「高虎と嘉明」紀行11 -拝志城-

11月 8日 水曜日

今治城鉄御門前の産業道路を南へ向かい、蒼社川を渡ってさらに頓田川に差し掛かろうとする手前左側、現在ではショッピングセンターで賑わう場所、かつて、この周辺に高虎と嘉明が武力衝突寸前にまでいたった騒動の舞台、拝志城がありました。

拝志城跡付近(西方寺)

関ヶ原合戦の恩賞として伊予を二分した高虎と嘉明でしたが、その領域は西軍大名からの没収地を分割する形で加増されたため、特に東予では2人の領地が複雑に入り組むことになりました。
そうした中で、高虎は越智郡の領地に今治城を築き始めますが、実は嘉明との領地境界を間近に控える立地でした。城から南へわずか約3㎞しかない拝志城ですが、もうここは嘉明の領地でした。

関ヶ原合戦から4年後の慶長9(1604)年、当時今治を預かる藤堂高吉(高虎養子)が駿河の高虎のもとへ立てた使者が殺害されます。犯人は加藤領の拝志へ逃亡、今治からは探索の検使が派遣されますが、検使が拝志領内で犯人関係者(犯人自身もしくは逃亡幇助者、諸説あり)を成敗してしまいます。しかし、これを見た拝志の町衆は、今治(藤堂家)の者が拝志(加藤家)の者を切り捨てたと取り違え騒ぎになってしまいました。そのため、事情説明の使者が拝志へ立てられますが、加藤家家臣が拝志城門前にて使者の口上を聞くことなく問答無用で突き殺してしまいました。これに憤慨した今治藤堂家が派兵、あわや武力衝突かと思われましたが、間一髪のところで「公儀」を重んじて幕府の裁定に委ねる方向へ方針転換が図られ、藤堂勢は撤退していきました。

さて、皆さんならどちらをどう評価しますか?

結局、幕府は加藤家側に非があると決しました。拝志城を預かった加藤忠明(嘉明弟)は出家することになりましたが、お咎めのなかった藤堂家側でも、高虎は幕府沙汰になったことをはばかって高吉を蟄居としました。

騒動の顛末は、当事者高吉の子孫である名張藤堂家の記録にも詳しく記されています。特別展では、高吉の生涯をまとめた伝記「藤堂宮内少輔高吉一代之記」や、江戸時代前期の今治城下を描く中で「拝志古城之跡」も描き込まれた「今治城下絵図」を展示しています。

領地が錯綜する中で、境目の緊張が表面化した場所、それが拝志城だったのです。

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「高虎と嘉明」紀行10 -甘崎城・小湊城-

11月 6日 月曜日

しまなみ海道の伯方島と大三島をつなぐ大三島橋、その下には細くL字に曲がった海峡を激しく海水が流れる鼻栗瀬戸があります。この少し北、大三島東岸の甘崎海岸の目前に、小島を城砦化した甘崎城があります。
海岸から浅瀬を挟んで目と鼻の先にあるため、大潮の日には歩いて渡ることができます。

甘崎城

戦国時代から芸予諸島の要衝として重視され、海賊衆来島村上氏の支配下に置かれていました。関ヶ原合戦後に今治を領有することになった藤堂高虎も、この甘崎城の重要性を認識していました。瀬戸内海交通の監視はもちろんながら、芸予国境を目前に一望できる甘崎城は、豊臣恩顧大名福島正則の領国となった安芸・備後(広島県)の監視や国境警備には最適でした。

高虎時代に、島の周囲を石垣で囲み、瓦葺きの建物を設け、近世城郭へと改修されました。現在でも干潮時には残存する石垣を目にできることで有名です。島からは、瓦も出土しています。

甘崎城南隅石垣

特別展では、甘崎城から出土した瓦や、歴史復元イラストなどを手がける香川元太郎氏による復元イラスト「伊予甘崎城」を展示しています。

高虎は、新たな拠点今治城を築き、甘崎城で要衝管理を始めるようになると、両城を取り結ぶ「つなぎの城」として小湊城を整備します。
小湊城は、今治平野の北辺の山際にあって文字どおり来島海峡に面する海岸に立地し、また浅川の河口に近く戦国時代から小湊浦として港湾機能を備え、小早川隆景時代にも重視されていました。

