昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情74―遍路の所持品―

2025年5月16日

 四国遍路道中図は大正時代から昭和時代にかけて、ビジュアルで分かりやすい四国遍路の案内地図として多くの遍路に用いられました。また、宿屋や巡拝用品店の宣伝広告のための接待品として遍路に無料配布されることもありました(本ブログ30「続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

 四国遍路道中図が発行された大正時代から昭和時代にかけて、実際に四国霊場を巡拝したある遍路はどのような活動を行っていたのか、残された遍路の所持品から探ってみましょう。

 当館には伊予国東宇和郡多田村(愛媛県西予市宇和町)出身の夫婦が明治時代後期から昭和時代初期にかけて四国遍路を行った際の所持品が寄贈されています。それらは納経帳、巡拝用具類、御影・護符類、参拝記念品などで、四国霊場の札所や道中で使用されたものや土産物店などで買い求めたものと見られます。遍路の所持品は時の流れとともに散逸することが多く、まとまって残されていることは稀です。満願になった納経帳を死者の棺の中に入れると浄土に行くことができるといわれているように、納経帳が残っていない事例も見受けられます。そのため、今日まで残されてきた遍路の所持品は、巡礼者から見た当時の四国遍路の実態を示す資料として貴重です。

 次に、遍路の所持品の中から主なものを紹介します。

 【納経帳】 

 納経帳は明治38年(1905)、大正10年頃(1921)、作成年不明の3冊あります。そのうち大正10年の納経帳(写真①)は、第1番霊山寺から順打ちでまわり、第88番大窪寺で結願。ほとんどの札所では、納経印が5つ押印されています。納経印を一度受けた納経帳に、2回目以降の巡礼で重ねて朱印を受けることを「重ね印」といい、何度も朱印を受けて紙面が真っ赤になった納経帳は霊的な効果があるとされ珍重されました。

写真① 大正10年の納経帳(当館蔵)

 【巡拝用具類】 

 巡拝用具には札箱、輪袈裟(わげさ)、念珠、行李(こうり)が残されています。札箱は遍路が札所で奉納する納札を収納する道具で、首から掛けて用います。木製の小箱の側面にスライド式の蓋があり、開閉して必要な納札を出し入れします。表側に「伊予国東宇和郡多田村 奉納四国八十八ケ所順拝(氏名)」の墨書があります。紐には小さなわらじが付いています(写真②)。

写真② 札箱(当館蔵)

 輪袈裟は細幅を輪にした袈裟です。昭和5年(1930)に第19番立江寺(徳島県小松島市)から遍路宛に郵便で送られたもので、「梵字 卍 阿波国立江寺授与 四国第十九番霊場」とあります(写真③)。札所で納経する際に笈摺(おいずる)の上に着用し、平服で参拝する時にも輪袈裟を着用しました。

写真③ 輪袈裟(当館蔵)

 念珠(写真④)は珠をひとつ繰るごとに仏を念ずることから「念珠」と呼ばれています。行李(写真⑤)は竹や柳などを編んで作られたかぶせ蓋のある容器で、巡礼に必要な所持品を行李に入れて、背中の負い台にのせて運びました。

写真④ 念珠(当館蔵)
写真⑤ 行李(当館蔵)

 【御影・護符・記念品類】 

 子安大師のミニチュア銅像、弘法大師の御影と参拝記念メダルなどがあります。子安大師銅像(木製厨子入り)は安産・子育てに霊験があるとされる第61番香園寺(愛媛県西条市)に参詣した折に求めたものと見られます(写真⑥)。行李の中に2つの小石(写真⑦)が保管されており、その詳細は不明ですが、本像との関係から、第51番石手寺(愛媛県松山市)などで見られる、持ち帰ると子宝に恵まれ安産などの御利益があるとされる「子授け石」の類と推測されます。

写真⑥ 子安大師銅像(当館蔵)
写真⑦ 行李の中に保管されていた小石(当館蔵)

 弘法大師の御影(軸装、写真⑧)は一般に四国遍路の参拝記念、土産としてよく買い求められています。大師像が刻まれた参拝記念メダル(写真⑨)は第20番鶴林寺(徳島県勝浦町)、第34番種間寺(高知県高知市)、第71番弥谷寺(香川県三豊市)のものがあります。その他に、番外霊場の金山出石寺(愛媛県大洲市)の本尊千手観世音菩薩のカラー御影(写真➉)などが残されていました。

写真⑧ 弘法大師の御影(当館蔵)
写真⑨ 参拝記念メダル(当館蔵)
写真➉ 金山出石寺の本尊千手観世音菩薩のカラー御影(当館蔵)

 所持品の中には四国遍路道中図のような案内地図や案内記や、具体的な活動を記録した遍路日記などは確認できませんが、こうした所持品から一遍路の活動が垣間見られ、より具体的な四国遍路の実態をうかがい知ることができます。

 伊予国東宇和郡多田村の夫婦遍路の所持品をもとに、入手先と見られる四国霊場の札所を、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)に丸印で示しました(写真⑪)。四国遍路の長い道中や各札所では様々な思い出があったにちがいありません。残された所持品には遍路の祈りや願いが込められているように思われます。また、遍路の土産として大切なのは、形あるモノに限らず、四国遍路の体験談を土産話として家族や知り合いに語って共有されたことです。それが新たな次の四国遍路へと誘なう要因の一つになりました。

写真⑪ 伊予国東宇和郡多田村の遍路が土産等で入手した四国霊場の札所(四国遍路道中図・渡部高太郎版、昭和13年)

西予市立中川小学校で平和学習!

