テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介②

2025年8月4日

 今回はテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」から、陶器製のおろし・ボタン・剣山を紹介します。

 16年度には戦時物資活用協会が、17年度には金属回収統制株式会社が中心となり、一般家庭からの金属回収が実施されました。一般家庭に比較して企業からの回収実績は少なく、翌18年4月16日に東条英機内閣は「昭和18年度金属類非常回収実施要綱」を閣議決定し、8月12日に「金属類回収令」を改正して82業種から40設備を、23施設から鉄62品目、銅72品目、鉛14品目を供出可能としました。これには企業の「未動遊休設備」、「不要不急設備」、「仕掛品」を回収しようとするねらいがありました。

 このように一般回収から特別回収へ、特別回収から非常回収へと、回収の種類や品目が拡大するなかで、世の中には代用品が多く出回るようになりました。金属に代えて陶器や紙といった別材料を用いた代替物です。今回の陶器製のおろし・ボタン・剣山もその一例です。このような陶器製の代用品には、多くの場合統制価格で販売されることを示す生産者別標示記号が記されています。本資料の剣山にも三重県四日市市を中心とする万古焼であることを示す「万025」の刻印があります。

 陶器製のおろしを見ていると、このようなものまでも……と当時の苦しい生活が想起されます。その一方で陶器の地肌を細かく跳ね返して、おろしの刃が精緻に作られており、伝統技術が皮肉な形で活かされていることにも驚かされます。科学技術が使いようによっては平和にも戦争にも利用されるように、伝統技術も平和と戦争に無関係でないことが分かります。本資料は統制陶器が単なる代用品ではないことを伝えています。

         上段左が剣山、右がおろし、下段がボタン(個人藏)

テーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」資料紹介①

2025年8月3日

 現在、当館ではテーマ展「戦後80年 戦時下のくらし」(8月31日まで)を開催しています。本展は、①戦時下の子どもたち、②戦時下のくらし、③出征と銃後、④愛媛の空襲、以上4章から構成しています。これから4回にわたり、各コーナーの代表的な資料を紹介します。

 当時、政府は官公庁から工場、工場から一般家庭に金属回収を広げようとしており、同年4月1日~5月20日に愛媛県と県内の5市が金属回収を実施しました。続いて8月30日~9月30日に愛媛県と県内の市町村が金属回収を行っており、この際に松山高等女学校の校門も回収されたものと思われます。学校の顔とも言える校門が回収され、木の扉となったことに、4年半通い続けてきた少女の複雑な心境が表れています。

 また、昭和16年12月8日には、「午前十一時四十分、米国英国に対する宣戦の大詔が渙発せられ、試験中だったけれどスピーカーで放送された。その時早や我が空軍はハワイやフィリッピンを空襲していた。東條首相の放送も聞いたが、試験の事なんか忘れて失ふほど感激しそうだった。」と記されています。

 これは当時の女学生が太平洋戦争の開戦をどのように知ったかを記した貴重な日記です。試験中にもかかわらず、学校の放送を通して宣戦の大詔が流れ、歓喜する少女の姿が想像できます。当時、学校で開戦を知らせる放送が流れたことはほかにも証言があり、戦時下における学校の様子がよくわかります。

 日記は誰かに見せることを想定せずに書かれているため、当時の素直な感情や世の中の動きを知ることができます。戦争がどのように始まり、人々はどのように受け止めたのか、それは最終的に日本が敗戦を迎えるに至る起点として、おさえておく必要があります。今回紹介した日記は、女学生の視点から戦争へ突き進んだ時代について、多くのことを私たちに伝えくれています。

               昭和16年9月26日の日記(当館蔵)      

               昭和16年12月8日の日記(当館蔵)

歴史講座「親子で体験!学ぼう戦時下のくらし」を開催しました!

2025年8月2日

 最初は日清戦争から太平洋戦争に至る歴史を概観した上で、「遊び」・「学校」・「生活」をテーマに、小学校1~4年生には戦時中のおもちゃや通知表を現在と比較したり、金属回収によって普及した代用品(紙製洗面器や防衛食器)が何でできているかを考えてもらったりしました。また、小学校5~6年生には衣料切符を紹介して、上着・ズボン・スカート・くつ下を買う体験をしてもらいました。また、夏休みの自由研究として平和学習に取り組む際のワンポイントアドバイスも紹介。最後に防空頭巾、もんぺ、ゲートル、千人針、陶器製湯たんぽなどに触れてもらったり、身に着けてもらったりしました。

 戦争体験者が少なくなるなか、親子で戦争や平和について考える機会は少ないのではないでしょうか。戦時下のくらしを知り、現在と比較することで、平和の大切さを考えるきっかけとなれば幸いです。当館では実物資料を学校に持参する出前授業も行っています。ぜひ、お気軽にお問い合わせください。

全体風景
全体風景
防空頭巾を体験
防空頭巾を体験
ゲートルを体験
ゲートルを体験

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情90―太山寺参道の茶屋― 

2025年8月1日

 四国八十八箇所霊場第52番札所の太山寺(松山市太山寺町)の参道には古くから茶屋がありました。現存最古の四国遍路のガイドブックとされる貞享4年(1687)の真念『四国辺路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「爰に太山寺の惣門有、是より本堂まで八丁。ふもとに茶屋あり」とあり、また、寛政12年(1800)の『四国遍礼(へんろ)名所図会』には「是より太山寺村の茶屋に戻り両荷物を請取行」とあり、太山寺の惣門(一の門)から本堂までの長い参道は、同じ道を往復する打戻りとなるため、遍路は荷物を茶屋に預けて参拝していたことがわかります。

 太山寺境内を細密に描いた明治30年(1897)の「四国霊場豫州太山寺全図」(当館蔵、写真①)には、太山寺は松山の海の玄関口である三津浜港、高浜港などに近く、長い参道には茶屋が数軒あることが確認できます(「えひめの歴史文化モノ語り165」参照)。

写真① 「四国霊場豫州太山寺全図」(明治30年、当館蔵)

 「四国遍路道中図」が発行されていた昭和10年代には、6軒の茶屋があったとされますが、戦後、崎屋(さきや)、布袋屋(ほていや)、木地屋(きじや)、井筒屋(いづつや)の4軒となり、平成27年(2015)には、参道の奥部にあった井筒屋(写真②)が建物の老朽化のため取り壊されました。その際、井筒屋関係資料の一部が当館へ寄贈されました。