小湊城

東予に領地を得て、芸予諸島管理のための支城ネットワークを整備しようとする、高虎の構想がうかがえる2つの城です。

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「高虎と嘉明」紀行9 -松山城-

11月 4日 土曜日

松山市街の中央、道後平野を一望できる標高142mの城山に築かれた城、嘉明が築城に着手した松山城です。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で徳川方に味方した嘉明は、恩賞として伊予半国20万石を拝領し、藤堂高虎と伊予を二分します。領地が倍増した嘉明は、道後平野の北寄りに位置する独立丘陵・勝山に、高虎の今治城と時を同じくして慶長7(1602)年から松山城の築城を開始します。

松山城

松山城は、山頂に本丸、山麓に二之丸・三之丸・東郭・北郭と、山の全方位に施設を設けた大規模な平山城です。本丸と二之丸・三之丸の間に朝鮮出兵時の倭城で用いられた登り石垣が採用され、防御機能を高めていることが特徴の一つです。また、現在は失われていますが、城山の東には城下町を囲むように堀や土塁(砂土手)が設けられ、総構の様相を呈しており、20万石の大名の居城に相応しい大規模な城だったといえます。

この松山城築城は、伊予を二分した高虎も注視していたようで、伊予灘の領地境の灘城を守る藤堂良勝へ、嘉明の本拠「松前の様子」や新城「勝山の普請」の情報を収集して報告するよう繰り返し命じています。
特別展では、これを命じた「良勝宛高虎自筆書状」を写真パネルにより紹介しています。

現在の松山城は、その後藩主となる久松松平家の改修が随所に施されていますが、嘉明時代の痕跡も残ります。本丸北西に残る嘉明築城時のものと考えられている江戸初期の野原櫓・乾櫓(国重要文化財)は代表的ですが、城山東麓の東雲公園から六角堂付近にかけては砂土手や念斎堀の在りし日の様子を色濃く残し、ロープウェイ街を歩くと東雲学園が所在する東郭跡の石垣に加藤築城時のものとみられる古い石垣も見ることができます。

松山城東郭石垣

ところで、松山城で今注目されている話題といえば、嘉明の時代の本壇(天守曲輪)の構造についてです。
加藤家が代々藩主をつとめた近江水口(甲賀市水口町)で発見された「与州松山本丸図」、嘉明の後任の蒲生忠知時代の松山城を描いた「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」、江戸前期頃成立と考えられている浅野文庫「諸国当城之図」所収の「伊予松山図」に描かれた本壇の形状は、いずれも現在の直角・直線を基調とするものとは異なり、あたかも城山山頂部の自然地形に従ったかのような多角形で曲線的な形で一致しています。
また、「与州松山本丸図」と「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」では、本壇中央に天守ではなく「いけ」「水」の表記がされています。寛永4(1627)年に公儀隠密が作成した「松山城図」にも、本壇を取り囲む櫓は描かれるものの天守らしき建物は描かれていません。
近年の発掘調査からも、嘉明時代の本壇石垣の痕跡の可能性がある遺構も検出されています。
特別展では、話題の絵図「与州松山本丸図」「松山城図」「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」を3枚並べて展示するとともに、近年の松山城発掘の成果である嘉明時代の出土遺物(滴水瓦、丸瓦、陶磁器)なども紹介しています。

こうした相次ぐ発見や研究の蓄積から、嘉明時代の松山城の真の姿が、今まさに浮き彫りにされようとしています。

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250万人目の入館者!

