昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情99―元三大師おみくじ―

2025年9月26日

 今日、有名な神社仏閣では参拝者の運勢を占うための「おみくじ」を授与しているところが多く見られます。おみくじの語源は国の政(まつりごと)や後継者の選定の際に神仏の意志を伺うために用いられた道具である「籤(くじ)」に、尊敬を表す「御(お・み)」が付けて、「おみくじ」と呼ぶようになったとされています。漢字では「御御籤・御神籤」と表記します。

 四国八十八箇所霊場のすべての札所寺院でおみくじを扱っているわけではありませんが、例えば、第7番十楽寺の「傘みくじ」、第19番立江寺の「福おみくじ」、第23番薬王寺の「開運厄除みくじ」、第24番最御崎寺の「幸運おみくじ」、竹林寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第40番観自在寺の「開運・招運お守入おみくじ」、第66番雲辺寺の「雲のおみくじ」、第74番甲山寺の「うさぎみくじ」、第83番一宮寺の「傘みくじ」、第84番屋島寺の「元三大師(がんさんだいし)御籤」、第85番八栗寺の「歓喜天(かんぎてん)御籤」など、様々な種類が確認できます。第75番善通寺は四国霊場でも最大規模の札所寺院で、豊富な種類のおみくじがあります。傾向として、観光地化の進んだ札所寺院では、複数の種類やユニークなおみくじが見受けられます。

 「四国遍路道中図」が発行されていた戦前、昭和16年(1941)に四国遍路を行った橋本徹馬(てつま)は、その時の体験記『四国遍路記』を刊行しています。それによると、第51番石手寺(愛媛県松山市)の大師堂でおみくじを引いたことが記されています。

 「さて此日は興亜奉公日であつたので、此寺の参拝者は甚だ多く、中に国防婦人会の丸髭、七三、引きつめ、ハイカラなどの幾十人の人々等、各御堂を拝して後大師堂でおみくじを引いて居た。僕も旅のつれづれに、一つ自分もおみくじを引いて見ようと思ひ、婦人連の終るのを待つて引いて見た。『凶でも吉でも、どちらでも一向差支ない男ですが、まあ適当なおみくじを御與へ下さい』と思ひながら、引いて見ると、第八十九大吉と出た。其の文句は、『一片瑕なき玉、今より琢磨するによし。高人の識に遭ふことを得て、方に喜気の多きに逢うはん。』とある、大層善いおみくじであつた。若し大凶などが出たならば、恐らくはここに公表まではしないであらうから。」とあります。

 興亜奉公日とは、昭和14年(1939)9月から同17年(1942)年1月まで毎月1日に実施された国民運動で、「戦場の兵士の労苦を偲び、簡素な生活を送る日」とされ、国旗掲揚、神社参拝、勤労奉仕、日の丸弁当、貯蓄などが推奨されました。国防婦人会は日本の軍国主義的な婦人団体で、白い割烹着姿で出征兵士の見送りや慰問袋の作成などの「銃後活動」を行い、日本が戦争へと突入した時代に国民生活の統制機関として機能しました。

 この記事からは、石手寺は毎月1日の興亜奉公日に、国防婦人会等の参拝者がとても多かったこと、諸堂を参拝後に大師堂でおみくじを引いていた光景が読み取れます。また、橋本が石手寺で引き当てた「第八十九大吉」の文句から、石手寺のおみくじは「元三大師おみくじ」、正式名称は「元三大師百籤(ひやくせん)」であることがわかります(写真①)。

写真① 江戸時代の「元三大師百籤」の解説書とおみくじ(個人蔵)

 「元三大師百籤」は古代中国から伝わった「天竺霊籤(てんじくれいせん)」を参考にして、平安時代に元三大師が観音菩薩に祈って授かったという百の漢詩をもとに考案され、おみくじの原型とされています。小さな穴のあいた箱に納められた百本の籤から1本を取り出し、引いた番号に対応する漢詩によって、吉凶を占います。

 日本のおみくじの創始者とされている元三大師は、平安時代の僧で第18代天台座主(てんだいざす。天台宗の最高位)となった慈恵大師・良源上人(912~985年)のことです。命日が正月3日であることから「元三大師」と称されました。元三大師を象った魔除けの護符として「角(つの)大師」「豆大師」など様々な様式があります。ちなみに、香川県丸亀市にある妙法寺(天台宗、別名「蕪村寺」)は丸亀藩主京極家の祈願寺で、厄難災除・魔除守護の元三大師降魔尊像を安置し、「元三大師おみくじ祈願所」として知られています。

 ところで、石手寺の納経所近くには明治期の俳人・正岡子規(1867~1902年)の句碑「身の上や御鬮を引けば秋の風」(写真②)が建てられています。

写真② 石手寺にある正岡子規の句碑「身の上や御鬮を引けば秋の風」(当館撮影)

 明治28年(1895)9月20日、病気療養中の子規は俳人・柳原極堂とともに石手寺を散策したことが『散策集』に記されています。「大師堂の縁端に腰うちかけて息をつけば其側に落ち散りし白紙何ぞと聞くに当寺の御鬮二四番凶とあり中に『病気は長引也命にさはりなし』など書きたる自ら我身にひしひしとあたりたるも不思議なり」とあり、偶然、自身の境遇を予言するかのようなおみくじを拾ったことから、この句を詠んだことがわかります。実際、子規はこの年の秋に帰京して闘病生活が始まります。

