昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情83―観音信仰と補陀落渡海―

2025年6月27日

 前回に続き、高知県土佐清水市の足摺岬にある四国八十八箇所霊場第38番蹉跎(さだ)山補陀落(ふだらく)院金剛福寺(こんごうふくじ)を例にして、観音信仰と補陀落渡海について紹介します。

 四国八十八箇所霊場の本尊を種類別に見ると、第1位は薬師如来(23箇寺)ですが、第2位は千手観音菩薩(13箇寺)、第3位は十一面観音菩薩(11箇寺)です。そして、聖観音菩薩(4箇寺)、馬頭観音菩薩(1箇寺)を加えた観音菩薩系の本尊を祀る札所は29箇寺(阿波4箇寺、土佐4箇寺、伊予8箇寺、讃岐13箇寺)を数えます(写真①)。香川県内の札所の本尊は観音菩薩が多いことがわかります。本尊仏が多岐にわたる四国霊場の礼拝対象の中でも観音菩薩が多い理由は、『法華経』の観音経(普門品)に、観音菩薩は三十三身に変化して衆生を救済すると説かれており、その慈悲深い性格から、現世利益を求める信仰として広く親しまれたことによるものと考えられています。 

写真① 四国八十八箇所霊場で観音菩薩を本尊とする札所寺院(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 金剛福寺について、元禄2年(1689)の寂本『四国徧礼霊場記』によると、「此寺大師以前より有て当山頭にありしを、勅を奉て大師今の所に堂社を立、勅願の所となれり。本尊千手千眼の大悲の像長六尺、二十八部衆囲饒せり。(中略)観音の霊場なれば補陀落を院号とす。」とあります。金剛福寺は古い霊場で勅願寺として弘法大師が堂社を建立して再興したこと、本尊の千手観音菩薩とその眷属(従者)の二十八部衆が祀られていること、観音霊場であることから「補陀落院」と名付けられたこと、などの内容が読み取れます。

 本尊の三面千手観音菩薩(写真②)は昭和39年(1964)の西端さかえ『四国八十八ヶ札所遍路記』によると、「本堂の外陣におかげを頂いた人たちが書き残していった額や札があった」と記され、「狂死寸前に助かる」などの霊験譚が紹介されています。

写真② 金剛福寺の本尊御影「三面千手観音菩薩」(個人蔵)

 観音霊場のキーワードである「補陀落」とは、サンスクリット語の「ポータラカ」の音訳です。それはインドの南端にある伝説上の山(補陀落山)で、観音菩薩の住むとされる浄土を意味しています。つまり「補陀落渡海」とは、観音菩薩の住むとされる浄土を目指して、わずかな食糧を舟に積み、南海洋上に漕ぎ出すことで、それは「生きながらの水葬」「南海の観音に捧げる捨身行」ともいえます。

 日本では紀伊半島に位置する熊野は、海の彼方に理想郷・常世(とこよ)の国があると信じられ、それに観音信仰が結びついて補陀落渡海が行われるようになったと考えられています。熊野にある補陀洛山寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、観音浄土へ向かう「補陀落渡海の出発点」とされました。

 「補陀落渡海者一覧」(『熊野三山信仰事典』戎光祥出版、1998年)によると、渡海記録は9世紀に遡り、15~17世紀にピークを迎え、18世紀で終わっています。渡海の件数は熊野発が最も多く20件を数えますが、2番目に多いのが金剛福寺のある足摺岬発で、11~15世紀に4~5件が確認されています。

 足摺岬から補陀落渡海を行う僧の話が、鎌倉時代後期の日記『とはずがたり』巻5に紹介されています。

 「(前略)岬に至りぬ。一葉の舟に棹さして、南をさして行く。坊主泣く泣く、『われを捨てていづくへ行くぞ』といふ。小法師、『補陀落(ふだらく)世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫舳(ともへ)に立ちたり。心憂く悲しくて、泣く泣く足摺りをしたりけるより、足摺の岬といふなり。」

 意訳すると、金剛福寺にいた修行僧のもとにやってきた小法師は小僧を誘って、2人で岬の端に至り、一葉の舟に棹さし南へ向かって大海へと出てゆく。修行僧は泣く泣く「我を捨ててどこへ行くのか」と叫ぶと、小法師は「補陀落世界に参ります」と答えた。見ると2人は観音菩薩になり、船の艫(とも)と舳(へ)に立っていた。修行僧は悲しみのあまり、泣く泣く足摺りをしたので、足摺岬と呼ぶようになりました。

 地理的に熊野よりもさらに南方の足摺岬に位置する金剛福寺は太平洋の水平線を臨むことができる大海原に面し(写真③)、『とはずがたり』に記されているように、日本(四国)から観音浄土を目指す理想的な補陀落渡海の出発点であったことがわかります。 

写真③ 補陀落渡海の出発地の足摺岬(当館撮影)

 観音霊場の金剛福寺と補陀落渡海の歴史を物語るものとして、御詠歌「ふだらくやここはみさきの船の棹 とるもすつるも法の蹉跎山」があります。その意味について、昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』によれば、「此の霊場は岬の船の様である。沖まで遥かに見渡せば、雲波の海珊瑚の宝ぞ相茂る御法りの船に棹を差し取るも捨てるも仏教のご沙汰次第と云う事です」と解釈されています。まさしく補陀落渡海の霊場であることが金剛福寺の御詠歌に謳われています。また、同寺には、三筆の一人・嵯峨天皇の宸筆と伝えられる「補陀落東門」の扁額(土佐清水市指定文化財)が伝わっています。現在の仁王門には新しい「補陀落東門」の額が掛けられています。

 四国霊場には「補陀落院」の金剛福寺の他にも、瀬戸内海側の札所寺院で第86番志度寺(本尊十一面観音菩薩、香川県さぬき市)と第87番長尾寺(本尊聖観音菩薩、同市)は山号が「補陀落山」です。観音信仰の広がりによって、様々な場所が観音菩薩の住むとされる理想郷「補陀落」になぞえられたことがわかります。四国遍路の信仰の源流にはこうした観音信仰の特徴である海洋信仰が大きく影響していると考えられています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情82―金剛福寺と足摺七不思議―

2025年6月21日

 四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹に四国八十八箇所霊場第38番蹉跎(さだ)山補陀落(ふだらく)院金剛福寺(高知県土佐清水市)があります。

 金剛福寺については、江戸時代後期に流布した案内記『四国徧禮道指南増補大成』によると、「卅八番 蹉跎山補陀落院金剛福寺といふ。此寺ハ大師以前よりありしを、勅を奉再興し、本尊千手千眼の大悲、御長六尺、二十八部衆ミな御作りにして安ず。此山役行者修行のとき、天狗多かりしを咒伏せしかハ、天狗ども足ずりもだえけるより蹉跎山と云。大師唐にて投給ふ五鈷杵金剛此山にとどまるゆへに金剛福寺といへり。観音の霊場なるが故に補陀落を院号とす。種々の霊験ども人ミな目にまじへて感す」とあります。蹉跎山の由来となった足摺山で修行した役行者と天狗の伝説、弘法大師が唐から放った五鈷杵(ごこしょ)伝説、観音霊場であることなどが紹介されています。

