四国八十八箇所霊場第43番明石寺から第44番大寶寺に向かう途中、愛媛県大洲市東大洲にある「十夜ヶ橋(とよがはし)」(永徳寺)は、古くから弘法大師ゆかりの四国霊場として知られています。
大正6年(1917)の四国遍路道中図(駸々堂版、当館蔵)には「番外 十夜のはし」(写真①)、昭和13年(1938)の四国遍路道中図(渡部高太郎版、当館蔵)には「番外 十夜橋 四十三番ヨリ六里七丁」(写真②)とあり、遍路が巡拝する番外霊場として記載されています。


昭和18年(1943)に刊行された宮尾しげをの遍路記『画と文 四國遍路』には、次のような記述があります。
「お遍路さんが有難がる十夜の橋を見たいので通り掛りの自動車に乗る。弘法大師が、行き暮れてこの橋の下で一夜野宿したが、その一夜が十夜ほどに覚えたといふので、十夜が橋の名がある。原つぱの中に堂があり橋がある。遍路は、この橋を通る時には、弘法大師にあやかるようにと、この橋の下をわざわざ潜って行く、橋の上を渡る時には、もつたいないお姿ですと云つて、ついてる金剛杖を上にあげ、突かずに歩く『杖をつくとその響きで、橋の下の大師さまがおやすみになれない』からであるさうな。」
本書からは、四国霊場の中でもとりわけ有名な番外霊場として篤く信仰されていること、遍路は橋の上では金剛杖を突いてはいけないとされる十夜ヶ橋の弘法大師伝説が広く浸透されていることがわかります。
十夜ヶ橋について江戸時代の案内記・絵図類を確認すると、貞享4年(1687)の真念『四国邊路(へんろ)道指南(みちしるべ)』に「とよか橋、ゆらい有」と記されていますが、詳しくは語られていません。真念が遍路の功徳話を収集してまとめた、元禄3年(1690)の『四国徧禮(へんろ)功徳記』にも紹介されていません。しかし、宝暦13年(1763)の細田周英「四国徧禮絵図 全」には「トヨガハシ大師一夜トマリナサレシ所」(写真③)と弘法大師伝説が紹介されています。

寛政12年(1800)の『四国遍禮名所図会』には「十夜の橋 大師此辺にて宿御借り給ひし此村の者邪見ニて宿かさず。大師此橋の下ニて休足遊ばしし所、甚だ御労身被遊一夜が十夜に思し召れ給ひし故にかく云。大師堂 橋の側にあり」と記され、小川に架かる橋のたもとにある小堂(十夜ヶ橋大師堂)に参拝する阿波(徳島)の遍路(本書の作者と見られる)の姿が挿絵に収録され、江戸時代後期の十夜ヶ橋の様子をうかがい知ることができます。
明治末~大正初期の絵葉書「弘法大師霊場 十夜橋」(写真④、個人蔵)には、肱川の支流である都谷川(とやがわ)に架かる小さな橋の石柱には「十夜橋」と記されています。橋には欄干はなく、両端の石柱に縄がかけられ、納札のような紙がたくさん結ばれています。橋のほとりには石垣の土台の上に瓦葺方形造の堂が築かれ、『四国遍禮名所図会』に描かれた面影が残っています。

昭和43年(1968)、四国の番外霊場20の寺院が集まり、四国別格二十霊場が創設され、十夜ヶ橋(正法山永徳寺、真言宗御室派)はその第8番霊場に指定され、益々人々の信仰を集めてきました。しかし、平成30年(2018)7月7日の台風7号による西日本豪雨災害のため、十夜ケ橋の境内が水没し、本堂が取り壊されました。その後、有志らによって再建が行われ、令和6年(2024)5月12日に新しい本堂の落慶法要が行われました。
十夜ヶ橋の歴史をふりかえると、江戸時代以降に四国遍路が人々に広まっていく中で、四国霊場の形成や発展がどのようになされたのか、また、弘法大師伝説と四国遍路の習俗との関係性、災害と霊場・札所の復興など、四国遍路のさまざまな点について考える上で大きな示唆を与えてくれます。


































