テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介④

2025年8月15日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、アメリカ軍が撮影した宇和島市の空襲前後の写真を紹介します。昭和19(1944)年7~8月にサイパン・グアム・テニアン島が陥落すると、B29の基地としてサイパン島に73航空団、テニアン島に58・314航空団、グアム島に313・314航空団が置かれ、日本を空襲しました。宇和島市も翌年5月10日、7月12日、7月29日に大きな空襲を受けました。

 宇和島市における最初の空襲は昭和20年5月10日でした。岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布(岩国)製油所を第1目標とした314航空団の132機の1機が、午前9時に臨機目標とした宇和島市に250㎏爆弾を5t投下しました。これによって朝日町などが被害をうけ、119名が亡くなりました。写真①は7月2日にアメリカ軍が撮影した写真です。5月10日の被害が一直線上に確認できます。しかし、まだ宇和島城を中心とする市街地の多くは被害をうけずに残っていることがわかります。

 7月12日、宇和島を第1目標とした314航空団の124機が、午後11時13分~午前1時26分にかけて50㎏焼夷弾を393t、250㎏収束焼夷弾を479t投下しました。この空襲で36名が亡くなりました。続いて、7月29日、またも宇和島を第1目標とした314航空団の29機が、午前0時16分~同1時25分にかけて50㎏焼夷弾を90t、250㎏収束焼夷弾を115t投下しました。この空襲で86名が亡くなりました。

 写真②は8月8日にアメリカ軍が撮影した写真です。7月12、29日の空襲によって市街地の南部を除く多くが焼失したことが分かります。アメリカ軍は6月17~18日にかけて鹿児島・大牟田・浜松・四日市の4都市を空襲し、以後8月15日まで20回にわたり57の中小都市を空襲しましたが、宇和島のように2回も空襲をうけたのは大牟田、一ノ宮、宇和島の3都市に過ぎません。写真①と②は僅か1ケ月の間に空襲によって宇和島の街が焦土と化した状況を表しています。

 今回4回にわたってテーマ展の資料を紹介しましたが、戦後80年にあたり戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となれば幸いです。テーマ展は今月末まで開催しています。ぜひ、ご来館ください。

写真① 昭和20年7月2日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)
写真② 昭和20年8月8日撮影の宇和島市(加工データ当館蔵/原資料米国国立公文書館蔵)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介③

2025年8月14日

 1枚目の写真は出征する兵士の家の前の様子を写したものです。軒近くには多くの日章旗が飾られ、多くの幟が立っています。幟には日章旗や旭日旗のデザインに「祝 出征 (個人名)君」と書かれています。拡大して見ると、旭日旗の中央に桜花や金鵄勲章(武功をたてた者に与えられる勲章)をデザインした幟もあったようです。「入営」(陸軍として軍隊に入ること)、「入団」(海軍として軍隊に入ること)、「出征」(召集されて戦地におもむくこと)は「祝い事」であり、地域をあげて兵士を送り出しました。

 2枚目の写真は三津浜駅(松山市)で汽車に乗り込んだ兵士を写したものです。よく見ると兵士の軍服には下士官の肩章が付いています。昭和12年に日中戦争が起こったため、予備役にも臨時召集令状が届いたのでしょう。11師団の善通寺へ向けて出発する際の写真ですが、見送る人々の表情に笑顔は見らません。「バンザイ」を唱えて見送る写真はよく残されていますが、この写真は出発間際に別れを惜しむ人々の様子をとらえたものとして貴重です。

 3枚目の写真は兵士を乗せた汽車が三津浜駅を出発後も、日章旗や幟をもって見送り続ける人々の様子を写したものです。汽車は写真右下の隅に見えます。出発した汽車は勢いよく煙をはきながら駅から遠ざかっていきますが、ホームには見送りの人々がまだ残っています。恐らく汽車が見えなくなるまで見送ったのでしょう。これらの3枚の写真からは、出征風景を知るだけでなく、見送る側と見送られる側の気持ちが伝わってきます。このような光景が二度と繰り返されないように、歴史の教訓を学ぶ80年となれば幸いです。

1枚目 出征兵士の家
2枚目 三津浜駅での惜別
3枚目 見送り続ける人々

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情92―戦争と四国遍路② 「出征軍人武運長久祈願納経帳」

2025年8月8日

 前回に続き、「四国遍路道中図」が発行されていた戦前における、戦争の影響による四国遍路の状況について見て行きます。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』には、軍装姿の男性写真に礼拝する母子遍路や戦闘帽に国民服を着た青年遍路の姿が描かれています。戦争の影響によって、四国霊場では従来の一般遍路とは異なる、出征兵士の武運長久や戦没者の供養を祈願する親族等の姿が多く見られたと推察されます(本ブログ91「戦争と四国遍路①」参照)。

