端午の節句といえば、空を気持ちよく泳ぐこいのぼり。
最近は住宅事情のせいか大きなこいのぼりが泳ぐ姿はめっきり少なくなってきていますが、ここ数日お天気もよいせいか、博物館の周辺でもちらほらこいのぼりの姿を目にするようになってきました。
当館でも鯉のぼりを数点収蔵していますが、今年はぜひ展示してみようと思い立ち、まず、収蔵庫から取り出して資料の状態を確認し、展示のために準備をはじめました。
まず、口の直径が1mを超える大きな鯉のぼりをボランティアさんに手伝っていただきながら、口の部分を縫いつけます。
こちらの鯉は、昭和24年生まれの方のもの。布に痛みがみられたため、ボランティアさんと相談しながら当て布をして応急補修をしました。
この鯉たちをどんな風に泳がせようかと思案中です。
鯉のぼりを準備中です
2009年4月14日ひな飾りから五月飾りへバトンタッチ
2009年4月12日 閉館後、民俗展示室2の民家内に人影が・・・。
各民家内に飾られていたひな飾りを片づける作業中です。作業も3日目、みんな疲れているせいか、黙々と人形や道具を箱に納めていきます。そして片づいた部屋では、引き続いて五月飾りの展示作業に移ります。
奥に見える人形は、楠木正成・正行親子の「桜井の別れ」の様子をあらわした人形。
手前には、愛媛県南予地方で端午の節句に供えられるサンキラ餅を展示しています。(お餅をサルトリイバラの葉で包んで蒸したもので、しば餅とも呼びます)
松山物産博覧会と松山城古写真
2009年4月11日 明治11年4月10日~5月29日まで、松山城で物産博覧会が開かれました。松山城は、明治6年に廃城とされましたが、愛媛県の請願により、翌年に公園とすることを認められました。博覧会の様子を当時の新聞記事から紹介しましょう。
富国強兵、殖産興業をスロ-ガンとする明治政府は、明治10年に東京上野で内国博覧会を開催しました。その後も地方での博覧会開催に力を入れました。松山で開催された物産博覧会は、出品点数約4,200点。4月25日には、西南戦争で政府軍として熊本城を死守した陸軍少将谷干城も立ち寄っています。その後も追加品が加わりました。その一つが名古屋城の金鯱(きんしゃち)です。大分県での博覧会後、愛媛県での展示となったため、開幕には間に合わなかったのです。5月4日に三津浜より金鯱が松山公園に引き揚げられました。松山博覧会社と書かれた幟を先頭に、大きな車に金鯱をのせて牛三頭に引かせました。賑やかな行列だったようです。人出も4月25日980人、26日960人、28日1,310人、5月5日1,753人、6日1,567人、21日2,398人、22日3,138人と、後半の集客が目立ちます。
こうした博覧会の光の部分とは対照的に、陰の部分もありました。それは「蝦夷人種の生き人形」です。生身のアイヌ人たちを見せ物にしたのです。まさに人間展示です。こうした背景には、植民地主義や人種差別といった様々な問題意識が存在しています。万国博覧会でも1889年のパリ万博から人間展示が始まっています。近年、博覧会をテ-マにした研究が多いのも、博覧会に内包された歴史的課題の存在にあります。
最後に、明治10年、つまり松山公園物産博覧会の前年に撮影された松山城本丸の写真を紹介しましょう。本資料には裏書きに「明治十年松山ノ写真師桂城思風君撮影セリ 小林守門 印」とあります。イギリスのケンブリッジ大学に、明治16年に松山城本丸を撮影した写真が存在しますが、それをさらに遡る最古級の松山城本丸写真と言えます。開園当初の公園の様子、博覧会前年の公園の様子を知ることができ、近代における松山城の変遷を知る上で、大変貴重な資料です。なお、本資料は現在常設展示しています。
「伊予勝山城」(当館蔵)
「展示室がリニューアルしました!」
2009年4月10日 以前ブログでお知らせした民俗展示室2のリニューアルのご報告です。
今回のリニューアルで、壁面にパネルを展示できるスペースと、実物資料を展示する展示台を設けました。
リニューアルの作業は、休館日の3月30日(月)に行いました。今回のリニューアルのような大掛かりな展示替えや、展示の点検、補修作業などのメンテナンスは、来館者の方のご迷惑にならないように、閉館後や休館日に行います。
こちらが、改修前の壁面の状態です。床などを汚したり傷つけたりしないよう、シートが張られています。
次に映像のモニターを外します。外したモニターやスイッチは大切な部品です。保管しておき、別の展示で再利用します。
壁面全体を新しいパネルで覆った後、説明文の書かれたシートを丁寧に貼っていきます。
パネルを展示するスペースにコルクを張ります。スペースが広いので、一枚のコルクではカバーできません。二枚のコルクを使います。
その後、展示ケースをはめ込みました。民俗展示室2の床はでこぼこしているので(これは雨上がりの土の様子などを復元しているのです。)、微妙な調整が必要で、業者さんの腕の見せ所です。
最後に資料を展示して完成です!
