香川県善通寺市にある四国八十八ヶ所箇所霊場の第76番鶏足山金倉寺(けいそくざん・こんぞうじ)は、平安時代の僧で空海の甥にあたる智証大師(ちしょうだいし)の御誕生所として名高く、また、明治期の軍人・乃木希典(のぎ・まれすけ)が寓居した寺院として知られています。
昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)で金倉寺を確認すると、四国の上陸港である丸亀、多度津の両港、弘法大師の誕生所とされる第75番善通寺、金毘羅参詣の金刀比羅宮などの著名寺社の近郊に位置します。最寄り駅は省線「金倉寺」駅(JR四国の土讃線「金蔵寺」駅)で、寺名が駅名となっています(写真①)。本図には記載されていませんが、琴平参宮電鉄丸亀線にも金蔵寺駅が設置され(昭和38年廃止)、交通の便が良い札所といえます。

智証大師(円珍。814~891年)は比叡山延暦寺第5代座主(ざす)で、長等山園城寺(三井寺、滋賀県大津市)を総本山とする天台寺門宗(てんだいじもんしゅう。寺門派)の宗祖です。そのため金倉寺は四国八十八箇所霊場の中では数少ない天台寺門宗の札所寺院です。縁起によると、宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけのどうぜん)が等身の如意輪観音像を刻み、一堂を建立したことに始まり、当時は「道善寺」と号しました。唐より帰国した智証大師は道善寺に滞在して、唐の青龍寺(せいりゅうじ)を模範に伽藍を造営、本尊の薬師如来を彫像して安置、また、訶利帝母(かりていも)神像を刻んで訶利帝堂を建立しました。延長6年(928)、醍醐天皇の勅により、地名の「金倉郷」から「金倉寺」に改めたと伝えられます。訶梨帝母神像は「鬼子母神」(きしもじん)とも呼ばれ、安産や子育ての守護神として古くから信仰されています。
こうした金倉寺の歴史に近代以降、新たな見どころが加わります。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「乃木将軍善通寺第十一師団長在任の時は当寺にいられましたので、将軍の銅像や、将軍妻返しの松等があります」と記されているように、乃木将軍ゆかりの札所として案内記類に紹介されるようになります。同年の『四国霊蹟写真大観』には境内の名所として「将軍妻返しの松」が写真で掲載されています(写真②)。

乃木希典は日清戦争では歩兵第一旅団長として旅順を攻略、日露戦争における旅順攻囲戦を第3軍司令官として指揮したことで知られ、人々から「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛されます。日露戦争後、学習院院長となり、昭和天皇(当時は皇太子)の教育係を務めました。明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日に妻・静子と共に殉死したことは日本中に衝撃を与えました(写真③)。

乃木将軍「妻返しの松」について、昭和39年(1964)の西端さかえ著『四国八十八札所遍路記』によると、「本堂に進む途中に『乃木将軍妻返しの松』と立札のある松がある。明治三十一年善通寺に第十一師団が創設され、最初の師団長として着任したのが乃木将軍であった。この寺の客殿に仮寓していたが、その年の大晦日の夕暮れ、静子夫人が東京から突然たずねてきた。別当が取次ぐと将軍は許しもえないで来たことに立腹し『帰れ』といってあわない。夫人は思案にくれて、いつまでも身をもたせていた松がこの松であった。(中略)住職はふたたび会われることをすすめ、翌元旦に副官が夫人を迎えにいって将軍にお会わせした。夫人は、二人の子息の家庭教師の人選について相談に来られたのであった。将軍は客殿の四室をつかい、別に馬四頭も飼っていた。善通寺に四年間いられたが、朝夕の食事代は二十銭であった。(中略)大師堂の南側に、大正十年に建立した乃木将軍の和服姿の銅像もある。その前の左右に戦前の教科書にあった一太郎親子が植えた松が、美しい緑を伸していた。」と紹介されています。
一太郎親子とは、国定教科書「尋常小学国語読本」に掲載された「一太郎やあい」の主人公です。明治37年(1904)、日露戦争で多度津港から出征する息子の岡田梶太郎(通称一太郎)を見送りに来た母カメが、船がすでに岸から離れていたので大声で「一太郎ヤアイ鉄砲ヲアゲロ家ノ事ハ心配スルナ、天子様ニ克ク御奉公スルダヨ」と叫んで激励したという愛国美談は、国民に知れ渡りました。
金倉寺には乃木将軍の部屋(客殿)や遺品が残されています。香川県善通寺町(善通寺市)に大日本帝国陸軍の第11師団が創設されたことから、乃木将軍の宿舎となった金倉寺は四国霊場の札所の中でも日露戦争と関係の深い札所寺院として注目されます。
