 昭和9年(1934)の安達忠一『同行二人 四国遍路たより』によると、「御本尊千手観世音菩薩 脇士の二十八部将共大師の御作。当寺は大師四国御巡錫の砌土佐南端の此地に立ち千手観世音の御影向を拝されたので、これぞ観世音菩薩利生の霊地なりとて嵯峨天皇に奏聞せられ、天皇から補陀落東門の勅額を下され、勅願所として月輪山金剛福寺と号し精舎を建立すべき旨仰せられましたので、大師は弘仁十三年伽藍を建立し本尊を刻み鎮守には熊野三所権現を勧請せられ、又七不思議の奇跡と御自筆の御影を残されたのであります。爾来朝廷の尊信も厚く源家代々の尊崇するところとなり(後略)」とあります。

 また、同年に刊行された『四国霊蹟写真大観』には、金剛福寺本堂、仁王門、方丈、蹉跎岬灯台、七不思議(ユルギ石、亀呼の岩)の写真が掲載されています(写真①)。

写真① 金剛福寺『四国霊蹟写真大観』(昭和9年、当館蔵)

金剛福寺の歴史上特筆すべきは観音菩薩の霊地で補陀落渡海の修行場であったことですが、この点については次回にふれたいと思います。

 四国遍路道中図で金剛福寺を確認しましょう(写真②)。

写真② 四国遍路道中図に記載された金剛福寺

 昭和13年(1938)の渡部高太郎版(当館蔵)では、分かりやすくするための工夫として四国の形がデフォルメされているため、土佐(高知県)の西南端の金剛福寺と東南端の室戸岬にある第24番最御崎寺(東寺)が東西で対峙する位置関係で記載されています。札所を示す丸印の中に本尊(三面千手観世音菩薩)の略式御影が描かれ、「三十八・蹉跎山・金剛福寺」とあります。また、付近の岬は「蹉跎岬」と表記され、地図の枠線から少しはみ出して、灯台の印が付されています。戦後に発行されたと推察される徳島の藤井商店版(個人蔵)では「蹉跎岬」から現在の「足摺岬」に名称が変更されています。ちなみに足摺岬の灯台は大正3年(1914)に初点灯されました。

 金剛福寺の歴史で注目したいのは「足摺七不思議」です。

 『四国徧禮道指南増補大成』をはじめ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」に「一二ハ夜中ニ海上ヨリ龍灯上ル」「二ツニハユリギ石トテ長一間余リ高サ四尺ノ大石在リ」「三ニハ夜中ニ龍馬上テ馬草ヲ喰所」「四ニハ午ノ時ノ雨」「五ニハ夜中ノ潮」「六ニハ不増不滅」「七ニハ鏡ノ石」「又宝密・愛満・熊野ノ滝トテ三ノ滝在リ」「愛満ノ滝ノ上ニ大師御建立ノ石ノ鳥居在り」「宝満ノ滝ノ上ニ□字石面ニ有リ五寸斗也。大師ノ御作ナリ」とあり、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図」には「アシスリ七不思儀 一天燈龍燈 二宇動石 三潮満丁石 四クマノ三所ゴンゲン鳥居 五亀ノ出入 六極楽穴 七鉦石 外ニ 丑時龍馬 午時雨 不増不滅水 三股石」と記載されています。足摺七不思議の内容は諸説あり、七つに限りません。金剛福寺が立地する足摺岬の大自然や奇跡は江戸時代の案内記や絵図類に紹介されるほど、四国遍路の見どころであったことがわかります。

 明治期に発行された金剛福寺の詳細な絵図「四国第三拾八番土佐国足摺山図」(当館蔵、写真③)があります。同寺の略縁起を記し、描かれた絵図の範囲は境内(本堂、愛染堂、多宝塔、大師堂、鎮守、二王門、和泉式部塔等)のみならず、足摺岬沿岸に点在する足摺七不思議等の旧跡(テングハマ、リウノコマ、アジイシ、シコクアナ、イシノトリヒ、南無阿弥陀仏、カメヨビバ、ヲンガクノハエ、ユルギイシ、フドウ、石仏、ホウマンダケ、エウセンダキ、イヌイシ、シヲノミチヒノイシ、ゴジノアメ等)も細かく描かれています。また、境外の茶堂の近くには足摺岬の灯台建設地と見られる「逓信省灯台建築地」、沖合には日の丸を付けた蒸気船なども描かれ、近代の文明開化の様子を醸し出しています。絵図からわかるように、四国霊場としての金剛福寺は足摺岬とセットで捉えられています。

写真③ 「四国第三拾八番土佐国足摺山図」(当館蔵)

 現在、足摺岬灯台や足摺七不思議のスポットに行くには、金剛福寺の仁王門を出て、県道を横切って、四国のみち(四国自然歩道)の海岸コース「足摺白碆へのみち」を歩いて訪れることができます。案内看板等も整備されています(写真④)。金剛福寺の参詣後、足摺七不思議を散策してみてはいかがですか。

写真④ 現在の足摺七不思議(当館撮影)

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情81―四国遍路の土産・もぐさ(艾)―

2025年6月20日

 「四国遍路道中図」が発行されていた大正~昭和時代、四国遍路の土産として買い求められたものに「もぐさ(艾)」があります。

 もぐさは「よもぎ」の葉の裏にある繊毛を精製したもので、主に「灸(きゅう、やいと)」の材料に使用されます。灸は江戸時代に民間療法として庶民の間で浸透したと考えられ、効能は温熱刺激による血行促進やリラックス効果、鎮痛効果などがあります。もぐさは梅雨明け後の花の咲く前の「よもぎ」を収穫し、天日で乾燥させ、すり鉢、石臼などで細かく粉砕し、葉や茎などの不純物を取り除き、毛の部分を選別して出来上がります。 

 愛媛では、遍路も訪れる道後温泉の土産として、古くからもぐさが有名でした。文化14年(1817)の『四国名物集』によると、「道後名物 結城縞、道後酒、唐あめ、もぐさ、まんじゅう、道後せんべい、甘酒」とあり、江戸時代の道後の名物の1つであったことがわかります。大正8年(1919)の高浜虚子『伊予の湯』では、「伊予絣、湯染手拭、砥部焼、竹細工、猿の腰掛細工、湯の花、湯桁飴、湯晒艾(ゆざらしもぐさ)などを買ふ」と記され、同13年(1924)の久保正『道後の温泉』には「湯ざらし艾は其の名の如く温泉で晒したもので、特にききめが多いといふので土産として喜ばれる」と紹介されています(今村賢司・石岡ひとみ「近代案内記に見る松山・道後土産について―伊予絣・砥部焼を中心に―」『瀬戸内海ツーリズム』愛媛県歴史文化博物館、2024年参照)。

 道後の土産店で販売されたもぐさは、棟田もぐさ商店(愛媛県松山市、赤星平癒堂)で製造されたもので、昭和40年代以前にはほとんどの土産店で取り扱っていたとのことです。道後以外では、三津の商店街、四国八十八箇所霊場第51番石手寺の土産店などでも販売されていました。同店は平成13年頃まで四国で最後のもぐさ製造所でしたが、令和5年3月末に廃業されました。