今回は、海、里、山のくらしの紹介する村上節太郎撮影の写真パネルと、春・夏の食事模型などを展示しました。
今後も、季節や特別展のテーマに合わせて展示替えを行っていきたいと思いますので、特別展だけでなく常設展示にも足を運んでいただければと思います。
まずは今年度の展示のスタート、「えひめ発掘物語Ⅱ&絵で見る考古学―早川和子原画展―」が4月25日から開催します。ぜひ愛媛県歴史文化博物館においでください。
能島城跡に渡ってきました!
2009年4月8日先日、休日を利用して、知り合いの歴史愛好家たちと能島城跡へ上陸を果たしました。
能島城跡
能島城は、言わずと知れた瀬戸内水軍の雄、能島村上氏の本拠で、今治市沖の大島の東岸宮窪の沖に位置する小島です。しまなみ海道(西瀬戸自動車道)の伯方・大島大橋からも遠望できる、国史跡の指定を受けた城跡です。
能島とその南の鯛崎島から構成され、階段状に郭を配した島の周囲を断崖が囲み、島全体が要塞化されています。また、船の係留地となる岩礁には柱穴や犬走りなどの遺構も残っています。
能島は無人島のため、普段は渡ることができませんが、春のお花見の季節には宮窪港から渡船が出ます。実は、能島は桜の名所としても知られ、毎年大勢の花見客で賑わいます。
折角の機会、休日の行楽がてら上陸を果たし、花見兼現状確認を行ったというわけです。
主郭部分
ちょうど桜も満開の見頃を迎え、天気もよく絶好の花見日和で、大勢の人出がありました。この日は渡船の発着場で水軍太鼓の実演もあり、賑わいをさらに盛り上げていました。
また、能島の周囲を船でクルージングすることもでき、芸予諸島の潮流の激しさを間近に感じる貴重な体験もできました。
潮の流れを目にできる
能島城跡・能島村上氏に関する資料は、大島本土の宮窪にある村上水軍博物館に展示されており、博物館前からは潮流体験の船も出ています。村上水軍の世界を堪能した一日でした。
南予の郷土芸能「俵津文楽」
2009年4月5日
本日、西予市明浜町俵津にある俵津文楽会館にて、文楽公演が行われました。この俵津文楽は、県の無形民俗文化財に指定されている郷土芸能です。今回の演目は「奥州安達原三段目 袖萩祭文の段」。約70分にわたる熱演でした。
俵津文楽は別称「すがはら座」。嘉永5(1852)年に地元の伊井庄吾が大坂より人形を数個買い入れて人形芝居を行ったことに始まるといわれています。明治3(1870)年大阪文楽の竹本常太夫(本名近藤浅吉、旧東予市の上市村出身)が、俵津の者との縁組で永住することとなり、「すがはら座」を確立しました。明治19(1886)年には八幡浜の釜倉の「くぬぎ座」の人形頭や衣裳道具等を買い入れ、さらに大正14(1925)年中村勗が淡路島市村六之丞一座一式を譲り受けて「すがはら座」は一段と充実しました。
保存されている人形頭は、動物を含めて100点を超えています。中でも作者の銘が確認されているものが47点あり、人形製作師天狗久、その弟子で天狗弁、由良亀(淡路由良の藤代亀太郎)など明治時代を代表する作品が大半を占めており、人形頭・衣裳道具一式は県の有形民俗文化財に指定されています。
現在、4月上旬に行われる「さくら祭り」に合わせて定期公演を行ったり、他地域の文楽保存会との合同公演等で活躍しています。
※なお、俵津文楽については、当博物館の民俗展示室にて映像を紹介していますし、今年の夏休みには、特別展「歌舞伎と文楽の世界」(7月14日~8月31日)にて展示・紹介する予定になっています。
南予の中世城跡探訪30 ―八幡城跡―
2009年3月28日大津城(大洲城)跡から北西を眺めると、肱川と久米川の合流点を挟んで約500mの対岸に小高い丘が見えます。ここには、八幡城という城がありました。
