蚊帳はじめました。

2009年6月30日

 やっと梅雨らしいお天気になりました。
 とはいえ、梅雨とは名ばかりの暑い日が続いていました。窓を開けて網戸で涼しい風を入れてお休みになった方も多かったのではないでしょうか。
 そんな中博物館でも夏仕様に模様替えということで、民俗展示室2の「海のいえ」に蚊帳を吊りました。蚊が入ってくるのを防ぐネットのことを「蚊帳」といいます。
 夏の夜、部屋の中に蚊帳を吊るすと、蚊にわずらわされず、ぐっすり眠ることができました。
 時には捕まえた蛍を蚊帳の中に放して、その光を楽しむこともあったそうです。
 気をつけることは蚊帳を大きく開けて出入りしないこと!!そーっと入らないと、蚊も一緒に蚊帳に入ってしまうからです。

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 蚊帳の中に人がいるのがおわかりでしょうか。ぼんやりとしか見えませんね。
 「蚊帳の外」にいると、中の様子がはっきりとわからないことから、「内情がよくわからない」「仲間はずれ」という意味で「蚊帳の外」という表現を今でも使います。

歌舞伎DEクイズ 解答編

2009年6月11日

先日のブログでのクイズ、いかがでしたか?
 問題となったど派手なきものを、もう少し近くで見てみましょう。

 

 このような裾にスリットが入った歌舞伎衣装を「四天(よてん)」と言います。裾についた房飾りは「馬簾(ばれん)」といい、主役級の役柄の人が着ます。お相撲さんの化粧まわしに少し似ていますね。
 真中で大きく見得をきるのは錘馗(しょうき)様でしょうか。袖の部分に赤鬼の姿も見えます。今にも動き出しそうな姿は、デザインに加えて、立体的な刺繍の効果もあるでしょう。
 生地は分厚く、重みがありますが、布団にするには裾が足りませんね。
 このように裾が短く、またスリットが入っているのは、役者さんが動きやすいようにするためです。
 というわけで正解は、「(2)の大泥棒のきもの」です。
 この四天は「日本駄衛門」という大泥棒や戦国武将の「加藤清正」など荒々しい役柄が身につけたそうです。
 歌舞伎の衣装は、見ているだけでも圧倒的な迫力と美しさがありますが、お話との関係や意味を知ると「へえ」と思うことがたくさんあります。
 今回の「歌舞伎と文楽の世界―愛媛の伝統芸能―」展では歌舞伎や文楽がいかに楽しく、奥深い文化であるかを紹介したいと思っております。

 夏休みも是非れきはくへいらしてください!

歌舞伎DEクイズ 問題編

2009年6月10日

 現在開催中の「えひめ発掘物語Ⅱ&絵で見る考古学」展は残念ながら今週末で閉幕となります。「え!まだ見に行ってないよ」という方はお早めに見にいらしてください!

 
 一方で、7月14日から始まります「歌舞伎と文楽の世界―愛媛の伝統芸能―」展も、着々と準備が進んでおります。
 本日は、川瀬歌舞伎(久万高原町)からお借りしてきた資料の撮影を行いました。

 さて、ここでクイズです。
 問題 このど派手なきものは一体なんでしょうか?

答え(1) お相撲さんのきもの
答え(2) 大泥棒のきもの
答え(3) きものと見せかけて実は布団

 いずれにしても、今ではあまり見ることない形と模様ですね。それもそのはず、普段に使うものではなく、「歌舞伎」という非日常のお芝居の中で使われたものです。

 ヒント:どんな役柄の人が使ったか、想像してみてください。
それでは答えは明日のブログで。

中国四国名所旧跡図15 弥谷寺

2009年6月6日

中国四国名所旧跡図(弥谷寺)