写真② 太山寺参道の奥部にあった井筒屋(当館撮影)

 ご当主によると、井筒屋の屋号は庭にある御影石で組んだ井戸の井桁(いげた)から命名され、主に太山寺を参詣する遍路等に食べ物や土産を販売しながら、旅館業を営んでいました。店頭で太山寺名物「つつじ蒟蒻(こんにゃく)」、あんころ餅、ロウソクなどを販売し、春になると、近隣の村や忽那諸島の住人がやって来て、井筒屋の軒先を借りて、小豆ご飯・うどん・餅・菓子・ちり紙・お賽銭などを遍路にお接待したそうです。あんころ餅のお接待に使用した菓子皿(漆器)には「イヨ太山寺」の銘があります(写真③)。井筒屋は太山寺の檀家を務め、太山寺と茶屋との密接な関係がうかがい知れます。

写真③ あんころ餅のお接待で使用された菓子皿(当館蔵)

 井筒屋の建物は旅館として特別な造りではなく、農家住宅を基本とした間取りで、炊事場には大きな竈が据えられていました。愛媛県旅館組合聯合(れんごう)会宿泊料認定委員会による客室平面略図(昭和17年)には、1、2階にある6つの客室の等級が記され、一等室は1室、二等室は4室、三等室は1室、四等室は0室でした。宿屋関係資料として「三津署管内宿屋営業組合員之証」(写真④)、宿帳「宿泊人名簿」(写真⑤)、荷物送り先印(写真⑥)などが残されています。

写真④ 三津署管内宿屋営業組合員之証(当館蔵)
写真⑤ 宿泊人名簿(昭和11~21年、当館蔵)
写真⑥ 荷物送り先印(当館蔵)

 宿帳には昭和11年4月1日~21年3月までの宿泊者の投宿・出発月日時、前夜宿泊地名、行先地名、宿泊者の特徴、続籍・国籍、住所、職業、氏名、年齢などの項目から記載されていますが、白紙が多いです。荷物送り先印(木版)には大阪、門司、下関、大分、長崎などの地名と屋号が記され、行商人の荷物を回漕する際に用いられたものです。

 井筒屋から参道を下ったところに茶屋「布袋屋」があります。別名「捻(ね)じれ竹」と呼ばれ、明治37年(1904)の松山案内記である高濱清『松山道後案内附伊豫鐵道の栞』に「ねぢれ竹は茶店の名なり。庭前の生えたる竹を三竿ほどづゝねぢり合せたるあり。人以て珍とす。亭の名ある所以也」と紹介され、捻じれ竹は現在も生い茂っています(写真⑦)。

写真⑦ 捻じれ竹(当館撮影)

 遍路の金剛杖には青竹を使わないのは、太山寺の捻じれ竹伝説にもとづくとされ、昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八札所遍路記』(大法輪閣)には、「参道の宿屋ねぢり竹の庭の竹も七不思議の一つである。帰路木戸をあけて見せてもらったが、二本の竹がねじり合い一本になっている。若竹のねじり合いかけているのも数本。むかし、不義をした男女が竹の生杖をついて遍路してきて、ここで休んでいる間に二本の生杖がねじり合った。以来、ねじり竹が生えるようになった。」とあります。

 ところで、松山出身の俳人・実業家の村上霽月(せいげつ。本名半太郎)は幼少期の明治10年(1877)に祖父とともに四国遍路を行いましたが、この布袋屋で遍路装束に着替えて出立しています。明治43年(1910)の回想録には、「出立の時太山寺迄大衆の人に見送られて太山寺の捻ぢれ竹といふ茶屋で遍路の姿に出立ちて午過に初て南無大師遍照金剛を唱て立つたと思ふ」と記されています(今村賢司「村上霽月の四国遍路」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第25号、2020年)。

 太山寺参道の茶屋では、遍路の休憩所や宿泊、あるいは接待の場所として利用されましたが、村上霽月の事例からは、太山寺から出発して四国巡礼を行う遍路支度の場でもあったことがわかります。興味深いのは、四国遍路の出立時に家族等大勢の人が見送るという「下向(げこう)祝い」の習俗が見られる点です。冒頭で紹介した「四国霊場豫州太山寺全図」には「下向坂」と呼ばれる坂道が確認でき(写真①)、本堂と大師堂参拝後の遍路は下向坂を下り、打戻りとなる参道に合流したと推察されます。つまり現在とは少し異なる太山寺参拝の順路があったと考えられます(今村賢司「四国霊場第五十二番札所・太山寺の近代整備への軌跡―古写真・境内図・太山寺文書を素材として―」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第25号、2020年)。 

 太山寺は松山の海の玄関口に近いという立地から、九州、山口方面からの遍路が最初に巡拝する起点となる札所でした。そのため太山寺の茶屋ではそうした遍路に対して様々な営業活動やサポートが行われました。四国遍路を地域で支えるにあたり、茶屋の役割はとても大きかったことがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情89―社会と人生の縮図の遍路宿―

2025年7月26日

 愛媛県上浮穴郡久万高原町下畑野川で遍路宿を営んでいた大黒屋の宿帳が残されています。表紙に「宿泊人名簿」と記され、昭和7~18年(1932~43)にかけての10冊が当館に寄贈されています(写真①)。宿帳には投宿年月日と出発月日、前夜宿泊地名、行先地名、住所、職業、氏名、年齢などの9項目が記入されています。それらの内容を詳細に分析した星野英紀氏によると、遍路の出身地は四国地方が全体の半数を占め、次に近畿、九州、中国地方の順となること、戦争の影響から次第に遍路の数が減少していること、愛媛県が多いのは松山十箇所詣の遍路が大黒屋に宿泊していたことなどが指摘され、昭和10年代の四国遍路の動向を窺う上で貴重な資料であることがわかります(星野英紀『四国遍路の宗教学的研究―その構造と近現代の展開―』法蔵館、2001年)。

写真① 大黒屋の宿帳(当館蔵)

