石川勉強堂さんよりの聞き取り1(ぬりえ)

5月 7日 月曜日

 5月4日の朝、ぬりえやきせかえの版元で、今も東京都台東区にお店がある石川勉強堂の石川富也さんがご来館されました。今回のテーマ展「紙モノ大図鑑」のポスター、ちらしには「フジオ」のきせかえを掲載していますが、この「フジオ」のきせかえをつくっていたのが石川勉強堂さんだったのです。先日、ポスター・ちらしへのきせかえの掲載を電話でお願いしたところ、ご快諾いただきました。そして、送付したちらしをご覧になり、遠路はるばる東京からご来館いただいたそうです。

 展示をご案内していると、まず黄金バットの双六の前でまず一言。「懐かしいね。」お聞きすると、石川富也さんは石川勉強堂の二代目で、創業者の先代は石川三郎といって、台東区浅草の田原小学校の前で文房具店を開いていたと聞いて、何故勉強堂とつけたか納得。「今から76年前というから古い古い話しです。とにかく狭い店(住居部分と店で7坪)で、文房具兼駄菓子を置いている様な店で、三郎氏は何とか子ども達を呼び集めようと考えたのが、当時子ども達に人気のあった黄金バットをぬりえにしたらどうかというのがそもそもでした。この試みは当たり、子ども達ばかりでなく、露天商、紙芝居屋まで来てぬりえを仕入れて行きました。宣伝には羽子板市に出店を出す知人に頼んで、羽子板の露店の中央に黄金バットの大形羽子板を置き、『黄金バットのぬりえは石川勉強堂』と書いてあちこちに出店してもらいました。」とのこと。お店に残っていた大きな黄金バットの羽子板を先般、下町風俗資料館に寄贈したところ、大変喜ばれたそうです。

ぬりえの展示

 展示室のぬりえのコーナーにさしかかると、「これは二年前にお亡くなりになったきいち(蔦谷喜一)のぬりえですね。きいちのぬりえは最初はうちが版元をしていまして、その頃きいち先生は「フジヲ」を名乗っておられました。その後きいち先生が個人でやられていた時期もありましたが、その後川村山海堂と石川松聲堂と二社が版元となりました。」

 「袋に10円とありますが…」「そう、最初は色刷りの袋に5枚くらいの仙花紙というザラ紙のぬりえが入っていて、5円で売っていました。昭和25年頃から40年頃です。5円では安いので、ぬりえの版元の協定で10円に決まったんですが、やはり5円で売る版元が出たりして、元に戻ってしまったのです。だから大体の値段は5~10円ぐらいということになります。」

 それからきいちのぬりえと一緒に展示している「東京ぬりゑ」と「メリーぬりえ」について。「ひげる画(「東京ぬりゑ」)と書いてありますが、この絵描きさんは聞きませんね。「東京ぬりゑ」というネーミングからして、おそらく名古屋あたりの版元でつくられていたものだと思います。名古屋にもきせかえやぬりえを扱っている版元がありました。ぱっちりした目で、顔が大きく、足が太く描かれているでしょ。このあたりはきいちのぬりえを意識して、似せてつくっていると思いますよ。それだけきいちのぬりえの人気があったということです。」

 今回再現した雑貨屋さんをのぞいて。「あそこにきいちのぬりえが帯封つきで並べてありますね。帯封まであるのは珍しいですよ。昔は10袋をセットとして帯封をして、駄菓子屋さんにおろしていましたから、個人のコレクターからの品ではないと思いますよ。」

帯封のついたぬりえ

 次回はきせかえについて、お尋ねします。

予告編「異界・妖怪大博覧会」2 相撲をとる河童

5月 6日 日曜日

 資料名は「和漢百物語・白藤源太」。香川大学附属図書館神原文庫所蔵。月岡芳年が慶応元(1865)年に描いた錦絵である。白藤源太は上総国(千葉県)出身で、江戸で活躍した力士。河童と相撲をとって取り押さえたという。この錦絵は、そのような源太の逸話を表現したものである。

 河童が相撲を好むという話は、愛媛県内の伝承でも確認できる。例えば、内海村(現愛南町)では、河童(エンコ)が子どもをつかまえて相撲をとっているうちに、頭の皿の水がこぼれてしまい、河童は急に力が出なくなったので、子どもは逃げることができた、という話がある。

 これを描いた月岡芳年(つきおか よしとし)は、天保10(1839)年生、明治25(1892)年没。幕末から明治前期にかけて活躍した浮世絵師である。

※企画展「異界・妖怪大博覧会」は、7月10日(火)から9月2日(日)まで開催!