2025年5月14日

 5月9日(金)に西予市立中川小学校で6年生(22名)に平和学習の出前授業を行いました。今回は修学旅行で長崎を訪れるため、戦争の歴史について事前学習をすることがねらいでした。

 最初に日中戦争や太平洋戦争の流れを解説しました。そして、「ヘイタイ双六」、「兵隊人形」、「軍艦文鎮」、「国民学校の通知表」など、子どもたちに身近な資料から戦時色を感じてもらいました。また、配給制度と切符制度について1日の米の配給量を見てもらい、衣料切符でズボンやスカートなどを購入する体験を行いました。あっという間に切符の点数が半減して、児童のみなさんもビックリしていました。

 県下の空襲については写真パネルで説明するとともに、松山に落とされた焼夷弾の殻に触れて形や重さを感じてもらいました。また、修学旅行で長崎を訪れるため、長崎型の模擬爆弾である「パンプキン」が県下にも4発投下されたこと、宇和島への投下は長崎に原爆が投下される前日だったことなど、愛媛と原爆の関係についても紹介しました。最後に鉄兜、防空頭巾、もんぺの着付けを行い、当時の暮らしを直接体験してもらいました。

 出前授業では学校の依頼に応じて資料を選択し、実際に見て、触れて、感じて、戦争の悲惨さと平和の大切さを考えることに努めています。修学旅行の事前学習、社会科の歴史学習に限らず、最近では国語科や家庭科での依頼もお受けしています。また、夏休には歴史講座として「親子で体験!学ぼう戦時下のくらし」を実施します。夏休みの自由研究にも活用できます。詳しくは当館のホームページをご覧いただき、お気軽にお問合せ下さい。

千人針の紹介
衣料切符の体験
焼夷弾の殻に触れる
着付け体験

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情73―四国霊場と神社 ②愛媛・香川―

2025年5月10日

 前回からの続きで、愛媛県と香川県の神社系の札所を確認します。

 【愛媛県・伊予国】

 〇番外

 ・篠山神社〔観世音寺、観喜光寺〕

 〇第41番

 ・稲荷宮〔龍光寺〕

 納経帳に「奉納経/稲荷大明神/龍光寺/丑五月四日/行者丈」と記載(写真⑤)。

写真⑤ 第41番稲荷宮・龍光寺(当館蔵)

 〇第55番

 ・大山祇神社〔光明寺、南光坊〕

 納経帳に「奉納経/日本惣鎮守三嶋/別宮大明神/大積山/南光坊/五月十四日」と記載(写真⑥)。

写真⑥ 第55番大山祇神社・南光坊(当館蔵)

 〇第57番

 ・石清水八幡宮〔長福寺、乗泉寺、栄福寺〕

 納経帳に「奉納経/伊与一国/石清水八幡宮/別当/栄福寺/五月十五日」と記載(写真⑦)。

写真⑦ 第57番石清水八幡宮・栄福寺(当館蔵)

 〇第60番

 ・石鈇山蔵王権現〔横峰寺〕

 〇第62番

 ・一宮〔宝寿寺〕

 納経帳に「奉詣拝/伊豫国/一宮大明神/別当/宝壽寺」と記載。

 〇第64番

 ・石鈇蔵王権現〔里前神寺、前神寺〕

  納経帳に「四国霊場六十四番/石鈇山大悲蔵王権現 廣前/別当前神密寺/里寺納経所」と記載(写真⑧)。

写真⑧ 第64番石鈇山大悲蔵王権現・前神寺(当館蔵)

 【香川県・讃岐国】

 〇第68番

 ・琴弾八幡宮〔神恵院〕

 納経帳に「奉納御経/琴引八幡宮神尊/讃州七宝山□田/神恵院/午五月廿二日」と記載(写真⑨)。

写真⑨ 第68番琴弾八幡宮・神恵院(当館蔵)

 〇第69番

 ・琴弾八幡宮〔観音寺〕

  納経帳に「奉納御経/中金堂聖観音/寺社兼務別当/観音寺/午五月廿二日」と記載(写真➉)。

写真➉ 第69番琴弾八幡宮・観音寺(当館蔵)

 〇番外

 ・金毘羅大権現〔松尾寺〕

 〇第79番

 ・崇徳天皇〔妙成就寺、天皇寺、高照院〕

 〇第83番

 ・一宮田村神社〔大寳院、一宮寺〕

 〇番外

 ・白鳥神社〔別当寺なし〕

 愛媛県の神社系札所では、第41番が江戸時代に稲荷宮(稲荷大明神)として知られ、明治期の神仏分離でその別当であった龍光寺(宇和島市)が札所となりました。現在の龍光寺の参道には元禄年間に建立された稲荷宮の鳥居があり、境内地の最上部には元札所の稲荷神社が鎮座するなど、神仏習合時代の四国霊場の姿がよく残っています(今村賢司「案内記、納経帳、境内絵図、古写真から見た四国霊場第41番札所龍光寺の変遷について」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第41番札所龍光寺』愛媛県教育委員会、2017年)。また、第57番札所は江戸時代を通じて石清水八幡宮(今治市)でしたが、納経帳からは別当寺の変遷が確認され、納経印が引き継がれていることなどがわかりました(同「納経帳に見る四国八十八箇所霊場第五十七番札所と栄福寺」愛媛県教育委員会、2025年)。

 香川県の神社系札所で注目したいのは琴弾八幡宮(観音寺市)です。現在の第68番神恵院と第69番観音寺は琴弾山の中腹にあり、2つの札所が同じ境内に存在する全国的に珍しい霊場です。明治期の神仏分離によって、琴弾八幡宮の本地仏の阿弥陀如来は神恵院へ、聖観世菩薩が観音寺の西金堂に移されました。寛政10年(1798)の四国遍路の納経帳(当館蔵)からは、神恵院も観音寺も筆跡や納経印が同じと見られ、同一の場所で同じ人が行っていたものと推察されます(写真⑨➉)。

 以上、2回にわたり四国霊場の神社系札所と別当寺院について見てきました。四国八十八箇所霊場の中には江戸時代に神社の札所であったところも多かったことがわかります。それらの霊場は明治期の神仏分離によって神社系の札所が廃止され、江戸時代を通じて別当として神社札所の管理を行っていた寺院が新たに四国霊場の札所として成立しました。その中には経済的困窮等の理由から一時廃寺となった事例や、第37番岩本寺のように札所の権利が売買され、県境を越えて札所が移転した事例などもあり、近代の四国遍路に大きな混乱をもたらしました。

 日本の巡礼は神仏習合が長く続いた歴史の中で、四国遍路をはじめさまざまな霊場が発展しましたが、四国霊場における神社と別当寺院の関係は、八十八箇所成立の過程や四国遍路の多様な信仰の広がりを考える上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情72―四国霊場と神社 ①徳島・高知―

