「愛媛・災害の歴史に学ぶ」16 地震による道後温泉不出1

3月 11日 土曜日

今後30年以内に70%程度の確率で発生が予想されている南海トラフ巨大地震(東海地震・東南海地震・南海地震の三連動地震)ですが、南海トラフを震源とする巨大地震は過去にも100年から150年の周期で発生していることが各種史料から明らかとなっています。南海トラフ地震に関する文献史料として最古の記録が『日本書紀』天武天皇13年(684)年10月14日条の白鳳南海地震です。この条には「壬辰、人定に逮りて、大きに地震る。国挙りて男女叫び唱ひて、不知東西ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝げて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷はる。時に伊予湯泉、没れて出でず。土佐国の田苑五十万頃、没れて海と為る」とあり、まず「伊予温泉」つまり松山市の道後温泉の湯が止まり、土佐国で地盤が沈降して海水が浸入したこと等が記されています。つまり南海地震に関する最古の文字記録の中で、最初に登場する地名が「伊予」であり、道後温泉の被害が中央(朝廷)でも注目されていたことがわかります。

そして道後温泉はこの白鳳南海地震だけではなく、100年から150年周期の歴代の南海地震等によってたびたび湧出が止まっています。このことは松山市発行の『道後温泉』(「道後温泉」編集委員会編『道後温泉』松山市、1982年、101~106頁)や高橋治郎氏「地震と道後温泉」(『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、2014年)にて紹介されていますが、ここでは歴代南海地震での不出や復旧の様子をより具体的に紹介してみたいと思います。

まず『道後明王院旧記』という史料があります。これは道後温泉の管理にあたっていた明王院の記録で、成立は江戸時代であり、一次史料としては扱えませんが、参考までに紹介しておきます。明王院については、江戸時代初期に町奉行が道後温泉の支配を行っていましたが、その後、藩主の別荘であった道後御茶屋の御茶屋番が温泉の管理を行い、元禄年間頃に御茶屋番が廃止され、修験の明王院が温泉の鍵を預かり、温泉を司るようになっています。それが明治時代初期の修験道廃止まで続いたという経緯がありました。この明王院の記録の中に、まず推古天皇13(605)年に「温泉陥没す」とあり(『道後温泉』102頁)、次に推古36(628)年に地震にて温泉が不出となり、三年を経て、舒明2年9月に出たといいます(『道後温泉』102頁)。684年の白鳳南海地震よりも古い記録で、『予陽郡郷俚諺集』にも「人王三十四代推古天皇三十六年、地震して温泉没して不出、三年を経て舒明天皇三年九月、温泉再出て元の如し」と見えます(伊予史談会編『伊予史談会双書第15集 予陽郡郷俚諺集 伊予古蹟志』1987年、20頁)。これも史料の成立年代が江戸時代であり、同時代の一次史料ではない点と、他にこの7世紀前半に同様の地震記録が確認できないことから、史実かどうか信憑性は高くはないと判断できます。ただし『予陽郡郷俚諺集』は宝永7(1710)年の完成であり、宝永南海地震の直後にあたります。編者の松山藩家老奥平氏は宝永南海地震の際の道後温泉不出を目の当たりにしていると思われ、本文中に温泉不出の歴史を詳述した契機になったとも推察できるのです。(つづく)

「古墳探訪」してきました

3月 10日 金曜日

歴博では、現在、特別展「はに坊と行く! えひめの古墳探訪」を開催中ですが、昨日、特別展関連企画「ヘルシー歴史ウォーク笠置峠を歩こう」に参加してきました。

まず、我々が向かったのは、JR伊予石城駅の北東にある「岩木赤坂古墳」。古墳時代中期、5世紀後半の古墳で、道路拡幅工事にあわせて20年前に一部だけ発掘調査が行われたということだそうですが、前方後円墳の可能性もあるということです。ここで採集された鉄製の甲冑の破片(写真)が、現在、歴博で展示されていますが、なんと畿内で製作されたのと同じものだということで、当時からモノも人も、かなり広範囲に動いていたようです。

