2025年7月18日
四国遍路において徒歩遍路の巡拝ルートは通常は札所番号順に行われますが、讃岐(香川県)の遍路道の第79番天皇寺(高照院、同県坂出市)から第83番一宮寺(同県高松市)までの区間では、札所番号順ではなく変則的に行われることがありました。この区間には、第80番国分寺(同県高松市)、瀬戸内海に張り出した五色台(標高449.3m)にある第81番白峯寺(標高281m。同県坂出市)と第82番根香寺(標高358m。同県高松市)があります。
四国遍路道中図でそのあたりを確認してみましょう(写真①)。
写真① 四国遍路道中図に見る讃岐遍路道(第79番天皇寺・高照院から第83番一宮寺周辺)
大正6年(1917)の駸々堂版や昭和4年(1929)の浅野本店版などを見ると、札所番号順に巡拝ルート(順拝指道)が記載されています。ところが昭和13年(1938)の渡部高太郎版では、第79番高照寺(天皇寺)⇒第81番白峯寺⇒第82番根香寺⇒第80番国分寺⇒第83番一宮寺という変則的な巡拝ルートを示しています。その理由は記載されていませんが、札所間の距離(「七十九番ヨリ八十一番ヘ一里三十二丁」「八十二番ヨリ八十番ヘ一里廿四丁」「八十番ヨリ八十三番ヘ二里」)が明記されています。
讃岐遍路道の第79番から第83番への変則的な巡り方については、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「次は八十番国分寺ですが、八十一番白峰寺、八十二番根香寺と打って八十番に出で、八十三番一の宮寺へと行くのが楽で、此頃は一般に順路とされて居ります。」とあります。つまり、この変則的な順路を採る理由は歩くのに楽であるためで、当時(戦前)、多くの遍路がこのルートを選択していたことがわかります。
昭和39年(1964)に徒歩遍路を行った西端さかえも同じルートで巡拝していることが著書『四国八十八札所遍路記』に紹介されています。「七十九番からは八十一、八十二、八十、八十三番と進むのが道順がよく、一般に順路となっている。しかし百人に一人ぐらい『順ですからと』と札所順に巡る人もあるそうだが、労と時間に無駄が多い。」と記されています。
ところで戦前までの徒歩遍路は、第1番霊山寺住職の芳村智全が作成した「四国霊場巡拜についての心得」が示すように、道中で修行をしながら巡拝を行なうことを基本としていましたが(今村賢司「四国霊場巡拜についての心得」から見た近代の四国遍路の様相」愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』第27号、2022年)、『四国八十八札所遍路記』からは、次の札所になるべく早く楽に到着したいという戦後の徒歩遍路の意識の違いが見て取れます。
次に、江戸時代における第79番から第83番までの巡拝ルートを見てみましょう。第79番天皇寺の名称は近世では「崇徳天皇」「崇徳天王」「妙成就寺」などと表記されています。
承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』、江戸時代後期の『四国徧禮道指南増補大成』では変則的な順路について言及はなく、通常の札所番号順の巡拝ルートが紹介されています。現存最古の四国遍路絵図とされる宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」においても同様です。国分寺から白峯寺は「五十丁」で山坂峠を示す印と「コクブサカ ノボリ十丁 谷川」と記載されています(写真②)。第80番国分寺から第81番白峯寺に至る遍路道(白峯寺道)は途中に「コクブサカ」という10丁の上り坂があり、遍路にとっての難所と推察されます。
写真② 第79番崇徳天王から第83番一宮周辺(細田周英「四国徧禮絵図」、宝暦13年、当館蔵)
寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」では「此所(崇徳天皇)より本道ハ国分寺・白峯寺と順なれども、辺路坂といふ難所有故、崇徳天皇より白峯寺・根香寺・国分寺と行なり。」と記され、国分寺から白峯寺に向かう遍路坂(コクブサカ?)が難所(遍路ころがし)であったため、変則的に白峯寺と根香寺を先に巡拝してから国分寺に向かっていることがわかります。また、「此所(白峯寺)より根香寺迄五十町。山中地蔵 国分寺より来る人は此所へ出る。白峯へ行爰迄戻る。根香寺迄廿五丁」「是(根香寺)より国分寺迄二里。又山中地蔵道六十丁也トいへども道難所也。やはり弐里の方へ行べし」と記されています。白峯寺から根香寺に至る遍路道(根香寺道)は50丁あり、国分寺からの遍路道(白峯寺道)と合流する場所には地蔵があること、根香寺参拝後に地蔵まで打戻り、国分寺に向かう遍路坂(下り)は難所であることなどが読み取れます。このように江戸時代後期において、実際に讃岐遍路道の第79番から第83番をめぐって変則的な巡拝が行われていたことが確認できます。
試みに、当館収蔵による江戸時代の四国遍路の納経帳に記載する第79番崇徳天皇から第83番一宮寺までの納経印を見ると、札所番号順に納経が行われたものが多く、通常の順路で四国霊場巡拝が行われたものと推察されますが、文政5年(1822)の納経帳は変則的な順路と同じ順番で納経が行われている事例も確認できました(写真③)。
写真③ 文政5年の四国遍路の納経帳(当館蔵)
最後に、現在の徒歩遍路のルートを確認します。徒歩遍路のバイブルとされている宮崎建樹著・へんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』(第9版、2010年)には、通常の札所番号順ルートと第79番天皇寺から第81番白峯寺に向かう変則的なルートがそれぞれ詳しく紹介されています。筆者の場合、札所番号順に第80番国分寺から五色台の山道を上り(写真④)、19丁目で根香寺道に合流、第81番白峯寺を参拝後、19丁目まで打ち戻り、第82番根香寺へと進みます。根香寺参拝後は番外霊場の香西寺(同県高松市)を目指して五色台を下山、そして第83番一宮寺に到着しました。
写真④ 第80番国分寺から五色台の山道を上る遍路道(白峯寺道) 当館撮影
今回紹介した讃岐遍路道の「根香寺道」は第81番白峯寺から第82番根香寺を結ぶ全長4.8キロメートルの道のうち、約2.2キロメートルは平成25年(2013)に国史跡に指定されています。根香寺道には、元応3年(1321)の白峯寺笠塔婆(下乗石)、高松藩によって天保7(1836)年に建立された添碑、弘法大師が掘ったと伝えられる閼伽石(あかい)、国分寺からの遍路道との三叉路にあたる19丁目付近は、地蔵、丁石、遍路道標石、遍路墓などが確認され、歴史的な景観を良くとどめています(写真⑤)。
写真⑤ 国史跡「讃岐遍路道・根香寺道」当館撮影
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2025年7月12日
江戸時代の日本諸国の名所旧跡について、大相撲の番付表に見立て、それらのランキングを記した「大日本名所旧跡数望(すもう)」(個人蔵、写真①)があります。東西の番付では最高位の大関に「駿河の富士山」と「近江の琵琶湖」、関脇に「陸奥の松島」と「丹後の天橋立」、小結に「出羽の象潟(きさかた)」と「安芸の宮島」、前頭筆頭には「下野の日光山」と「讃岐の象頭山(ぞうずさん)」の名前が記されています。
写真① 「大日本名所旧跡数望」(江戸時代、個人蔵)
これを見ると、江戸時代の四国において、最も有名だった名所旧跡は「象頭山」となります。象頭山とは元インド中部の山で釈迦が修行して説法した地とされ、象の頭に似ていることから名付けられています。その象頭山の中腹に鎮座する金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮。香川県琴平町)は、航海の安全や豊漁祈願、五穀豊穣、商売繁昌などに御利益があるとされ、人々の篤い信仰を集めています。そもそも金毘羅とはインドのガンジス川の鰐(わに)を神格化した仏教守護神の一つです。江戸時代以降、「一生に一度はこんぴら参り」といわれたように、金毘羅参詣は盛んに行われています。