 子規が大師堂で拾ったおみくじは「元三大師おみくじ」です。その内容は、大正5年(1916)の『元三大師御籤諸鈔 乾』によると、「【第二十四番凶】 凶御籤にあふ人は物事に障有て思ふ事の通じ難き意なり去とも慎ふかく誠を盡し心長せば終には本望を遂べし是は第二句の未通の義後通ずる意なり神々を信じてよし〇病人長引とも命に障なし祟物女の障の意あり〇悦事半吉〇訴訟事叶ふべし急に埒明難し〇待人来らず〇争事勝て後心の儘ならず〇失物苦労して尋えるべし〇売買悪し〇家作わたまし元服嫁取婿取旅立よろしからず〇生死は十に八九は生べし〇道具は衣類太刀かたな大事の道具なり」と示されています。この中に確かに「病人長引とも命に障なし」と記されています。元三大師おみくじには様々な項目について指針が示され、今日のおみくじの原型とされていることが理解できます。

 石手寺には江戸時代の「元三大師御神籤」の版木が残され、松山城下の町人らが施主となって作成されたものと考えられ、四国霊場の札所寺院におけるおみくじの実態を示す資料として注目されます(今村賢司「石手寺の版木について」『2016年度 四国遍路と霊場研究3 四国霊場第五十一番札所石手寺総合調査報告書』愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター、2017年)。  

 江戸時代に庶民の社寺参詣が盛んとなり、おみくじも一般に広く親しまれるようになりましたが、四国霊場の札所寺院で授与されるおみくじも、参拝者や遍路にとって、神仏の意志やメッセージを受け取るための信仰的行為であるとともに手軽な娯楽の一つとして人気となりました。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情98―四国霊場の松―

2025年9月15日

 四国八十八箇所霊場には、第75番善通寺(香川県善通寺市)の樹齢千数百年といわれる大楠、第2番極楽寺(徳島県鳴門市)の樹齢千二百年余りとされる長命杉、第5番地蔵寺(徳島県板野町)の樹齢八百年と伝える大銀杏など、いにしえの名木が存在し、それらは霊木として崇められ、札所寺院のシンボルになっています。

 四国霊場の境内に多く見られるのが松です。松は神仏がこの世に現れた姿を意味する「影向(ようごう)の松」や、神が降臨する際の依り代(よりしろ)とされた「羽衣(はごろも)の松」などのように、古来より「神聖な木」とされています。また、厳寒に緑色を保つ松は「不老長寿の象徴」とされ、「松竹梅」に表現されるように「おめでたい樹木」として私たちの生活に根付いています。

 四国霊場の松は「大師松」「弘法大師手植えの松」「三鈷(さんこ)の松」などの名称が示すように、弘法大師伝承をもつものが多いのが特徴と言えます。樹齢の長いものや枝振りや樹形の優れた名松が存在しました。

 第72番曼荼羅寺(香川県善通寺市)には、弘法大師が手植したと伝えられる、遍路が被る菅笠(すげがさ)を2つ重ねたような珍しい樹形の「不老松」(通称「笠松」)が生育していました(写真①)。縁起によると、曼荼羅寺の創建は四国霊場で最も古い推古4年(596)と伝えられます。

写真① 第72番曼荼羅寺の「不老松」、当館撮影

 江戸時代後期、寛政12年(1800)の『四国遍礼(へんろ)名所図会』に「松の大樹 方丈の庭にあり」と本文に記載されているのが不老松と推察されます。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「境内に大師御手植不老松と言う周囲三十間、高さ二間の菅笠を二つ伏せたような恰好の良い松があり」と記され、昭和63年(1988)の平幡良雄『四国八十八カ所(下)伊予・讃岐編』には「樹の高さ四㍍、枝葉は東西へ十七m、南北十八m、円形のカサ形をした美しい老松である」と紹介されています。不老松は平成14年(2002)春、松くい虫(「マツノマダラカミキリ」の通称)の被害によって枯死(こし)しましたが、その幹を用いて、弘法大師像が刻まれて「笠松大師」として生まれ変わっています(写真②)。

写真② 第72番曼荼羅寺の「笠松大師」、当館撮影

 また、第51番石手寺(愛媛県松山市)には「門前の松」と呼ばれた独特な樹形をした名松がありました。

 『四国遍礼名所図会』収録の石手寺図版に描かれた門前の松がそれにあたるものと推察されます。昭和25年(1950)の橋本徹馬『四国遍路記』に「此寺は境内の入口に蟠踞(ばんきょ。「根を張る」の意味)せる松の巨木及び、同所にある源頼義の供養塔が、既に参拝者をして尋常の寺にあらざる事を思はしめる」とあり、石手寺の名所として絵葉書にも紹介されています(写真③)。

写真③ 第51番石手寺の「門前の松」、個人蔵

 昭和37年(1962)の北川淳一郎『熊野山石手寺』(石手寺発行)には、「種類は黒松で、根廻り四米、地上三米で二大樹幹に分岐するとともに、極めて面白く迂回錯綜している。東西に延びる二大枝は周囲各々一米半もある。樹高は低くて十米を出でない。枝張りは、西方に五米、北西に十米、北東方に九米。全体の容姿が誠に美事だ。樹齢は専門家にきくと、先年枯れた今治国分寺の天皇松は年輪を数えると九百年、これの半分と見て、高々五百年から六百年ぐらいのものだろうと云う」と紹介しています。門前の松は昭和30年(1955)11月4日に愛媛県の天然記念物に指定されましたが、松くい虫の被害によって枯死し、昭和55年(1980)3月21日に指定解除されました。

