「愛媛・災害の歴史に学ぶ」11 愛媛における「大火」—近現代編—

3月 4日 土曜日

消防白書では、建物の焼損面積が33,000㎡(1万坪)以上の火災を「大火」と定義づけられています。戦後の日本では昭和41年青森県三沢市大火(焼損282棟、53,537㎡)、43年秋田県大館市大火(281棟、37,790㎡)、51年山形県酒田市大火(1,774棟、152,105㎡)などが知られ、平成に入ってから都市型大火は無くなったかと思われていましたが、平成28年12月には新潟県糸魚川市で147棟、約40,000㎡を焼損するという大火が発生しており、街や建物の耐火、防火対策が進んだ現在でも大規模火災が充分に起こりうることが再認識されたところです(註:災害情報学会編『災害情報学事典』2016年、342〜343頁)。また、平成29年2月には西予市野村町予子林でも強風に煽られて11棟が全焼するという火災も発生し、愛媛県内でも防火、防災に対する意識が高まっています。

明治時代以降の愛媛県内における「大火」は、戦時中の松山、今治、宇和島などの空襲被害を除くと、実は都市部では少なく、漁村、山村といった郡部で頻繁に発生しています。明治初期から昭和20年までの間で最も被害が大きかったのは、明治34(1901)年11月28日に発生した佐田岬半島西部の名取地区(当時は神松名村、現在の伊方町)の大火です。午前10時頃に名取地区の農家の納屋から出火し、強い西風にあおられて大火災となり、集落のほぼ全体にあたる204棟が全焼し、午後3時ごろようやく鎮火しました。888人が罹災する惨状となったのですが、急遽、八幡浜警察署、松山警察署、県警察部から職員を派遣し、57戸の仮小屋建設や救護に当たりました。同年12月2日、天皇・皇后両陛下から被災者に対し、救恤金250円の下賜もあり、全国的にも注目された火災でした。これが近代(明治から昭和20年)愛媛の最大の火災被害です。なお、名取地区には江戸時代の文化13(1816)年建立の鎮火地蔵も祀られており、明治34年以前にも火災による大きな被害があったことが推測できます。

そして、戦後最大の火災は昭和23(1948)年9月17日の長浜町(現大洲市)の大火です。午後0時半ごろに、長浜町港町の木工製作所の煙突から出た火の粉が、隣接した煮干製造、保管倉庫の屋根に着火し、北西の強風にあおられて町の四方に燃え広がりました。現場は家屋の密集地帯で、連日の旱天で乾燥していた屋根の杉皮に燃え移り大火となりました。長浜町の消防団、警察署だけではなく、喜多地区、大洲町警察署にも応援を求め、消防団約1,300名、警察官322名の協力で午後4時ごろ鎮火しました。被害家屋は全焼185棟、負傷者は重傷2人、軽傷60人、罹災者は788人、損害額は約1億円に達しました。

明治時代以降、50棟以上が被災した火災は他にもあり、明治13(1880)年11月16日の現松山市内の魚町付近の103棟、明治25(1892)年3月15日の現松山市の南八坂町の約50棟、明治29(1896)年8月13日、現愛南町の西外海村船越の約50棟、大正8(1919)年10月21日、現愛南町の東外海村字岩水の59棟、大正10(1921)年12月24日、現伊方町の伊方村大浜の65棟、昭和10(1935)年6月27日、現鬼北町の下鍵山地区の67棟などの火災の歴史が残り、大規模火災が、季節や地域を問わず発生していることがわかります。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」10 文学作品に見る昭和南海地震

3月 3日 金曜日

昭和21(1946)年12月21日に発生した昭和南海地震。愛媛県内で死者26名を出すなど大きな被害をもたらした地震ですが、戦後間もない混乱期でもあり、その被害の様子を克明に記録した史料等は多くはありません。その中でも獅子文六が執筆した小説『てんやわんや』は、昭和南海地震の様子を具体的に記述しており、将来の南海トラフ巨大地震が起こる際、参考になるかと思われます。

獅子文六(明治26年〜昭和44年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和23年から24年にかけて毎日新聞で連載されました。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られていました。