11月 3日 金曜日

歴博は、平成6年11月にオープンして今年で23年目。本日11月3日(金)文化の日に、開館以来250万人目のお客様をお迎えすることができました。
ちょうど250万人目となったのは、伊予市からお母さんと弟と一緒に来られた小学生の男の子。今日は、学校で配られたチラシを見て、ペンダントをつくりに来たそうです。歴博には、何度も来てくれており、展示室を巡るスタンプラリーもやったよと言ってました。
当館のマスコット「はに坊」が、たいへん気に入ったみたいで、かわいいと言いながら、握手したりしていました。

歴博は、小さなお子さんから大人まで、いろいろな年代の方に楽しんでいただく施設にしたいと考えています。小さい時に親に連れられ、まずはワークショップなどで楽しんでもらいながら、えひめの歴史や文化にふれてもらう。そして、小学校や中学校では、遠足や校外学習などで来ていただき、歴史や文化についてもう少し深く知ってもらう。さらに、大人になって、またお子さんやお孫さんを連れて来ていただくというふうになればと願っているところです。

ところで、11月12日(日) は、開館23周年の記念イベントを開催します。当日は、展示観覧がすべて無料。全国から資料を集めた特別展「高虎と嘉明」やテーマ展「相撲の歴史と民俗」「大型器台とその時代」などを楽しんでいただけます。また、エントランスには手作り雑貨などのお店が、玄関前には食べ物のお店が並ぶ「どんぐりマルシェ」も開催されます。さらに先着で、お餅やお菓子も配ります。
ぜひ、秋の一日、西予市の歴博へ、ご家族、お友達お誘いあわせのうえ、遊びにいらっしゃってください。スタッフ一同お待ちしております。

「高虎と嘉明」紀行8 -今治城-

11月 2日 木曜日

今治港から南へすぐの所に、広い水堀と高い石垣に囲まれたお城が見えてきます。高虎が築いた今治城です。

慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で徳川方に味方した高虎は、恩賞として伊予半国20万石を拝領し、加藤嘉明と伊予を二分します。それまで南予に領地を持っていた高虎でしたが、東予にも領地を獲得し、古くからの伊予府中の地である越智郡今治平野に、慶長7(1602)年から新たに今治城の築城を開始します。
伊予での新しい支配の本拠という意味だけではなく、瀬戸内海の要衝来島海峡や芸予諸島を監視する役割も担っていたとも考えられています。

今治城

今治城は、直線・直角を基調とする曲輪構造や層塔型天守の採用など、その後の近世城郭で多用される築城技術を導入した先駆的城郭と評価されています。
浅川と蒼社川に挟まれた海岸部の砂地に新たに築かれた平城で、中堀の北隅には海岸の砂洲を利用する形で大きく船入が設けられました。この船入が、現在の今治港へと発展します。
海の機能を取り込む独特の構造のため、今治城の堀は海とつながり、今も内堀北隅の取水口から海水が出入りします。潮の干満の影響を受け、海の魚が泳ぐ姿も見られます。

今治城内堀取水口

特別展では、江戸時代前期の今治城や城下の初期の姿を描いた城絵図や城下絵図を4点(実物3点、写真パネル1点)展示しています。
今回の特別展を機会にこれら絵図を比較検討すると、今治城の縄張は高虎時代にできていたものの建物は未完成のところもあり、完成した姿になったのは後に藩主となった徳川一門久松松平家の改修を経た後であることが見えてきました。詳しくは、展示図録に論考を掲載しています。

今治城では、平成19年に城跡の玄関の鉄御門が復元されており、城跡を訪ねる雰囲気を一層演出してくれます。
特別展では、この鉄御門の復元に先立つ発掘調査で出土した瓦や裏込石(転用石)も展示しています。高虎が支配拠点とした宇和島城や大洲城で出土した瓦と同じ文様の瓦もあり、興味深いところです。

高虎の今治築城は、慶長13(1608)年には使用可能な状態にまで仕上がったようですが、同年に伊賀・伊勢へと国替になって伊予を離れることとなり、今治城と領地支配は養子の高吉に引き継がれました。

