首ずつ選んで紹介しています。江戸時代に現在の百人一首のかるたの形が完成し、現代に受け継がれています。

 その86番の歌に「なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」があります。作者は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人・西行法師(1118~1190年)です(写真①)。

写真① 西行法師肖像(個人蔵)

 西行は俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、もとは北面の武士として鳥羽上皇に仕えていましたが、23歳の時に妻子と別れて突然出家し仏門に入ります。仏道修行をする傍ら歌を楽しみ、日本各地を旅した「漂泊の歌人」として有名です。50歳の初めには、讃岐国(香川県)の白峰で崩御した崇徳上皇の墓参りと弘法大師空海の遺跡を訪ねて、四国へ旅をします。崇徳上皇の御廟を詣でた西行は「よしや君昔の玉の床とても かからむ後は何にかはせん」と詠んでいます。

 当館の常設展示(四国遍路)には、西行の出家から入滅までの生涯を描いた『西行物語絵巻』に描かれた西行法師の旅の姿を参考にして制作した中世の修行者の姿(人形)を紹介しています(写真②)。

写真② 中世の修行者の姿(当館蔵)

 『四国遍路のあゆみ』(愛媛県生涯学習センター、平成12年)には、四国遍路が庶民に広がる江戸時代以前に四国を巡った僧侶の活動について、先学による見解を紹介しています。

 新城常三氏が「鎌倉時代から引き続き南北朝期から室町期にかけても、遍路のほとんどが僧侶・山伏であった(中略)室町期の遍路資料を集積しても、僧侶に比して俗家の数ははるかに少ない」と指摘するように、江戸時代以前までは、厳しい条件の伴う四国では、強い信仰心に裏付けられた僧侶たちが主に旅する人であったといえよう。(中略)この西行について近藤喜博氏は、「四国における彼は、主として讃岐・伊予を廻ったようであるが、こうした巡行の形は、後々の遍路にあっては一国マイリといわれる型に類するであろう」と指摘している。また武田明氏は「西行は山家集(さんかしゅう)によれば、白峰寺及び善通寺周辺を歩いているにすぎないが、やはり後の四国霊場のいくつかを巡歴したということになるのである」と、西行と四国とのかかわりを述べている。(中略)『愛媛県史 学問・宗教』によると、西行は、保元の乱に破れて讃岐の配所で長寛2年(1164年)に崩御された崇徳天皇の霊を弔うため、仁安2年(1167)に讃岐に下り、曼荼羅寺の近くに草庵を結び、讃岐の寺々を巡歴したが、伊予まで足をのばしたという伝承は確かでないとしている。

 四国には崇徳天皇の御廟所で天皇の御霊を祀る「頓証(とんしょう)寺殿」が境内にある第81番白峯寺(香川県坂出市、写真③)、空海の誕生所とされる第75番善通寺(同県善通寺市)、西行法師が昼寝をしたと伝える「昼寝石」と「笠掛桜」の歌碑(写真④)が境内にある第72番曼荼羅寺(同市)、西行が滞在した山里庵「西行庵」(同市、写真⑤)、西行松(愛媛県四国中央市)など、西行法師にまつわる伝説やゆかりの地があります。

写真③ 白峯寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真④ 曼荼羅寺の西行法師ゆかりの「昼寝石」と「笠掛桜」の歌碑(当館撮影)
写真⑤ 水茎の岡「西行庵」(当館撮影)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に記載する曼荼羅寺の案内文には「笠掛桜は西行と行を共にした同行が笠を桜の木に掛けて忘れ行き、法師が再び見えた時にも未だに其儘掛っていたので歌を詠まれたと言うことです。附近には西行が住んだ水茎の岡の庵の跡もあります。『笠はあり その身はいいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな』『山里に浮世厭はん友もかな 悔しくすぎし昔かたらん』 西行法師」と紹介されています。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡辺高太郎版)に記載された四国八十八箇所霊場の札所寺院(曼荼羅寺、善通寺、白峯寺)には、西行法師について言及されていませんが、白峯寺近くに「常徳天皇陵」の記載があります(写真⑥)。歴代の天皇に「常徳天皇」は存在しないため「崇徳天皇」の誤記と推察されます。 

写真⑥ 西行法師ゆかりの札所寺院(「四国遍路道中図」渡辺高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 西行法師が四国を巡った時代には、四国八十八箇所霊場はまだ成立していません。現代のような遍路道が確立されていたわけではありませんが、西行は自らの足で四国の山々や海岸線を歩き、多くの歌を詠み、自己を見つめ、悟りを開くための精神的な修行の道であったと想像されます。四国を訪れた西行法師の事例は、四国遍路の源流や巡礼の本質を考える上でとても注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情113―石鎚山登拝―

2026年1月2日

 現在当館ではテーマ展「石鎚山 歴史と民俗」(~2月1日迄)を開催中です。本展は石鎚国定公園が昭和30年(1955)に指定されて70年の節目に、石鎚信仰が広く庶民に普及した江戸時代から、観光地としての開発が進む昭和にかけての石鎚山の歴史と民俗を紹介するものです。

 西日本最高峰の石鎚山(標高1,982m)は、役小角が開山し、寂仙菩薩が「石鎚蔵王大権現」と称えて信仰し、神仏習合の修験道の霊場として栄えました。青年時代の空海も日本を代表する山岳霊場の石鎚山で修行しました。

 石鎚山の中腹にある四国八十八箇所霊場第60番横峰寺(愛媛県西条市)と麓にある第64番前神寺(同)の両寺院は、神仏習合の江戸時代に石鎚蔵王権現の別当を務め、石鎚信仰とつながりが深い札所として知られています。

 四国遍路においては、江戸時代の四国遍路絵図や近代の「四国遍路道中図」に石鎚山は四国のランドマークとして描かれています(本ブログ27「横峰寺への巡拝」、84「四国遍路絵図から見た石鎚山」、85「前は神、後は仏」の前神寺」参照)。