 棟田もぐさ商店製造のもぐさは箱入りと袋入りがあります(写真①)。箱には弘法大師の図像入りで、「四国霊場 弘法大師 線香付 道後温泉湯晒御艾 松山市港山町 赤星事 棟田正夫謹製」とあります。袋には「道後温泉湯晒」とあり、道後温泉本館、宝珠、白鷺などが描かれ、「うんこう日」(運虚日)として、「御艾 正月ひつじ、二月いぬ、三月たつ、四月とら、五月うま、六月み、七月とり、八月さる、九月ゐ、十月子、十一月うし、十二月う」と記され、それぞれの干支の日は「いむ(忌む)日」で、やいとをすえてはいけない日とされていました。

写真① 「道後温泉湯晒御艾」の収納箱・袋(当館蔵)

 四国では道後のもぐさの他に弘法大師空海の生誕の地と伝えられる四国八十八箇所霊場第75番善通寺(香川県善通寺市)界隈でも何種類かのもぐさが製造・販売されています。

 善通寺参拝記念土産の絵葉書「讃岐善通寺名所」のタトウ(紙製の袋)には、善通寺大門前の渋谷通信堂による「大師艾」の絵入の広告(個人蔵、写真②)が掲載されています。「衣服の上よりすへる不思議な艾(やいと) 讃州屏風浦 五岳山霊草 大師艾 大師艾は御加持を施し有ば日の吉凶によらず 何時すへてもよし諸病にもちひて御利益あり」とあります。日の吉凶によらず、いつでも衣服の上から灸をすえることができる不思議なもぐさであると宣伝しています。

写真② 絵葉書に見る「大師艾」の広告(個人蔵)

 一方、加納大慈堂(同市)が製造・販売した「禅定押艾」(50本入り)の実物があります(個人蔵、写真③)。袋の表面には、幼少期の空海(真魚・まお)の伝説「捨身ヶ嶽」の場面が描かれています。7歳の頃、空海は険しい山(我拝師山)に登り、「将来仏法を広めようと願っています。この願いが叶うのであれば、私をお助けください」と捨身ヶ嶽から身を投げましたが、天女が現れ、真魚を抱き止めたと伝えられています。捨身ヶ嶽は四国霊場第73番出釈迦寺(同市)の奥之院の地とされています(写真④)。

写真③ 「禅定押艾」(個人蔵)
写真④ 捨身ヶ嶽(当館撮影)

 裏面には「艾は古来より薬草中最高の霊草として灸術界の奇蹟的絶大なるは今更申す迄もなく、医学界が研究の結果益々其の効験を認め、皆さんが等しく其の使用推奨されるは御存じの通りで、弊舗製造の押艾は始祖以来の秘法により精製せしものなり。温熱療法に最も良く身体健全となるには一層の御愛用下さい。」と宣伝しています。

 袋の中に入っている禅定押艾は棒状で、1本(長さ約14㎝、中身約12㎝、直径約1㎝)ずつ紙に巻かれ、巻紙には男子用は黒字で「商標登録第358240号 (羯磨像)弘法大師直伝秘法 大師七歳之霊跡 捨身ヶ嶽霊草 禅定押艾 男子用 厳修 讃州屏風浦善通寺(火ツケル方) 謹製並交附所 加納大慈堂 (梵字)」と記され、女子用は赤字で記されています。火を付ける部分には「火ツケル方」と注記があります。

 遍路土産のもぐさに共通する特徴としては、科学的な効能を記したものというよりは、秘法により精製された四国の奇蹟の霊草であることが強調され、弘法大師空海のもつ加持祈祷による呪術性・神秘性にあやかって宣伝されている点にあります。もぐさに限らず、大正7年(1918)の『弘法大師遺訓 妙薬いろは歌』(写真⑤)などの書物が示しているように、民間信仰の家庭療法と弘法大師信仰が深く結びついていることを意味しています。弘法大師によって「諸病にもちひて御利益あり」と謳われたもぐさは、遍路の土産として人気が高かったことが理解できます。

写真⑤ 『弘法大師遺訓 妙薬いろは歌』大正7年、個人蔵

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情80―松山と九州を結ぶ航路の廃止―

2025年6月14日

 愛媛県松山市の松山観光港と福岡県北九州市の小倉港を結ぶ「松山―小倉航路」(写真①)が本年6月末で廃止されます。運営する松山・小倉フェリー(株)(松山市)の報道発表によると、令和2年(2020)以降、新型コロナウイルスの影響により、乗客やトラックなど車両の利用が大幅に落ち込み、加えて燃料価格の高騰や船の老朽化により、これ以上の運航継続は困難と判断し、航路廃止の決断に至ったとのことです。

写真① 石崎汽船の「松山・小倉フェリー」(松山観光港、当館撮影)

 松山―小倉航路は旧関西汽船(株)(大阪市)が昭和48年(1973)に開設し、平成25年(2013)3月末に「フェリーさんふらわあ」が松山-小倉航路から撤退したことを受けて、石崎汽船(松山市)が松山・小倉フェリーを設立して運航を引き継いできました。筆者も松山・小倉フェリーに乗船したことがありますが、夜間の時間を有効活用できるうえ、設備も行き届いており、快適に移動することができました。今回、松山と九州を結ぶ唯一の航路が廃止されることにより、愛媛にとっては人流と物流の両面でマイナスの影響が心配されます。

 四方を海で囲まれた四国にとって定期航路の廃止は、人々の生活、観光、経済などへの影響が懸念されます。四国遍路においては、四国外から巡拝に訪れる遍路の交通手段の選択肢が少なくなるだけでなく、遍路の行程、宿泊地、経費など四国遍路全般の計画にも少なからず影響を与えるものと思われます(本ブログ13「四国に渡る汽船と巡拝方法」参照)。

 四国遍路にとって九州と松山を結ぶ航路がいかに重要であったか、近代の四国遍路の資料から考えてみましょう。

 四国遍路道中図では大正6年(1917)の駸々堂版に「三津ヶ浜上陸 九州北地方ハ五十二番の太山寺より始むるがよし」、昭和13年(1938)の渡部高太郎版に「高浜三津浜上陸 山口県九州北地方ハ五十二番太山寺ヨリ始ムルガヨシ」と記され、松山の港は山口・九州北方面からの上陸港として長年、数多くの遍路にも利用されてきました(当館蔵、写真②)。

写真② 山口・北九州方面からの上陸港であった松山の港

 昭和10年(1935)の四国遍路案内記である武藤休山編『四国霊場礼讃』(大澤自昶著作権発行人)によると、「山口県の西部、福岡、佐賀、長崎県、及び台湾、朝鮮、満州、方面の方は門司、下の関より乗船して高浜に上陸するのが最大便利である」(個人蔵、写真③)と記されています。戦前には福岡県・門司港及び山口県・下関港と愛媛県・高浜港を結ぶ定期航路が就航され、このルートは山口・九州方面のみならず、遠く海外の台湾、朝鮮、満州から福岡を起点にして四国に上陸する重要な瀬戸内海航路であったことがわかります。

写真③ 武藤休山編『四国霊場礼讃』(昭和10年、個人蔵)