築城名人と評される高虎が、新たな手法を導入しながら手掛けた新支配の象徴、それが今治城だったのです。

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「高虎と嘉明」紀行7 -三津刈屋畑古戦場・荏原城-

10月 31日 火曜日

伊予鉄道高浜線の山西駅から北へ、国道437号の高架をくぐってさらに住宅地に入ると、左手に小さな祠が見えてきます。村上大明神と呼ばれ、戦国の海賊衆・能島村上元吉が祀られています。

村上大明神(刈屋畑古戦場)

関ヶ原合戦は、美濃国(岐阜県)南西部の関ヶ原で行われた日本史上稀にみる大決戦として多くの人が知る戦いです。しかし近年では、当時の大名同士の相関関係に連動して、それぞれの領国がある日本各地でも合戦が起きていたことが知られるようになっています。 その一つが“伊予の関ヶ原”とでもいうべき、西軍総大将毛利氏による伊予攻略と、これに応戦する東軍高虎・嘉明の留守部隊の戦いです。

伊予は毛利氏本国安芸の対岸に位置し、特に中予の嘉明領はまさに最前線にあたります。毛利氏は旧伊予国衆の能島村上父子や曽祢景房らを含む攻略軍を送り込み、豊臣秀頼の名のもとに土豪へ呼応を求めたり加藤留守部隊へ開城を促したりと調略を仕掛けます。しかし、嘉明弟の忠明や重臣佃十成ら松前城留守居衆はこれに応じることなく、9月16日に毛利勢上陸地の三津刈屋畑で交戦に及びます。奇しくも前日の15日に関ヶ原では本戦がすでに決着していたにもかかわらず、徳川勝利の報がいまだ届かない中での戦いでした。 その結果、村上元吉や曽祢景房ら伊予出身の諸将も討死を遂げることとなりました。

三津には、この刈屋畑合戦で討死した武将の祠が点在し、今もそれぞれ「○○さん」などと呼ばれて祀られています。その一つがこの「村上さん」こと村上大明神です。

戦いはその後、毛利勢到来に呼応した河野氏旧臣平岡氏の荏原城籠城や、久米如来寺(如来院)の戦いなど、しばらく続いたと加藤家側や地元伊予側の双方の記録が伝えています。

荏原城

しかし、関ヶ原本戦での家康勝利の結果を受け、毛利勢は退却を余儀なくされます。

また、毛利氏による曽祢氏らを通じた調略は藤堂領の宇和郡までも及びました。まさに当館が所在する西予市宇和町卯之町での出来事ですが、毛利氏に呼応した松葉町(卯之町)の三瀬六兵衛による蜂起と、藤堂留守部隊による鎮圧の様子が、やはり藤堂家側と地元側の双方に記されています。

四国平定後に伊予の所領を失った旧領主たちの旧領回復もかかる西軍総大将毛利氏の来襲、これを乗り切った2人は、戦後伊予を20万石ずつ二分する大名へと成長することになります。

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「高虎と嘉明」紀行6 -関ヶ原古戦場-

10月 29日 日曜日

人は人生の中でどのくらい運命の選択をするのでしょう。高虎と嘉明、また同時代の武将にとっておそらく最大ともいえる選択が、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦での去就ではなかったでしょうか。

関ヶ原

豊臣秀吉が慶長3(1598)年に亡くなると、徳川家康が台頭、対抗する石田三成らの勢力との間で溝を深め、天下分け目の関ヶ原合戦へといたります。
この時、伊予を治める大名も双方に分かれ、徳川方に高虎と嘉明、石田方には小川祐忠・池田秀氏・来島村上康親らが味方することになります。そして、この時の選択が、その後270年にわたる長い徳川の時代における、各武将とその家の命運を左右する最大の転機となりました。
徳川についた高虎と嘉明は、伊予の石田方大名の旧領から加増され、伊予を二分して20万石ずつの大名へと成長することになります。ちなみに、この時2人は互いの領国支配について当事者同士で取り決めを結んでおり、特別展ではこの領知協定書写を展示しています。

