11月 14日 水曜日

去る11月10日土曜日、秋晴れのさわやかな天候に恵まれ、戦国展関連講座「河後森城跡を歩こう」を開催しました。松野町教育委員会の高山剛先生のわかりやすいご案内で、河後森城跡を満喫することができました。
中世のお城である河後森城跡は、土を削ったり、盛り上げたりして作られた土作りの城です。伊予国と土佐国の国境に位置し、県下最大の山城跡です。四万十川の支流に囲まれた独立丘陵で、本城・古城・新城の曲輪(くるわ)配置が馬蹄形に連なります。平成3年から継続的に発掘調査が実施され、平成9年には国の史跡指定を受けました。調査研究に基づいて史跡の整備復元が行われています。

当時は水の確保に苦労したようです。馬蹄形状の曲輪の内側にある大井戸を見学したあと、西第十曲輪に登りました。ここでは門や建物跡、土塁の復元がされています。


さらに尾根伝いに山を登り、本郭に登りました。標高は最も高く約172mです。今年度平面復元された主殿跡を見学しました。ここでは、酒宴なども行われたのでしょうか?
現在は樹木で覆われて見晴らしはききませんが、将来的には眼下に四万十川の上流である広見川を望むことができるようになるそうです。

今後も徐々に明らかになっていく河後森城跡の調査が期待されます。
参加者の皆さんは、自然地形を利用した河後森城跡を実際に歩いてみて、当時のくらしぶりに思いをはせることができ、勇壮な姿を実感できたことに感動していました。
高山先生ありがとうございました。
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11月 13日 火曜日

備前焼壺と銭貨(個人蔵・当館保管)
これは、昭和24年ころ、東温市松瀬川の山中から出土した備前焼壺で、中に一万枚あまりの銅銭が入っていました。そのうち3000枚が調査され、もっとも古い銅銭は中国の唐代の開元通宝(初鋳621年)で、もっとも新しいものは明代の永楽通宝(1408年)でした。現在は2000枚あまりが現存しており、近年の調査では、唐、北宋、明など8王朝、55種類の銭貨と無文銭や模鋳銭が含まれていることがわかりました。そのうちもっとも多かった銭種は永楽通宝でした。中世には、中国から輸入した銅銭が使用されていましたが、近年では日本でも模鋳銭が作られていることが明らかになってきています。
壺は岡山県備前市で焼成された備前焼で、室町時代の15世紀後半のものと考えられます。丈夫な備前焼を銭の埋蔵容器として活用していたことがわかります。中世の備前焼は、壺・甕・すり鉢が生産され、伊予にも大量にも流通していることが明らかになっています。このような大量出土銭を詳細に検討することにより、銭や備前焼の流通をうかがい知ることができます。
地中から大量の銭貨を埋蔵した事例が全国的にみられます。その理由として、中世の人々が、戦禍や天災を避けるために地中に備蓄したことや、神仏に捧げるために地中に埋納したことなどが考えられていますが、検証材料が少なく、断定するにはいたっていません。
中世の松瀬川の人々も、備前焼の壺を容器として、中に大量の唐~明代の銅銭を入れて、なんらかの意図を込めて埋蔵したのでしょう。どんな想いだったのでしょうか?
第二会場に展示していますので、ぜひご覧ください。
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11月 1日 木曜日

酒飯論絵巻(当館蔵)
次に紹介するのは、下戸(げこ)の食事風景です。
僧侶と稚児が畳敷きの間で食事しています。前回紹介した、上戸(じょうこ)の酒宴のにぎやかな様子に比べて、静かな風景です。
白木の三方に載せられている赤い食器は、漆塗りでしょうか。ご飯がてんこもりに盛られています。食材に生臭いものはなく、精進料理が描かれています。中央には、鉢に食後に出される瓜が用意されています。床の間には、赤い卓の上に三足具(花瓶と燭台、香炉)が描かれています。