こどもの日イベントはじまりました

5月 4日 金曜日

 昨日、5月3日から、れきはくこどもの日イベントがはじまりました。小中学生を対象としたよろい・かぶとの全身着用体験、展示をみながらクイズに答える「れきはくクイズラリー」、その他、実際にかぶれる大きさのかぶとを折る折り紙教室や、紙切り遊びでおもしろい模様のコースターを作るワークショップを実施しました。

ワークショップ実施風景…家族連れが多く参加していました。

よろい兜着用体験…ちなみに手前に写っているのは某TV局の記者さん。昨日取材にきてくれました。

 ゴールデンウィークは、年間で最も入館者が多い時期の一つです。職員もイベントの運営、数多くのお客様の対応等で少々疲れてきておりますが、あと2日間頑張ってれきはくの活動をPRしていきたいと思います。

予告編「異界・妖怪大博覧会」1 河童狛犬 

5月 2日 水曜日

 当博物館では、この夏(平成19年7月10日~9月2日)に、企画展「異界・妖怪大博覧会―『おばけ』と『あの世』の世界―」を開催します。

 「百鬼夜行絵巻」や「稲生物怪録」、「今昔続百鬼」、「夜窓鬼談」等の妖怪関係資料に加え、愛媛県内のお祭りに登場する「鬼」・「ダイバ」や、怪異伝説(河童・天狗など)を紹介するとともに、「地獄図」や「幽霊図」など、日本人が抱いてきた伝統的な異界・他界観にまつわる資料を展示する予定です。

 このホームページでも、展示のお知らせを兼ねて、複数回にわたり、展示予定資料の紹介をしていきたいと思います。

 さて、第1回目の紹介資料は、河童の狛犬(複製・原資料は西予市明浜町高山若宮神社蔵)。この狛犬は、河童が鯛(たい)を抱えた形をしています。河童の狛犬は全国的にも珍しく、岩手県遠野市の常堅寺・長崎市の諏訪神社と愛媛県西予市明浜町の若宮神社の3例のみといわれています。

 若宮神社の御祭神である宇都宮修理太夫正綱が、いたずらをしようとした河童(地元ではエンコと呼んでいます。)を助けると、そのお礼にと、河童が毎日、鯛を持ってきたという伝説があり、それに由来して、この若宮神社の狛犬は河童の形をしています。

 河童の狛犬は、明治14年に製造・寄進されたもので、原資料は西予市有形民俗文化財に指定されています。愛媛県内を代表する伝説関係資料として貴重な民俗文化財です。

収蔵資料紹介 窯道具パズル

4月 30日 月曜日

パーツ

 これはやきものを焼成するための窯道具です。ツクやトチンといわれる棒のような土台にタコ足のようなタコハマという道具を組み立てます。その上に碗と皿を積み上げます。碗と皿の間には、ハマという道具が挟まれています。これは、製品同士がくっつかないようにするためのものです。よくみると、皿や碗の中央に5つの点の傷がありますが、これがハマの痕跡です。
 この焼き方は、登り窯の狭い空間で、たくさんの製品を効率よく焼くために江戸時代後期に肥前で考案された方法で、近代にかけて砥部焼(砥部町)や三島焼(伊予市)、則之内(すのうち)焼(東温市)、御荘(みしょう)焼(愛南町)、三間(みま)焼(宇和島市)など、たくさんの窯で使われていました。
 この模型は、三間焼の窯道具をもとに復元した、当館のオリジナルです。三間焼は、明治24~34年頃に現在の宇和島市三間町土居中に所在した窯のやきもので、砥部焼の窯業技術の影響をうけて磁器の日常雑器を中心に焼成していました。
 近日、新体験学習室に登場いたします。それぞれ磁石でくっつくようになっていますので、ぜひ手にとって組み立ててみてください。この機会に、やきものを焼くために重要な役割を果たしていた、縁の下の力持ちの窯道具ついても興味をもっていただければ幸いです。

村上節太郎写真12 韓国済州島の海女 昭和21年

4月 29日 日曜日

村上節太郎写真1-36
 三崎(伊方町)の海士(あま)の歴史は古く、天保4(1833)年の記録には、三崎浦全体で30人程の海士がおり、年間6000程のアワビが献上されていたことが記されている。明治時代に入ると、海士は毎年80隻、200名前後が韓国に出漁するようになる。韓国への出漁は昭和15年で終わり、戦後再び三崎近海に戻り、あわびやさざえを獲っている。

 写真は松(伊方町)の海岸で撮影されたものであるが、実は三崎の海士を撮影したものではない。三崎地域の海士は普通「海士」と書くように、男性がほどんどである。この写真が貴重なのは、韓国済州島の海女、チャムスを撮っていることである。チャムスは昭和10年から20年代半ばまで三崎の沿岸まで出稼ぎに来て、てんぐさやあわびなどを獲っていた。写真を見ると、女性は中央に肩紐が付いたワンピース型の木綿の水着を着ている。これはチャムス独特の仕事着で、「ソジュンギ」といわれるもの。足元にはタンポと呼ばれる木製の浮樽も見える。村上節太郎はほとんど写真が残っていない三崎におけるチャムスの姿を見事にカメラで記録している。