関ヶ原は、美濃国(岐阜県)と近江国(滋賀県)の国境近くにあり、古くは不破関が置かれるなど街道の要衝とされ、江戸時代には中仙道の関ヶ原宿が置かれていた場所です。現在も、交通の要衝らしく、JR東海道本線、東海道新幹線、名神高速道路が並走します。

JR関ヶ原駅を降りると、もうそこは関ヶ原の古戦場の真っ只中です。一帯には陣跡とされる場所が点在し、いかにも日本史上の一大合戦の舞台であることを実感できます。盆地の中程には家康の陣跡や徳川方武将の陣跡、北西の高台・笹尾山には三成の陣跡などを見ることができます。
関ヶ原中学校の北門を入ったところには、藤堂高虎・京極高知の陣跡を示す標柱があります。嘉明の陣ははっきりしませんが、後世に合戦の陣配置を描いた絵図などでは、一番隊として石田陣の南東に居並ぶ最前線の武将の中にその名を見ることができます。

藤堂高虎・京極高知陣跡


なお、少し西に行った春日神社にも、高虎・嘉明の前任で東予を治めた福島正則の陣跡の標柱が建ち、後に大洲城主となる脇坂安治の陣跡の標柱も、盆地南西方面の名神高速道路を越えた森の中に静かにたたずんでいます。

特別展では、陣配置の絵図を展示するとともに、テレビや刊行物でもお馴染みの関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」の複製を展示しています。高虎と嘉明も描き込まれていますので、探してみてはいかがでしょう。

徳川家康が天下の主導権を手に入れた関ヶ原、高虎と嘉明にとっても大名として大きく躍進し、徳川幕府のもとで両家が大名家として長く続いていく端緒を開いた、まさに運命の地だったといえるでしょう。

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「高虎と嘉明」紀行5 -肥前名護屋城-

10月 27日 金曜日

佐賀県の北岸に突き出た東松浦半島、玄界灘を望むのどかな風景の中に、突如石垣に囲まれた巨大な城郭遺構が現れます。
豊臣秀吉が天下統一の後、天正20年(1592)年から開始した朝鮮出兵の拠点として、半島突端部に築いた名護屋城です。

名護屋城天守台跡


第1次朝鮮出兵(文禄の役)では、当時淡路国(滋賀県)に領地があった加藤嘉明や脇坂安治、伊予の来島村上通総、志摩国(三重県)の九鬼嘉隆、また豊臣秀長のもとで紀伊国(和歌山県)に領地を持っていた藤堂高虎たちが、船手衆として水軍を率いて参陣しました。
第2次朝鮮出兵(慶長の役)では、藤堂高虎と加藤嘉明は伊予の大名になっていました。やはり、同じ伊予の来島通総らと水軍を率いて出陣します。
特別展では、彼らへ宛てた秀吉の朱印状なども展示しています。

名護屋城の周辺には、全国から集まった大名の陣が設けられました。陣といっても石垣や屋敷を持つもので、小さな城のようでもあります。入口付近に何やら大きな丸い穴が開いた石がある所も・・・、実は旗印の幟竿を立てるための石だそうです。

嘉明の陣は、名護屋城から名護屋浦の入り江を挟んだ東向い、加部島へ通じる呼子大橋の付け根に設けられていたもので、発掘調査を経て整備されています。

加藤嘉明陣跡


肥前名護屋城跡及び周辺の陣跡では、今も発掘調査や整備が続けられています。次第に明らかになる名護屋城とその城下の姿は、名護屋城博物館で知ることができます。

慶長の役では、高虎と嘉明は戦場での互いの評価をめぐって対立、これをきっかけに確執を生むことになったといわれます。一方で、2人は慶長の役での功績を秀吉から認められ、加増されることにもなります。
しかし、秀吉に見出され、常に秀吉を支えてきた2人でしたが、この朝鮮出兵が秀吉のもとで戦った最後のいくさになりました。

2人を見出し大名へと導いた秀吉は、慶長の役の途中、慶長3(1598)年8月に亡くなります。
この後、次第に権勢を強める徳川家康とこれに対抗する石田三成らとの対立は深まり、関ヶ原合戦へと突き進むことになります。