『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開します。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇)に行っていた際、南海地震に遭遇します。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った。」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されています。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻りますが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた。」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記しています。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た。」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえます。

これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけませんが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、昭和23(1948)年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどでした。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」9 ため池の保全・防災

3月 1日 水曜日

ため池は、江戸時代初期から農業用水を確保するために各地で築造され、現在、全国には約20万ヶ所、愛媛県内でも3,256ヶ所(農林水産省資料より)を数えます。西日本、特に瀬戸内海沿岸の各県に多く、降水量が比較的少なくて大きな河川のない地域で数多く築造されています。愛媛県内では今治市、松山市、伊予市、西予市、宇和島市に多く見られます。

県内の代表的なため池の一つに、農林水産省のため池百選に選定されている松山市堀江の「堀江新池」があります。江戸時代の松山藩内では最大の12万t規模で、少雨、旱魃対策として天保6(1835)年に庄屋の門屋一郎次が呼びかけ、村民総出で3年をかけて完成したもので、現在は親水公園としても整備されています。また、伊予市大谷池は貯水量175万tの県内最大のため池として知られ、伊予市域の田畑938haに農業用水を供給しています。池の位置する旧南伊予村は、少雨地帯で大きな河川もなかったため、村長武智惣五郎が先頭に立ち、のべ37万人がその築造工事に従事し、昭和20年に完成しています。このような大規模なため池ばかりではなく、ほとんどは1万t以下の小規模なもので、集落ごとに管理されています。

ため池の管理は地元集落や水利組合などが主体となって保全、管理されてきたのですが、近年では農家数が減り、土地利用も農地から転用されるなど、保全組織が充分機能せず、以前と比べてため池の管理が困難になってきている事例も多く見られます。ため池の管理が充分になされていないと、ため池が決壊する可能性があります。決壊すれば下流域にあたる住宅地や田畑に大量の水が流れ込むことになります。

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の際に、福島県須賀川市の藤沼湖(藤沼ダム)が決壊しました。これは戦後に完成した150万tの大きなため池です。愛媛県内では例えば西予市宇和町に関地池がありますが100万t規模です。その1.5倍のため池が地震で決壊したのです。その水は下流に流れ、須賀川市内で死者、行方不明者が8人出て、市の文化財収蔵庫も流され、歴史資料が被災しています。

愛媛県内でも平成17(2005)年3月に伊予市稲荷の「八幡池」が決壊し、1万3千㎡の農地被害、24棟の浸水被害が出たことがありました。水が出る樋部分の施工不良が原因であると愛媛県原因調査検討委員会では結論づけましたが、その4年前の芸予地震の影響を指摘する見方もあります。底が決壊して直径3mの穴があき、そこから水があふれ出て、池から約1km地点まで浸水しました。また平成9(1997)年には松山市畑寺町のため池「宝谷池」も決壊した事があります。最近では平成28(2016)年6月の大雨のよって西予市宇和町大江の「フケ下池」が決壊し、住民に避難指示が出たこともありました。

ため池決壊は地震、大雨によって引き起こされますが、高齢化や担い手不足によって日常管理が行き届かない所も今後増えてくると予想されます。今後30年、50年を考えると、ため池防災は、愛媛県の地域的特性の一つであり、喫緊の課題といえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」8 「天災は忘れた頃にやってくる」

2月 27日 月曜日

「天災は忘れた頃にやってくる」とか「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉がありますが、これは高知県出身の物理学者で随筆家の寺田寅彦の言葉です。ただ寺田寅彦の書いた著作をいくら探しても「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は出てきません。実は寺田寅彦と地震学で交流のあった今村明恒の著作『地震の国』の中に「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している」とあり(今村明恒『地震の国』文藝春秋新社、昭和24年)、それ以降に広く一般に定着した言葉といわれています。

寺田寅彦自身が「天災は忘れた頃にやってくる」と記しているわけではありませんが、このことを意図した関連文章はあるのでここに紹介します。寺田が昭和9(1934)年11月に執筆した随筆「天災と国防」(寺田寅彦『天災と国防』講談社、2011年所収、9〜24頁)に「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の顛覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」とあり、また災害が忘却される事例として昭和8年5月執筆の「津波と人間」(『天災と国防』所収、136〜145頁)で、同年の昭和三陸津波を紹介し、その前の明治29(1896)年の三陸津波の災害記念碑が倒れたままになってしまっていることを嘆いています。