 同書にはさらに、「門司発の汽船は毎朝六七時頃に着船するから、高浜に上陸したら順に廻る人は会社の裏より霊仙洞を経て五十二番太山寺へ行くが極近道で僅に十丁余である(中略)順拝し終りには五十一番石手寺を打納め道後にてゆるゆる入湯でもして天候を見合せ午後より支度して太山寺並に霊仙洞へ礼参りして四時の夜汽船に乗れば夜明に門司、下関に着船す」とあり、高浜港上陸後のお奨めの四国巡拝の方法が記されています。なお、霊仙洞は高浜港から太山寺に至る経ヶ峰越への山道沿いにある霊窟ですが、現在廃墟と化しています。

 戦後、松山と九州を結ぶ定期航路は、昭和25年(1950)の瀬戸内海航路の時刻表によると、旧関西汽船によって「今治―門司線」が就航されています。上り便は門司(17:00)⇒高浜(4:00)⇒今治(8:00)、下り便は今治(17:00)⇒高浜(20:30)⇒下関(7:30)⇒門司(8:30)のダイヤで隔日に運航され、愛媛県の高浜港に加えて今治港まで寄港地が延伸されています(個人蔵、写真④)。

写真④ 関西汽船「今治―門司線」時刻表(昭和25年、個人蔵)

 次に、九州北部(福岡県)から海を渡って四国霊場を巡拝した遍路の資料を見てみましょう。

 明治時代の筑前国宗像郡(福岡県宗像市・福津市)の講中札があります(当館蔵、写真⑤)。講中札とは四国八十八箇所霊場の巡拝を目的として結成された講(団体組織)で作成した納札のことで、諸事情のために四国遍路を行うことが難しい人たちが村や町などを単位にグループを作り、定額の積立を行い、目標額が貯まると代参者を選び、代参者は四国遍路へと出立し、札所で参拝した証として講中札を納めました。本資料には中央に「修行大師像 奉納四国八拾八ヶ所霊場 明治 年 先達 」と記され、講員と世話人の名前が記されています。また、墨書で代参者のものと見られる「日月清明 筑前国宗像郡田嶋村 奉納四国八十八ヶ所霊場 むま 同行二人」と記された納札が貼付されています。宗像郡の遍路がどのようなルートで福岡から四国に上陸したのかは不明ですが、最短の航路を考えると松山上陸ルートが想定されます。

写真⑤ 筑前国宗像郡の講中札(当館蔵)

 同じく宗像郡野阪村出身の女性遍路が明治35年(1902)頃に伊予(愛媛県)・阿波(徳島県)・讃岐(香川県)の三国参りを行った納経帳(個人蔵、写真⑥)があります。最初の頁には第58番仙遊寺、第59番国分寺(愛媛県今治市)の札所の番号印のみで、実際の納経は番外霊場の「御来迎臼井泉」(道安寺、愛媛県西条市)から始まっています。この女性遍路は、おそらく福岡から愛媛の今治もしくは松山に上陸して四国遍路を始めたものと推察されます。

写真⑥ 宗像郡野阪村出身の遍路の納経帳(明治35年、個人蔵)

 今回の「松山―小倉航路」の廃止を受けて、四国遍路の歴史を振り返ると、遍路の出身地と四国入りの航路との関係によって、上陸後の四国巡拝の巡り方が変わり、航路の数ほど四国遍路の多様な姿があったと考えられます。航路の変遷と地域ごとの四国霊場巡拝の特色を捉えることは、四国遍路の移り変わりを探る上で注目されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情79―雨天と歩き遍路―

2025年6月13日

 四国地方も梅雨入りしました。梅雨の期間は降水量が多く、湿度の高い日が続きます。今も昔も歩き遍路にとっては、雨具が必要となり、歩きにくい状況になります。

 徳島県内で発行された四国遍路道中図の裏面に記載する「旅の心得」に「早く立ち早く泊るは災難無きなり又時間を急げばとて川越山ごえ船の乗り降りは慎んでなすこと」とありますが、具体的に雨天に関する注意は記されていません。今回は四国遍路道中図が用いられていた昭和時代(戦前)に発行された案内記類から、雨天時における遍路の心得や、遍路が用意する雨具について見てみましょう。 

 昭和6年(1931)の安田寛明『四国遍路のすすめ』には、雨天に関連した注意書きが詳しく記載され、遍路の雨対策の実態がわかります。該当記事を抽出して、「雨具」「川渡り」「宿屋」の3トピックに分類して、以下に紹介します。

 【雨具について】

 ・笠は菅笠を用ゆるのです。(中略)笠の上に書く文字は「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何所有南北」と書くのです。(中略)又其の外に同行二人と認めること文字を書いた墨が乾いたら文字の上を種油で塗って置くと雨水をはじきます。

 ・雨着は御四国で買えば東京よりも代価が安いけれど、なるべく出立前に東京で求めて持参するがよい。二枚お持ちなさい。買う時は十二枚つぎと九枚つぎの二枚を、其の一枚は雨が降った時、荷物の上に着て小さいのは腰下のむれぬよう紐で腰の上部でしめるのです。油紙の隅には住所、姓名を書き入れておきなさい。

 【川渡りの注意】

 ・近道をしようと思って、僅かな足をかばい無暗に足跡の少ない所を辿る時は、先に渡し場のない川へ出ることあり、後戻りするようなことがある。川の見える所の近道などは止めて本道を、本道には渡し船必ずあるのです。

 ・渡し場は出水の多い時は、川止めと云って船を出してくれません。若しそんな場合は上流或いは下流に架橋の有無を取り紛し、もしなければ後戻りして滞留するがよい。

 【宿屋での準備】

 ・亦途中で雨に濡れて着物の袖或いは、裾がジメ々する場合は火で乾かしたいもの、之亦五銭なり十銭を前金に出して、宿屋で炭と火鉢を頼みなさい。

 ・宿屋出立の時は天候を見定め、若し雨降り模様もあれば途中で難儀するから合羽を荷物より出し用意しおくべし。

 今日ではビニール製の手軽な合羽、防水性・撥水性・透湿性のある高機能なレインウエアなど様々な種類のものがありますが、それらが普及する以前は、油紙による雨着をまとった遍路の姿や、川に橋が架けられていない戦前の遍路道の状況などが読み取れます。

 戦前、雨天時に四国八十八箇所霊場第75番善通寺を参詣した団体遍路の姿が写された絵葉書が2枚あります。御影堂に参拝する遍路の後ろ姿は、菅笠を被り、着物の上から雨着を装着しています(写真①)。御影堂参拝後、仁王門前の廿日橋を渡る遍路の姿は、手ぬぐいで頬を巻き、菅笠を被り、杖を持ち、同様に着物の上から雨着を装着しています(写真②)。写真が鮮明でないためはっきりとはわかりませんが、雨着は丈の長いものと短いもの2種類あり、安田が奨める大小2枚の油紙による雨着のように見えます。

写真① 絵葉書「屏風浦善通寺御影堂(弘法大師御誕生所)」(個人蔵)
写真② 絵葉書「屏風浦善通寺仁王門並廿日橋(弘法大師御誕生所)」(個人蔵)