 今回はそうした事例として、当館に寄贈された「出征軍人武運長久祈願納経帳」を紹介します。

 本資料は戦前の四国霊場で一般に使用された納経帳の体裁とは異なり、市販の子ども用の学習帳に納経印を押印して納経帳に見立てたもので、表紙は錦の布地で飾られています。

 最初の頁には墨書で「出征軍人/武運長久祈願/願主 楠寅市」と記され、背景には愛媛県内の四国霊場7箇寺(第40番奥院龍光院、第41番龍光寺、第48番西林寺、第50番繁多寺、第51番石手寺など)の御朱印(宝印)が確認できます(写真①)。

写真① 「出征軍人武運長久祈願納経帳」表紙(当館蔵)

 見返し部分には、「武運長久」を祈願した吉祥山西岸寺(愛媛県西予市野村町)、和霊神社(同県宇和島市)、三嶋神社(同県西予市野村町)、熊野神社(同左)などの御朱印が押印されています(写真②)。

写真② 「出征軍人武運長久祈願納経帳」近隣神社の御朱印(当館蔵)

 本資料の前半部の冒頭には「支那事変武運長久祈願/北支/香月軍司令官以下将兵勇士/寺内軍司令官以下将兵勇士/上海/松井軍司令官以下将兵勇士」と記され、第43番明石寺の納経印が押印されています(写真③)。

写真③ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変武運長久祈願(当館蔵)

 次頁以降は「支那事変出征兵士」として、「野村町」の121名の名前が列挙されています。見開きで「奉納/十一面観世音/大宝寺」と記され、第44番大寶寺の納経印が7回も重ね印されています(写真④)。他頁にも、第45番岩屋寺、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第49番浄土寺、第48番西林寺などの納経印があります。

写真④ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・野村町(当館蔵)

 次に「中筋村出征兵士」として46名が記されています(写真⑤)。第49番浄土寺、第50番繁多寺、第43番明石寺の納経印が押されています。そして「中筋村在郷軍人」として86名の名前があります。在郷軍人は平時には民間にあって生業につき、戦時に際しては必要に応じて召集され、国防に任ずる予備役などの軍人のことです。第51番石手寺、第42番仏木寺、番外霊場の出石寺や龍光院などの納経印が確認できます。

写真⑤ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・中筋村(当館蔵)

 次に「貝吹村出征兵士」として23名の名前が列記されています。出石寺、第46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺などの納経印が押されています(写真⑥)。そして野村町、中筋村、貝吹村、横林村(以上、愛媛県西予市野村町)の代表者の名前が記され、四国八十八箇所霊場の愛媛の札所寺院、松山の還熊八幡神社、第66番雲辺寺から第75番善通寺までの納経印が各頁に押印されています。

写真⑥ 「出征軍人武運長久祈願納経帳」支那事変出征兵士・貝吹村(当館蔵)

 本資料の後半部には「野村町中筋村貝吹村/修験道者」として、6名の修験者(山伏)と「信行者」(在家の修験者)の名前、御詠歌連中が列記され、信行者の中には本資料を作成した願主・楠寅市の名前も確認できます。そして第75番善通寺の納経印が押印され、「支那事変ニ関シ昭和拾参年八月九日、出征軍人武運長久祈願ノ為、右連中ハ野村町進藤大師堂ニ於テ大般若経六百巻及般若心経一千巻ノ初回祈願ヲ行フ」とあります。昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋事件を発端に支那事変が発生しますが、翌13年(1938)8月9日に出征軍人の武運長久祈願のために、野村町進藤大師堂(西予市野村町。現存せず)で大般若経600巻と般若心経1000巻を転読したことがわかります。

 次頁以降は第1回目の祈願後に行われた開催場所等が記録され、大泉寺(西予市野村町。第3・4・6回)、願主楠寅市氏宅(第5回)、三柱神社(同市城川町、第23・24・33・53・54回)など、全54回も継続されたことがわかります。

 本資料の最後には、戦没者の遺影を掲げた親族等の集合写真、祈願を行う修験者や御詠歌組の集合写真(写真⑦)、昭和18年(1943)の第10回目の大般若転読を個人宅で開催している様子の写真(写真⑧)が添付されています。集合写真には女性や古老が多く、出征兵士の親族・関係者の首に掛ける輪袈裟には「大窪寺」(第88番)、「子安講本部」(第61番香園寺)、「阿波国立江寺授与」(第19番)など、四国八十八箇所霊場の札所寺院のものが確認でき、四国遍路の体験者と見られます。 

写真⑦ 出征軍人武運長久祈願の参加者による記念写真(当館蔵)
写真⑧ 出征軍人武運長久祈願(大般若転読)の様子(当館蔵)

 また、新聞記事の切り抜き(掲載紙、年不明)が貼られています。それには「野村町を中心に/大般若経で武運長久祈願/天台宗修験者の集り」と見出しがあり、天台系の修験者が主催して、在家の行者(楠寅市ほか)も協力して、地元では大師堂や個人宅で定期的に大般若祈祷が行われ、四国霊場等への巡拝を行っていたことがわかります。また、楠寅市ら諸氏が郷土出身兵士に故郷のニュースや写真を撮影して年賀状として戦線勇士に発送したことなども記載されています。