次に、白壁の土蔵のある立派な古民家の多い集落内を通って、山に入ったところにある「河内奥ナルタキ古墳群」へ。ここは、古墳時代後期、6世紀後半から7世紀の古墳で、まるい形をした円墳が2つ残っており、手前の円墳の横穴式石室の中には入ることができます。中は、大きな石をきちんと積んで壁にし、結構広い空間となっていました。

続いて、奈良~平安の時期の寺院跡と考えられている「西ノ前遺跡」の横を通って、笠置街道登り口へ。この岩木地区は、古代南予の中心で、「宇和郡」の役所も置かれていたのではないかということです。
笠置街道は、八幡浜と宇和平野を結ぶ道で、シーボルトの娘イネも、この道を通って宇和に来たと言われています。また、九州方面などから来るお遍路さんも、この道を通ったようで、道の傍らには遍路墓も残っています。また、草花の隣には、地元のボランティアの方の手作りの解説板があり、案内標識も随所にあって迷うことなく、約50分で標高400mの峠の茶屋に到着。
峠には、お地蔵さまがあり、台座には、あげし(明石寺)二里十丁、いずし(出石寺)五里、やわたはま(八幡浜)二里という文字が見えます。

さあ目指す「笠置峠古墳」は、もう少し。この古墳は、四国の西南部では一番古いもので、4世紀の初め頃につくられたということです。古墳の上からの見晴らしは抜群で、宇和平野が眼下に見下ろされ、佐田岬半島もはっきり望めます。墳丘には、遺体が納められていた「石槨」が復元され、その周りには、地元の住民の方も手伝って「葺石」が積まれています。

この日は、風が強かったので、古墳の下の風の当たらないベンチの周辺で昼食をとり、再び笠置街道を釜倉(八幡浜市)まで下りました。かなり急な下り坂でしたが、落ち葉がうまくクッションとなり、20分ほどで全員無事、完歩することができました。

今回の特別展は、県民の皆様に、県内の古墳を訪れて楽しんでもらうためのきっかけとなればという趣旨ですので、ぜひご覧になっていただき、今回の特別展にあわせて制作した図録を片手に、気候もよくなっていますので、近くの古墳を探訪していただければ幸いです。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」15 8・9世紀に発生した南海地震

先に天武天皇13(684)年の白鳳南海地震について紹介しましたが、その次の南海地震は203年後の仁和3(887)年7月30日に発生しています。仁和南海地震と呼ばれ、国の歴史書『日本三代実録』には、午後4時頃に発生して数時間、揺れが止むことがなかったとあり、また約6時間後の午後10時頃に3回の地震が発生するなど、直後の余震、誘発地震が多く発生していたことがわかります。そして京都において、天皇は仁寿殿を出て、紫宸殿の南庭に「幄」(テントのような仮小屋)を建てて御在所とし、平安京では諸役所、庶民の家々が数多く倒壊し、圧死する者も出たり、失神して亡くなる者もいたりしました。京都だけではなく、五畿七道諸国つまり日本列島の広い範囲で大きな地震を感じ、地方の役所の建物も被害が多く、そして「海潮」が陸上に漲(みなぎ)ったとあります。これは大きな津波が襲来したことを示しています。溺死した者は数えることができないほどで、その中でも摂津国(現大阪府北部から兵庫県南東部)の被害が甚大であったと記されています。

この地震に関しては、愛媛県はじめ四国に関する文献史料(一次史料)は確認されていません。『愛媛県編年史』第一を確認しても仁和3年の伊予国関連の史料は載っていないのです。しかし五畿七道諸国でも被害があったとされ、伊予国でも被害を生じるほどの揺れを感じた可能性は高いといえます。

この仁和南海地震が最近注目されているのは、地震発生の仁和3年の18年前、貞観11(869)年5月26日に「陸奧国地大震動」、つまり現在の東北地方太平洋沖で発生した大地震との関連です。この貞観地震は2001年3月11日の東日本大震災が「千年に一度の大地震」といわれていますが、その千年前の地震にあたるのです。東北地方での貞観地震が発生した18年後に西日本において仁和地震が発生しており、貞観地震が仁和地震を誘発したと短絡的に断定できませんが、平安時代の9世紀後半に東北地方、そして西日本で大きな地震による被害の記録が残っているのは事実なのです。

