昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情110―立木仏の霊場「生木地蔵」

2025年12月12日

 生きた木に直接仏像を彫刻したものを「立木仏(たちきぶつ)」といいます。全国的に有名な江戸時代前期の修験僧・円空(えんくう)や木喰(もくじき)僧による作例が知られています。木喰とは米殻を断ち、木の実などを食べて修行することをいいます。

 白木利幸『巡礼・参拝用語辞典』(朱鷺書房、1994年)によると、立木仏とは「自然崇拝に起因して、地に根付いたままの木に直接、観音・地蔵・不動などの仏像を刻んだもので、『生木仏』(いききぶつ)ともいう。生きた木に彫ることによって、諸仏が地から生じる姿を表し、また霊像の効果を増す役割をも担っている。」とあります。

 四国霊場の中で立木仏を本尊とする札所で知られているのが「生木(いきき)地蔵」と呼ばれている、生木山(いききざん)正善寺(愛媛県西条市丹原町)です。

 四国別格二十霊場の第11番札所である生木地蔵は、福岡八幡宮が鎮座する四尾山(おしぶやま)と呼ばれる小山の麓にあります(写真①)。

写真① 生木地蔵(当館撮影)

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)(当館蔵、写真②)では、番外霊場を示す薄く赤い印に「生木地蔵」、注記に「番外 生木山正善寺 大師一夜御作」とあります。生木地蔵は赤い実線で記した巡拝ルート上にあり、四国遍路で巡拝する札所とされています。

写真② 生木地蔵(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「番外 生木山正善寺 周桑郡丹原町 御本尊生木の地蔵尊 大師の御作。延暦年間大師御巡錫の砌今井四尾山の麓に仮宿せられた時、南方に光明輝き殊勝童子示現して暁には光明此の楠樹に留ったので、霊木に一夜の内に地蔵菩薩の尊像を彫られたのであります。其時天邪鬼が鶏の鳴声をして邪魔をし暁を告げたので大師は片方の耳を彫残されたと伝へられ、最近まで近在では鶏を飼わなかったそうです。往昔は平城天皇の勅願寺として、又天慶年間には越智好方公を始め大小名の祈願密寺として栄えたのであります。爾来千年の樹齢を保つて鬱蒼として枝を張り祠に慈愛の尊像を匂わせています。御堂には脳耳の病に特に御利益があるとて沢山の土器が上がっています。」と詳しく由来が紹介されています。弘法大師がクスノキ(楠の木)の霊木に一夜で彫り上げたと伝えられる尊像の地蔵菩薩は、頭と耳の病に特に御利益があると信仰され、病人や遍路など多くの参拝者があったことが読み取れます。

 同年の『四国霊蹟写真大観』に収録する古写真「番外納経所生木地蔵」には、大きな楠の木の前に祠や玉垣が建てられ、戦前の生木地蔵の拝所の姿が見て取れます(当館蔵、写真③)。

写真③番外納経所生木地蔵(『四国霊蹟写真大観』、昭和9年、当館蔵)

 では、生木地蔵はいつ頃から遍路が巡拝する霊場として知られていたのでしょうか、次に江戸時代の四国遍路の案内記と納経帳から探ってみましょう。

 現存最古とされる四国遍路のガイドブックである、貞享4年(1687)の真念の『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』には、第59番国分寺から第60番横峰寺に至る遍路道沿いに、医王山(世田薬師)や井水(臼井御来迎)などの番外霊場とともに、「〇たんばら町、西にあたり紫尾山八幡、ふもとに大師御作生木の地蔵霊異あげて計がたし。」と記載されています。また、寛政12年(1800)の「四国遍礼(へんろ)名所図会」には、「生木地蔵尊 楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある、庵まへにあり、八幡宮山下にあり、下に門有り」と記され、収録する図版「生木地蔵」には、楠の大木に生木地蔵尊の姿、生木地蔵尊にひざまずいて参拝する人、庵の縁台で休息する人などの姿が描かれています。

 天保12年(1841)の納経帳には「奉納 生木地蔵大士 いよ生木山 正善寺」と記されて御朱印が押印されています(当館蔵、写真④)。

写真④ 天保12年の納経帳(当館蔵)

 このように江戸時代には弘法大師作の生木地蔵としてその霊験は広く知れ渡り、多くの遍路が巡拝したものと考えられます。

 明治期の資料も探ってみましょう。明治23年(1890)に豫州生木山大徳院の岡澤大城が作成した「弘法大師霊場処」と記された四国霊場の本尊御影軸があります(写真⑤)。明治期に生木地蔵の参拝記念等に授与されたものと推察されますが、特徴的なのは、四国八十八箇所霊場の本尊御影の中、第59番国分寺と第60番横峰寺の間に番外霊場の「弘法大師御加持水臼井御来迎」と「生木地蔵菩薩」が目立つように描かれて配置されています。番外霊場で発行された四国霊場の本尊御影として注目されます。

写真⑤ 四国霊場の本尊御影軸(明治23年、個人蔵)

 明治40年(1907)の納経帳には、生木地蔵の納経印と本尊の御影が貼付されています(当館蔵、写真⑥)。御影には「弘法大師一夜御作 生木地蔵大菩薩 豫州生木山正善寺」と記され、楠の木の中に地蔵菩薩像の姿が現されています。

写真⑥ 明治40年の納経帳と御影(当館蔵)

 生木地蔵は昭和29年(1954)9月26日洞爺丸台風の烈風によって、楠の霊木が根元より倒れましたが、生木地蔵は無事で現在は本堂に安置され、倒木は本堂向かって左側に祀られています(写真⑦)。

写真⑦ 楠の木の倒木(当館撮影)

 最後に、江戸時代に生木地蔵を参拝した遍路の興味深い出来事を紹介します。

 香川県の観音寺市観光協会のホームページに、「長寿の地蔵尊 天保7年(1836)中姫村に住む森安利左衛門豊秀が、病弱な一人娘「ナヲ」のために四国八十八ケ所巡礼の旅にでました。その道中、伊予国で「生きた地蔵尊」と出会い感銘を受けた豊秀は旅から帰った後、一人で祖先の眠る墓地にあるクスノキに約150cmもの大きさの地蔵尊を彫り上げたそうです。そのおかげか豊秀は86歳、娘のナヲは96歳まで生きたと言われています。それ以来「生き地蔵さん」にお願いをすれば長生きができると言い伝えられ、今日では県外の参拝者もいるほどになりました。」とあります。伊予の生木地蔵と遍路との出会いによって、新たに生まれた生木地蔵のエピソードは、立木仏と生木地蔵信仰の広がりを示しています。

 四国霊場には第42番佛木寺の本尊大日如来のように、弘法大師が楠の木で自ら刻んだものと伝えられるなど、霊木から刻まれたと伝えられる仏像が数多く残されています。それらは四国の大地、自然を舞台に仏教や修験、弘法大師信仰をはじめとする様々な信仰に育まれた四国遍路の歴史を物語っています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情109―真念と四国遍路―