下戸の台所風景を描いています。
板敷きに座り込んで、調理しています。食材に肉や魚はみあたりません。楕円形の大きな曲げ物には白いご飯が見られます。俎板は、現在では見られない足がついています。その上には豆腐が置かれています。食材の盛りつけには、足のついた中国製の青磁盤や漆塗りの鉢も使われているのがわかります。
土間では、擂鉢を足で抱えて擂り粉木で何か擂っている人がいます。和え物料理が作られているようです。竃では、鉄製品と思われる鍋を沸かしている様子がうかがえます。
このように絵巻から当時の道具の使い方などをうかがいしることができます。
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10月 30日 火曜日
関ケ原合戦の際、各地で地方戦が展開され、伊予へも西軍毛利氏の軍勢が渡来し、南予の藤堂領へも誘いの手を伸ばしてきたことは以前の記事に掲載したところです。今回は、その時の様子をうかがえる、もう一通の文書を紹介します。
村上武吉・元吉・宍戸景世連署書状(今治市村上水軍博物館蔵)
差出人は、毛利氏から派遣された村上武吉・元吉・宍戸景世です。当時、毛利氏のもとには昔のよしみを頼って身を寄せていた伊予の旧領主たちが何人もいました。村上氏もその一人でした。また、宍戸景世は、伊予の旧領主平岡氏からの養子と記す史料もあり、伊予と関係があったものと推察されます。先に紹介した「毛利氏家臣連署書状」で、喜多郡内子の旧領主曽祢景房が先遣隊として渡ってきていたことを記しましたが、この時来襲した毛利勢には、伊予の旧領主たちがかなり含まれていたようです。それは、地理や情勢に詳しいだけでなく、旧知の人脈を持つという攻略上の利点もあったことでしょう。
受取人は、伊予郡辺りを拠点としたとみられる在地領主武井・宮内両氏。彼らに対して毛利方(西軍)に属するよう促した書状です。文中、「松崎(加藤嘉明)に従うようなら妻子以下まで討果たす」との強い口調も使っています。
なお、発給日は9月15日、まさに関ケ原では決戦が行われた日であり、この書状が届いた頃には勝敗は決していたことでしょう。とはいえ、その報がすぐには伊予まで届くはずもなく、翌16日には毛利勢が三津浜へと攻め入り、加藤留守部隊と一戦を交えます。しかし、毛利勢は村上元吉や曽祢景房が討死し、敗北を喫してしまいます。本戦でも敗北した西軍の毛利氏は、結局引き揚げることとなるのです。
この時、武井・宮内両名がどう対応したかは不明ですが、後世の記録類には道後平野の旧領主の中には毛利氏に内応する者もあったと記しています。
この文書、最近まで所在が知られていなかったのですが、発見され、今は差出人に縁の深い今治市村上水軍博物館に収蔵されています。
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10月 27日 土曜日
天下分け目の関ケ原合戦の際、各地の大名の領国の間で地方戦が展開されていました。伊予もそのひとつで、西軍毛利氏の軍勢が東軍加藤領へと渡り、そして南予の藤堂領へも誘いの手を伸ばしてきました。
毛利氏家臣連署書状(井原市教育委員会蔵)
以上
雖未申通候令啓候、
其表之様子為可承
合、曽禰孫左衛門尉(景房)被差
渡候、先年公廣(西園寺)
中國(毛利)御入魂之好、
旁以此時候条、萬事
御馳走干要候、委細
孫左(曽祢景房)口上可被申候、恐々
謹言
堅田兵部少輔
八月十八日 元慶(花押)
毛利大蔵太輔
元康(花押)
久枝又左衛門尉(興綱)殿
御宿所
この文書は、毛利氏から宇和郡久枝(西予市宇和町)の旧領主久枝氏に対し、毛利方(西軍)に内応し蜂起することを促した書状です。慶長5(1600)年の8月18日付けであり、まさに関ケ原前夜の風雲急を告げる状況下で出されたものです。同日付けで隣接する山田の山田氏にも、同じ内容の書状が出されていますが、原本は確認されていません。