 今治国分寺の「天皇松」とは、第59番国分寺(愛媛県今治市)に生育していた聖武天皇ゆかりの松のことです(写真④)。天平勝宝3年(751)、聖武天皇の病気平癒のために新薬師寺(奈良市)で衆生の救済と延命を祈願した大法会が行われた際、国分寺でも法会が行われ、その際に植えられた松と伝えられています。昭和24年(1949)9月17日に愛媛県の天然記念物に指定されましたが、台風による倒木被害によって、昭和30年(1955)11月4日に指定解除されました。

写真④ 第59番国分寺の「天皇松」(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 その他、四国霊場の有名な松として、第40番観自在寺(愛媛県愛南町)の「平城天皇御手植えの松」(昭和19年の台風で倒木。本ブログ47「第40番観自在寺と平城天皇」参照)、番外霊場の延命寺(愛媛県四国中央市)の弘法大師手植えと伝える「誓い松」(昭和43年枯死。写真⑤)などがあげられます。

写真⑤ 番外霊場・延命寺の「誓い松」、個人蔵

 これらの事例を見ると、一般に松の寿命は杉や檜などに比べると短く、台風や害虫等の被害を受け易いため、現在の四国霊場では松の老木・古木が少ない傾向にあります。

 ところで、弘法大師ゆかりの松で最も有名なのは高野山(和歌山県高野町)にある「三鈷(さんこ)の松」です(写真⑥)。次のような弘法大師伝説が残されています。

写真⑥ 高野山の「三鈷の松」、当館撮影

 大同元年(806)、弘法大師が唐から帰国する時、日本で密教を広めるのにふさわしい聖地を求めて、出航する港から東の空に向けて、密教法具の「三鈷杵(さんこしょ)」を投げたところ、金色の光を放ちながら、紫雲の中に消えていきました(写真⑦)。帰国後、高野山の松の木に唐より投げた三鈷杵がかかっているのを発見し、大師は密教を広めるにふさわしい場所であると決心し、高野山に真言密教の道場を開山しました。

写真⑦ 三鈷投所(山口小五郎『弘法大師一代記』明治14年、当館蔵)

 「霊場高野山一千百年御遠忌記念葉書」のタトウ(収納袋)には高野山開創の象徴とされる「飛行三鈷」がデザインされています(写真⑧)。ちなみに普通の松の葉は2葉か5葉ですが、三鈷の松は三鈷杵のように3葉であり、参拝者は縁起物として落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされています。

写真⑧ 「霊場高野山一千百年御遠忌記念葉書」のタトウ、個人蔵

 以上、四国霊場と松について見てきました。八十八ヶ所霊場の札所の縁起類に記載する創建年より、境内に生育する老木の樹齢の方が古いと推察される事例も確認されます。松をはじめとする四国各地の神聖な古木の存在は、霊場の誕生や札所の成立背景を探る上でとても注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情97―圓明寺の銅製納札―

2025年9月12日

 愛媛県松山平野には四国八十八箇所霊場の札所が8箇寺あります。最も北に位置するのが松山市和気にある第53番須賀山圓明寺(すがさん・えんみょうじ)です。昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)では、圓明寺は第52番太山寺とともに松山の海の玄関口(高浜港、堀江港)に近く、札所を示すマークは地図記号(線路)に重ねて表記されているように、交通アクセスの良い札所であることがわかります(写真①)。最寄り駅のJR予讃線伊予和気駅は昭和2年(1927)に国鉄による伊予北条-松山間開業と同時に駅が設置されました。

写真① 圓明寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「当寺は聖武天皇の勅願所で行基の開基せられたところであります。初め和気の浜西山の海岸にあって海岸山圓明密寺と号しましたが、度々の兵火に壊滅して寛永十年(1633)豪族須賀重久(すが・しげひさ)之れを嘆き今の地に伽藍を再興したのであります。寛永十三年(1633)には御室宮一品(おむろのみや・いっぽん)覚深法親王(かくしん・ほっしんのう)令旨を賜うて仁和寺の末寺とし、山号を須賀山と改めたのであります。」と紹介されています。覚深法親王(1588~1648年)は後陽成天皇の第1皇子で仁和寺第21世門跡となり、仁和寺の伽藍再建に尽力したことで知られます。

 仁和寺とのつながりが深い歴史的な背景をもつ圓明寺には、四国霊場に現存する最古級の銅製納札(松山市指定有形民俗文化財)が保存されています。納札(のうさつ・おさめふだ)とは巡礼名称、願意、氏名、年月日などを記した木製、金属製、紙製等の札のことです。巡礼者は参拝した霊場などに納札を奉納しました。

 圓明寺の銅製納札の表面には「慶安三年 京樋口/(梵字「ユ」)奉納四国仲遍路同行二人/今月今日平人家次」と刻字があります。それによると、江戸時代前期の慶安3年(1650)に「京樋口」の「平人家次」によって奉納されたものと読み取れます。また、納札に「遍路」の文字が使用された初見資料としても注目されます(『四国遍路と巡礼』愛媛県歴史文化博物館、2015年)。

 圓明寺の銅製納札が世に広く知られるようになったのは、四国遍路の案内記類にシカゴ大学のスタール博士が発見したと紹介されたことによります。スタール博士(本名フレデリック・スタール。1858~1933年)はアメリカの人類学者で、アイヌや松浦武四郎などの研究を行い、四国遍路など日本各地を旅行して、自作の納札(千社札)を奉納したことから「お札博士」として知られた人物です(写真②)。

写真② スタール博士(個人蔵)