2025年11月28日

 江戸時代前期、四国遍路を20回以上行ったとされる真念(しんねん)法師は、現存最古の四国遍路ガイドブックとされる『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』を貞享4年(1687)に刊行、遍路の休息所として真念庵の開設、迷いやすい遍路道の分岐点に遍路道標石(真念標石)を200基余り設置するなど、四国遍路の情報発信や遍路道と休息所の整備を手掛け、四国遍路の普及に多大な貢献をしました。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には、土佐の四万十川近郊の市瀬(高知県土佐清水市市野瀬)に所在する真念庵が巡拝ルート上に記載されています(写真①)。

写真① 真念庵(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「番外 市瀬山真念庵と(幡多郡伊豆田村大字市野瀬) 御本尊地蔵菩薩 大師の御作。大師四国八十八箇所御開創の砌足摺山への長丁場に悩む人々の為此地に庵を結び、本尊を刻んで安置せられた霊跡で、其後真念法師高野山から等身の大師像を背負い当庵に来て、三十七、八、九番の中札所として草庵を結び七里打戻り大師と申しましたが、その没後真念庵の名を生ずるようになりました。当庵に通夜の便もあります。」と紹介されています。

 改めて「四国遍路道中図」で真念庵の位置関係を確認すると、第37番岩本寺(高知県高岡郡四万十町)、第38番金剛福寺(同県土佐清水市)、第39番延光寺(同県宿毛市)の3札所のおよそ中間地点に位置していることがわかります。真念庵は小さなお堂ですが弘法大師ゆかりの番外霊場として多くの遍路の参拝があり、明治20年(1887)の四国遍路の納経帳には真念庵で授与された納経印が押印されています(個人蔵、写真②)。また、真念庵には足の不自由な遍路が利用したものと見られる箱車(部材の一部)が奉納され、霊験を受けた者が多かったことを物語っています(写真③)。

写真② 真念庵(当館撮影)と四国遍路の納経帳(真念庵、個人蔵)
写真③ 真念庵に奉納された箱車(平成23年、当館撮影)

 昭和11年(1936)の三好廣太『四國へんろ 同行二人』(第32版)に「ここから足摺へ七里三十丁で、ここまで打戻りなれば、荷物は宿に預けて行くのが楽です。ここに真念法師が巡拜者の労を慰安せられんとて、結ばれた真念庵があり他に宿屋濱田屋あり。」とあります。順打ちの場合、遍路は真念庵を参拝、休息後、荷物を預けて、長丁場となる足摺岬にある第38番金剛福寺に向かいます。そして金剛福寺参拝後、同じ遍路道を真念庵まで戻り(打戻り)、荷物を受け取り、次の札所となる第39番延光寺へと向かう巡拝ルートが利用されてきました。「四国遍路道中図」ではその間のルート上に「七リ打戻リ」と注記があります。

 真念庵から金剛福寺までの7里の遍路道には1丁間隔で道標石(丁石)が350基ほど立てられ、「足摺遍路道三百五十丁石」と呼ばれています。現在では道路工事などで多くが失われていますが、真念庵境内には「是より足摺山へ三百四十九丁」と刻まれた丁石が残されています(写真④)。

写真④ 真念庵の足摺遍路道三百四十九丁石(当館撮影)

 また、真念庵から延光寺に向かう遍路道沿い(延光寺道。高知県幡多郡三原村上長谷)には、江戸時代の遍路道標石の中でも紀年銘入りの貴重な真念道標石が残されています(写真⑤)。それには正面「右 遍ん路みち 願主真念 左 大ミづのときハこのみちよし」、右側面「貞亨四丁卯三月廿一日」、左側面「為父母六親 施主 大坂西濱町 五良右エ門立之」と刻まれ、貞亨4年(1687)に設置されたものと推察されます。真念の遍路道標石の中で年号が記されているのは珍しく、また、真念が同年に著した『四国辺路道指南』の記述「上ながたに村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし」と道標石の内容が一致している点においてとても注目されます。なお、真念による遍路道標石については、当館ホームページ「えひめの歴史文化モノ語り」の「第183回 江戸時代 200基余り建立 真念の遍路道標石」でも紹介しています。

写真⑤ 真念の遍路道標石(当館撮影)

 江戸時代前期に四国霊場の案内記類の刊行、遍路道に道標石を設置、遍路の休息所真念庵の開設など、真念が四国遍路の普及に果たした功績は絶大です。実際は弘法大師信仰のもとで真念やその協力者などの篤志家によってなされた諸活動と考えられます。真念庵はその名前が示すように、四国霊場の中でも弘法大師と真念、そして遍路を深く結び付ける重要な聖地といえます。

 今日四国遍路の歴史を考える時、もし真念がいなかったら、どのような四国遍路の姿になっていたのでしょうか? 八十八箇所霊場の数、札所の選定、御詠歌、遍路道と巡拝ルートなど、また違った四国遍路の世界になっていたのかもしれません。歴史に「IF」や「タラレバ」はないとされていますが、江戸時代前期において四国遍路のプロテューサー的な存在であった真念の偉業を見つめ直し、想像力を以て、謎の多い四国遍路の歴史を探求することは大切です。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情108―四国遍路と紅葉―

2025年11月21日

 紅葉のシーズンになりました。愛媛で紅葉の名所として特に有名なのは、石鎚山の南麓に広がる四国最大級の渓谷である面河渓(おもごけい、久万高原町)と、「もみじの寺」の西山興隆寺(西条市丹原町)があげられます。面河渓は第45番岩屋寺の近郊、西山興隆寺は第60番横峰寺道周辺に所在し、足をのばせば、四国霊場巡拝の途中で散策できます。

 実際に四国遍路の途中で面河渓を訪れた際の遍路日記を紹介します。

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』によると、「巌石、渓流、森林にまだ原始性が失はれて居らぬ事によつて、面河渓谷の名は、数年来の旅心を動かしてやまないものだった。そのために私はまづ面河の紅葉の一番いい時季を確め、面河探楓を中心にして前後の日程を立てさへしたのであつた。」とあり、島は四国遍路の計画にあたり、面河渓の紅葉シーズンにあわせて日程を組み、岩屋寺参拝後に面河渓を訪れています。そして「面河渓の林相に至つては見事なものだ。(中略)斧鉞(ふえつ。おのとまさかり)の入らぬ谷、千古そのままの谷を、落葉を踏みしめて歩くのは何とも言えぬ清々しい心境だつた。」と感想を述べています。

 昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には、「今は面河渓谷の入口関門まで自動車が通っている。(略)面河渓といふのは石槌山の山懐、仁淀川の源流にあつて、斧鉞入らぬ谷の原始林がこの渓谷の身上、関門から上流へゆくと、空船橋、想恩渓、紅葉床、五色河原、龍原、ここが渓中探勝者の根拠地である。この先に蓬莱渓、紅葉河原、虎ケ淵、虎ケ瀧、霧ケ追瀧、揺上、名残谷、階段瀧、久孝瀬、阿弥陀瀧、番匠瀧、犬吠瀧、御光来瀧等がある。」と記されています。宮尾は久万方面からの乗合自動車で仕七川古味(しながわこみ。久万高原町七鳥)まで行き、そこから4里半は徒歩で面河渓に向かっています。当時すでに面河渓の玄関口となる関門(かんもん)まで自動車による通行が可能でした。島と宮尾の2人の遍路日記からは、四国遍路を行いながら四国名所の面河渓を散策し、面河渓の最大の魅力は「斧鉞入らぬ谷の原始林」にあったことがわかります。  

 面河渓は昭和2年(1927)には大阪毎日新聞社主催による「日本百景」にも選出され、昭和8年(1933)に保護すべき日本の国土美を有する景勝地として愛媛県で初めて「国の名勝」に指定されました。戦前に面河渓の名は全国的に知れ渡り、「天下の絶勝」と呼ばれた面河渓の人気は高く、絵葉書や案内地図類が多く発行されました。現地の土産物店「渓泉亭」が発行した絵葉書「天然色写真版 渓谷美天下一 伊豫面河渓の勝景」(8枚組)には、清流と奇岩が織りなす雄大な景観と紅葉に彩られた渓谷美の全容が紹介されています(写真①)。

写真① 絵葉書「天然色写真版 渓谷美天下一 伊豫面河渓の勝景」、昭和時代(戦後)、個人蔵

 一方、西山興隆寺は麓の御由流宜(みゆるぎ)橋より参道全体の紅葉が見事です(写真②)。

写真② 西山興隆寺参道の紅葉

 西山興隆寺について、明治28年(1895)の得能通義『古蹟遊覧四國名所誌全』には、「桓武天皇長岡の宮にて御悩の時開基報恩大師詔を受て宮中に入り大悲心呪を唱祈るに霊験ありて御悩忽平癒ましませば叡感の餘大伽藍御建立あり」、明治31年(1898)の野崎左文『日本名勝地誌』(第8編・南海道之部)によると、「徳田村大字古田の西山に在り、よりて西山寺ともいふ、真言宗にして、普門院佛法山と号し、行基菩薩の作れる、千手観世音を本尊となし、運慶の作れる、二十八部衆を脇士とす」とあります。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「寺内名勝古跡に富み仁王門に名橋由流宜橋があり、大師は『御仏の法の御山の法の水ながれも清くみゆるぎのはし』と詠まれ、又順徳天皇の八雲御抄(やくもみしょう)にも歌われた紅葉の名勝です。」と紹介されています。

 ところで、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵)には面河渓は紹介されていませんが、西山興隆寺については地図上に三重塔と紅葉のマークが描かれ、「桓武天皇直願所」「四国紅葉名所」と目立つように記載されています(写真③)。興隆寺付近の「南朝忠臣得能氏居城 常石山」も記載されています。ちなみに高縄山地の東縁部に位置する常石山(つねいしやま。標高約140m)には、この地を治めた得能(とくのう)氏の居城「得能城(常石山城)」がありました。南北朝時代に得能通綱は南朝方として戦い、越前国金ヶ崎城(福井県敦賀市)で討死しました。

写真③ 西山興隆寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 ここで注目したいのは、西山興隆寺近くの徳田村(西条市丹原町)に「家傳秘法 心臓薬本舗」の場所が赤印で目立つように記され、燧灘(ひうちなだ)の余白部に「四國デ名高イ家傳心臓薬本舗ハ西山興隆寺山麓ニアリ 壬生川ヨリ一里 三芳ヨリ一里半」と記した心臓薬本舗の宣伝が掲載されている点です。

 心臓薬本舗とは、「四国遍路道中図」渡部高太郎版の発行者で広告主である渡部高太郎が経営する薬屋のことです。本図下部の「謹告」と裏面には心臓薬の効能などが詳しく紹介されています(本ブログ28「心臓薬本舗渡部高太郎版と広告性」参照)。

 四国の紅葉名所「西山興隆寺」、南朝の史跡「常石山」、「四国の名薬」と自画自賛する心臓薬を製造する「心臓薬本舗」の記載は、他の「四国遍路道中図」には見られない渡部高太郎版オリジナルの記載内容です。それらは赤線で示す四国遍路の巡拝ルートから少し外れていますが、渡部高太郎の郷里丹原周辺の名所旧跡と名薬を四国巡拝の遍路に対して積極的に宣伝することが、「四国遍路道中図」発行の目的の1つであったと考えられます。

 四国には愛媛の面河渓、西山興隆寺の他にも、徳島の雲辺寺(四国霊場第66番)、祖谷(いや)渓、高知のべふ峡、竹林寺(四国霊場第31番)、香川の小豆島寒霞渓(かんかけい)、大窪寺(四国霊場第88番)など、紅葉の名所がたくさんあります。山間部の有名な渓谷だけでなく、四国霊場の札所寺院も紅葉の人気スポットとして多くの人々が訪れています。紅葉を楽しみながら四国霊場をめぐるのも晩秋の四国遍路の醍醐味の一つといえます。

内子小学校の学習発表会に参加して        ― 平和学習を考える ―

2025年11月19日

 10月2日(木)に出前授業「戦時下のくらし」を行った内子町立内子小学校から、学習発表会のご案内をいただき、11月14日(金)にお伺いしました。

 6年生のタイトルは「Orizuruに願いをこめて」。まず、23歳で戦死した特攻隊員佐藤新平さんの遺書が児童の皆さんによって読み上げられた後、修学旅行で大刀洗平和記念館を訪れたこと、当館の出前授業を受けたことが述べられました。そして、グループごとに設定したテーマについて調べ学習の成果を発表しました。切符制度、配給制度、代用食、松山空襲、宇和島空襲、特攻隊、表現の自由が奪われたこと、教育を受ける権利が奪われたこと、戦時中の子どもたち、戦時中の学校生活、原子爆弾、戦後も続く苦しみ、今も続く戦争など幅広いテーマが取り上げられました。

 出前授業では、戦時中の子どもたち(おもちゃ、通知表)、切符制度、配給制度、代用品、愛媛県下の空襲、原子爆弾と愛媛の関係(パンプキン)について、資料を交えながら紹介しましたが、それらも発表内容に含まれており嬉しく感じました。しかし、嬉しさ以上に感じたのは出前授業では伝えきれなかった点を、児童の皆さんが幅広い視点で深く調査していることでした。特攻隊で戦死した人数、空襲の被害者数などデータ的なことはもちろん、戦時下において表現の自由が奪われたこと、教育を受ける権利が奪われたこと、戦後も続く苦しみ(PTSD、アルコール依存症、家族への影響)など、教科書では触れられないようなことも調査し、ウクライナ戦争についてもウクライナとロシアの双方の立場から捉えていました。6年生としては非常にハイレベルな内容でした。