 下畑野川地区は地理的に第44番大寶寺(同町菅生)と第45番岩屋寺(同町七鳥)の中間地点にあたります(写真②)。順打ちで岩屋寺に向かうには同じ道を往復する「打戻り」の地点でした。打戻りとは前の札所から来た道を戻って、次の札所へ向かうことです。そのため、宿に荷物を預けて岩屋寺を巡拝する遍路が多く、最盛期には遍路宿が10数軒あったといわれています。

写真② 下畑野川地区(当館撮影)

 愛媛大学の地理学者・村上節太郎氏が昭和9年(1934)に撮影した貴重な古写真「畑野川の遍路宿」(当館蔵、写真③)があります。萱葺き屋根の遍路宿の軒下には看板「きちん 畑ノ川 御宿米屋」が掛かり、部屋の隅に布団が積まれています。米屋は宿泊者が食料を持参して、薪代(木銭)を払って自炊する木賃宿と見られ、宿前を通る遍路道には菅笠を被った3人連れと思われる遍路が歩いています。

写真③ 村上節太郎撮影「畑野川の遍路宿」昭和9年、当館蔵

 四国遍路道中図で下畑野川周辺を確認してみます。昭和13年(1938)の渡部高太郎版では、大寶寺と岩屋寺の間は「三リ」とありますが、下畑野川の地名は記載されていません(当館蔵、写真④)。

写真④ 下畑野川周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 次に、案内記類に記載された下畑野川周辺の宿屋等の情報について見てみましょう。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には「乗合自動車を利用する人は、久万から岩屋寺の麓約八町の竹谷まで、又は畑野川行に乗って畑野川で下車遍路道に合することも出来ます」とあり、乗合自動車の区間と運賃と所要時間(「久谷―竹谷」 九十銭、一時間。「久谷―畑野川」四十五銭)が記載されています。山間部における乗合自動車の運行によって、下畑野川で宿泊しない遍路も次第に多くなったと推察されます。

 昭和10年(1935)の武藤休山『四国霊場禮讃』には「順の方は当地(下畑野川)迄御越しに相成り下記宿舎に荷物を預けて四十五番に参拝せらるる事」とあり、宿舎として「いづみや」「かどや」「のぼりや」「こめや」が記載されています。大黒屋は紹介されていませんが、「こめや」は村上節太郎が撮影した木賃宿の米屋と推察されます。

 ところで、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』には宿屋に関する心得書きが多く紹介されています。それらの中で興味深いものをいくつか箇条書きで紹介します。

 ・宿屋へ着いたら自分で水を汲み、金剛杖の先を洗い次に自分の足を洗うのです。金剛杖は御四国地では、宿屋の座敷に持ち込んでもよろしいのです。

 ・宿屋の座席へあがり席を定めて直ぐに宿屋の主人に面会し自分の宿所、氏名、職業、年齢等を紙片に記示して宿帳に附けさせ、それから宿代は自分が望む等級二十五銭、三十銭、四十銭、任意取り決めて外に米代を払うのです。米は自分が喰うだけの量を宿へ通じれば時の相場で勘定するのです。米量見積もりは其の夜の分と、翌日朝飯と昼飯の用に、即ち三度分であります。

 ・宿屋の風呂は、御四国地では五右衛門風呂というのが多い。注意せぬとお尻にやけどをすることあり、注意すべきです。亦宿屋の風呂へ早く入るには、早く泊まらなければ駄目です。宿屋へは人よりも一二時間早く泊まれば何かに附け都合の良いものであります。

 ・宿屋では遍路に茶碗と箸は附き物と昔やら定まっておりますから附けてくれません。若し落としたりした場合は自分が席より立ち出て頼んで借りなさるよう。

 今日の食事付きの旅館のイメージとは程遠く、遍路が利用する宿屋は茶碗と箸を持参して、自炊を前提とする木賃宿が多かったことがわかります。また、遍路宿の風習として、宿に着いたら真っ先に金剛杖を洗い、それを座敷に置き、尊像として礼拝しました。遍路が使用する金剛杖は弘法大師と考えられていたためです。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』には、「なににしても、風呂は遍路にとつて最高の御馳走だ」「遍路宿は、社会と人生の縮図である。同じ信仰の灯を求めて行脚する同志が、同じ屋根の下で一夜の夢を結ぶのであるから、自づとそこには、心から溶け合った団欒も生れる」とあり、遍路にとって遍路宿がいかに重要な存在であったのかが示されています。

 「四国遍路道中図」が発行され大正時代から昭和時代(戦前)にかけて、遍路道沿いには数多くの遍路宿が営まれていました。遍路は四国霊場を巡拝するために、長い道中を歩き、各地でお接待をいただき、遍路宿で身体を休息し、遍路同士で絆を深めました。遍路宿はまさしく社会と人生の縮図であり、四国遍路の醍醐味といえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情88―お接待とお米―

2025年7月25日

 四国遍路の特有な文化に「お接待」があります。お接待とは、四国八十八箇所霊場を巡拝する遍路に対して、主に地域住民が食事や飲み物、宿泊場所などを提供する温かいおもてなしのことです。

 四国遍路におけるお接待はいつ頃から行われていたのでしょうか。

 四国遍路が庶民に広がった江戸時代の道中記などに、遍路が四国巡拝の道中で受けたお接待の記録が見られます。お接待の場面が描かれた有名な資料に、文化10年(1813)から天保5年(1834)にかけて刊行された十返舎一九の『諸国道中金草鞋(かねのわらじ)』があります。主人公の鼻毛延高(はなげのびたか)と千久羅坊(ちくらぼう)が、狂歌を詠みながら諸国を巡る滑稽な道中記です。文政4年(1821)の第14編は四国遍路が舞台で、第1番霊山寺に至る道中でご飯、第8番熊谷寺界隈で髪月代(かみさかやき)、第12番焼山寺から第13番一の宮(現大日寺)に至る道中で宿、徳島城下で銭などが巡礼者に施されている様子が見て取れます(写真①)。

写真① 十返舎一九『諸国道中金草鞋』第14編(文政4年)、個人蔵

 伊予の遍路道において、お接待に関する興味深い道標石があります。第43番明石寺(西予市宇和町)から大洲市に至る鳥坂(とさか)峠越(国史跡・伊予遍路道「大寳寺道」)には「是より十丁下り常せつたい所 天明四年」と刻んだ地蔵型の丁石(ちょうせき・ちょういし)があり(写真②)、天明4年(1784)に鳥坂峠に常設の接待所があったことを示しています。