 以上、「出征軍人武運長久祈願納経帳」の概要を紹介しました。戦時中、郷土の出征軍人の武運長久祈願のため、在家の行者が願主となって、修験者によって大般若経等の転読が行われていること、出征兵士の名前を町村ごとに列記し、納経帳に見立てた帳面が作成され、近隣の神社仏閣や四国霊場の札所で納経が行われていることが確認できます。「四国遍路道中図」が発行・使用された戦前の四国遍路における、戦争の影響と札所寺院の役割について垣間見えてきます。

 今年、令和7年(2025)は被爆・戦後80年の節目を迎えます。年々、戦争体験者の高齢化と減少、戦争非体験者が増加するなかで、戦争の記憶を風化させないため、そして平和の尊さを再認識するため、各地で平和祈念イベントや展示会、講演会などが開催され、戦争体験の継承や平和教育の推進が図られています。現在開催中の当館テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」(8月31日迄)もぜひご覧ください。詳しくは当館HPをご確認ください。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情91―戦争と四国遍路①  御詠歌から軍歌へ

2025年8月6日

 まもなく8月15日の終戦の日を迎えます。今年、令和7年(2025)は被爆・戦後80年の節目にあたります。

 昭和時代の代表的な四国遍路案内地図といえる「四国遍路道中図」には、筆者が確認できた発行年が記載されているものとして、大阪の駸々堂版≪大正5年(1916)、大正6年(1917)、昭和6年(1931)≫、浅野本店版≪昭和4年(1929)、昭和9年(1934)≫、光栄堂版≪昭和5年(1930)、昭和10年(1935)≫、渡部商店版≪昭和8年(1933)≫、渡部高太郎版≪昭和13年(1938)≫、金山商会版≪昭和15年(1940)≫、小林商店版≪昭和15年(1940)≫、イナリヤ総本店版≪昭和16年(1941)≫、その他に発行年無記載版≪江口商店版、藤井商店版≫などがあります(写真①、本ブログ38「四国遍路道中図の系統」参照)。

写真① 大正時代~昭和時代にかけて発行された四国遍路道中図(左:各種版・個人蔵。右:渡部高太郎版・当館蔵)

 「四国遍路道中図」が発行された大正時代から昭和時代(戦前)は、日本が大正3~同7年 (1914~1918)の第一次世界大戦を経て、昭和12年(1937)の日中戦争、昭和16年(1941)の真珠湾攻撃をきっかけに太平洋戦争へ突入し、第二次世界大戦へ迎えた時期にあたります。四国遍路道中図は近代日本が二度の世界大戦を経験した戦争時代の四国遍路の案内地図ともいえます。

 その時代背景を概観すると、大正時代末期から昭和時代にかけて、旅行ブームが到来しましたが、昭和12年の日中戦争勃発後、国民生活は統制経済となり、同15年に奢侈品等製造販売制限規則(7月7日に施行されたことから通称「七・七禁令」と呼ばれた)が制定され、国民精神総動員運動が推進されます。七・七禁令と連動して「不要不急の旅行は遠慮して国策旅行にご協力下さい」というスローガンを書いたポスターが、鉄道省各駅に貼られました。国策旅行とは「皇祖」ゆかりの地、皇国史上の「遺跡」への旅を指します。同16年には生活必需品が不足したため、六大都市で米穀配給通帳制、木炭配給通帳制、酒切符制、外食券制が始められ、翌年に塩、みそ、醤油、衣料などにも切符制が導入されました(星野英紀『四国遍路の宗教学的研究―その構造と近現代の展開―』法蔵館、2001年)。

 こうした時代背景から、自ずと四国遍路の総数も減少していったことは、宿帳の記録からもうかがい知れます(本ブログ89「社会と人生の縮図の遍路宿」参照)。

 「四国遍路道中図」には具体的に戦争に関係する記述は見当たりませんが、当時の案内記や遍路記などの記述からは、戦前の四国遍路における戦争の影響が垣間見えます。

 昭和17年(1942)の漫画家・荒井とみ三『遍路図会』には、戦時体制下の四国遍路の様子が文章と挿絵によって紹介されています。挿絵には札所で軍装姿の男性写真に礼拝する母子遍路の姿、戦闘帽に国民服を着た青年遍路などが描かれています。「御詠歌の代りに唄っているのは軍歌であった。つぎつぎに、唇を衝いて出る「戦友」や「露営の歌」を聞かれては、大師さまも破顔一笑されるであらう。朗々たる遍路新風景」と記されています。

 本書からは戦争の影響よって、四国霊場には従来の一般遍路とは異なり、出征兵士の無事あるいは戦没者の冥福を祈願していると推察される親族の姿、青年遍路の姿などを見出すことができます。中でも大きな変化として「朗々たる遍路新風景」と評しているように、御詠歌の代わりに軍歌が四国霊場で唄われていることは注目されます。

 御詠歌は札所本尊の功徳・霊験や札所の風景などを詠んだ和歌で、西国巡礼や四国遍路などにおいて、札所参拝時に巡礼者が唱えるお勤めの一つでした(本ブログ12「御詠歌」参照)。それに対して、軍歌は軍隊の士気の鼓舞、戦意の高揚、愛国精神の発揚などを目的としてつくられた歌です。

