宇和の「わらぐろ」作り方マニュアル その弐

4月 16日 月曜日


作業(4) 藁束を集める。
 田んぼで乾燥させていた稲束を、わらぐろを作る場所の周囲に輪状に寄せ集めます。わらぐろの製作は、基本的には2人で行います。夫婦の共同作業でもあり、夫婦仲が悪いと、形の良いわらぐろもできないといわれます。


作業(5) 藁を積み上げる。
 藁のもと(根側)が外側・穂先が中央になるように反時計回りに藁を積んでいきます。積む際には、もとが下りになるように、藁を足で踏み固めながら調整します。(もとが下りになれば、風雨がしみ込みません。)


作業(6) 屋根を作る。
 藁を積み上げたら、次に庇(ひさし)を作ります。庇に使う藁は、穂先を外側・もとを中央にして、今度は時計回りに積んでいきます。庇が出来たら、再び、もとが外側・穂先が中央になるように藁を積み上げ、屋根を完成させます。積み上げたわらぐろの先端部を、藁縄で強く縛れば完成です。

※この「作り方マニュアル」製作には、宇和わらぐろの会のご協力をいただきました。

宇和の「わらぐろ」作り方マニュアル その壱

4月 15日 日曜日


作業(1) 藁を準備する。
 稲刈りした後の稲を脱穀します。その後、乾燥させるために、藁を4本の束で1組にして、田んぼに2週間程置きます。


作業(2) 杭を立てる。
 わらぐろの背骨になる杭(約5mのヒノキ)を立てます。杭は約50cmの深さまで埋め込みます。


作業(3) 土起こし
 立てた杭の周り半径約1mの土を鍬で起こします。これは完成後、わらぐろの下から水が染み込まないようにするためです。

宇和の風物詩「わらぐろ」って何?

4月 14日 土曜日


 みなさん、「わらぐろ」って知っていますか?写真で見ると藁(わら)のお家のようにも思えますが、そうではありません。

 「わらぐろ」は、田んぼで稲を刈り取って脱穀した後の藁を円錐状に積み上げたものです。呼び方には地域差があり、四国・中国地方では「ワラグロ」・九州地方では「イナコヅミ」・東日本では「ニオ」・「ニュウ」などと呼んでいます。
 
 秋の脱穀後、翌年の春まで田んぼに安置して、藁を保管し、その藁は藁細工や牛のエサなどに使用していました。

 宇和盆地などの米作地帯では秋から早春の風物詩でしたが、昭和40年頃に動力脱穀機が普及しはじめてから、「わらぐろ」の光景は次第に見られなくなりました。

 ただ、近年、「宇和わらぐろの会」の活動の影響により、西予市宇和町石城地区を中心に、年々、わらぐろの数が増えてきています。また、毎年4月29日に行われる「宇和れんげ祭り」でも、わらぐろ製作体験が行われています。

 当館でも平成15年度にわらぐろ作り講座を実施したり、平成17年度に写真展を開催するなど、わらぐろ文化の保存・継承活動を試みています。

 藁を使い、藁に触れる、そして藁とたわむれる機会は現代では少なくなってしまいましたが、4月下旬まででしたら、宇和に来れば、わらぐろの風景を実見することができます。

村上節太郎写真9 今治本町の商店街(昭和11年)

4月 13日 金曜日

村上節太郎写真7-147
 空には美しいアーケードが架かり、店先には様々な形の凝った看板、夜の通りを照らすモダンなスズラン灯が連続する。そして、横断幕には、「東洋のハーゲンベツク、木下大サーカス団」の文字が見える。

 この写真は戦前の今治本町の町並みを撮影したものである。本町は古くからの商店街で、今治港から近いため、近郊だけでなく島からも渡海船で買い物に来る人々でにぎわった。呉服町といわれるほど呉服屋が多く、そのほかに洋傘やショールを扱う小間物屋などもあった。一回買い物に来ると、女性の身のまわりのものは大概がそろったという。

 このモダンな商店街も、昭和20年8月6日、B29六十六機の二時間にわたる激しい空襲により焼き払われた。無数の照明弾で照らされたなか、次々に焼夷(しょうい)弾が落とされ、今治旧市街の75%は焼失、本町も瓦礫(がれき)と化した。村上節太郎の写真は、戦災で失われた町並みのありし日のかがやきを今に伝えている。
    
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月21日掲載分)

 今治本町の現況写真。戦後の区画整理で道幅が広くなり、店の並びも変わった。
現況写真7-147g

村上節太郎写真8 幸港の渡海船(昭和27年)

4月 12日 木曜日

村上節太郎写真7-541
 自動車やトラックが現在のように普及していない昭和30年前後まで、船は交通や運輸の重要な手段でありつづけた。そのため、村上節太郎が撮影した写真には漁船だけでなく、様々な物資を載せた船の姿が多く見られる。

 この写真も、芸予諸島大島の幸港(今治市吉海町)に停泊する船を撮影した一枚。左の船は今治港と幸港を結ぶ渡海船第五高島丸。踏み板が渡された船内にはたくさんの荷物が置かれている。右の船は沖合に停泊する定期連絡船まで人や荷物を運んだ渡船。たくさんの人が乗っており、自転車も積み込まれるなど、船が島の人々の日常的な足となっていた様子が分かる。

 渡海船は、「島の便利屋さん」ともいえる存在で、海に囲まれた愛媛では、瀬戸内海や宇和海を舞台に網の目のように航路が広がっていた。しかし、自動車を載せるフェリーの就航やしまなみ海道の開通により、島は一つの通過点となり、渡海船を目にする機会も少なくなった。
    
※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月19日掲載分:一部加筆修正)

