お菓子な史料6 カバヤ文庫

2011年8月26日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

お菓子を買う楽しみには、食べる楽しみ以外にも、それに付属しているおまけを集めるという楽しみもありました。おまけというと最初に思い浮かぶのはグリコの豆玩具という人も多いと思いますが、昭和20年代にグリコと同じくらい人気のあったおまけとして、現在展示している「カバヤ文庫」があります。「カバヤ文庫」は昭和27(1952)年の登場。カバヤキャラメルに封入されている文庫券を集めると、「カバヤ文庫」と交換できるというものでした。

このカバヤ文庫については、昭和19年に愛媛県西宇和郡伊方町九町に生まれた俳人坪内稔典さんが、子ども時代の思い出を『おまけの名作 カバヤ文庫物語』(いんてる社、1984年)に記しています。九町の井上菓子店で坪内少年がカバヤ文庫と出会う場面が印象的なので、少し長く引用します。

ぼくの「カバヤ文庫」は、井上菓子店の菓子箱(ケース)のなかにずらりと並んでいた。『ピノキオの冒険』『若草物語』『ジャックと豆の木』『ロビンソン漂流記』などが、赤地に白ヌキされた題名を並べていた。
その「カバヤ文庫」のなかから、ぼくは『レ・ミゼラブル』を選んだ。その『レ・ミゼラブル』は、はじめてぼくのものになった本らしい本であった。表紙には、ジャン・バルジャンがコゼットと散歩しているようすが描かれている。ジャベール警視の執拗な追跡を受けているジャンの、それはつかのまの幸福を描いた絵だ。みなし児のコゼットを引きとり、父親になったジャンは、コゼットの手をとって口元に微笑を浮かべている。
それまでのぼくは、本らしい本、すなわちハードカバーの本を持っていなかった。…(中略)…それだけに、ガラスケースの菓子箱のなかに、ずらりと並んだ百冊を超す「カバヤ文庫」は、そのハードカバーのゆえに、まず何よりも魅力だったのである。後年、改めて手にした「カバヤ文庫」の表紙は、ボール紙に上質紙を巻いたものにすぎなかった。この表紙が見返しの紙によって針金でとじた本体にくっついている。それはいかにも安上がりの製本だが、なにしろ「カバヤ文庫」は、キャラメルのおまけであった。安上りの製本でありながらも、ともかくハードカバーであったところに、このおまけの人知れぬ工夫があったのかもしれない。

坪内さんによると、当時住んでいた集落には、幟(のぼり)をつくる本業のかたわら、わずかに「小学○年生」などの雑誌を扱っている店しかなく、家にも数冊の本しかなかったそうです。本を手に入れるには、八幡浜に自宅があった担任の先生に頼んで買ってきてもらうか、晩秋のさつまいもの収穫が終わる「ほごこかし」の日に、八幡浜と半島の島々を結ぶ木造の定期船「八幡丸」に乗って川之石の商店街まで行き、むつみ屋という文房具や本を置いている店で文庫本を買うかしかなかったとあります。そのような中で、本とは少し場違いな菓子店に突如並び始めた「カバヤ文庫」は、坪内少年の目にどんなにか輝いて見えたことでしょう。児童書がまだ高価だった時代に、10円のキャラメルで本を手に入れることができる「カバヤ文庫」は多くの子どもたちに受け入れられました。その結果、昭和27~29年までのわずか2年間で159冊、約2500万部が発行され、当時の隠れたベストセラーといわれています。

「カバヤ文庫」の159冊の書名を見ると、最初に発行された『シンデレラ姫』をはじめ、『ピノキオの冒険』、『母をたずねて』、『ロビンソン漂流記』、『イワンのばか』などの、誰も知っている世界の名作がずらりと並んでいます。つまり、著作権が切れた世界の名作をダイジェストしたものが「カバヤ文庫」で、当時「カバヤ文庫」を通じて世界の名作に親しんだ子どもも多かったものと思われます。その後、カバヤは人気になり始めていたマンガに着目、文庫と同じサイズ、装幀で「カバヤマンガブック」を出し始めます。「カバヤ文庫」にマンガを加えたことで、マンガ嫌いな学校や親の忌避に逢い、カバヤ文庫はわずか2年で刊行を終えることになったとされています。果たしてそうでしょうか。