 標高382メートルの弥谷山の中腹にあった71番弥谷寺を描いている。古川古松軒の「四国道之記」には、弥谷寺の岩にことごとく仏像が彫刻されているが、それは弘法大師が一夜で千体の仏像をおつくりになったと伝えられていると記されている。西丈の絵にも、岩に彫られた数々の石仏の姿を見出すことができる。

 西丈と同様に江戸時代後期の弥谷寺を描いたものとしては、阿波の遍路による「四国八十八ケ所名所図絵」の挿絵がある。その挿絵では、上空から鳥瞰して弥谷寺の建物配置なども忠実に捉えているのに対して、西丈は写実性を後退させつつも、岩肌を強調して当時の旅日記に「見る所皆々仏像にあらずといふことはなし」と記した特徴的空間を力強く描き出している。

 また、西丈の絵には、「狼も念仏も同し法の声ちりのうきよといとふいやたに」の言葉が添えられている。西丈は遍路の途次に狼の声を聞いたのかもしれないが、江戸時代後期、四国の山には狼が広く棲息していたようである。文化6(1809)年、京都の商人が四国遍路した際の旅日記にも、人々が寝静まった夜、狼や猿の声が山に響き渡るのに恐怖を感じると記されている。

  弥谷寺についても、最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。

金毘羅名所(弥谷寺)

中国四国名所旧跡図14 出釈迦寺

2009年6月5日

  丸亀に着いた西丈が、実際にどのように四国遍路をまわったのか分からないが、絵の順番でいくと、丸亀から少し後戻った73番の出釈迦寺が丸亀の次に綴られている。ちなみに、丸亀に着船した遍路は、78番の道場寺から札を打ち始めるのが一般的である。
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 西丈の絵では、右下に出釈迦寺の境内が描かれている。境内は石垣の上にあり、中央の大きな建物が本堂(あるいは鎮守社とも)で、その脇の小さい建物が大師堂と思われる。境内にはさらに、手形のようなものが付いた石と石碑のようなものが見える。手形の石には、「露のせとしらは命捨て見よ尺迦の手形か反古にやなるまい」の文字が添えられている。境内にはかつて手形石のようなものがあったのだろうか。
 ところで、出釈迦寺には、次のような弘法大師伝説が残っている。大師7歳の時に、寺の裏山に登り、「衆生済度(迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと)」、と言って、山の崖から谷底に飛び降りた。その時に紫雲が湧き天女が舞い降りて大師を抱き留めた。弘法大師は不思議な仏の力に喜び、霊験を後の世に伝えようと、自ら釈迦如来を刻み、その山の麓に堂宇を建立し、出釈迦寺とした。また、身を投げた断崖は、「捨身ケ嶽(しゃしんがたけ)」といわれるようになった。西丈はこの伝説を意識して、出釈迦寺と一緒に画面左に「捨身ケ嶽」が描き込んでいる。その上で伝説にちなみ、次のような言葉を書き付けている。
  難行も苦行も釈迦のおしへなりすつる命をとめるのも釈迦
  残る暑や尺迦も抛出釈迦寺
 最後に『金毘羅名所図絵』の挿絵も添えておく。西丈に比べると、出釈迦寺の境内の様子や眺望が写実的に描かれていることが分かる。

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中国四国名所旧跡図13 丸亀図

2009年6月3日

 丸亀は丸亀藩京極家5万石の城下町で、その港は金毘羅宮(こんぴらぐう)の参詣(さんけい)客を乗せる渡海船の発着港としてにぎわった。多くの参詣客が港に着いてまずしたのは、船揚り切手(滞留切手)の手配である。それは丸亀の船宿が代行して行ったらしく、その手数料を105文と書いている旅日記を多く見かける。松浦武四郎の天保4(1833)年の「四国遍路道中雑誌」では85文になっているが、これは船宿に代行を頼まなかったためであろうか。武四郎はこの船揚りを持っていないと、土佐甲浦の番所でいろいろと難しいことを言われ、通行が許可されないので、遍路は必ず取りに行くことと記している。西丈もおそらく最初にこの手続きを行った筈である。