幸港の現況写真。埋め立てが進み、沖合に広がっていた干潟も姿を消している。
現況写真7-541g

村上節太郎写真7 北条だんじりと子ども達(昭和10年代)

4月 11日 水曜日


 旧北条市(現松山市)の秋祭りは国津比古命(くにつひこのみこと)神社・鹿島神社を中心に行われ、「風早火事祭り」と称される。祭りの最初には「みそぎ」として神輿を海に浸したり、鹿島への櫂(かい)練りの船行列があったり、明星川の河口に神輿を投げ入れたりと、海に関係する行事が多いのも特徴である。

 「風早火事祭り」の名前は、数十台も出る「だんじり」と呼ばれる山車(だし)に、半鐘が吊るされており、それをカンカン鳴らす音に由来する。写真の「だんじり」も中央には太鼓を据え、その下に半鐘を吊す。屋根には数多くの「日の丸」の紙を垂らした笹を飾っている。これが北条だんじりの特徴である。現在、使用されているものに比べて小ぶりであり、年とともに北条だんじりが大型化したことを物語っている。

 東予地方や南予地方では、だんじりや太鼓台、牛鬼(うしおに)といった神輿(みこし)行列を引き立てる山車が見られるが、中予地方にはそういったものが少ない。ところが、中予でも旧北条市にはダンジリがあり、民俗的に今治地域との繋がりも見られ、旧北条市も中予文化と東予文化の中間地域と見ることができる。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月18日掲載分)

村上節太郎写真6 秋祭りの奴振り(現松山市宇和間)昭和26年

4月 10日 火曜日

宇和間の奴

 村上節太郎は県内各地の祭りについても記録しているが、この写真は松山市宇和間(旧中島町)の奴振りの様子である。地元の青年・少年達が奴(やっこ)道具を持って天満神社の秋祭りに練り歩く行事で、江戸時代の大名行列を模したものといわれる。このような奴行列は、県内では旧周桑郡からしまなみ海道沿岸の南北のルートに加え、海を伝って旧中島町にまで分布している。

 宇和間の奴振りには、鳥毛や槍、弓、挟み箱などの奴道具を持つ者に加え、ダイバ(鬼)・鼻高(天狗)・猿・狐が行列の先頭を歩く。猿・狐は中予地方では獅子舞の中に登場するが、宇和間では獅子は出ない。中予の獅子舞の一部要素を取り入れていることや、奴振りが東予地方に多く分布していることは、この宇和間を含む旧中島町域が民俗文化的には東予と中予の中間領域にあることを示している。
 
 なお、宇和間の奴行列には、地元の3歳もしくは5歳の男子が仮装して行列に加わるのが習わしであり、地域の中での一種の通過儀礼ともなっている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月17日掲載分)

村上節太郎写真5 涼み台とイワシ干し(昭和9年)

村上節太郎写真6-57
 村上節太郎の写真と似たまなざしを感じる写真がある。それは民俗学者宮本常一が撮影した写真である。10万枚を数える宮本の写真は現在、生まれ故郷である山口県の周防大島町に寄贈され、「宮本常一データベース」として公開されている。

 この写真も宮本との共通性を感じさせる一枚。怒和島(松山市元怒和)の砂浜に敷かれた筵にイワシが干され、丸太を組んで筵の屋根を葺いた涼み台が連続して立ち並んでいる。夏の暑い日には、風が通る涼み台で寝ることもあったというが、クーラーのある現在、涼み台を目にすることはなくなった。それどころかイワシを干す砂浜も護岸工事で失われていった。日常のありふれた風景を撮り続けた二人の写真には、高度経済成長のなかで失われた様々な日本の姿が写し出されている。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月14日掲載分)

五月飾りに替わりました

4月 9日 月曜日

 4月8日(日)をもって、テーマ展「おひなさま」は無事終了しました。多くの方々にご観覧いただいた雛人形たちは、来年までしばしお休みです。
 今日は、閉館日を利用して民俗展示室2の民家内に展示していた雛飾りを、学芸員4人がかりで元の箱に収めて収蔵庫に保管しました。引き続き、民家内には雛飾りに代わって、端午の節句にあわせて当博物館収蔵の「五月飾り」を展示しました。天井にとどくほどの大きな幟飾りのほか、男の子の健やかな成長や出世を祈って飾られた勇ましい武者人形などが並びます。

 そして、端午の節句にかかせないお菓子といえば、かしわ餅。愛媛県内ではカシワの葉っぱが手に入りにくいため、サルトリイバラの葉っぱでお餅を包んだ「さんきら餅(またはしば餅とも呼びます)」が各家庭で作られていました。(五月人形と共に展示中)

常設展示をご観覧いただく際は、「五月飾り」をお見逃しなく・・・。

村上節太郎写真4 五郎駅に降りた縞売り(昭和15年)

4月 8日 日曜日

村上節太郎写真6-211
 狭い耕地にたくさんの人。村上節太郎は、島のそのような状況を日本の縮図と書き記した。しかし一方で村上は、豊かな生活を求めて島を飛び出そうとする人々の動きにも目をとめた。忽那諸島の睦月島の人々による反物行商、縞(しま)売りの写真もその一つである。

 縞売りの全盛期は大正から昭和初期で、五~十人が船に乗り行商に出た。船主である親方が商品を仕入れ売り子に託し、売り子は下船後様々な交通機関を使って行商した。写真は男女の縞売りが五郎駅(大洲市)で降りたところ。いずれも着物に前垂れの服装で、足に地下足袋を履き、手にコウモリ傘をもっている。背中には商品が入った20~30kgの行李を風呂敷に包み担いでいる。縞売りの顔には故郷を離れ、広く世間を見てきた島の人々のたくましさが感じられる。

※愛媛新聞連載「海と島に生きる」(平成19年1月12日掲載分)

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