ふすまはがし!

4月 20日 金曜日

今月のボランティア資料整理は「ふすまがはし」をおこないました。
「ふすまはがし」とは、古いふすまの下張りに使用されている古文書を剥ぐ作業をいいます。
今回使用したふすまは、旧川舞村(八幡浜市五反田)の郡役所支所跡地から回収したものの1枚です。すでに表層の一部がはがれ、下張りの古文書が確認できる状態でした。

ふすまに水を吸い込ませ、糊をふやかしながら1枚1枚はがしていきます。
下張りは何層にもなっていて、途中の層からは山水画や墨書なども現れました。

どうにかすべての裏貼り文書をはがすことができました。
今回はがした裏貼り文書は、
6月24日の体験講座「災害にあった文化財―水損紙資料―を救う」において
水損資料レスキューワークショップの水洗いと乾燥で使用いたします。
興味関心のあるかたはぜひご応募ください!詳細は歴博HPをご覧ください。

ダンボールによる『こえだちゃんと木のおうち』

4月 18日 水曜日

巨大なダンボールによる『こえだちゃんと木のおうち』の制作は、1日がかりの作業となりました。

運び込まれたたくさんの部材。パスルのようで、どのように木のおうちがつくられていくのか、さっぱり想像がつきません。

下の土台に当たる部分から組み立てられていきます。大人が乗っても大丈夫なように格子状に部材が組まれていきます。

階段を取り付けて床板をはって、上部の作業に移ります。だんだん姿が現れてきました。

上部をつくりあげて、みんなが遊ぶすべり台をとりつけていきます。こえだちゃんも姿を現しました。

最後にエレベーターのボタン。木のおうちに魂を吹き込みます。

ついに完成。すべり台で遊んだり、記念写真を撮ったりできるので、ぜひ遊びにきてね。

こえだちゃんと木のおうち模型

4月 17日 火曜日

前回紹介したグリーンのカーペットが敷かれたスペースには、巨大なダンボールによる『こえだちゃんと木のおうち』がつくられます。

巨大なダンボールでつくるといっても簡単な作業ではありません。まずは8分の1の模型をつくって、デザイン、安全性などあらゆる角度から検討してきます。

この模型から巨大な木のおうちがどのように完成しているのか。
それはまた次回紹介します。

こえだちゃん展の設営開始

4月 15日 日曜日

4月21日の開幕に向けて、特別展「誕生40周年 こえだちゃんの世界展」の会場設営が始まりました。

こえだちゃんは、玩具メーカーの株式会社タカラトミーから1977年に発売されたミニドールつきハウス玩具シリーズ。絵本の世界から飛び出してきたようなかわいらしい見た目と、エレベーターなどの楽しいしかけで、人気となりました。

会場にはこえだちゃんと木のおうちのイメージを活かして、ピンクとグリーンの壁紙をはっていきます。

会場内の一角にグリーンのカーペットが敷いていきます。このスペースがどのようになるのか。お楽しみに。

民俗展示室にこいのぼり

4月 14日 土曜日

ゴールデンウィークが少しずつ近づいている某日、民俗展示室に恒例のこいのぼりが登場しました。

この真鯉(黒い鯉)と緋鯉のこいのぼりは、若松旗店(八幡浜市)が製作したもの。昭和25年頃に、今では珍しくなった手描きでつくられています。

民家をバックにおもしろそうに泳いでいる博物館のこいのぼりをぜひ見にきてください。

中国四国名所旧跡図38 八坂八浜

4月 2日 月曜日

遍路道の難所を「遍路ころがし」というが、牟岐浦(牟岐町)を過ぎたあたりから始まる八坂八浜も「遍路ころがし」の一つであった。浅川(海陽町)にかけての約8キロメートルに及ぶ海岸は、岩礁と砂浜が交互に続く風光明媚な景観で、一つ坂を越えるたびに、その景観は表情を変えていった。

西丈の絵には「サハセ村」の文字があるので、八坂八浜の中間の辺りに位置する鯖瀬からの風景を描いたものであろう。複雑な海岸線とともに、馬を連れて歩く馬子の姿を描き込んでいるが、弘法大師伝説の一つ、鯖大師の話しを意識してのことであろう。

四国を巡っていた弘法大師空海がここを歩いていると、鯖を積んだ馬をひく馬子が通りかかった。大師がその鯖の一尾を所望したところ口汚く断られてしまう。その直後、馬が腹痛をおこして立ち往生すると、これに驚いて、僧は大師に違いないと詫びて鯖を献上する。大師は加持水を馬に与えると、馬はたちまち元気になったという。西丈はこの伝説を下敷きにして、八坂八浜の絵に馬子とともに、弘法大師をイメージした赤い着物を着た僧侶を描き込んだのではなかろうか。