当館の所蔵品に昭和32年頃と思われる「カバヤココナツキャラメル/カバヤプリンスキャラメル」の宣伝ポスターがあります。そこにはココナツキャラメルの中に「カバヤくうぽん券」が入り、そのくうぽん券で好きな新刊雑誌1冊か、カバヤ文庫10冊セットに交換できることが記されています。新刊雑誌としては、大人用に『平凡』『明星』『文藝春秋』『オール読物』など11種類、子ども用に『幼稚園』『幼稚園クラブ』から『小学○年生』の各学年のもの、さらに『少年』『少女』『少年クラブ』『少女クラブ』『漫画王』など28種類の雑誌名が並んでいます。この頃少年、少女雑誌ともにマンガが台頭、豪華な付録が売りになっていました。そうした本職の子ども雑誌に、「カバヤ文庫」は押されていき、ついには10冊セットでもなかなか引き取られない状況にあったのでしょうか。「カバヤ文庫」が登場した昭和27~28年は時代の転換期だったのかもしれません。物不足から物が行き渡り始めるちょうど狭間の時期だったともいえます。「カバヤ文庫」の終焉には、何かそうした時代の力が大きく関わっているように思えてなりません。

街頭紙芝居の思い出

2011年8月11日

伊予市上灘の鉄道高架下で行われていた街頭紙芝居を、昭和30(1955)年頃に撮影した写真(井上敬一郎氏提供)です。自転車の荷台に木製の紙芝居の舞台がのっています。その前に集まったたくさんの子どもたち。かなり至近距離から紙芝居にかぶりついて見ている感じです。左側の男の二人は、お菓子を食べていますね。水あめや煎餅などを買って、食べながら見るのが紙芝居の楽しみの一つでもありました。写真を見ると、小さい子どもから、妹か弟をおぶった少し大きな子どもまで、いろいろな年代の子どもがいることがわかります。テレビが普及していない時代、紙芝居はいろいろな年代の子どもを惹きつける娯楽の王様でした。現在、放課後にこれほど学年を超えた子どもたちが集まって遊んでいる姿を見かけることもないのではないでしょうか。

今回、特別展「昭和子ども図鑑」の展示室の中に観覧者の紙芝居の思い出を書いていただくコーナーを設けました。いろいろな思い出が寄せられていますので、そのうちのいくつかを紹介します。

○和霊公園(宇和島市)。といっても今のように整備されているわけではなく草ぼうぼうだった頃、今の公園の前で紙しばいのおじさんが毎日きてました。いもあめなど食べながらみていました。昭和30年代だったと思います。

○宇和島市弁天町。昭和40年ごろ。黄金バット。型ぬきおかし。自転車の後ろにつんでいたような気がします。

○昭和35~40年代、伊予市郡中の小笠原こんにゃく店の裏の路地。私の生家近くですが、その場所は整地されています…。5円持ってよく行ったものです。子ども心に何も買わないで見ようとすると白い目で見られたものです。

○昭和30年代後半から40年代前半に松山市内此花町あたりでよく見ました。

○砥部町原町の小さな公園で何度も。昭和35年頃。おかしは型ぬき、わらびもちのようなものでした。今日の展示を見て、なつかしさで泣きそうでした。

○昭和30年代前半、神戸で小学生時代、紙芝居がとても楽しみで、その頃は5円だったと思います。お菓子も展示にあった水あめをねったり、型ぬき、せんべいを2枚重ねて間に何かぬっていた物だったようで、おじさんがひょうし木をたたいてみんなが集まりお話が上手で、今日は昔の事が思い出しよかった。

○昭和30年うまれです。夕暮時になると紙しばい屋さんの自転車の後を子どもたちがついて行っていたのを思い出します。今考えると子どもにとっては恐しい話もあった様な気がしますが、あめをなめながら一生けん命聞いていたのをなつかしく思い出します。でも母に道はたで買うあめは不けつと言われて、あまりいつもは食べられなかったのが残念でした。

○私の母は昭和23年生まれで、10円をにぎりしめて、紙芝居に見に行ったそうです。水あめを買わないと見せてもらえなかったと言っています。わりばしについた水あめを白くなるまで、ねって大事に大事に食べたそうです。