 大正6年(1917)の四国遍路絵図(駸々堂版)では、石鎚山へは横峰寺から「一リ(里)」と記載されています(写真)。戦前における徒歩遍路のための詳細な案内記として定評のある、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人四国遍路たより』には、「寺(横峰寺)から暫し打戻って左へ山道を二町登りますと、大師が嵯峨天皇の勅を受けて一七日の間雨乞星供の護摩を修された星ヶ森の秘壇があり、鉄(かね)の鳥居は石鎚山の発心門として昔から有名であります。谷を越えて前方に石鎚の霊峰を望み、参拝者はここからモエ坂を下って登ります。(中略)横峰寺から頂上まで百二十町、旧石鎚本社の成就社まで八十町、星ヶ森を越えモエ坂三十町にて加茂川の谷に下り、再び登って黒川、成就社を経て頂上に達します。」と紹介されています。一般の遍路にとって、険しい霊山の石鎚山に登ることは容易ではないため、四国巡拝の途中で石鎚山を登拝(とはい)することは多くなかったと思われます。

写真 石鎚山(「四国遍路絵図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 江戸時代の幕末期、横峰寺を経由して石鎚登拝した際の日記が残されています。文久2年(1862)に今治藩医で国学者の半井梧菴(なからい・ごあん)の「石鎚紀行」です。梧菴は晩年の明治6年(1873)に石鎚神社の神官を務めています。

 日記によると、5月27日、息子たち3人で今治を出立し、六軒屋で昼食、小松で一泊、横峰寺、石鎚山の遥拝所である星の森(鉄の鳥居)を経て、郷の坂(モエ坂)を下り、加茂川に架けられた高橋を渡り、黒川道の登山道を進み、下黒川村で昼食し、黒川宿で一泊。翌日、常住(成就)を経て篠原を下り、一の坂などを登り、夜明(よあかし)に到着。一の鎖、二の鎖、三の鎖を登り、5月29日に石鎚山頂に到着しています。梧菴は石鎚登頂の念願が叶って、その感動を「よ所にしてあふげば高しのぼり来て 見れば尊し伊予の高嶺」と詠んでいます。山頂では「文明」の年号銘のある銅製の祠の中の三体の銅製の御神像が祀られ、人々が御神像に触れるため手足がなくなり、子どもの玩具のようで尊さがなくなっていることを嘆いています。一行は銅製の狛犬などを見学後、下山して午後に下黒川村に帰着しました(今村賢司『愛媛面影紀行』愛媛新聞社、平成17年)。  

 半井梧菴の石鎚登拝は四国巡拝の遍路としてではなく、後に完成する伊予国地誌『愛媛面影』に「石鎚紀行」が引用されているように、本書編纂のための現地調査であったと考えられます。梧菴一行が通った今治から六軒屋を経由して横峰寺へ向かう道筋は、四国遍路の横峰寺道と重なるところが多かったと推察されます。また、横峰寺から星ヶ森を経由してモエ坂を下り、加茂川を渡り、黒川道を成就まで上り、石鎚山頂へと向かう道筋は、横峰寺からの石鎚登山の巡拝ルートを示しています。

 テーマ展「石鎚山 歴史と民俗」では、石鎚山関係資料(「西條誌」「石鎚神社先達用記」、絵葉書等)、半井梧菴関係資料(肖像写真、「石鎚画賛」、『愛媛面影』等)、愛媛大学教授で地理学者の村上節太郎が昭和33年(1958)に撮影したお山開の古写真、江戸時代の四国遍路資料(「四国西国順拝記」「四国徧礼霊場記(写本)」等)など、館蔵資料を中心に紹介しています。

 なかでも文化6年(1809)の「四国西国順拝記」は、京都の商人・升屋徳兵衛とその家族による四国遍路と西国巡礼の貴重な記録です。その道中日記は、徳兵衛が前神寺参詣後に急病となり、一緒に旅をしていた息子の妻が石鎚山の山中に分け入り、心願をこめて激しい坂道を5度も歩いたことで、仏神の加護により徳兵衛の病気が平癒したことが記されています。遍路と石鎚信仰の霊験を語る実体験としての事例として注目されます(井上淳「資料紹介 四国西国順拝記」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第6号、平成13年)。 

 この機会に是非ともテーマ展「石鎚山 歴史と民俗」をご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情112―弘法大師御入定1100年記念と自動車遍路―

2025年12月26日

 「四国遍路道中図」が発行されていた昭和時代(戦前)、全国の真言宗寺院、高野山、四国霊場などで大きな記念行事が行われました。昭和9(1934)年の「弘法大師御入定一千百年記念法要」です。

 この法要は、弘法大師空海が承和2年(835)3月21日に高野山で入定されて1100年目にあたることを記念して行われた大法会です。

 この弘法大師御入定一千百年記念に際して、四国霊場の札所や札所周辺の名所旧跡等の現況写真とともに四国霊場の札所を紹介する写真集『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)が刊行されました。

写真① 『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵

 当時、四国八十八箇所霊場第19番立江寺の琳眞住職による本書の序文には、「四国案内記とか、霊場写真集とか云った此の種のもの従来数々あるが今回刊行せらる写真帳は其の企構と内容に於て尤も優秀なるもので、四国霊場の現状を偲ぶ上に唯一無二のものであり、且つ郷土教育の参考資料としても推奨するに足る。」とあり、四国遍路の案内記類が多くある中で本書の企画と内容の充実ぶりから唯一無二の四国霊場の写真集であると称賛し、郷土教育資料としても推奨しています。

 本書の編集者は中西惟浩(徳島毎日新聞社日和佐支局長)、撮影著作兼発行者は岡影明(岡写真館)、発行所は四国霊蹟写真大観刊行会(四国霊場第23番薬王寺前)です。徳島の毎日新聞社と写真館と札所寺院などの協力によって四国霊蹟写真大観刊行会が発足されています。

 編集後記に「昭和八年五月より準備をすすめ七、八月の炎天焼くが如き盛夏を辞せず四国一周を敢行しかんと闘ひ且は多大の犠牲を忍びつつ予定の撮影と記事材料を蒐集する事を得て茲に其初版を出す事が出来ました」とあるように、本書の作成にあたり、自動車で四国一周に挑み、写真撮影、記事材料を収集して編纂したことがわかります。