もう一つ、注目すべきは白鳳地震から仁和地震まで203年の間隔が空いていることです。江戸時代以降の宝永、安政、昭和南海地震は100~150年周期で発生していますが、白鳳と仁和では200年と間隔が広いのです。この間に未知の南海地震があった可能性も否定はできないとする説もあります。それが白鳳南海地震と仁和南海地震のほぼ中間時期にあたる延暦13(794)年の地震だとする説があり、『日本紀略』延暦13年7月10日条に「震于宮中并京畿官舎及人家。或有震死者」との記述があります。延暦年間は地震の多発した時期でした。直後の延暦15年に四国を一周していた南海道のうち、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)の海岸部を通っていた道路が廃止をされ、新道が使われるようになっており、これが延暦13年の南海地震による海岸線被害と関連する可能性も指摘されています。この説のとおり実際に未知の南海地震であったのか、現在、『日本紀略』や『類聚国史』などの古代の基礎史料を中心に、その検証が行われています。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」14 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―2

3月 9日 木曜日

明暦3(1657)年に宇和島藩主・伊達秀宗によって五男宗純を吉田藩主として宇和島藩から三万石が分知されますが、この吉田においても伊達家は愛宕の崇敬が篤かったようで、貞享5(1688)年に吉田の町並みの南の立間尻浦に宇和島から愛宕宮が勧請されています。明治末期頃編纂の『立間尻村誌』によると、明治時代になり愛宕宮から「峰住神社」と改称されて現在に至っていますが、祭神は火の神である火産霊神と伊邪那美神となっています。

江戸時代、吉田の町はたびたび大火に見舞われましたが、愛宕宮を氏神同様に崇敬していた裡町三丁目だけは被害を免れたため、その後、火防の神としての祭祀が強調されていきます。これは宇和島でも同様であり、宇和島、吉田といった城下や町方で初期には藩主による武運長久祈願、国家安全(藩主の病気平癒等も含む)の性格が強かったものが江戸時代の町方での火災の頻発とともに火防の性格が強くなってくるようです。これが宇和島、吉田藩領内の村浦に伝播していったことにより、他地域よりも南予において火防神としての愛宕社が数多く見られることになったと推定できます。

また、城川町教育委員会編『ふるさとの祭と神々』(1982年発行)によれば、東宇和郡城川町(現西予市)内の神社総数は明治時代の神社合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっています。現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において愛宕社の占める割合が非常に高かったことがわかります。この愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではありません。このことからも愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言えます。
なお、西予市城川町高川の高野子菊之谷では現在でも毎年12月24日に「愛宕精進」と呼ばれる行事があり、地区の男性が川の淵の中に入って水垢離をしています。これは昔、この地区で大火があったため「愛宕大明神」を祀ったとされ、かつては冬至から3日間断食をして朝昼晩と一日3回の行水を行って火災除難を祈願していたといいます。また、火防祈願行事としては西予市野村町野村の「乙亥相撲」も有名です。嘉永5(1852)年に当時の野村、阿下両集落が大火に見舞われ、当時の庄屋緒方氏が氏神の境内社であった愛宕社を再建し、それから百年間、毎年旧10月乙亥の日に、火難除災を祈願して相撲を奉納しました。百年目に当たる昭和27年に願相撲は終りましたが、現在でも毎年、愛宕神社から御霊を遷して、引き続き乙亥大相撲が盛大に行われています。

また、愛媛に残る愛宕曼荼羅について紹介しておきたいと思います。『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業―伊予市―』(愛媛県教育委員会、2012年発行)によると明治時代後半から大正時代に陶磁器生産の窯業で栄えた伊予市三島町では愛宕講(地元で「愛宕さん」と呼ばれる)が見られ、正月、5月、9月の23日に愛宕曼荼羅の掛軸を家々で回し、床の間に飾り小豆飯や菓子、かつてはあられを炒ったものを供えていました。窯業に伴う火を祀るとも言われています。この愛宕曼荼羅には勝軍地蔵を中心に天狗、太郎坊、地蔵、不動、毘沙門、前鬼、後鬼、役行者、狛犬が彩色で描かれており、絵具の種類から見ても江戸時代のものと推定できます。このように村社レベルや小祠としての祭祀ではなく講組織としての愛宕信仰の例も見られますが、火を扱う窯業地域でもあり、防火への祈りに関する事例といえます。

