特別展「戦国乱世の伊予と城」まもなく開幕

2020年9月18日

愛媛県歴史文化博物館では、9月19日(土)から11月23日(月・祝)まで、特別展「戦国乱世の伊予と城 -国史跡 能島城・湯築城・河後森城の世界-」を開催します。

今年度は、新型コロナウィルスの影響で年度当初には開催自体が不安視される状況でしたが、おかげさまでなんとか開催にこぎつけられそうです。資料の列品はほぼ終え、照明の調整ほか開幕間近の最終段階に入っています。

東予・中予・南予それぞれに所在する国史跡の戦国時代の3城(能島城、湯築城、河後森城)にスポットをあて、3城の関係施設・機関などから関係する歴史資料・考古資料をお借りして当館で一堂に会し、三者三様ともいえる城、城主、取り巻く歴史などを紹介する展示になります。

東予の海に位置する海賊衆能島村上氏の本拠能島城、中予の平野に位置する伊予守護河野氏の本拠湯築城、南予の山間に位置する伊予・土佐国境のかなめの河後森城は、それぞれ異なる地域性の中で独自の歴史を積み重ねてきました。この3城に目を向けることで、地域性豊かな伊予の歴史を見直すきっかけになるかもしれません。

今回の展示は、愛媛県内に遺る地域資料を中心に構成しているので、みなさんの身近な歴史に触れることができるかもしれません。
ぜひ、ご来館ください。

「戦国乱世の伊予と城」
会期 2020年9月19日(土)~11月23日(月・祝)
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テーマ展「戦後75年 伝えたい10代の記憶」開幕

2020年9月12日

9月12日(土)、テーマ展「戦後75年 伝えたい10代の記憶」が開幕しました。本展は、戦時中に10代の多感な時期を生きた若者たちの学校生活・予科練生活・空襲体験を通して、戦争の悲惨さと平和の尊さを考えようと企画しました。

展示では4人の方を取り上げています。日中戦争前後、弓道の授業や勤労作業が取り入れられ、戦時色がしのびよってきた女学生、昭和19(1944)年から通年動員となり、卒業式も動員先の工場で行われた中学生、松山海軍航空隊で2度の空襲に遭い、長野県で特攻要員として訓練中に終戦を迎えた予科練生、昭和20年5月10日、宇和島の初空襲で隣家に爆弾が直撃し、悲惨な光景を目にした小学6年生です。

前半のお2人はこれまでに寄贈いただいた資料の整理を通じて、後半のお2人は聞き取り調査の成果をもとに展示を構成しました。初の試みとして聞き取り調査を展示で放映するとともに、パンフレットも作成しました。日記・日誌・アルバムなどの実物資料に加え、映像やパンフレットもあわせてご覧ください。

戦後75年。本展を通じて10代の置かれていた戦時下の状況をご覧いただくとともに、戦争体験者から直接当時のお話をお伺いする機会が少なくなる中で、今後戦争体験をどのように後世に伝えていくか、あらためて考える機会になれば幸いです。

※テーマ展「伊予市高見Ⅰ遺跡とその時代」と同時開催です。ぜひご来館ください。

展示室入口
展示室内1
展示室内2
聞き取り調査映像コーナー

令和2年度 博物館実習始まる

2020年8月19日
学芸員から展示の説明を受ける実習生
資料の梱包を体験する実習生

                           

 8月18日(火)から23日(日)までの日程で博物館実習が始まりました。博物館実習は、学芸員資格を取得するために必要な単位であり、博物館において実践的な資料整理等を行います。今回は愛媛大学の学生を中心に11名が参加されています。当初、新型コロナウイルスの影響で開催が危ぶまれましたが、マスクの着用、毎朝の検温、2班体制、そのほか三密を防ぐ様々対策を講じて開催の運びとなりました。

 今日は博物館実習の2日目。歴史資料と民俗資料についての実習です。歴史資料では、掛け軸や巻物などの扱い方、資料の梱包などを体験しました。民俗資料では、展示室をまわりながら温湿度や照度など展示環境について学びました。今後は講座やワークショップの対応なども行う予定です。