 また、昭和17年(1942)の荒井とみ三『遍路図会』の次の一節には、戦前、雨天における歩き遍路の心情やイメージが語られています。

 「はら、はら、とこぼれてきた、生憎の俄か雨である。だが、遍路たちは、雨脚に濡れながら行くのである。雨具といつては、たつた一枚のカッパと、『同行二人、遍照金剛』の菅笠一つ。それでいて、どのような土砂降りのなかをも遍路は、ひた行く。雨をおそれて、軒下や木蔭に立ち寄ることは、背信の行為とされている。その信念には、行軍する兵隊たちの気持ちとも一味相通ずるものがあるかもしれぬ。」

 雨天時に歩き遍路を行うのは危険が伴うためなるべく止めて休息をとることが遍路の心得とされていますが、ここでは雨をおそれることは背信行為とされ、遍路にも軍国主義の影響が見て取れます。

 最後に、昭和18年(1943)の宮尾しげを『画と文 四国遍路』から、雨をめぐっての遍路同士の会話を紹介します。

 「雨の日はたいがいの遍路者は歩かないといふ事だが、この日は沢山あるいている。そこで尋ねたら「あんさん、後でお天気になりますがナ」「ヘエよく判りますネ」「そりゃ長年の経験でナ、これ見ておくれ」と赤い巡拝の名札を出して見せた。」、延光寺の本堂では「この合羽一円です、大きいですナ、大きい方がかういふ雨の時はいい」「左様か、わしは高知で買ひました、どうどす」「これは大阪や品物が悪いでナ」

 歩き遍路にとって、雨具の良し悪しは遍路の安全性や道中の日程に大きく左右するため、雨天や雨具の情報は重要な関心事であったことが示されています。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情78―西林寺道の文殊院と小村大師― 

2025年6月7日

 前回、昭和13年(1938)に松山の関印刷所が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版)から、「遍路の元祖」と伝えられる(右)衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの伝説地について紹介しました。

 今回は四国八十八箇所霊場第47番八坂寺から第48番西林寺道に至る遍路道(西林寺道)の巡拝ルート(順拝指道)について、四国遍路道中図と案内記の記載内容から考えてみます。

 四国遍路道中図の諸版を比較すると西林寺道のルートが異なることに気づきます。渡部高太郎版では、八坂寺⇒文殊院徳盛寺(衛門三郎古蹟、八塚)⇒小村(こむら)大師⇒西林寺と進みます(写真①)。小村大師は現在「札始大師堂」と呼ばれています。

写真① 四国遍路道中図に見る西林寺道(渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 それに対して、大正6年(1917)に大阪で発行された駸々堂版では、八坂寺⇒文殊院(衛門三郎旧跡)⇒森松⇒石井⇒西林寺へと進むルートを示しています(写真②)。大正期の駸々堂版では八塚と小村大師は記載されていません。

写真② 四国遍路道中図に見る西林寺道(駸々堂版、大正6年、当館蔵)

 一方、昭和5年(1930)に徳島で発行された光栄堂版、同9年(1934)の浅野本店版、同15年(1940)の金山商会版などでは、八坂寺⇒文殊庵(衛門三郎旧跡、八塚)⇒西林寺のルートを示しています(写真③)。要するに、昭和13年の渡部高太郎版以外の四国遍路道中図では、西林寺道に小村大師は記載されておらず、そのため巡拝ルートが若干異なっていることがわかります。

写真③ 四国遍路道中図に見る西林寺道(光栄堂版、昭和5年、個人蔵)

 次に江戸時代の案内記で西林寺道を確認してみましょう。

 現存最古の四国遍路ガイドブックである、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』では「これより西林寺まで一里。〇えわら村、大師堂有。此村の南に右衛門三郎の子八人のつか有、石手寺の縁起にくハし。〇小村、大師堂、此間川三瀬有。〇たかい村」とあります。この記載から、江戸時代前期に「八塚」は衛門三郎の子どもたちの墓であると伝えられ、「えわら村の大師堂」と「小村の大師堂」の2つの大師堂が存在し、江戸時代前期の西林寺道はえわら(恵原)村の大師堂、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートであったことがわかります。ところが、江戸時代後期に流布した『四国徧礼道指南増補大成』では「えわら村の大師堂」「八塚」「小村の大師堂」の記載は一切ありません。ちなみに同書で衛門三郎伝説にふれるのは第51番石手寺と第12番焼山寺近くの杖杉庵のみです。寛政12年(1800)の「四国遍礼名所図会」では、八塚と小村の大師堂に比定される庵が記載されており、江戸時代後期の西林寺道は八坂寺から八塚、小村の大師堂を経由して西林寺に至るルートと考えられます。江戸時代の小村の大師堂の後身と考えられる現在の札始大師堂の境内には、文政10年(1827)銘の手洗鉢が残されており(写真④)、小村の大師堂の痕跡を示すものとして注目されます。

写真④ 小村大師堂(札始大師堂)の手洗鉢(文政10年銘)

 さらに近代の案内記を確認すると、明治44年(1911)の三好廣太『四国霊場案内記』、大正15年(1926)の三好廣太『四国遍路 同行二人』には、衛門三郎の旧跡文殊院、八塚は紹介されていますが小村大師は言及されていません。

 江戸時代以来、小村大師が再び紹介されるようになるのは昭和時代に入ってからと考えられます。弘法大師御入定一千百記念にあたる昭和9年(1934)に刊行された『四国霊蹟写真大観』の八坂寺解説文に「札始大師(四国八十八ヶ所巡拝のおこり)中略 文殊院より先に草庵を結ばれた所、後世小村の大師堂と名づく(文殊院より八町)」とあり、御詠歌「ありがたや伊予の小村の札始大師の光あらたなりけり」も記載されています。

 近代の案内記の中で特に注目したいのは、昭和10年(1935)の武藤休山編『四国霊場礼讃(四国順拝案内記)』です。本書によると文殊院徳盛寺は番外札所として紹介され、「当山は衛門三郎の旧跡地であり遍路根本道場である山主大澤自昶晋住以来内容外観の整備に専念し居り遍路の由来を宣説し教化の意義を徹底なさんがため庫裏を提供して通夜の便を与へ毎夜法話をなし懇切丁寧に旅情を慰めつつあり」とあります。文殊院徳盛寺は「遍路の根本道場」と称して、通夜する遍路に対して遍路の由来と教化の意義について住職が説法を行っていたことが読み取れます。同書には文殊院が発行する『遍路開祖衛門三郎四行記』『同四行記絵伝』『四国順拝和讃』『四国巡拝道中記』などの広告が掲載されています。

 また、小村大師については「大蓮寺境外仏堂大師堂 当堂には小村屋の宿泊。賄所あり春間毎夜堂主の、礼讃主義の講和あり」と紹介され、四国遍路で賑わう春季には宿泊する遍路に対して堂主による法話が行われていたようです。小村大師堂においても弘法大師と衛門三郎の刷り物(当館蔵、写真⑤)や「遍路開祖衛門三郎四行記絵伝」などが発行されており、積極的に情報発信を行っていることがわかります。ところで『四国霊場礼讃』の刊記によると、著作兼発行者は大澤自昶と記され、本書は文殊院で発行されたものと見られます。

写真⑤ 小村大師堂(札始大師堂)で発行された「弘法大師と衛門三郎」の刷り物(当館蔵)