このように、人々の抱く火災に対する怖れが、様々な地域の伝統行事を継続する上で大きな要素となっており、これらは地域に伝承された防災民俗ともいえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」13 愛宕信仰―武運から火除け祈願へ―1

3月 7日 火曜日

『愛媛県神社誌』(愛媛県神社庁、1974年発行)を参考にすると、愛媛県内で訶遇突智神(カグツチ)、火結神(ホノムスビ)などといった火にまつわる祭神を祀るのは80社(境内社含む)を確認することができます。そのうち愛宕神社は14社、秋葉神社は7社となっています。愛媛県は東・中・南予の三地域に分けられますが愛宕神社の分布を見ると東予2社、中予3社、南予9社と南予に多いという傾向が見られます。これは江戸時代から同じ傾向だったようで、東予の西条藩の詳細な地誌『西条誌稿本』では愛宕は1社のみが確認でき、土居村に愛宕、秋葉両権現を合祀した小祠があるという記述があります。愛宕と秋葉を合祀するのは当然、火除け、火伏せの願意からでしょうが、この合祀に抵抗がないことは愛宕信仰と秋葉信仰が競合しているわけではなく、共存していることを示しているといえます。愛媛県内では管見の限り、愛宕と秋葉が喧嘩した等の伝承は確認できず、京都の愛宕山や遠州の秋葉山と宗教者を介在させた直接的繋がりではなく、各在地の宗教者が火除け、火伏せの御利益を説いて祀られるようになったと推察できます。東予には小松藩もありましたが、その地誌『小松邑志』を見ても愛宕社は全く確認できません。中予の大部分は江戸時代は松山藩であり、その藩内の『伊予郡・和気郡・久米郡手鑑』の中に各村浦の神社が書き上げられています。しかし愛宕は1社も確認できません。ただし現在、神社庁管轄ではない小規模な愛宕社や愛宕山という地名は東予、中予にも少ないものの散見はできます。

それではなぜ、南予に愛宕社が多いのでしょうか。これは宇和島藩主伊達家による愛宕信仰が影響しているのが要因といえます。慶長20(1615)年に初代藩主伊達秀宗が東北仙台から宇和島に入部しますが、秀宗は伊達政宗の長子です。伊達家やその家臣が戦国時代より戦勝祈願として愛宕権現を尊崇していたことはよく知られています。宇和島藩の公的な編纂記録である『宇和島藩庁伊達家資料七 記録書抜・伊達家御歴代事記』によると「御入部後、秀宗様、御祈願被為在、毛山村之内御城より東之方一山に愛宕権現御造営二相成、御参詣道相作、数年相懸る」とあり、政宗の長子秀宗は宇和島に入った年に早くも愛宕権現の造営を開始し、そして元和9(1623)年にほぼ完成させています。

天和元(1681年)年成立の宇和島藩内の地誌『宇和旧記』には愛宕権現造営の詳細な記録があり、建物等には「愛宕山大権現堂」、「拝殿」、「愛宕山太郎坊堂」、「石鳥居」がありました。そして「愛宕山麓」に「地蔵院延命寺」という祈願所を設け、勝軍地蔵を祀っていることがわかります。この『宇和旧記』には棟札の写しも記載されており、愛宕大権現堂の開山法印は武蔵国秩父郡生まれの権大僧都清意で、奉行人は伊勢国生まれの川原吉右衛門家久、大工は山城国「宇多木郡水井住人」の藤原上松但馬守宗次、小工は「都六條住人」の辰巳右衛門尉定次であり、京都の人物名も確認できます。拝殿については奉行が奥州の武田監物成長らで、大工、小工は奥州や地元住人となっています。建立の大願主は伊達秀宗であり、願意は「御武運長久、国家安全」と棟札にあり、この時点で火除け、火伏せの願意は見られません。なお地蔵院延命寺は「愛宕山延命寺」とも記されていますが、延命寺に修験者がいたためこの町は江戸時代に「山伏町」と呼ばれ、現在でも「愛宕町」という地名となっています。延命寺は現在の愛宕町には存在せず、明治時代以降どのような経緯をたどったか不明ですが、現在は愛宕権現の流れをくむ「愛宕護神社」が愛宕町に近い宇和津彦神社に境内神社として合わせ奉祀されています。江戸時代には頻繁に火災が発生していた宇和島地域の愛宕信仰は、武運長久から火除けへと願意が移り変わる歴史が見て取れる事例として興味深いといえます。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」12 消防体制―住民活動から公的組織へ―