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「高虎と嘉明」紀行4 -松前城-

10月 25日 水曜日

松山から県道22号伊予松山港線を南へ進み、重信川の川口大橋を渡り、さらに国近川を過ぎると、左手に記念碑の建つ広場が現れます。松前城跡を示す記念碑で、かつてこの一帯に松前城が存在しました。

松前城跡


嘉明は、天正11(1583)年の賤ヶ岳合戦の功名により3千石を拝領しますが、四国平定を経た同14(1586)年には淡路国志智1万5千石の大名になります。そして、第一次朝鮮出兵(文禄の役)を経て文禄4(1595)年、伊予松前6万石を給わり、高虎と時を同じくして伊予に入部します。

嘉明が居城に選んだのは伊予郡の松前城です。道後平野南部を流れる伊予川(重信川)の河口に位置し、中世以来の伊予郡の良港でした。

現在では城跡として往時の姿を留めていませんが、近隣の地下からは、かつて石垣の痕跡と見られる巨石が発見されたこともあります。
周辺には、わずかながら痕跡を探すこともできます。住宅地に入り、矢野地蔵堂の前に差しかかると、アスファルト道路の端に不自然に巨石が剥き出している所があります。実はこれ、松前城筒井門があった場所とされ、その礎石といわれています。ここにあった筒井門が松山城築城の際に移築され、松山城筒井門として残されたと伝えられています。

松前城筒井門礎石


また、もう少し東へ進んだところにある平安時代開創という金蓮寺は、もともとは今よりも海寄り(松前城の場所)に所在していたものを、松前城築城にあたり現在地に移築したと伝えられています。松前城築城時の様子を伝える貴重なエピソードです。

金蓮寺


特別展では、嘉明が領内の桶職人を取り仕切る大工に松前城下町衆の2人を任命した印判状を写した典籍なども展示しています。

嘉明が高虎とともに伊予の大名となり、新たな支配に乗り出す拠点となった松前城、32年に及ぶ伊予での領国支配がここから始まりました。

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「高虎と嘉明」紀行3 -宇和島城・大洲城・河後森城-

10月 23日 月曜日

高虎は、主君とした豊臣秀長を天正19(1591)年に、その養子秀保を文禄4(1595)年に相次いで亡くすと、高野山へ隠棲することを決めます。しかし、これを秀吉が引き止めたことで、高虎は一躍有力大名への道へと歩みを始めます。
文禄4年に早くも伊予宇和郡に7万石の所領をもらい、独立した大名として伊予に入部します。

高虎が居城に選んだのは板島城(後の宇和島城)で、現存する伊達家築造の天守とは異なり、自然岩盤の上に下見板張りの望楼型天守が築かれました。現在の宇和島城の石垣には、築造年代の異なる箇所が混在しており、一部には高虎時代と思われる石垣も見ることができます。

宇和島城 藤兵衛丸石垣

蔵入地が設定された喜多郡の支配には、大津城(後の大洲城)が用いられました。戦国時代から喜多郡支配の中心で、前任の小早川隆景や戸田勝隆の時代にも、拠点や居城とされていた城です。大津城と板島城、さらに今治城では、発掘調査により文様が共通する瓦が出土しており、高虎支配との関係から注目されます。

大洲城

四万十川の支流広見川沿いの土佐国境には、河後森(かごもり)城を置きました。河後森城は、宇和郡を領有する歴代大名が土佐西部の要衝・中村につながる国境の要として重視し、彼らによって石垣や瓦葺大型建造物を擁する近世城郭へと改修を施されたことが発掘により分かってきています。

河後森城

高虎は、はじめて独立した大名となった南予で、この3城を支配の拠点としました。
特別展では、高虎時代をうかがわせる江戸時代初期の宇和島城や大洲城の姿を描いた絵図や城や町の建設にまつわる文書も展示しています。
ぜひこの機会にご来場ください。

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