また、昭和10(1935)年7月に執筆された「災難雑考」(『天災と国防』36〜56頁)では「われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって」、「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」と、寺田の逆説的な災害、防災観がうかがうことができます。実際に、日常から防災対策に取り組むことや、災害が起こった場合の復旧、復興によってその地域は再編、再構築されるわけであり、「人間は災害によって育まれる」というのも一理あることだといえます。

そして寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減される可能性があるのである」とも述べていて、防災の重要性を指摘しています。小林惟司『寺田寅彦と地震予知』(東京図書、2003年)によると、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』(全6巻)の書名になった「防災」は、寺田寅彦が命名したとされます。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行を契機に「防災」という言葉が一般名称化したともいえます。

なお、寺田寅彦については高知市小津町に寺田寅彦記念館があり、同市丸ノ内の高知県立文学館には常設展として「寺田寅彦記念室」が設けられており、その生涯や防災のことについて展示紹介しています。南海トラフ地震の発生で被害が予想される四国の出身の寺田寅彦は防災面で警鐘を鳴らす文章を数多く残しており、学ぶべき点は多いといえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」7 愛媛の史料から見た九州の災害

2月 25日 土曜日

江戸時代、九州肥前国島原(現在の長崎県)の雲仙岳で火山活動が続いていたところ、2度の強い地震が起こって東端の眉山が山体崩壊し、その土砂が有明海に流れ込み、対岸の肥後国(現在の熊本県)に大津波が押し寄せた災害。いわゆる「島原大変肥後迷惑」が寛政4(1792)年4月1日に起こっています。崩壊した土砂の量は3億4000万立方メートルに上るとされ、それが島原城下を通って有明海へと一気に流れ込みました。土砂は海岸線の約900メートル先までを陸地と化し、その衝撃で島原では高さ9メートル以上、肥後側では5メートル以上の津波が襲いました。その災害での死者・行方不明者は島原で約1万人、肥後で5千人の計1万5千人を越えると言われています。これは有史以来、日本で最大の火山災害とされています(註 都司嘉宣、日野貴之「寛政4年(1792)島原半島眉山の崩壊に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸溯上高」(『東京大学地震研究所彙報』 第68冊第2号、1993年)。

この大災害「島原大変肥後迷惑」については、愛媛県八幡浜市真網代の庄屋の記録「二宮家系図調書真網代古事録」(成立年代は明治時代後期。江戸時代から明治30年代の真網代地区の事蹟が編纂、掲載されている)にも記述があり、「嶋原温泉嶽壊崩」、「当辺迄、七日七夜ノ猛音ス」と書かれています。つまり、雲仙眉山の山体崩壊とそれに伴う津波の轟音が、愛媛県にまで響き渡っていたということがわかります。

雲仙眉山の山体崩壊の原因は火山噴火によるものではなく、地震によるものとされています。爆発的噴火であれば音が四国まで響き渡っても不思議ではないのですが、地震による崩壊の音が四国まで聞こえていたとすると、かなりの轟音だったと思われます。「嶋原大変記」に「百千ノ大雷一度ニ落チルガ如ク天地モ崩」とあるように一度に百、千もの雷が落ちたような轟音だったようで、それが四国まで届いていたのです(註「嶋原大変記」『日本農書全集第66巻 災害と復興一』農山漁村文化協会、1994年)。

実はこの「真網代古事録」は既に知られた史料で、宝永4(1707)年の宝永南海地震など災害記述も見られ、災害研究では引用されてきた文献でした。しかし取り上げられる災害は愛媛県内のものに限られ、「島原大変肥後迷惑」に関する記述は見落とされてきたのです。平成28年4月の熊本地震の発生を契機に、改めて九州での地震に関する史料がないのか今一度、各種史料を確認したところ、この記述が確認できたのです。現在のところ、愛媛県内で確認できる「島原大変肥後迷惑」の史料は「真網代古事録」のみです。