3月 6日 月曜日

火災に対する消防は、明治時代中期以前には現在のような公的組織があったわけではなく、住民による自主的な活動が基本でした。明治6年2月に石鈇県は「失火消防規則」を定め、住民に対して松山・今治等の市街地では街ごとに月番を、郷中では戸々にそれぞれ消防出役を義務づけています。そして戸長が消防活動を指揮し、防火器具を備え、失火合図の方法などを規定しました。明治時代初期には県が消防体制の整備を意図していたものの、消防活動に従事するのは住民自身であり、消火責任も住民が負うという自主体制だったのです(註:『愛媛県史 社会編』)。消防が公的に組織化されるのは明治27年以降のことです。明治27年に「消防組規則」が明治政府により制定され、府県知事に消防組設置の権限を与え、その維持管理を市町村に任せ、警察署長に指揮監督させることとし、全国的に画一された近代消防体制が組織化されることになりました。愛媛県においては大正時代末期には271組が置かれています。ただし常設常備の消防組織ではなく、火災の時だけ出動する義勇消防でした。常備消防は大正13年に松山市に6名を配置したのが始まりで、昭和5年に消防ポンプ車を常備し、昭和7年に現在の「119番」にあたる火災通報用電話を松山警察署に置き、次第に県内各都市にも広がっていきました。戦後には昭和22年の「消防団令」により現在に続く消防団が確立し、それまで内務省・府県警察主管課の管轄であったものが自治省消防庁のもと市町村消防として現在に至っています(註:『愛媛県百科大事典上』昭和60年、663頁)。

さて、それ以前の江戸時代の消防はどうだったのでしょうか。例えば大洲藩において慶安4(1651)年『大洲町中拾人与(くみ)』という町内の諸規定の中に消防に関する規定が見られます。①毎夜、町代が町内を回ることを、一番小屋に詰めて夜回りをする「番太郎」に十分に申し付け、特に風の強い時には町代が警戒巡視すること。②火の用心のために桶、「さをえんさ」(大きなハタキ。水を浸けてたたき消す道具)を常備し、火事を発見したら道具を持って出動すること。③梯子を各町内に4個は備え置くこと。④町内の水路を定期的にさらえ掃除し、油断をなくすこと。以上のような防火対策が申し渡されていました。これは城下町における規定であって、拾人与を主体とするいわば近所の人々による駆け付け消防でした。やはり現在のような公的な消防組織は江戸時代の地方都市にも見られなかったのです。大洲では文政元(1818)年に「出火の節、太鼓櫓にて知らせ、鐘打つ事始まる」と『加藤家年譜』にあり、大洲城の太鼓櫓に見張り人を置いて火災の早期発見を行うようになっています。これは江戸時代中期から後期にかけて城下町で大火が相次いだことによるものと思われます。また、新谷藩においては町方の町内に水路を設け、溝底に瓦を敷き詰めて流れを良くし、火災のときは新谷藩邸の池(現在の新谷小学校の池)の樋を抜いて、この溝に水を流した上でせき止めて消防用水とするなど町ぐるみでの防火対策がとられていました。

なお、家屋の屋根を瓦葺きとすることも消防対策の一つでした。もともと江戸時代初期から中期に城下町が形成された際には武家屋敷は瓦、板もしくは杉皮葺きで、一般の町家は瓦の使用は認められていませんでした。ところが大洲では享保から元文年間に大火が相次ぎ、600軒近くが被災した元文5(1740)年の大火の後、町家でも瓦屋根とすることを差し支えないとする通達が出ています(註:『大洲市誌』昭和47年、380〜381頁)。
このように地域における消防組織は明治時代後期以降に次第に整備されたのであり、それまでは地域住民主体となって防火体制を構築していたのです。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」11 愛媛における「大火」—近現代編—