元禄2年(1689)の寂本『四国遍礼(へんろ)霊場記』によると、「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州の壮観名望の霊区なれば、遍礼の人当山に往詣せずといふ事なし」とあるように、四国遍路と金比羅参詣はセットで巡礼する遍路が多かったことがわかります。その背景には、金毘羅信仰の聖地と弘法大師生誕地とされる四国霊場第75番善通寺が地理的に近かったこと、そして四国・讃岐の主要な港である丸亀・多度津からのアクセスが良かった点なども要因と考えられます。
江戸時代の金比羅参詣の人気を物語るものとして、四国霊場と金毘羅を案内した「象頭山参詣道四国寺社名勝八十八番」(当館蔵、写真②)、西国巡礼と金毘羅参詣をセットにした「讃州象頭山参詣順道并西国三拾三番名勝附」(当館蔵、写真③)、丸亀を起点として金毘羅・善通寺・弥谷寺参詣をセットに描いた「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(当館蔵、写真④)など、さまざまな金毘羅案内絵図が作成され、金毘羅土産として買い求められました。なお、これらの金毘羅・四国遍路関係絵図は当館のホームページの「絵図・絵巻デジタルアーカイブ」で細部まで閲覧できます。
写真②「象頭山参詣道四国寺社名勝八十八番」(江戸時代、当館蔵)
写真③ 「讃州象頭山参詣順道并西国三拾三番名勝附」(江戸時代、当館蔵)
写真④ 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(江戸時代、当館蔵)
次に、近代以降の四国遍路の案内記や四国遍路道中図において、金毘羅参詣がどのように紹介されているのか、確認してみましょう。
明治15年(1882)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』には「こんぴらへかくる時は爰に荷物おき行一里半」とあり、金毘羅へ参詣する遍路は善通寺の宿に荷物を預けて、参詣後は宿まで打ち戻りして次の第76番金蔵寺へと巡拝するようにと紹介されています。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』では、「善通寺を打ったら金毘羅様へ御詣りすることは遍路者の定になっています」とあり、遍路の決まり事「定め」として金比羅参詣は必須とされています。
四国遍路道中図においては、大正6年(1917)の駸々堂版(当館蔵、写真⑤)では、善通寺の近郊に「琴平神社」「⛩象頭山」と記載され、多度津から琴平までの鉄道路線(土讃線の前身)が示され、「善通寺、琴平間汽車賃金七銭」と注記されています。
写真⑤ 象頭山周辺(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)
昭和13年(1938)の渡部高太郎版(当館蔵、写真⑥)では同様に「琴平社」「⛩象頭山」と記載されていますが、多度津から琴平までの鉄道路線は「土讃線」と注記され、徳島線の辻(徳島県三好市)で合流しています。ちなみに昭和9年の『同行二人 四国遍路たより』には各鉄道の主要区間の運賃が記載されています。それによると省線(善通寺―琴平 十銭)、琴平参宮電鉄(善通寺門前―琴平 十銭、多度津―琴平 二十二銭、丸亀―琴平 二十六銭、坂出―琴平 三十六銭)、琴平電鉄(高松―琴平 六十五銭)、琴平急行電鉄(坂出―琴平 三十六銭)とあります。善通寺と金毘羅参詣を背景とした鉄道網の発展と各鉄道会社による競争の激化が見てとれます(本ブログ35「讃岐案内」参照)。なお、渡部高太郎版では省線以外の鉄道は記載されていません。
写真⑥ 象頭山周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には、「善通寺から琴平の金比羅宮は近い、寺の門から一丁も離れているが、善通寺門前といふところから電車にのる。広い平野の正面に、象の形をした山がある、それが金比羅宮のある象頭山。奥の院といふのは象の目のあたりだ」とあり、宮尾は琴平参宮電鉄を利用して金毘羅参詣を行っています。近代以降の四国遍路においては、遍路は善通寺巡拝後に鉄道を利用して金毘羅参詣を行うのが通例となっていたようです。
最後に、「大日本名所旧跡数望」で記載されている象頭山以外の四国の名所旧跡を紹介します。番付では前頭になりますが、上位順に鳴門浦、壇ノ浦、八栗山、屏風浦、五台山、石鎚山などが記載されています。これらは四国霊場ゆかりの聖地でもあります。壇ノ浦は四国八十八箇所霊場第84番屋島寺、八栗山は第85番八栗寺、屏風浦は第75番善通寺、五台山は第31番竹林寺、石鎚山は第60番横峰寺と第65番前神寺などの札所寺院と関係があります。こうした事例からは、四国八十八箇所霊場の成立と四国の名所旧跡との関係が注目されます。
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2025年7月11日
四国八十八箇所霊場第64番の石鈇(いしづち)山金色(こんじき)院前神寺(愛媛県西条市洲之内)は、山岳信仰の霊山として崇拝される石鎚山の麓にあり、真言宗石鈇派・石鎚山修験道の総本山です。
なお、石鎚山の表記は「石鎚」「石槌」「石鈇」「石鉃」「石鉄」などが見られますが、史料からの引用以外は「石鎚」で統一しています。
『先達経典』(四国八十八ヶ所霊場会、2006年)には「縁起によると、修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が石鎚山で修行をしたのは天武天皇のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石鈇蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院前神寺」の称号を下賜した」とあります。
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「御本尊阿弥陀如来 外に西之川奥の院御本尊釈迦如来は、役行者御自刻石鎚山蔵王権現の本地仏であります。当寺は石鎚山東の別当として役行者の開創で、西之川に屹立する高さ二十五丈八尺、周囲二十二間の巨岩天柱石(御塔石)の下で蔵王権現を感得せられたに始まり、後石仙道人修練の地であります。当寺は排仏毀釈の法難に遭い明治八年までは石鎚神社口の宮にあったのであります。(後略)」と紹介されています。
開基の役行者が修行中に石鎚蔵王権現を感得した場所される天柱石(御塔石、写真①)は、霊峰石鎚山の谷間にそびえる、空を突くような大きな石塔で、江戸時代の西條藩の地誌『西條誌』や半井梧庵『愛媛面影』などに紹介されています(今村賢司『「愛媛面影」紀行』愛媛新聞社、2005年)。
写真① 絵葉書「四国霊山石鎚山天の御柱(天柱石)」(個人蔵)
前回のブログ84で紹介したように、神仏習合の江戸時代までは第60番横峰寺(同県西条市小松町)とともに石鈇蔵王権現の別当を務めていました。江戸時代の四国遍路案内記や案内絵図には前神寺は「里前神寺」と記載されています。遍路は石鎚山(奥前神寺)へ参詣することは難しいため、麓にある里前神寺で参拝しました。寛政10年(1798)の納経帳を見ると、木版で「四国霊場六十四番 石鈇山大悲蔵王権現 廣前 別当前神密寺 里寺納経所(印)」と押印され、「里寺」と記載されています(当館蔵、写真②)。
