四国遍路道中図は大正時代から昭和時代にかけて、ビジュアルで分かりやすい四国遍路の案内地図として多くの遍路に用いられました。また、宿屋や巡拝用品店の宣伝広告のための接待品として遍路に無料配布されることもありました(本ブログ30「続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。
四国遍路道中図が発行された大正時代から昭和時代にかけて、実際に四国霊場を巡拝したある遍路はどのような活動を行っていたのか、残された遍路の所持品から探ってみましょう。
当館には伊予国東宇和郡多田村(愛媛県西予市宇和町)出身の夫婦が明治時代後期から昭和時代初期にかけて四国遍路を行った際の所持品が寄贈されています。それらは納経帳、巡拝用具類、御影・護符類、参拝記念品などで、四国霊場の札所や道中で使用されたものや土産物店などで買い求めたものと見られます。遍路の所持品は時の流れとともに散逸することが多く、まとまって残されていることは稀です。満願になった納経帳を死者の棺の中に入れると浄土に行くことができるといわれているように、納経帳が残っていない事例も見受けられます。そのため、今日まで残されてきた遍路の所持品は、巡礼者から見た当時の四国遍路の実態を示す資料として貴重です。
次に、遍路の所持品の中から主なものを紹介します。
【納経帳】
納経帳は明治38年(1905)、大正10年頃(1921)、作成年不明の3冊あります。そのうち大正10年の納経帳(写真①)は、第1番霊山寺から順打ちでまわり、第88番大窪寺で結願。ほとんどの札所では、納経印が5つ押印されています。納経印を一度受けた納経帳に、2回目以降の巡礼で重ねて朱印を受けることを「重ね印」といい、何度も朱印を受けて紙面が真っ赤になった納経帳は霊的な効果があるとされ珍重されました。

【巡拝用具類】
巡拝用具には札箱、輪袈裟(わげさ)、念珠、行李(こうり)が残されています。札箱は遍路が札所で奉納する納札を収納する道具で、首から掛けて用います。木製の小箱の側面にスライド式の蓋があり、開閉して必要な納札を出し入れします。表側に「伊予国東宇和郡多田村 奉納四国八十八ケ所順拝(氏名)」の墨書があります。紐には小さなわらじが付いています(写真②)。

輪袈裟は細幅を輪にした袈裟です。昭和5年(1930)に第19番立江寺(徳島県小松島市)から遍路宛に郵便で送られたもので、「梵字 卍 阿波国立江寺授与 四国第十九番霊場」とあります(写真③)。札所で納経する際に笈摺(おいずる)の上に着用し、平服で参拝する時にも輪袈裟を着用しました。

念珠(写真④)は珠をひとつ繰るごとに仏を念ずることから「念珠」と呼ばれています。行李(写真⑤)は竹や柳などを編んで作られたかぶせ蓋のある容器で、巡礼に必要な所持品を行李に入れて、背中の負い台にのせて運びました。


【御影・護符・記念品類】
子安大師のミニチュア銅像、弘法大師の御影と参拝記念メダルなどがあります。子安大師銅像(木製厨子入り)は安産・子育てに霊験があるとされる第61番香園寺(愛媛県西条市)に参詣した折に求めたものと見られます(写真⑥)。行李の中に2つの小石(写真⑦)が保管されており、その詳細は不明ですが、本像との関係から、第51番石手寺(愛媛県松山市)などで見られる、持ち帰ると子宝に恵まれ安産などの御利益があるとされる「子授け石」の類と推測されます。


弘法大師の御影(軸装、写真⑧)は一般に四国遍路の参拝記念、土産としてよく買い求められています。大師像が刻まれた参拝記念メダル(写真⑨)は第20番鶴林寺(徳島県勝浦町)、第34番種間寺(高知県高知市)、第71番弥谷寺(香川県三豊市)のものがあります。その他に、番外霊場の金山出石寺(愛媛県大洲市)の本尊千手観世音菩薩のカラー御影(写真➉)などが残されていました。



所持品の中には四国遍路道中図のような案内地図や案内記や、具体的な活動を記録した遍路日記などは確認できませんが、こうした所持品から一遍路の活動が垣間見られ、より具体的な四国遍路の実態をうかがい知ることができます。
伊予国東宇和郡多田村の夫婦遍路の所持品をもとに、入手先と見られる四国霊場の札所を、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)に丸印で示しました(写真⑪)。四国遍路の長い道中や各札所では様々な思い出があったにちがいありません。残された所持品には遍路の祈りや願いが込められているように思われます。また、遍路の土産として大切なのは、形あるモノに限らず、四国遍路の体験談を土産話として家族や知り合いに語って共有されたことです。それが新たな次の四国遍路へと誘なう要因の一つになりました。