災害の歴史は、現在の都道府県単位で考えるのではなく、近畿、中国、九州と四国といった県境を越えて災害史料を突き合わせてみることが大切なのだと、熊本地震のあと、改めて考えさせられたところです。

なお、島原の眉山は、寛政4年の山体崩壊のあとも、明治22(1889)年の熊本地震の際も山が崩れ、平成28年熊本地震でも小規模ですが崩れています。このような史料情報の集積は防災の上で大事なことであり、愛媛県内の災害史料情報も各時代ごとに集積の上、四国内外で共有する必要があるといえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」6 龍・蛇と災害伝承

2月 24日 金曜日

松山市奥道後に竜姫宮(りゅうきぐう)というお宮が祀られています。「竜のお姫様の宮」というものの、伝説上では退治された大蛇が祀られています。奥道後の湧ヶ淵には雌雄の大蛇が棲みついて住民に多くの災いをもたらしていましたが、石手寺の僧侶が石剣で雄の大蛇を退治したといいます。現在、石手寺にはその時の石剣と大蛇の頭骨が宝物館に展示されています。そして生き残った雌の大蛇は美女に化け、通行する者を淵に引きずり込むので、湯山の城主・三好氏が鉄砲で退治し、雌蛇の頭骨が現在、竜姫宮に祀られています。この付近は平成13(2001)年6月の集中豪雨で、ホテル所有の大きな建物「錦晴殿」が流されたことがありました。この川では土砂災害、水害がよく起こっています。地名として、もしくは伝説として竜(龍)とか蛇(大蛇)の名前がついたり、語られたりするところは案外多いのです。

西予市宇和町多田地区に伊延というところがあります。大安楽寺という寺院があり、その参道沿いに「蛇霊大神」を祀る蛇骨堂があります。蛇を祀るお堂で、毎年11月23日に盛大な祭りが催されています。ここには昔、大蛇の霊が出たという伝説があります。伊延を含む多田地区を開墾した宇都宮永綱が大蛇を退治することによって、そこの地域に住み続け、治めることができたという伝説です。実はこの蛇骨堂の裏側の山というのは、土砂災害警戒区域に指定されており、大雨によって急傾斜の山肌が崩れ、蛇が通っているかのように先人は見てきたのです。土砂災害を大蛇や竜(龍)のようだと昔から表現することは全国各地にあり、中部地方の「やろか水」(洪水)とか「蛇抜け」(山崩れ)、江戸時代の妖怪絵に出てくる「天狗礫」(落石)などがあります。

このような災害を怪異に見立てる事例は全国的にも見られ、土地土地の伝説の中には、先人が経験した災害の恐怖の原因を、妖怪や神々といった超自然的存在のなせる業と考え、それを地元の物語として構築し、それが後世に伝えるための災害記憶装置となっているといえるでしょう。

さて、明治32(1899)年8月28日に愛媛県内で起きた大水害では、県内全体で828名、現在の新居浜市で512名が亡くなるという大きな被害が出ました。特に旧別子の被害が大きく、この大水害によって旧別子から東平、端出場(現在のマイントピア別子のあたり)に銅山施設の中心が移っていくという一つのきっかけになりました。旧別子に向う途中に新居浜市立川(たつがわ)という地区があります。立川は「川が立つ」と書きますが、地元に行って、神社を見てみると「たつがわ」と呼ぶものの「龍河神社」と表記されています。荒れ狂う龍のように水害が起こる可能性がある地域の神社ということで、龍河と名付けられた可能性があります。そして大正元年に架けられた橋の名前も「龍川橋」となっています。現在は「立川」の字を一般的に用いられていますが「立」と「龍」が併用されているのです。
龍、蛇がつく地名、神社名などがすべて災害に結び付くものだという早急な判断は禁物ですが、水害被災地において龍、蛇の地名が残っていたり、祀られていたりする事例は多く、地域で語り継がれてきた怪異伝承の中に防災の知恵が込められていることも忘れてはいけません。