 最後に平和学習の合唱曲「Orizuru」が6年生全員で歌われました。各グループの発表成果を聞いた後だけに、平和への願いが一層深く心に響きました。児童のみなさんの歌声を聞きながら、すでに私たちが「戦争体験者から話を聞く側」から「聞いた話を次の世代に伝える側」になりつつあることも認識しました。今回、学習発表会に参加させていただき出前授業が教育現場のニーズにあったものとなるよう改善と工夫を重ねていきたいと思います。内子小学校の皆さん、ありがとうございました。

グループごとに発表する様子
 「戦時中の子どもの暮らし」の発表
「パンプキン」の発表 
 Orizuruを全員で合唱

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情107―四国霊場の開創―

2025年11月14日

 前回のブログ106で、厄除け祈願所として有名な四国霊場第23番薬王寺を紹介しました。今回注目したいのは、同寺の縁起に本尊の厄除薬師如来は空海(弘法大師)が42歳の厄年にあたる弘仁6年(815)に制作されたと伝えられる点です。

 四国八十八箇所霊場のうち、弘仁6年に空海が自ら彫刻したと伝えられる本尊を祀っている札所は他にも存在します。第4番大日寺(徳島県板野町)の大日如来、第8番熊谷寺(徳島県阿波市)の千手観世音菩薩、第11番藤井寺(徳島県吉野川市)の薬師如来、第14番常楽寺(徳島県徳島市)の弥勒菩薩、第56番泰山寺(愛媛県今治市)の地蔵菩薩、第65番三角寺(愛媛県四国中央市)の十一面観世音菩薩などがそれにあたります。

 平安時代初期の弘仁6年は、空海と四国霊場にとって重要な年と考えられています。その理由は①弘仁6年は弘法大師空海が42歳の厄年にあたるとされている点、②弘仁6年に四国八十八箇所霊場が開創されたと伝えられている点にあります。

 ①については、空海の生誕は宝亀5年(774)とされ、弘仁6年は数え歳で計算すると42歳に相当します。現在の厄年の年齢は一般的に男性25歳・42歳・61歳、女性19歳・33歳・61歳、大厄は男性42歳、女性33歳とされています。今日の厄年の見方からすれば、弘仁6年は空海にとって大厄の年にあたります。

 ②については、平成26年(2014)、四国霊場開創1200年記念事業が四国八十八ヶ所霊場会と関係する札所寺院等で実施されたことは記憶に新しいと思います。弘仁6年から数えると、平成26年はまさしく1200年に相当します。ちなみに、四国4県の美術館・博物館では開創1200年記念として特別展「空海の足音 四国へんろ展」を実施し、四国霊場に伝わる貴重な宝物や文化財等を公開しました。愛媛会場は愛媛県美術館で開催され、多くの観覧者で賑わいを見せました。四国遍路資料として当館所蔵の昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、写真①)なども展示しました(『空海の足音 四国へんろ展 愛媛編』四国へんろ展愛媛編実行委員会、2014年)。

写真① 「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 要するに、弘仁6年は「空海42歳厄年四国霊場開創説」の根拠となる重要な年とされています。 

 青年時代の空海(18歳)は阿波の大瀧嶽や土佐の室戸崎などの四国の辺地(へじ)で修行したことが延暦16年(797)に成立した空海著『三教帰指(さんごうしいき)』に記されています。しかし、四国霊場の開創については同時代史料(一次資料)で確認することができず、残念ながら史実として実証することは難しいといえます。また、鎌倉時代に成立した空海の生涯を描いた古い絵伝「高野大師行状絵巻」にも四国霊場の開創については紹介されていません。

 弘仁6年を四国霊場開創年とした場合、開創1000年は江戸時代後期の文化11年(1814)となりますが、管見の限り、そうした記録は確認できていません。四国霊場開創1200年記念より以前に確認できる事例は、大正3年(1914)の四国霊場開創1100年になります。第22番平等寺(徳島県阿南市)の奥之院・月夜御水庵が発行した刷り物「弘法大師月夜七ふしぎ」(当館蔵、写真②)に「四國霊場開創紀念一千百年」とあります。

写真② 月夜御水庵発行の刷り物「弘法大師月夜七ふしぎ」当館寄託

 月夜御水庵は弘法大師が闇夜に月を招き寄せて月夜としたという伝説があり、「四国遍路道中図」にも番外霊場として紹介されています。

 空海42歳厄年の四国霊場開創説について、大本敬久氏(現愛媛大学地域協働推進機構 特定准教授)は「四国霊場を開創したとされる弘仁6年の空海は、東国をはじめ密教を広めようと活動していた時期といえる。当時の史料からは四国に渡って寺院や霊場を開創したという記述は確認できず、42歳厄年開創説を史実として実証することは難しい」「現代の厄年習俗が近世以降の比較的新しい時期に成立した」「古代、中世の史料には42歳を厄年とする史料は確認できず、江戸時代以降の成立、定着と見られる。空海が活躍した平安時代初期にまで遡って42歳の厄年習俗が存在したかどうかは史料上、明確にすることは困難」「明治末期から大正初期に『四国霊場連合会』の結成の動きの中で開創伝承が創出された可能性がある」と指摘しています(大本敬久「1200年前の空海」『弘法大師空海展』愛媛県歴史文化博物館、2014年)。

 四国霊場連合会は四国八十八ヶ所霊場会の前身の組織で、その代表は第50番繁多寺(愛媛県松山市)の住職丹生屋隆道でした。近年、愛媛県教育委員会による繁多寺の文化財総合調査によって、大正~昭和前期の四国遍路の興隆に大きな役割を果たした丹生屋隆道の履歴や事績などが明らかにされています(服部光真「近代四国遍路の興隆と丹生屋隆道」『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第50番札所繁多寺』愛媛県教育委員会、2024年)。

 以上見てきたように、弘仁6年空海厄年四国霊場開創説は歴史的な事実と捉えることは難しいですが、日本に古くから伝わる厄年の風習と、民衆を救済する民間信仰として顕著な弘法大師信仰が結びつき、四国遍路の信仰的な事実として人々に今なお息づいていることに宗教文化史上の大きな価値があるといえます。

 次に、四国八十八ヶ所霊場会編『先達経典』(2006年)をもとに、現在の八十八箇所霊場の開基と創建年を見てみましょう。

 四国霊場は空海以前の行基菩薩や役行者(えんのぎょうじゃ)などを開基とする札所もありますが、八十八箇所中、弘法大師を開基とする札所は39箇所を数え(約44%)、四国霊場の半数近くに及んでいます。

 そのうち弘仁6年創建で弘法大師を開基とする札所は13箇所を数えます(写真③)。内訳は阿波(徳島)8、土佐(高知)2、伊予(愛媛)2、讃岐(香川)1箇所で、全体の約15%に相当します。弘仁6年に空海開基の札所は阿波に多いことがわかります。弘仁年間では22箇所を数えます。弘仁7年(816)は空海が嵯峨天皇から高野山を賜ります。