写真➁ 江戸時代の「納経帳」の前神寺(当館蔵)
前神寺の御詠歌「まへはかみ うしろはほとけ ごくらくの よろずのつみを くだくいしづち」は、前神寺が石鎚蔵王権現の別当で、蔵王権現の本地仏が極楽の教主となる阿弥陀如来であることから、「前は神、後は仏」と謳われ、石鎚山と前札所となる前神寺との関係が示されています。昭和29年(1954)、愛媛県西条市出身の政治評論家・橋本徹馬『四国遍路記』には「いつ読んでも「良い歌だなア」と思ふ。勿論歌としての理屈を云へば色々云ふべき事もあらうが、寺号の石鎚山の石鎚を「よろづの罪をくだく」意味に用いたのは善い着想だと思はれる。」とあり、四国霊場の御詠歌の中では佳作と評しています。
前神寺は明治8年(1875)までは現在の石鎚神社(同市西田)の位置にありましたが、明治新政府の神仏分離政策によって廃寺となりました。その後、檀家などによる復興願いによって、明治12年(1879)、現在地に「前上寺(ぜんじょうじ)」の名前で再興が許され、ようやく明治22年(1889)に前神寺の旧称に復しました。江戸時代の旧前神寺の境内は『愛媛面影』(当館蔵、写真③)などに描かれており、現在の石鎚神社の地にあったことがわかります(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、2018年)。
写真③ 江戸時代の前神寺(『愛媛面影』当館蔵)
復興後の前神寺の境内で注目したいのは本堂です。大正6年(1917)に大阪で発行された「四国遍路道中図」(駸々堂版)を見ると、前神寺は「当寺ハ本堂ニヶ所あり 女は女人堂へ参詣し奥の本堂は女人禁制」と紹介されています(当館蔵、写真④)。このことについて案内記で確認すると、昭和9年(1934)の『四国霊蹟写真大観』では「女人禁制本堂 当寺に本堂二所あり、奥の石鎚大権現本堂は女人禁制なり」と記され、「石鎚大権現堂(女人禁制)」の写真が掲載されています(当館蔵、写真⑤)。同11年(1936)の三好好太『四国遍路 同行二人』には「当寺は本堂二ケ所にあり、女は女人堂に参詣せらるべし、奥の本堂は女人禁制です」、同18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には「今でも女人禁制、しかし女人本堂といふ所まで行かれる」とあり、当時、石鎚大権現本堂は女人禁制とされ、女性は女人堂で参拝していたことがわかります。
写真④ 前神寺(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年)
写真⑤ 前神寺の石鎚大権現堂(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)
また、境内には大正3年(1914)の四国霊場開創一千百年を記念して建てられた修行大師の石像(写真⑥)があります。それは多数度巡礼者の日野駒吉が蓮華講員に呼びかけて寺に寄進したものです。日野駒吉(1873 ~ 1951年)は、周桑郡玉之江(愛媛県西条市)に生まれ、寿司屋を営みながら、弘法大師信仰に生涯をかけ、大師講「蓮花講」を組織し、500余名の信者を有した篤志家で、「寿し駒」の異名で知られています。参道には昭和11年(1936)に蓮華講員によって建てられた日野駒吉像(写真⑦)があります。もとは銅像でしたが戦時中に金属供出されたため、戦後に石像で再建されたものです。その台石には日野駒吉が先達として本四国50度、小豆島四国100度、石鎚登山100度を巡拝したことが刻まれています。四国遍路道中図が発行された大正~昭和時代にかけて、一般の遍路とは異なり、日野駒吉のような先達の多数度巡礼者が大師講を組織して四国遍路などの巡礼を広めていたことがわかります。
写真⑥ 四国霊場開創一千百年記念の修行大師石像(大正3年、当館撮影)
写真⑦ 日野駒吉像(昭和時代、当館撮影)
前神寺の歴史は、四国遍路の信仰の源流にある山岳修験道との関係を考える上で大変注目されます。また、石鎚蔵王権現の別当寺から明治期の神仏分離によって廃寺、移転、復興という軌跡をたどった近代四国霊場の中でも激動の変遷を余儀なくされた札所寺院であったことがわかります。
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2025年7月4日
四国山地西部に位置する石鎚山(標高1,982m)は西日本最高峰で、古来より山岳信仰(修験道)の山として知られ、多くの修行者が登拝しました。空海著『三教指帰(さんごうしいき)』に「或時は石峯に跨(またが)って粮(かて。食糧の意)を絶ち轗軻(かんか。苦行錬行の意)たり」と記されているように、青年期の空海も霊峰石鎚山で修行しました。
今年も7月1日から7月10日まで石鎚山の祭礼「お山市・お山開き」(石鎚神社夏季山開き大祭)が斎行されます。
石鎚神社(愛媛県西条市)のホームページによると、「その間の登拝者は、全国各地より数万人を数えます。3体の御神像は、6月30日早朝、本社で出御祭を斎行後、3基の神輿に御動座申し上げ、石鎚山麓の里々で御旅所祭を斎行しながら成就社へ向かいます。同夜は成就社本殿に御仮泊、翌7月1日午前7時、信徒の背により「仁」「智」「勇」の順に頂上社へと御動座申し上げ、10日間の大祭の幕が切って落とされます。通常、本社に奉斎されている御神像が頂上社へ御動座奉祀される間がお山開きの期間となるのです。」とあります。
石鎚山の古い絵葉書には、お山開きで賑わう成就社、鎖禅定の様子が写されています。また、絵葉書に押印された登山参拝記念のスタンプは三体の御神像(「仁」=玉持、「智」=鏡持、「勇」=剣持)がデザインされています(写真①)。
写真① 石鎚山関係絵葉書(個人蔵)
今回は霊峰石鎚山が「四国遍路絵図」にどのように紹介されているのか、江戸時代の細田周英「四国徧禮絵図」や近現代の「四国遍路道中図」などから見た石鎚山について紹介します。なお、石鎚山の表記は「石鎚」「石槌」「石鈇」「石鉃」「石鉄」などが見られますが、史料からの引用以外は「石鎚」で統一しています。
現存最古の四国遍路絵図として知られる、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」(写真②、当館蔵)では、「六十横峯寺」(第60番横峰寺)に「是ヨリ石ツチ山エ六リ八丁」と注記があり、横峰寺から峠の鳥居(⛩)までの道が示されています。そして、鳥居から石鎚山を見渡すような構図で雲海に聳える山容が描かれ、「石鎚山 六月朔日ヨリ三日マデニゼンジヤウスル」と記載されています。「ゼンジヤウ」(禅定)とは山岳信仰における修行の一形態で鎖場を登ること、霊山に登って修行することを意味し、当時は旧暦6月1日から3日まで行われていたお山開きについて記載されています。
写真② 石鎚山周辺(細田周英「四国徧禮絵図」宝暦13年、当館蔵)
ここで注目したいのは描かれている峠の鳥居です。それは寛保2年(1742)に建てられた現存する「鉄(かね)の鳥居」(写真③)と推察されます。この場所は古くから石鎚山遥拝所として知られ、白雉2年(651)に役小角が蔵王権現を感得した地とされ、弘法大師が除災求福を祈る星供養を行ったと伝えられる「星ヶ森」(国名勝)と考えられます。
写真③ 鉄の鳥居(星ヶ森)から石鎚山を臨む(当館撮影)
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、寺から暫し打戻って左へ山道を二町登りますと、大師が嵯峨天皇の勅を受けて一七日の間雨乞星供の護摩を修された星ヶ森の秘壇があり、鉄の鳥居は石鎚山の発心門として昔から有名であります。谷を越えて前方に石鎚の霊峰を望み、参拝者はここからモエ坂を下って登ります」とあります。