 猛暑が続いていますが、実習生のみなさん頑張ってください。

三蹟・藤原佐理と伊予国三島社

2020年7月26日

この写真は、松山市内の個人宅に伝わり愛媛県歴史文化博物館に寄贈された掛軸で、「日本総鎮守 大山積大明神」の文字が見えます。刷り物を軸装したもので、箱書、墨書等が見られないため製作年代は不明ですが、紙質から大正時代から昭和初期頃のものと思われます。(寸法は本紙92.7×52.1㎝)

「日本総鎮守 大山積大明神」は、藤原佐理(ふじわらのすけまさ・さり)が三島社(現今治市大三島町宮浦の大山祇神社)の扁額として書いた言葉として伝えられています。現在でもその扁額は大山祇神社にて保管されています。この資料と大山祇神社の扁額とを比較してみると、扁額を模写し、刷り物としたものと判断できます。

藤原佐理は、天慶7(944)年に生まれ、長徳4(998)年に没しています。平安時代の貴族、名書家で、小野道風、藤原行成とともに三蹟として知られています。

佐理が書いたと伝わる今治市大三島町の大山祇神社の木造扁額については、平安時代の歴史物語『大鏡』巻三「実頼」(愛媛県歴史文化博物館蔵)の中に逸話として次のように書かれています。

長徳元(995)年、佐理が大宰大弐(大宰府の次官)の任を終えての帰路、伊予国の手前で海が荒れ出帆できないで困っていると、夢の中に三島明神が現れて、「実は私があなたを引き止めているのだ。ぜひ私の社の額を書いてほしい」と懇願します。そこで大三島に赴き、神前で額を書いた。このような内容となっています。

ここでは、原文についても紹介しておきます。

『大鏡』巻三 愛媛県歴史文化博物館蔵

〔原文〕
あつとしの少将若男子、佐理大弐、よのてがきの上手、任はててのぼられけるに、いよのくにのまへなるとまりにて、日いみじうあれ、うみのおもてあしくて、風おそろしうふきなどするを、すこしなをりていでんとし給へば、おなじやうにのみなりぬ。

〔意味〕
藤原敦敏(冷泉天皇の関白や円融天皇の摂政をつとめた藤原実頼の子)少将の子で、藤原佐理の大弐(大宰府の次官)は、世に聞こえた書道の名人で、大宰府の任期が終わり(長徳元(995)年のこと)、京に上ろうとして瀬戸内海を渡っていた。伊予国に入る手前の港で、天気がひどく荒れて、海面は波が立ち、風が恐ろしく吹いたりする。少し天候が回復したので船出しようとすると、また前と同じように荒れてしまう。

〔原文〕
かくのみしつつ、日ごろのすぐれば、いとあやしくおぼして、ものとひ給へば、神の御たたりとのみいふに、さるべき事もなし。いかなる事にかと、おそれ給ひける。夢に見え給ひけるやう、いみじうけだかきさましたるおとこのおはして、此日のあれて、日ごろへ給ふは、をのづからへ給ふ事なり。それはよろづのやしろに額のかかりたるに、をのがもとにしもなきがあしければ、かけんと思ふに、なべての手してかかせんがいとわろく侍れば、われにかかせたてまつらむとおもふにより、此おりならではいつかはとて、とどめたくまつりたるなり、とのたまふに、たれとか申ととひ申給へば、このうらのみしまに侍るおきななり、との給ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申とおぼすに、おどろき給ひて、またさらにもいはず。

〔意味〕
このようなことばかり続き、何日も過ぎていくので、佐理は怪しいと思って占ってみると、「神の祟りだ」と言われるが、そのような覚えもない。どういうわけなのだろうかと、恐ろしく思っていたが、夢の中で見たことには、とても気高い様子の男がいて、「このように天気が荒れて、何日もここに過ごすのは、私がそうしているからです。すべての神社に額がかかっているのに、私の所に限ってないのは具合が悪い。額をかけようと思うのに、ありふれた筆跡で書いてもらうのも不都合なので、あなたに書かせようと思ったのです。この機会でなくては、いつがあろうかと思って、船を留めた次第です」と言った。その時に佐理が「あなたは誰なのですか」と尋ねると、「このあたりの浦の三島にいる翁です」と言う。夢の中でも、たいそう恐れ慎んで、話を受けたと思ったその時、目が覚めて、その後のことはいうまでもない。

