
テーマ展「おひなさま」は、本日開幕しました。
職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

テーマ展「おひなさま」は、本日開幕しました。
職員一同、みなさまのご来館を心よりお待ちしております。
西条藩松平家の雛飾りの列品に取り掛かりました。この雛飾りは、西条藩9代藩主松平頼学(よりさと)のもとに、京都の公家一条家から輿入れした通子(ゆきこ)が持参したものです。通子が頼学のもとに嫁いだのは、文政7(1824)年、19歳の時でした。
雛道具は大名家のものにふさわしく専用につくられた木箱に収納されています。さらに、木箱の中では黄色の布に包まれており、雛道具がいかに大事に扱われてきたのかが伝わってきます。そして、私たちも小さな御道具の一つ一つを丁寧に箱から取り出していきます。

取り出した御道具を、雛壇の上にバランスよく並べていきます。今年で展示するのもちょうど10回目。どの御道具をどこに置くのかという配置に悩まなくなり、随分短い時間で今年も並べ終わりました。

西条藩松平家の雛飾りが完成した姿は、ぜひ展示室でご覧ください。
テーマ展「おひなさま」の開幕がいよいよ迫っています。展示ケースや展示台の設置も終わり、いよいよ資料を並べはじめました。展示されるのは、おひなさまばかりではありません。雛道具もミニチュアであることから、ミニチュアつながりで極小の小物細工なども展示します。列品している人間の手の大きさを見ると、その小ささが実感していただけると思います。

ちょうどいい大きさの展示ケースがなく、昨年はすし詰めになっていた御所人形も、既存の展示ケースを改良することで、ゆったりとした間隔で展示できるようになりました。

列品作業も佳境に入りました。一番時間もかかる西条藩松平家の雛飾りの列品にそろそろ取り掛かります。
右側の土台に当たる部分を復元製作して、御殿は組みあがりましたが、この御殿にはさらにこれとセットになる10分割された厚みがあまりない台と、たくさんの人形が付属していました。10分割の台をああでもない、こうでもないと思案しつつ組み合わせて、その上に人形を配置すると、この御殿飾りの全体像がようやく見えてきました。

御殿は当館が所蔵しているものなかで、最も大きなものになります。そして、白木造りの御所を模した御殿の前には、川の流れとともに桜や草花を配した庭園風の空間が広がります。その川のほとりに、色紙をもった人形を並べると、どうやら宮廷行事の一つ「曲水の宴」の様子を表現したものだと気づきました。「曲水の宴」は、流れる水に浮かべた盃が自分の前を通り過ぎるまでに和歌を詠み、速さと出来映えを競う遊びで、三月三日の上巳(じょうし)の節句に行われたので、まさにおひなさまの季節にぴったりな情景といえます。


その後聞き取り調査をしたところ、この御殿飾り(曲水の宴)は、もともとは八幡浜市の旧家に伝わったもので、明治23(1890)年頃のものであることも分かりました。初公開となる春の季節にふさわしい御殿飾りのセットをぜひご覧ください。
毎年恒例のテーマ展「おひなさま」。新しくおひなさまの寄贈があった年はいいのですが、なかなかそういうわけにもいかず、昨年の展示と違う部分をどう出すのかが担当者としては頭が痛いところです。
今年の「おひなさま」展を準備する際に、歴史民俗資料館から移管されたおひなさまの活用が課題にあがりました。移管資料にはおひなさまが含まれていましたが、混在していたため再整理する必要がありました。その作業を行っていくなかで、大きな御殿飾りを発見しました。その御殿飾りのパーツを集めてみると、右側の土台が失われているものの十分組み立てられることが分かりました。
そこで、右側の土台部分は復元製作することにしました。土台を箱形につくりその上に組み立てるパーツの位置を確認しながら、慎重に穴あけ作業を行っていきます。そして、ついに御殿飾りがよみがりました。この御殿飾りの詳細は次回に紹介します。

寒い日がつづきますが、毎年恒例のテーマ展「おひなさま」の準備が始まると、心の中にそっと春の火がとぼるような気がします。そこで、少し気が早いのですが、先日、民俗展示室の山の家に雛檀を組む作業を行いました。大きな雛壇なので、三人がかりで作業を進めます。

この雛壇は、もともとは明治30年代に製作されたものですが、傷みが激しいので骨格部分は復元製作しました。それでも、金の背景板や御簾などは当時そのままのものを使っています。御簾や欄干、階段などを取り付けると、段飾りでありながらも御殿風というユニークな雛壇が完成します。組みあがった雛壇に人形を並べるのは、もう間もなく。今年もいよいよ「おひなさま」の季節がやってきます。

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回は段畑で使われた道具に関する資料を紹介します。
山の頂上まで耕された段畑では、耕作だけでなく、道具、肥料、収穫物などの運搬も人力で行われていました。
大変な重労働の際に使われた道具類です。

菅畚(すげふご)
宇和島市城山郷土館 蔵
運搬具。方言で岩菅(いわすげ)又はいわすぎともいいます。菅は、昔は漁師達が夏にこれを取って前掛(腰蓑)を編み、又は小縄をなって、畚や簀(すのこ)を編み、縦縄としました。藁(わら)と異なって濡れても乾きやすく、強いといわれます。

ショイコ
宇和島市立宇和海中学校 蔵
運搬具。『宇和地帯の民俗』(昭和36年)には、「背負子式の運搬具は全く普及していない」とありますが、昭和20年代の宇和海沿岸部の写真には、ショイコを背負う人々が写っているものが見受けられます。(下の写真は個人撮影のものです)