○あります。30ねんだいぜんはん。

○昭和42年頃、8才の時。近くのアパートの広場。子供が多くみんなで集まってみていました。

昭和30年代~40年代前半に愛媛のいろいろな路地で街頭紙芝居が行われていたことがわかってきました。紙芝居が楽しくて懐かしい思い出として、多くの人の心に遺っていることがうかがえます。展示室では、紙芝居の他に、お菓子や雑誌に関する思い出も書いていただいています。そちらについても、機会があれば紹介したいと思います。

なお、博物館では、8月13日(土)、14(日)、15日(月)、27日(土)、28日(日)に当時のスタイルそのままで街頭紙芝居を実演するイベントを行います。昭和20~30年代に実際に使われていた一枚一枚が手書きの街頭紙芝居です。また、街頭紙芝居に付きもののクイズもいっぱい準備しています。各日とも13時30分と14時30分開始で、無料で参加いただけます。昔ながらの紙芝居をどうぞお楽しみください。

お菓子な史料5 カル素vs沃土

2011年8月10日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

最初に粉末バナナ入りの「栄養保健菓子 ラクダ」を紹介しましたが、山星屋コレクションを見ていると、他にも体のためになりそうなお菓子のパッケージがいろいろと見つかります。次の史料もそのうちの一つ。

鯉の上に健康優良児のような子どもがどっしりと乗っかるなんとも大胆なデザイン。ところで、なぜ子どもは鯉に乗っているのでしょうか。それは、江戸時代からの伝統的なデザイン「鯉と金太郎」をもとにして、パッケージが描かれているからと思われます。金太郎は熊と相撲をとったりする元気キャラ。巨大な鯉をつかまえたという話しもあります。一方、鯉は天に昇って龍に変化するといわれており、鯉の滝のぼりには立身出世のイメージが重ね合わされています。そのため、「鯉と金太郎」の絵は、男の子の立身出世、健康の願いを込めて、これまでに多くの端午の幟(のぼり)にも描かれてきました。カル素のパッケージデザインは明らかに「鯉金」を下敷きにつくられています。カル素キャラメル食べたら、元気はつらつということですね。

そのパッケージに踊る文字もすごい。上に太鼓判ともいえる「各医学博士推奨」の文字。右に「造血菓子」、左に「血ノモト肉ノモト」とあります。なんて直接的なキャッチコピー。ちなみに、鯉は食べるといろいろと体に効く健康食品なんだそうです。その効能にはむくみをとって、血液の流れをよくするということもあげられています。ということで、「造血菓子」のパッケージにぴったりということになります。

ところで、この「カル素キャラメル」の中身がどういうキャラメルだったのか、調べても今一つわからないのですが、展示している健康をテーマにした他のキャラメルの中に、詳しく中身がわかるものが見つかりました。山星屋コレクションではなく、館蔵品のキャラメルパッケージですが、その名は「ボーイキャラメル」。

パッケージにはキャラメルをもつ西洋人の子どもが描かれていて、なかなかオシャレ。「カル素」とはだいぶん雰囲気が違います。一見パッケージからすると、ミルクキャラメルなんかが入っていそうな気もします。でもボーイキャラメルを裏返してみると、このキャラメルも健康志向キャラメルであることがわかりました。裏面には上の方に「沃度含有」という謎の文字が見えます。ちょっと長いですが、このキャラメルの正体を記した裏面の文章を読んでみましょう(旧字は新字、旧仮名と新仮名に改め、適宜句読点を補いました)。

弊社製菓部に於て発売するボーイキャラメルは、砂糖水飴煉乳バター牛乳等滋養品の外、我国独占の海産物たる昆布の其主要成分として多量に含有する沃度(ようど)を、弊社多年の経験に依り特殊の製法を以て之れを適度に昆入し、之(こ)れに「ピーナツト」を加味し調製したるものなれば、極めて滋養豊富なり。常に用れば身体の疲労を恢復(かいふく)し咽喉(いんこう)を整へ胃腸を調和し且根気を増す。殊に愛児に用れば体毒を駆除し其発育を助長し、身体を強健ならしむ。
猶弊社製品にして夙に抜郡(ママ)の優良品として好評を博しつつあるおいしいこんぶライオンス井ートと共に昆布工業のボーイキヤラメルと御指命の上御愛用の程特にお願致します。
                製造元  大阪昆布工業株式会社