2025年5月9日

 仏教と神道が融合された神仏習合の江戸時代までは、神社の中に神宮寺や仏堂が建立され、一方、寺院の中には祭神を勧請した鎮守社が祀られました。今日の四国八十八箇所霊場の札所はすべて寺院で構成されていますが、江戸時代では第41番稲荷宮(稲荷大明神)のように、神社の札所も多く存在しました。そうした神社系の札所を管理した寺院や人のことを「別当」(べっとう)と称します。別当寺院は納経所として巡礼者の受け入れ事務等を司りました。

 明治新政府による明治元年(1868)の神仏分離令によって、四国八十八箇所霊場の神社系の札所(元札所)は廃止され、これまで別当を務めた寺院が神社から独立して新たに札所となりました。前述の第41番札所は江戸時代の稲荷宮から明治以降は龍光寺に変更となりました。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で神社の別当寺院であった札所に紫色の丸印を付けました(写真①)。神社系札所の寺院数は徳島県(阿波)2、高知県(土佐)3、愛媛県(伊予)6、香川県 (讃岐)2を数えます。四国4県の中では愛媛に神社系札所が比較的多く存在することがわかります。その明確な理由は定かではありませんが、愛媛には山岳霊場の篠山と石鎚山、日本惣鎮守の三島大明神を祀る大山祇神社が存在することと関係があるように推測されます。

写真① 四国遍路道中図に見る神社系の札所寺院(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 小松勝記「霊場とされる【札所・番外】神社絵模様」(『四国辺路研究叢書 第四号』四国辺路研究会、2004年)などを参考にして、現在の四国八十八箇所霊場と主な番外霊場の中で、かつて神社の別当寺であった札所を県別に確認してみましょう。なお、〔  〕内は別当寺や納経を行った寺院です。別当寺が複数ある事例や寺号を変更した別当寺の事例なども確認されます。また、神仏習合時代の四国霊場の実態を捉えるために、寛政10年(1798)の四国遍路の納経帳(当館蔵)から、主な神社系札所の納経印を紹介します。 

 【徳島県・阿波国】

 〇第1番

 ・阿波一之宮(大麻比古神社)〔霊山寺〕

 〇第13番

 ・阿波国一宮神社〔大日寺〕

 納経帳に「奉納/本尊大日如来/一宮大明神/大栗山/大日寺/四月三日」と記載(写真②)。

写真② 第13番一宮神社・大日寺(当館蔵)

 【高知県・土佐国】

 〇第27番

 ・神峯神社〔常行寺、神峯寺〕

 〇第30番

 ・土佐神社(土佐一宮)〔神宮寺、長福寺、国分寺、安楽寺、善楽寺〕

 納経帳に「奉納経/正一位高鴨大明神/土佐国一之宮別当/善楽密寺/四月十九日」と記載(写真③)。

写真③ 第30番土佐神社・善楽寺(当館蔵)

 〇第37番

 ・仁井田五社(高岡神社)〔福円満寺、岩本寺〕

 納経帳に「奉納土佐国/仁井田五社宮/別当岩本寺/今月今日/行者丈」と記載(写真④)。

写真④ 第37番仁井田五社・岩本寺(当館蔵)

 〇番外

 ・月山神社(南照寺)

 神仏習合の江戸時代の神社系札所の納経帳には、第13番の一宮神社のように、本地仏「本尊大日如来」と祭神「一宮大明神」の両方が記されているものが見受けられます。また、第37番仁井田五社宮の「別当岩本寺」のように明確に「別当」と記載されています。

 徳島県の神社系札所で興味深い点は、大麻比古神社(鳴門市)が札所に選定されていないことです。阿波国一宮とされている神社は、第1番霊山寺近くの大麻比古神社、第13番大日寺の山門前に鎮座する一宮神社(徳島市)など諸説あります。元禄2年(1689)の『四国霊場記』に霊山寺は大麻比古神社の奥院と記載されていますが、天明7年(1787)の納経帳には「阿陽一之宮 正一位太麻彦神社 別当霊山密寺」とあります。

 高知県では第30番土佐神社(高知市)の別当寺の変遷が複雑です。明治期に善楽寺が廃寺後、安楽寺(同市)を30番札所としてきましたが、昭和4年(1929)に善楽寺(同市)が再興されますが、長らく2箇寺を30番札所としてきた特異な事情があります。同様な事例として、第37番の仁井田五社(高岡郡四万十町)の別当岩本寺(同町)は神仏分離で廃寺、愛媛県八幡浜の大黒屋吉蔵が札所の権利を岩本寺から買い取り、「第37番札所大黒山吉蔵寺」を創建しました。明治22年(1889)に岩本寺は再興されましたが、一時期、第37番札所は高知の岩本寺と愛媛の吉蔵寺の2箇寺が並立しました。

 愛媛県と香川県の神社系の札所については、次回に紹介します。

民俗展示室3「四国遍路」展示替えのお知らせ

2025年5月3日

 民俗展示室3「四国遍路」の展示替えを行いました。今回新たに展示した館蔵資料について紹介します。

①『御府内八十八ヶ所道知るべ』3冊 慶応2年(1866) 

 御府内とは江戸時代、町奉行の支配に属した江戸の市域を指します。御府内八十八ヶ所は、政治・文化の中心である江戸において開創された四国遍路の写し霊場(地四国)のことで、開創は江戸時代中期の宝暦5年(1755)と伝えられています。創始者は定かではありませんが、信州浅間山真楽寺の憲浄僧正と下総国松戸宿の諦信が協力して開基した説、31番多聞院の正等和尚開基説などがあります。開創以来、幾多の戦災や天災に見舞われ、札所の場所が移転しているところが多く確認されます。

 本書は江戸の御府内の八十八ヶ所の案内書であり、札所ごとに道案内や縁起、該当する本四国の札所の御詠歌、境内の景観などが絵入れで紹介されています。絵師は歌川広重の門人で『名所江戸百景』などを手掛けた二代広重画。発願主は江戸の大和屋孝助、三河屋利兵衛。