写真③ 弘仁6年と大同2年創建の四国八十八箇所霊場の札所

 弘仁6年に次いで多いのは大同2年(807)創建の札所です(写真③)。空海34歳の時にあたり、9箇所を数えます。大同年間では11箇所となります。空海にとっての大同年間は、大同元年(806)10月に中国(唐)から帰国して、筑紫国大宰府に帰着し、翌大同2年に入京します。その際に瀬戸内海を航行したと推察されますが、空海の生誕地とされる第75番善通寺(香川県善通寺市)の創建は大同2年です。

 札所の開基が弘法大師空海ではなくても、江戸時代以降、ほとんどの札所の縁起類で弘法大師との関係が説かれ、八十八箇所霊場の境内には札所の本尊を祀る本堂の他に、江戸時代後期以降は弘法大師を祀る大師堂が整備されます。

 四国霊場の開創をいつに求めるかは、個々の札所の創建年や八十八箇所としての成立年代などと密接に関係すると考えられます。空海が生きた時代、八十八箇所が成立した時代、四国遍路が普及した江戸時代、いろんな捉え方が可能になります。しかし開創年以上に大切な事実は 四国八十八箇所霊場は弘法大師空海を中心に開創された霊場であり、空海が存在しなければ四国霊場は成立していなかったということです。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情106―厄除け祈願所としての薬王寺―

2025年11月10日

 徳島県南部の太平洋に面した日和佐(ひわさ)地区はウミガメの産卵地として知られ、四国八十八箇所霊場第23番札所の医王山薬王寺(徳島県海部郡美波町)があります(写真①)。阿波(徳島県)最後の霊場となる薬王寺は全国的に厄除け祈願の寺院として有名です。 

写真① 薬王寺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 四国八十八箇所霊場会編『先達経典』(2006年)によると、薬王寺について「『やくよけばし』を渡って本堂に向かう最初の石段は、『女厄坂』といわれる33段、続く急勾配の石段『男厄坂』が42段で、さらに本堂から「瑜祇(ゆぎ)塔」までは男女の『還暦厄坂』」と呼ばれる61段からなっている。各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、参拝者は1段ごとにお賽銭をあげながら登る光景が見られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49年)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願して一刀三礼(いっとうさんらい)し、厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とされ、厄除けの根本祈願寺とした。大師は、この厄除け本尊の功徳を平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の3代に相次いで奏上したところ、各天皇は厚く帰依し、厄除けの勅使を下して官寺とされている。」とあります。

 現在の厄年の年齢は男女で異なり、一般的に男性は25歳・42歳・61歳、女性は19歳・33歳・61歳、大厄は男性42歳、女性33歳とされています。薬王寺の厄坂の石段の数は男女の大厄の年齢と同じです。筆者が参拝した際にも、厄除け祈願のため厄坂の石段ごとに一円玉や五円玉のお賽銭が奉納されていました(写真②)。

写真② 薬王寺の厄坂に奉納されたお賽銭(当館撮影)

 薬王寺が厄除け祈願所とされ、厄坂のお賽銭の習俗はいつ頃から行われたのか、四国遍路の案内記類で確認してみましょう。

 元禄2年(1689)の寂本『四国霊場記』には「大師御年四十二に当て除厄の為に薬師如来の像を彫刻し」とあり、江戸時代の中期には弘法大師信仰の広がりとともに、薬王寺が厄除け祈願所として認識されていたことがわかります。

 寛政12年(1800)の「四国遍禮(へんろ)名所図会」の図版「薬王寺」には、本堂に至る参道上に2つ石階段が描かれ、本文には「四十三石壇」とあります。数が42段でなく43段で異なりますが、現在の男厄坂のことを表しているものと推察されます。33段の石段や賽銭については言及されていません。

 明治44年(1911)の三好廣太『四國霊場案内記』には、「本堂に登る四十二と三十三の石壇は男女の大厄年にかたどり末世の衆生に詣る迄に厄難をはらはしめんとの御聖意です」とあり、明治後期には男女の大厄を意味する42段と33段の石段が紹介されています。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「下に三十二段の女厄坂と上に四十二段の男厄坂がありまして、その石段の下には薬師本願経を一字一石にして一千部納めてあり、旧正月十一、二日は厄年の参詣者が多く、厄坂の一段毎に一文ずつ賽銭を上げて行く慣があります。」とあり、旧正月11・12日に厄年の参詣者が多く、厄坂の一段ごとに賽銭をあげる習俗が戦前から行われていたことが確認できます。

 次に薬王寺の特徴について見てみましょう。

 大正7年(1918)に四国遍路を行った時の体験をもとに昭和13年(1938)に刊行された、高群逸枝の『お遍路』には「一寸城郭を思はせる建築で、遠目に白く輝いている。石垣や石段で出来た寺である。」とあります。

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』には「寺は山の麓に高く石垣を築いて境内としている。石段も御影石の立派な石段、建物もまあ壮麗といふ方だ。(中略)ところで、ここに面白いのは、文治(1185~1190年)の火災の時の事、本尊薬師如来の像は光を発して自ら飛び、寺西の玉厨子山に難を避けた。其後後鳥羽天皇は此寺を再建し給ふに及び、新たに薬師像を作つて供養遊ばされたところ、曩(さき)に飛び去つた薬師如来の像は紫雲に乗じて再び此の寺に還り厨子の中に入つたとの事だ。で、今は本尊二體あり、火事に遁(に)げた方を俗に後向薬師と言ふそうだ。」とあります。

 薬王寺は石垣や厄坂などの石段が多いことから札所寺院というより城郭のような景観であること、本尊の薬師如来は2躰安置され、再び厨子に還ってきた元の薬師を「後向薬師(うしろむきやくし)」と称し、参拝者は2躰の本尊薬師如来にそれぞれ参拝していたことが読み取れます。

 最後に、戦前の薬王寺とその周辺を撮影した古写真を紹介します。

昭和9年(1934)の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)には、「厄除薬師 薬王寺本堂」「四十二の男厄段」「三十三の女厄段」「第二十三番薬王寺全景」「薬王寺境内より日和佐港を望む」などの写真が掲載されています(写真③)。

写真③ 薬王寺(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 戦前の薬王寺参拝記念絵葉書「阿波国日和佐町四国第二十三番霊場薬王寺全景(厄除根本祈願所)」(写真④、個人蔵)には、入口となる仁王門、山の麓に石垣を高く築き、絵馬堂、鐘楼、医王殿などがある境内中段部に登る石階段(女厄坂)が確認できます。写真上見えにくいですが、本堂や大師堂がある境内上段部に登る石階段(男厄坂)が存在します。なお、現在の薬王寺境内の最上部にある瑜祇塔は昭和38年(1963)に建立されているため、戦前の境内には瑜祇塔や還暦厄坂は存在しません。