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 西丈が描いた丸亀図を見ると、山上に丸亀城が描かれているが、それは添え物のような扱いで、全面に港と町を描き出している。それは当時の人がもつ丸亀のイメージともいえよう。海に大きく突き出た波止(はと)、燈台や燈籠(とうろう)、石垣で築かれた船入(船が出入りする人工港)も描かれており、丸亀港の特徴をよく捉えている。『金毘羅名所図絵』には、明け方から黄昏(たそがれ)まで渡海船の出入りが激しく、船宿は昼夜分かたずにぎわい、浜辺の蔵々には俵物の水産物が積まれていると記しているが、西丈の絵からもそうした丸亀の喧噪(けんそう)が十分に伝わってくる。
  丸亀については他にも同時代の絵師が描いているので、その絵を参考に見ておきたい。
まずは、弘化4(1847)年に刊行された『金毘羅名所図絵』の浦川公佐の挿絵から。
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 北の上空から鳥の目で、丸亀の町を描いている。大坂の出版物に多くの挿絵を描いた職業絵師らしく、緻密で手堅い描写がされている。
 もう一枚は、歌川広重の最晩年のシリーズ、「山海見立相撲(さんかいみたてすもう)」の丸亀。
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 『金毘羅名所図絵』とは反対に、南の上空から丸亀城と町並みを対等に捉えている。全面に大きく広がる瀬戸内海の描写が印象的。
 このように他の絵師の作品と並べてみると、細部にはこだわらず、対象の本質を大胆に切り取る西丈の絵のもつ特徴が見えてくる。
  なお、中国四国名所旧跡図は、先般刊行された資料目録第17集『絵画資料目録』に紹介されています。

れきハコ、あなたの街へ!

2009年5月30日

 今年度より運用開始しております、貸出キット「れきハコ」は、おかげさまで順調な滑り出しをみせております。特に、「弥生のくらしパック」は、一学期に習う社会科の授業に合わせて、すでに数件の小学校へお出かけしています。

 そんな中「昔のくらしパック」もぼつぼつお出かけしています。
 「昔のくらしパック」は、小学校四学年の社会科で学習する「古い道具と昔のくらし」の授業での活用と、昔のことを語り合うことで脳がイキイキ!介護予防になると注目されている回想法での活用を考えて開発してきました。

 今回は、はじめて「昔のくらしパック」が宅配便でお出かけすることになりました。「弥生のくらしパック」は資料の性格上、博物館に直接取りに来て頂くようお願いしておりますが、「昔のくらしパック」は宅配便でもご利用頂けます。

 もちろん直接博物館で受け渡しをする方が、担当者が資料についてより丁寧なご説明ができますので、その方が望ましいのですが、遠方の方にも利用していただくために、宅配便という選択肢を考え、資料の梱包や輸送ケースを工夫しております。

 これが通常の「昔のくらしパック」です。資料を梱包し、それをケースに入れ、キルティングで出来た持ち運び用の袋の中に入れています。

これが宅配用のケースです。プラスティック製の箱(断面はダンボール状になっています)で中に緩衝材としてダンボールが入っています。

 今回利用される担当者の方とは、ファックスやお電話で、れきハコの中身の資料について何度もご相談させてもらいました。「昔のくらしパック」の内容は、実はハコに入りきらないくらい資料があります。できるだけ、利用される方のニーズにあった資料をご用意したいと思い、事前に相談させていただきました。

 といいますのも、昨年の準備期間にリサーチさせていただいたある介護施設さんに「おひつはどうでしょう!?」とおすすめしたところ、「うちの施設では食事の際におひつでご飯を用意しているんですよ」と笑顔で言われ、驚いたことがありました。

 同じく学校の授業での利用の際にも、郷土資料室が学校にある場合、資料室にない道具を利用頂いたほうが、有益だと考えています。
せっかく利用いただくので、満足してもらえるように、すこしずつ工夫をして行きたいと思っています。