②小豆島八十八箇所霊場案内絵図 昭和15年(1940)

 風光明媚な瀬戸内海国立公園の真ん中に位置する小豆島(香川県小豆郡小豆島町・土庄町)には、空海が故郷の讃岐国と京の都を往復する際に小豆島に立ち寄り修行を行ったという弘法大師伝説があります。そうした伝説を背景に、貞享3年(1686)、小豆島の僧が結集し、島一円を霊域とする小豆島八十八箇所霊場が開創したと伝えられます。

 小豆島霊場は地元で「本四国」に対して「新四国」ではなく、「元四国」と呼ばれ、島の山谷や自然の地形を利用した山岳寺院の札所が多く、古くからの「行場」と伝えられる修行場が存在します。

 遍路道は全長約145㎞、日程的に徒歩は7~8泊、自転車4~5泊、車3~4泊を要します。春の巡拝シーズンには遍路にお接待が行われています。小豆島霊場は知多四国(愛知県)、篠栗四国(福岡県)と共に「日本三大新四国霊場」に数えられています。

 本図は凡例にあるように、寺院、仏堂、番外奥之院、納経出所数、順拜道路、郵便電信局、宿屋、名所古跡、巡航船路、渡船場、汽船航路、不定期汽船、車馬道、坂道まで記載され、小豆島八十八ヶ所霊場絵図の中でも詳細な案内図となっています。特に小豆島への航路便が分かり易く記載され、本図に示す距離は正確な実測に基づいた数値で記されています。

 この他、江戸時代からの旧遍路道の景観が残されて、国史跡「伊予遍路道」に追加指定された岩屋寺道と浄瑠璃寺道の写真パネルなども新たに展示しました。ぜひ博物館の常設展示室「四国遍路」をご覧ください。

 なお、四国霊場の写し霊場については、令和4年度特別展図録『浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場』(2022年)で紹介しています。当館のミュージアムショップで販売中です。詳しくは当館ホームページ「調査・研究」の「展示図録」でご確認ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情71―松山地方の七ヶ所参り―

2025年5月2日

 かつて愛媛県松山地方では「七ヶ所参り」「七ヶ寺詣り」と呼ばれた巡礼が行われていました。

 松山市に本社を置く伊予鉄道が大正10年(1921)~昭和2年(1927)頃に発行したと見られる案内パンフレット「七ヶ寺詣り御案内」があります(個人蔵、写真①)。その冒頭には「(前略)うららかな春光を浴びて札所々々が敬虔な心持で巡礼することは清い春の行事であります、この点からして松山近郊の七の四国霊場を巡拜することはその道程や風景の変化から言って又一日の行楽としても格好なものであります」と記されています。

写真① 案内パンフレット「七ヶ寺詣り御案内」(大正10年~昭和2年、個人蔵)

 パンフレットによると、松山近郊の7つの四国霊場とは、四国八十八箇所霊場第46番浄瑠璃寺から第52番太山寺までの7つの札所を指し、それらを巡る七ヶ寺詣りは春の行事としています。そして、7ヶ寺の由緒を簡潔に記し、「七ヶ寺巡拝路図」にお奨めの巡拝ルートを示しています。それは基本的に徒歩を移動手段としながらも、一部の区間で伊予鉄道を利用することで、7ヶ寺を効率よく1日で巡拝できる魅力的な内容となっています。

 伊予鉄道が推奨する七ヶ寺詣りのルートについて、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)で確認しましょう(写真②)。

写真② 松山七ヶ所参りのルート(四国遍路道中図・渡部高太郎版、当館蔵)

 まず、鉄道を利用して松山の海の玄関口である三津に行き、打ち始めとして①第52番瀧雲山太山寺(本尊十一面観音、松山市太山寺町)を参詣。その後、高浜から森松へ鉄道で移動し、そこから南行して荏原村(松山市恵原町)の衛門三郎の遺跡を訪ね、②第46番醫王山浄瑠璃寺(本尊薬師如来、松山市浄瑠璃町)を参詣。そこから北上して、③第47番熊野山八坂寺(本尊阿弥陀如来、同町)を参詣。荏原村まで後戻りして札始大師堂(松山市小村町)を訪ね、重信川を渡り、杖ヶ淵(松山市高井町)の霊水に立ち寄り、④第48番 清瀧山西林寺(本尊十一面観音、同町)、⑤第49番西林山浄土寺(本尊釈迦如来、松山市鷹子町)、⑥第50番東山繁多寺(本尊薬師如来、松山市畑寺町)を参詣して、石手川の遍路橋を渡り、最後に⑦第51番熊野山石手寺(本尊薬師如来、松山市石手)を参詣して打ち止め(結願)としています。

 道中図には西林寺道(八坂寺から西林寺への遍路道)に衛門三郎古蹟として八塚と文珠院徳盛寺、小村大師、杖ヶ淵などの弘法大師空海ゆかりの霊場が記載されていますが、重信川や石手川は描かれていません(本ブログ17「川を渡る」参照)。

 参考のため、昭和11年(1936)の『四国霊場大観』収録の昭和初期の7ヶ寺の本堂を撮影した古写真を紹介します(写真③)。

写真③ 松山七ヶ所参りの札所の本堂(『四国霊場大観』、昭和11年、当館蔵)

 そして、パンフレットの結びには「石手寺を打止めとすると時間があれば岩堰遊園地に遊ぶもよく又番外札所義安寺に詣でて公園の桜を見てそれから道後温泉に一日の疲を休める事が出来て最も都合のいい道順であります」とあります。

 このように、伊予鉄道を利用した七ヶ寺詣りは春の行楽シーズンにあわせて、伊予鉄道沿線の松山の四国霊場と一大観光地の道後温泉の入浴、道後公園の花見、岩堰散策など道後周辺の観光(写真④)を採り入れた1日遍路といえます。伊予鉄道は四国霊場の巡拝団体バスツアーによる先駆けとして戦後の四国遍路の普及に大きく貢献してきましたが、自社の鉄道を活用した松山地方の七ヶ所参りの普及にも一役買っていたことがわかります。

写真④ 絵葉書に見る道後周辺の観光(個人蔵)

 ところで、松山地方の七ヶ所参りはいつ頃から行われたのでしょうか?