写真④ 薬王寺参拝記念絵葉書「阿波国日和佐町四国第二十三番霊場薬王寺全景(厄除根本祈願所)」、個人蔵

 四国霊場の中でも厄除け祈願所としての特色をもつ薬王寺は、遍路に限らず多くの参拝者が訪れています。四国霊場と弘法大師による厄除け信仰の関係については、改めて紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情105―札所の名称「圓明寺」と「延命寺」―

2025年11月7日

 昭和時代の「四国遍路道中図」に掲載する四国八十八箇所霊場の札所の名称は、ほとんど現在と変わりませんが、第54番札所の延命寺(えんめいじ、愛媛県今治市阿方)は、かつては「圓明寺」と記され、第53番札所圓明寺(えんみょうじ、愛媛県松山市和気町)の寺号と同じでした。

 四国八十八ヶ所霊場会編『先達経典』(2006年)や同会ホームページの「延命寺」の紹介には、「この『圓明寺』の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた『延命寺』に改めている。」とあります。

 延命寺が江戸時代に「圓明寺」と記されていたことは、同寺所蔵の宝永元年(1704)鋳造の梵鐘(近見次郎)の銘文や、江戸時代の四国遍路の納経帳など、残された資料からわかります。

 例えば、寛政10年(1798)の納経帳(当館蔵、写真①)には「奉納五十四番/本尊不動明王/伊豫松山近見山/月 日 圓明寺」とあり、54番札所自らが「伊豫松山近見山圓明寺」と署名しています。「松山」とあるのは延命寺が所在する阿方村は江戸時代中期から幕末まで松山藩領であったことを示し、山号の「近見山」は延命寺背後の山(標高243.5m)に由来し、縁起によると、往古の延命寺は近見山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えたと伝えられています。

写真① 第54番圓明寺(寛政10年の納経帳、当館蔵)

 第53番圓明寺の場合は、納経帳に「第五十三番(朱印)/奉納経/本尊阿弥陀如来/伊豫松山須賀山/圓明寺」と記載されています(写真②)。

写真② 第53番圓明寺(寛政10年の納経帳、当館蔵)

 第53番圓明寺の近く建てられた、文久3年(1863)の遍路道標石(松山市馬木町)には、「(手印)(手印)へんろミち 馬木/文久三亥年 是ヨリあかた圓明寺九里六丁 世話人 白形屋房五郎 矢野作助/矢野市右ヱ門(他14名)/野本甚六(他14名)」と刻まれ、第54番札所を「あかた圓明寺」と称しています(写真③)。第53番圓明寺と区別するために、第54番は地名「あかた」あるいは山号「近見山」を圓明寺に併記していることがわかります。

写真③ 文久3年の遍路道標石(松山市馬木町、当館撮影)

 次に、江戸時代の四国遍路の案内記類から、第54番札所の名称を確認してみましょう。

 貞享4年(1687)の真念『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』では「五十四番延命寺」、元禄2年(1689)の寂本『四国徧礼(へんろ)霊場記』では「近見山不動院延命寺」、寛政12年(1800)の『四国遍禮(へんろ)名所図会』では「五捨四番近見山不動院延命寺」とあります。これらの代表的な案内記類では、第54番札所は「圓明寺」でなく「延命寺」と記載され、また、寺名が第53番と同じであることについては言及されていません。

 このことは先行する案内記で普及した真念『四国辺路道指南』の影響から、後続の案内記類が第54番札所の寺名を「延命寺」と記載したものと推察されます。『四国辺路道指南』では、第24番最御崎寺(高知県室戸市)を「東寺」、第25番金剛頂寺(同市)を「西寺」という俗称で記載しているように、第54番も分かり易いように「延命寺」と記載したものと思われます。

 実際、延命寺道における江戸時代の遍路道標石を探ってみると、寛政~文化年間にかけて建てられた武田徳右衛門による遍路道標石(今治市大西町宮脇)には、「(梵字)(大師像)是より 延命寺エ一里/施主 越智郡上朝倉村御料弥蔵/願主 同所徳右ヱ門」と刻まれ、「延命寺」と表記されています(写真④)。また、延命寺に近い海の上陸地であった波止浜には、文政13年(1830)の遍路道標石(今治市波止浜本町)があり、「右 遍路道/阿方村 延命寺へ一里/文政十三寅二月 世話人 古川弥茂兵ヱ柏屋助五郎」と刻まれ、こちらも「延命寺」とあります(写真⑤)。

写真④ 武田徳右衛門の遍路道標石
(今治市大西町宮脇、当館撮影)
写真⑤ 文政13年の遍路道標石
(今治市波止浜本町、当館撮影)

 これらのことから、第54番の札所の名称として「延命寺」はすでに江戸時代から定着していたことがわかります。

 ところで、東大寺戒壇院(かいだんいん)の学僧・凝然(ぎょうねん)は、鎌倉時代の文永5年(1268)、故郷の伊予国圓明寺の西谷の坊に籠り、仏教入門書である『八宗綱要(はっしゅうこうよう)』を著したことが知られています。

 『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(1984年)によると、「文永五年(一二六八)一月二九日、折から帰郷中の凝然は、近見山円明寺の塔頭西谷房で『八宗綱要』二巻の撰述を終わった。奈良六宗と平安二宗のあわせて八宗に鎌倉新仏教中の浄土と禅を付加し、それぞれの成立と教義の大要を述べている。二九歳になったばかりの青年僧の著作であり、その序文には謙虚な言葉が見えるけれども、この書は、わが国における仏教教学に関する体系的な書物の先駆であり、日本仏教の概論書・入門書として古来尊重され、広く普及した名著である。」と記載されているように、この伊予国の近見山圓明寺は延命寺であると考えられています。

 圓明寺と延命寺の事例をもとに札所の名称について見てきましたが、四国霊場の中には、第52番太山寺(愛媛県松山市)と第56番泰山寺(愛媛県今治市)の関係においても同じようなことがいえます。江戸時代の泰山寺の記録や納経帳などには第56番は「太山寺」と記されている事例も確認されます。

 延命寺の寺名がどのような経緯でいつから用いられたのか詳しくはわかりませんが、四国遍路の普及の中で、真念の案内記などの影響を受けて、札所の名称が次第に定着したものと推察されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情104―延命寺の梵鐘―

2025年10月31日

 愛媛県今治地方にある四国八十八箇所霊場の最初の札所は第54番近見山(ちかみざん)延命寺(えんめいじ、今治市阿方)です(写真①)。延命寺への巡拝は順打ちの場合、1つ前の札所第53番圓明寺(えんみょうじ、松山市和気)からは約34㎞の長丁場となります。そのため、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版、当館蔵、写真②)に示されているように、圓明寺最寄りの和気駅から鉄道を利用して今治駅に向かう遍路も多かったようです。また、中国地方から今治港に上陸する場合、「五十五番ノ南光坊ヨリ始ムルガヨシ」とあるように、今治地方の四国霊場巡拝は第55番の南光坊(なんこうぼう。今治市別宮町)を起点に行われました。