当時宇和郡は東軍の藤堂高虎の支配下にありました。文中3行目には、内子の旧領主で当時毛利氏を頼っていた曽祢孫左衛門尉(景房)が使者としてすでに伊予に渡って来ている様子が見え、伊予の旧領主同士の縁を利用した調略の様子がうかがえます。
この誘いに、実際彼らがどう対応したかは不明です。しかし、「宇和旧記」には宇和の地で三瀬六兵衛なる人物が内通し、藤堂家に反旗を翻したとの記述があり、また藤堂家側の記録にもやはり内通して反乱を起こしたとあります。結果的に西軍毛利勢が南予まで進軍してくることはありませんでしたが、調略が成功して内応者を作ることができていた可能性がうかがえます。
この文書は、こうした南予と関ケ原合戦との関連を示す数少ない原資料の一つです。2004年8月に岡山県井原市で発見され、新聞報道もされましたが、今回受取人久枝氏の旧地宇和町へ里帰りし、初めて公開されます。
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10月 24日 水曜日
銅鐘(国指定重要文化財:出石寺蔵)
金山出石寺(きんざんしゅっせきじ)は、出石山(いずしやま)山頂にある四国霊場番外札所として知られています。その出石寺には国指定重要文化財の銅鐘が伝わっています。
高麗(こうらい)王朝時代(918年~1392年)の朝鮮半島で作られた銅鐘。下部には、両側に椅座天人像を配した仏の座像という優雅な紋様が鋳出されています。伝承では藤堂高虎が朝鮮出兵の際に持ち帰ったものを出石寺に奉納したともいわれますが、仏教信仰に基づき大陸から輸入されたものの可能性もあり、実際のところは定かではありません。総高890mm、口径557mmとやや小ぶりの鐘です。
この銅鐘、さすがに重さまでは量っていませんが、当然相当な重量です。それを今回、標高800m余りの出石山の山頂に位置する出石寺からお借りして、輸送し、展示しています。寺までの経路は八幡浜・大洲・長浜各方面からの道がありますが、どれも細く険しい道。それをトラックでのぼるのも大変でしたが、到着後には吊ってある銅鐘を取り外す作業。これもなかなか苦労しました。美術品専門業者の方の知恵と経験に基づく鮮やかな技でなんとか下ろし、そして厳重な梱包、積み込みにいたりました。所要時間2時間くらいかかる大仕事でした。
厳重な梱包!
博物館まで輸送後も、大勢の人数が集まって展示室まで移動し、設置した展示台の上へなんとかセッティングを完了させました。
現在の展示風景(上からバッチリ観察できます)
普段は吊ってある銅鐘のため、下から見上げることしかできません。けれども、会期中は間近で、しかも上から見ることができるので、普段見れない竜頭などの上部の様子をよく観察できます。是非一度ご覧になってみてください。
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10月 20日 土曜日
藤堂高虎は、文禄4(1595)年に板島(宇和島)入封してから慶長13(1608)年に津へ移封されるまで、南予をはじめ伊予の地を支配したことはよく知られています。その13年の間、領主として領内の発展に尽くしたことはいうまでもないことですが、その中には寺社の再建・復興もありました。ここでは、高虎の南予での寺社造営の様子がうかがえる、伊吹八幡神社(宇和島市)の棟札と絵馬を紹介します。
伊吹八幡神社棟札(伊吹八幡神社蔵)
藤堂高虎が、慶長12(1607)年に伊吹八幡神社(宇和島市)社殿を再建した時の棟札。表には「中興江州(近江国)浅井郡小谷住人藤原朝臣藤堂和泉守」と、藤堂高虎が中興した旨が明記されています。裏には造営米200石、同鉄280貫目との費用の記述もあります。なお、これと同時に絵馬3枚が奉納されており、以下に紹介します。