写真② 鳥坂峠越(国史跡「伊予遍路道・大寶寺道」)で「常せつたい所」を案内する地蔵型丁石、天明4年、当館撮影

 次に「四国遍路道中図」が発行されていた大正から昭和時代(戦前)のお接待はどのようなものがあったのかを見てみましょう。

 昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』によると、「四国遍路たちが、そのゆく先々の寺や、路傍で受けるお接待にも、いろいろと種類がある。故人の忌日や、代参依頼のために、または大師の供養にと、遍路に施しをする風習は、昔から四国路に残されているので、その方法にも、精神的なもの、物質的なもの、と、なかなか気を配られている。もののお接待には、食べ物のほかに『どうぞお持ちください』と木札を添へて、手頃の杖や、草鞋を路傍に出して置く家もあつたり、物を恵み得ぬ人達になると、人力車夫が、疲れて行き悩む老遍路を、無料で車に乗せて走つたり、寺の一隅に、むしろを布いて、陣取った按摩さんたちが、来る遍路に、つぎつぎと労力奉仕する、といった美しい風俗は、遍路の旅をひとしほ信仰的なものにする。疲れた肩を揉みほぐしてやる按摩さんたちの掌から、遍路は人の世のありがたさと、大師の遺徳を今更のやうに身に沁みて礼讃するであらう。」

 それによると、お接待の方法には精神的なものと物質的なもの、あるいは労力奉仕など、お接待の種類には様々なかたちがあったことがわかります。また、中にはお接待と称して、土産店や宿屋の宣伝を目的とした広告入りの「四国遍路道中図」を無料で配布していた事例もあります(本ブログ30「続・切幡寺周辺で発行された四国遍路道中図」参照)。

 愛媛県内の四国霊場には接待を行った際の記念碑が建てられています。例えば、第52番太山寺(松山市)には大正14年(1925)の「饂飩(うどん)接待講寄附石」があります」(写真③)。同寺では春になると、開基真野長者ゆかりの大分県臼杵市周辺から講員数十人が接待船で三津浜港に上陸し、参道のお茶屋に宿泊し、うどんの接待が行なわれていました。また、第50番繁多寺(同市)の山門前にある昭和5年(1930)の「四国遍路壹万人接待施行大願成就記念碑」(写真④)は、『四国遍路のすゝめ』(昭和6年刊)の著者・安田寛明が一万人に手ぬぐいの接待を行って大願成就した記念に建てられたものです(本ブログ40「道中の宝」参照)。当館の常設展示室(四国遍路)にはそのレプリカを展示しています。

写真③ 第52番太山寺の「饂飩接待講寄附石」大正14年、当館撮影
写真④ 第50番繁多寺の「四国遍路壹万人接待施行大願成就記念碑」昭和5年、当館撮影

 ところで、昭和16年(1941)の『遍路』2月号(遍路同行会)によると、「(前略)一番多いのはお米の『おせつたい』で、また尤も喜ばれるるのであつた。今日我々が憂慮するところは、今後米穀の使用量が農村に於ても制限さるるに至れば、独りお米の「おせつたい」が無くなる計りでなく、一般の『おせつたい』も出来ぬこととなつて、千年の美風良俗が破壊し去らるるに至るであらう事である。今年の遍路期に当り誠に憂慮に堪えぬ。」とあります。

 これによると、お接待で一番多かったのはお米で、それが最も重宝されていたこと、戦前に戦争による農村の労働力不足や生産量の減少から慢性的な米不足によって、千年の美風良俗である接待行為が途絶えるのではないかと憂慮されていたことがわかります。

 お米の接待が喜ばれた理由は、①お米は日本人の主食であり、②「米」という漢字は「八十八」に由来し、縁起が良く、神聖な食べ物と見なされていること、③遍路が宿泊する木賃宿ではお米の持参が必要であったことなどがあげられます。ちなみに木賃宿とは安価な素泊りの宿泊施設のことで、遍路がお米を持参し、薪代(木銭)を払って自分でご飯を炊くか、または炊いてもらう形式でした。

 「令和の米騒動」が私たちの生活に大きな影響を及ぼしている昨今、お米という視点で四国遍路の歴史を支えてきた「お接待」との関係や、松山地方の「英吾米」や今治地方の「三宝米」などのように、巡拝中の遍路が他国の稲の品種を持ち帰って郷里で広めたという文化の伝播について考えることも四国遍路の歴史をとらえる上で興味深いテーマといえます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情87―讃岐遍路道の巡拝ルート ―

2025年7月18日

 四国遍路において徒歩遍路の巡拝ルートは通常は札所番号順に行われますが、讃岐(香川県)の遍路道の第79番天皇寺(高照院、同県坂出市)から第83番一宮寺(同県高松市)までの区間では、札所番号順ではなく変則的に行われることがありました。この区間には、第80番国分寺(同県高松市)、瀬戸内海に張り出した五色台(標高449.3m)にある第81番白峯寺(標高281m。同県坂出市)と第82番根香寺(標高358m。同県高松市)があります。

 四国遍路道中図でそのあたりを確認してみましょう(写真①)。

写真① 四国遍路道中図に見る讃岐遍路道(第79番天皇寺・高照院から第83番一宮寺周辺)

 大正6年(1917)の駸々堂版や昭和4年(1929)の浅野本店版などを見ると、札所番号順に巡拝ルート(順拝指道)が記載されています。ところが昭和13年(1938)の渡部高太郎版では、第79番高照寺(天皇寺)⇒第81番白峯寺⇒第82番根香寺⇒第80番国分寺⇒第83番一宮寺という変則的な巡拝ルートを示しています。その理由は記載されていませんが、札所間の距離(「七十九番ヨリ八十一番ヘ一里三十二丁」「八十二番ヨリ八十番ヘ一里廿四丁」「八十番ヨリ八十三番ヘ二里」)が明記されています。

 讃岐遍路道の第79番から第83番への変則的な巡り方については、昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』に「次は八十番国分寺ですが、八十一番白峰寺、八十二番根香寺と打って八十番に出で、八十三番一の宮寺へと行くのが楽で、此頃は一般に順路とされて居ります。」とあります。つまり、この変則的な順路を採る理由は歩くのに楽であるためで、当時(戦前)、多くの遍路がこのルートを選択していたことがわかります。