永禄11(1568)年、宇都宮氏と河野氏の対立を発端に、それぞれに同盟関係にある土佐一条氏や毛利氏も巻き込んだ鳥坂合戦が起こりました。鳥坂峰での本戦で一条氏が敗退した後、宇都宮氏は徐々に河野・毛利勢に押されていきます。小早川隆景は家臣乃美宗勝へ、自らの渡海前に「両城への攻撃は我らが着陣の上で大勢で一度にすべきだ」と伝え、帰国後には「宇都宮両城を初めとして残す所なく思い通りにして帰国した」と述べています。「両城」とは、乃美宗勝が争乱のほぼ収束した頃に宇都宮勢力に宛てた文書に記す争乱の経緯の中に、「大津・八幡両城を切り崩すための支度」を様々にしたことが見え、「両城の足弱・地下人などを私財・雑具もろとも下須戒に送り出す」よう命じています。戦国末期には、大津城とともに八幡城を合わせた両城が宇都宮氏の拠点とされていたようです。
大津城・八幡城は、ともに久米川が肱川へ注ぐ流入口の左右に並存しており、双方が河川交通をはじめとして地域支配の上で重視され、互いに補完し合う存在だったのかもしれません。
八幡城跡(右側の丘)と大津城跡(左側)
両城の間に久米川が流入する
八幡城には、その名の通り旧県社の八幡神社が鎮座しています。江戸時代には、大洲城(旧大津城)を居城とした歴代藩主から、大洲領総鎮守として篤い崇敬を受けました。
八幡神社
また、肱川沿いに約1.5km下流へ下ると、宇都宮神社が鎮座しています。宇都宮氏が本貫地下野国(栃木県)の二荒山神社を勧請したと伝わり、そのため神社にはその由緒を描いた絵巻『日光山並当社縁起』が伝わっています。
宇都宮神社
南予の中世城跡探訪29 ―大津城跡―
2009年3月25日 現在、大洲市の中心部には、平成16(2004)年に復元された4層天守を持つ大洲城がそびえます。大洲藩6万石加藤家13代の居城として、江戸時代には藩政の中心にありました。
一般には江戸時代のお城として知られる大洲城ですが、実は中世から城郭が設けられていました。それが大津城で、別名地蔵嶽(じぞうがたけ)城とも称され、喜多郡一帯を支配した宇都宮氏の本拠となっていました。「大洲」は藩主加藤家入部後に改称された江戸時代以降の地名で、それ以前は「大津」の字が用いられていました。城の麓を肱川が流れ、迫り出す岩場の下に淵を作っていますが、そこには地蔵淵の名が残ります。
肱川と久米川の合流点に位置し、周囲を河川や氾濫原に囲まれた独立丘陵で、防御性に富むとともに河川交通の統制に有利な立地で、なおかつ大洲盆地を広く見渡せるという絶好の要衝にあると言えます。
大津城跡
江戸時代の石垣や復元された天守がそびえます
宇都宮氏は、下野(しもつけ、栃木県)宇都宮氏の分流で、鎌倉時代には伊予守護職や喜多郡地頭職を獲得し、室町時代に入っても幕府の要職を担うこともありました。
戦国末期、最後の当主を豊綱といいますが、彼の時代には守護河野氏と対立し、土佐一条氏を味方に付け、大洲盆地から宇和郡境一帯にかけて大きな争乱が起こりました。永禄10~11(1567~68)年の、鳥坂合戦前後の争乱です。この時、大津城周辺は河野軍勢をはじめ、毛利氏から送られた援軍に攻め寄せられ、最終的には陥落することとなります。
四国平定後、伊予を支配した小早川隆景は、国内の城郭の整理を始めます。その中で、とりあえず残したいと考える主要な10か所の城を示していますが、そこに大津城も含まれています。10城の内、喜多郡内の城は大津城のみなので、喜多郡支配の中心と考えていたのでしょう。大津を中心とした喜多郡の支配は、養子の秀包が担っていたようです。