文化元(1804)年5月22日の晩、牟岐浦の手前、辺川に宿泊した英仙は、翌23日に八坂八浜を歩いている。「海南四州紀行」は、その模様を次のように記している。

牟岐浦から八坂八浜に入る。牟岐浦の出口には、餅屋宗七という店があり、花餅饅頭を売っていたので、ここで休んだ。牟岐浦辺りから海の浪が荒く打ち付けている。土佐から鰹の腸を売りに来ており、耐えがたいほどのにおいがした。
一つ目の坂を登ると、峠の右側にここから東寺まで21里という道標があった。四つ目の坂の左側に草庵があり、「行基葊」という表札が懸かっていた。そこの歌に「大坂ヤ八坂々中鯖一ツクレデナンヂカ馬ノハラ病(息)メ」とあった。鯖瀬村という所である。七つ目の坂の手前、阿波の浦の松屋與八で昼食をとった。香の物と上等のお茶でもてなされた。また、脚気の薬も施された。

八坂八浜に入る最初の牟岐浦には、饅頭屋さんがあったようである。ここで小休憩して、腹ごしらえをして歩いたのだろう。4つめの坂の左側にあったとされる草庵は、本尊行基菩薩を祀った鯖瀬庵(鯖大師)である。馬子とやりとりしたのは、弘法大師ではなくて、行基とする話も伝わっている。

西丈は絵の余白に、「八坂かさかなかさハ一つきよき(行基)にくれてむまの原やむ」と書き付けているが、『海南四州紀行』の鯖瀬庵で紹介されている歌と瓜二つになっている。鯖大師にまつわる歌は他にも残っているが、旅人がそれぞれのアレンジを加えながら、似たような歌が今に伝わっているのだろう。

歴博の桜も満開!

3月 30日 金曜日

歴博に上る坂にある桜もほぼ満開。校歌に「桜が丘」と出てくる宇和高校のしだれ桜もきれいです。
「花嵐」の言葉もあるように、桜が咲くと、雨や風の日が多くて、花の命は短くてというのがふつうですが、今年はずっと晴天。今週末も天気はよさそうです。花見がてら、出かけてみませんか?
そして、歴博の駐車場に入ると、何やら紅い色が目に入りました。なんと、まだ3月だというのに、サツキの花が満開。このところの初夏のような陽気につられたのでしょうか?

さて、現在の歴博の展示は、4月8日(日)まで、特別展「研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場」とテーマ展「おひなさま」です。まだ、ご覧になっていない方はぜひ。

また、先週から考古展示室で、テーマ展「縄文時代の精神文化」が始まっています。「縄文のビーナス」と呼ばれる上黒岩岩陰遺跡の線刻礫や、いろいろな種類の耳飾りが展示されています。

さて、私事ながら「ojyamamushi」は、本日をもって消えます。アナザースカイの下で、歴博の発展を祈りつつ。引き続き歴博をご愛顧たまわりますようお願い申し上げます。

中国四国名所旧跡図37 阿波国月衣村御水庵セツタイ

3月 28日 水曜日

右上に記された絵のタイトルには「月衣村」とあるが、「月夜村」の書き間違いと思われる。22番平等寺から南に3キロメートル行ったところにあった月夜村の御水庵を西丈は描いている。

昔、弘法大師がここに野宿しようと石の上に座り、手を洗おうとしたが水がない。そこで山の岸を杖で突いたところ、清らかな水が湧き出たという伝説の地に御水庵は建っている。また、大師は不思議に思い水が湧く所を掘っていたところ、水底に一つの石を見つけた。その石に薬師像を彫ろうとした時に、西山にかかっていた三日月が沈もうとしていた。そこで大師が今少しと祈ると、三日月は元に戻り薬師像を刻むことができた。月夜村の名前の由来である。

西丈の絵には、左側に大きな杉の木が描かれているが、この木は阿南市の天然記念物として現在も残っている。江戸時代の記録には、庵の前に大師の腰掛石(座禅石)があるとしているが、右下の注連縄が張られた平たい岩が腰掛石であろうか。庵の前に2人の旅人が腰掛けているのも、御水庵にまつわる大師伝説を意識してのことであろうか。境内には草葺きの曲り家が描かれているが、御水庵について、松浦武四郎は「止宿セるによし」と記しているので、遍路に宿を提供していたものと思われる。

中国四国名所旧跡図は、4月8日(日)まで開催中の特別展「研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場」に展示中です。

中国四国名所旧跡図36 阿州太龍寺岩谷図(龍の岩屋)

3月 24日 土曜日

慈眼寺で「海内無双の霊場」を体感した西丈は、来た道を横瀬村(徳島県勝浦町)まで戻り、18丁(約1.9キロメートル)の坂を登って20番鶴林寺を参詣。それから那賀川を舟で渡り、家が4、5軒だけあった若杉村から再び20丁(約2.2キロメートル)の坂を登ると、21番太龍寺に辿り着いた。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」といわれており、いずれの坂も「へんろころがし」とされる難所であった。

太龍寺を訪れた西丈は、ここでも札所に関心が向かわず、さらに奧の院へと足を伸ばしている。そこは女人禁制とされており、文化6(1809)年に四国遍路の旅を行った京都の商人升屋徳兵衛一行は、ここに残る女性1人に荷物を預けて、3人で奧の院へと向かっている。女性の夫の病気快復を祈願しての旅であった。