 太山寺には四国霊場に現存する最古の札挟み(2枚の小板を紐で綴じて、その中に紙製納め札を挟んで収納する巡礼用具)が伝来しています。それは承応年間(1652~1654年)のもので、表側に「梵字(不動明王) 奉納七ヶ所辺路同行五人 承応□年二月吉日」、裏側に「梵字(弥勒菩薩) 南無大師遍照金剛」の墨書があります。その内容から、弘法大師信仰のもと、同行者5人で7ヶ所を辺路(巡拝)した際に用いた札挟みと考えられます。江戸時代前期に地域の特定の札所を選定して参詣する小規模巡礼が行われたことがわかります。また、天保7年(1836)に伊予国宇和郡双岩村布喜川(愛媛県八幡浜市布喜川)の遍路が四国巡礼を行った際に使用した札挟みがあります(当館蔵、写真⑤)。表裏に墨書で「奉納四国八拾八ヶ所辺路同行弐人」「奉納七ヶ所辺路同行弐人」と記され、江戸時代後期に南予地方の遍路による七ヶ所参りが行われていたことを示す資料として注目されます(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年)。

写真⑤ 伊予国宇和郡双岩村布喜川の遍路が使用した札挟み(天保7年、当館蔵)

 松山地方の七ヶ所参りについては、第53番圓明寺を加える事例や第44番大寶寺と第45番岩屋寺を加えて「十ヶ所参り」とするなど、参詣する札所の数や組み合わせは地域によって様々であり、四国遍路のお礼参りや本四国の代参とする目的で行われることもありました(今村賢司「近世前期における伊予国松山地方の四国遍路の様相―真念『四国邊路道指南』以前の遍路道標と札挟みを素材として」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要第20号』2015年参照)。

 松山地方の七ヶ所参りの他にも、江戸時代以降、四国遍路における小規模巡礼は阿波の十里十ヶ所参り、讃岐の七里十ヶ所参りなど各地で行われており、こうした小規模巡礼は多様な四国遍路の実態を示し、巡礼の構造や四国遍路の普及の過程を考える上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情70―善通寺の五重塔―

2025年4月25日

 まもなくゴールデンウィークが到来します。香川県善通寺市にある四国八十八箇所霊場第75番札所の五岳山(ごがくざん)誕生院善通寺では、毎年、大型連休にあわせて、重要文化財「五重塔」の内部が特別公開されています。

 今回は善通寺と境内に聳える五重塔について紹介します。

 最初に昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)で善通寺を確認します。札所を示す丸印の中心に善通寺の本尊薬師如来の半身像が描かれ、「七十五・屏風浦・善通寺」と記されています。善通寺は国鉄土讃線の沿線に位置し、最寄り駅は寺名がそのまま駅名となった善通寺駅、次の駅は「こんぴらさん」の玄関口の琴平駅です(写真①)。地理的に善通寺と金刀比羅宮は近く、遍路は四国巡拝の途中にこんぴら参詣を行ったのが通例でした。

写真① 善通寺周辺(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 善通寺について、昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃(四国順拜案内記)』(松山向陽社)には、「本尊薬師如来、大師の御作。大師御誕生所屏風ケ浦とて御父公佐伯善通卿の邸宅を伽藍と遊されし霊地なり。当山は四国唯一の大山にして、金堂、釈迦堂、五重大堂、仁王門、御影堂、奥の院、礼堂、宝物館、大旭殿、本坊、大玄関、客殿、寝殿、等の大建築あり」と紹介しています。当地は空海の父佐伯善通の邸宅であったことから「善通寺」と名付けられ、境内には数多くの堂舎が建立され、四国有数の大寺院であることがわかります。

 明治26年(1893)の「弘法大師御誕生所屏風浦善通寺之絵図」(当館蔵、 写真②)には、善通寺の広大な境内が鳥観図の手法で細密に描かれています。東院エリアに大門、五重大塔、金堂、大楠樹等、西院エリアに二王門、大師堂、護摩堂、本坊等が立ち並び、参詣で賑わう境内の様子が見て取れます。また、屏風ヶ浦の地名の由来となった善通寺の西側に連なる5つの山々・五岳山(香色山・筆ノ山・我拝師山・中山・火上山)、近隣の札所(甲山寺、出釈迦寺、弥谷寺等)、象頭山などの景観も描かれています。

写真② 「弘法大師御誕生所屏風浦善通寺之絵図」(明治26年、当館蔵)

 善通寺の伽藍の中でひときわ大きな建造物として異彩を放っているのが五重塔です(写真③)。 近代以降の善通寺参詣の土産として作成された多くの写真絵葉書の中には必ずといっていいほど五重塔のカットが入っています(写真④)。

写真③ 善通寺南大門と五重塔(当館撮影)
写真④ 善通寺五重塔の絵葉書(個人蔵)

 五重塔とは仏教寺院で五重の屋根をもつ塔のことで、古代インドで仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために造られたストゥーパが起源とされています。総本山善通寺の公式ホームページによると、現在の五重塔は明治35年(1902)に完成した4代目で、基壇から相輪までの高さが約43メートルで国内の木造塔として3番目の高さとなります。塔の内部は密教思想の中心的存在である五智如来が安置され、5階の厨子内に大日如来(非公開)、1階の壇上に心柱を囲むように東・阿閦(あしゅく)如来、南・宝生(ほうしょう)如来、西・阿弥陀如来、北・不空成就(ふくうじょうじゅ)如来が安置されています。構造上の特徴は5層すべての階の天井が高く、人が立って歩けることや、塔全体を支える心柱が5層目の屋根裏で鎖を使って吊り下げられて地面(礎石)から浮いていることなどが紹介されています。また、文化庁のポータルサイト「文化遺産オンライン」によれば、五重塔は和様を基調として、初重から伸びる心柱など古式を示し、江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示しており価値が高いとあります。