 また、本書を作成した中西惟浩、岡影明の肖像写真と共に「四国一週(ママ)の時の使用の専用自動車」の写真が掲載されています。その専用自動車には「弘法大師御入定一千百年紀念 写真帳刊行会四国一週撮影班」の垂れ幕が掛けられ、かなり目立っています(写真②)。

写真② 中西惟浩と岡影明の肖像写真及び四国霊場巡拝で使用した専用自動車(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 こうして完成した『四国霊蹟写真大観』には、写真図版はなんと合計523点が掲載されています。本文の解説は四国八十八箇所霊場の各札所の名称、宗派、所在地、最寄りの郵便局を記載し、以下、本尊、御詠歌、略縁起、写真図版、縁日、近隣の番外札所、名所旧跡、交通、順路、交通機関などについて分かり易くまとめられています。

 第17番井戸寺(徳島県徳島市)、第24番最御崎寺(高知県室戸市)、第40番奥の院龍光院(愛媛県宇和島市)、第42番佛木寺(愛媛県宇和島市)、第46番浄瑠璃寺(愛媛県松山市)、松山市風景、第61番香園寺(愛媛県西条市)などの写真図版の中には、四国巡拝中で使用した専用自動車の姿も確認できます(写真③~⑤)。

写真③ 第17番井戸寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真④ 第42番佛木寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)
写真⑤ 第61番香園寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 本書のはしがきに「四国霊場巡拝は総里程三百余里あり。徒歩すれば普通四十日を要するが交通機関を利用すると二十日内外に短縮するを得。尚自動車借切にて行けば十日以内にて一巡する事が出来る」「近時自動車巡拝の多くなつた」「大体自動車にありては一里十二銭内外と見れば間違いない。尚所々で数人が附近の貸切自動車を雇へば比較的安く行く事が出来る」とあるように、戦前の四国遍路における自動車巡拝の概況が記されています。四国遍路道中図が発行された昭和時代(戦前)は、四国霊場の参拝に便利な乗合自動車が各地で運行されるなど、四国遍路の交通手段として次第に自動車が使用されてくる時期にあたります。

 本書は豊富な写真図版と分かり易い解説によって、昭和初期の四国霊場の札所の景観や周辺の名所旧跡、遍路を取り巻く交通環境などを知ることができます。また、戦前の自動車遍路の資料としても貴重です(『四国遍路ぐるり今昔』愛媛県歴史文化博物館、2014年)。

 なお、自動車遍路については、本ブログ21「明石寺道 徒歩遍路と自動車遍路」、同58「宇和海と四国遍路① 自動車遍路の人気スポット・法華津峠」でも紹介しています。

 戦前の四国霊場の写真集の決定版といえる『四国霊蹟写真大観』は、現在当館で開催中のテーマ展「乗り物がある風景」(~4月5日迄)で展示中です。この機会に是非、ご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情111―納経帳に見る第41番稲荷山龍光寺―

2025年12月19日

愛媛県南予地方の中心都市である宇和島の近郊、県内有数の稲作地帯として知られている三間(みま)盆地を見下ろす小高い丘に、四国八十八箇所霊場第41番札所の稲荷山龍光寺(愛媛県宇和島市三間町戸雁)があります(写真①②)。

写真① 第41番札所の龍光寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
写真② 第41番札所龍光寺(当館撮影)

 龍光寺は山号に「稲荷山」とあるように、地元の人から「三間(みま)のお稲荷さん」と呼ばれて親しまれています。

 寺伝によると、大同2年(807)に空海がこの地を訪ねた際に、稲束を背負った白髪の老人に出会い、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて姿を消しました。大師は老人が五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻み安置しました。また、本地仏とする十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻み、四国霊場の総鎮守とし、「稲荷山龍光寺」と号して開創したと伝えられています。

 江戸時代の四国遍路の案内記によると、第41番札所の名称は「稲荷大明神」「稲荷ノ社」「稲荷宮」などと称され、第41番は神社系の札所であったことがわかります。その後、明治期の神仏分離によって、稲荷大明神は稲荷神社として独立します。龍光寺境内には新たに稲荷大明神の本地仏であった十一面観音像を本尊として祀るための本堂と大師堂が建立されて、近代の四国霊場第41番札所として整備されます。

 実際に、第41番札所の納経帳をいくつか見てみましょう。

 江戸時代、寛政10 年(1798)の納経帳には「奉納経/稲荷大明神/龍光寺 行者丈」、文化6年(1809)の納経帳には「奉納/稲荷大明神/別当龍光寺」とあります(当館蔵、写真③)。龍光寺は稲荷社を管理した別当(べっとう)寺院であったことがわかります。「行者丈」とは納経を願った行者に対する敬称「様」を意味します。

写真③ 江戸時代の第41番稲荷大明神の納経帳(当館蔵)

 明治6年(1873)の納経帳には「奉納経/本尊十一面観世音/龍光寺」とあり(当館蔵、写真④)、江戸時代までの納経帳に見られた「稲荷大明神明」などの神名「稲荷」の表記がなくなり、代わりに「本尊十一面観世音」と記され、明らかに神仏分離の影響を納経帳から確認することができます(今村賢司「案内記、納経帳、境内絵図、古写真から見た四国霊場41番札所・龍光寺の変遷について」『四国八十八ヶ所箇所霊場詳細調査報告書 第41番札所龍光寺』愛媛県教育委員会、2017年)。

写真④ 明治6年(1873)の第41番龍光寺の納経帳(当館蔵)

 また、龍光寺の納経帳で興味深い事例として、外国人による四国遍路の先駆的研究で知られる、昭和6年(1931)のアルフレート・ボーナーが 『同行二人の遍路(邦題)』(原本はドイツ語)で紹介した10 歳の男の子によって書かれた納経帳が注目されます。「奉納/十一面観音/いなり山」と記され、立派な書きぶりです(写真⑤)。龍光寺に限らず、戦前の遍路日記類を読むと、札所寺院の子どもは家の手伝いとして、納経の寺務を務めていることがうかがわれます。