この裏面の文章によると、ボーイキャラメルは、砂糖、水飴、練乳、バター、牛乳などのキャラメルにありがちな素材に、多年の経験を生かして昆布から特殊な製法で取り出した沃土(ようど)とピーナッツを混ぜてつくられているとあります。昆布とキャラメル、ちょっとありえないコラボのように思えますが…。ボーイキャラメルの売りともいえる昆布に含まれている「沃土」とはヨードのこと。ヨードは甲状腺ホルモンの主原料で、子どもの場合、成長ホルモンとともに成長を促す働きがあるそうで、体になくてはならないミネラルとされています。ボーイキャラメルにどの程度の効果があったのかはわかりませんが、それなりの科学的根拠があったということになります。

造血のカル素に身体を強健にする沃土(ヨード)、この二つのキャラメルが販売されていること自体に、昭和初期、現代と似た健康ブームがあったことがうかがえます。ただし、現代とは違ってその背景には、「富国強兵」という国家的な要請があったことを忘れてはいけません。

ところで、調べてみると、現在でも北海道で昆布キャラメルが販売されていることがわかりました。甘さひかえめの普通のキャラメルのようだけど、後味に少しだけ昆布の風味が残るそうです。昆布とキャラメル、ミスマッチのように書いてしまいましたが、そういわれると、少し食べてみたい気もしてきます。

電車が動きました

2011年8月8日

特別展「昭和子ども図鑑」では、展示室の最後に昭和30年代の男の子の部屋があります。男の子の本棚には、当時人気があった子ども雑誌や付録のマンガがたくさん並んでいます。畳にはボーリングゲームがあったり、昭和33(1958)年から東京と大阪を6時間50分で結んだ特急「こだま」のブリキのおもちゃも見えます。男の子はきっと鉄道が大好きなのでしょう。鉄道に乗って、旅行にもよく連れていってもらっているのか、机のまわりには観光地のペナントがはられ、本棚には観光地で売られていた人形なども並んでいます。机には「夏休みの学習」が出されていますが、遊ぶのが楽しくてなかなか手がつきそうもありません。展示の担当者は、そんなイメージでこの子ども部屋をつくりあげました。

子ども部屋の中央には、丸くレールをつなぎその上に機関車が置かれた三線式のOゲージが展示されていますが、先日その機関車が突如動き出しました。そうなんです。このOゲージ、実はコンセントにつなぐとまだ動く現役のおもちゃなんです。まず最初に三線の真ん中のレールに電気を流して走らせていることや、機関車の前後のランプが電流を受け光り、走らせるレールから火花が飛ぶことなど説明して職員が動かしてみます。その次に、その日展示を見ていた子どもたちが実際にOゲージの動かしてみました。自分で電車が動かしているという感覚があるところがおもしろそうです。

Oゲージは昭和30年代のおもちゃなので、毎日長時間走らすことはできません。コンディションを見ながら、会期中不定期で動かす予定です。その際には火花を散らして走るリアルなおもちゃをお楽しみください。

テーマ展「昭和の復興」のお知らせ

2011年8月5日

8月1日(月)から9月中旬(予定)まで、文書展示室にて、「テーマ展 昭和の復興」を開催しています。

  昭和は、二つの復興を成し遂げた時代といえます。一つめは、大正12(1923)年に発生した関東大震災からの復興。そして、二つめは太平洋戦争からの復興です。震災と戦災、この二度の大きな苦難に遭遇しながらも、人々は希望と光を失わず、助け合い、誇りを持ち続けて復興していきました。 当館が収集した資料(絵葉書・雑誌・地図・蓄音機・レコードなど)を中心に、昭和の復興に関する資料を紹介します。幾たびの苦難に遭遇しながらも、互いに助け合って、次世代につないだ人々の姿を、資料を通じて感じ取っていただければ幸いです。

