
この写真は、松山市内の個人宅に伝わり愛媛県歴史文化博物館に寄贈された掛軸で、「日本総鎮守 大山積大明神」の文字が見えます。刷り物を軸装したもので、箱書、墨書等が見られないため製作年代は不明ですが、紙質から大正時代から昭和初期頃のものと思われます。(寸法は本紙92.7×52.1㎝)
「日本総鎮守 大山積大明神」は、藤原佐理(ふじわらのすけまさ・さり)が三島社(現今治市大三島町宮浦の大山祇神社)の扁額として書いた言葉として伝えられています。現在でもその扁額は大山祇神社にて保管されています。この資料と大山祇神社の扁額とを比較してみると、扁額を模写し、刷り物としたものと判断できます。
藤原佐理は、天慶7(944)年に生まれ、長徳4(998)年に没しています。平安時代の貴族、名書家で、小野道風、藤原行成とともに三蹟として知られています。
佐理が書いたと伝わる今治市大三島町の大山祇神社の木造扁額については、平安時代の歴史物語『大鏡』巻三「実頼」(愛媛県歴史文化博物館蔵)の中に逸話として次のように書かれています。
長徳元(995)年、佐理が大宰大弐(大宰府の次官)の任を終えての帰路、伊予国の手前で海が荒れ出帆できないで困っていると、夢の中に三島明神が現れて、「実は私があなたを引き止めているのだ。ぜひ私の社の額を書いてほしい」と懇願します。そこで大三島に赴き、神前で額を書いた。このような内容となっています。
ここでは、原文についても紹介しておきます。

『大鏡』巻三 愛媛県歴史文化博物館蔵
〔原文〕
あつとしの少将若男子、佐理大弐、よのてがきの上手、任はててのぼられけるに、いよのくにのまへなるとまりにて、日いみじうあれ、うみのおもてあしくて、風おそろしうふきなどするを、すこしなをりていでんとし給へば、おなじやうにのみなりぬ。
〔意味〕
藤原敦敏(冷泉天皇の関白や円融天皇の摂政をつとめた藤原実頼の子)少将の子で、藤原佐理の大弐(大宰府の次官)は、世に聞こえた書道の名人で、大宰府の任期が終わり(長徳元(995)年のこと)、京に上ろうとして瀬戸内海を渡っていた。伊予国に入る手前の港で、天気がひどく荒れて、海面は波が立ち、風が恐ろしく吹いたりする。少し天候が回復したので船出しようとすると、また前と同じように荒れてしまう。
〔原文〕
かくのみしつつ、日ごろのすぐれば、いとあやしくおぼして、ものとひ給へば、神の御たたりとのみいふに、さるべき事もなし。いかなる事にかと、おそれ給ひける。夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたるおとこのおはして、此日のあれて、日ごろへ給ふは、をのづからへ給ふ事なり。それはよろづのやしろに額のかかりたるに、をのがもとにしもなきがあしければ、かけんと思ふに、なべての手してかかせんがいとわろく侍れば、われにかかせたてまつらむとおもふにより、此おりならではいつかはとて、とどめたくまつりたるなり、とのたまふに、たれとか申ととひ申給へば、このうらのみしまに侍るおきななり、との給ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申とおぼすに、おどろき給ひて、またさらにもいはず。
〔意味〕
このようなことばかり続き、何日も過ぎていくので、佐理は怪しいと思って占ってみると、「神の祟りだ」と言われるが、そのような覚えもない。どういうわけなのだろうかと、恐ろしく思っていたが、夢の中で見たことには、とても気高い様子の男がいて、「このように天気が荒れて、何日もここに過ごすのは、私がそうしているからです。すべての神社に額がかかっているのに、私の所に限ってないのは具合が悪い。額をかけようと思うのに、ありふれた筆跡で書いてもらうのも不都合なので、あなたに書かせようと思ったのです。この機会でなくては、いつがあろうかと思って、船を留めた次第です」と言った。その時に佐理が「あなたは誰なのですか」と尋ねると、「このあたりの浦の三島にいる翁です」と言う。夢の中でも、たいそう恐れ慎んで、話を受けたと思ったその時、目が覚めて、その後のことはいうまでもない。

『大鏡』巻三 愛媛県歴史文化博物館蔵
〔原文〕
さて、いよへわたり給ふに、おほくの日あれつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまにおひかぜふきて、とぶがごとくまうでつき給ひぬ。ゆ度々あみ、いみじうけさいして、きよまはりて、装束して、やがて神の御まへにてかき給ふ。やしろの官どもめしいでてうたせて、よく法のごとくしてかへり給ふに、つゆおそるる事なくて、すゑのふねにいたるまで、たいらかにのぼり給ひにき。
〔意味〕
こうして伊予国に渡ったが、何日もの間荒れ続けたとも思われぬほど、うららかに晴れ渡り、伊予の方に向かって追い風が吹き、飛ぶように船が走って参り着いた。そこで湯をたびたび浴びて、念入りに潔斎して、心身を清め、束帯を着て、そして神の前で額を書いた。神社の宮司たちを召し出して、その額を掲げさせるなど、方式どおりににして帰途についたので、今度は、少しも心配することもなく、数多くのお供の船にいたるまで、無事に京にのぼることができた。
〔原文〕
わがする事を人間の人のほめあがむるだに、けうある事にてこそあれ、まして神の御心にさまでほしくおぼしけんこそ、いかに御心おごりし給ふらむ。また、おほかたこれにぞ日本一の御手のおぼえはこののちぞとり給へりしが、六波羅蜜のがくも、此だいにのかきたまへる。されば、かのみしまの神のがくと此寺のとはおなじ御手に侍り。
〔意味〕
自分のすることを世間でほめたたえられることは稀有なことであるが、ましてや神の御心に、それほどまでに懇望されたということは、どれほど得意になったことだろう。また、ほぼこの一件で、いよいよ日本一の能書家という評判をとることになった。六波羅蜜寺の額も、佐理が書いたものである。そういうわけで、その三島の神社の額と、この寺の額は同じ筆跡である。
この『大鏡』に見える藤原佐理と伊予国三島社の説話は伊予国内にも広く流布しました。例えば今治市大西町紺原の神社祭礼では、船御輿(ふなみこし)と呼ばれる船形屋台が登場し、船上に藤原佐理と三島の神を模した人形を乗せて、地区内を渡御しています。また、上島町弓削明神は、藤原佐理が漂着した港だという伝説があり、「藤原佐理卿漂着之浜」と刻まれた石碑が建っています。地域の伝承・伝説として、この説話は今に伝わっているのです。