現在、横峰寺参拝後に石鎚山を登拝する場合、鉄の鳥居からモエ坂を虎杖(いたずり)まで下り(写真④)、今宮道あるいは黒川道(通行困難)を上り、成就社を経て、石鎚山頂に至るルートとなります。絵図に描かれた横峰寺と石鎚山の間の雲海の下には、モエ坂経由の石鎚登山道が通っていると思われます。
写真④ モエ坂(当館撮影)
絵図でもう一つ注目したいのは、第64番前神寺の寺名が「里前神寺」となっている点です。貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』に「此札所は高山、六月朔日おなじく三日ならで、参詣する事なし。このゆへに里まへ神に札をおさむなり」とあるように、お山開きの3日間だけ石鎚山登拝が許されていたため、麓にある前神寺(里前神寺)で参拝を行っていました。
もう一例、江戸時代後期に第43番明石寺周辺で作成された絵図(写真⑤、当館蔵)を確認します。本図では横峰寺から石鎚山に至る道が示され、途中に鳥居があります。切り立った石鎚山には山頂社と鎖禅定の細部まで描かれ、「石づち山 かねのくさりとりあがる」と注記されています。また、前神寺と横峰寺を結ぶ道が描かれ、「石づち迄九リ八丁」とあり、前神寺からの石鎚山までの距離が示されています。横峰寺と前神寺の両札所は、江戸時代に石鎚蔵王権現の別当を務めていたことから、石鎚信仰の拠点となる霊場を示したものと推察されます。
写真⑤ 石鎚山周辺(「四国へんろ絵図」江戸時代後期、当館蔵)
次に、近現代の「四国遍路道中図」を確認します。大正6年(1917)に大阪で発行された「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真⑥、当館蔵)では、赤い丸印で「石槌山」と「⛩石鎚祠」「64.00尺」と記載されています。第60番横峯(峰)寺から石槌山へは赤い点線で結ばれ、「一里」とあります。補足的な意味で石鎚山へのルートが示されています。図中の鳥居印は星ヶ森の鉄の鳥居ではなく、石鎚神社の鳥居を示していると考えられます。昭和6年(1931)の駸々堂版も同一の内容です。
写真⑥ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」大正6年、当館蔵)
四国内で発行された昭和9年(1934)の「四国遍路道中図」(浅野本店版)(写真⑦、個人蔵)では、大きな赤丸に「石槌山」、「⛩石槌神社」と記載されていますが、横峰寺からの石鎚山への巡拝道は記載されていません。また、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)(写真⑧、当館蔵)では、伊予と土佐の国境に石鎚山の山容が目立つように描かれ、「⛩石鎚神社」と表記されていますが、四国霊場と石鎚山は切り離された存在として記載されています。
写真⑦ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和9年、個人蔵)
写真⑧ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和13年、当館蔵)
このように「四国遍路絵図」の中の石鎚山に注目すると、江戸時代と近現代で記載内容が大きく異なっていることがわかります。神仏習合時代の江戸時代の遍路絵図では、石鎚山は石鎚蔵王権現を祀る石鎚社が本地であり、横峰寺と前神寺の両寺院はその別当寺院であったという歴史をもとに、山岳修験の霊場としての石鎚山と四国霊場が一体化した四国遍路観によって作成されているものと考えられます。
一方、大正~昭和時代の「四国遍路道中図」では、石鎚山と石鎚神社の情報は記載されているものの、四国巡拝ルートからは切り離され、地図上では四国霊場と石鎚山の密接な関係は示されていません。このことは一般の遍路を対象にした四国八十八箇所霊場の簡易な案内地図として作成され四国遍路道中図の性格に起因しますが、時代によって四国霊場の捉え方やその巡拝ルートが変遷していることや、遍路絵図作成者の四国遍路観が反映されていると考えられます。
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2025年6月27日
前回に続き、高知県土佐清水市の足摺岬にある四国八十八箇所霊場第38番蹉跎(さだ)山補陀落(ふだらく)院金剛福寺(こんごうふくじ)を例にして、観音信仰と補陀落渡海について紹介します。
四国八十八箇所霊場の本尊を種類別に見ると、第1位は薬師如来(23箇寺)ですが、第2位は千手観音菩薩(13箇寺)、第3位は十一面観音菩薩(11箇寺)です。そして、聖観音菩薩(4箇寺)、馬頭観音菩薩(1箇寺)を加えた観音菩薩系の本尊を祀る札所は29箇寺(阿波4箇寺、土佐4箇寺、伊予8箇寺、讃岐13箇寺)を数えます(写真①)。香川県内の札所の本尊は観音菩薩が多いことがわかります。本尊仏が多岐にわたる四国霊場の礼拝対象の中でも観音菩薩が多い理由は、『法華経』の観音経(普門品)に、観音菩薩は三十三身に変化して衆生を救済すると説かれており、その慈悲深い性格から、現世利益を求める信仰として広く親しまれたことによるものと考えられています。
写真① 四国八十八箇所霊場で観音菩薩を本尊とする札所寺院(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
金剛福寺について、元禄2年(1689)の寂本『四国徧礼霊場記』によると、「此寺大師以前より有て当山頭にありしを、勅を奉て大師今の所に堂社を立、勅願の所となれり。本尊千手千眼の大悲の像長六尺、二十八部衆囲饒せり。(中略)観音の霊場なれば補陀落を院号とす。」とあります。金剛福寺は古い霊場で勅願寺として弘法大師が堂社を建立して再興したこと、本尊の千手観音菩薩とその眷属(従者)の二十八部衆が祀られていること、観音霊場であることから「補陀落院」と名付けられたこと、などの内容が読み取れます。
本尊の三面千手観音菩薩(写真②)は昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八ヶ札所遍路記』によると、「本堂の外陣におかげを頂いた人たちが書き残していった額や札があった」と記され、「狂死寸前に助かる」などの霊験譚が紹介されています。
写真② 金剛福寺の本尊御影「三面千手観音菩薩」(個人蔵)
観音霊場のキーワードである「補陀落」とは、サンスクリット語の「ポータラカ」の音訳です。それはインドの南端にある伝説上の山(補陀落山)で、観音菩薩の住むとされる浄土を意味しています。つまり「補陀落渡海」とは、観音菩薩の住むとされる浄土を目指して、わずかな食糧を舟に積み、南海洋上に漕ぎ出すことで、それは「生きながらの水葬」「南海の観音に捧げる捨身行」ともいえます。
日本では紀伊半島に位置する熊野は、海の彼方に理想郷・常世(とこよ)の国があると信じられ、それに観音信仰が結びついて補陀落渡海が行われるようになったと考えられています。熊野にある補陀洛山寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、観音浄土へ向かう「補陀落渡海の出発点」とされました。
「補陀落渡海者一覧」(『熊野三山信仰事典』戎光祥出版、1998年)によると、渡海記録は9世紀に遡り、15~17世紀にピークを迎え、18世紀で終わっています。渡海の件数は熊野発が最も多く20件を数えますが、2番目に多いのが金剛福寺のある足摺岬発で、11~15世紀に4~5件が確認されています。
足摺岬から補陀落渡海を行う僧の話が、鎌倉時代後期の日記『とはずがたり』巻5に紹介されています。
「(前略)岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南をさして行く。坊主泣く泣く、『われを捨てていづくへ行くぞ』といふ。小法師、『補陀落(ふだらく)世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬といふなり。」
意訳すると、金剛福寺にいた修行僧のもとにやってきた小法師は小僧を誘って、2人で岬の端に至り、一葉の舟に棹さし南へ向かって大海へと出てゆく。修行僧は泣く泣く「我を捨ててどこへ行くのか」と叫ぶと、小法師は「補陀落世界に参ります」と答えた。見ると2人は観音菩薩になり、船の艫(とも)と舳(へ)に立っていた。修行僧は悲しみのあまり、泣く泣く足摺りをしたので、足摺岬と呼ぶようになりました。
地理的に熊野よりもさらに南方の足摺岬に位置する金剛福寺は太平洋の水平線を臨むことができる大海原に面し(写真③)、『とはずがたり』に記されているように、日本(四国)から観音浄土を目指す理想的な補陀落渡海の出発点であったことがわかります。
写真③ 補陀落渡海の出発地の足摺岬(当館撮影)
観音霊場の金剛福寺と補陀落渡海の歴史を物語るものとして、御詠歌「ふだらくやここはみさきの船の棹 とるもすつるも法の蹉跎山」があります。その意味について、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によれば、「此の霊場は岬の船の様である。沖まで遥かに見渡せば、雲波の海珊瑚の宝ぞ相茂る御法りの船に棹を差し取るも捨てるも仏教のご沙汰次第と云う事です」と解釈されています。まさしく補陀落渡海の霊場であることが金剛福寺の御詠歌に謳われています。また、同寺には、三筆の一人・嵯峨天皇の宸筆と伝えられる「補陀落東門」の扁額(土佐清水市指定文化財)が伝わっています。現在の仁王門には新しい「補陀落東門」の額が掛けられています。
四国霊場には「補陀落院」の金剛福寺の他にも、瀬戸内海側の札所寺院で第86番志度寺(本尊十一面観音菩薩、香川県さぬき市)と第87番長尾寺(本尊聖観音菩薩、同市)は山号が「補陀落山」です。観音信仰の広がりによって、様々な場所が観音菩薩の住むとされる理想郷「補陀落」になぞえられたことがわかります。四国遍路の信仰の源流にはこうした観音信仰の特徴である海洋信仰が大きく影響していると考えられています。
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2025年6月21日
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹に四国八十八箇所霊場第38番蹉跎(さだ)山補陀落(ふだらく)院金剛福寺(高知県土佐清水市)があります。
金剛福寺については、江戸時代後期に流布した案内記『四国徧禮道指南増補大成』によると、「卅八番 蹉跎山補陀落院金剛福寺といふ。此寺ハ大師以前よりありしを、勅を奉再興し、本尊千手千眼の大悲、御長六尺、二十八部衆ミな御作りにして安ず。此山役行者修行のとき、天狗多かりしを咒伏せしかハ、天狗ども足ずりもだえけるより蹉跎山と云。大師唐にて投給ふ五鈷杵金剛此山にとどまるゆへに金剛福寺といへり。観音の霊場なるが故に補陀落を院号とす。種々の霊験ども人ミな目にまじへて感す」とあります。蹉跎山の由来となった足摺山で修行した役行者と天狗の伝説、弘法大師が唐から放った五鈷杵(ごこしょ)伝説、観音霊場であることなどが紹介されています。
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「御本尊千手観世音菩薩 脇士の二十八部将共大師の御作。当寺は大師四国御巡錫の砌土佐南端の此地に立ち千手観世音の御影向を拝されたので、これぞ観世音菩薩利生の霊地なりとて嵯峨天皇に奏聞せられ、天皇から補陀落東門の勅額を下され、勅願所として月輪山金剛福寺と号し精舎を建立すべき旨仰せられましたので、大師は弘仁十三年伽藍を建立し本尊を刻み鎮守には熊野三所権現を勧請せられ、又七不思議の奇跡と御自筆の御影を残されたのであります。爾来朝廷の尊信も厚く源家代々の尊崇するところとなり(後略)」とあります。
また、同年に刊行された『四国霊蹟写真大観』には、金剛福寺本堂、仁王門、方丈、蹉跎岬灯台、七不思議(ユルギ石、亀呼の岩)の写真が掲載されています(写真①)。
写真① 金剛福寺『四国霊蹟写真大観』(昭和9年、当館蔵)
金剛福寺の歴史上特筆すべきは観音菩薩の霊地で補陀落渡海の修行場であったことですが、この点については次回にふれたいと思います。
四国遍路道中図で金剛福寺を確認しましょう(写真②)。
写真② 四国遍路道中図に記載された金剛福寺
昭和13年(1938)の渡部高太郎版(当館蔵)では、分かりやすくするための工夫として四国の形がデフォルメされているため、土佐(高知県)の西南端の金剛福寺と東南端の室戸岬にある第24番最御崎寺(東寺)が東西で対峙する位置関係で記載されています。札所を示す丸印の中に本尊(三面千手観世音菩薩)の略式御影が描かれ、「三十八・蹉跎山・金剛福寺」とあります。また、付近の岬は「蹉跎岬」と表記され、地図の枠線から少しはみ出して、灯台の印が付されています。戦後に発行されたと推察される徳島の藤井商店版(個人蔵)では「蹉跎岬」から現在の「足摺岬」に名称が変更されています。ちなみに足摺岬の灯台は大正3年(1914)に初点灯されました。
金剛福寺の歴史で注目したいのは「足摺七不思議」です。
『四国徧禮道指南増補大成』をはじめ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」に「一二ハ夜中ニ海上ヨリ龍灯上ル」「二ツニハユリギ石トテ長一間余リ高サ四尺ノ大石在リ」「三ニハ夜中ニ龍馬上テ馬草ヲ喰所」「四ニハ午ノ時ノ雨」「五ニハ夜中ノ潮」「六ニハ不増不滅」「七ニハ鏡ノ石」「又宝密・愛満・熊野ノ滝トテ三ノ滝在リ」「愛満ノ滝ノ上ニ大師御建立ノ石ノ鳥居在り」「宝満ノ滝ノ上ニ□字石面ニ有リ五寸斗也。大師ノ御作ナリ」とあり、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」には「アシスリ七不思儀 一天燈龍燈 二宇動石 三潮満丁石 四クマノ三所ゴンゲン鳥居 五亀ノ出入 六極楽穴 七鉦石 外ニ 丑時龍馬 午時雨 不増不滅水 三股石」と記載されています。足摺七不思議の内容は諸説あり、七つに限りません。金剛福寺が立地する足摺岬の大自然や奇跡は江戸時代の案内記や絵図類に紹介されるほど、四国遍路の見どころであったことがわかります。
明治期に発行された金剛福寺の詳細な絵図「四国第三拾八番土佐国足摺山図」(当館蔵、写真③)があります。同寺の略縁起を記し、描かれた絵図の範囲は境内(本堂、愛染堂、多宝塔、大師堂、鎮守、二王門、和泉式部塔等)のみならず、足摺岬沿岸に点在する足摺七不思議等の旧跡(テングハマ、リウノコマ、アジイシ、シコクアナ、イシノトリヒ、南無阿弥陀仏、カメヨビバ、ヲンガクノハエ、ユルギイシ、フドウ、石仏、ホウマンダケ、エウセンダキ、イヌイシ、シヲノミチヒノイシ、ゴジノアメ等)も細かく描かれています。また、境外の茶堂の近くには足摺岬の灯台建設地と見られる「逓信省灯台建築地」、沖合には日の丸を付けた蒸気船なども描かれ、近代の文明開化の様子を醸し出しています。絵図からわかるように、四国霊場としての金剛福寺は足摺岬とセットで捉えられています。
写真③ 「四国第三拾八番土佐国足摺山図」(当館蔵)
現在、足摺岬灯台や足摺七不思議のスポットに行くには、金剛福寺の仁王門を出て、県道を横切って、四国のみち(四国自然歩道)の海岸コース「足摺白碆へのみち」を歩いて訪れることができます。案内看板等も整備されています(写真④)。金剛福寺の参詣後、足摺七不思議を散策してみてはいかがですか。
写真④ 現在の足摺七不思議(当館撮影)
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2025年6月20日
「四国遍路道中図」が発行されていた大正~昭和時代、四国遍路の土産として買い求められたものに「もぐさ(艾)」があります。