 このように、文殊院と小村大師堂の両寺院は、住持による法話、案内記、刷り物などで積極的に四国遍路の開創に関わる衛門三郎ゆかりの重要な番外霊場であることを発信しています。その背景には、昭和9年の弘法大師御入定一千百記念という四国遍路の歴史の節目を迎えたことも影響していると推察されます。

 戦後、昭和29年(1954)の後藤信教『四国順禮 南無大師』では「衛門三郎(杖杉庵で述べた遍路の元祖)の菩提所文殊院あり。次小松(小村の誤植)に札始め大師へ参拝」と記されているように、衛門三郎の菩提寺とされる文殊院と、「札始大師堂」と称されるようになった小村大師は、今日の西林寺道で遍路が参詣する有名な番外霊場として定着していることがわかります。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情77―衛門三郎伝説―

2025年6月6日

 昭和13年(1938)に松山の関印刷所が発行した四国遍路道中図(渡部高太郎版)には、「遍路の元祖」と伝えられる(右)衛門三郎(えもんさぶろう)ゆかりの番外霊場や古跡などが紹介されています。

 衛門三郎伝説には諸説ありますが、元禄3年(1690)の真念『四国遍礼(へんろ)功徳記』には、以下のような物語が紹介されています。

 予州浮穴郡の衛門三郎は貪欲な人で、托鉢に訪れた僧の鉢を杖で8つに打ち割わると、8人の子が8日で次々に亡くなりました。そのことに驚き、悔やみ、発心して三郎は四国遍路に出ます。21回目に逆打ちで遍路を行ない、阿波国の焼山寺の麓で生き倒れ、臨終の際に大師に出会い、領主河野氏に生まれ変わることを願います。大師は石に衛門三郎の名前を書いて手に握らせます。その後、河野氏にその石を握った子が生まれ、その子は成長して河野家を継ぎ、松山に安養寺を再興して、その石を納めて石手寺と寺名を改め、河野家は数百年繁栄しました。この話は長い物語で、石手寺の縁起等に記されています。

 次に、四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)に記載する衛門三郎ゆかりの伝説地を見てみましょう(写真①)。

写真① 四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)に紹介する衛門三郎の伝説地

 〇文殊院徳盛寺(もんじゅいん・とくじょうじ。愛媛県松山市恵原町)

 道中図に示す巡拝指道(巡拝ルート)では、四国八十八箇所霊場第47番熊野山八坂寺から4丁とあります。番外霊場を示す薄赤色印に「四国遍路巡拝根本道場 文殊院 徳盛寺」と記され、「衛門三郎古蹟 同 八塚」と併記されています。徳盛寺発行の『四国霊場遍路元祖 衛門三郎八塚の由来』(個人蔵、写真②)によると、弘法大師が衛門三郎を弔うために衛門三郎の屋敷に徳盛寺を移させ、文殊菩薩の御恵みから寺号を文殊院と称したと記されています。文殊院には「衛門三郎四行記」「遍路開祖衛門三郎四行記絵伝」などが残されています。

写真② 文殊院徳盛寺発行『四国霊場遍路元祖 衛門三郎八塚の由来』個人蔵

 〇八塚(やつづか。同上)

 衛門三郎の8人の子どもたちの墓と伝えられています(写真③)。前述の『衛門三郎八塚の由来』によると、「この八つの塚墓は今猶附近田甫に散在の哀れをとどめけるがその位牌所文殊院はかくも大師の御心を籠め置かれし霊妙不思議の御跡なれば大師の御迹を慕ふものの忘るべからず所なり」と記されています。八塚は古墳時代末期の群集墳(松山市指定史跡「八ツ塚群集古墳」)であることがわかり、後世に衛門三郎と弘法大師伝説に結び付けられたことが推察されます。

写真③ 松山市指定史跡「八ツ塚群集古墳」当館撮影

 〇小村大師(愛媛県松山市小村町)

 道中図の巡拝ルートによると、文殊院徳盛寺の次は「番外 小村大師」とあります。小村大師は別名「札始大師堂」(写真④)と呼ばれ、伝承によると、弘法大師のあとを追った衛門三郎はこの堂を訪ねて、大師が刻んだ尊像に懺悔し、その帰りを待ちますが大師は現れなかったため、木を削り、札に自分の名前を記して、堂の柱に打ち付けました。遍路の「納札」という行為の始まりとされています。

写真④ 札始大師堂(小村大師)、当館撮影

 〇杖杉庵(じょうしんあん。徳島県名西郡神山町)

 道中図には、第12番札所焼山寺と第13番大日寺の間に「衛門三郎墓地 杖杉庵」と記されています。杉杖庵縁起によると、この場所は衛門三郎が21回目の遍路でついに弘法大師に巡りあった終焉の地と伝えられています(写真⑤)。杖杉庵の名前の由来は、三郎の死後、大師は持っていた杉の杖を墓標として立て、やがてその杖が大杉となり、この地に庵が設けられたことに基づきます。杖杉庵で発行された弘法大師と衛門三郎の刷り物(当館蔵、写真⑥)には、衛門三郎が大師に許しを乞う場面が描かれています。

写真⑤ 杖杉庵、当館撮影
写真⑥ 杖杉庵発行「弘法大師と衛門三郎の刷り物」(当館蔵)

 〇石手寺(四国八十八箇所霊場第51番札所。愛媛県松山市石手)

 道中図には衛門三郎の記載はありませんが、石手寺には寺号の由来となった衛門三郎伝説が記された初見史料とされる永禄10年(1567)の紀年銘がある「石手寺刻板」、寺名の由来となった「玉の石」、江戸時代の衛門三郎略縁起(巻子本)など、衛門三郎伝説の貴重な史料が残されています。石手寺では薬師信仰、弘法大師信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰などの多様な信仰が展開し、衛門三郎伝説は石手寺の歴史のみならず四国霊場の特色や四国遍路の歴史を考える上でとても注目されます(『研究最前線 四国遍路と愛媛の霊場』愛媛県歴史文化博物館、2018年参照)。

 四国遍路道中図(渡部高太郎版)にとりあげる衛門三郎ゆかりの番外霊場や古跡は、現代の歩き遍路が訪れる巡礼地としても定着しています。江戸時代以来、四国遍路の歴史を語る上で欠くことができないのが衛門三郎伝説といえます。

 衛門三郎伝説には、修行中の僧侶や巡拝中の遍路は弘法大師の化身と見なし、親切に接してお接待を施すなどの功徳を積むことの必要性、札挟みや納札などを用いる四国遍路の作法、尋ね人・弘法大師に出会うことができる逆打ちの神秘性、遍路を成就すると死出の旅路から再生できる、四国遍路は繰り返し行う連続性のある円環的な巡礼、熊野修験や念仏聖と衛門三郎伝説の関係性など、四国遍路という独特な巡礼の構造を理解するための重要な要素が数多く含まれています。今後の研究が期待されます。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情76―仙龍寺と中務茂兵衛―

2025年5月31日

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版)の中で、八十八箇所霊場の本札所ではありませんが、大きく目立つように記載されている番外霊場の一つに仙龍寺があります。地図上では第65番三角寺(愛媛県四国中央市)と第66番雲辺寺(徳島県三好市)の間、伊予(愛媛県)、阿波(徳島県)、讃岐(香川県)の県境付近に位置し、「六十五番 奥ノ院 金光山 仙竜寺」と記されています(写真①、当館蔵)。