 ちなみに、世界最古の木造による五重塔は法隆寺の五重塔(飛鳥時代建立、高さ約32.6m、国宝。奈良県生駒郡斑鳩町)、日本一の高さの五重塔は東寺・教王護国寺(近世前期再建、約54.8m、国宝。京都市)、最も低いのは室生寺(平安時代初期建立、約16.1m、国宝。奈良県宇陀市)の五重塔です。一方、四国霊場の五重塔を建立年代順で見ると、善通寺五重塔が一番古く、次いで第70番本山寺(明治43年再建、約31.7m。香川県三豊市)、第86番志度寺(昭和25年建立、約33m。香川県さぬき市)、第31番竹林寺(昭和55年再建、約31m。高知県高知市)、番外霊場・法然寺(平成23年建立、約24m。香川県高松市)で5つの五重塔があります。

 最後に、江戸時代の善通寺の五重塔の姿を絵図類から見てみましょう。

 現存最古の四国遍路絵図である宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧礼絵図」(当館蔵)には善通寺の箇所に金堂と五重塔が挿絵入りで紹介され、「弘法大師御誕生之地ナリ」とあります(写真⑤)。寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」には江戸時代後期の善通寺の境内が写実的に描かれ、金堂の前方に五重塔が確認できます。幕末期の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図(原田屋版)」(当館蔵)には「勅願所 屏風浦五岳山善通寺誕生院 弘法大師誕生之地」とあり、ひときわ目立つ五重塔が描かれ「五重大塔」と記載されています(写真⑥)。

写真⑥ 善通寺周辺(「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図(原田屋版)」幕末期、当館蔵)

 こうした江戸時代の四国遍路の絵図類からは、善通寺が弘法大師空海の誕生地と伝え、四国遍路の聖地として、四国八十八箇所霊場の中心的な札所として捉えられ、善通寺五重塔は四国霊場のランドマーク的存在であったといえます。 ※令和7年度のゴールデンウィークに実施される善通寺五重塔の特別公開の日時等の詳細については、善通寺のホームページなどでご確認ください。

 また当館では現在、特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」を開催中です(6/29日迄)。この機会にぜひご覧ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情69―法輪寺の涅槃釈迦如来像―

2025年4月19日

 4月19日(土)に特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」が開幕しました。

  創作絵本のロングセラー『ねずみくんのチョッキ』(1974年)は、赤いチョッキを着た小さくて可愛いねずみくんが、いろんな動物の仲間たちとくり広げるユーモラスで心温まる物語です。絵本作家・なかえよしを氏と画家上野紀子氏夫妻が手掛けたねずみくんの絵本シリーズは50周年を迎え、世代を超えて世界中で愛されています。それらの絵本を通じて、物を大事にすることや、悲しく弱っている人の気持ちに寄り添うこと、想像力を養うことなど、私たちにたくさんの大切なことを気づかせてくれます。本展では最新作を含む全作品の原画やスケッチなど約200点を展示します。この機会にぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。

 そこで今回は『ねずみくんのチョッキ』の世界観に共感して思い浮かべた四国霊場の本尊仏を紹介します。

 それは徳島県阿波市土成町に位置する四国八十八箇所霊場第9番札所の法輪寺の本尊・涅槃(ねはん)釈迦如来(秘仏)です。

 涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナに由来し、すべての煩悩の火が吹き消された状態の悟りの境地や入滅・死去を意味します。「涅槃経」にもとづいて作られた涅槃像には絵画と彫像があり、いずれもインドのクシナガラにおいて沙羅双樹の下の宝座で、頭を北にして顔は西に向け、右脇を下にして、最後の教えを説かれて涅槃に入られた釈迦の姿と、別れを嘆き悲しむ諸菩薩と仏弟子、たくさんの動物たちの情景があらわされています。

 八十八箇所霊場の中で本尊に彫像による涅槃釈迦像を祀るのは法輪寺が唯一です。法輪寺は昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「御本尊涅槃の釈迦如来 御丈二尺五寸大師の御作。当寺は大師の御開基で、昔は白蛇山法林寺と称へ山つき方にありましたが、天正の兵火に罹り正保年間(1644~1648)今の地に再興、再び安政六年(1859)火災に罹り、今の堂宇は明治になっての建立です。」とあります。同年の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵、写真①)収録の古写真からは、のどかな田園風景の中にたたずむ法輪寺の境内の様子がわかります。  

写真① 第九番法輪寺(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 ところで、四国遍路道中図には八十八箇所霊場の札所本尊の姿(御影)が微笑ましく漫画チックに描かれています(本ブログ3「札所の本尊御影」参照)。大正6年(1917)の駸々堂版、昭和9年の浅野本店版、昭和13年(1938)の渡部高太郎版で法輪寺の御影(涅槃釈迦如来)を確認すると(写真②③)、地図上の小さな丸印の中に本尊の特徴をつかんで簡略に描くにあたり、涅槃釈迦如来は容易ではなかったと想像され、渡部高太郎版にいたっては略し過ぎて姿がよくわかりません。    

写真② 法輪寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
写真③ 法輪寺の本尊御影(「四国遍路道中図」駸々堂版、浅野本店版、渡部高太郎版)

 実際に明治40年(1907)に法輪寺を参拝した遍路が納経を行った際に札所から授与された本尊御影(当館蔵、写真④)が納経帳に貼付されています。小さな紙片に描かれた簡易なコンパクト涅槃図といえます。そこには、上部に釈迦入滅の日(旧暦2月15日)といわれる十五夜の美しい満月、天女たちに付き添われた雲上の一団は息子のもとへ向かっている釈迦の生母・摩耶(マヤ)夫人、釈迦を囲んでいる沙羅双樹の木、釈迦を慕い嘆き悲しむ仏弟子たちと動物たちが下部に描かれています。

写真④ 明治40年に法輪寺を参拝した遍路が納経を行った際に札所から授与された本尊御影(当館蔵)

 釈迦の涅槃に際しては様々な動物が集まっていますが、その中には白象や駱駝などの当時日本では見ることができなかった動物や、龍や獅子などの想像上の生き物、蜻蛉や蝶などの小さな昆虫の姿もあります。興味深いのは、ふだんは互いに争いあう動物たちも、この時ばかりは皆そろって釈迦の入滅を悲しんでいます。また、猫が描かれているものは少なく、その理由として、釈迦のために沙羅双樹の木に掛かった薬袋をねずみが取りに行こうとしたら、猫に邪魔されてできなかったとする説、死者の肉体を持ち去り食べてしまう猫を悪性と見る説などがありますが、詳しくはわかっていません。