写真⑤ 寺の子どもが書いた納経帳(アルフレート・ボーナー 『同行二人の遍路』、昭和6年、当館蔵)

 ところで、昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』(法輪閣)に、当時、龍光寺住職であった塩田光玄師による納経帳について興味深い話が紹介されています。

 「巡拝者のなかには納経帳だけが目的の人もあって、納経印をいただくと、本堂にちょっと頭だけ下げて行ってしまう。終戦後、納経帳を盗まれた人がちょいちょいあった。途中で知らない遍路さんと連れになったり、いっしょに通夜したりして、ちょっとした間に盗まれる。大阪辺では納経帳を一万円でも二万円でも買う人があるらしい。結願ちかくの札所にいったら気をつけなさい、と注意された。」

 納経帳は巡礼の証明書であり、満願になった納経帳を死者の棺の中に入れると故人が迷わずに極楽浄土へ旅立つことができると信じられているように貴重なものです。言うまでもなく盗品はいけませんが、四国遍路の納経帳が売買の対象になっていたことが読み取れます。

 以上見てきたように、四国霊場第41番札所は神仏分離という歴史的な影響を受け、納経帳の記載内容が大きく変わりました。また、境内の景観においても、参道の入口には元禄9年(1692)に建立された立派な鳥居があり、境内中央部を分断するかのように稲荷神社への石階段と狛犬が残されています(写真⑥)。龍光寺は江戸時代の神仏習合の面影を今も色濃く伝える四国霊場の札所寺院として注目されます。

写真⑥ 神仏習合の面影を残す龍光寺

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情110―立木仏の霊場「生木地蔵」

2025年12月12日

 生きた木に直接仏像を彫刻したものを「立木仏(たちきぶつ)」といいます。全国的に有名な江戸時代前期の修験僧・円空(えんくう)や木喰(もくじき)僧による作例が知られています。木喰とは米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいいます。

 白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、立木仏とは「自然崇拝に起因して、地に根付いたままの木に直接、観音・地蔵・不動などの仏像を刻んだもので、『生木仏』(いききぶつ)ともいう。生きた木に彫ることによって、諸仏が地から生じる姿を表し、また霊像の効果を増す役割をも担っている。」とあります。

 四国霊場の中で立木仏を本尊とする札所で知られているのが「生木(いきき)地蔵」と呼ばれている、生木山(いききざん)正善寺(愛媛県西条市丹原町)です。

 四国別格二十霊場の第11番札所である生木地蔵は、福岡八幡宮が鎮座する四尾山(おしぶやま)と呼ばれる小山の麓にあります(写真①)。

写真① 生木地蔵(当館撮影)

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(当館蔵、写真②)では、番外霊場を示す薄く赤い印に「生木地蔵」、注記に「番外 生木山正善寺 大師一夜御作」とあります。生木地蔵は赤い実線で記した巡拝ルート上にあり、四国遍路で巡拝する札所とされています。

写真② 生木地蔵(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「番外 生木山正善寺 周桑郡丹原町 御本尊生木の地蔵尊 大師の御作。延暦年間大師御巡錫の砌今井四尾山の麓に仮宿せられた時、南方に光明輝き殊勝童子示現して暁には光明此の楠樹に留ったので、霊木に一夜の内に地蔵菩薩の尊像を彫られたのであります。其時天邪鬼が鶏の鳴声をして邪魔をし暁を告げたので大師は片方の耳を彫残されたと伝へられ、最近まで近在では鶏を飼わなかったそうです。往昔は平城天皇の勅願寺として、又天慶年間には越智好方公を始め大小名の祈願密寺として栄えたのであります。爾来千年の樹齢を保つて鬱蒼として枝を張り祠に慈愛の尊像を匂わせています。御堂には脳耳の病に特に御利益があるとて沢山の土器が上がっています。」と詳しく由来が紹介されています。弘法大師がクスノキ(楠の木)の霊木に一夜で彫り上げたと伝えられる尊像の地蔵菩薩は、頭と耳の病に特に御利益があると信仰され、病人や遍路など多くの参拝者があったことが読み取れます。

 同年の『四国霊蹟写真大観』に収録する古写真「番外納経所生木地蔵」には、大きな楠の木の前に祠や玉垣が建てられ、戦前の生木地蔵の拝所の姿が見て取れます(当館蔵、写真③)。

写真③番外納経所生木地蔵(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 では、生木地蔵はいつ頃から遍路が巡拝する霊場として知られていたのでしょうか、次に江戸時代の四国遍路の案内記と納経帳から探ってみましょう。

 現存最古とされる四国遍路のガイドブックである、貞享4年(1687)の真念の『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』には、第59番国分寺から第60番横峰寺に至る遍路道沿いに、医王山(世田薬師)や井水(臼井御来迎)などの番外霊場とともに、「〇たんばら町、西にあたり紫尾山八幡、ふもとに大師御作生木の地蔵霊異あげて計がたし。」と記載されています。また、寛政12年(1800)の「四国遍礼(へんろ)名所図会」には、「生木地蔵尊 楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある、庵まへにあり、八幡宮山下にあり、下に門有り」と記され、収録する図版「生木地蔵」には、楠の大木に生木地蔵尊の姿、生木地蔵尊にひざまずいて参拝する人、庵の縁台で休息する人などの姿が描かれています。

 天保12年(1841)の納経帳には「奉納 生木地蔵大士 いよ生木山 正善寺」と記されて御朱印が押印されています(当館蔵、写真④)。

写真④ 天保12年の納経帳(当館蔵)

 このように江戸時代には弘法大師作の生木地蔵としてその霊験は広く知れ渡り、多くの遍路が巡拝したものと考えられます。

 明治期の資料も探ってみましょう。明治23年(1890)に豫州生木山大徳院の岡澤大城が作成した「弘法大師霊場処」と記された四国霊場の本尊御影軸があります(写真⑤)。明治期に生木地蔵の参拝記念等に授与されたものと推察されますが、特徴的なのは、四国八十八箇所霊場の本尊御影の中、第59番国分寺と第60番横峰寺の間に番外霊場の「弘法大師御加持水臼井御来迎」と「生木地蔵菩薩」が目立つように描かれて配置されています。番外霊場で発行された四国霊場の本尊御影として注目されます。