太龍寺の奧の院へは30丁ほど(約3.2キロメートル)で、何度も道を折れ曲がりながら下りていく。老樹が鬱蒼としており、日光も通さない「四国第一の閑地」とされる場所に、弘法大師空海が法力により龍を封じ籠めたという、龍の岩屋がぽっかりと口を開けていた。

承応2(1653)年に遍路を行った京都智積院の僧澄禅も、同行衆8人で話し合って太龍寺で引導僧を白銀2銭目で雇い、松明を手に龍の岩屋を訪れている。天保4(1833)年の松浦武四郎の時代になると、岩屋の前に大師像と不動尊を安置した庵ができており、そこで12文払って案内人を頼み、やはり松明を灯しながら岩屋に入っている。

西丈が描いているのも、まさにそうした場面である。龍の岩屋の入口は「高さ六尺、巾二尺余」とあるので、高さ180センチに幅がわずかに60センチほど。煙管をふかしている荷物番を残して、その狭い入口から次々に人が入っていく様子が描かれている。

残念ながら西丈は、龍の岩屋内部のスケッチを遺していない。その代わりに、先の京都の商人升屋徳兵衛の旅日記別冊にその様子が詳しく記されている。その記述に導かれながら、内部の様子を紹介する。

升屋一行も案内人を頼み、松明ではなく一人ずつ蝋燭を手に持ち、岩屋へと入っている。中は水が流れて河のようになっており、水の響きが「いかづち」のように聞こえた。地上と違い猿一匹もいない淋しさで、肝にこたえた。ホラ貝石、砂付石、はかい石、御はた岩、獅子岩、太鼓岩、龍見帰石、大師腰懸岩と鍾乳石が続く。龍の背割岩もあったが、それはまさしく龍の鱗のように見えた。そこを通るには、身を横たえて7、8間(約13~14メートル)ほど進まなければならず、水に濡れてしまった。その先には2尺余りの黄金不動尊やいろいろな仏像があった。千畳敷という所は、天井が白い岩、地が鼠色の岩になっており、20間(約36メートル)四方ほどの広さがあった。五つの梯子のほか、所々に三脚も架かっており、寒い日に行く事は叶わない。穴龍といって、注連縄を張っている所もあった。見事な岩屋であったが、恐ろしい所でもあった。

西丈は普通の遍路が訪れる札所以外に、修行者が行くような所にも足を伸ばし、絵を描いている。龍の岩屋は消滅して現存しないだけに、西丈の残した絵は、かつての番外札所の姿を今に伝える貴重な史料といえる。

中国四国名所旧跡図は、4月8日(日)まで開催中の特別展「研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場」に展示中です。

「れきはく友の会」で明浜を歩く

3月 13日 火曜日

3月11日(日)、歴博・友の会の現地研修会「四国西予ジオパーク巡り―明浜町編―」に参加してきました。
歴博を出発して野福峠を下っていくと、何やら作業をしている方が大勢。ちょうど3月25日(日)に開催される「野福峠桜まつり」の準備のため、地元の方が、のぼりを立てたり、草刈りをしたりしているところでした。今年は例年より、桜も早いみたいです。

我々がまず向かったのは、俵津文楽会館。「俵津文楽」は、浜田座長のお話によると、1852年に大阪から人形を買い入れ人形芝居を行ったのが起源とか。「菅原座」は、現在も会員が約30名(男女ほぼ同数)おり、大阪から三味線の師匠の方に来てもらったり、人形の頭の制作修行に徳島に行ったりしながら、保存継承されており、次は桜まつりの際に公演を行うとのこと。観覧料無料とのことなので、興味のある方はぜひ!

次に向かったのは、大早津海岸。ここには昔、石灰の工場があり、すぐ上の山から取れる石灰石を砕いて焼成し、セメント原料や肥料などとして遠く朝鮮半島まで持っていっていたとか。海岸には、その当時の積み出し設備の残骸や、石灰窯を復元したものがありました。

丘の上の歴史民俗資料館の玄関にあったのが、「ウド貝」。石灰岩層が海に入り、その岩にくっついて育つのが、このマテ貝の仲間。岩ごと大きなハンマーのようなもので割って採るしかないそうですが、お汁にすると、すごくおいいしいとか。

昼食後に向かったのが、狩浜の段々畑。石灰岩を丁寧に積んだ白い石垣は、山の上まで伸び、その景観はすごいの一言。
今回、案内いただいたのは、地元のジオガイドの方々。江戸時代は、イモや麦が作られ、明治になると、桑を植えて養蚕。戦後は、みかん畑に移り変わったそうです。まさに文化的景観の最たるものだと思います。公民館から説明を聴きながら、ゆっくり歩いて約2時間。心地よい一時でした。

「れきはく友の会」は、こんな楽しい現地学習会のほかに、少し遠くへの研修旅行(29年度は、高知城歴史博物館)や歴博の展示解説会などのご案内が来るほか、定期的なクラブ活動も行っています。年会費3千円ですが、十分モトが取れると思います。あなたも入ってみませんか?

Page 3 ⁄ 10612345102030...最後へ »