タナカゴと箆(へら)
宇和島市城山郷土館 蔵
段畑の除草道具。紐(ひも)を腰に括(くく)り、籠は腰の斜め後ろにし、ごく小さい雑草の根を箆でほぐして取り、籠に入れます。主に、麦を作っていたころに用いました。
農道やモノレールが出来た今でも、除草は手作業で行われます。また、収穫した馬鈴薯を畑からモノレールまで運ぶときも、畚(ふご)(ホゴロと呼ぶ地域もあります)が使われています。
テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介です。
前回ご紹介したのは、切干作りの道具「千貫切り」。
今回は、切干作りの様子を写真でご紹介します。(写真は、いずれも個人撮影のものです)

この写真は、千貫切りを使っているところです。サツマイモの量にびっくりしますね。
このように中腰で行い、ハンドルを持つ手には芋の重さがかかるので、力のいる仕事であったといいます。
子供の頃、この切干し作りの手伝いをした人も多かったようです。

こちらは、切干を干しているところです。
イリコを干すイリコ棚が最適でした。天日で4,5日乾燥させます。芋の種類にもよりますが、概ね乾燥前の3割の重量になったといいます。
イリコ棚にびっしりと並んだ大量の切干・・・。これらの写真を見ると、まず芋の量に驚いてしまいます。しかし、その大量の切干作りにあたっては、後には千貫切りには動力付きも登場するものの、ほとんど手作業で行われていました。どれだけ大変な作業だったことか・・・、想像するだけでも気が遠くなりそうです。

テーマ展「宇和海と段畑のくらし」の資料紹介。
今回はサツマイモに関する資料を紹介します。

昭和10年代以降、段畑で盛んに作られたのはサツマイモでした。戦争が激化し、食糧増産の国策でサツマイモ作りが奨励されたためです。
戦後も、食料難のためサツマイモが増産され、生のままか、切干(きりぼし)で出荷しました。切干は、デンプンと酒用アルコールの原料となりました。芋や麦は供出制度があり、供出割当以上に増産すると、3倍の価格で買い上げられました。切干がこれに当てはまると、米と同じ値段となります。米と芋とが同じ値段、という「切干景気」に、人々はサツマイモ作りに励みました。段畑の面積を増やし、収穫量をあげるために、石垣化も進められました。

芋かんな/愛南町内海郷土資料館蔵
芋かんなは、大工道具のかんなのような形をしています。かんなと同じ使い方で、1日に約200貫(750kg)の芋を切りました。

千貫切り/愛南町内海郷土資料館蔵
芋切りの効率を挙げるために考えられたのが千貫切りです。千貫切りとは、1日に約1000貫(3750kg)もの芋が切れる、という意味です。芋を置きハンドルをまわすと、刃が回転して輪切りされた芋が出てきます。後には動力で動くタイプも登場しました。
この千貫切りには「宇和島市/愛媛農工株式会社/日の本式芋切り機」という銘があります。愛南町の他に、宇和島市、西予市、伊方町にも同銘の千貫切りが現存しており、宇和海沿岸で広く流通していたことがうかがえます。

すごも/愛南町内海郷土資料館蔵
展示室には、切干作りの道具とともに、切干の模型も展示しています。この模型の製作は、今年度の当館博物館実習生、宇和高等学校職場体験の高校生、そして当館ボランティアの方々に協力していただきました。
テーマ展「宇和海と段畑のくらし-海と「そら」の恵み-」の資料紹介。
今回は養蚕の道具を紹介します。

明治10年代末頃からのマイワシの不漁により、宇和海沿岸部では次第に農業の比重が重くなり、養蚕が盛んになりました。大正元年には「養蚕を行うものはほとんどいな」(『遊子村誌』)かったのですが、第一次世界大戦による空前の好景気で、瞬(またた)く間に農漁村に広まりました。農家にとっては、現金収入を得る貴重な仕事でした。
遊子も養蚕景気に支えられて耕地の半分が桑畑となりました。桑は良い畑が必要なので、この頃から段畑の石垣化が始まったといわれます。
蚕(かいこ)はデリケートな生き物で、新鮮な桑を好むため、一日に何度も桑の葉を摘みました。風通しのよい部屋で飼う為、家の二階を蚕室としました。温湿度にも気を遣い、寒い時は部屋を暖めました。桑を摘み、蚕に桑をやり、蚕盆の掃除をする・・・。養蚕は重労働でしたが、人々は蚕を「お蚕さん」と呼び、大切に育てました。


桑籠
宇和島市立宇和海中学校 蔵
墨書きから、下波柿之浦の人のものとわかります。

桑切り鎌・桑切包丁・桑切台
愛南町内海郷土資料館 蔵
蚕に与える桑の葉は、桑切り鎌で刈り、包丁と俎板(まないた)で刻みます。蚕が幼い時は細かく切り、大きくなると、大量の桑の葉を、粗く切ります。

蚕盆・蚕網
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕を飼う盆と、桑をやったり、盆の掃除をするときに使う蚕網。蚕が幼い時は目の細かい網、大きくなったら目の粗い網を使いました。

簇(まぶし)織り機
西予市明浜歴史民俗資料館 蔵
蚕が繭を作る簇を織る機械。上部に藁を広げてはさみ、ハンドルを交互に交差して藁を折り曲げる。この型は、明治末期に発明され、普及しました。
しかし、昭和4年の世界恐慌のあおりを受け、生糸は大暴落し、養蚕農家は大きな打撃を受けることになります。