写真⑤ 四国霊場の本尊御影軸(明治23年、個人蔵)

 明治40年(1907)の納経帳には、生木地蔵の納経印と本尊の御影が貼付されています(当館蔵、写真⑥)。御影には「弘法大師一夜御作 生木地蔵大菩薩 豫州生木山正善寺」と記され、楠の木の中に地蔵菩薩像の姿が現されています。

写真⑥ 明治40年の納経帳と御影(当館蔵)

 生木地蔵は昭和29年(1954)9月26日洞爺丸台風の烈風によって、楠の霊木が根元より倒れましたが、生木地蔵は無事で現在は本堂に安置され、倒木は本堂向かって左側に祀られています(写真⑦)。

写真⑦ 楠の木の倒木(当館撮影)

 最後に、江戸時代に生木地蔵を参拝した遍路の興味深い出来事を紹介します。

 香川県の観音寺市観光協会のホームページに、「長寿の地蔵尊 天保7年(1836)中姫村に住む森安利左衛門豊秀が、病弱な一人娘「ナヲ」のために四国八十八ケ所巡礼の旅にでました。その道中、伊予国で「生きた地蔵尊」と出会い感銘を受けた豊秀は旅から帰った後、一人で祖先の眠る墓地にあるクスノキに約150cmもの大きさの地蔵尊を彫り上げたそうです。そのおかげか豊秀は86歳、娘のナヲは96歳まで生きたと言われています。それ以来「生き地蔵さん」にお願いをすれば長生きができると言い伝えられ、今日では県外の参拝者もいるほどになりました。」とあります。伊予の生木地蔵と遍路との出会いによって、新たに生まれた生木地蔵のエピソードは、立木仏と生木地蔵信仰の広がりを示しています。

 四国霊場には第42番佛木寺の本尊大日如来のように、弘法大師が楠の木で自ら刻んだものと伝えられるなど、霊木から刻まれたと伝えられる仏像が数多く残されています。それらは四国の大地、自然を舞台に仏教や修験、弘法大師信仰をはじめとする様々な信仰に育まれた四国遍路の歴史を物語っています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情109―真念と四国遍路―

2025年11月28日

 江戸時代前期、四国遍路を20回以上行ったとされる真念(しんねん)法師は、現存最古の四国遍路ガイドブックとされる『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』を貞享4年(1687)に刊行、遍路の休息所として真念庵の開設、迷いやすい遍路道の分岐点に遍路道標石(真念標石)を200基余り設置するなど、四国遍路の情報発信や遍路道と休息所の整備を手掛け、四国遍路の普及に多大な貢献をしました。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には、土佐の四万十川近郊の市瀬(高知県土佐清水市市野瀬)に所在する真念庵が巡拝ルート上に記載されています(写真①)。

写真① 真念庵(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「番外 市瀬山真念庵と(幡多郡伊豆田村大字市野瀬) 御本尊地蔵菩薩 大師の御作。大師四国八十八箇所御開創の砌足摺山への長丁場に悩む人々の為此地に庵を結び、本尊を刻んで安置せられた霊跡で、其後真念法師高野山から等身の大師像を背負い当庵に来て、三十七、八、九番の中札所として草庵を結び七里打戻り大師と申しましたが、その没後真念庵の名を生ずるようになりました。当庵に通夜の便もあります。」と紹介されています。

 改めて「四国遍路道中図」で真念庵の位置関係を確認すると、第37番岩本寺(高知県高岡郡四万十町)、第38番金剛福寺(同県土佐清水市)、第39番延光寺(同県宿毛市)の3札所のおよそ中間地点に位置していることがわかります。真念庵は小さなお堂ですが弘法大師ゆかりの番外霊場として多くの遍路の参拝があり、明治20年(1887)の四国遍路の納経帳には真念庵で授与された納経印が押印されています(個人蔵、写真②)。また、真念庵には足の不自由な遍路が利用したものと見られる箱車(部材の一部)が奉納され、霊験を受けた者が多かったことを物語っています(写真③)。

写真② 真念庵(当館撮影)と四国遍路の納経帳(真念庵、個人蔵)
写真③ 真念庵に奉納された箱車(平成23年、当館撮影)

 昭和11年(1936)の三好廣太『四國へんろ 同行二人』(第32版)に「ここから足摺へ七里三十丁で、ここまで打戻りなれば、荷物は宿に預けて行くのが楽です。ここに真念法師が巡拜者の労を慰安せられんとて、結ばれた真念庵があり他に宿屋濱田屋あり。」とあります。順打ちの場合、遍路は真念庵を参拝、休息後、荷物を預けて、長丁場となる足摺岬にある第38番金剛福寺に向かいます。そして金剛福寺参拝後、同じ遍路道を真念庵まで戻り(打戻り)、荷物を受け取り、次の札所となる第39番延光寺へと向かう巡拝ルートが利用されてきました。「四国遍路道中図」ではその間のルート上に「七リ打戻リ」と注記があります。

 真念庵から金剛福寺までの7里の遍路道には1丁間隔で道標石(丁石)が350基ほど立てられ、「足摺遍路道三百五十丁石」と呼ばれています。現在では道路工事などで多くが失われていますが、真念庵境内には「是より足摺山へ三百四十九丁」と刻まれた丁石が残されています(写真④)。

写真④ 真念庵の足摺遍路道三百四十九丁石(当館撮影)

 また、真念庵から延光寺に向かう遍路道沿い(延光寺道。高知県幡多郡三原村上長谷)には、江戸時代の遍路道標石の中でも紀年銘入りの貴重な真念道標石が残されています(写真⑤)。それには正面「右 遍ん路みち 願主真念 左 大ミづのときハこのみちよし」、右側面「貞亨四丁卯三月廿一日」、左側面「為父母六親 施主 大坂西濱町 五良右エ門立之」と刻まれ、貞亨4年(1687)に設置されたものと推察されます。真念の遍路道標石の中で年号が記されているのは珍しく、また、真念が同年に著した『四国辺路道指南』の記述「上ながたに村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし」と道標石の内容が一致している点においてとても注目されます。なお、真念による遍路道標石については、当館ホームページ「えひめの歴史文化モノ語り」の「第183回 江戸時代 200基余り建立 真念の遍路道標石」でも紹介しています。

