今日、有名な神社仏閣では参拝者の運勢を占うための「おみくじ」を授与しているところが多く見られます。おみくじの語源は国の政(まつりごと)や後継者の選定の際に神仏の意志を伺うために用いられた道具である「籤(くじ)」に、尊敬を表す「御(お・み)」が付けて、「おみくじ」と呼ぶようになったとされています。漢字では「御御籤・御神籤」と表記します。
四国八十八箇所霊場のすべての札所寺院でおみくじを扱っているわけではありませんが、例えば、第7番十楽寺の「傘みくじ」、第19番立江寺の「福おみくじ」、第23番薬王寺の「開運厄除みくじ」、第24番最御崎寺の「幸運おみくじ」、竹林寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第40番観自在寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第66番雲辺寺の「雲のおみくじ」、第74番甲山寺の「うさぎみくじ」、第83番一宮寺の「傘みくじ」、第84番屋島寺の「元三大師(がんさんだいし)御籤」、第85番八栗寺の「歓喜天(かんぎてん)御籤」など、様々な種類が確認できます。第75番善通寺は四国霊場でも最大規模の札所寺院で、豊富な種類のおみくじがあります。傾向として、観光地化の進んだ札所寺院では、複数の種類やユニークなおみくじが見受けられます。
「四国遍路道中図」が発行されていた戦前、昭和16年(1941)に四国遍路を行った橋本徹馬(てつま)は、その時の体験記『四国遍路記』を刊行しています。それによると、第51番石手寺(愛媛県松山市)の大師堂でおみくじを引いたことが記されています。
「さて此日は興亜奉公日であつたので、此寺の参拝者は甚だ多く、中に国防婦人会の丸髭、七三、引きつめ、ハイカラなどの幾十人の人々等、各御堂を拝して後大師堂でおみくじを引いて居た。僕も旅のつれづれに、一つ自分もおみくじを引いて見ようと思ひ、婦人連の終るのを待つて引いて見た。『凶でも吉でも、どちらでも一向差支ない男ですが、まあ適当なおみくじを御與へ下さい』と思ひながら、引いて見ると、第八十九大吉と出た。其の文句は、『一片瑕なき玉、今より琢磨するによし。高人の識に遭ふことを得て、方に喜気の多きに逢うはん。』とある、大層善いおみくじであつた。若し大凶などが出たならば、恐らくはここに公表まではしないであらうから。」とあります。
興亜奉公日とは、昭和14年(1939)9月から同17年(1942)年1月まで毎月1日に実施された国民運動で、「戦場の兵士の労苦を偲び、簡素な生活を送る日」とされ、国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕、日の丸弁当、貯蓄などが推奨されました。国防婦人会は日本の軍国主義的な婦人団体で、白い割烹着姿で出征兵士の見送りや慰問袋の作成などの「銃後活動」を行い、日本が戦争へと突入した時代に国民生活の統制機関として機能しました。
この記事からは、石手寺は毎月1日の興亜奉公日に、国防婦人会等の参拝者がとても多かったこと、諸堂を参拝後に大師堂でおみくじを引いていた光景が読み取れます。また、橋本が石手寺で引き当てた「第八十九大吉」の文句から、石手寺のおみくじは「元三大師おみくじ」、正式名称は「元三大師百籤(ひやくせん)」であることがわかります(写真①)。

「元三大師百籤」は古代中国から伝わった「天竺霊籤(てんじくれいせん)」を参考にして、平安時代に元三大師が観音菩薩に祈って授かったという百の漢詩をもとに考案され、おみくじの原型とされています。小さな穴のあいた箱に納められた百本の籤から1本を取り出し、引いた番号に対応する漢詩によって、吉凶を占います。
日本のおみくじの創始者とされている元三大師は、平安時代の僧で第18代天台座主(てんだいざす。天台宗の最高位)となった慈恵大師・良源上人(912~985年)のことです。命日が正月3日であることから「元三大師」と称されました。元三大師を象った魔除けの護符として「角(つの)大師」「豆大師」など様々な様式があります。ちなみに、香川県丸亀市にある妙法寺(天台宗、別名「蕪村寺」)は丸亀藩主京極家の祈願寺で、厄難災除・魔除守護の元三大師降魔尊像を安置し、「元三大師おみくじ祈願所」として知られています。
ところで、石手寺の納経所近くには明治期の俳人・正岡子規(1867~1902年)の句碑「身の上や御鬮を引けば秋の風」(写真②)が建てられています。

明治28年(1895)9月20日、病気療養中の子規は俳人・柳原極堂とともに石手寺を散策したことが『散策集』に記されています。「大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけば其側に落ち散りし白紙何ぞと聞くに当寺の御鬮二四番凶とあり中に『病気は長引也命にさはりなし』など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり」とあり、偶然、自身の境遇を予言するかのようなおみくじを拾ったことから、この句を詠んだことがわかります。実際、子規はこの年の秋に帰京して闘病生活が始まります。
子規が大師堂で拾ったおみくじは「元三大師おみくじ」です。その内容は、大正5年(1916)の『元三大師御籤諸鈔 乾』によると、「【第二十四番凶】 凶御籤にあふ人は物事に障有て思ふ事の通じ難き意なり去とも慎ふかく誠を盡し心長せば終には本望を遂べし是は第二句の未通の義後通ずる意なり神々を信じてよし〇病人長引とも命に障なし祟物女の障の意あり〇悦事半吉〇訴訟事叶ふべし急に埒明難し〇待人来らず〇争事勝て後心の儘ならず〇失物苦労して尋えるべし〇売買悪し〇家作わたまし元服嫁取婿取旅立よろしからず〇生死は十に八九は生べし〇道具は衣類太刀かたな大事の道具なり」と示されています。この中に確かに「病人長引とも命に障なし」と記されています。元三大師おみくじには様々な項目について指針が示され、今日のおみくじの原型とされていることが理解できます。
石手寺には江戸時代の「元三大師御神籤」の版木が残され、松山城下の町人らが施主となって作成されたものと考えられ、四国霊場の札所寺院におけるおみくじの実態を示す資料として注目されます(今村賢司「石手寺の版木について」『2016年度 四国遍路と霊場研究3 四国霊場第五十一番札所石手寺総合調査報告書』愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター、2017年)。
江戸時代に庶民の社寺参詣が盛んとなり、おみくじも一般に広く親しまれるようになりましたが、四国霊場の札所寺院で授与されるおみくじも、参拝者や遍路にとって、神仏の意志やメッセージを受け取るための信仰的行為であるとともに手軽な娯楽の一つとして人気となりました。





