 四国霊場で唄われた軍歌「戦友」(真下飛泉作詞、三善和気作曲)は、明治38年(1905)、日露戦争を舞台に戦友の友情や絆をテーマにした哀愁に満ちた楽曲ですが、「厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられたというエピソードがあります。一方、「露営の歌」(籔内喜一郎作詞、古関裕而作曲)は日中戦争(支那事変)勃発後の昭和12年に発表された戦意高揚を目的とした軍歌で、戦場での生活や出征する兵士の心情が描写されています。両曲ともに多くの人々に歌われ、当時の世相を反映しています。

 戦後、愛媛県西条市出身の政治家・思想家の橋本徹馬が昭和25年(1950)に刊行した『四国遍路記』(写真②)は、橋本が昭和16年(1941)に四国遍路を行った時の遍路記です。

写真② 橋本徹馬『四国遍路記』昭和25年、個人蔵

 はしがきに「無理な戦争の為めに、祖国が地獄道を驀進して行く惨状を眺めながら、最早施す手段も尽きて、悲痛な気持に浸りながら遂行した遍路の日記であるから、その心して読まれたい。(中略)就中満州事変以来、支那事変、太平洋戦争等の長期に亘る戦時中に、可愛い我子を戦死せしめた多くの親達、大事な大事な良人を失ふた若き婦人達、尊い我が父兄を失ふた子弟等の中には、未だに涙のかわかぬ人々が多いであらう。殊にそれが名誉の戦死者として取扱はれでもすることか、事情が分れば分る程、無理な戦争の犠牲となつたのである事が知られては、遺族の人々の心に泣いても泣き切れぬ悲しみが沸き上つて来ることであらう。誤れる戦争に伴ふ悲劇の深刻なるを知るべしである。それらの人々は、若し事情が許すならば、ゆつくりと霊場遍路の旅にでも出て、死者の冥福を祈りたい心の切なるものがあらう」と記されています。

 橋本は誤った戦争によって犠牲となった戦没者の冥福を祈るため、四国霊場を巡拝することを薦めています。終戦後まもない四国遍路の状況がうかがわれます(今村賢司「案内記類から見た近代の四国遍路観」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第28号、2023年)。

 次回は、出征軍人武運長久祈願納経帳について紹介します。

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介②

2025年8月4日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、陶器製のおろし・ボタン・剣山を紹介します。

 16年度には戦時物資活用協会が、17年度には金属回収統制株式会社が中心となり、一般家庭からの金属回収が実施されました。一般家庭に比較して企業からの回収実績は少なく、翌18年4月16日に東条英機内閣は「昭和18年度金属類非常回収実施要綱」を閣議決定し、8月12日に「金属類回収令」を改正して82業種から40設備を、23施設から鉄62品目、銅72品目、鉛14品目を供出可能としました。これには企業の「未動遊休設備」、「不要不急設備」、「仕掛品」を回収しようとするねらいがありました。

 このように一般回収から特別回収へ、特別回収から非常回収へと、回収の種類や品目が拡大するなかで、世の中には代用品が多く出回るようになりました。金属に代えて陶器や紙といった別材料を用いた代替物です。今回の陶器製のおろし・ボタン・剣山もその一例です。このような陶器製の代用品には、多くの場合統制価格で販売されることを示す生産者別標示記号が記されています。本資料の剣山にも三重県四日市市を中心とする万古焼であることを示す「万025」の刻印があります。

 陶器製のおろしを見ていると、このようなものまでも……と当時の苦しい生活が想起されます。その一方で陶器の地肌を細かく跳ね返して、おろしの刃が精緻に作られており、伝統技術が皮肉な形で活かされていることにも驚かされます。科学技術が使いようによっては平和にも戦争にも利用されるように、伝統技術も平和と戦争に無関係でないことが分かります。本資料は統制陶器が単なる代用品ではないことを伝えています。

         上段左が剣山、右がおろし、下段がボタン(個人藏)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介①

2025年8月3日

 現在、当館ではテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」(8月31日まで)を開催しています。本展は、①戦時下の子どもたち、②戦時下のくらし、③出征と銃後、④愛媛の空襲、以上4章から構成しています。これから4回にわたり、各コーナーの代表的な資料を紹介します。

 当時、政府は官公庁から工場、工場から一般家庭に金属回収を広げようとしており、同年4月1日~5月20日に愛媛県と県内の5市が金属回収を実施しました。続いて8月30日~9月30日に愛媛県と県内の市町村が金属回収を行っており、この際に松山高等女学校の校門も回収されたものと思われます。学校の顔とも言える校門が回収され、木の扉となったことに、4年半通い続けてきた少女の複雑な心境が表れています。

 また、昭和16年12月8日には、「午前十一時四十分、米国英国に対する宣戦の大詔が渙発せられ、試験中だったけれどスピーカーで放送された。その時早や我が空軍はハワイやフィリッピンを空襲していた。東條首相の放送も聞いたが、試験の事なんか忘れて失ふほど感激しそうだった。」と記されています。