 昭和13年(1938)の高群逸枝『お遍路』には、「大正十年(1921)お札博士が本堂から発見した銅製の納札には慶安三年とあつて、これでみると真念の延宝、天和以前にも四国遍路の一般に行はれていたことがうかがへよう。」と述べ、圓明寺の銅製納札の図版を掲載し、その注記に「御札博士 大正十年三月四国八十八ヶ所遍路のみぎり 五十三番札所円明寺にて発見せし銅製納札実物あか摺の写し」と記しています(写真③)。

写真③ 納札(高群逸枝『お遍路』昭和13年、個人蔵)

 高群逸枝『お遍路』のように四国遍路の案内記類には、圓明寺の銅製納札を発見したのはスタール博士とする通説が紹介されていますが、実際にはすでに大正3年(1914)に郷土史家・景浦直孝「四国遍路」(『歴史地理』第24巻1号)、同6年(1917)に伊予史談会編『圓明寺要録』、景浦直孝「圓明寺と四国遍路」(『伊予史談』第10号)などで、圓明寺の銅製納札についていち早く紹介しています。当時、住職小笠原秀定代に圓明寺において伊予史談会による講演会や『海南四州紀行』の筆写なども行われ、地域の史談会による四国霊場寺院の先駆的な総合調査として注目されます。 

 ところで、奉納者の「平人家次」については、伊勢国出身で江戸の豪商・樋口平大夫家次(常信)と考えられています。平大夫は日本百観音巡礼など諸国を巡礼し、寛永18年(1641)、京都の五智山蓮華寺の伽藍を再興し、仏師・但唱(たんしょう)と五智如来石仏を造立しています。平太夫による圓明寺以外の銅製納札の遺品は、寛永5年(1628)に奥州平泉の中尊寺(岩手県平泉町)、越後国一の宮の弥彦(やひこ)大明神(弥彦神社。新潟県西蒲原郡弥彦村)、寛永6年(1629)に坂東観音霊場第15番札所の長谷寺(白岩観音。群馬県高崎市)、三峰(みつみね)神社(埼玉県秩父市)、寛永8年(1631)に中尊寺などで確認されています(川勝政太郎「樋口平大夫と但称の作善」大手前女子大学論集巻8、1974年)。

 近年の研究では、蓮華寺に伝わる平大夫の位牌や過去帳(写本)の記録から、平大夫の没年を寛永20年(1643)と考え、慶安3年(1650)の銅製納札の史料的信憑性について疑義が提起されています(小松勝紀「圓明寺銅製納札について」『土佐史談』256、2014年)。

 最近、銅製納札について初めて自然科学分析、三次元計測、及び実測が行われて基礎データが提示されました。それによると、字は鏨(たがね)で打ち込まれて線を形成し、打ち込みの密度によって実線でなく点線に見える箇所が確認され、崩しが激しく、文字の点や画が表現しきれていない部分も見られますが、銘文は「慶安三年 京樋口/(梵字「ユ」)奉納四国仲遍路同行二人/今月今日平人家次」と書かれています。今後、さらに蛍光エックス線による材質分析や平大夫関連資料との比較分析などを行う必要性が指摘されています(『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書第53番札所 圓明寺』愛媛県教育委員会、2025年)。

 圓明寺の銅製納札は四国霊場に残された江戸時代前期の金属製の納札で唯一無二の四国遍路資料です。この銅製納札をめぐって、樋口平大夫家次、須賀重久(圓明寺)、覚深法親王(仁和寺)などの関係性が大いに注目されます。

八幡浜市立双岩小学校へ出前授業(平和学習)に行ってきました!

2025年9月11日

 先生との事前の打ち合わせで、戦争の経緯、戦時下の苦しい生活、愛媛の空襲と原爆の関係、身近に残る戦争遺跡についてご要望があったため、その点に重点をおいたスライドと実物資料を用意しました。米穀の配給制度に関しては、愛媛県の平均配給量(1日約240g)を持参し、全国平均(1日約350g)よりも下回っていたこと、現在の給食と比較して栄養不足だったことを伝えました。衣料の切符制度に関しては、昭和19年の衣料切符(30歳未満50点)を例に、上着(15点)、ズボン・スカート(各7点)、靴下(3点)を買ってみる体験を行いました。

 続いて、八幡浜市に県下で初めて爆弾が投下されて以降、松山・今治・宇和島では焼夷弾による大規模な空襲で多くの死者や被害がでたことを写真パネルで説明しました。持参した焼夷弾の殻を持ってもらい、重さ、形、臭いなど五感を通して空襲を想像してもらいました。次に、長崎型の模擬原爆である「パンプキン」が、新居浜・西条・宇和島に合計4発投下されたことを紹介しました。特に宇和島への投下は長崎の前日である8月8日だったことを伝えました。

 また、戦争末期には宇和盆地に陸軍の飛行場が作られ、戦後の航空写真からも水田の区画からそれが分かることを示しながら、身近なところに軍事施設があったこと、現在も残っている場合があることを伝えました。児童の中には太平洋戦争前に作られた「八幡浜第一防空壕」を知っている児童もいて、今後の調べ学習につながればと思いました。最後に防空頭巾やモンペなどの着付け体験を行い、物資不足の中でこれらにも様々な形態のものがあることを紹介しました。

 今回の出前授業が戦争の悲惨さと平和の大切さを考える機会となり、戦争体験者と同じ時間を過ごす最後の世代として、戦争体験者から直接当時のことを聞き取り、次世代につなげる役割を担ってもらえれば幸いです。6年生の皆さん、修学旅行では大いに学びを深めてください!当館ではご要望に応じた出前授業(平和学習)を行っています。ぜひお気軽にお問い合わせください。