 涅槃像からは、釈迦の入滅というかけがえのない尊いものを失った生きとし生けるものが、そこで何を感じて、その後どのようになったのか? そうしたことを想像して、多くの大切な気づきを学ぶことができるように思います。

 最後に当館の近郊にある隠れた人気スポットを紹介します。愛媛県八幡浜市大釜地区の沖合約100mに、ねずみが海上に座っているような形をしているところから「ねずみ島」と呼ばれ、地元の人に親しまれている小さな島(無人島)があります。干潮になると海の中から道が現れて島に行くこともできます。詳しくは八幡浜市観光物産情報サイトをご確認ください。特別展「誕生50周年 ねずみくんのチョッキ展 なかえよしを・上野紀子 想像力のおくりもの」の観覧とあわせて、南予地方の自然と歴史文化の魅力も楽しんでくださいね。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情68―災害と遍路のリスクヘッジ―

2025年4月18日

 最近の全国ニュースで周知のとおり、岩手県、岡山県、愛媛県、宮崎県などで山林火災が相次いで発生しました。総務省消防庁によると、いずれも現時点で原因は詳しく分かっていませんが、例年、焚火や野焼きの多い2月~4月にかけて全国で山林火災の発生が多く、火の取り扱いに注意するよう呼びかけています。

 愛媛県の場合、報道によると、今治市と西条市にまたがる大規模な山林火災が発生し、延焼による焼失面積は約442ヘクタール(甲子園球場の約114個分)で、100ヘクタール以上の山林火災について統計をまとめ始めた1989年以降最大となりました。また、強風によって火の粉が飛び散る「飛び火」によって山林から離れた場所で建物が炎上するなど、甚大な被害が出ました。今後も山火事による山の貯水力低下のおそれがあるため土砂災害への警戒が必要といわれています。

 今回の今治・西条山林火災を通じて、四国遍路への影響や災害時の危険回避のための遍路の心得について紹介したいと思います。

 愛媛新聞社のデジタルマップ(今治山林火災2025)によると、焼失したエリアは今治市長沢、孫兵衛作周辺であったことがわかります。その近郊には北方に四国八十八箇所霊場第59番札所の国分寺(今治市国分)や漆器の産地である桜井地区、南方には厄除けや「きうり封じ」で有名な番外霊場の世田薬師(栴檀寺)が位置し、エリア東側の麓には、国分寺から第60番横峰寺(西条市小松町石鎚)に至る歩き遍路道「横峰寺道」が通っています。

 位置関係を確認しましょう。正確な地図ではありませんが、大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版)(写真①、当館蔵)では、横峰寺道のルートは国分寺⇒桜井⇒長沢⇒六軒屋(西条市河原津)へと進みます(本ブログ27「横峰寺への巡拝」参照)。昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(写真②、当館蔵)では、国分寺⇒桜井⇒三芳(西条市三芳)⇒丹原(西条市丹原町)へ向かうルートが記載されています。両図で宿駅(集落)の地名が異なり、世田薬師は記載されていませんが、横峰寺道は基本的に国分寺をスタートして今治市域の桜井から長沢・孫兵衛作を経て、西条市楠の世田薬師へと進むルートで、改めて、焼失エリアのすぐ近くに遍路道が位置していたことがわかります。

写真① 国分寺から横峰寺道(大正6年の「四国遍路道中図」駸々堂版、当館蔵)
写真② 国分寺から横峰寺道(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 遍路道には大師堂や道標石などの四国遍路の歴史遺産が今に伝わっています(写真③)。現時点では遍路道などの被災状況の詳細はわかりませんが、テレビ報道によると、世田山にある世田薬師の奥之院にも火が迫り、消防の命がけの消火活動によって奇跡的に焼失を免れたことが紹介されていました。また、国分寺の最寄り駅となるJR伊予桜井駅付近で火災が発生したため、乗り降りの一時中止、高速道路・国道196号が一時通行止めとなるなど、交通機関にも大きな影響を与えました。実際に山林火災発生中に今治地方で四国巡拝中の遍路が発信したSNS情報によると、札所巡拝の順番やルートの変更を行うなど、交通障害や火災への危険を回避しながら四国遍路を行ったことが紹介されています。

写真③ 横峰寺道の風景(今治市湯ノ浦サービスエリア近くに建つ、江戸時代の武田徳右衛門の遍路道標石、当館撮影)

 地球的規模で異常気象が発生する昨今、八十八箇所の霊場をめぐる長丁場の四国遍路において、火災、土砂崩れ、地震などの災害に遭遇することも想定されます。そのため非常時の対処法や事前の備えが必要となります。

 あらゆる危険を回避して安全に四国遍路を行うためのいうならば「遍路のリスクヘッジ」について、戦前の四国遍路の入門書で、遍路の心得を綿密に記した、昭和6年(1931)の安田寛明著『四国遍路のすすめ』の記述が参考になります。以下、災害への危険回避に対する注意書きの箇所を引用します。

 〇宿屋へ泊ったら、すぐ便所は家の中にあるか外にあるか、亦万一の場合の非常口を、尚進んでは裏に川や池はありませぬか、深いか浅いかをも、亦二階に泊まるときは、総てに安全の方法を前以て考え置くべきです。人が笑っても、御大師様はお褒め下さるのですから共に気を附けるべきです。

 〇寺では最も火の用心に注意なさること。

 〇山路を歩く時は好きな煙草でも差し控えなさい。若しも吸いたくて途中で吸うときは、最も気御附(きをつ)けること。燐寸(マツチ)一本の不注意から大山火事が起こるようなことがある。最も注意して下さいませ。

 それによると、不測の事態を想定して宿泊時の入念な安全確認を徹底すること、札所となる霊場寺院での火の用心の徹底、山中の遍路道で山火事を起こさないよう細心の注意を払うことなどが指摘されています。これらの心得は、遍路に限らず今日の私たちが災害などの未来の危険に対する基本的な心構えを示すもので、事前の備えや対策を考えることにつながり、傾聴に値します。  