 昭和39年(1964)に徒歩遍路を行った西端さかえも同じルートで巡拝していることが著書『四国八十八札所遍路記』に紹介されています。「七十九番からは八十一、八十二、八十、八十三番と進むのが道順がよく、一般に順路となっている。しかし百人に一人ぐらい『順ですからと』と札所順に巡る人もあるそうだが、労と時間に無駄が多い。」と記されています。

 ところで戦前までの徒歩遍路は、第1番霊山寺住職の芳村智全が作成した「四国霊場巡拜についての心得」が示すように、道中で修行をしながら巡拝を行なうことを基本としていましたが(今村賢司「四国霊場巡拜についての心得」から見た近代の四国遍路の様相」愛媛県歴史文化博物館『研究紀要』第27号、2022年)、『四国八十八札所遍路記』からは、次の札所になるべく早く楽に到着したいという戦後の徒歩遍路の意識の違いが見て取れます。 

 次に、江戸時代における第79番から第83番までの巡拝ルートを見てみましょう。第79番天皇寺の名称は近世では「崇徳天皇」「崇徳天王」「妙成就寺」などと表記されています。

 承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』、江戸時代後期の『四国徧禮道指南増補大成』では変則的な順路について言及はなく、通常の札所番号順の巡拝ルートが紹介されています。現存最古の四国遍路絵図とされる宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」においても同様です。国分寺から白峯寺は「五十丁」で山坂峠を示す印と「コクブサカ ノボリ十丁 谷川」と記載されています(写真②)。第80番国分寺から第81番白峯寺に至る遍路道(白峯寺道)は途中に「コクブサカ」という10丁の上り坂があり、遍路にとっての難所と推察されます。

写真② 第79番崇徳天王から第83番一宮周辺(細田周英「四国徧禮絵図」、宝暦13年、当館蔵)

 寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」では「此所(崇徳天皇)より本道ハ国分寺・白峯寺と順なれども、辺路坂といふ難所有故、崇徳天皇より白峯寺・根香寺・国分寺と行なり。」と記され、国分寺から白峯寺に向かう遍路坂(コクブサカ?)が難所(遍路ころがし)であったため、変則的に白峯寺と根香寺を先に巡拝してから国分寺に向かっていることがわかります。また、「此所(白峯寺)より根香寺迄五十町。山中地蔵 国分寺より来る人は此所へ出る。白峯へ行爰迄戻る。根香寺迄廿五丁」「是(根香寺)より国分寺迄二里。又山中地蔵道六十丁也トいへども道難所也。やはり弐里の方へ行べし」と記されています。白峯寺から根香寺に至る遍路道(根香寺道)は50丁あり、国分寺からの遍路道(白峯寺道)と合流する場所には地蔵があること、根香寺参拝後に地蔵まで打戻り、国分寺に向かう遍路坂(下り)は難所であることなどが読み取れます。このように江戸時代後期において、実際に讃岐遍路道の第79番から第83番をめぐって変則的な巡拝が行われていたことが確認できます。

 試みに、当館収蔵による江戸時代の四国遍路の納経帳に記載する第79番崇徳天皇から第83番一宮寺までの納経印を見ると、札所番号順に納経が行われたものが多く、通常の順路で四国霊場巡拝が行われたものと推察されますが、文政5年(1822)の納経帳は変則的な順路と同じ順番で納経が行われている事例も確認できました(写真③)。

写真③ 文政5年の四国遍路の納経帳(当館蔵)

 最後に、現在の徒歩遍路のルートを確認します。徒歩遍路のバイブルとされている宮崎建樹著・へんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』(第9版、2010年)には、通常の札所番号順ルートと第79番天皇寺から第81番白峯寺に向かう変則的なルートがそれぞれ詳しく紹介されています。筆者の場合、札所番号順に第80番国分寺から五色台の山道を上り(写真④)、19丁目で根香寺道に合流、第81番白峯寺を参拝後、19丁目まで打ち戻り、第82番根香寺へと進みます。根香寺参拝後は番外霊場の香西寺(同県高松市)を目指して五色台を下山、そして第83番一宮寺に到着しました。

写真④ 第80番国分寺から五色台の山道を上る遍路道(白峯寺道) 当館撮影

 今回紹介した讃岐遍路道の「根香寺道」は第81番白峯寺から第82番根香寺を結ぶ全長4.8キロメートルの道のうち、約2.2キロメートルは平成25年(2013)に国史跡に指定されています。根香寺道には、元応3年(1321)の白峯寺笠塔婆(下乗石)、高松藩によって天保7(1836)年に建立された添碑、弘法大師が掘ったと伝えられる閼伽石(あかい)、国分寺からの遍路道との三叉路にあたる19丁目付近は、地蔵、丁石、遍路道標石、遍路墓などが確認され、歴史的な景観を良くとどめています(写真⑤)。

写真⑤ 国史跡「讃岐遍路道・根香寺道」当館撮影

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情86―金毘羅参詣と四国遍路―

2025年7月12日

 江戸時代の日本諸国の名所旧跡について、大相撲の番付表に見立て、それらのランキングを記した「大日本名所旧跡数望(すもう)」(個人蔵、写真①)があります。東西の番付では最高位の大関に「駿河の富士山」と「近江の琵琶湖」、関脇に「陸奥の松島」と「丹後の天橋立」、小結に「出羽の象潟(きさかた)」と「安芸の宮島」、前頭筆頭には「下野の日光山」と「讃岐の象頭山(ぞうずさん)」の名前が記されています。

写真① 「大日本名所旧跡数望」(江戸時代、個人蔵)

 これを見ると、江戸時代の四国において、最も有名だった名所旧跡は「象頭山」となります。象頭山とは元インド中部の山で釈迦が修行して説法した地とされ、象の頭に似ていることから名付けられています。その象頭山の中腹に鎮座する金毘羅大権現(現在の金刀比羅宮。香川県琴平町)は、航海の安全や豊漁祈願、五穀豊穣、商売繁昌などに御利益があるとされ、人々の篤い信仰を集めています。そもそも金毘羅とはインドのガンジス川の鰐(わに)を神格化した仏教守護神の一つです。江戸時代以降、「一生に一度はこんぴら参り」といわれたように、金毘羅参詣は盛んに行われています。