<展示構成>

1 関東大震災

 2 関東大震災後の復興

 3 昭和と戦争

 4 戦後の復興

(1)    戦後の創刊雑誌 

(2)    GHQと雑誌 

(3)    女性の解放と雑誌

(4)    映画・演劇・スポーツの復興

 5 復興の象徴―東京オリンピックー

 6 昭和とレコード

<主な展示資料>

(1)   蓄音機 (昭和初期)  個人蔵・当館寄託

大正デモクラシーによって大衆文化の象徴となった蓄音機です。昭和に入って家庭に普及し、戦後にかけて流行した歌などを奏でて、人々の心を癒しました。

(2)  大東京完成記念発行「大東京名所絵葉書集」(昭和7(1932)年 主婦の友社発行)                         個人蔵・当館寄託

 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こりました。それから、わずか7年後の昭和5(1930)年に東京は復興し、コンクリート製の近代建築が建ち並ぶ美しい大都市となりました。完成を記念して発行された絵葉書

(3)テレビィファン(昭和13(1938)年 山中電気株式会社発行)個人蔵・当館寄託

 昭和恐慌のため、日本経済は悪化していきました。昭和12(1937)年には日中戦争が始まりました。その翌年に創刊された雑誌。国内ではラジオが普及していて、テレビはまだ実用化はされていませんでした。当時まだ珍しいテレビを紹介する目的で発行されましたが、南京陥落直後だったため、中国で撮影された多くの写真を掲載しています。

(4)    李香蘭「夕月乙女」(昭和17(1942)年 コロンビア)個人蔵・当館寄託

 作詞:西条八十。作曲古賀政男。昭和17(1942)年には、14歳以上の女子学生を動員する国民動員実施計画が決まりました。当時の人気歌手李香蘭が、厳しい現実とはうらはらに可憐な乙女心を歌っています。

(5)    句刊ニュース(昭和21(1946)年 東西出版社発行)個人蔵・当館寄託

戦後、家族や生活基盤を失った人々の心の支えは、次世代を担う子供たちでした。廃墟にたたずむ子供の写真と次のような詩を掲載しています。「子供を拝む 戦争は終わった 昨日は過ぎた 子供を拝まう 円光を負ふ子供を! 廃墟の土にひれ伏して 飢えと寒さと絶望の涙のすきまから 笑ひかける子供を拝まう」

(6)ベースボールマガジン(昭和21(1946)年 恒文社発行)個人蔵・当館寄託

戦争のため、プロ野球選手の戦死が相次ぎましたが、戦後のプロ野球や大学野球試合が復活し、人々は希望を期待に胸を膨らませました。

(7)レコード:「東京オリンピックの歌―この日のためにー」・「東京オリンピック音頭」(昭和37(1962)年 ビクター) 個人蔵・当館寄託

 世界中へ日本の復興を伝えたのは、昭和39(1964)年の東京オリンピックでした。

 テーマソングを三浦洸一・安西愛子・ビクター合唱団の歌による「この日のために」と橋幸夫・市丸・松島アキラ他の歌による「オリンピック音頭」を収録しています。

 東京オリンピックの成功は人々に自信と誇りを取り戻し、高度経済成長からさらなる日本の発展へとつながっていきました。

お菓子な史料4 オモシロイハコ(後編)

2011年8月2日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

前回紹介した「オモシロイハコ」の正体は、みなさんもお気づきのとおり、自動販売機ということなります。「夕刊報知新聞」でノンキナトウサンの連載が始まった翌年の大正13(1924)年に、はやくも中山小一郎が発明した袋入り菓子の自動販売機のキャラクターとして採用され、全国の菓子店の店頭などに1000台程度が設置されたことがわかっています。広い範囲で普及した最初の自動販売機といえます。

 

正面から見て右側面の扉を開けてみると、内部の構造がよく分かります。1銭銅貨を入れると、ゼンマイ仕掛けで写真に見えるドラムが回転して、お菓子が出てきました。

よく見ると、確かにゼンマイネジをなくさないように紐で結んでいます。ネジをまいた状態にしてコインと投入させたのでしょう。

また、内部の左上を見上げてみるとベルが見えます。おそらくはベルの上に突き出た鉦(かね)でたたく「チンチン」という音とともにお菓子が落ちてきたものと思われます。取り出し口に落ちてくるのは、多くの文献では袋入りの菓子だったと記されています。しかし、前回紹介したように山星屋の史料には「お菓子/玩具/キャラメル」とあるのが気になります。ドラムの一つ一つの小さな空間に、袋入り菓子、玩具、キャラメルをアトランダムに入れたとしたら、何が出てくるのか分からなくなります。あるいは何が出てくるのか分からないという楽しみがこの自動販売機には加味されているのかもしれません。