もぐさは「よもぎ」の葉の裏にある繊毛を精製したもので、主に「灸(きゅう、やいと)」の材料に使用されます。灸は江戸時代に民間療法として庶民の間で浸透したと考えられ、効能は温熱刺激による血行促進やリラックス効果、鎮痛効果などがあります。もぐさは梅雨明け後の花の咲く前の「よもぎ」を収穫し、天日で乾燥させ、すり鉢、石臼などで細かく粉砕し、葉や茎などの不純物を取り除き、毛の部分を選別して出来上がります。
愛媛では、遍路も訪れる道後温泉の土産として、古くからもぐさが有名でした。文化14年(1817)の『四国名物集』によると、「道後名物 結城縞、道後酒、唐あめ、もぐさ、まんじゅう、道後せんべい、甘酒」とあり、江戸時代の道後の名物の1つであったことがわかります。大正8年(1919)の高浜虚子『伊予の湯』では、「伊予絣、湯染手拭、砥部焼、竹細工、猿の腰掛細工、湯の花、湯桁飴、湯晒艾(ゆざらしもぐさ)などを買ふ」と記され、同13年(1924)の久保正『道後の温泉』には「湯ざらし艾は其の名の如く温泉で晒したもので、特にききめが多いといふので土産として喜ばれる」と紹介されています(今村賢司・石岡ひとみ「近代案内記に見る松山・道後土産について―伊予絣・砥部焼を中心に―」『瀬戸内海ツーリズム』愛媛県歴史文化博物館、2024年参照)。
道後の土産店で販売されたもぐさは、棟田もぐさ商店(愛媛県松山市、赤星平癒堂)で製造されたもので、昭和40年代以前にはほとんどの土産店で取り扱っていたとのことです。道後以外では、三津の商店街、四国八十八箇所霊場第51番石手寺の土産店などでも販売されていました。同店は平成13年頃まで四国で最後のもぐさ製造所でしたが、令和5年3月末に廃業されました。
棟田もぐさ商店製造のもぐさは箱入りと袋入りがあります(写真①)。箱には弘法大師の図像入りで、「四国霊場 弘法大師 線香付 道後温泉湯晒御艾 松山市港山町 赤星事 棟田正夫謹製」とあります。袋には「道後温泉湯晒」とあり、道後温泉本館、宝珠、白鷺などが描かれ、「うんこう日」(運虚日)として、「御艾 正月ひつじ、二月いぬ、三月たつ、四月とら、五月うま、六月み、七月とり、八月さる、九月ゐ、十月子、十一月うし、十二月う」と記され、それぞれの干支の日は「いむ(忌む)日」で、やいとをすえてはいけない日とされていました。
写真① 「道後温泉湯晒御艾」の収納箱・袋(当館蔵)
四国では道後のもぐさの他に弘法大師空海の生誕の地と伝えられる四国八十八箇所霊場第75番善通寺(香川県善通寺市)界隈でも何種類かのもぐさが製造・販売されています。
善通寺参拝記念土産の絵葉書「讃岐善通寺名所」のタトウ(紙製の袋)には、善通寺大門前の渋谷通信堂による「大師艾」の絵入の広告(個人蔵、写真②)が掲載されています。「衣服の上よりすへる不思議な艾(やいと) 讃州屏風浦 五岳山霊草 大師艾 大師艾は御加持を施し有ば日の吉凶によらず 何時すへてもよし諸病にもちひて御利益あり」とあります。日の吉凶によらず、いつでも衣服の上から灸をすえることができる不思議なもぐさであると宣伝しています。
写真② 絵葉書に見る「大師艾」の広告(個人蔵)
一方、加納大慈堂(同市)が製造・販売した「禅定押艾」(50本入り)の実物があります(個人蔵、写真③)。袋の表面には、幼少期の空海(真魚・まお)の伝説「捨身ヶ嶽」の場面が描かれています。7歳の頃、空海は険しい山(我拝師山)に登り、「将来仏法を広めようと願っています。この願いが叶うのであれば、私をお助けください」と捨身ヶ嶽から身を投げましたが、天女が現れ、真魚を抱き止めたと伝えられています。捨身ヶ嶽は四国霊場第73番出釈迦寺(同市)の奥之院の地とされています(写真④)。
写真③ 「禅定押艾」(個人蔵)
写真④ 捨身ヶ嶽(当館撮影)
裏面には「艾は古来より薬草中最高の霊草として灸術界の奇蹟的絶大なるは今更申す迄もなく、医学界が研究の結果益々其の効験を認め、皆さんが等しく其の使用推奨されるは御存じの通りで、弊舗製造の押艾は始祖以来の秘法により精製せしものなり。温熱療法に最も良く身体健全となるには一層の御愛用下さい。」と宣伝しています。
袋の中に入っている禅定押艾は棒状で、1本(長さ約14㎝、中身約12㎝、直径約1㎝)ずつ紙に巻かれ、巻紙には男子用は黒字で「商標登録第358240号 (羯磨像)弘法大師直伝秘法 大師七歳之霊跡 捨身ヶ嶽霊草 禅定押艾 男子用 厳修 讃州屏風浦善通寺(火ツケル方) 謹製並交附所 加納大慈堂 (梵字)」と記され、女子用は赤字で記されています。火を付ける部分には「火ツケル方」と注記があります。
遍路土産のもぐさに共通する特徴としては、科学的な効能を記したものというよりは、秘法により精製された四国の奇蹟の霊草であることが強調され、弘法大師空海のもつ加持祈祷による呪術性・神秘性にあやかって宣伝されている点にあります。もぐさに限らず、大正7年(1918)の『弘法大師遺訓 妙薬いろは歌』(写真⑤)などの書物が示しているように、民間信仰の家庭療法と弘法大師信仰が深く結びついていることを意味しています。弘法大師によって「諸病にもちひて御利益あり」と謳われたもぐさは、遍路の土産として人気が高かったことが理解できます。
写真⑤ 『弘法大師遺訓 妙薬いろは歌』大正7年、個人蔵
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2025年6月14日
愛媛県松山市の松山観光港と福岡県北九州市の小倉港を結ぶ「松山―小倉航路」(写真①)が本年6月末で廃止されます。運営する松山・小倉フェリー(株)(松山市)の報道発表によると、令和2年(2020)以降、新型コロナウイルスの影響により、乗客やトラックなど車両の利用が大幅に落ち込み、加えて燃料価格の高騰や船の老朽化により、これ以上の運航継続は困難と判断し、航路廃止の決断に至ったとのことです。
写真① 石崎汽船の「松山・小倉フェリー」(松山観光港、当館撮影)
松山―小倉航路は旧関西汽船(株)(大阪市)が昭和48年(1973)に開設し、平成25年(2013)3月末に「フェリーさんふらわあ」が松山-小倉航路から撤退したことを受けて、石崎汽船(松山市)が松山・小倉フェリーを設立して運航を引き継いできました。筆者も松山・小倉フェリーに乗船したことがありますが、夜間の時間を有効活用できるうえ、設備も行き届いており、快適に移動することができました。今回、松山と九州を結ぶ唯一の航路が廃止されることにより、愛媛にとっては人流と物流の両面でマイナスの影響が心配されます。
四方を海で囲まれた四国にとって定期航路の廃止は、人々の生活、観光、経済などへの影響が懸念されます。四国遍路においては、四国外から巡拝に訪れる遍路の交通手段の選択肢が少なくなるだけでなく、遍路の行程、宿泊地、経費など四国遍路全般の計画にも少なからず影響を与えるものと思われます(本ブログ13「四国に渡る汽船と巡拝方法」参照)。
四国遍路にとって九州と松山を結ぶ航路がいかに重要であったか、近代の四国遍路の資料から考えてみましょう。
四国遍路道中図では大正6年(1917)の駸々堂版に「三津ヶ浜上陸 九州北地方ハ五十二番の太山寺より始むるがよし」、昭和13年(1938)の渡部高太郎版に「高浜三津浜上陸 山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルガヨシ」と記され、松山の港は山口・九州北方面からの上陸港として長年、数多くの遍路にも利用されてきました(当館蔵、写真②)。
写真② 山口・北九州方面からの上陸港であった松山の港