『大鏡』巻三 愛媛県歴史文化博物館蔵

〔原文〕
さて、いよへわたり給ふに、おほくの日あれつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまにおひかぜふきて、とぶがごとくまうでつき給ひぬ。ゆ度々あみ、いみじうけさいして、きよまはりて、装束して、やがて神の御まへにてかき給ふ。やしろの官どもめしいでてうたせて、よく法のごとくしてかへり給ふに、つゆおそるる事なくて、すゑのふねにいたるまで、たいらかにのぼり給ひにき。

〔意味〕
こうして伊予国に渡ったが、何日もの間荒れ続けたとも思われぬほど、うららかに晴れ渡り、伊予の方に向かって追い風が吹き、飛ぶように船が走って参り着いた。そこで湯をたびたび浴びて、念入りに潔斎して、心身を清め、束帯を着て、そして神の前で額を書いた。神社の宮司たちを召し出して、その額を掲げさせるなど、方式どおりににして帰途についたので、今度は、少しも心配することもなく、数多くのお供の船にいたるまで、無事に京にのぼることができた。

〔原文〕
わがする事を人間の人のほめあがむるだに、けうある事にてこそあれ、まして神の御心にさまでほしくおぼしけんこそ、いかに御心おごりし給ふらむ。また、おほかたこれにぞ日本一の御手のおぼえはこののちぞとり給へりしが、六波羅蜜のがくも、此だいにのかきたまへる。されば、かのみしまの神のがくと此寺のとはおなじ御手に侍り。

〔意味〕
自分のすることを世間でほめたたえられることは稀有なことであるが、ましてや神の御心に、それほどまでに懇望されたということは、どれほど得意になったことだろう。また、ほぼこの一件で、いよいよ日本一の能書家という評判をとることになった。六波羅蜜寺の額も、佐理が書いたものである。そういうわけで、その三島の神社の額と、この寺の額は同じ筆跡である。

この『大鏡』に見える藤原佐理と伊予国三島社の説話は伊予国内にも広く流布しました。例えば今治市大西町紺原の神社祭礼では、船御輿(ふなみこし)と呼ばれる船形屋台が登場し、船上に藤原佐理と三島の神を模した人形を乗せて、地区内を渡御しています。また、上島町弓削明神は、藤原佐理が漂着した港だという伝説があり、「藤原佐理卿漂着之浜」と刻まれた石碑が建っています。地域の伝承・伝説として、この説話は今に伝わっているのです。

大型器台安定台の製作

2020年7月24日

先日、数日間をかけて、松山市北井門遺跡2次調査出土大型器台(県指定有形文化財)2点の安定台製作のための型取り作業が当館で行われましたので、その過程をご紹介します。

大型器台
北井門遺跡出土大型器台

この資料は県指定有形文化財になってから当館にて保管することになりました。今後、より良い状態で保管・展示するために、今回安定台(展示台)を製作することにしました。

作業風景-1
作業風景-1

まず、上下を逆にすることから始め、慎重に大型器台を上下、逆さにして、木枠に固定しました。(実際、大型器台が逆にしても自立するとは思っていませんでしたが、無事に逆立ち状態になりました。)この状態で、型取り作業のために、金属の箔を丁寧に貼り付けられました。この作業は、土器の表面の安全に保つために行われるものです。

作業風景-2
作業風景-2

翌日は、この面にシリコン樹脂を入れるためのコーティング作業が行われました。樹脂がこぼれないようにしっかりとコーティングがされていきます。そして、シリコン樹脂の塗布作業が行われました。

作業風景-4
作業風景-4
作業風景-5
作業風景-5
作業風景-6
作業風景-6

数日後の作業は、シリコン樹脂の上に石膏を流し込み、型を取る作業です。シリコン樹脂に金属製の箔をまた、貼り付ける細かい作業から始まりです。そして、その上に石膏がこぼれないように粘土で枠が作られました。さて、これからが今回のメインの作業で石膏の流し込みです。特別な方法で石膏の強度を維持しながら、石膏が入れられていきます。

そして、石膏を外す瞬間が来ました。この職人さんのお話によると、石膏を外す瞬間が最もハラハラし、前の晩は眠れないこともあるとのことでした。そして、無事、石膏の型が外れ、シリコン樹脂に付いた金属製箔も丁寧に除去されます。そして、シリコン樹脂も外され、型取り作業は無事終了しました。