3月 4日 土曜日

消防白書では、建物の焼損面積が33,000㎡(1万坪)以上の火災を「大火」と定義づけられています。戦後の日本では昭和41年青森県三沢市大火(焼損282棟、53,537㎡)、43年秋田県大館市大火(281棟、37,790㎡)、51年山形県酒田市大火(1,774棟、152,105㎡)などが知られ、平成に入ってから都市型大火は無くなったかと思われていましたが、平成28年12月には新潟県糸魚川市で147棟、約40,000㎡を焼損するという大火が発生しており、街や建物の耐火、防火対策が進んだ現在でも大規模火災が充分に起こりうることが再認識されたところです(註:災害情報学会編『災害情報学事典』2016年、342〜343頁)。また、平成29年2月には西予市野村町予子林でも強風に煽られて11棟が全焼するという火災も発生し、愛媛県内でも防火、防災に対する意識が高まっています。

明治時代以降の愛媛県内における「大火」は、戦時中の松山、今治、宇和島などの空襲被害を除くと、実は都市部では少なく、漁村、山村といった郡部で頻繁に発生しています。明治初期から昭和20年までの間で最も被害が大きかったのは、明治34(1901)年11月28日に発生した佐田岬半島西部の名取地区(当時は神松名村、現在の伊方町)の大火です。午前10時頃に名取地区の農家の納屋から出火し、強い西風にあおられて大火災となり、集落のほぼ全体にあたる204棟が全焼し、午後3時ごろようやく鎮火しました。888人が罹災する惨状となったのですが、急遽、八幡浜警察署、松山警察署、県警察部から職員を派遣し、57戸の仮小屋建設や救護に当たりました。同年12月2日、天皇・皇后両陛下から被災者に対し、救恤金250円の下賜もあり、全国的にも注目された火災でした。これが近代(明治から昭和20年)愛媛の最大の火災被害です。なお、名取地区には江戸時代の文化13(1816)年建立の鎮火地蔵も祀られており、明治34年以前にも火災による大きな被害があったことが推測できます。

そして、戦後最大の火災は昭和23(1948)年9月17日の長浜町(現大洲市)の大火です。午後0時半ごろに、長浜町港町の木工製作所の煙突から出た火の粉が、隣接した煮干製造、保管倉庫の屋根に着火し、北西の強風にあおられて町の四方に燃え広がりました。現場は家屋の密集地帯で、連日の旱天で乾燥していた屋根の杉皮に燃え移り大火となりました。長浜町の消防団、警察署だけではなく、喜多地区、大洲町警察署にも応援を求め、消防団約1,300名、警察官322名の協力で午後4時ごろ鎮火しました。被害家屋は全焼185棟、負傷者は重傷2人、軽傷60人、罹災者は788人、損害額は約1億円に達しました。

明治時代以降、50棟以上が被災した火災は他にもあり、明治13(1880)年11月16日の現松山市内の魚町付近の103棟、明治25(1892)年3月15日の現松山市の南八坂町の約50棟、明治29(1896)年8月13日、現愛南町の西外海村船越の約50棟、大正8(1919)年10月21日、現愛南町の東外海村字岩水の59棟、大正10(1921)年12月24日、現伊方町の伊方村大浜の65棟、昭和10(1935)年6月27日、現鬼北町の下鍵山地区の67棟などの火災の歴史が残り、大規模火災が、季節や地域を問わず発生していることがわかります。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」10 文学作品に見る昭和南海地震

3月 3日 金曜日

昭和21(1946)年12月21日に発生した昭和南海地震。愛媛県内で死者26名を出すなど大きな被害をもたらした地震ですが、戦後間もない混乱期でもあり、その被害の様子を克明に記録した史料等は多くはありません。その中でも獅子文六が執筆した小説『てんやわんや』は、昭和南海地震の様子を具体的に記述しており、将来の南海トラフ巨大地震が起こる際、参考になるかと思われます。