 元禄2年(1689)の寂本『四国遍礼(へんろ)霊場記』によると、「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州の壮観名望の霊区なれば、遍礼の人当山に往詣せずといふ事なし」とあるように、四国遍路と金比羅参詣はセットで巡礼する遍路が多かったことがわかります。その背景には、金毘羅信仰の聖地と弘法大師生誕地とされる四国霊場第75番善通寺が地理的に近かったこと、そして四国・讃岐の主要な港である丸亀・多度津からのアクセスが良かった点なども要因と考えられます。

 江戸時代の金比羅参詣の人気を物語るものとして、四国霊場と金毘羅を案内した「象頭山参詣道四国寺社名勝八十八番」(当館蔵、写真②)、西国巡礼と金毘羅参詣をセットにした「讃州象頭山参詣順道并西国三拾三番名勝附」(当館蔵、写真③)、丸亀を起点として金毘羅・善通寺・弥谷寺参詣をセットに描いた「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(当館蔵、写真④)など、さまざまな金毘羅案内絵図が作成され、金毘羅土産として買い求められました。なお、これらの金毘羅・四国遍路関係絵図は当館のホームページの「絵図・絵巻デジタルアーカイブ」で細部まで閲覧できます。

写真②「象頭山参詣道四国寺社名勝八十八番」(江戸時代、当館蔵)
写真③ 「讃州象頭山参詣順道并西国三拾三番名勝附」(江戸時代、当館蔵)
写真④ 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」(江戸時代、当館蔵)

 次に、近代以降の四国遍路の案内記や四国遍路道中図において、金毘羅参詣がどのように紹介されているのか、確認してみましょう。

 明治15年(1882)の中務茂兵衛『四国霊場略縁起道中記大成』には「こんぴらへかくる時は爰に荷物おき行一里半」とあり、金毘羅へ参詣する遍路は善通寺の宿に荷物を預けて、参詣後は宿まで打ち戻りして次の第76番金蔵寺へと巡拝するようにと紹介されています。昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』では、「善通寺を打ったら金毘羅様へ御詣りすることは遍路者の定になっています」とあり、遍路の決まり事「定め」として金比羅参詣は必須とされています。

 四国遍路道中図においては、大正6年(1917)の駸々堂版(当館蔵、写真⑤)では、善通寺の近郊に「琴平神社」「⛩象頭山」と記載され、多度津から琴平までの鉄道路線(土讃線の前身)が示され、「善通寺、琴平間汽車賃金七銭」と注記されています。

写真⑤ 象頭山周辺(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 昭和13年(1938)の渡部高太郎版(当館蔵、写真⑥)では同様に「琴平社」「⛩象頭山」と記載されていますが、多度津から琴平までの鉄道路線は「土讃線」と注記され、徳島線の辻(徳島県三好市)で合流しています。ちなみに昭和9年の『同行二人 四国遍路たより』には各鉄道の主要区間の運賃が記載されています。それによると省線(善通寺―琴平 十銭)、琴平参宮電鉄(善通寺門前―琴平 十銭、多度津―琴平 二十二銭、丸亀―琴平 二十六銭、坂出―琴平 三十六銭)、琴平電鉄(高松―琴平 六十五銭)、琴平急行電鉄(坂出―琴平 三十六銭)とあります。善通寺と金毘羅参詣を背景とした鉄道網の発展と各鉄道会社による競争の激化が見てとれます(本ブログ35「讃岐案内」参照)。なお、渡部高太郎版では省線以外の鉄道は記載されていません。

写真⑥ 象頭山周辺(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には、「善通寺から琴平の金比羅宮は近い、寺の門から一丁も離れているが、善通寺門前といふところから電車にのる。広い平野の正面に、象の形をした山がある、それが金比羅宮のある象頭山。奥の院といふのは象の目のあたりだ」とあり、宮尾は琴平参宮電鉄を利用して金毘羅参詣を行っています。近代以降の四国遍路においては、遍路は善通寺巡拝後に鉄道を利用して金毘羅参詣を行うのが通例となっていたようです。

 最後に、「大日本名所旧跡数望」で記載されている象頭山以外の四国の名所旧跡を紹介します。番付では前頭になりますが、上位順に鳴門浦、壇ノ浦、八栗山、屏風浦、五台山、石鎚山などが記載されています。これらは四国霊場ゆかりの聖地でもあります。壇ノ浦は四国八十八箇所霊場第84番屋島寺、八栗山は第85番八栗寺、屏風浦は第75番善通寺、五台山は第31番竹林寺、石鎚山は第60番横峰寺と第65番前神寺などの札所寺院と関係があります。こうした事例からは、四国八十八箇所霊場の成立と四国の名所旧跡との関係が注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情85―「前は神、後は仏」の前神寺―

2025年7月11日

 四国八十八箇所霊場第64番の石鈇(いしづち)山金色(こんじき)院前神寺(愛媛県西条市洲之内)は、山岳信仰の霊山として崇拝される石鎚山の麓にあり、真言宗石鈇派・石鎚山修験道の総本山です。

 なお、石鎚山の表記は「石鎚」「石槌」「石鈇」「石鉃」「石鉄」などが見られますが、史料からの引用以外は「石鎚」で統一しています。

 『先達経典』(四国八十八ヶ所霊場会、2006年)には「縁起によると、修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が石鎚山で修行をしたのは天武天皇のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石鈇蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院前神寺」の称号を下賜した」とあります。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』には、「御本尊阿弥陀如来 外に西之川奥の院御本尊釈迦如来は、役行者御自刻石鎚山蔵王権現の本地仏であります。当寺は石鎚山東の別当として役行者の開創で、西之川に屹立する高さ二十五丈八尺、周囲二十二間の巨岩天柱石(御塔石)の下で蔵王権現を感得せられたに始まり、後石仙道人修練の地であります。当寺は排仏毀釈の法難に遭い明治八年までは石鎚神社口の宮にあったのであります。(後略)」と紹介されています。

 開基の役行者が修行中に石鎚蔵王権現を感得した場所される天柱石(御塔石、写真①)は、霊峰石鎚山の谷間にそびえる、空を突くような大きな石塔で、江戸時代の西條藩の地誌『西條誌』や半井梧庵『愛媛面影』などに紹介されています(今村賢司『「愛媛面影」紀行』愛媛新聞社、2005年)。