ところで、この普及型の自動販売機、古いにもかかわらず、1000台も普及したということもあってか、数台は遺っているようです。兵庫県立歴史博物館の入江コレクションとなんでも鑑定団で知られる北原照久氏のコレクションにあるノンキナトウサンの自動販売機はほぼ同じ形状で、手に帳面をもった姿として描かれています。そして、お金の投入口がある面には、「自動販賣器」、「リンノナル内ハ/入レテモ出マセン/一銭入レルト/御菓子ガ出マス」と記されています。しかし、山星屋コレクションのものは、同じノンキナトウサンの自動販売機とはいえ、入江コレクション、北原コレクションと形状が異なっています。

インターネットで探っていると、もう1台、ノンキナトウサンの自動販売機が見つかりました。その形状は一見、入江・北原コレクションのものと似ていますが、右手は帳面ではなく、鈴をもっているなどの違いもあります。そして、この史料にはありがたいことに銘板の画像がついていました。それを読むと、「實用新案登録願第二四三七號/自働販賣看板/製作ト販賣ハ/東京 滝野川田端一七一/□□看板店」とあります。このノンキナトウサンの自動販売機は東京で製作されたことがわかります。

山星屋コレクションのものも銘板が付いていますが、残念ながらかすれていて部分的にしか読み取ることができません。読める部分だけ示すと、「廣告塔自動菓子販賣機」とかすかに読めますが、製作者の名前はほとんど読むことができません。ただし、二つの銘板からは、ノンキナトウサンの自動販売機が「看板」や「広告塔」としての役割ももっていたことがわかります。また、中山小一郎が発明した袋入り菓子の自動販売機は、もしかしたらいくつかのメーカーでつくられていたのかもしれません。遺されているノンキナトウサンの形状やデザインが違うのは、そのことを裏付けているようにも思えます。

参考文献
北原照久『20世紀我楽多図鑑』(株式会社PARCO、1998年)
『新世紀こども大博覧会』(兵庫県立歴史博物館、2003年)

「秋季特別展プレ展示 邪馬台国時代の松山平野」開催中!!

2011年8月1日

  7月16日(土)より考古展示室にて「秋季特別展プレ展示 邪馬台国時代の松山平野」を開催しております。この展示は、10月8日(土)から開催予定の秋季特別展「邪馬台国時代の伊予・四国」の開催を前に、松山平野の2~3世紀の集落遺跡にスポットを当て、邪馬台国時代の松山平野、特に集落遺跡の発掘調査成果を展示しています。

 

展示構成は次の通りです。

1 邪馬台国の時代とは?

   (1)邪馬台国時代の土器 

2 卜骨とまつりの道具

  (1)卜骨/(2)まつりの土器/(3)銅の矢尻・骨の矢尻

3 くらしの道具と土器

   (1)漁の道具/(2)米作りの道具/(3)変わった形の土器 

4 運ばれた土器と交流

  (1)畿内系の土器/(2)吉備系の土器/(3)讃岐系の土器/(4)山陰系の土器/(5)松山平野の土器    

6 土器の棺と大型器台

   (1)土器の棺/(2)装身具/(3)大型器台のまつり/(4)分割した鏡/(5)卑弥呼の鏡

   この展示の目玉資料は、中国の歴史書『魏志』倭人伝に記された当時の人々のくらしに使った道具を、当地域出土資料を通して紹介しているところです。

   一例を挙げると、宮前川遺跡群で発掘された卜骨(ぼっこつ)は、シカの肩甲骨(けんこうこつ)に孔(あな)を開(あ)け、焼いてできる亀裂によって吉凶(きっきょう)を占ったものです。『魏志』倭人伝には、「輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆」(輒ち骨を灼きて卜し以て吉凶を占う。先ず卜する所を告ぐ。其の辭は令龜の法の如く、火坼を視て兆を占う。)と記されています。