獅子文六(明治26年〜昭和44年)は、太平洋戦争終戦の直後に妻の実家のある岩松町(現在の宇和島市津島町岩松)に疎開し、その時の様子を題材に『てんやわんや』を執筆し、昭和23年から24年にかけて毎日新聞で連載されました。『てんやわんや』は闘牛、牛鬼、とっぽ話、方言など南予地方独特の文化が取り上げられており、これまでも南予の民俗を知る上では重要な作品として知られていました。

『てんやわんや』では主人公の犬丸順吉が東京で戦犯の容疑から逃れるため「相生町」(モデルは岩松)に疎開します。物語の終盤、犬丸は「相生町」から「檜扇」(モデルは御槇)に行っていた際、南海地震に遭遇します。「昭和二十一年十二月二十日・・・・・いや、もう二十一日の領分に入ったかも知れぬが(中略)闇黒のなかに、轟々と、天地も崩れる物音が、暴れ回っていた。同時に、私の体は、宙に持ち上げられ、また、畳に叩きつけられ、何か固いものが、額へゴツンと衝突し、土臭い埃の匂いが、急激に鼻を襲った。」、 「村道の所々に、大きな亀裂ができたり、大石が転落していたりする」と地震の揺れの状況や地面の亀裂、岩の崩落が記されています。犬丸はすぐに「相生町」(岩松)に戻りますが、その被害も大きく、「私は拙雲の寺のある裏山へ踏み込んでいた。(中略)驚いたことに、彼の古寺は、二本の蘇鉄が立ってるきりで、潰れた折詰のような形になっていた。」と寺院が倒壊している様子や、「一歩を町に踏み入れると共に、予期以上の惨状に驚いた。本町通りは、ほとんど全滅と言ってよかった。ブック・エンドを不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。」と家屋倒壊など建物被害が大きかったことを紹介し、さらには津波被害についても記しています。「しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向って、逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯にも見舞われたことを、直覚した。(中略)海嘯は、今暁の地震の直後に起り、その時が最も烈しく、その後、数回寄せてくるが、河岸通りだけの浸水に止まっている、とのことであった。私は、幾度か、堆積物に躓きながら、やっと、玉松本家の前へ出た。」とあり、岩松に津波が押し寄せて、河川に面した通りは浸水して物が流され、泥などが堆積した様子がうかがえます。

これらの記述は文学作品なので「事実」とは異なる「創作」の側面も考慮しなければいけませんが、実際、岩松は昭和南海地震で建物被害、津波の浸水、地盤の沈降での防波堤の被害や田畑への海水流入などの被害が見られ、昭和23(1948)年には地元岩松から国会に復旧工事の陳情がされるほどでした。この『てんやわんや』は愛媛県、特に南予地方沿岸部での南海地震被害を想定する上で参考となる作品だといえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」9 ため池の保全・防災

3月 1日 水曜日

ため池は、江戸時代初期から農業用水を確保するために各地で築造され、現在、全国には約20万ヶ所、愛媛県内でも3,256ヶ所(農林水産省資料より)を数えます。西日本、特に瀬戸内海沿岸の各県に多く、降水量が比較的少なくて大きな河川のない地域で数多く築造されています。愛媛県内では今治市、松山市、伊予市、西予市、宇和島市に多く見られます。

県内の代表的なため池の一つに、農林水産省のため池百選に選定されている松山市堀江の「堀江新池」があります。江戸時代の松山藩内では最大の12万t規模で、少雨、旱魃対策として天保6(1835)年に庄屋の門屋一郎次が呼びかけ、村民総出で3年をかけて完成したもので、現在は親水公園としても整備されています。また、伊予市大谷池は貯水量175万tの県内最大のため池として知られ、伊予市域の田畑938haに農業用水を供給しています。池の位置する旧南伊予村は、少雨地帯で大きな河川もなかったため、村長武智惣五郎が先頭に立ち、のべ37万人がその築造工事に従事し、昭和20年に完成しています。このような大規模なため池ばかりではなく、ほとんどは1万t以下の小規模なもので、集落ごとに管理されています。

ため池の管理は地元集落や水利組合などが主体となって保全、管理されてきたのですが、近年では農家数が減り、土地利用も農地から転用されるなど、保全組織が充分機能せず、以前と比べてため池の管理が困難になってきている事例も多く見られます。ため池の管理が充分になされていないと、ため池が決壊する可能性があります。決壊すれば下流域にあたる住宅地や田畑に大量の水が流れ込むことになります。