作業風景-7
作業風景-7
作業風景-8
作業風景-8

しかし、ここから同僚学芸員と私の緊張の作業が始まりました。逆さまになった大型器台を元の状態に戻す作業です。緊張した空気が流れる中、作業は順調に進み、大型器台は収蔵庫内の元の場所に収蔵することができました。また、型取りされたシリコン樹脂と石膏は、工場に運ばれていきました。

作業風景-9
倒立した大型器台
作業風景-10
元の状態の大型器台
作業風景-11
完成した型

さて、この型取りを行った安定台は工場での作業の後、年内には完成予定です。どんな形の安定台が出来上がってくるでしょうか?乞うご期待!

承和の変と橘逸勢

2020年7月17日

橘逸勢(左)と空海(右)

愛媛県歴史文化博物館で展示中の和紙彫塑「密●空と海―弘法大師空海の世界―」。空海に関連する様々な人物も登場しています。この写真は橘逸勢(たちばなのはやなり・左)。唐長安で空海(右)と対面した場面です。

逸勢は橘奈良麻呂の孫で、書家として有名であり、空海、嵯峨天皇とともに三筆と称されています。延暦23(804)年に、最澄や空海らとともに遣唐使船で唐に渡ります。逸勢は語学が苦手で、唐では学校での勉学にはついていけず、その代わりに琴や書を学び、帰国しました。

続日本後紀巻六(愛媛県歴史文化博物館蔵)

逸勢は帰国後、従五位下まで登りつめましたが、承和9(842)年、嵯峨上皇が没した直後に謀反を企てたとの嫌疑で、伴健岑とともに捕まりました(承和の変)。伊豆国へ流罪となり、その移動の途中で亡くなりました。このことは『続日本後紀』巻六に詳しく記されています。

当時、逸勢は無実の罪を背負って亡くなったことで怨霊となったと考えられており、貞観5(863)年に神泉苑で行われた御霊会では早良親王や伊予親王とともにに祀られています。

なお、本日7月17日が、承和の変で橘逸勢と伴健岑が逮捕された日にあたります。

水損資料レスキューの手引き-被災した古文書・冊子・写真等の取り扱い-

2020年7月10日

いまからちょうど2年前。愛媛県歴史文化博物館では、平成30年7月の西日本豪雨の発生直後から、洪水によって水損した歴史資料等の保全、対処方法に関するご相談、お問い合わせが数多く寄せられました。そして愛媛資料ネット(2001年芸予地震を機に県内の歴史資料等の保全のため結成されたネットワーク)、県、市町教育委員会、博物館等と協力しながら資料保全の活動を進め、その作業は現在も継続しています。

この西日本豪雨後の愛媛県歴史文化博物館の活動については、甲斐未希子学芸員が「平成30年7月豪雨における水損資料レスキュー-愛媛県歴史文化博物館での活動について-」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第24号、平成31年3月発行)を執筆、紹介しています。

この『研究紀要』での報告の中に「水損資料レスキューの手引き」が掲載されています(48~61頁)。古文書、冊子、アルバム、写真など資料が被災した場合の初動対応や、使用する道具、その後の処置方法などがまとめられていますので、ここに再掲します。(jpegファイル・14点)

※この「水損資料レスキューの手引き」に関するお問い合わせ先は次のとおりです。

愛媛県歴史文化博物館 学芸課(担当:大本)0894-62-6222

平安時代の疫病と御霊会

2020年7月8日

『日本三代実録』巻七の御霊会記事(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)

日本古代の疫病に関する史料を眺めてみると、平安時代には頻繁に疫病が発生しており、特に9世紀後半の貞観年間(859~876年)頃に流行の記録を数多く確認することができます。延喜元(901)年に成立した朝廷が編纂した国史『日本三代実録』によると、貞観3(861)年8月には赤痢が流行して、多くの子どもが亡くなっており、貞観5(863)年正月には「咳逆」(がいぎゃく・インフルエンザや新型コロナウィルスのようにせきを伴う病気)という病が平安京だけではなく全国的に流行し、多くの死者が出ています。この「咳逆」のために朝廷の多くの儀式は中止となりましたが、徐々に収束し、3月4日には各地の神社に奉賽(疫病が収束した感謝)の幣帛が供えられています。