その後南予を支配する大名たちも、大津城を居城・拠点としました。戸田勝隆は居城とし、藤堂高虎も板島城(宇和島市)・河後森城(松野町)・大津城の3城を南予支配の重要拠点とし、脇坂安治も居城としました。これらの大名たちによって、大津城は近世城郭へと変貌を遂げていきました。そして、元和3(1617)年、加藤家の入部となります。
現在も、復元天守の他に近世以来の建造物が残り、天守に連結した台所櫓や高欄櫓などは国の重要文化財に指定されています。また、周辺の旧城下町を散策すると、各所にさりげなくその名残を見つけることができます。
駕籠の運搬
2009年3月24日新居浜市の旧家から駕籠を寄贈したいとのお話しがありました。そこで先日、早速受け取りにうかがいました。駕籠は周囲に畳表を張り巡らしたもので、土蔵の梁に吊られていました。
まずは、足場を組んで綱をゆるめて、駕籠を少しずつおろしていきます。ようやくおろすと、狭い土蔵の中でうまく回転させながら、ぎりぎりで外に出すことができました。
トラックまでは昔みたいに駕籠をかいていきます。軽い素材でつくられているので、人が乗っていないと二人でも軽々と運べます。トラックに積み込む前に点検したところ、屋根が一部破れていたり、片方の引き戸が失われたりしていますが、全体を掃除すると中に座れるようになりそうです。駕籠は今年秋の展覧会で展示する予定。どのようによみがえるかはお楽しみに。
民俗展示室2がリニューアルします。乞う!ご期待。
2009年3月19日 海のいえなど原寸大の復元家屋のある民俗展示室がこのたび一部リニューアルすることになりました。具体的には、壁面のパネルがガラッと変わります。
詳細はリニューアル後にご報告いたしますが、今回のリニューアルで写真パネルを展示するコーナーを新設します当館所蔵の写真資料のなかでも、特に村上節太郎撮影の写真パネルは、図録だけでなく様々な企画展示やこのブログでも紹介していることもあって、お客様の人気も高く、特別利用の申し込みも多く頂いています。ですが今まで常設展示で紹介するコーナーがありませんでした。
今回のリニューアルにより、いつご来館いただいても目にしていただけるようになります。現在その準備をしていますが、限られた展示スペースの中、資料の選定に、頭を悩ませています。なにせ、 1000枚以上ある写真パネルの中から選ぶのは十数点。しかも、一枚の写真でも「子ども」、「夏」、「宇和島」、「漁業」など、季節や地域などテーマによって見方が様々に変わるのです。例えばこの写真は昭和31年に宇和島市津島町で撮影されたもので「椋名から来る魚売り」とタイトルがついています。
この写真を展示することで「夏」の「子ども」の服装や昔の「商売」の様子、そしてなにより「津島町」の紹介となるでしょう。しかし今回、注目して頂きたいのは中央の女性が持っている棒はかりです。今のように値段シールのついた包装済みの魚をスーパーで買うのではなく、重さあたりいくらといって魚を買っていた時代、必需品なのが、このような「はかる道具」です。
博物館でも棒はかりは収蔵していますが、実物に加えてこのような使用風景を紹介することで、より理解が深まり、身近に感じていただけるのではないかと思います。このように、見る視点によって新たな発見のある写真資料ですが、それだけ、奥が深いということで、選定作業もなかなか進みません。どんどん増えていく展示候補写真パネルは、今後展示替えをすることで紹介していけたらと思っております。 3月31日には新しい民俗展示室2をご覧いただける予定です。「おひなさま」展とあわせてぜひ愛媛県歴史文化博物館へいらしてください。