嘉永7年(安政元年、1854)の安政南海地震では、現在の愛媛県内各地で地震による家屋倒壊、津波襲来など大きな被害が出ていますが、これまで愛媛の地震の歴史は海岸部の被害が大きく取り上げられる傾向があり、内陸部での被害は紹介されることが少ない状況でした。これは単に被害がなかったのが理由ではなく、津波襲来など象徴的な被害が海岸部に多かったことによるもので、内陸部においても地震被害の史料は数多く残されています。
その一例として大洲地方を取り上げてみます。大洲における安政南海地震を詳細に記録した史料に大西藤太『大地震荒増記(おおじしんあらましき)』があります。これは既に東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に紹介され、『大洲市誌』にも一部引用されているものです。「嘉永七ツとし中冬初めの五日、申の刻とおぼへし頃、一統夕まゝの拵へ、あるいハ食するもありし最中大地震、一統時のこゑをあげたからハいふもさらなり、家蔵もすて置、老たるものの手を引、子供あるいハやもふものをひんだかゑ、ひよろつきながら一文字ニ広き場所へとこゝろざし、前代未聞の事共なり」とあり、夕ご飯の支度をしたり食べていたりしていた時に大きな地震があり、あわてて家から逃げ、老人の手を引き、子どもや病人を引き抱えながら、足元が定まらない様子で広い場所に避難したというのです。「ひんだかゑ(引き抱え)」とか「ひよろつきながら」、「一文字に」という表現は、住民がいかに地震の最中に混乱し、慌てていたかを物語っています。
また、「一御城内御かこい数所痛、一御家中其外屋敷かこい門並に長屋大痛み、一片原町辺大荒、一町内余程大荒、弐丁目横丁ニテ弐軒づれる、一舛形辺大荒、一東御門御やぐら下石垣ぬけ大痛(中略)一鉄砲町辺中いたみ(中略)一中村大荒八九軒余も長屋共ツブレル(中略)一内ノ子辺格別之儀大ゆり」ともあります。つまり、大洲城や家臣の屋敷の囲い塀や門が被害を受け、城門・櫓を支える石垣が崩落したり、町方では、片原町、枡形町、鉄砲町はじめ町内(本町、中町、裏町など)も「大荒」と家屋の被害が大きかったようです。肱川をはさんだ中村では8、9軒が倒壊しており、大洲城下町での被害の大きさがこの史料からわかるのです。
なお、この『荒増記』には「一郡中誠に大荒家数多くづれる少し焼失、死人十人余、(中略)一宇和島大荒津浪打、一吉田大荒人家数多ツフレル津浪」とあり、現在の伊予市や宇和島市において家屋の倒壊が多く死者が出ていることや、南予沿岸部で津波が襲来したことなども記されています。また、『荒増記』以外には『洲城要集』十七(伊予史談会蔵)など大洲における安政南海地震の様子が記された史料があり、特に『洲城要集』には11月4日の前震(東海地震)、5日の本震(南海地震)発生から10日までの余震発生時刻や規模が記録され、翌年3月までは余震活動が活発だったとも記されています。
なお、大洲地方では、安政南海地震の次の昭和21年の昭和南海地震の際には、家屋倒壊が4棟、町の多くの家や塀の壁が落ちたり、煙突が20本、被害を受けたことが『愛媛新聞』昭和21年12月22日付に記載されており、歴代の南海地震の発生時に、家屋倒壊などの被害が出ていることがこれらの史料からわかります。このように、愛媛県内の内陸部においても家屋倒壊など様々な被害が見られるのです。