宮前川遺跡出土卜骨(全長16.1cm/当館保管) 

   展示は9月下旬までの予定です。特別展開催期間中は第2会場として、若干資料を変更する予定です。特別展のひと足前に3世紀の松山平野の資料をご覧いただき、当地域の歴史を再発見していただければ幸いです。

    また、10月8日から開催予定の特別展も是非ご覧ください。

お菓子な史料3 オモシロイハコ(前編)

2011年7月30日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

現在、企画展示室の入口には、帽子に丸めがねで、着物に下駄を履いたおじさんが描かれた不思議な物体が置かれています。おじさんの上には「ぼっちやん、ぢようちやん、入れて見ませう、でました、でました」の文字があります。

裏側にまわってみても、やはり同じおじさんが描かれています。でもおじさんの上に記された文句は少し違っていて、「入れて見ましよう、おもしろいものがたくさん出ます」とあります。

正面からみて右側面には文字が全く記されていませんが、扉のようなものが見えます。この扉を開けるとどのようになっているのでしょうか。

正面からみて左側面には、水色の部分に赤色の文字で「オモシロイハコ/入れて見ましよう!/でましたでました」、その下の茶色の部分に黄色の文字で「お菓子/玩具/キャラメル」とあります。また、左上にはコインの投入口のようなもの、下の方には取り出し口のようなものが大きく開いています。このあたりで、この不思議な「オモシロイハコ」の正体に気づいた方も多いでしょう。

その正体を明かす前に、表裏に描かれたおじさんから説明すると、このおじさんは「ノンキナトウサン」といいます。今でこそおじさんのことを知らない人も多いかもしれませんが、大正末から昭和初期にかけては知らない人がいないという程の人気キャラクターでした 。ノンキナトウサンの誕生は、大正12(1923)年。麻生豊が「夕刊報知新聞」紙上で連載した新聞漫画で、とぼけたキャラクターが人気を呼びました。そのことを背景に考えると、この「オモシロハコ」はキャラクター広告の走りともいえそうです。それでは次回に「オモシロハコ」の正体を明かします。

お菓子な史料2 唐饅頭の菓子缶

2011年7月29日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

今回の展覧会では、古い菓子の箱や缶がたくさん展示室に並んでいますが、そのいずれもカラフルなもの。エンゼルあり、ランナーあり、キャラクターあり、パッケージのデザインもどれをとってみてもなかなか凝っています。そんななか1点とても地味な菓子缶があります。展示室でずらりと並んだ史料の中で見過ごされそうな地味さ。全体が黒づくめの缶にうっすらと文字が見えます。全体の印象としては、キャンプに行ってご飯を炊くのに使う飯ごうみたいとでも言えばいいのでしょうか。

その飯ごう、じゃなかった、菓子缶に書かれている文字を少し読んでみると、驚くべき事実が。なんと「宇和島名産 元祖 唐饅頭」とあるではありませんか。地味などと言ってすみません。ご当地の菓子缶でした。

まず缶の表側に記された文字を読んでみましょう。上部は横書きで右から左に「賜宮内省御用品之栄/明治四十年十月十七日以降/元祖」とあります。下部は縦書きで「宇和島名産/唐饅頭/陸軍御用」とあります。

缶をぐるっと180度回転させて、裏側も見てみましょう。こちらにも文字があります。読んでみると、上部は表側と同じ横書きで「於内外国各博覧会共進会/金銀賞牌五十餘個/賞状六十餘枚受領」と見えます。下部は縦書きで、「清水閑一郎謹製/本店/宇和島市追手通電五三三番/支店/宇和島市樽屋町電二一九番/出張店/宇和島市樺崎船客待合室内」と読めます。

唐饅頭(とうまんじゅう)は、砂糖・卵などを混ぜてこねた小麦粉の皮で餡を包んで両面を焼いた焼菓子で、宇和島と香川県の観音寺の郷土菓子として知られています。この菓子缶に登場する清水閑一郎商店のものは特に有名で、数々の賞を受けており、追手通に本店、樽屋町に支店を構えるだけでなく、交通の大動脈であった樺崎の船の待合室にも販売所を設けていたことがわかります。清水閑一郎商店を調べてみると、愛媛県生涯学習センターのHPの中に、清水閑一郎氏の孫に当たる清水和氏からの聞き取りが掲載されていることがわかりました。唐饅頭の製造方法など詳しくは、そのHPをご覧ください。

http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=7&P_FLG1=2&P_FLG2=1&P_FLG3=2&P_FLG4=5