「地域とともにある歴史博物館」とは

2月 22日 水曜日

歴博では、現在、特別展「はに坊と行く! えひめの古墳探訪」を開催中。また、毎年恒例のテーマ展「おひなさま」も今週から始まりました。
ところで、特別展関連企画として、ヘルシー歴史ウォーク「笠置峠を歩こう」が、3月5日(日)と3月9日(木)に開催されます。西予市内に残る「岩木赤坂古墳」「ナルタキ古墳群」「笠置峠古墳」を見学するとともに、史跡的価値のある古道が残る笠置峠越えの八幡浜街道を歩くというもので、若干ハードではありますが、なかなか面白い?企画だと思います。本来は、歴博友の会の会員限定企画ですが、これを機に友の会に入会していただけるのであれば、初参加大歓迎です。詳しくは事務局まで。なお、3月12日(日)には、「東予の古墳探訪」のバスツアーもあります。

さて、歴博は西予市宇和町卯之町にあるわけですが、卯之町の町並みの中にある先哲記念館で、今「末光績展」が開催されています。末光績って誰? と思う人が多いと思いますが、今も町並みの中に残る末光家住宅に生まれ(伊予銀行頭取などを務められた末光千代太郎氏のおじに当たる)、札幌農学校で有島武郎と知り合い、東宇和郡立農蚕学校(現在の宇和高校の前身)の発足時に校長事務取扱(のちに校長)などを務めた後、40歳で東京帝国大学英文科に入学し、卒業後は明治大学で教壇に立つとともに、山を愛し日本山岳画協会の設立に関わり、さらに新渡戸稲造とも深い親交があって恵泉女学園の創立・発展に晩年を捧げたという人物です。
日曜日(2月19日)に、愛媛新聞の高橋正剛さん(学生時代に住んだ東京荻窪に残るもう一つの末光家住宅が縁で末光績の足跡を追い「北斗の誓い」として記事を連載)の講演があったので、私も聴きにいってきました。会場には、有島武郎とやりとりした手紙、直筆の山の絵、詩集、新渡戸稲造から贈られた扁額など、たくさんの資料が展示されていましたが、地元の方が「卯之町は建物より人脈、人のつながりがすごい」と言われていたのに、すごく納得しました。

歴博の学芸員も、末光家住宅の見学会などの時にお手伝いさせていただいたりしていますが、改めて地域のことをもっと知って連携を深めていきたいと思った次第です。「末光績展」は3月12日(日)までで一部展示替えを行い、3月18日(土)から後期展となるそうです。ご覧になられていない方はぜひどうぞ。そして、お帰りには歴博にお立ち寄りください。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」5 地震の時の唱えごと

2月 21日 火曜日

地震の予兆に関しては、一般にナマズが暴れると地震が起こると言われています。これは茨城県の鹿島神宮にある要石が、普段はナマズを押さえているが、手をゆるめると地震が起こるという伝説が江戸に広まり、鯰絵として絵画の主題になったり、文芸にも取り上げられたりして広まったものです。愛媛県内にも松山市の北条鹿島の鹿島神社境内に要石があり、事実かどうか疑問ではありますが、この石によって「風早地方では地震が少ない」と説明されています。

なお、江戸時代初期以前にはナマズではなく龍の仕業と考えられていました。江戸時代初期の「大日本国地震之図」を見ても日本列島を龍が取り囲んでいます。『増補大日本地震史料』によれば江戸時代以前の地震を「龍動」、「龍神動」と記す例もあります。地震災害も龍といった超自然的存在が原因と考えられていたのです。また、夜中にキジが鳴くと地震が来るというのも全国的に聞くことのできる予兆の言い伝えです。

さて、実際に地震が発生した時に、かつては地震が止むようにと唱え言をしていたといいます。全国的に見ると、地震の時の唱え言としては「マンザイラク(万歳楽)」があり、江戸時代から、危険な時や驚いた時に唱える厄除けの言葉として有名です。八幡浜市では、地震の時に「コウ、コウ」と叫んだといい、また大洲市でも同じく「コウ、コウ」と言うと地震が早く止むとされます(『大洲市誌』1972年)。これが今は途絶えた伝承かといえばそうではなく、平成26年、愛南町発行の『今語り継ぐ、愛南町の災害体験談』には昭和初期生まれの女性が体験談として語っています。