当時、疫病の原因は、非業の死を遂げた「御霊(ごりょう)」によるものと考えられていました。『日本三代実録』貞観5年5月20日条には、御霊として、崇道天皇(早良親王。桓武天皇の時代に藤原種継暗殺の首謀者とされた)、伊予親王(桓武天皇の皇子。大同2(807)年に謀反の疑いで亡くなる)、橘逸勢(承和9(842)年におこった承和の変に協力したとされ東国に配流途中で亡くなる)など6名の名前が挙げられ、「近代以来、疫病繁発、死亡甚衆、天下以為、此災、御霊之所生也」とあり、近年、疫病が頻発して死亡する人が多くなったが、この災いは怨みを残したまま亡くなった「御霊」によるものと明記されています。

この御霊を鎮めるため、5月20日に「御霊会(ごりょうえ)」が神泉苑(大内裏の東南に造営された庭園)にて行われました。『日本三代実録』(貞観5年5月20日条)にはその様子が次のように記されています。

『日本三代実録』巻七の御霊会記事の続き(江戸時代刊・愛媛県歴史文化博物館蔵)

廿日壬午、於神泉苑修御霊会。勅遣左近衛中将従四位下藤原朝臣基経、右近衛権中将従四位下兼行内蔵頭藤原朝臣常行等、監会事、王公卿士起集共観。霊座六前設施几筵、盛陳花果、恭敬薫修。延律師慧達為講師、演説金光明経一部、般若心経六巻、命雅楽寮伶人作楽。以 帝近侍児童及良家稚子為舞人、大唐高麗更出而舞、雑伎散楽競尽其能。此日宣旨、開苑四門、聴都邑人出入縦観。所謂御霊者、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人及観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂等是也。並坐事被誅、寃魂成厲。近代以来、疫病繁発、死亡甚衆。天下以為、此災、御霊之所生也。(中略)今茲春初咳逆成疫、百姓多斃、朝廷為祈、至是乃修此会。

【現代語訳】
5月20日に神泉苑で御霊会が修された。朝廷は、左近衛中将で従四位下の藤原基経と右近衛中将で同じく従四位下の藤原常行らを遣わし、会の事を監修した。天皇や皇族、公卿たちも共に観覧した。6名の御霊の霊座の前には几と莚が設けられ、花果を盛って、うやうやしく供養が行われた。律師の慧達が講師となり、金光明経一部と般若心経六巻を読経し、雅楽寮の楽人が演奏した。帝の近侍の児童と良家の稚児に舞を舞わせた。唐、高麗の人が出演して、雑伎や散楽を競った。この日は、清和天皇の命により、神泉苑の四門が開放され、都邑の人々は出入りし、自由に観ることができた。いわゆる御霊とは、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘逸勢、文室宮田麻呂らのことである。これらの無実の罪を着せられて亡くなった者の霊が疫病となった。近年、疫病が流行し、死亡する人が多くなり、この災いは御霊によるものと人々は考えた。(中略)この年の春の初め、咳逆の病が流行し、多くの庶民が亡くなった。朝廷は祈るためにこの御霊会を修した。

さて、この御霊会の運営を担っていたのは、当時まだ20代後半で従四位下であり参議にも列していない若き藤原基経と、その従兄弟で同い年の藤原常行でした。いずれも藤原北家の出であり、このとき13歳だった清和天皇のもと、この2人は政権の中枢に上り詰めていきます。

御霊会が行われた神泉苑は、清和天皇の命により、庶民にも開放されました。諸王や公卿が列席する中で、神泉苑が庶民に開放されるというのは異例中の異例といえます。伝染病が蔓延している最中に開放されることはまず考えられないため、その5月には伝染病は落ち着いていたと考えられます。年初の大流行による庶民の不安や不満を少しでも和らげるためにとった措置だと思われます。先例もない臨時的で、しかも貴族から庶民までが参加する大規模な法会を、若い基経、常行が現場監督を任されて、無事開催できたことで、2人の存在感は朝廷の内外で大きくなったと思われます。

この年の伝染病「咳逆」は収まりましたが、貞観14(872)年には京で再び大流行し多くの死者が出る事態となります。この時は病が外国からもたらされたと考えられ、内裏の外郭門である建礼門前での大祓など様々な儀礼、修法が行われました。疫病だけではありません。貞観6~8年の富士山の大噴火や貞観11年の陸奥国で発生した1000年に一度といわれる大地震など、人々の不安を募らせる出来事が次々と起こっていきます。