 これは当時の女学生が太平洋戦争の開戦をどのように知ったかを記した貴重な日記です。試験中にもかかわらず、学校の放送を通して宣戦の大詔が流れ、歓喜する少女の姿が想像できます。当時、学校で開戦を知らせる放送が流れたことはほかにも証言があり、戦時下における学校の様子がよくわかります。

 日記は誰かに見せることを想定せずに書かれているため、当時の素直な感情や世の中の動きを知ることができます。戦争がどのように始まり、人々はどのように受け止めたのか、それは最終的に日本が敗戦を迎えるに至る起点として、おさえておく必要があります。今回紹介した日記は、女学生の視点から戦争へ突き進んだ時代について、多くのことを私たちに伝えくれています。

               昭和16年9月26日の日記(当館蔵)      

               昭和16年12月8日の日記(当館蔵)

歴史講座「親子で体験!学ぼう戦時下のくらし」を開催しました!

2025年8月2日

 最初は日清戦争から太平洋戦争に至る歴史を概観した上で、「遊び」・「学校」・「生活」をテーマに、小学校1~4年生には戦時中のおもちゃや通知表を現在と比較したり、金属回収によって普及した代用品(紙製洗面器や防衛食器)が何でできているかを考えてもらったりしました。また、小学校5~6年生には衣料切符を紹介して、上着・ズボン・スカート・くつ下を買う体験をしてもらいました。また、夏休みの自由研究として平和学習に取り組む際のワンポイントアドバイスも紹介。最後に防空頭巾、もんぺ、ゲートル、千人針、陶器製湯たんぽなどに触れてもらったり、身に着けてもらったりしました。

 戦争体験者が少なくなるなか、親子で戦争や平和について考える機会は少ないのではないでしょうか。戦時下のくらしを知り、現在と比較することで、平和の大切さを考えるきっかけとなれば幸いです。当館では実物資料を学校に持参する出前授業も行っています。ぜひ、お気軽にお問い合わせください。

全体風景
全体風景
防空頭巾を体験
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ゲートルを体験
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昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情90―太山寺参道の茶屋― 

2025年8月1日

 四国八十八箇所霊場第52番札所の太山寺(松山市太山寺町)の参道には古くから茶屋がありました。現存最古の四国遍路のガイドブックとされる貞享4年(1687)の真念『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「爰に太山寺の惣門有、是より本堂まで八丁。ふもとに茶屋あり」とあり、また、寛政12年(1800)の『四国遍礼(へんろ)名所図会』には「是より太山寺村の茶屋に戻り両荷物を請取行」とあり、太山寺の惣門(一の門)から本堂までの長い参道は、同じ道を往復する打戻りとなるため、遍路は荷物を茶屋に預けて参拝していたことがわかります。

 太山寺境内を細密に描いた明治30年(1897)の「四国霊場豫州太山寺全図」(当館蔵、写真①)には、太山寺は松山の海の玄関口である三津浜港、高浜港などに近く、長い参道には茶屋が数軒あることが確認できます(「えひめの歴史文化モノ語り165」参照)。

写真① 「四国霊場豫州太山寺全図」(明治30年、当館蔵)

 「四国遍路道中図」が発行されていた昭和10年代には、6軒の茶屋があったとされますが、戦後、崎屋(さきや)、布袋屋(ほていや)、木地屋(きじや)、井筒屋(いづつや)の4軒となり、平成27年(2015)には、参道の奥部にあった井筒屋(写真②)が建物の老朽化のため取り壊されました。その際、井筒屋関係資料の一部が当館へ寄贈されました。

写真② 太山寺参道の奥部にあった井筒屋(当館撮影)

 ご当主によると、井筒屋の屋号は庭にある御影石で組んだ井戸の井桁(いげた)から命名され、主に太山寺を参詣する遍路等に食べ物や土産を販売しながら、旅館業を営んでいました。店頭で太山寺名物「つつじ蒟蒻(こんにゃく)」、あんころ餅、ロウソクなどを販売し、春になると、近隣の村や忽那諸島の住人がやって来て、井筒屋の軒先を借りて、小豆ご飯・うどん・餅・菓子・ちり紙・お賽銭などを遍路にお接待したそうです。あんころ餅のお接待に使用した菓子皿(漆器)には「イヨ太山寺」の銘があります(写真③)。井筒屋は太山寺の檀家を務め、太山寺と茶屋との密接な関係がうかがい知れます。

写真③ あんころ餅のお接待で使用された菓子皿(当館蔵)

 井筒屋の建物は旅館として特別な造りではなく、農家住宅を基本とした間取りで、炊事場には大きな竈が据えられていました。愛媛県旅館組合聯合(れんごう)会宿泊料認定委員会による客室平面略図(昭和17年)には、1、2階にある6つの客室の等級が記され、一等室は1室、二等室は4室、三等室は1室、四等室は0室でした。宿屋関係資料として「三津署管内宿屋営業組合員之証」(写真④)、宿帳「宿泊人名簿」(写真⑤)、荷物送り先印(写真⑥)などが残されています。

写真④ 三津署管内宿屋営業組合員之証(当館蔵)
写真⑤ 宿泊人名簿(昭和11~21年、当館蔵)
写真⑥ 荷物送り先印(当館蔵)