感覚としては、落雷の時に「クワバラ、クワバラ」と唱えるようなものでしょう。このクワバラは桑原のことで、菅原道真の所領の地名であり、道真が藤原氏により大宰府に左遷され、亡くなった後、都では度々落雷があったものの、この桑原には一度も雷が落ちなかったという言い伝えから、雷の鳴る時には「クワバラ、クワバラ」と言うようになったと『夏山雑談』に記されています。この唱え言は謡曲「道成寺」など、歌舞伎や狂言の台詞にも登場し、一般に広まったものです。大洲市のことわざで「麻畑と桑畑に雷は落ちぬ」といいますが、桑の木は比較的低いため、桑畑(桑原)には実際に雷が落ちる可能性が低いといえるのかもしれません。

話は戻って、地震の時に「コウ、コウ」と叫ぶ事例は高知県にもあります。これについては、坂本正夫氏が『とさのかぜ』19号(高知県文化環境部文化推進課、2001年)にて紹介しています。高知県中部では「カア、カア」、土佐清水市や宿毛市、大月町などの高知県西部では「コウ、コウ」と言うそうです。また仁淀川上流の吾北村や池川町などの山村では、地震は犬を怖がるのでコーコー(来い来い)と犬を呼ぶ真似をすれば地震がやむと言われています。『諺語大辞典』(有朋堂書店、1910年)には「地震ノ時ハカアカア、土佐の諺、地震の時は川を見よの意なりと云う」とあります。坂本氏によると、地震が発生したら、落ち着いて川の水の状態や海水面の変化などをよく観察し、山崩れや津波の来襲に気を付けるようにという科学性に富んだことわざとのことです。

八幡浜市等の「コウ、コウ」も「川、川」が訛ったものと思われますが、実際に地震が起こった場合は、冷静に周囲の状況を見て、行動することが大切だということを示唆しているといえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」4 土石流と天然ダム

2月 20日 月曜日

愛媛県は土砂災害の頻発する地域といえます。県内の土砂災害危険箇所は計15,190ヶ所(平成15年3月愛媛県公表)にのぼり、47都道府県の中で14番目に多いのです(註1)。土砂災害にはおおまかに分けて、①山に堆積した土砂や石などが集中豪雨による水とともに一気に流れ出してくる「土石流」(県内5,877ヶ所)、②緩やかな斜面で地下の粘土層などが地下水などによってゆっくりと動き出す「地すべり」(506ヶ所)、③斜面に水が浸み込んで弱くなって瞬時に崩れ落ちる「がけ崩れ」(急傾斜地崩壊、8,807ヶ所)があります。その中でも土石流に関する愛媛の代表事例を紹介します。

松山自動車道川内ICから約6キロ北東に位置する東温市松瀬川の音田という地区では、天明から寛政年間(1781~1801年)に皿ヶ森の南斜面が崩壊し、大規模な土石流が発生して音田の集落を呑みこみ、土砂が本谷川の流れをせき止め、天然ダムができたという言い伝えがあります。天然ダムは数日後に満水となり決壊しましたが、音田の約1キロ上流の五社神社付近まで水がきたものの、神社は湛水からはのがれたといいます。この地域には東西に中央構造線断層帯の川上断層が走っており、その断層の北側にあたる部分が崩落しています。

なお、愛媛県内には東予地方から伊予灘に抜ける形で中央構造線断層帯が通っていて、大地震発生の可能性が指摘されていますが、中央構造線断層帯の北側には、和泉層群と呼ばれる礫岩、砂岩、泥岩が堆積した地層があり、豪雨で崩れやすいとされています。これが四国中央市から新居浜市、西条市、東温市、松山市、砥部町、伊予市の東西に分布し、この音田の大崩壊も中央構造線断層帯とその北側の和泉層群で発生しています。地震を引き起こすだけではなく、特に北側では土砂災害が起こりやすいというのが中央構造線断層帯の恐ろしさといえます。