写真① 絵葉書「四国霊山石鎚山天の御柱(天柱石)」(個人蔵)

 前回のブログ84で紹介したように、神仏習合の江戸時代までは第60番横峰寺(同県西条市小松町)とともに石鈇蔵王権現の別当を務めていました。江戸時代の四国遍路案内記や案内絵図には前神寺は「里前神寺」と記載されています。遍路は石鎚山(奥前神寺)へ参詣することは難しいため、麓にある里前神寺で参拝しました。寛政10年(1798)の納経帳を見ると、木版で「四国霊場六十四番 石鈇山大悲蔵王権現 廣前 別当前神密寺 里寺納経所(印)」と押印され、「里寺」と記載されています(当館蔵、写真②)。

写真➁ 江戸時代の「納経帳」の前神寺(当館蔵)

 前神寺の御詠歌「まへはかみ うしろはほとけ ごくらくの よろずのつみを くだくいしづち」は、前神寺が石鎚蔵王権現の別当で、蔵王権現の本地仏が極楽の教主となる阿弥陀如来であることから、「前は神、後は仏」と謳われ、石鎚山と前札所となる前神寺との関係が示されています。昭和29年(1954)、愛媛県西条市出身の政治評論家・橋本徹馬『四国遍路記』には「いつ読んでも「良い歌だなア」と思ふ。勿論歌としての理屈を云へば色々云ふべき事もあらうが、寺号の石鎚山の石鎚を「よろづの罪をくだく」意味に用いたのは善い着想だと思はれる。」とあり、四国霊場の御詠歌の中では佳作と評しています。

 前神寺は明治8年(1875)までは現在の石鎚神社(同市西田)の位置にありましたが、明治新政府の神仏分離政策によって廃寺となりました。その後、檀家などによる復興願いによって、明治12年(1879)、現在地に「前上寺(ぜんじょうじ)」の名前で再興が許され、ようやく明治22年(1889)に前神寺の旧称に復しました。江戸時代の旧前神寺の境内は『愛媛面影』(当館蔵、写真③)などに描かれており、現在の石鎚神社の地にあったことがわかります(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、2018年)。

写真③ 江戸時代の前神寺(『愛媛面影』当館蔵)

 復興後の前神寺の境内で注目したいのは本堂です。大正6年(1917)に大阪で発行された「四国遍路道中図」(駸々堂版)を見ると、前神寺は「当寺ハ本堂ニヶ所あり 女は女人堂へ参詣し奥の本堂は女人禁制」と紹介されています(当館蔵、写真④)。このことについて案内記で確認すると、昭和9年(1934)の『四国霊蹟写真大観』では「女人禁制本堂 当寺に本堂二所あり、奥の石鎚大権現本堂は女人禁制なり」と記され、「石鎚大権現堂(女人禁制)」の写真が掲載されています(当館蔵、写真⑤)。同11年(1936)の三好好太『四国遍路 同行二人』には「当寺は本堂二ケ所にあり、女は女人堂に参詣せらるべし、奥の本堂は女人禁制です」、同18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』には「今でも女人禁制、しかし女人本堂といふ所まで行かれる」とあり、当時、石鎚大権現本堂は女人禁制とされ、女性は女人堂で参拝していたことがわかります。

写真④ 前神寺(「四国遍路道中図」駸々堂版、大正6年)
写真⑤ 前神寺の石鎚大権現堂(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 また、境内には大正3年(1914)の四国霊場開創一千百年を記念して建てられた修行大師の石像(写真⑥)があります。それは多数度巡礼者の日野駒吉が蓮華講員に呼びかけて寺に寄進したものです。日野駒吉(1873 ~ 1951年)は、周桑郡玉之江(愛媛県西条市)に生まれ、寿司屋を営みながら、弘法大師信仰に生涯をかけ、大師講「蓮花講」を組織し、500余名の信者を有した篤志家で、「寿し駒」の異名で知られています。参道には昭和11年(1936)に蓮華講員によって建てられた日野駒吉像(写真⑦)があります。もとは銅像でしたが戦時中に金属供出されたため、戦後に石像で再建されたものです。その台石には日野駒吉が先達として本四国50度、小豆島四国100度、石鎚登山100度を巡拝したことが刻まれています。四国遍路道中図が発行された大正~昭和時代にかけて、一般の遍路とは異なり、日野駒吉のような先達の多数度巡礼者が大師講を組織して四国遍路などの巡礼を広めていたことがわかります。

写真⑥ 四国霊場開創一千百年記念の修行大師石像(大正3年、当館撮影)
写真⑦ 日野駒吉像(昭和時代、当館撮影)

 前神寺の歴史は、四国遍路の信仰の源流にある山岳修験道との関係を考える上で大変注目されます。また、石鎚蔵王権現の別当寺から明治期の神仏分離によって廃寺、移転、復興という軌跡をたどった近代四国霊場の中でも激動の変遷を余儀なくされた札所寺院であったことがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情84―四国遍路絵図から見た石鎚山―

2025年7月4日

 四国山地西部に位置する石鎚山(標高1,982m)は西日本最高峰で、古来より山岳信仰(修験道)の山として知られ、多くの修行者が登拝しました。空海著『三教指帰(さんごうしいき)』に「或時は石峯に跨(またが)って粮(かて。食糧の意)を絶ち轗軻(かんか。苦行錬行の意)たり」と記されているように、青年期の空海も霊峰石鎚山で修行しました。

 今年も7月1日から7月10日まで石鎚山の祭礼「お山市・お山開き」(石鎚神社夏季山開き大祭)が斎行されます。

 石鎚神社(愛媛県西条市)のホームページによると、「その間の登拝者は、全国各地より数万人を数えます。3体の御神像は、6月30日早朝、本社で出御祭を斎行後、3基の神輿に御動座申し上げ、石鎚山麓の里々で御旅所祭を斎行しながら成就社へ向かいます。同夜は成就社本殿に御仮泊、翌7月1日午前7時、信徒の背により「仁」「智」「勇」の順に頂上社へと御動座申し上げ、10日間の大祭の幕が切って落とされます。通常、本社に奉斎されている御神像が頂上社へ御動座奉祀される間がお山開きの期間となるのです。」とあります。