 宿帳には昭和11年4月1日~21年3月までの宿泊者の投宿・出発月日時、前夜宿泊地名、行先地名、宿泊者の特徴、続籍・国籍、住所、職業、氏名、年齢などの項目から記載されていますが、白紙が多いです。荷物送り先印(木版)には大阪、門司、下関、大分、長崎などの地名と屋号が記され、行商人の荷物を回漕する際に用いられたものです。

 井筒屋から参道を下ったところに茶屋「布袋屋」があります。別名「捻(ね)じれ竹」と呼ばれ、明治37年(1904)の松山案内記である高濱清『松山道後案内附伊豫鐵道の栞』に「ねぢれ竹は茶店の名なり。庭前の生えたる竹を三竿ほどづゝねぢり合せたるあり。人以て珍とす。亭の名ある所以也」と紹介され、捻じれ竹は現在も生い茂っています(写真⑦)。

写真⑦ 捻じれ竹(当館撮影)

 遍路の金剛杖には青竹を使わないのは、太山寺の捻じれ竹伝説にもとづくとされ、昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』(大法輪閣)には、「参道の宿屋ねぢり竹の庭の竹も七不思議の一つである。帰路木戸をあけて見せてもらったが、二本の竹がねじり合い一本になっている。若竹のねじり合いかけているのも数本。むかし、不義をした男女が竹の生杖をついて遍路してきて、ここで休んでいる間に二本の生杖がねじり合った。以来、ねじり竹が生えるようになった。」とあります。

 ところで、松山出身の俳人・実業家の村上霽月(せいげつ。本名半太郎)は幼少期の明治10年(1877)に祖父とともに四国遍路を行いましたが、この布袋屋で遍路装束に着替えて出立しています。明治43年(1910)の回想録には、「出立の時太山寺迄大衆の人に見送られて太山寺の捻ぢれ竹といふ茶屋で遍路の姿に出立ちて午過に初て南無大師遍照金剛を唱て立つたと思ふ」と記されています(今村賢司「村上霽月の四国遍路」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第25号、2020年)。

 太山寺参道の茶屋では、遍路の休憩所や宿泊、あるいは接待の場所として利用されましたが、村上霽月の事例からは、太山寺から出発して四国巡礼を行う遍路支度の場でもあったことがわかります。興味深いのは、四国遍路の出立時に家族等大勢の人が見送るという「下向(げこう)祝い」の習俗が見られる点です。冒頭で紹介した「四国霊場豫州太山寺全図」には「下向坂」と呼ばれる坂道が確認でき(写真①)、本堂と大師堂参拝後の遍路は下向坂を下り、打戻りとなる参道に合流したと推察されます。つまり現在とは少し異なる太山寺参拝の順路があったと考えられます(今村賢司「四国霊場第五十二番札所・太山寺の近代整備への軌跡―古写真・境内図・太山寺文書を素材として―」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第25号、2020年)。 

 太山寺は松山の海の玄関口に近いという立地から、九州、山口方面からの遍路が最初に巡拝する起点となる札所でした。そのため太山寺の茶屋ではそうした遍路に対して様々な営業活動やサポートが行われました。四国遍路を地域で支えるにあたり、茶屋の役割はとても大きかったことがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情89―社会と人生の縮図の遍路宿―

2025年7月26日

 愛媛県上浮穴郡久万高原町下畑野川で遍路宿を営んでいた大黒屋の宿帳が残されています。表紙に「宿泊人名簿」と記され、昭和7~18年(1932~43)にかけての10冊が当館に寄贈されています(写真①)。宿帳には投宿年月日と出発月日、前夜宿泊地名、行先地名、住所、職業、氏名、年齢などの9項目が記入されています。それらの内容を詳細に分析した星野英紀氏によると、遍路の出身地は四国地方が全体の半数を占め、次に近畿、九州、中国地方の順となること、戦争の影響から次第に遍路の数が減少していること、愛媛県が多いのは松山十箇所詣の遍路が大黒屋に宿泊していたことなどが指摘され、昭和10年代の四国遍路の動向を窺う上で貴重な資料であることがわかります(星野英紀『四国遍路の宗教学的研究―その構造と近現代の展開―』法蔵館、2001年)。

写真① 大黒屋の宿帳(当館蔵)

 下畑野川地区は地理的に第44番大寶寺(同町菅生)と第45番岩屋寺(同町七鳥)の中間地点にあたります(写真②)。順打ちで岩屋寺に向かうには同じ道を往復する「打戻り」の地点でした。打戻りとは前の札所から来た道を戻って、次の札所へ向かうことです。そのため、宿に荷物を預けて岩屋寺を巡拝する遍路が多く、最盛期には遍路宿が10数軒あったといわれています。

写真② 下畑野川地区(当館撮影)