写真① 延命寺本堂(当館撮影)
写真② 圓明寺から延命寺へ(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 漫画家の宮尾しげをが昭和18年(1943)に刊行した『画と文 四國遍路』には、「今治の附近には五十四番から五十九番まで七ケ所が散在している。私は足どりの都合上五十五番から五十四番、それから五十六番へ廻る事にした。五十五番は相済み、五十五番からは旧道を行かず国道づたひに行くと案外楽で、一里程の道、五十三番から来ると、圓明寺から五里半で、菊間町の番外の遍照院へ行き、それから三里二十六丁で延命寺となる。」と記しています。

 このように第54番延命寺の巡拝にあたり、移動時間の短縮と巡り易さの都合上、今治駅や今治港に近い第55番南光坊を先に巡拝して延命寺に向かう変則的な巡拝を行った遍路がいたことがわかります。

 延命寺の由緒や見どころについて、戦前の四国遍路の案内記には次のように紹介されています。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「御本尊不動明王 行基の御作。当寺は嵯峨天皇の勅願によって大師の開基。初めは寺の背後二十町に聳ゆる近見山の頂にあって七堂伽藍の隆盛を見たのですが、天正の兵火に遭い、その時梵鐘を掠奪して軍用金に資せんと海上運搬の途中、梵鐘自づと海中に沈んだと言伝えています。」、昭和11年(1936)の三好廣太『四國遍路 同行二人』には「本尊不動明王、行基の御作、永代過去帖を備へて、一般の供養を修行せらる。当地は宿に乏しく、寺に清潔なる通夜堂を設備し、接待通夜を得させ、毎年二月二十一日より一百日間、毎夜護摩の修行あり、住職はありがたき法話を勤めらる。」とあります。

 延命寺の山号「近見山」は背後の近見山(標高244m)に由来し、往古は山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねていたと伝えています。また、参拝者の永代供養や期間限定で護摩修行を行っていること、付近に宿が少ないため遍路が無料で宿泊できる清潔な通夜堂を備え、接待や法話を行うなど、修行道場としての延命寺の特色がうかがわれます。

 延命寺の見どころとしては、梵鐘にまつわる伝説をとりあげています。昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』にも、「この寺の院号『宝鐘院(ほうしょういん)』というのは梵鐘に由来する。宝永元年(1704)、時の住職が私財を傾けて作ったもので、小さいが音がよい。供出もまぬがれた。むかし、九州の大伴の軍勢が攻めてきたときに、合図の鐘に持ち帰ったが、夜中に叩かないのに鳴るので、その奇異におそれて返してきたが、近見山の近くにきて海中に沈んでしまった。いまあるのは二代目だが、松山城に持っていったら『いぬる、いぬる』(愛媛地方の方言で「帰る、帰る」の意)と鳴るので、返してきたという話も残っている。」と詳しく紹介されています。

 現在の延命寺の境内には2つの鐘楼があります。初代の梵鐘(近見太郎)は海中に沈んだと伝えられ現存しませんが、2代目の宝永元年鋳造の梵鐘(近見次郎)が仁王門近くの鐘楼に吊り下げられています(写真③)。大きさは口径62㎝、高さ122㎝で四面に延命寺の歴史が刻まれ、今治市の文化財に指定されています。もう1つは茶堂近くの鐘楼です。こちらは現役の梵鐘(近見三郎)が吊り下げられ、遍路が参拝時に鐘を打ち鳴らしています。 

写真③ 延命寺の梵鐘「近見次郎」(当館撮影)

 ちなみに、四国八十八箇所霊場にある梵鐘のうち古いものは、奈良時代の鋳造と考えられている第80番國分寺(香川県高松市)、延喜11年(911)の第39番延光寺(高知県宿毛市)、貞応2年(1223)の第84番屋島寺(香川県高松市)、建長3年(1251)の第51番石手寺(愛媛県松山市)、弘安7年(1284)の第31番竹林寺、徳治3年(1308)の第32番禅師峰寺、永徳3年(1383)の第52番太山寺(愛媛県松山市)などに遺されています。

 梵鐘をはじめ遍路が持つ鈴の音、唱える御詠歌などは札所に響く音の風景として四国遍路の魅力の1つとされています(真鍋俊照『四国遍路を考える』NHK出版、2010年)。

 延命寺の見どころは梵鐘の他にも、境内に江戸時代前期に建てられた真念の道標、明治期に今治城取り壊しの際に移築された山門などもあります。真念の道標については別の機会で紹介したいと思います。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情103―遍路の足となった、小さな汽船「大和丸」―

2025年10月24日

 大正7年(1918)の高群逸枝『娘巡礼記』、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四國遍路』など、近代の四国遍路日記を読むと、四国八十八箇所霊場第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番観自在寺(愛媛県南宇和郡愛南町)までの区間は、陸路の場合、高知・愛媛県境の険しい松尾坂(松尾峠)があるため、海路で片島・宿毛港(宿毛市)と深浦港(愛南町)を結ぶ定期航路を利用する遍路が多くいたことがわかります。

 「四国遍路道中図」にはその航路は記載されていませんが、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」には点線で地図上に記載されています(写真①②)。

写真① 第39番延光寺~第40番観自在寺周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
写真② 宇和海の航路(安達忠一『同行二人 四国遍路たより』収録の「四国八十八箇所霊場行程図」昭和9年、個人蔵)

 宿毛―深浦間の定期航路で遍路がよく利用したのが、小さな汽船「大和丸」です。

 高群逸枝は『娘巡礼記』で「室内のムサ苦しい事、ほとほと耐まらない。それに小さな蒸気であるから部屋は上と下との二段しかない。しかも乗客ははみ出す位、つまっている」と苦言を呈していますが、船内が大混雑した盛況の様子が読み取れます。

 大正3年(1914)頃、福山磯太郎は深浦港を始発に各港を結ぶ航路を開設し、大和丸が就航しました。その後、福山は新造船をあいついで就航させ、寄港回数を増加するなど優位に立っていましたが、昭和8年(1933)に第三大和丸による由良半島沖の遭難事故や経営者の交代などがあり、第二次大戦中に関西汽船に併合されました(本ブログ59「遍路が利用した宇和海の航路」参照)。

 宇和海の深浦港を起点に運航していた大和丸ですが、その姿や船史についてはよく分からず、戦前の四国遍路の案内記類に大和丸が紹介されている記事があり、以下に紹介します。

 昭和5年(1930)の島浪男(飯島實)『札所と名所 四國遍路』には、「片島、深浦間巡航路大和丸(三十噸)で一時間、船賃五十銭(中略)宿毛、深浦間は大阪商船、宇和島運輸両会社共同経営の大阪四國線の航路によるもよい。船賃三等五〇銭、二等一圓。但し宇和島運輸の船は巡拜者に限り三等三割引」とあります。