この音田の災害は「大崩壊(おおつえ)物語」として地元で語り継がれています(註2)。昔、音田の娘が雨滝神社に立ち寄った際に、渕に櫛を誤って落としました。ある夜、娘の家に櫛を持った青年が訪れ、毎夜、娘に会いに来る。娘は男の妖しさを感じ、男の肌を傷つけ、男は血を流しながら雨滝神社の渕に消えていきました。娘は身ごもっており、生まれた子は蛇でした。男は雨滝神社の渕の精だったのです。しかし子は皿ヶ森のふもとに葬られてしまいます。そのことを知った渕の精は龍となって七日七晩、豪雨を降らせました。そして皿ヶ森で山津波が起こり、民家が押しつぶされました。人々が龍神に祈願すると豪雨は止み、龍神の祠が建てられ、祀られたといいます。現在でも龍神の祠があり、その場所は土石流が流れ込み、天然ダムができた地点に近く、隣の桧原に天然ダムの水が流入しそうになった場所といわれています。

現在は穏やかな田園風景の広がる東温市山間部ですが、豪雨、土石流、天然ダムという過去の災害の記憶を伝説や祭祀という形で伝承してきた事例と言えます。

(註1)国土交通省ホームページ「都道府県別土砂災害危険箇所」http://www.mlit.go.jp/river/sabo/link20.htm
(註2)『川内町新誌』、『四国防災八十八話』

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」3 周期的におこる南海地震

2月 17日 金曜日

静岡県沖から四国沖を震源として連動して発生するとされる「東海地震」(駿河湾から遠州灘)、「東南海地震」(遠州灘から紀伊半島沖)、「南海地震」(紀伊水道沖から四国沖)の3つの大地震を総称して「南海トラフ巨大地震」と呼んでいますが、過去をひも解くと、およそ100年から200年の間隔でこの種の地震が発生しています。

直近では、和歌山県潮岬南南西沖を震源とする南海地震が昭和21(1946)年12月21日に発生し、愛媛県内では26名の死者が出ています。その2年前の昭和19(1944)年12月7日に紀伊半島南東沖を震源とする東南海地震が発生し、双方の連動地震で犠牲者は全国で計2,500名以上とされています。

その前の南海トラフ地震は、昭和の約90年前、嘉永7(1854)年11月4日に東海、東南海地震が発生し、その32時間後の11月5日に南海地震が起きて、関東から九州までの広い範囲で大きな被害が出ています。この地震の直後に改元され、元号は「安政」となったため「安政地震」と呼ばれています。地震の規模は昭和南海地震がM8.0、安政南海地震はM8.4といわれ、安政の方が大きい地震規模で、揺れ、津波被害も昭和より甚大でした。

その安政よりも被害が甚大だったのが安政の約150年前、宝永4(1707)年10月4日の宝永地震です。東海、東南海、南海地震の3連動で発生し、地震規模はM8.6とされています。この時は伊予国(愛媛県内)でも津波による死者が南予地方を中心に20名近く出ています。『楽只堂年録』など幕府へ報告された死者数は5,000名余りで、実際にはさらに被害が大きかったと推定されています。

そして宝永の約100年前には、慶長9(1605)年12月16日に慶長地震が発生しています。この地震では津波被害が甚大で、房総半島から紀伊半島、四国にその記録が残っています。その前は慶長の約100年前、明応7(1498)年に発生し、さらに137年前の正平16(1361)年6月24日に正平南海地震が起っています。『太平記』によるとこの時は「雪湊」(徳島県由岐)で大津波によって1,700軒の家々が被害を受けたとされています。

その前となると、正平の263年前という長いブランクとなりますが、承徳3(1099)年正月24日に発生しています。この年は地震と疫病が頻発したので元号が「承徳」から「康和」に改元され、「康和地震」と称されています。土佐国(高知県)で千余町が海底となった、つまり地盤の沈降による海水流入が大規模に見られ、歴代南海地震でも同様の被害が見られます。

その康和の212年前の仁和3(887)年7月30日に仁和地震が起こり、近畿地方を中心に大きな被害が出ています。その仁和の203年前に発生した南海トラフ地震が、『日本書紀』に記された天武天皇13(684)年10月14日の白鳳地震となります。このように、文献史料からひも解くだけでも、古代から現代まで南海トラフを震源とする大地震がおよそ100年から200年の周期で起こっていることがわかるのです。