 最後となりますが、この度の今治市・西条市の山林火災により被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げますとともに、一日も早い復興をお祈りいたします。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情67―関所寺・立江寺―

2025年4月11日

 徳島県小松島市立江町にある四国八十八箇所霊場第19番札所の立江寺(たつえじ)は「四国の総関所」、また「阿波の関所」と呼ばれ、四国霊場の関所寺として知られています。

 関所寺とは、白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、「四国遍路において、それまでの素行が悪ければ、第十九番立江寺を打つことができず、遍路を中止して帰らなければならないとされる。これを関所寺といい、弘法大師によって定められたといわれている。また、立江寺の手前には九ツ橋という橋があるが、この橋の上に白鷺がいた時も、それ以上進むことは許されないという。」とあります。

 次に、大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版)で立江寺を確認します。札所を示す赤色の丸印に「十九番・摩尼山・立江寺・立江町」と記され、中心に延命地蔵菩薩立像をイラスト風に描いた本尊御影が掲載されています(写真①、当館蔵)。また、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)では、札所を示す水色の丸印に「十九・摩足山・立江寺」と記され、大正6年版とは異なる本尊延命地蔵菩薩立像の御影が掲載されています(写真②、当館蔵)。両図とも関所寺の記載はありません。現在の立江寺の正式名称は「橋池山(きょうちさん)摩尼院(まにいん)立江寺」ですが、四国遍路道中図では札所寺院の院号表記はありませんが、山号が異なっています。渡部高太郎版の「摩足山」はおそらく誤植ではないかと思われます。 

写真① 立江寺周辺(大正6年の「四国遍路道中図」駸々堂版、当館蔵)
写真② 立江寺周辺(昭和13年の「四国遍路道中図」渡部高太郎版、当館蔵)

 立江寺の本尊の延命地蔵菩薩立像については、寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (約5.5 cm) の子安地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊とした。後に空海(弘法大師)が訪れた際に小さな本尊は失うおそれがあるため、一刀三礼(いっとうさんらい)して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収め、この時に寺名が立江寺と改められたと伝えられています。

 立江寺が関所寺であったことを物語る史料として、明治33~34年(1900~01)に発行された「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記」と題した2種類の刷り物が、北宇和郡九島村字百之浦(愛媛県宇和島市九島)の遍路の所持品の中に残されています。それらは遍路が立江寺参詣の際に買い求めたものと見られます。その内の1枚は万治3年(1660)の出来事で、立江寺の手前にある九ツ橋の上に白鷺がいたにもかかわらず、村人の制止を聞かず橋を渡り落馬して死に至った阿波藩の郡代奉行黒部某の物語が紹介されています(写真③、当館蔵)。

写真③ 郡代奉行黒部某の物語「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記 其二」当館蔵

 橋の上に白鷺がいると進めないとする伝承は、貞享4年(1687)の真念の『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「〇たてえ村、石橋八ツ、此はしのうへに白鷺居ときハ往来の人渡る事あしゝ、をしてわたりぬれバあやまち有。」、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』にも「立江村。石橋、橋上に白鷺居る時ハ通らなずと云也。」と記され、江戸時代には立江寺前の橋にまつわる白鷺伝説が広く知られていたことがわかります。さらに明治16年(1883)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』によると、「十九番 立江寺(中略)当寺は遍路御関所といふ。」とあり、立江寺は「遍路の御関所」と明記されています。

 もう1枚の刷り物には、不義密通して夫を殺したお京の物語が紹介されています(写真④、当館蔵)。お京の物語は「肉髪付鉦(つきかね)の緒の由来」として有名で、近代の四国遍路の案内記類に詳しく紹介されています。ここでは戦前の詳しい四国遍路案内記として定評のある昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』からあらましを紹介します。

写真④ お京の物語「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記 其三」当館蔵

 「肉髪付鉦の緒の由来は尤も名高く、概略を申しますと、享和三年(1803)石州浜田(島根県浜田)の城下に桜屋銀兵衛という者に三人の娘があり、中のお京は大坂新町で芸者稼業中要助なる者と深く契って脱走、親里に帰り夫婦となりましたが、いつしか密夫を拵(こしら)え遂に発覚したので、密夫を手引して夫を殺し、共に讃州丸亀に上陸して四国巡拝を思い立ち当寺(立江寺)まで来たのであります。ところが不義の天罰恐しくお京の黒髪は逆立って鉦(かね)の緒に巻きついたので、ここに懺悔して真人間に還り、一心に地蔵尊(立江寺本尊)を念じて辺(ほと)りに余世を終わったと言うことであります。その鉦の緒は今なお本堂に秘め収められています。」

 改めてこの刷り物を見ると、立江寺本堂の前において、お京の黒髪が逆立って鉦(かね)の緒に巻きついて身体が吊り上げられ、狼狽した密夫は跪き、二人は住職に救いを求め、罪を告白して懺悔する場面が描かれています。お京の首には納め札を入れる札挟みが掛けられ、密夫は笈摺を着ています。本堂前には降り落ちたお京の簪(かんざし)、二人が四国巡礼で被っていた笠、金剛杖なども描かれ、二人が遍路であることを示しています(写真④)。「四国霊場第十九番立江寺本尊霊験記」などのこうした刷り物は案内記類とともに、四国霊場の札所の由来や本尊等の霊験を世に広めました。

 お京の物語は、前科のある者や凶悪な罪を犯して追われている凶状持ち(きょうじょうもち)が、追手から逃れるためか、それとも罪ほろぼしのためか、遍路を装って四国霊場を巡拝していたことを示しています。また、過去のあやまちを懺悔して命が助かった二人は仏道に精進したという結末は、四国遍路が罪人も救済する霊場であることを示唆しています。このように関所寺・立江寺に伝わるお京の物語は、四国遍路という巡礼の特質を考える上でとても注目されます。

 現在、立江寺境内にはお京の肉髪付鉦の緒を納めた「黒髪堂」、寺の近くには白鷺の関所伝説のある「白鷺橋」、お京の位牌が納められている番外霊場「お京塚」などがあり、遍路が訪れる立江寺ゆかりのスポットとして知られています。