村上節太郎写真11 瀬戸内海のシバリ網 昭和12年

4月 28日 土曜日

村上節太郎写真7-389
 「ウオジマ」という言葉がある。4月から5月にかけて、瀬戸内海の中央部に産卵のために群れをなして集まるタイが、まるで島のように見えたことから名付けられた言葉である。この時期のタイは身が肥えて脂がのり赤味が増していくことから桜鯛と呼ばれ、燧灘には桜鯛を目指して瀬戸内一円の漁師が集まった。

 写真はタイの群れを一網打尽(いちもうだじん)にするシバリ網漁を撮影したもの。二千枚の木の板をつけた網でタイをおどして一カ所に集めて、約1600mもある別の網で取り囲み、掛け声とともに網を絞っていく。10隻で60~70人の漁師が集団で行う勇壮な漁で、一網数千匹のタイが捕れることもあったという。戦後の乱獲や生育する藻場の減少により、タイの漁獲は次第に減っていった。大量の人数と資金が必要なタイ網も減少の一途をたどり、昭和40年代には完全に姿を消した。村上節太郎が撮影したのは、今治市桜井の漁師のタイ網であるが、その本拠地であった比岐(ひき)島では現在は民家3軒だけになっている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月20日掲載分:一部加筆修正)

体験学習室リニューアル作業

4月 27日 金曜日

本日、5月3日の新体験学習室のオープンに向け、そこに展示する石臼を民俗収蔵庫から運び出しました。しかしこれが重いのなんの…。初め、二人で持ち上げようとしましたが、ビクともせず、結局職員七、八人で台車に載せ運び出しました。

こちらは、運んだ石臼を設置した後の様子です。

体験学習室は、エントランスホールの一番奥にでき、場所も以前より1.5倍ほど広くなります。そして、なおかつ無料で入室できるようになります。この場所から、子どもたちの元気な声が聞こえてくるのももうすぐです。

もうひとつの忽那文書を収蔵

4月 26日 木曜日

 現在、秋に開催予定(10/6~12/2)の企画展「戦国南予風雲録」に向けて様々な資料調査や写真撮影を進めているところです。
 そんな中、先日、松山市の佛性寺へ古文書の調査・撮影のためにうかがいました。当寺は、最澄に師事し晩年に延暦寺別当となった地元出身の光定上人が、天長6(829)年に勅により開創したと伝わる天台宗の古刹です。

佛性寺

 といっても、調査資料は実は当寺とは内容的に全く関係のない、天正7(1579)年4月20日付、河野通直(牛福)が忽那亀寿に宛てた感状です。

河野通直(牛福)感状

 宛先の忽那氏は元々本来忽那諸島(松山市中島)を本拠とした在地領主で、当時はすでに河野氏の配下となっていました。この頃、河野氏は毛利氏の助力を得ながら喜多郡北部肱川下流域で対抗勢力と軍事衝突や調略戦を繰り返していました。その相手は「大洲旧記」や「河野家譜」など後世の編纂物類によると土佐長宗我部氏の支援を得た大野直之の勢力といわれますが定かではありません。4月15日、花瀬城(大洲市北只)において合戦があり、河野方は敗北、そこで忽那式部少輔(通著)が奮戦するも討死したことが内容から分かります。この感状は、その功績を賞する旨を、息子の亀寿に対し伝えた文書です。忽那氏当主の子息に宛てていることから、当然最初は忽那家に所在したはずで、その意味でいえば現在知られている「忽那家文書」や「忽那とら文書」などと元は一連のものであったと考えられます。つまり、もうひとつの忽那文書ともいえるでしょう。
 約1年半前に1度簡単な調査にうかがったことがあったのですが、今回あらためて展示に向けた調査にうかがったところ、御住職から思いもかけず寄贈の申出をいただきました。当館には、戦国末期の河野氏と喜多郡の関係を示す資料としてすでに「柁谷家文書」を収蔵していますが、喜多郡の中世を物語る貴重な資料をもうひとつ収蔵できることとなりました。詳しい資料解説についてはまた別の機会に譲りたいと思います。
 秋の企画展ではもちろん展示を予定しておりますので乞うご期待!

夏の企画展「異界・妖怪大博覧会」展示予告

4月 25日 水曜日

本日、エントランスホールにて、夏の企画展「異界・妖怪大博覧会―『おばけ』と『あの世』の世界―」(7月10日~9月2日開催)の館内広報を兼ねた「展示予告」として、展示予定資料の写真パネルを設置しました。

作業は、博物館ボランティアさんのご尽力で非常にスムーズに進み、無事完了しました。ボランティアの皆様、感謝、感謝です。

企画展の予告編として、幽霊・地獄・妖怪などに関する写真パネルを40点掲示しています。企画展開幕直前の6月下旬まで掲示予定です。

ゴールデンウィークの「こどもの日イベント」や、「紙モノ大図鑑」展などで、博物館をご利用の際には、エントランスホールでぜひご覧下さい。