ヘイタイ人形を動かす児童
衣料切符を使う児童
休み時間に持参した資料に興味をもつ児童
愛媛とパンプキンの関係に関心を示す児童
鉄兜や防空頭巾をかぶる児童

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情96―岩屋寺と逼割禅定―

2025年9月1日

 四国八十八箇所霊場第45番海岸山岩屋寺(愛媛県久万高原町)は、古くから山岳霊場として知られています。伊予国出身で時宗の開祖となった一遍上人(1239~1289年)が鎌倉時代中期に当寺に参籠、修行したことは『一遍聖絵』に描かれています。

 岩屋寺はその名が示すように、境内には聳え立つ巌峰や岩洞が多くあり、四国霊場の札所の中でも唯一無二の独特な景観を誇っています。

 岩屋寺の見どころとして特に有名なのが「逼割禅定」(せりわりぜんじょう)です(写真①)。逼割禅定とは岩の狭間抜けをする行場を意味します。筆者もかつて岩屋寺参拝の折、逼割禅定を体験したことがありますが、四国遍路の中で忘れがたい思い出となっています(過去ブログ「岩屋寺―せりわり禅定―」参照)。 

写真① 逼割禅定の入口周辺(当館撮影)

 岩屋寺の逼割禅定について、四国遍路の案内記類にどのように紹介されているのか、次に見てみましょう。

 逼割禅定について記した最古の文献と見られる、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」には、「坂ノ中程ニ仙人ノセリ破リ石トテ在、昔大師此山ヲ開キ玉フ時仙人出テ、我ハ此山ノ主也、ソツジニハ難開ト云。大師聞召テ、主ナラバ奇特ヲアラワシ玉ヘト。仙人サラバトテ廿余丈ノ大磐石左右ノ手ニテカキ分テ通リ玉フ跡ナリ。其磐石ノ二ツニ分レタル所ヲ岩角ニ取付テ上ル也。扨、石ノ頂ヨリ又六七丈モ在ン所ニ廿一ノ桟子ヲカケタリ。此桟子ヲ上テ見バ鉄ニテ鋳タル厨子在。爰ニ札ヲ納ム。此頂ヨリ深山ヲ見下セバイカ程ヤランモ底不見。夫ヨリ二町斗下リテ二王門在リ。」と記されています。

 これによると、「逼割」とは仙人の「セリ破リ石」のことで、この地の山主であった仙人が巨岩を左右の手でかき分けて通行して通力(つうりき)を弘法大師に示現した痕跡と伝えています。つまり、逼割禅定は岩屋寺が弘法大師によって四国八十八箇所霊場として成立していくための重要な聖地であったと考えられます。

 岩屋寺の略縁起によると、「弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年(815)とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧(ほっけざんまい)成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。」とあります(『先達経典』四国霊場会、平成18年)。

 「四国辺路日記」にいう仙人とは土佐の法華仙人(女性)と推察されます。法華三昧とは法華経を通して悟りを開き真理に達することや法華経などを音読することを意味します。澄禅自身は2つに割れた巨岩の岩角を持って逼割を登り、さらに梯子を登り、巌峰に安置する厨子(鉄製)を参拝して納札を奉納しています。そして、巌峰から深山の眺めを楽しんだ後に岩屋寺の仁王門に到着しています。「四国辺路日記」では、逼割で岩角をつかみながら登り、鎖禅定や厨子に祀っている神仏名などは記載されていませんが、納札が奉納されている点は巡礼者が参拝する霊場として認識されていたことがわかります。

 「四国遍路道中図」が発行された昭和時代(戦前)、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「小楼門を出て右へ暫し上ると洞窟に大きな不動明王が安置せられ、その上が俗に迫割禅定と言って白山権現(はくさんごんげん)を祀る巌峰であります。鎖を攀(よ)ぢ更に二十一の梯子を昇って達します。巌頭からは長谷川の谷を臨み、眼下の無朝霧恰(あたか)も海を見るようでありましたので、大師は『山高き谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとへむ』と詠ぜられ、此れによって海岸山の名を生じたのであります。」と紹介されています。

 本書では岩の狭間抜けのみならず、鎖や梯子を用いて白山権現を祀る巌峰に到達することを「迫割禅定」と称しています。また、山号「海岸山」の由来となった、巌峰からの風景を見て弘法大師空海が詠んだとされる和歌が紹介されています。 

 岩屋寺の参拝記念土産として作成された戦前の絵葉書に「迫割禅定」の当時の様子を見ることができます。逼割禅定の入口には巨岩の割れ目に小さな屋根付きの門があり、左側の岩壁には不動明王立像が安置されています(写真②)。逼割の上には急傾斜の岩壁があり、よじ登るための鎖が2条掛けられ、さらにその上の白山権現社に至る二十一の梯子が掛けられています(写真③)。笠を被り赤子を背負って二十一の梯子を登る者や白山権現を祀る厨子の姿などが写されています(写真④⑤)。岩屋寺関係の絵葉書については別稿にまとめました(今村賢司「四国霊場第四十五番伊豫国浮穴郡海岸山岩屋寺勝景太略図をめぐって」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書第45番札所 岩屋寺 岩屋寺道』愛媛県教育委員会、令和4年)。

写真② 絵葉書「四国八十八ヶ所第四十五番霊場伊豫岩屋山」個人蔵
写真③ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺鎖禅定」個人蔵
写真④ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺/セリワリ絶頂之権現堂ト二十一ノ梯子(矢内正札屋発行)」個人蔵
写真⑤ 絵葉書「四国霊場第四十五番 伊豫岩屋寺白山権現二十一梯子」個人蔵