写真① 四国遍路道中図(渡部高太郎版、昭和13年)に紹介された仙龍寺(当館蔵)

 金光山仙龍寺(愛媛県四国中央市新宮町馬立)は三角寺の奥之院とされ、承応2年(1653)の澄禅「四国辺路日記」、貞享4年(1687)の真念『四国邊路道指南』、元禄2年(1689)の寂本「四国徧礼霊場記」などの江戸時代前期の四国遍路案内記にも紹介され、四国霊場の古刹として知られています。また「四国辺路日記」には、三角寺から仙龍寺までの山道が筆舌に尽くしがたい険しい道であったと記され、現在も江戸時代の旧遍路道の状態をとどめていることから、平成29年(2017)に国史跡「伊予遍路道・三角寺奥之院道」(写真②)に指定されました。

写真② 国史跡「伊予遍路道・三角寺奥之院道」(当館撮影)

 仙龍寺に遍路が多く参拝する理由は、本尊の弘法大師像の由来に基づきます。本尊は大師42歳の時に厄除けと虫除け五穀豊穣の秘法を修して自作の肖像を安置したものと伝えられ、「厄除け大師」「虫除け大師」として人々に篤く信仰されています。また、明治41年(1908)の知久泰盛『四国八拾八ヶ所霊場案内記』によると、「昔、高野山は女人禁制なりしが当山は女人高野と申して女人の参詣自由なりし故、今は女人成仏の霊場と伝へて日々参詣者群集す」とあるように、明治後期には女人参詣で賑わい「女人高野」と称されていたことがわかります。

 霊験あらたかな四国霊場として知られた仙龍寺は、江戸時代以降、寛政12年(1800)の「四国遍禮名所図会」、西丈の「中国四国名所旧跡図」(当館蔵、学芸員ブログ「中国四国名所旧跡図63 三角寺奥院金光山仙龍寺」参照)、幕末期の伊予国地誌である半井梧菴の『愛媛面影』、明治時代後期頃の「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」などに境内の独特な景観が描かれています(今村賢司「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について『四国八十八箇所霊場詳細調査報告書第65番三角寺 三角寺奥之院 三角寺奥之院道』令和4年、愛媛県教育委員会参照)。

 『愛媛面影』(写真③、当館蔵)では切り立つ崖沿いに懸造りの建物(本堂・通夜堂等)と渓谷が描かれ、深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観が見てとれます。また「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」(個人蔵、写真④)は一枚刷りの銅版絵図で、従来の仙龍寺境内図と比較して境内の細部や周辺の景観も細密に描かれています。

写真③ 仙龍寺(半井梧菴『愛媛面影』、当館蔵)
写真④ 伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図(個人蔵)

 昭和11年(1936)の三好廣太『四国遍路 同行二人』(第32版、此村欽英堂)に「当寺は参詣者に通夜を許し、毎夜護摩修行本尊の御開帳住職の説法等、ありがたき御座を開かる」とあるように、仙龍寺では毎晩、護摩修行や本尊弘法大師像の御開帳などが行われ、多くの参拝者は通夜堂に宿泊して拝観しました。

 ところで、番外霊場仙龍寺の参拝を積極的に推奨したのが、四国霊場を280回巡拝した中務(司)茂兵衛(1845~1922年)です。

 明治33年(1900)に茂兵衛が四国巡礼176度目を記念して三角寺に建てた遍路道標石(写真⑤)には「(手印)奥の院 是より五十八丁 毎夜御自作厄除大師尊像乃御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣して御縁越結び現当ニ世の利益を受く遍し」、同34年(1901)に184度目の記念に番外霊場の椿堂(愛媛県四国中央市)近くに建てた遍路道標石(写真⑥)には「(手印)奥の院 是より一里余 毎夜御自作厄除大師尊像の御開帳阿り霊場巡拝の輩ハ参詣し天御縁を結び現当ニ世の利益を受くべし 中務義教謹誌」、同36年(1903)に198度目を記念して三角寺道に建てた遍路道標石には「金光山奥乃院は毎夜御自作厄除弘法大師尊像の御開帳阿り四國巡拝の砌に盤参詣して御縁を結び現当ニ世乃利益を受く遍□し 中務義教謹誌」、同37年(1904)に202度目を記念して第64番前神寺(西条市洲之内甲)の参道に建てた遍路道標石(写真⑦)には「金光山仙龍寺ハ厄除弘法大師御自作の尊像□て毎夜開帳阿り四國巡拝の輩には参詣して御縁を結び現当二世之利益を受くべし」、仙龍寺道に建てた遍路道標石(年不明、写真⑧)には「奥之院へ八丁 毎夜本尊御直作厄除大師尊像ノ御開帳アリ霊場巡拝ノ信者ハ一夜ノ通夜ヲシテ御縁ヲ結ビ現當ニ世ノ利益ヲ受ケラルベシ 中務義教誌 荷物ハ持参スルモヨシ又ハ店ニ預ケ置キ参詣通夜スルモヨシ」と記されています。

 このように中務茂兵衛は施主や世話人等の協力を得て、三角寺境内、前神寺参道、遍路道沿いなどに道標石を設置して、そこに仙龍寺の案内広告を記して、多くの遍路を仙龍寺に誘いました。また、同45年(1912)には仙龍寺住職・服部覺禅と中務茂兵衛らによって仙龍寺の裏山に新四国霊場が開創され、大正3年(1914)に記念法会が行われています。 仙龍寺は中務茂兵衛と関係がとても深い札所寺院の一つであったことがわかります。

「伊予かすり 機の音サミット」開催!

2025年5月30日

 5月26日(月)、松山市立子規記念博物館において、「伊予かすり 機の音プロジェクト実行委員会」主催による「日本三大絣 伊予かすり 機の音サミット~鍵谷カナ没後160周年記念」が行われました。

 久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の1つに数えられた伊予絣は現在の製造業者は1社、職人も数名で伊予絣の伝統を守り続けています。そうしたなか、本年2月に伊予絣は愛媛県無形文化財(工芸技術)に指定され、技術保持者として白方宣年氏と村上君子氏の2名が認定されました。

 このイベントは、伊予絣の創始者鍵谷カナ没後160周年を記念して、愛媛が誇る伝統工芸品・伝統技術である伊予絣の魅力を見つめ直すとともに、伊予絣を次世代に繋いでいくための方法を考えるためのものです。

 最初に実行委員会の白方基進氏による開催宣言が行われ、基調講演Ⅰでは、当館専門学芸員・今村賢司が「温故知新の伊予かすり―未来へつなぐために―」と題して、伊予絣の歴史を振り返り、その特色や魅力、今後の展望・未来像について紹介しました(写真①)。

基調講演Ⅰ 今村賢司「温故知新の伊予かすり―未来へつなぐために―」(写真①)

 活動発表では、伊予絣を用いて作品づくりをしている伊予農業高等学校生活科学科被服班の高校生6名による報告「伊予かすりで日常生活に彩りを~サスティナブルな伝統工芸の普及を目指して」がありました。高校生による持続可能な伊予絣を考える研究活動は、伝統工芸と距離のある現代において、実際に日常生活の中に伊予絣を採りこむ事例として意義深く、伊予絣の魅力を身近に感じるアイデアとしてとても参考になりました。