写真⑤ 真念の遍路道標石(当館撮影)

 江戸時代前期に四国霊場の案内記類の刊行、遍路道に道標石を設置、遍路の休息所真念庵の開設など、真念が四国遍路の普及に果たした功績は絶大です。実際は弘法大師信仰のもとで真念やその協力者などの篤志家によってなされた諸活動と考えられます。真念庵はその名前が示すように、四国霊場の中でも弘法大師と真念、そして遍路を深く結び付ける重要な聖地といえます。

 今日四国遍路の歴史を考える時、もし真念がいなかったら、どのような四国遍路の姿になっていたのでしょうか? 八十八箇所霊場の数、札所の選定、御詠歌、遍路道と巡拝ルートなど、また違った四国遍路の世界になっていたのかもしれません。歴史に「IF」や「タラレバ」はないとされていますが、江戸時代前期において四国遍路のプロテューサー的な存在であった真念の偉業を見つめ直し、想像力を以て、謎の多い四国遍路の歴史を探求することは大切です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情108―四国遍路と紅葉―

2025年11月21日

 紅葉のシーズンになりました。愛媛で紅葉の名所として特に有名なのは、石鎚山の南麓に広がる四国最大級の渓谷である面河渓(おもごけい、久万高原町)と、「もみじの寺」の西山興隆寺(西条市丹原町)があげられます。面河渓は第45番岩屋寺の近郊、西山興隆寺は第60番横峰寺道周辺に所在し、足をのばせば、四国霊場巡拝の途中で散策できます。

 実際に四国遍路の途中で面河渓を訪れた際の遍路日記を紹介します。

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』によると、「巌石、渓流、森林にまだ原始性が失はれて居らぬ事によつて、面河渓谷の名は、数年来の旅心を動かしてやまないものだった。そのために私はまづ面河の紅葉の一番いい時季を確め、面河探楓を中心にして前後の日程を立てさへしたのであつた。」とあり、島は四国遍路の計画にあたり、面河渓の紅葉シーズンにあわせて日程を組み、岩屋寺参拝後に面河渓を訪れています。そして「面河渓の林相に至つては見事なものだ。(中略)斧鉞(ふえつ。おのとまさかり)の入らぬ谷、千古そのままの谷を、落葉を踏みしめて歩くのは何とも言えぬ清々しい心境だつた。」と感想を述べています。

 昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には、「今は面河渓谷の入口関門まで自動車が通っている。(略)面河渓といふのは石槌山の山懐、仁淀川の源流にあつて、斧鉞入らぬ谷の原始林がこの渓谷の身上、関門から上流へゆくと、空船橋、想恩渓、紅葉床、五色河原、龍原、ここが渓中探勝者の根拠地である。この先に蓬莱渓、紅葉河原、虎ケ淵、虎ケ瀧、霧ケ追瀧、揺上、名残谷、階段瀧、久孝瀬、阿弥陀瀧、番匠瀧、犬吠瀧、御光来瀧等がある。」と記されています。宮尾は久万方面からの乗合自動車で仕七川古味(しながわこみ。久万高原町七鳥)まで行き、そこから4里半は徒歩で面河渓に向かっています。当時すでに面河渓の玄関口となる関門(かんもん)まで自動車による通行が可能でした。島と宮尾の2人の遍路日記からは、四国遍路を行いながら四国名所の面河渓を散策し、面河渓の最大の魅力は「斧鉞入らぬ谷の原始林」にあったことがわかります。  

 面河渓は昭和2年(1927)には大阪毎日新聞社主催による「日本百景」にも選出され、昭和8年(1933)に保護すべき日本の国土美を有する景勝地として愛媛県で初めて「国の名勝」に指定されました。戦前に面河渓の名は全国的に知れ渡り、「天下の絶勝」と呼ばれた面河渓の人気は高く、絵葉書や案内地図類が多く発行されました。現地の土産物店「渓泉亭」が発行した絵葉書「天然色写真版 渓谷美天下一 伊豫面河渓の勝景」(8枚組)には、清流と奇岩が織りなす雄大な景観と紅葉に彩られた渓谷美の全容が紹介されています(写真①)。

写真① 絵葉書「天然色写真版 渓谷美天下一 伊豫面河渓の勝景」、昭和時代(戦後)、個人蔵

 一方、西山興隆寺は麓の御由流宜(みゆるぎ)橋より参道全体の紅葉が見事です(写真②)。

写真② 西山興隆寺参道の紅葉

 西山興隆寺について、明治28年(1895)の得能通義『古蹟遊覧四國名所誌全』には、「桓武天皇長岡の宮にて御悩の時開基報恩大師詔を受て宮中に入り大悲心呪を唱祈るに霊験ありて御悩忽平癒ましませば叡感の餘大伽藍御建立あり」、明治31年(1898)の野崎左文『日本名勝地誌』(第8編・南海道之部)によると、「徳田村大字古田の西山に在り、よりて西山寺ともいふ、真言宗にして、普門院佛法山と号し、行基菩薩の作れる、千手観世音を本尊となし、運慶の作れる、二十八部衆を脇士とす」とあります。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「寺内名勝古跡に富み仁王門に名橋由流宜橋があり、大師は『御仏の法の御山の法の水ながれも清くみゆるぎのはし』と詠まれ、又順徳天皇の八雲御抄(やくもみしょう)にも歌われた紅葉の名勝です。」と紹介されています。

 ところで、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)には面河渓は紹介されていませんが、西山興隆寺については地図上に三重塔と紅葉のマークが描かれ、「桓武天皇直願所」「四国紅葉名所」と目立つように記載されています(写真③)。興隆寺付近の「南朝忠臣得能氏居城 常石山」も記載されています。ちなみに高縄山地の東縁部に位置する常石山(つねいしやま。標高約140m)には、この地を治めた得能(とくのう)氏の居城「得能城(常石山城)」がありました。南北朝時代に得能通綱は南朝方として戦い、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)で討死しました。