 ところで、逼割禅定の上に聳える巌峰に祀られている白山権現(白山妙理権現。本地仏は十一面観音菩薩)は、北陸地方の白山(富士山、立山とともに日本三霊山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神とされます。四国霊場と白山権現の関係は詳しく分かっていませんが、四国霊場では第23番薬王寺、第36番青龍寺、第38番金剛福寺、第44番大宝寺、第45番岩屋寺、第51番石手寺の6箇寺で白山権現が祀られ、それらは天台宗によってもたらされた可能性があり、四国における補陀落(ふだらく)信仰は白山信仰の要素が含まれていることが指摘されています(村上由実子「四国遍路と白山信仰―菅生寺の分析を中心として」『四国遍路と世界の巡礼』 7、愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センター、令和4年)。明治の神仏分離後は「権現」の神号廃止等によって、白山権現の多くは白山神社となりますが、廃仏毀釈を免れたものなのか、岩屋寺の白山権現の事例は注目されます。

 岩屋寺には白山権現のみならず、高祖権現、大那智などさまざまな神仏が祀られてきました。岩屋寺の御詠歌「大聖のいのる力のげに岩屋 石のなかにも極楽ぞある」にあるように、岩屋寺の信仰をめぐって、四国霊場の成立背景、山岳修験道や自然崇拝による磐座(いわくら)信仰との関係など、今後の研究の進展が期待されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情95―吉祥寺の成就石―

2025年8月29日

 愛媛県西条市にある四国八十八箇所霊場第63番密教山吉祥寺(みっきょうざん・きちじょうじ)は、四国八十八箇所霊場の中で唯一「毘沙門天」(同寺では「毘沙聞天」と記載)を本尊とする札所寺院です。毘沙門天は仏教における天部の仏神で、四天王の一尊で北方を守護する武神です。また、七福神の一人としても知られ、福徳を授ける神としても信仰されています。

 四国遍路道中図の特徴の一つはイラスト風に描かれた八十八箇所霊場の札所の本尊が掲載されている点です。吉祥寺の本尊毘沙門天について、四国遍路道中図の大正6年(1917)の駸々堂版と昭和13年(1938)の渡部高太郎版で確認すると、毘沙門天の特徴である火焔光背(かえんこうはい)が象徴的に描かれています(写真①②、当館蔵)。

写真① 吉祥寺と本尊毘沙門天(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)
写真② 吉祥寺と本尊毘沙門天(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 今回注目したいのは吉祥寺の見どころの一つである、境内にある成就石です(写真③)。

写真③ 成就石(当館撮影)

 成就石について、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「境内の成就石は、元黒瀬山の川にあって瀧津瀬の水に穿たれた穴石で、宝亀年中搬出されたものであります」と紹介されています。同年の『四国霊蹟写真大観』には「成就石 此穴石は幾千年の間瀧津瀬の落る水に穿たれたものにて、元黒瀬山の川にありしを宝亀年中当山に納めたもので今尚境内にあり。信者は信心を永く相続すれば必ず此穴の如く諸願成就する事を教へたもので、成就石と名づく。」と記載され、成就石の写真が掲載されています(写真④)。

写真④ 吉祥寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四國遍路』には、「境内に穴のあいた石があつて、成就石と名づけられてある。建札の説明に曰く、此穴石は幾千年の間、瀧津瀬の落る水に穿たれしものにて、元黒瀬山の川にありしを宝亀年中当山に納め、信者は信心を永く相続すれば必ず此の穴の如く諸願成就するものなり。『この穴から向ふ覗いて、向ふがよう見えんと寿命長い事おまへん、と云ひ伝へてます』『ほんまか』『ほんまや』『わテ見える、寿命なかいぞ、あんた見えるか』『ハテ見えんが』『見えん筈やが、わてが、蓋してまんが』『あほうせんでおくれ、わテびつくりしたがナ、アヽよかたつ』」と記されています。

 これらの戦前の案内記類によると、境内の説明書きに、成就石は黒瀬山の川にあったものが宝亀年中(770~781年)に当山に納められたと記されていたことがわかります。黒瀬山の川は石鎚山に源を発する加茂川(西条市)と推察されます。縁起によると吉祥寺の開基は弘仁年間(810~824年)と伝えられるため、それ以前の由来をもつ古い石と見なされます。

 四字熟語に「点滴穿石」(てんてきせんせき。訓読みで「点滴石をも穿(うが)つ」があります。一滴一滴の小さな水滴でも、同じ位置に落ち続ければ、長い年月を経ていくうちには、固い石にも穴をあけるという意味から、小さい力でも積み重なれば強大な力になることの例えとして知られています。

 吉祥寺の穴石は「点滴穿石」のように「信者は信心を永く相続すれば必ず此の穴の如く諸願成就するものなり」といわれ、いつしか「成就石」と呼ばれるようになったと推察されます。

 成就石については、江戸時代の記録を確認すると、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』に収録する吉祥寺の境内図に、真ん中に穴が開いた自然石と見られるものが描かれていることが確認できますが、本文には記載されていません。成就石が彩色で描かれた史料として確認できるものとして、天保13年(1842)に日野和煦(にこてる)が編纂した伊予西條藩の地誌「西條誌」があります(当館蔵、写真⑤)。それによると、「穴石(庭上にあり、竪三尺三寸、横四尺、もと瀧壺にありて水に打れ、自然と穴あきたる也と云)」と記載され、当初は滝壺にあったもので、江戸時代後期には「穴石」と呼ばれていました。滝壺にあった珍しい「穴石」は、四国霊場の境内に安置されて、諸願成就の「成就石」へと変容したことがわかります。