 いつかはあなたの街へ「れきハコ」がおじゃまするかもしれません。

こいのぼり、時空を泳ぐ

2009年5月28日

 民俗展示室2をゆうゆうと泳ぐこいのぼりは、八幡浜市にある若松旗店が製作したものです。先日、若松旗店のご主人、奥様、娘さんがこいのぼりを見に博物館に来られました。現在でも、お節句の幟は染めていますが、こいのぼりは手がけていないそうです。

「話には聞いていたけど、はじめてお目にかかるなあ。」

 ご主人である若松智さんの言葉です。展示室のこいのぼりは昭和25年ごろのもので、昭和22年生まれの智さんは、感慨深そうに、染めや筆のタッチ、染料などを確認されていました。
 例えば、同じように見えるうろこの模様も、おなかあたりの模様は大きく、尻尾のあたりは小さく描かれています。これはこいのぼりにボリュームを出して、立体的に表現するための工夫です。
 染屋さんに限りませんが、手塩にかけた幟や、大漁旗などの品物は、お客さんの手に渡ると、二度とお目にかかれないのが普通です。そこで若松旗店さんでは近年、製作過程や完成品を写真に記録して、保存に努めておられます。
 「戦後の物がない時期なのに・・・親父に色々聞いておけばよかったなあ」
という若松さんの言葉が印象的でした。
 けれど、染めの技術や心意気は、こいのぼりなどの作品と若松さんご自身に脈々と受け継がれていると思います。
 時空を泳ぐこいのぼりは六月末まで、民俗展示室2で見ることができます。

遺跡復元画ができるまで-3

2009年5月27日


 現在開催中の企画展「えひめ発掘物語2&絵で見る考古学」で展示中の県内の遺跡復元画の取材の様子をご紹介します。

 相の谷1号墳は来島海峡を望む全長約80mの県内最大の前方後円墳です。現状は調査後約40年を経て、丘陵の山中にあり、海上からもその場所はわかりにくくなっています。

 そこで、同じ高縄半島にある妙見山1号墳を先に見学し、瀬戸内海を臨む前方後円墳のイメージをつかんでいただきました。

 その後、雨の降る中、近隣の来島海峡海上交通センターから島嶼部への眺望を確認します。

 この後、古墳を確認しに山中に入りましたが、雨天のため、写真を撮影できる状況にはありませんでした。

 見学後の昼食時にどのようなイラストを作成するか、イメージを検討します。

 数週間後、早川氏からラフスケッチが送られてきました。

 概ね担当者のイメージ通りでしたが、瀬戸内海の海上交通に詳しい研究者の方から沖合いに浮かぶ船の形が違うのではというご指摘をいただき、準構造船という形の船に書きなおしていただきました。下のスケッチと違いがわかるでしょうか?

 この後も何回かの考証の結果、作品が完成しました。完成した作品を見ると、古墳時代を勉強している担当者にとっても新たな発見が多くありました。 

 この県内最大の古墳を後世に残すことも課題の一つです。

 完成作品は、展示室でご覧ください。

駕籠の清掃

2009年5月20日

駕籠の清掃

 このブログの3月24日に駕籠を寄贈いただいた記事を掲載しましたが、先日ボランティアさんに御協力いただき、駕籠の清掃作業を行いました。寄贈いただいた時には、駕籠はホコリで白くなっていましたが、かたく絞った布で水ぶきしていくと、だんだんきれいになっていきます。内装の和紙が剥がれ落ちたり、背もたれの布が落ちているのも取り除きました。1時間半の清掃作業で、駕籠は見違えるようにきれいになりました。御協力いただいたボランティアのみなさん、ありがとうございました。
 今回清掃するなかで、補修を必要としている箇所の点検も合わせて行いました。これから補修した箇所が分かるような方法で、秋の展覧会に向けて補修にとりかかります。