 愛媛大学の地理学者・村上節太郎氏が昭和9年(1934)に撮影した貴重な古写真「畑野川の遍路宿」(当館蔵、写真③)があります。萱葺き屋根の遍路宿の軒下には看板「きちん 畑ノ川 御宿米屋」が掛かり、部屋の隅に布団が積まれています。米屋は宿泊者が食料を持参して、薪代(木銭)を払って自炊する木賃宿と見られ、宿前を通る遍路道には菅笠を被った3人連れと思われる遍路が歩いています。

写真③ 村上節太郎撮影「畑野川の遍路宿」昭和9年、当館蔵

 四国遍路道中図で下畑野川周辺を確認してみます。昭和13年(1938)の渡部高太郎版では、大寶寺と岩屋寺の間は「三リ」とありますが、下畑野川の地名は記載されていません(当館蔵、写真④)。

写真④ 下畑野川周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 次に、案内記類に記載された下畑野川周辺の宿屋等の情報について見てみましょう。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「乗合自動車を利用する人は、久万から岩屋寺の麓約八町の竹谷まで、又は畑野川行に乗って畑野川で下車遍路道に合することも出来ます」とあり、乗合自動車の区間と運賃と所要時間(「久谷―竹谷」 九十銭、一時間。「久谷―畑野川」四十五銭)が記載されています。山間部における乗合自動車の運行によって、下畑野川で宿泊しない遍路も次第に多くなったと推察されます。

 昭和10年(1935)の武藤休山『四国霊場禮讃』には「順の方は当地(下畑野川)迄御越しに相成り下記宿舎に荷物を預けて四十五番に参拝せらるる事」とあり、宿舎として「いづみや」「かどや」「のぼりや」「こめや」が記載されています。大黒屋は紹介されていませんが、「こめや」は村上節太郎が撮影した木賃宿の米屋と推察されます。

 ところで、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』には宿屋に関する心得書きが多く紹介されています。それらの中で興味深いものをいくつか箇条書きで紹介します。

 ・宿屋へ着いたら自分で水を汲み、金剛杖の先を洗い次に自分の足を洗うのです。金剛杖は御四国地では、宿屋の座敷に持ち込んでもよろしいのです。

 ・宿屋の座席へあがり席を定めて直ぐに宿屋の主人に面会し自分の宿所、氏名、職業、年齢等を紙片に記示して宿帳に附けさせ、それから宿代は自分が望む等級二十五銭、三十銭、四十銭、任意取り決めて外に米代を払うのです。米は自分が喰うだけの量を宿へ通じれば時の相場で勘定するのです。米量見積もりは其の夜の分と、翌日朝飯と昼飯の用に、即ち三度分であります。

 ・宿屋の風呂は、御四国地では五右衛門風呂というのが多い。注意せぬとお尻にやけどをすることあり、注意すべきです。亦宿屋の風呂へ早く入るには、早く泊まらなければ駄目です。宿屋へは人よりも一二時間早く泊まれば何かに附け都合の良いものであります。

 ・宿屋では遍路に茶碗と箸は附き物と昔やら定まっておりますから附けてくれません。若し落としたりした場合は自分が席より立ち出て頼んで借りなさるよう。

 今日の食事付きの旅館のイメージとは程遠く、遍路が利用する宿屋は茶碗と箸を持参して、自炊を前提とする木賃宿が多かったことがわかります。また、遍路宿の風習として、宿に着いたら真っ先に金剛杖を洗い、それを座敷に置き、尊像として礼拝しました。遍路が使用する金剛杖は弘法大師と考えられていたためです。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』には、「なににしても、風呂は遍路にとつて最高の御馳走だ」「遍路宿は、社会と人生の縮図である。同じ信仰の灯を求めて行脚する同志が、同じ屋根の下で一夜の夢を結ぶのであるから、自づとそこには、心から溶け合った団欒も生れる」とあり、遍路にとって遍路宿がいかに重要な存在であったのかが示されています。

 「四国遍路道中図」が発行され大正時代から昭和時代(戦前)にかけて、遍路道沿いには数多くの遍路宿が営まれていました。遍路は四国霊場を巡拝するために、長い道中を歩き、各地でお接待をいただき、遍路宿で身体を休息し、遍路同士で絆を深めました。遍路宿はまさしく社会と人生の縮図であり、四国遍路の醍醐味といえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情88―お接待とお米―

2025年7月25日

 四国遍路の特有な文化に「お接待」があります。お接待とは、四国八十八箇所霊場を巡拝する遍路に対して、主に地域住民が食事や飲み物、宿泊場所などを提供する温かいおもてなしのことです。

 四国遍路におけるお接待はいつ頃から行われていたのでしょうか。

 四国遍路が庶民に広がった江戸時代の道中記などに、遍路が四国巡拝の道中で受けたお接待の記録が見られます。お接待の場面が描かれた有名な資料に、文化10年(1813)から天保5年(1834)にかけて刊行された十返舎一九の『諸国道中金草鞋(かねのわらじ)』があります。主人公の鼻毛延高(はなげのびたか)と千久羅坊(ちくらぼう)が、狂歌を詠みながら諸国を巡る滑稽な道中記です。文政4年(1821)の第14編は四国遍路が舞台で、第1番霊山寺に至る道中でご飯、第8番熊谷寺界隈で髪月代(かみさかやき)、第12番焼山寺から第13番一の宮(現大日寺)に至る道中で宿、徳島城下で銭などが巡礼者に施されている様子が見て取れます(写真①)。

