政治思想家の橋本徹馬(はしもと・てつま)が昭和25年(1950)に発行した『四国遍路記』は、戦時中の昭和16年(1941)に行った四国遍路の日記です。そのはしがきに「無理な戦争の為めに、祖国が地獄道を驀進して行く惨状を眺めながら、最早施す手段も尽きて、悲痛な気持に浸りながら遂行した遍路の日記であるから、その心して読まれたい。(中略)誤れる戦争に伴ふ悲劇の深刻なるを知るべしである。」とあるように、本書は普通の案内記類とは性格が異なり、誤った戦争によって日本が悪い状況に突き進むなかで、悲痛な気持ちで四国遍路を行った時の記録であり、戦争によって生じた悲劇の深刻さについて言及されています。
一例として、四国八十八箇所霊場第45番岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に向かう道中の記事「戦死者の墓前にて」を紹介します。
「岩屋橋を渡つて行くと、幾丁もの間一軒の人家もない野中の道である。ふと見れば右手の小高い岡に戦死者の墓がある。僕は其岡の上に昇り、墓の前にひざまづいて稍暫らく黙祷した。『…君は今度の支那事変で戦死されたか…多くの人々は軍人の出征に出逢ふ毎に、万歳々々と叫んで送るが、僕はいつも静かに黙祷して、諸君のうちの只一人も戦死をせぬうちに、僕が最善の努力をして、平和を来たしますよと心に誓つた…然るに其誓ひが空しく、今は日米戦争の危機さへ迫り、其上僕自ら憲兵隊の憎む所となつて、郷里に隠退を命ぜられ、最早時局収拾の途もなくなつて終ふた。そうして君のような壮丁が、あとからあとから続々と戦死をして行く…君には親もあつたであらう。最愛の妻もあつたであらう。或は一人か二人の子供もあつたか。それらの者達が君の無事帰郷を祈つた甲斐もなく、君は戦死をし、遺骨となつて帰つて来た。君の不幸は云ふまでもないが、更に君の親は、君の妻は、君の子は、君の死によつて生涯の不幸を味はねばならぬのである…君よ許せ…君を戦死せしめた僕の微力を許せ…』 涙がとめどもなく頬をつとふた。犬の子一匹通らぬ淋しい道に再びもどつて、人家のある所にたどりつき、そこから余り遠からぬ岩屋寺に達した。」
この記事からは、四国山脈の山深い場所に位置する岩屋寺の麓の小さな村においても、戦争の影響で出征兵士の尊い命と家族の日常生活が奪われ、地域社会に深い傷跡を残していること、英霊に哀悼をもって黙祷を捧げたこと、なおも戦争を止めることができない自身の非力さを懺悔していることなどが読み取れ、戦争がもたらす悲劇が語られています。
舞台となった岩屋寺麓の岩屋橋周辺の景観は、岩屋寺参拝記念絵葉書の中に収録されています(写真①②)。橋本が渡った直瀬川に架けられた岩屋橋は、欄干が竹で作られていました。当時、久万から岩屋橋近くの竹谷までは乗合自動車が運行されていました(約1時間、90銭)。


橋本徹馬は本書の「著者略歴」等によると、明治23年(1890)に愛媛県西条市生まれ。明治40年(1907)に早稲田大学政治経済科に入学、中退後に大隈重信らの後援を得て立憲青年党を結成し、雑誌「世界之日本」を発行。大正13年(1924)に思想団体「紫雲荘」を設立。昭和7年(1932)に軍部が強行する電力国営に反対。昭和12年(1937)に発生した支那事変(日中戦争)の速やかな解決に努力します。昭和15年(1940)に日独伊三国同盟の締結後に、急速に硬化していく米英との関係改善に努めますが、翌16年(1941)年、東京憲兵隊に拘束されます。その後、米英大使館への出入り禁止、「紫雲荘」の解散、郷里の愛媛県に隠退すること等の条件で釈放された橋本は、郷里に戻って四国遍路を行って本書を著します。戦後、紫雲荘を再建して政治機関紙「紫雲」を発表、その一方で僧侶となり、昭和46年(1971)には埼玉県秩父市に紫雲山地蔵寺を創建して、「水子供養」運動を提唱し全国に運動を広めました。平成2年(1990)没。
戦前の橋本の経歴を見ると、政治思想家として日中戦争の早期解決や対米開戦の回避などを目標に活動を行っていたことが垣間見えます。そうした観点から前述の記事「戦死者の墓前にて」を振り返ると、戦争の悲劇さについて心情を吐露したものと推察されます。
ジャーナリスト、政治家、教育者で後に第55代の内閣総理大臣となった石橋湛山(いしばしたんざん。1884~1973年)は昭和25年に「四国遍路記推薦の辞」と題して、次のように本書を推薦しています。
「この遍路記が、単なる旅行家の旅行記でないことである。著者橋本君は太平洋戦争中、祖国に献身せんとして、行動の自由を奪われた。著者の憂国の至誠はここに遍路の形をとり、国家生民の幸福のため、熱き祈願の旅を続けしめた」。
戦前の四国遍路では戦争の影響によって、出征兵士の武運長久や英霊の冥福を願う遍路の姿が見られる中で、橋本徹馬のように行動の自由が制限され、郷里で遍路の身となり、戦争がもたらす悲劇を痛感しながら、国家と国民の幸福を願って四国霊場巡拝を行なったという事例は注目に値します。今後も戦争が四国遍路に及ぼした影響について調べてみたいと思います。