 本書によると、大和丸は30トン、片島―深浦を1時間で結び、船賃は50銭であったことがわかります。ちなみに30トンの船は、主に小型の漁船や沿岸の作業船で、現在の基準でいうと非常に小型の船で、漁業、沿岸での物資運搬、港湾作業などに使用されています。

 宿毛―深浦間は大和丸の他に大阪商船と宇和島運輸両会社共同経営の大資本による大阪四國線も運航しており、船賃は大和丸と同額の50銭(3等)、巡拝者(遍路)は3割引(3等)とあるので、遍路に対するお接待として船賃の割引が行われていたことがわかります。

 昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場禮讃』(一名『四国順拜案内記』大澤自昶著作兼発行、松山向陽社)には、大和丸の出港時刻表が掲載されています(写真③)。

写真③ 大和丸の出港時刻表(武藤休山編『四国霊場禮讃』、昭和10年、個人蔵) 

 「大和丸出港時間表 深浦港福山廻漕店/三十九番ヨリ宿毛ニ出テ四十番ニ至ル深浦港ニ着陸/宿毛発 午前六時 八時 十二時 午後四時 五時 六時/宇和島行 午前七時 午後十一時」。続いて「本船に御投乗の方えは本店に於て食費宿料其他種々御優待申上げます船賃二割引」とあり、深浦港の福山廻漕店の案内広告などが紹介されています。

 大和丸の出港時刻表からは、宿毛発深浦行きは1日6便、深浦発宇和島行は1日2便で、大和丸は数隻で運行していたと推察されます。深浦港の福山廻漕店は、大和丸を就航した福山磯太郎の縁者が経営する集荷・輸送等を取り扱う廻船業者と推察されます。乗船客は福山廻漕店において食事や宿泊などの様々な優待サービスを受けられ、船賃は2割引となっています。

 本書には大和丸のライバル的な存在であった宇和島運輸株式会社の広告(写真④)と「宇和島運輸汽船出帆時間運賃」なども掲載されています。

写真④ 宇和島運輸株式会社の広告(武藤休山編『四国霊場禮讃』、昭和10年、個人蔵)

 広告には「宇和島市新堅町/宇和島運輸株式会社/同社宿毛汽船扱店/同社深浦汽船扱店/同社平城汽船扱店/四国霊場御順拝の御方に対しては大師へ報恩の為め、精々御便利を供します」とあり、宇和島、宿毛、深浦、平城(ひらじょう)に宇和島運輸株式会社の営業所が設けられ、弘法大師への報恩のためサービスを提供することを宣言しています。

 また、「海路お巡りの方は約一里宿毛港より宇和島運輸汽船にて深浦に上陸四十番に参拝後、平城(貝塚港)より宇和島同社汽船に乗船せば夜の間に四十番奥の院に着運賃の低廉と時間の短縮とて便利です(中略)海上一時間毎年三月ヨリ六月マデ巡拜者運賃半額大割引」と記され、各港の時刻が掲載されています。宇和島運輸汽船は四国遍路のシーズンとなる3月~6月までは期間限定で遍路に対して船賃が半額となる大割引キャンペーンを行っています。

 宿毛―宇和島間の航路の歴史を概観すると、明治29年(1896)に南予運輸株式会社が設立されて第一御荘丸、第二御荘丸が就航、同39年(1906)に大阪商船株式会社の義州丸、同40年(1907)に宇和島運輸株式会社の宇和島丸が深浦に入港、大正3年に福山磯太郎経営による大和丸が就航するなど多くの船が運航して激烈な競争を繰り広げていましたが、大正13年(1924)頃に御荘丸が廃業、大阪商船も航路を打ち切りとなり、戦前は大和丸と宇和島丸の時代が続きました(宿毛市史編纂委員会編『宿毛市史』宿毛市教育委員会、1977年)。

 明治以降、南予の沿岸航路で乗客の獲得競争が繰り広げられてきた中で、「大和丸」は大正から戦前にかけて、深浦を拠点とした個人経営の小さな汽船でしたが、遍路をはじめ宇和海沿岸地域の人々の生活の足としてとても大きな貢献をしました。

コーナー展示「フェリー・パイロット 清水千波」のお知らせ

2025年10月23日

令和7年10月23日(木)~令和8年1月22日(木)、常設展示室4において、戦後から昭和後期にかけて、フェリー・パイロット(航空機空輸業操縦士)の先駆けとして航空業界で活躍した清水千波(せんぱ)について紹介します。フェリー・パイロットとは、飛行機を操縦して取引先まで運ぶ仕事です。
 資料の内容は、清水千波の活動に関する写真10点(内パネル1点)と清水千波が描いた色鉛筆画(陸軍戦闘機「疾風(はやて)」他)4点、ホノルルビーチプレス記事(パネル)1点、飛行経路図(内パネル1点)2点、合計17点です。
 清水千波は明治41(1908)年に宇和町卯之町(現西予市)で酒造業を営む清水伴三郎の長男として生まれました。同志社大学経済学部を卒業後、いったん大阪鉄道局に勤務しましたが、昭和12(1937)年に陸軍飛行兵に志願し、岐阜県各務原(かがみはら)の飛行第2戦隊に入隊します。翌年、陸軍飛行第98戦隊に転属し、爆撃機の操縦士として中国から東南アジアにかけて転戦しました。大戦末期にはインド独立運動家チャンドラ・ボーズ等のVIPの輸送や特操(大学生を中心に短期間で操縦士を養成する特別操縦士見習官)の教官を務めた後、東南アジアで終戦を迎えます。
 終戦後、軽飛行機の国内外の空輸に携わり、昭和36年には、同僚の小野貞三郎と2人で米国ウィチタから東京までの空輸を行って日本人初の北大西洋横断飛行を成功させました。また、千波の所属する大和(だいわ)航空株式会社(後に、伊藤忠航空輸送株式会社と改称)が全日本空輸株式会社から委託を受けて操縦士の教育を行った際には、訓練部長を勤めています。
 そして、昭和46年、63歳でフェリー・パイロットとして独立し、太平洋や大西洋間で軽飛行機の空輸を引退までに約40回行いました。昭和49年には、現役最年長のパイロットとして日本航空機操縦士協会から表彰されましたが、それ以降も75歳まで世界中を飛び続けます。その様子は、テレビや新聞、小説等に紹介され、昭和62年、79歳で病没しました。飛行機をこよなく愛し、大空を飛び続けた清水千波の情熱を感じ取っていただけたら幸いです。


写真① 九七式重爆撃機を操縦する清水千波(昭和16年 当館蔵)

写真➁ 教育隊長として学生を指導する清水千波(昭和19年 当館蔵)

写真③ 清水千波画「疾風」(昭和21年 当館蔵)

写真④ 北大西洋横断飛行へ向けて準備をする清水千波と小野貞三郎(昭和36年 当館蔵)

写真⑥ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)

写真⑦ 最年長パイロットの清水千波(昭和51年 当館蔵)