写真⑤ 穴石と鉦鼓石(「西條誌」、天保13年、当館蔵)

 さらに注目したいのは、遍路と成就石との関係です。前述の宮尾しげを『画と文 四國遍路』からは、穴を覗いて寿命を占う遍路の姿が読み取れ、新たに迷信的な要素も加わています。

 昭和63年(1988)の平幡良雄『四国八十八ヵ所(下)』には、「ご本尊に参拝すると、遍路はかならず目をつぶり、願いごとを念じながら、金剛杖を下段にかまえて本堂前にある『成就石』に向かって歩き出す。そして石の穴に金剛杖が通れば願いごとが成就するのである。この大石は石鎚山系の滝つぼにあった緑泥片岩で穴は直径四十㌢あまり、いつのころか境内におかれ、毘沙聞天の信仰と合わせて、数かぎりない金剛杖のお相手をしてきたのである。」と紹介されています。筆者もかつて四国遍路で吉祥寺に立ち寄った際に、目をつぶって金剛杖を成就石の穴の中に通そうとしましたが難しかったことを記憶しています。

 現在、四国霊場会の公式ホームページや『先達経典』(四国八十八ヶ所箇所霊場会、平成18年)によると、吉祥寺の見どころ紹介で「成就石=本堂の手前にある高さ一メートルほどの石で、中央下に径三〇~四〇センチの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという」と記載されています。金剛杖は巡礼において手に持つ杖で、四国遍路では弘法大師そのものと信仰されています。

 四国霊場の札所には本堂と大師堂以外にも様々な信仰と結びついた多くの見どころがあります。吉祥寺の成就石のように、時代と共にいろんな要素が加わり、遍路に受容されてきた見どころも、特色ある札所の歴史の一端を示したものといえます。

実習生のみなさん、お疲れ様でした!

2025年8月24日

 今月19日(火)から始まった博物館実習もいよいよ後半戦に入り、22日(金)の午前中は四国中央市の中学校から寄贈された考古資料の整理を行い、全国各地の遺跡で収集された多種多様な遺物を採寸して記録しました。午後からは豪雨などにより歴史資料が被災を受けることが多いなかで、水損資料のレスキューを学びました。

 23日(土)の午前中は民俗展示室で展示替えに挑戦し、「弁当箱」や「わっぱ」などを資料の特徴に応じて工夫しながら展示しました。午後からは特別展「渡辺おさむスイーツアート」のワークショップ「ビスケットデコレーションをつくろう」の補助を行いました。最終日の24日(日)は午前中に考古資料の整理を行い、土器や貝殻などを洗浄して土やほこりを取り除きました。午後からは昨日に続きワークショップの補助を行いました。参加者目線での対応や声掛けもできるようになりました。

 実習生の3名の皆さん、6日間にわたる博物館実習お疲れさまでした。歴史・民俗・考古資料の整理、学校との連携、ワークショップなど様々な実習を経験してもらいました。学芸員の採用は決して多いとは言えませんが、今回の実習を通じて博物館の応援団となってもらえれば幸いです。それぞれの夢に向かって頑張って下さい!

水損資料レスキューの実習
民俗展示室の展示替え
考古資料の実習
ワークショップの補助

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情94―智証大師と乃木将軍ゆかりの金倉寺

2025年8月22日

 香川県善通寺市にある四国八十八ヶ所箇所霊場の第76番鶏足山金倉寺(けいそくざん・こんぞうじ)は、平安時代の僧で空海の甥にあたる智証大師(ちしょうだいし)の御誕生所として名高く、また、明治期の軍人・乃木希典(のぎ・まれすけ)が寓居した寺院として知られています。

 昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で金倉寺を確認すると、四国の上陸港である丸亀、多度津の両港、弘法大師の誕生所とされる第75番善通寺、金毘羅参詣の金刀比羅宮などの著名寺社の近郊に位置します。最寄り駅は省線「金倉寺」駅(JR四国の土讃線「金蔵寺」駅)で、寺名が駅名となっています(写真①)。本図には記載されていませんが、琴平参宮電鉄丸亀線にも金蔵寺駅が設置され(昭和38年廃止)、交通の便が良い札所といえます。

写真① 金倉寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 智証大師(円珍。814~891年)は比叡山延暦寺第5代座主(ざす)で、長等山園城寺(三井寺、滋賀県大津市)を総本山とする天台寺門宗(てんだいじもんしゅう。寺門派)の宗祖です。そのため金倉寺は四国八十八箇所霊場の中では数少ない天台寺門宗の札所寺院です。縁起によると、宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、一堂を建立したことに始まり、当時は「道善寺」と号しました。唐より帰国した智証大師は道善寺に滞在して、唐の青龍寺(せいりゅうじ)を模範に伽藍を造営、本尊の薬師如来を彫像して安置、また、訶利帝母(かりていも)神像を刻んで訶利帝堂を建立しました。延長6年(928)、醍醐天皇の勅により、地名の「金倉郷」から「金倉寺」に改めたと伝えられます。訶梨帝母神像は「鬼子母神」(きしもじん)とも呼ばれ、安産や子育ての守護神として古くから信仰されています。 