昭和10年(1935)の四国遍路案内記である武藤休山編『四国霊場礼讃』(大澤自昶著作権発行人)によると、「山口県の西部、福岡、佐賀、長崎県、及び台湾、朝鮮、満州、方面の方は門司、下の関より乗船して高浜に上陸するのが最大便利である」(個人蔵、写真③)と記されています。戦前には福岡県・門司港及び山口県・下関港と愛媛県・高浜港を結ぶ定期航路が就航され、このルートは山口・九州方面のみならず、遠く海外の台湾、朝鮮、満州から福岡を起点にして四国に上陸する重要な瀬戸内海航路であったことがわかります。
写真③ 武藤休山編『四国霊場礼讃』(昭和10年、個人蔵)
同書にはさらに、「門司発の汽船は毎朝六七時頃に着船するから、高浜に上陸したら順に廻る人は会社の裏より霊仙洞を経て五十二番太山寺へ行くが極近道で僅に十丁余である(中略)順拝し終りには五十一番石手寺を打納め道後にてゆるゆる入湯でもして天候を見合せ午後より支度して太山寺並に霊仙洞へ礼参りして四時の夜汽船に乗れば夜明に門司、下関に着船す」とあり、高浜港上陸後のお奨めの四国巡拝の方法が記されています。なお、霊仙洞は高浜港から太山寺に至る経ヶ峰越への山道沿いにある霊窟ですが、現在廃墟と化しています。
戦後、松山と九州を結ぶ定期航路は、昭和25年(1950)の瀬戸内海航路の時刻表によると、旧関西汽船によって「今治―門司線」が就航されています。上り便は門司(17:00)⇒高浜(4:00)⇒今治(8:00)、下り便は今治(17:00)⇒高浜(20:30)⇒下関(7:30)⇒門司(8:30)のダイヤで隔日に運航され、愛媛県の高浜港に加えて今治港まで寄港地が延伸されています(個人蔵、写真④)。
写真④ 関西汽船「今治―門司線」時刻表(昭和25年、個人蔵)
次に、九州北部(福岡県)から海を渡って四国霊場を巡拝した遍路の資料を見てみましょう。
明治時代の筑前国宗像郡(福岡県宗像市・福津市)の講中札があります(当館蔵、写真⑤)。講中札とは四国八十八箇所霊場の巡拝を目的として結成された講(団体組織)で作成した納札のことで、諸事情のために四国遍路を行うことが難しい人たちが村や町などを単位にグループを作り、定額の積立を行い、目標額が貯まると代参者を選び、代参者は四国遍路へと出立し、札所で参拝した証として講中札を納めました。本資料には中央に「修行大師像 奉納四国八拾八ヶ所霊場 明治 年 先達 」と記され、講員と世話人の名前が記されています。また、墨書で代参者のものと見られる「日月清明 筑前国宗像郡田嶋村 奉納四国八十八ヶ所霊場 むま 同行二人」と記された納札が貼付されています。宗像郡の遍路がどのようなルートで福岡から四国に上陸したのかは不明ですが、最短の航路を考えると松山上陸ルートが想定されます。
写真⑤ 筑前国宗像郡の講中札(当館蔵)
同じく宗像郡野阪村出身の女性遍路が明治35年(1902)頃に伊予(愛媛県)・阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の三国参りを行った納経帳(個人蔵、写真⑥)があります。最初の頁には第58番仙遊寺、第59番国分寺(愛媛県今治市)の札所の番号印のみで、実際の納経は番外霊場の「御来迎臼井泉」(道安寺、愛媛県西条市)から始まっています。この女性遍路は、おそらく福岡から愛媛の今治もしくは松山に上陸して四国遍路を始めたものと推察されます。
写真⑥ 宗像郡野阪村出身の遍路の納経帳(明治35年、個人蔵)
今回の「松山―小倉航路」の廃止を受けて、四国遍路の歴史を振り返ると、遍路の出身地と四国入りの航路との関係によって、上陸後の四国巡拝の巡り方が変わり、航路の数ほど四国遍路の多様な姿があったと考えられます。航路の変遷と地域ごとの四国霊場巡拝の特色を捉えることは、四国遍路の移り変わりを探る上で注目されます。
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2025年6月13日
四国地方も梅雨入りしました。梅雨の期間は降水量が多く、湿度の高い日が続きます。今も昔も歩き遍路にとっては、雨具が必要となり、歩きにくい状況になります。
徳島県内で発行された四国遍路道中図の裏面に記載する「旅の心得」に「早く立ち早く泊るは災難無きなり又時間を急げばとて川越山ごえ船の乗り降りは慎んでなすこと」とありますが、具体的に雨天に関する注意は記されていません。今回は四国遍路道中図が用いられていた昭和時代(戦前)に発行された案内記類から、雨天時における遍路の心得や、遍路が用意する雨具について見てみましょう。
昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』には、雨天に関連した注意書きが詳しく記載され、遍路の雨対策の実態がわかります。該当記事を抽出して、「雨具」「川渡り」「宿屋」の3トピックに分類して、以下に紹介します。
【雨具について】
・笠は菅笠を用ゆるのです。(中略)笠の上に書く文字は「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何所有南北」と書くのです。(中略)又其の外に同行二人と認めること文字を書いた墨が乾いたら文字の上を種油で塗って置くと雨水をはじきます。
・雨着は御四国で買えば東京よりも代価が安いけれど、なるべく出立前に東京で求めて持参するがよい。二枚お持ちなさい。買う時は十二枚つぎと九枚つぎの二枚を、其の一枚は雨が降った時、荷物の上に着て小さいのは腰下のむれぬよう紐で腰の上部でしめるのです。油紙の隅には住所、姓名を書き入れておきなさい。
【川渡りの注意】
・近道をしようと思って、僅かな足をかばい無暗に足跡の少ない所を辿る時は、先に渡し場のない川へ出ることあり、後戻りするようなことがある。川の見える所の近道などは止めて本道を、本道には渡し船必ずあるのです。
・渡し場は出水の多い時は、川止めと云って船を出してくれません。若しそんな場合は上流或いは下流に架橋の有無を取り紛し、もしなければ後戻りして滞留するがよい。
【宿屋での準備】
・亦途中で雨に濡れて着物の袖或いは、裾がジメ々する場合は火で乾かしたいもの、之亦五銭なり十銭を前金に出して、宿屋で炭と火鉢を頼みなさい。
・宿屋出立の時は天候を見定め、若し雨降り模様もあれば途中で難儀するから合羽を荷物より出し用意しおくべし。
今日ではビニール製の手軽な合羽、防水性・撥水性・透湿性のある高機能なレインウエアなど様々な種類のものがありますが、それらが普及する以前は、油紙による雨着をまとった遍路の姿や、川に橋が架けられていない戦前の遍路道の状況などが読み取れます。
戦前、雨天時に四国八十八箇所霊場第75番善通寺を参詣した団体遍路の姿が写された絵葉書が2枚あります。御影堂に参拝する遍路の後ろ姿は、菅笠を被り、着物の上から雨着を装着しています(写真①)。御影堂参拝後、仁王門前の廿日橋を渡る遍路の姿は、手ぬぐいで頬を巻き、菅笠を被り、杖を持ち、同様に着物の上から雨着を装着しています(写真②)。写真が鮮明でないためはっきりとはわかりませんが、雨着は丈の長いものと短いもの2種類あり、安田が奨める大小2枚の油紙による雨着のように見えます。
写真① 絵葉書「屏風浦善通寺御影堂(弘法大師御誕生所)」(個人蔵)
写真② 絵葉書「屏風浦善通寺仁王門並廿日橋(弘法大師御誕生所)」(個人蔵)
また、昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』の次の一節には、戦前、雨天における歩き遍路の心情やイメージが語られています。
「はら、はら、とこぼれてきた、生憎の俄か雨である。だが、遍路たちは、雨脚に濡れながら行くのである。雨具といつては、たつた一枚のカッパと、『同行二人、遍照金剛』の菅笠一つ。それでいて、どのような土砂降りのなかをも遍路は、ひた行く。雨をおそれて、軒下や木蔭に立ち寄ることは、背信の行為とされている。その信念には、行軍する兵隊たちの気持ちとも一味相通ずるものがあるかもしれぬ。」