絵馬「橋弁慶」(伊吹八幡神社蔵)

絵馬「鷹図」(伊吹八幡神社蔵)
上の二枚は一組のもので、弁慶と牛若丸の五条橋のシーンを描いた「橋弁慶」。下のもう一枚は鷹の図。「慶長十二年丁未六月吉日」という年記銘が入っているが、年記銘のある絵馬としては、県内最古のものになります。
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10月 18日 木曜日

酒飯論絵巻(当館蔵)
みなさんは、お酒を飲んで騒ぐ派ですか?それとも静かにたしなむ派ですか?
中世にもお酒を飲んで騒いでいる人々をみることができます。酒飯論絵巻<しゅはんろんえまき>という16世紀に成立したとされる絵巻を紹介します。これは初期の風俗画として注目されています。
絵巻の内容は、酒好き(上戸<じょうこ>)と飯好き(下戸<げこ>)がそれぞれ、酒と飯の長所を上げて言い争い、酒と飯の両方好きな中戸<ちゅうこ>が酒も飯もほどほどがよいと説くという物語で、それぞれ念仏宗と法華宗、天台宗の宗教対立を暗示しているとされています。
まず酒好きの上戸の場面をみてみましょう。
畳敷きの広間で酒宴の様子が描かれています。中央には、鼓の音にあわせて上半身を脱いで楽しそうに踊る人々が見られます。表情からすると、かなりお酒が入っているのでしょうか?
白木の折敷や三方の上には酒盃がみられます。酒盃はこの絵巻では漆塗りのように描かれていますが、16世紀の文化庁所蔵絵巻では土器が描かれていることから、本来は土器である可能性があります。土器は一度使用すれば廃棄され、清浄を意図する場面で多用されました。中世の城館遺跡から、一括廃棄された大量の土器の皿や杯が見つかっています。
床の間には畳を敷き、花台にのった中国陶磁器らしい花瓶が置かれています。龍泉窯の青磁花瓶でしょうか?背後には掛け軸が掛けられています。もたれかかり、目を閉じている人は飲みすぎたのでしょうか?次の間では、酒が入った樽がたくさん積まれている様子が描かれています。酒がどんどん提子に入れられ、振舞われています。鼓の音や手拍子、たのしそうな笑い声がひろがる宴会風景が目にうかぶようです。

かなりお酒が入ってしまって酔いつぶれている人もいます。飲みすぎには注意しましょう。
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10月 17日 水曜日
西園寺公広書状「乃美文書」
(個人蔵・熊本市歴史文書資料室架蔵マイクロフィルムコピー)
西園寺公広から小早川隆景に宛て、土佐勢の侵攻に対して支援を求めた書状。河野氏にも求めたが、国内の乱れに手を焼いているため快い返事が得られなかったことも記されています。「乃美文書」には公広発給文書の原本が二通含まれています。従来写本の「乃美文書正写」がよく知られていましたが、近年になって『新熊本市史』に「乃美文書」の翻刻文が掲載されました。この文書を展示や図録によって、画像を一般へ紹介することは初めてのことです。
西園寺公広書状「乃美文書」
(個人蔵・熊本市歴史文書資料室架蔵マイクロフィルムコピー)
公広が乃美宗勝に対し、届けられた書状と贈り物(太刀・銭)についての謝辞を伝えた礼状。これも展示や図録による画像の一般への紹介は初めてです。
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10月 16日 火曜日
南予を代表する戦国の領主といえば、松葉城・黒瀬城(西予市宇和町)を本拠とした西園寺氏ではないでしょうか。となれば、代表的なのですからさぞたくさんの資料が残り、多くの歴史を物語ってくれるだろうと思うと、全くそうではありません。ゆかりの品や古文書類、当時の原資料を目にすることはほとんどありません。
そんな中、今回の企画展の調査の中で発見したものも含め、最後の当主西園寺公広が発した書状の原本を3通確認することができました。戦国時代の歴代の宇和西園寺氏が出した文書で原本を伝えているのは公広のみで、しかも公広でさえ現在確認できるのは3点のみです。つまり、極めて希少な西園寺氏発給文書の全てということになります。
今回の企画展「戦国南予風雲録」では、残念ながら原本の借用展示は叶いませんでした。しかし、その画像だけでも里帰りさせて、地元の皆様にご覧いただこうと、写真パネルにより展示をいたします。ぜひご来館の上、間近でその画像をご覧になってみてください。
西園寺公広書状「浦家文書」(個人蔵・山口県文書館保管)
西園寺公広から小早川隆景の家臣乃美宗勝へ、8月1日の八朔儀礼の祝儀として土佐弓十張を贈った際の書状。雁皮紙という少し上質の紙を使用しています。また、封紙を見ると、「松葉 公広」と自称している事も分かります。この文書が収録されている「浦家文書」の多くは、資料集『大日本古文書』に翻刻がされて紹介されているものの、この文書は掲載がされておらず、そのため今まで存在が一般に知られていませんでした。今回初めて一般に紹介します。
(残り2点、近日掲載します)
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