そこで、貞観11(869)年6月14日には神泉苑に当時の国の数である66本の鉾を造って立て、祇園社(現在の八坂神社)から神泉苑まで神輿を送りました。これを祇園御霊会といい、現在の京都・祇園祭の起源ともいわれています。

このように、平安時代には神祇、仏教により疫病を退散し、御霊会のような法会、祭りによって悪いものを祓う、鎮めることが定着し、庶民を巻き込みながら芸能等も盛んになっていきます。これが後世の神社、寺院の祭りや芸能の形態にも大きな影響を与えていくことにもなりました。

ちなみに、貞観5年の御霊会が催されたのは5月20日でしたが、現代の新暦(太陽暦)になおすと7月10日。明後日がその日にあたります。いまから1157年前の出来事でした。

中国四国名所旧跡図64 阿波国雲辺寺

2020年6月27日
阿波国雲辺寺


65番の三角寺(愛媛県四国中央市)から雲辺寺(徳島県三好市)に向かう遍路道は、距離にして18㎞余りで、徳島藩の境目番所があった佐野(徳島県三好市)から登りが続く。承応2(1653)年に遍路をおこなった澄禅の「四国遍路日記」には、佐野から雲辺寺までは50町(約5㎞)で、「三角寺ノ坂ヲ三続タル程ノ大坂」とあり、三角寺への山道を3つ連続させたような難所に感じていたことがうかがえる。また、登って山頂にいたると一面雲で、そうした浮雲が山よりも下の方に見えたともある。西丈の絵でも、折り重なる山を曲がりくねりながら登り切った先に雲辺寺があり、山の周囲には湧き立つように浮かぶ雲が表現されている。澄禅が文字で記した雲辺寺道の様子が、西丈の絵により見事に再現されている。

舟形丁石(中国四国名所旧跡図)

それから細かい描写になるが、画面の中央、遍路道のすぐ脇に小さな楕円形のようなものが描かれていることが気になる。調べてみると、この佐野番所から雲辺寺までの経路には、今でも25基もの舟形丁石が残っていることがわかった。舟形丁石とは、舟の形をした石に地蔵菩薩を刻み、目的地に向かい一丁ごとに距離を減らしていくように、路傍に配置されていたもので、遍路道を丹念に歩き調査した梅村武氏のフィールドノート(愛媛県歴史文化博物館蔵)にも雲辺寺道の舟形丁石が記録されている。

雲辺寺道の舟形丁石(梅村武氏のフィールドノート)

雲辺寺口のバス停付近から、遍路道沿いに舟形丁石が1丁ごとに整備されていた。その知識をもって西丈の絵を見ると、大きさや形から舟形丁石であることは明らかである。舟形丁石が続く遍路道の印象が強く西丈の頭に焼きついたため、画面の真ん中の目につくところに舟形丁石の姿を描き込んだのではなかろうか。

画帳は雲辺寺で終わっていて、讃岐に再び足を踏み入れてからの絵は遺されていない。讃岐路は平坦で、おだやかな風景が続き、西丈の絵心をくすぐるような要素に乏しい。山に深く分け入る難所を描いた本図は、四国の多彩な景観を描いた「中国四国名所旧跡図」の掉尾(ちょうび)を飾るにふさわしい一枚といえる。(完)

中国四国名所旧跡図63 三角寺奥院金光山仙龍寺

2020年6月21日


伊予の東部には60番横峰寺(愛媛県西条市)から65番三角寺(愛媛県四国中央市)まで6つの札所があったが、西丈はいずれも描いていない。西丈が絵筆を執ったのは、古くから多くの遍路が参詣した三角寺の奥院である仙龍寺(愛媛県四国中央市)である。その絵をまず見てみよう。

与州三角寺奥院金光山仙龍寺図

大きな岩が壁のようにそびえ立つ独特な景観の中に大伽藍が営まれている。右側の切り立った崖の上に立つ横長の楼閣のような建物が通夜堂。通夜堂の左を滝のように水が勢いよく流れ落ちている。左の崖から通夜堂に向かって屋根付き橋が伸びている。通夜堂から右上に上っていくと阿弥陀堂がある。また、屋根付き橋の左手前から急斜面を上ったところには、仙人堂の建物が見える。通夜堂の裏の少し高いところにある建物が、本尊の弘法大師を祀っている本堂であろうか。