平成23(2011)年3月11日の東日本大震災の際に、福島県須賀川市の藤沼湖(藤沼ダム)が決壊しました。これは戦後に完成した150万tの大きなため池です。愛媛県内では例えば西予市宇和町に関地池がありますが100万t規模です。その1.5倍のため池が地震で決壊したのです。その水は下流に流れ、須賀川市内で死者、行方不明者が8人出て、市の文化財収蔵庫も流され、歴史資料が被災しています。

愛媛県内でも平成17(2005)年3月に伊予市稲荷の「八幡池」が決壊し、1万3千㎡の農地被害、24棟の浸水被害が出たことがありました。水が出る樋部分の施工不良が原因であると愛媛県原因調査検討委員会では結論づけましたが、その4年前の芸予地震の影響を指摘する見方もあります。底が決壊して直径3mの穴があき、そこから水があふれ出て、池から約1km地点まで浸水しました。また平成9(1997)年には松山市畑寺町のため池「宝谷池」も決壊した事があります。最近では平成28(2016)年6月の大雨のよって西予市宇和町大江の「フケ下池」が決壊し、住民に避難指示が出たこともありました。

ため池決壊は地震、大雨によって引き起こされますが、高齢化や担い手不足によって日常管理が行き届かない所も今後増えてくると予想されます。今後30年、50年を考えると、ため池防災は、愛媛県の地域的特性の一つであり、喫緊の課題といえるでしょう。

「愛媛・災害の歴史に学ぶ」8 「天災は忘れた頃にやってくる」

2月 27日 月曜日

「天災は忘れた頃にやってくる」とか「災害は忘れた頃にやってくる」という言葉がありますが、これは高知県出身の物理学者で随筆家の寺田寅彦の言葉です。ただ寺田寅彦の書いた著作をいくら探しても「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉は出てきません。実は寺田寅彦と地震学で交流のあった今村明恒の著作『地震の国』の中に「天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している」とあり(今村明恒『地震の国』文藝春秋新社、昭和24年)、それ以降に広く一般に定着した言葉といわれています。

寺田寅彦自身が「天災は忘れた頃にやってくる」と記しているわけではありませんが、このことを意図した関連文章はあるのでここに紹介します。寺田が昭和9(1934)年11月に執筆した随筆「天災と国防」(寺田寅彦『天災と国防』講談社、2011年所収、9〜24頁)に「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車の顛覆を忘れた頃にそろそろ後車を引き出すようになるからであろう」とあり、また災害が忘却される事例として昭和8年5月執筆の「津波と人間」(『天災と国防』所収、136〜145頁)で、同年の昭和三陸津波を紹介し、その前の明治29(1896)年の三陸津波の災害記念碑が倒れたままになってしまっていることを嘆いています。

また、昭和10(1935)年7月に執筆された「災難雑考」(『天災と国防』36〜56頁)では「われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって」、「日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない」と、寺田の逆説的な災害、防災観がうかがうことができます。実際に、日常から防災対策に取り組むことや、災害が起こった場合の復旧、復興によってその地域は再編、再構築されるわけであり、「人間は災害によって育まれる」というのも一理あることだといえます。

そして寺田は「『地震の現象』と『地震による災害』とは区別して考えなければならない。現象のほうは人間の力でどうにもならなくても『災害』のほうは注意次第でどんなにでも軽減される可能性があるのである」とも述べていて、防災の重要性を指摘しています。小林惟司『寺田寅彦と地震予知』(東京図書、2003年)によると、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』(全6巻)の書名になった「防災」は、寺田寅彦が命名したとされます。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行を契機に「防災」という言葉が一般名称化したともいえます。

なお、寺田寅彦については高知市小津町に寺田寅彦記念館があり、同市丸ノ内の高知県立文学館には常設展として「寺田寅彦記念室」が設けられており、その生涯や防災のことについて展示紹介しています。南海トラフ地震の発生で被害が予想される四国の出身の寺田寅彦は防災面で警鐘を鳴らす文章を数多く残しており、学ぶべき点は多いといえます。