聞き取りによると、閑一郎氏が唐饅頭をつくり始めたのが明治初め頃。明治40(1907)年頃に宮内省の御用品になったのでしょうか、そのことが缶には誇らしげに記されています。また、缶には「陸軍御用」の文字が見えますが、陸軍御用の意味について、聞き取りには次のように書いています。

昭和12年から日中戦争が始まり、次第に物資不足になっていましたが、特別に材料をいただいて、出征(しゅっせい)兵士の慰問用に陸軍省に納入していたそうです。当時は、宇和島中のお菓子屋さんが唐饅をつくっていたので、陸軍省のお声掛かりだというので各店でつくってまとめて納入したようです。

つまり、この「陸軍御用」の文字が入った唐饅頭の菓子缶は、出征兵士の慰問用につくられたものだったのです。郷土から送られてくる菓子を、戦地で兵士たちはどのような思いで食べていたのでしょうか。

なお、菓子缶とほぼ同時代と思われる昭和10(1935)年刊行の浅井伯源著『伊豫乃宇和島』(愛媛郷土研究会)にも清水の唐饅頭は登場していて、次のように記されています(旧字は新字、旧仮名は新仮名に改めました)。

宇和島の銀座、追手通清水商店の唐饅は、その高雅、優秀なのを以て夙(つと)に有名で、宮内省、陸軍省等の御用達の名誉を担っている、別に同店で製造する名菓に「柚練り雲の袖」がある、香味絶佳、唐饅と共に宇和島のお土産たる価値が満点である。

慰問用として戦地に送られていた菓子缶が遺ることは、極めてめずらしいことと思います。調べてみると、地味ではありますが、唐饅頭の菓子缶自体が貴重な歴史の証言者であることがわかってきました。

お菓子な史料1 栄養保健菓子ラクダ化粧箱

2011年7月27日

特別展「昭和子ども図鑑」でお借りしている山星屋コレクションの中から、おもしろいお菓子史料のいくつかを紹介します。

 

最初に紹介するのは、赤い色とラクダのシルエットが印象的な化粧箱。ついつい「ダクラ」と読んでしまいそうですが、古いパッケージは右から左に文字を読まなければなりません。つまり、「ラクダ」。かわった商品名です。そして、気になるのは「栄養保健菓子」の文字。栄養保健菓子って、どんなお菓子なんでしょうか。

それを調べていると、昭和8(1933)年12月27日付の「台湾日日新報」の記事が見つかりました。この記事にはまず、台湾総督府専売局の技師であった大津嘉納氏が10年の研究の結果、台湾バナナから粉末バナナを精製することに成功、その専売特許を得たとあります。次に、内地における粉末バナナの一手販売権を得た新高製菓が、粉末バナナを混入したラクダというお菓子を発売したとあります。つまり、「栄養保健菓子 ラクダ」の正体は粉末バナナ入りの菓子だったということになります。考えてみると、栄養価の高いバナナは朝食の代わりに食べる人が多いので、粉末バナナ入りの菓子は確かに「栄養保健菓子」の称号にふさわしいように思えます。

そういえばあのグリコも、動物のエネルギー代謝に重要なグリコーゲンが入った「栄養菓子」として大正11(1922)年に発売されています。大正時代から昭和初期にかけて、お菓子は単なる嗜好品というよりも、なにがしか体のためになる食品とされていたようです。少し薬にも似ているようです。

ところで、「ラクダ」という商品名。「ラクダ」は体に必要な栄養を脂肪にかえて、背中のこぶに貯め込んでいるそうですが、「栄養保健菓子 ラクダ」を食べると、体の中に栄養を貯めておくことができる、そんなイメージでしょうか。貧しい食生活だった昭和初期において、子どもに与えるお菓子には現代以上に切実な願いがこめられていたのかもしれません。