仙龍寺(愛媛面影)

『愛媛面影』の挿絵では、左に通夜堂が描かれているが、建物の下側は柱を立て並べ、貫(ぬき)を縦横に差し通した懸造りになっている。それに対して、西丈は通夜堂が急峻な崖の上に直接建っているかのように描いてしまっている。細部を省略したアバウトな絵というほかないが、それでいて文政2(1819)年に訪れた土佐の遍路新井頼助が「寺ハ山岩壁ノことくなる所ニ建て、人界ノ及ぶ所ニあらす」と記す仙龍寺の雰囲気を捉えているのだから恐れ入る。

西丈が描く通夜堂は覗き窓が開いていて、多くの遍路が訪れていることがわかる。筑前の遍路、佐治家の弘化2(1845)年の「四国日記」には、高野山が女人禁制なのに対して、仙龍寺は女性高野といわれており、女性の遍路が仙龍寺に参ると高野山に参詣したのも同然とする観念があったことが記されている。三角寺から仙龍寺の道は「きひしい急坂」という難所であったが、そうした観念もあって参詣する遍路は多く、そのまま通夜堂に泊まる者も多かった。仙龍寺の台所は何百人が通夜しても差し支えがないほど広く、大勢の世話人が飯を炊くほか風呂もあって、この夜も700~800人もの人が泊まっていたと「四国日記」は記している。西丈はこの珍しい山中の巨大宿坊の姿を、窓を通じて表現しているのである。

佐治家が訪れてから70年余り後の大正6(1917)年に仙龍寺を訪れた人物がいる。知多四国霊場31番札所利正院(愛知県南知多町)の住職夫妻、内藤真覚と「てう」である。自転車で四国を巡った二人は、7月19日に仙龍寺で宿泊。その様子は真覚による「四国順拝日記」に詳細に記されている。最後に真覚が目にした仙龍寺について、簡略にして紹介する。

仙龍寺の入口には屋形橋と幽邃(ゆうすい)の滝があり、まさに仙境ともいえる。泊まるには、寝るだけなら2銭、まかない付きだと35銭になる。35銭払って8畳1間に泊まる。この寺は深山の厳しくそびえ立つところに建つ。三階建ての25間の桁行で、大師が修行した岩窟のある修護摩の岩を取り込んで建物がある。修護摩のところには、梯子を4段ばかり上って拝むようになっている。そのかたわらには大師堂があり、そこで修法がおこなわれている。夜9時頃に5人ほどが出仕して護摩を焚く。

廊下は長く、夜になるとガス灯がところどころに点火している。風呂は1度に20~30人は入ることができる。山から大きい丸木の樋で水を引いているが、水は豊富である。炊事場は名古屋東別院に似ている。大師が御入定した3月20日の夜には1000人もの参籠者があるという。夕膳の時、小僧に酒を乞うと、いけませんといわれる。そこで夕食が終ってから、角に1軒ある店屋に行って酒を飲む。うどんの看板が出ていたので、頼むと干うどんの粗末なもの。

滝があるので夜は涼しく、蚊は少ないが、ブンブン飛ぶ1,2匹が気になって仕方がない。妻の「てう」を安眠させようと帽子で夜通しあおぐが、真覚は眠れないまま蚊責めの一夜。翌日は晴暑。昨日の参篭人は約30人で、遍路のほかに近隣の参詣人も混じっていた。みな挨拶することもなく、出立していく。昨夜の店屋では、酒1本2合入が13銭、うどんが2銭、ジヤガイモとソラ豆が1皿2銭、天ぷらと間違えて頼んだジヤガイモの輪切り煮とキュウリモミが4銭であった。旧暦の3月頃には1000人以上の参篭人が来るが、おかずはこの店屋が1皿2銭で売って間に合わせるとのこと。遍路襦袢を着た人も一杯飲みに5,6人は来ていた。

中国四国名所旧跡図の解説は こちら

当館は6月22日(月)から24日(水)まで、館内くん蒸作業のため休館します。25日(木)からの再開になります。