 伊予絣の基調講演Ⅱでは鹿児島県奄美大島の大島紬の伝統工芸士・元允謙氏が大島紬を事例に、進化していく伝統工芸という考え方や異業種、他分野とのコラボ事例、商品開発のノウハウなどが紹介され、今後の伊予絣の継承や活用にあたり多くの示唆をいただきました。

 パネルトークでは、愛媛大学地域協働推進機構特定准教授・大本敬久氏、あいテレビアナウンサー・滝香織氏の司会によって進行。パネリストは伊予絣作家・川西利美氏、垣生公民館長・中田浩一氏、元允謙氏、今村の4名で、伊予絣を継承するには?今後活用するには?について意見交換が行われました。

 サミットの会場では、高機による伊予絣の制作実演(写真②)や、白方興業株式会社所蔵の伊予絣の古布「白方コレクション」の絵絣、垣生公民館所蔵の垣生で製造された伊予絣の生地・着物などが展示され、参加者が身近に伊予絣の魅力を感じることができました(写真③)。

高機による伊予絣の制作実演(写真②)
伊予絣資料の展示(写真③)

 今回は第1回目のサミットでしたが、伊予絣関係者、染織作家、大学、博物館等の研究者、経済界、地元の高校生、大学生、行政など様々な立場の方が参加され、伊予絣の魅力について再確認して、今後の在り方についてともに考えることができ、伊予絣の新時代の一歩となるとても有意義なサミットでした。

昭和時代の「四国遍路道中図」から見た遍路事情75―阿波一国詣り―

2025年5月23日

 四国遍路の巡拝の方法で、阿波国(徳島)、土佐国(高知)、伊予国(愛媛)、讃岐国(香川)の各国内の札所を巡拝することを「一国詣(参)り」といいます。

 四国八十八箇所霊場の阿波の札所第1番~第23番までを巡る「阿波一国詣り」の案内パンフレットがあります(写真①、個人蔵)。阿波国共同汽船株式会社が昭和14年(1939)以前に発行したものと見られ、菅笠、金剛杖、札箱、さんや袋などを身に着けた絣着物姿の女性遍路が表紙を飾っています。裏表紙には「信仰のハイキング 阿波霊場巡り」と題して、 徒歩を中心に汽車やバスを利用して6日間で徳島の霊場を巡る行程が参拝略図とともに紹介されています。

写真① 「阿波一国詣り」の案内パンフレット(個人蔵) 

 阿波一国詣りの道程について確認してみましょう。

 ・第1日(第1番霊山寺から第10番切幡寺まで) 

 平たんな道が約6里続き、10箇寺を巡拝します。第6番安楽寺までは汽車(徳島線)とバスの便があります。第6番~第10番まではバスの便があります。切幡町で宿泊。 

 ・第2日(第10番切幡寺から番外霊場の柳水庵まで)

 切幡寺から徒歩で吉野川を渡り、第11番藤井寺を参拝します。焼山寺への登山道に入り、途中の柳水庵で宿泊。

 ・第3日(柳水庵から第12番焼山寺を参拝し、徳島市内まで)

 柳水庵を早朝に出立し一本杉を経て焼山寺、杖杉庵を参拝し寄井の町まで徒歩、寄井から徳島市までバスの便があります。徳島市内の旅館泊、市内観光。

 ・第4日(徳島市を立ち、第13番大日寺から第19番立江寺まで)

 徳島市内からバスで第13番大日寺へ、そこから徒歩で第17番井戸寺(妙照寺)までを巡拝、バスもしくは府中駅から汽車で中田へ行き、第18番恩山寺、立江寺を巡拝します。立江寺泊。

 ・第5日(第19番立江寺から第21番太龍寺まで)

 立江寺からバスで中角まで行き、徒歩で第20番鶴林寺を参拝、那賀川大井渡を渡り、再び登山して太龍寺を参拝します。太龍寺泊。

 ・第6日(第21番太龍寺から番外霊場の龍の窟を拝観し、第23番薬王寺まで)

 太龍寺から南へ下り、龍の窟を見学、新野町へ。第22番平等寺を参拝してバスで日和佐町へ、薬王寺を参拝。阿波一国詣り終了後は、小松島に戻り帰途に就くか、次の高知の霊場第24番最御崎寺へ進む場合はバスを使用します。

 昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)を用いて、阿波一国詣りの行程を日程ごとに記載しました(写真②)。阿波の遍路道は、1日目は平坦な道で多くの札所を巡拝できますが、2日目から3日目にかけての焼山寺の登山道、5日目から6日目にかけての鶴林寺から太龍寺までの道程が険しい山道の難所で、吉野川と那賀川の川渡りなどが見られるのが特徴といえます。

写真② 「阿波一国詣り」の道程(「四国遍路道中図」渡部高太郎版、昭和13年、当館蔵)

 パンフレットでは、四国遍路の全巡拝路を4区分し、1年で1区(5~6日)ずつ巡れば4年で四国遍路を達成できると説かれています。発行元の阿波国共同汽船株式会社は、明治20年(1887)に徳島の藍商人等による共同出資で設立されました。関西方面などからの遍路の誘致に地元の海運会社の果たした役割が注目されます。

 昭和初期における徳島県内の海上・陸上交通の状況を示した案内広告があります。昭和9年(1934)の『四国霊蹟写真大観』(当館蔵)の巻末に収録する「阿波案内」(写真③)には、摂陽商船株式会社と阿波国共同汽船株式会社の共同経営による徳島の海上交通の広告が掲載されています。そこには「小松島港」「二十八共同丸」の写真とともに、大坂、神戸、明石、和歌山、淡路島、鳴門海峡、高松、引田、撫養、徳島、小松島、橘(阿南市)などの各港を結ぶ同社の航路が蒸気船のイラスト入りで紹介されています。共同汽船の営業所がおかれた小松島を拠点にした徳島の海上交通網の広がりがわかります。

写真③ 摂陽商船株式会社・阿波国共同汽船の広告(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 また同書には「阿南自動車協会」の写真入りの広告(写真④)も掲載されています。同協会の本社前には行先表示のある乗合自動車が整列し、「阿南自動車徳島支店」と記された大きな看板には同社の支店や出張所等が記載され、徳島県内はもとより高知、香川方面への乗合バスの路線が開通している状況が見て取れます。

写真④ 「阿南自動車協会」の広告(『四国霊蹟写真大観』昭和9年、当館蔵)

 今日、四国遍路の巡拝方法は伝統的な通し打ち(一度の巡礼ですべてを巡拝)、区切り打ち(都合の良い札所だけを巡拝)、みだれ打ち(札所番号には関係なく巡拝)などが行われていますが、「阿波一国詣り」のように四国遍路を分割して巡拝する方法は、最終的に全札所を打ち終える分割巡礼の代表といえます。

 昭和初期に推奨された阿波一国詣りは、四国遍路を取り巻く海上・陸上交通の発展によって、伝統的な修行を基本とした徒歩中心の巡拝から、文明の利器である近代交通を積極的に活用して、名所旧跡や市内観光などの行楽的要素も採り入れ、計画的且つ効率よく札所を巡拝するという現代の四国遍路の巡拝の先駆けとして注目されます。