雨天時に歩き遍路を行うのは危険が伴うためなるべく止めて休息をとることが遍路の心得とされていますが、ここでは雨をおそれることは背信行為とされ、遍路にも軍国主義の影響が見て取れます。
最後に、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』から、雨をめぐっての遍路同士の会話を紹介します。
「雨の日はたいがいの遍路者は歩かないといふ事だが、この日は沢山あるいている。そこで尋ねたら「あんさん、後でお天気になりますがナ」「ヘエよく判りますネ」「そりゃ長年の経験でナ、これ見ておくれ」と赤い巡拝の名札を出して見せた。」、延光寺の本堂では「この合羽一円です、大きいですナ、大きい方がかういふ雨の時はいい」「左様か、わしは高知で買ひました、どうどす」「これは大阪や品物が悪いでナ」
歩き遍路にとって、雨具の良し悪しは遍路の安全性や道中の日程に大きく左右するため、雨天や雨具の情報は重要な関心事であったことが示されています。
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2025年6月7日
前回、昭和13年(1938)に松山の関印刷所が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版)から、「遍路の元祖」と伝えられる(右)衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの伝説地について紹介しました。
今回は四国八十八箇所霊場第47番八坂寺から第48番西林寺道に至る遍路道(西林寺道)の巡拝ルート(順拝指道)について、四国遍路道中図と案内記の記載内容から考えてみます。
四国遍路道中図の諸版を比較すると西林寺道のルートが異なることに気づきます。渡部高太郎版では、八坂寺⇒文殊院徳盛寺(衛門三郎古蹟、八塚)⇒小村(こむら)大師⇒西林寺と進みます(写真①)。小村大師は現在「札始大師堂」と呼ばれています。
写真① 四国遍路道中図に見る西林寺道(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)
それに対して、大正6年(1917)に大阪で発行された駸々堂版では、八坂寺⇒文殊院(衛門三郎旧跡)⇒森松⇒石井⇒西林寺へと進むルートを示しています(写真②)。大正期の駸々堂版では八塚と小村大師は記載されていません。
写真② 四国遍路道中図に見る西林寺道(駸々堂版、大正6年、当館蔵)
一方、昭和5年(1930)に徳島で発行された光栄堂版、同9年(1934)の浅野本店版、同15年(1940)の金山商会版などでは、八坂寺⇒文殊庵(衛門三郎旧跡、八塚)⇒西林寺のルートを示しています(写真③)。要するに、昭和13年の渡部高太郎版以外の四国遍路道中図では、西林寺道に小村大師は記載されておらず、そのため巡拝ルートが若干異なっていることがわかります。
写真③ 四国遍路道中図に見る西林寺道(光栄堂版、昭和5年、個人蔵)
次に江戸時代の案内記で西林寺道を確認してみましょう。
現存最古の四国遍路ガイドブックである、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』では「これより西林寺まで一里。〇えわら村、大師堂有。此村の南に右衛門三郎の子八人のつか有、石手寺の縁起にくハし。〇小村、大師堂、此間川三瀬有。〇たかい村」とあります。この記載から、江戸時代前期に「八塚」は衛門三郎の子どもたちの墓であると伝えられ、「えわら村の大師堂」と「小村の大師堂」の2つの大師堂が存在し、江戸時代前期の西林寺道はえわら(恵原)村の大師堂、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートであったことがわかります。ところが、江戸時代後期に流布した『四国徧礼道指南増補大成』では「えわら村の大師堂」「八塚」「小村の大師堂」の記載は一切ありません。ちなみに同書で衛門三郎伝説にふれるのは第51番石手寺と第12番焼山寺近くの杖杉庵のみです。寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」では、八塚と小村の大師堂に比定される庵が記載されており、江戸時代後期の西林寺道は八坂寺から八塚、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートと考えられます。江戸時代の小村の大師堂の後身と考えられる現在の札始大師堂の境内には、文政10年(1827)銘の手洗鉢が残されており(写真④)、小村の大師堂の痕跡を示すものとして注目されます。
写真④ 小村大師堂(札始大師堂)の手洗鉢(文政10年銘)
さらに近代の案内記を確認すると、明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』、大正15年(1926)の三好廣太『四国遍路 同行二人』には、衛門三郎の旧跡文殊院、八塚は紹介されていますが小村大師は言及されていません。
江戸時代以来、小村大師が再び紹介されるようになるのは昭和時代に入ってからと考えられます。弘法大師御入定一千百記念にあたる昭和9年(1934)に刊行された『四国霊蹟写真大観』の八坂寺解説文に「札始大師(四国八十八ヶ所巡拝のおこり)中略 文殊院より先に草庵を結ばれた所、後世小村の大師堂と名づく(文殊院より八町)」とあり、御詠歌「ありがたや伊予の小村の札始大師の光あらたなりけり」も記載されています。
近代の案内記の中で特に注目したいのは、昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場礼讃(四国順拝案内記)』です。本書によると文殊院徳盛寺は番外札所として紹介され、「当山は衛門三郎の旧跡地であり遍路根本道場である山主大澤自昶晋住以来内容外観の整備に専念し居り遍路の由来を宣説し教化の意義を徹底なさんがため庫裏を提供して通夜の便を与へ毎夜法話をなし懇切丁寧に旅情を慰めつつあり」とあります。文殊院徳盛寺は「遍路の根本道場」と称して、通夜する遍路に対して遍路の由来と教化の意義について住職が説法を行っていたことが読み取れます。同書には文殊院が発行する『遍路開祖衛門三郎四行記』『同四行記絵伝』『四国順拝和讃』『四国巡拝道中記』などの広告が掲載されています。
また、小村大師については「大蓮寺境外仏堂大師堂 当堂には小村屋の宿泊。賄所あり春間毎夜堂主の、礼讃主義の講和あり」と紹介され、四国遍路で賑わう春季には宿泊する遍路に対して堂主による法話が行われていたようです。小村大師堂においても弘法大師と衛門三郎の刷り物(当館蔵、写真⑤)や「遍路開祖衛門三郎四行記絵伝」などが発行されており、積極的に情報発信を行っていることがわかります。ところで『四国霊場礼讃』の刊記によると、著作兼発行者は大澤自昶と記され、本書は文殊院で発行されたものと見られます。
写真⑤ 小村大師堂(札始大師堂)で発行された「弘法大師と衛門三郎」の刷り物(当館蔵)
このように、文殊院と小村大師堂の両寺院は、住持による法話、案内記、刷り物などで積極的に四国遍路の開創に関わる衛門三郎ゆかりの重要な番外霊場であることを発信しています。その背景には、昭和9年の弘法大師御入定一千百記念という四国遍路の歴史の節目を迎えたことも影響していると推察されます。
戦後、昭和29年(1954)の後藤信教『四国順禮 南無大師』では「衛門三郎(杖杉庵で述べた遍路の元祖)の菩提所文殊院あり。次小松(小村の誤植)に札始め大師へ参拝」と記されているように、衛門三郎の菩提寺とされる文殊院と、「札始大師堂」と称されるようになった小村大師は、今日の西林寺道で遍路が参詣する有名な番外霊場として定着していることがわかります。
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