写真③ 西山興隆寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 ここで注目したいのは、西山興隆寺近くの徳田村(西条市丹原町)に「家傳秘法 心臓薬本舗」の場所が赤印で目立つように記され、燧灘(ひうちなだ)の余白部に「四國デ名高イ家傳心臓薬本舗ハ西山興隆寺山麓ニアリ 壬生川ヨリ一里 三芳ヨリ一里半」と記した心臓薬本舗の宣伝が掲載されている点です。

 心臓薬本舗とは、「四国遍路道中図」渡部高太郎版の発行者で広告主である渡部高太郎が経営する薬屋のことです。本図下部の「謹告」と裏面には心臓薬の効能などが詳しく紹介されています(本ブログ28「心臓薬本舗渡部高太郎版と広告性」参照)。

 四国の紅葉名所「西山興隆寺」、南朝の史跡「常石山」、「四国の名薬」と自画自賛する心臓薬を製造する「心臓薬本舗」の記載は、他の「四国遍路道中図」には見られない渡部高太郎版オリジナルの記載内容です。それらは赤線で示す四国遍路の巡拝ルートから少し外れていますが、渡部高太郎の郷里丹原周辺の名所旧跡と名薬を四国巡拝の遍路に対して積極的に宣伝することが、「四国遍路道中図」発行の目的の1つであったと考えられます。

 四国には愛媛の面河渓、西山興隆寺の他にも、徳島の雲辺寺(四国霊場第66番)、祖谷(いや)渓、高知のべふ峡、竹林寺(四国霊場第31番)、香川の小豆島寒霞渓(かんかけい)、大窪寺(四国霊場第88番)など、紅葉の名所がたくさんあります。山間部の有名な渓谷だけでなく、四国霊場の札所寺院も紅葉の人気スポットとして多くの人々が訪れています。紅葉を楽しみながら四国霊場をめぐるのも晩秋の四国遍路の醍醐味の一つといえます。

内子小学校の学習発表会に参加して        ― 平和学習を考える ―

2025年11月19日

 10月2日(木)に出前授業「戦時下のくらし」を行った内子町立内子小学校から、学習発表会のご案内をいただき、11月14日(金)にお伺いしました。

 6年生のタイトルは「Orizuruに願いをこめて」。まず、23歳で戦死した特攻隊員佐藤新平さんの遺書が児童の皆さんによって読み上げられた後、修学旅行で大刀洗平和記念館を訪れたこと、当館の出前授業を受けたことが述べられました。そして、グループごとに設定したテーマについて調べ学習の成果を発表しました。切符制度、配給制度、代用食、松山空襲、宇和島空襲、特攻隊、表現の自由が奪われたこと、教育を受ける権利が奪われたこと、戦時中の子どもたち、戦時中の学校生活、原子爆弾、戦後も続く苦しみ、今も続く戦争など幅広いテーマが取り上げられました。

 出前授業では、戦時中の子どもたち(おもちゃ、通知表)、切符制度、配給制度、代用品、愛媛県下の空襲、原子爆弾と愛媛の関係(パンプキン)について、資料を交えながら紹介しましたが、それらも発表内容に含まれており嬉しく感じました。しかし、嬉しさ以上に感じたのは出前授業では伝えきれなかった点を、児童の皆さんが幅広い視点で深く調査していることでした。特攻隊で戦死した人数、空襲の被害者数などデータ的なことはもちろん、戦時下において表現の自由が奪われたこと、教育を受ける権利が奪われたこと、戦後も続く苦しみ(PTSD、アルコール依存症、家族への影響)など、教科書では触れられないようなことも調査し、ウクライナ戦争についてもウクライナとロシアの双方の立場から捉えていました。6年生としては非常にハイレベルな内容でした。

 最後に平和学習の合唱曲「Orizuru」が6年生全員で歌われました。各グループの発表成果を聞いた後だけに、平和への願いが一層深く心に響きました。児童のみなさんの歌声を聞きながら、すでに私たちが「戦争体験者から話を聞く側」から「聞いた話を次の世代に伝える側」になりつつあることも認識しました。今回、学習発表会に参加させていただき出前授業が教育現場のニーズにあったものとなるよう改善と工夫を重ねていきたいと思います。内子小学校の皆さん、ありがとうございました。

グループごとに発表する様子
 「戦時中の子どもの暮らし」の発表
「パンプキン」の発表 
 Orizuruを全員で合唱

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情107―四国霊場の開創―

2025年11月14日

 前回のブログ106で、厄除け祈願所として有名な四国霊場第23番薬王寺を紹介しました。今回注目したいのは、同寺の縁起に本尊の厄除薬師如来は空海(弘法大師)が42歳の厄年にあたる弘仁6年(815)に制作されたと伝えられる点です。

 四国八十八箇所霊場のうち、弘仁6年に空海が自ら彫刻したと伝えられる本尊を祀っている札所は他にも存在します。第4番大日寺(徳島県板野町)の大日如来、第8番熊谷寺(徳島県阿波市)の千手観世音菩薩、第11番藤井寺(徳島県吉野川市)の薬師如来、第14番常楽寺(徳島県徳島市)の弥勒菩薩、第56番泰山寺(愛媛県今治市)の地蔵菩薩、第65番三角寺(愛媛県四国中央市)の十一面観世音菩薩などがそれにあたります。

 平安時代初期の弘仁6年は、空海と四国霊場にとって重要な年と考えられています。その理由は①弘仁6年は弘法大師空海が42歳の厄年にあたるとされている点、②弘仁6年に四国八十八箇所霊場が開創されたと伝えられている点にあります。

 ①については、空海の生誕は宝亀5年(774)とされ、弘仁6年は数え歳で計算すると42歳に相当します。現在の厄年の年齢は一般的に男性25歳・42歳・61歳、女性19歳・33歳・61歳、大厄は男性42歳、女性33歳とされています。今日の厄年の見方からすれば、弘仁6年は空海にとって大厄の年にあたります。