写真① 十返舎一九『諸国道中金草鞋』第14編(文政4年)、個人蔵

 伊予の遍路道において、お接待に関する興味深い道標石があります。第43番明石寺(西予市宇和町)から大洲市に至る鳥坂(とさか)峠越(国史跡・伊予遍路道「大寳寺道」)には「是より十丁下り常せつたい所 天明四年」と刻んだ地蔵型の丁石(ちょうせき・ちょういし)があり(写真②)、天明4年(1784)に鳥坂峠に常設の接待所があったことを示しています。

写真② 鳥坂峠越(国史跡「伊予遍路道・大寶寺道」)で「常せつたい所」を案内する地蔵型丁石、天明4年、当館撮影

 次に「四国遍路道中図」が発行されていた大正から昭和時代(戦前)のお接待はどのようなものがあったのかを見てみましょう。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』によると、「四国遍路たちが、そのゆく先々の寺や、路傍で受けるお接待にも、いろいろと種類がある。故人の忌日や、代参依頼のために、または大師の供養にと、遍路に施しをする風習は、昔から四国路に残されているので、その方法にも、精神的なもの、物質的なもの、と、なかなか気を配られている。もののお接待には、食べ物のほかに『どうぞお持ちください』と木札を添へて、手頃の杖や、草鞋を路傍に出して置く家もあつたり、物を恵み得ぬ人達になると、人力車夫が、疲れて行き悩む老遍路を、無料で車に乗せて走つたり、寺の一隅に、むしろを布いて、陣取った按摩さんたちが、来る遍路に、つぎつぎと労力奉仕する、といった美しい風俗は、遍路の旅をひとしほ信仰的なものにする。疲れた肩を揉みほぐしてやる按摩さんたちの掌から、遍路は人の世のありがたさと、大師の遺徳を今更のやうに身に沁みて礼讃するであらう。」

 それによると、お接待の方法には精神的なものと物質的なもの、あるいは労力奉仕など、お接待の種類には様々なかたちがあったことがわかります。また、中にはお接待と称して、土産店や宿屋の宣伝を目的とした広告入りの「四国遍路道中図」を無料で配布していた事例もあります(本ブログ30「続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

 愛媛県内の四国霊場には接待を行った際の記念碑が建てられています。例えば、第52番太山寺(松山市)には大正14年(1925)の「饂飩(うどん)接待講寄附石」があります」(写真③)。同寺では春になると、開基真野長者ゆかりの大分県臼杵市周辺から講員数十人が接待船で三津浜港に上陸し、参道のお茶屋に宿泊し、うどんの接待が行なわれていました。また、第50番繁多寺(同市)の山門前にある昭和5年(1930)の「四国遍路壹万人接待施行大願成就記念碑」(写真④)は、『四国遍路のすゝめ』(昭和6年刊)の著者・安田寛明が一万人に手ぬぐいの接待を行って大願成就した記念に建てられたものです(本ブログ40「道中の宝」参照)。当館の常設展示室(四国遍路)にはそのレプリカを展示しています。

写真③ 第52番太山寺の「饂飩接待講寄附石」大正14年、当館撮影
写真④ 第50番繁多寺の「四国遍路壹万人接待施行大願成就記念碑」昭和5年、当館撮影

 ところで、昭和16年(1941)の『遍路』2月号(遍路同行会)によると、「(前略)一番多いのはお米の『おせつたい』で、また尤も喜ばれるるのであつた。今日我々が憂慮するところは、今後米穀の使用量が農村に於ても制限さるるに至れば、独りお米の「おせつたい」が無くなる計りでなく、一般の『おせつたい』も出来ぬこととなつて、千年の美風良俗が破壊し去らるるに至るであらう事である。今年の遍路期に当り誠に憂慮に堪えぬ。」とあります。

 これによると、お接待で一番多かったのはお米で、それが最も重宝されていたこと、戦前に戦争による農村の労働力不足や生産量の減少から慢性的な米不足によって、千年の美風良俗である接待行為が途絶えるのではないかと憂慮されていたことがわかります。

 お米の接待が喜ばれた理由は、①お米は日本人の主食であり、②「米」という漢字は「八十八」に由来し、縁起が良く、神聖な食べ物と見なされていること、③遍路が宿泊する木賃宿ではお米の持参が必要であったことなどがあげられます。ちなみに木賃宿とは安価な素泊りの宿泊施設のことで、遍路がお米を持参し、薪代(木銭)を払って自分でご飯を炊くか、または炊いてもらう形式でした。

 「令和の米騒動」が私たちの生活に大きな影響を及ぼしている昨今、お米という視点で四国遍路の歴史を支えてきた「お接待」との関係や、松山地方の「英吾米」や今治地方の「三宝米」などのように、巡拝中の遍路が他国の稲の品種を持ち帰って郷里で広めたという文化の伝播について考えることも四国遍路の歴史をとらえる上で興味深いテーマといえます。