四国山地西部に位置する石鎚山(標高1,982m)は西日本最高峰で、古来より山岳信仰(修験道)の山として知られ、多くの修行者が登拝しました。空海著『三教指帰(さんごうしいき)』に「或時は石峯に跨(またが)って粮(かて。食糧の意)を絶ち轗軻(かんか。苦行錬行の意)たり」と記されているように、青年期の空海も霊峰石鎚山で修行しました。
今年も7月1日から7月10日まで石鎚山の祭礼「お山市・お山開き」(石鎚神社夏季山開き大祭)が斎行されます。
石鎚神社(愛媛県西条市)のホームページによると、「その間の登拝者は、全国各地より数万人を数えます。3体の御神像は、6月30日早朝、本社で出御祭を斎行後、3基の神輿に御動座申し上げ、石鎚山麓の里々で御旅所祭を斎行しながら成就社へ向かいます。同夜は成就社本殿に御仮泊、翌7月1日午前7時、信徒の背により「仁」「智」「勇」の順に頂上社へと御動座申し上げ、10日間の大祭の幕が切って落とされます。通常、本社に奉斎されている御神像が頂上社へ御動座奉祀される間がお山開きの期間となるのです。」とあります。
石鎚山の古い絵葉書には、お山開きで賑わう成就社、鎖禅定の様子が写されています。また、絵葉書に押印された登山参拝記念のスタンプは三体の御神像(「仁」=玉持、「智」=鏡持、「勇」=剣持)がデザインされています(写真①)。
写真① 石鎚山関係絵葉書(個人蔵)
今回は霊峰石鎚山が「四国遍路絵図」にどのように紹介されているのか、江戸時代の細田周英「四国徧禮絵図」や近現代の「四国遍路道中図」などから見た石鎚山について紹介します。なお、石鎚山の表記は「石鎚」「石槌」「石鈇」「石鉃」「石鉄」などが見られますが、史料からの引用以外は「石鎚」で統一しています。
現存最古の四国遍路絵図として知られる、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」(写真②、当館蔵)では、「六十横峯寺」(第60番横峰寺)に「是ヨリ石ツチ山エ六リ八丁」と注記があり、横峰寺から峠の鳥居(⛩)までの道が示されています。そして、鳥居から石鎚山を見渡すような構図で雲海に聳える山容が描かれ、「石鎚山 六月朔日ヨリ三日マデニゼンジヤウスル」と記載されています。「ゼンジヤウ」(禅定)とは山岳信仰における修行の一形態で鎖場を登ること、霊山に登って修行することを意味し、当時は旧暦6月1日から3日まで行われていたお山開きについて記載されています。
写真② 石鎚山周辺(細田周英「四国徧禮絵図」宝暦13年、当館蔵)
ここで注目したいのは描かれている峠の鳥居です。それは寛保2年(1742)に建てられた現存する「鉄(かね)の鳥居」(写真③)と推察されます。この場所は古くから石鎚山遥拝所として知られ、白雉2年(651)に役小角が蔵王権現を感得した地とされ、弘法大師が除災求福を祈る星供養を行ったと伝えられる「星ヶ森」(国名勝)と考えられます。
写真③ 鉄の鳥居(星ヶ森)から石鎚山を臨む(当館撮影)
昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、寺から暫し打戻って左へ山道を二町登りますと、大師が嵯峨天皇の勅を受けて一七日の間雨乞星供の護摩を修された星ヶ森の秘壇があり、鉄の鳥居は石鎚山の発心門として昔から有名であります。谷を越えて前方に石鎚の霊峰を望み、参拝者はここからモエ坂を下って登ります」とあります。
現在、横峰寺参拝後に石鎚山を登拝する場合、鉄の鳥居からモエ坂を虎杖(いたずり)まで下り(写真④)、今宮道あるいは黒川道(通行困難)を上り、成就社を経て、石鎚山頂に至るルートとなります。絵図に描かれた横峰寺と石鎚山の間の雲海の下には、モエ坂経由の石鎚登山道が通っていると思われます。
写真④ モエ坂(当館撮影)
絵図でもう一つ注目したいのは、第64番前神寺の寺名が「里前神寺」となっている点です。貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』に「此札所は高山、六月朔日おなじく三日ならで、参詣する事なし。このゆへに里まへ神に札をおさむなり」とあるように、お山開きの3日間だけ石鎚山登拝が許されていたため、麓にある前神寺(里前神寺)で参拝を行っていました。
もう一例、江戸時代後期に第43番明石寺周辺で作成された絵図(写真⑤、当館蔵)を確認します。本図では横峰寺から石鎚山に至る道が示され、途中に鳥居があります。切り立った石鎚山には山頂社と鎖禅定の細部まで描かれ、「石づち山 かねのくさりとりあがる」と注記されています。また、前神寺と横峰寺を結ぶ道が描かれ、「石づち迄九リ八丁」とあり、前神寺からの石鎚山までの距離が示されています。横峰寺と前神寺の両札所は、江戸時代に石鎚蔵王権現の別当を務めていたことから、石鎚信仰の拠点となる霊場を示したものと推察されます。
写真⑤ 石鎚山周辺(「四国へんろ絵図」江戸時代後期、当館蔵)
次に、近現代の「四国遍路道中図」を確認します。大正6年(1917)に大阪で発行された「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真⑥、当館蔵)では、赤い丸印で「石槌山」と「⛩石鎚祠」「64.00尺」と記載されています。第60番横峯(峰)寺から石槌山へは赤い点線で結ばれ、「一里」とあります。補足的な意味で石鎚山へのルートが示されています。図中の鳥居印は星ヶ森の鉄の鳥居ではなく、石鎚神社の鳥居を示していると考えられます。昭和6年(1931)の駸々堂版も同一の内容です。
写真⑥ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」大正6年、当館蔵)
四国内で発行された昭和9年(1934)の「四国遍路道中図」(浅野本店版)(写真⑦、個人蔵)では、大きな赤丸に「石槌山」、「⛩石槌神社」と記載されていますが、横峰寺からの石鎚山への巡拝道は記載されていません。また、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)(写真⑧、当館蔵)では、伊予と土佐の国境に石鎚山の山容が目立つように描かれ、「⛩石鎚神社」と表記されていますが、四国霊場と石鎚山は切り離された存在として記載されています。
写真⑦ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和9年、個人蔵)
写真⑧ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和13年、当館蔵)
このように「四国遍路絵図」の中の石鎚山に注目すると、江戸時代と近現代で記載内容が大きく異なっていることがわかります。神仏習合時代の江戸時代の遍路絵図では、石鎚山は石鎚蔵王権現を祀る石鎚社が本地であり、横峰寺と前神寺の両寺院はその別当寺院であったという歴史をもとに、山岳修験の霊場としての石鎚山と四国霊場が一体化した四国遍路観によって作成されているものと考えられます。
一方、大正~昭和時代の「四国遍路道中図」では、石鎚山と石鎚神社の情報は記載されているものの、四国巡拝ルートからは切り離され、地図上では四国霊場と石鎚山の密接な関係は示されていません。このことは一般の遍路を対象にした四国八十八箇所霊場の簡易な案内地図として作成され四国遍路道中図の性格に起因しますが、時代によって四国霊場の捉え方やその巡拝ルートが変遷していることや、遍路絵図作成者の四国遍路観が反映されていると考えられます。