 石鎚山の古い絵葉書には、お山開きで賑わう成就社、鎖禅定の様子が写されています。また、絵葉書に押印された登山参拝記念のスタンプは三体の御神像(「仁」=玉持、「智」=鏡持、「勇」=剣持)がデザインされています(写真①)。

写真① 石鎚山関係絵葉書(個人蔵)

 今回は霊峰石鎚山が「四国遍路絵図」にどのように紹介されているのか、江戸時代の細田周英「四国徧禮絵図」や近現代の「四国遍路道中図」などから見た石鎚山について紹介します。なお、石鎚山の表記は「石鎚」「石槌」「石鈇」「石鉃」「石鉄」などが見られますが、史料からの引用以外は「石鎚」で統一しています。

 現存最古の四国遍路絵図として知られる、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」(写真②、当館蔵)では、「六十横峯寺」(第60番横峰寺)に「是ヨリ石ツチ山エ六リ八丁」と注記があり、横峰寺から峠の鳥居(⛩)までの道が示されています。そして、鳥居から石鎚山を見渡すような構図で雲海に聳える山容が描かれ、「石鎚山 六月朔日ヨリ三日マデニゼンジヤウスル」と記載されています。「ゼンジヤウ」(禅定)とは山岳信仰における修行の一形態で鎖場を登ること、霊山に登って修行することを意味し、当時は旧暦6月1日から3日まで行われていたお山開きについて記載されています。

写真② 石鎚山周辺(細田周英「四国徧禮絵図」宝暦13年、当館蔵)

 ここで注目したいのは描かれている峠の鳥居です。それは寛保2年(1742)に建てられた現存する「鉄(かね)の鳥居」(写真③)と推察されます。この場所は古くから石鎚山遥拝所として知られ、白雉2年(651)に役小角が蔵王権現を感得した地とされ、弘法大師が除災求福を祈る星供養を行ったと伝えられる「星ヶ森」(国名勝)と考えられます。

写真③ 鉄の鳥居(星ヶ森)から石鎚山を臨む(当館撮影)

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、寺から暫し打戻って左へ山道を二町登りますと、大師が嵯峨天皇の勅を受けて一七日の間雨乞星供の護摩を修された星ヶ森の秘壇があり、鉄の鳥居は石鎚山の発心門として昔から有名であります。谷を越えて前方に石鎚の霊峰を望み、参拝者はここからモエ坂を下って登ります」とあります。

 現在、横峰寺参拝後に石鎚山を登拝する場合、鉄の鳥居からモエ坂を虎杖(いたずり)まで下り(写真④)、今宮道あるいは黒川道(通行困難)を上り、成就社を経て、石鎚山頂に至るルートとなります。絵図に描かれた横峰寺と石鎚山の間の雲海の下には、モエ坂経由の石鎚登山道が通っていると思われます。 

写真④ モエ坂(当館撮影)

 絵図でもう一つ注目したいのは、第64番前神寺の寺名が「里前神寺」となっている点です。貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』に「此札所は高山、六月朔日おなじく三日ならで、参詣する事なし。このゆへに里まへ神に札をおさむなり」とあるように、お山開きの3日間だけ石鎚山登拝が許されていたため、麓にある前神寺(里前神寺)で参拝を行っていました。

 もう一例、江戸時代後期に第43番明石寺周辺で作成された絵図(写真⑤、当館蔵)を確認します。本図では横峰寺から石鎚山に至る道が示され、途中に鳥居があります。切り立った石鎚山には山頂社と鎖禅定の細部まで描かれ、「石づち山 かねのくさりとりあがる」と注記されています。また、前神寺と横峰寺を結ぶ道が描かれ、「石づち迄九リ八丁」とあり、前神寺からの石鎚山までの距離が示されています。横峰寺と前神寺の両札所は、江戸時代に石鎚蔵王権現の別当を務めていたことから、石鎚信仰の拠点となる霊場を示したものと推察されます。

写真⑤ 石鎚山周辺(「四国へんろ絵図」江戸時代後期、当館蔵)

 次に、近現代の「四国遍路道中図」を確認します。大正6年(1917)に大阪で発行された「四国遍路道中図」(駸々堂版)(写真⑥、当館蔵)では、赤い丸印で「石槌山」と「⛩石鎚祠」「64.00尺」と記載されています。第60番横峯(峰)寺から石槌山へは赤い点線で結ばれ、「一里」とあります。補足的な意味で石鎚山へのルートが示されています。図中の鳥居印は星ヶ森の鉄の鳥居ではなく、石鎚神社の鳥居を示していると考えられます。昭和6年(1931)の駸々堂版も同一の内容です。

写真⑥ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」大正6年、当館蔵)

 四国内で発行された昭和9年(1934)の「四国遍路道中図」(浅野本店版)(写真⑦、個人蔵)では、大きな赤丸に「石槌山」、「⛩石槌神社」と記載されていますが、横峰寺からの石鎚山への巡拝道は記載されていません。また、昭和13年(1938)の「四国遍路道中図」(渡部高太郎版)(写真⑧、当館蔵)では、伊予と土佐の国境に石鎚山の山容が目立つように描かれ、「⛩石鎚神社」と表記されていますが、四国霊場と石鎚山は切り離された存在として記載されています。

写真⑦ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和9年、個人蔵)
写真⑧ 石鎚山周辺(「四国遍路道中図」昭和13年、当館蔵)

 このように「四国遍路絵図」の中の石鎚山に注目すると、江戸時代と近現代で記載内容が大きく異なっていることがわかります。神仏習合時代の江戸時代の遍路絵図では、石鎚山は石鎚蔵王権現を祀る石鎚社が本地であり、横峰寺と前神寺の両寺院はその別当寺院であったという歴史をもとに、山岳修験の霊場としての石鎚山と四国霊場が一体化した四国遍路観によって作成されているものと考えられます。

 一方、大正~昭和時代の「四国遍路道中図」では、石鎚山と石鎚神社の情報は記載されているものの、四国巡拝ルートからは切り離され、地図上では四国霊場と石鎚山の密接な関係は示されていません。このことは一般の遍路を対象にした四国八十八箇所霊場の簡易な案内地図として作成され四国遍路道中図の性格に起因しますが、時代によって四国霊場の捉え方やその巡拝ルートが変遷していることや、遍路絵図作成者の四国遍路観が反映されていると考えられます。