 こうした金倉寺の歴史に近代以降、新たな見どころが加わります。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「乃木将軍善通寺第十一師団長在任の時は当寺にいられましたので、将軍の銅像や、将軍妻返しの松等があります」と記されているように、乃木将軍ゆかりの札所として案内記類に紹介されるようになります。同年の『四国霊蹟写真大観』には境内の名所として「将軍妻返しの松」が写真で掲載されています(写真②)。

写真② 第76番金倉寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 乃木希典は日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順を攻略、日露戦争における旅順攻囲戦を第3軍司令官として指揮したことで知られ、人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛されます。日露戦争後、学習院院長となり、昭和天皇(当時は皇太子)の教育係を務めました。明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日に妻・静子と共に殉死したことは日本中に衝撃を与えました(写真③)。

写真③ 殉死した乃木将軍夫妻(絵葉書「故乃木将軍記念(甲種)」個人蔵)

 乃木将軍「妻返しの松」について、昭和39年(1964)の西端さかえ著『四国八十八札所遍路記』によると、「本堂に進む途中に『乃木将軍妻返しの松』と立札のある松がある。明治三十一年善通寺に第十一師団が創設され、最初の師団長として着任したのが乃木将軍であった。この寺の客殿に仮寓していたが、その年の大晦日の夕暮れ、静子夫人が東京から突然たずねてきた。別当が取次ぐと将軍は許しもえないで来たことに立腹し『帰れ』といってあわない。夫人は思案にくれて、いつまでも身をもたせていた松がこの松であった。(中略)住職はふたたび会われることをすすめ、翌元旦に副官が夫人を迎えにいって将軍にお会わせした。夫人は、二人の子息の家庭教師の人選について相談に来られたのであった。将軍は客殿の四室をつかい、別に馬四頭も飼っていた。善通寺に四年間いられたが、朝夕の食事代は二十銭であった。(中略)大師堂の南側に、大正十年に建立した乃木将軍の和服姿の銅像もある。その前の左右に戦前の教科書にあった一太郎親子が植えた松が、美しい緑を伸していた。」と紹介されています。

 一太郎親子とは、国定教科書「尋常小学国語読本」に掲載された「一太郎やあい」の主人公です。明治37年(1904)、日露戦争で多度津港から出征する息子の岡田梶太郎(通称一太郎)を見送りに来た母カメが、船がすでに岸から離れていたので大声で「一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ、天子様ニ克ク御奉公スルダヨ」と叫んで激励したという愛国美談は、国民に知れ渡りました。

 金倉寺には乃木将軍の部屋(客殿)や遺品が残されています。香川県善通寺町(善通寺市)に大日本帝国陸軍の第11師団が創設されたことから、乃木将軍の宿舎となった金倉寺は四国霊場の札所の中でも日露戦争と関係の深い札所寺院として注目されます。

博物館実習、頑張ってます!

2025年8月21日

 現在、博物館では3名の大学生が博物館実習を行っています。19日(火)は施設の概要説明が中心でしたが、20日(水)から本格的な資料整理実習が始まりました。午前中は歴史資料の取り扱い方について学びました。教科書にも掲載されている「蒙古襲来絵詞」(複製)などを使い、巻物や軸物について史料の開き方、掛け方、閉じ方に挑戦しました。大学の講義では学んだものの実際に資料を扱った経験はない学生もいて、学芸員らしい経験ができたと感想を述べてくれました。午後からは博物館ボランティアの方たちと民俗資料の整理を行いました。着物などの古着を採寸して記録したり、焼き物の破片に注記して撮影したり、資料の性格に沿った整理を学びました。

 21日(木)は「教員のための博物館の日」が開催されました。午前は配布資料をまとめたり、学校への貸し出しキットである「れきハコ」を会場に並べたりしました。午後からは受付係や記録係を担当するとともに、一緒に博物館と学校の連携について学びました。博物館法においても、学習指導要領においても相互の連携がうたわれており、博物館の教育普及活動は今後益々重要になるものと思われます。学校が博物館に何を期待しているのか、博物館は学校に何ができるのか、先生方との交流を通じて職員も実習生もあらためて考える機会になりました。博物館実習もいよいよ明日から後半戦です。実習生の皆さん、頑張って下さい!

歴史資料実習
民俗資料実習
「教員のための博物館の日」準備

博物館実習が始まりました!

2025年8月19日

 8月19日(火)~24日(日)の日程で今年度の博物館実習が始まりました。今年は3名の大学生から申し込みがありました。19日から6日間にわたり、歴史・民俗・考古の資料整理実習、博物館と学校の連携、ワークショップなど、博物館の現場で実習や体験を行います。

 学芸員資格を取得するためには、文化庁が行う認定試験もありますが、大学で博物館法施行規則が定める博物館に関する科目の単位を取得するのが一般的です。具体的には、生涯学習概論、博物館概論、博物館経営論、博物館資料論、博物館資料保存論、博物館展示論、博物館教育論、博物館情報・メディア論を各2単位、博物館実習を3単位、合計19単位です。博物館にとって将来の学芸員を養成することも大切な使命であり、当館では例年この時期に博物館実習を実施しています。

 初日は博物館の概要説明、展示室・収蔵庫ゾーンの施設見学、指定管理者による事業説明、土・日に行うワークショップの事前研修を行いました。午前中は実習生も緊張気味でしたが、午後からは少しずつ馴染んできたようです。施設の概要説明では質問が出るなど、積極性も感じられました。明日からは資料を使った本格的な実習が始まります。残暑の厳しい折柄、体調に気を付けて、学芸員としての基礎を学んでいただければと思います。

考古収蔵庫で学芸員から説明をうける実習生
保存処理室で学芸員から説明をうける実習生