 ②については、平成26年(2014)、四国霊場開創1200年記念事業が四国八十八ヶ所霊場会と関係する札所寺院等で実施されたことは記憶に新しいと思います。弘仁6年から数えると、平成26年はまさしく1200年に相当します。ちなみに、四国4県の美術館・博物館では開創1200年記念として特別展「空海の足音 四国へんろ展」を実施し、四国霊場に伝わる貴重な宝物や文化財等を公開しました。愛媛会場は愛媛県美術館で開催され、多くの観覧者で賑わいを見せました。四国遍路資料として当館所蔵の昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、写真①)なども展示しました(『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』四国へんろ展愛媛編実行委員会、2014年)。

写真① 「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 要するに、弘仁6年は「空海42歳厄年四国霊場開創説」の根拠となる重要な年とされています。 

 青年時代の空海(18歳)は阿波の大瀧嶽や土佐の室戸崎などの四国の辺地(へじ)で修行したことが延暦16年(797)に成立した空海著『三教帰指(さんごうしいき)』に記されています。しかし、四国霊場の開創については同時代史料(一次資料)で確認することができず、残念ながら史実として実証することは難しいといえます。また、鎌倉時代に成立した空海の生涯を描いた古い絵伝「高野大師行状絵巻」にも四国霊場の開創については紹介されていません。

 弘仁6年を四国霊場開創年とした場合、開創1000年は江戸時代後期の文化11年(1814)となりますが、管見の限り、そうした記録は確認できていません。四国霊場開創1200年記念より以前に確認できる事例は、大正3年(1914)の四国霊場開創1100年になります。第22番平等寺(徳島県阿南市)の奥之院・月夜御水庵が発行した刷り物「弘法大師月夜七ふしぎ」(当館蔵、写真②)に「四國霊場開創紀念一千百年」とあります。

写真② 月夜御水庵発行の刷り物「弘法大師月夜七ふしぎ」当館寄託

 月夜御水庵は弘法大師が闇夜に月を招き寄せて月夜としたという伝説があり、「四国遍路道中図」にも番外霊場として紹介されています。

 空海42歳厄年の四国霊場開創説について、大本敬久氏(現愛媛大学地域協働推進機構 特定准教授)は「四国霊場を開創したとされる弘仁6年の空海は、東国をはじめ密教を広めようと活動していた時期といえる。当時の史料からは四国に渡って寺院や霊場を開創したという記述は確認できず、42歳厄年開創説を史実として実証することは難しい」「現代の厄年習俗が近世以降の比較的新しい時期に成立した」「古代、中世の史料には42歳を厄年とする史料は確認できず、江戸時代以降の成立、定着と見られる。空海が活躍した平安時代初期にまで遡って42歳の厄年習俗が存在したかどうかは史料上、明確にすることは困難」「明治末期から大正初期に『四国霊場連合会』の結成の動きの中で開創伝承が創出された可能性がある」と指摘しています(大本敬久「1200年前の空海」『弘法大師空海展』愛媛県歴史文化博物館、2014年)。

 四国霊場連合会は四国八十八ヶ所霊場会の前身の組織で、その代表は第50番繁多寺(愛媛県松山市)の住職丹生屋隆道でした。近年、愛媛県教育委員会による繁多寺の文化財総合調査によって、大正~昭和前期の四国遍路の興隆に大きな役割を果たした丹生屋隆道の履歴や事績などが明らかにされています(服部光真「近代四国遍路の興隆と丹生屋隆道」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第50番札所繁多寺』愛媛県教育委員会、2024年)。

 以上見てきたように、弘仁6年空海厄年四国霊場開創説は歴史的な事実と捉えることは難しいですが、日本に古くから伝わる厄年の風習と、民衆を救済する民間信仰として顕著な弘法大師信仰が結びつき、四国遍路の信仰的な事実として人々に今なお息づいていることに宗教文化史上の大きな価値があるといえます。

 次に、四国八十八ヶ所霊場会編『先達経典』(2006年)をもとに、現在の八十八箇所霊場の開基と創建年を見てみましょう。

 四国霊場は空海以前の行基菩薩や役行者(えんのぎょうじゃ)などを開基とする札所もありますが、八十八箇所中、弘法大師を開基とする札所は39箇所を数え(約44%)、四国霊場の半数近くに及んでいます。

 そのうち弘仁6年創建で弘法大師を開基とする札所は13箇所を数えます(写真③)。内訳は阿波(徳島)8、土佐(高知)2、伊予(愛媛)2、讃岐(香川)1箇所で、全体の約15%に相当します。弘仁6年に空海開基の札所は阿波に多いことがわかります。弘仁年間では22箇所を数えます。弘仁7年(816)は空海が嵯峨天皇から高野山を賜ります。

写真③ 弘仁6年と大同2年創建の四国八十八箇所霊場の札所

 弘仁6年に次いで多いのは大同2年(807)創建の札所です(写真③)。空海34歳の時にあたり、9箇所を数えます。大同年間では11箇所となります。空海にとっての大同年間は、大同元年(806)10月に中国(唐)から帰国して、筑紫国大宰府に帰着し、翌大同2年に入京します。その際に瀬戸内海を航行したと推察されますが、空海の生誕地とされる第75番善通寺(香川県善通寺市)の創建は大同2年です。

 札所の開基が弘法大師空海ではなくても、江戸時代以降、ほとんどの札所の縁起類で弘法大師との関係が説かれ、八十八箇所霊場の境内には札所の本尊を祀る本堂の他に、江戸時代後期以降は弘法大師を祀る大師堂が整備されます。

 四国霊場の開創をいつに求めるかは、個々の札所の創建年や八十八箇所としての成立年代などと密接に関係すると考えられます。空海が生きた時代、八十八箇所が成立した時代、四国遍路が普及した江戸時代、いろんな捉え方が可能になります。しかし開創年以上に大切な事実は 四国八十八箇所霊場は弘法大師空海を中心に開創された霊場であり、空海が存在しなければ四国霊場は成立していなかったということです。